Bianchiの徒然ブログ

インターネット、そこは技術のフロンティア。 これは、コミュニケーションアーキテクトたる“macume”が、新時代のツールBlogの下に、21世紀において執筆を継続し、未知のネット世界を探索して、新しい情報や人との出会いを求め、永劫進化するネット世界に自由に公開した日誌である。

21世紀的書評のあり方とはーー書評に関するある読書人のノート

書評_ブロガー






私的公開日誌@ウェブ暦:150521.01


若くして小説や詩を創作する才能に恵まれた人は羨ましいと思う。
人はだれでも小説家や詩人になれるだろう。音楽家にも、画家にさえなれるだろう。しかし、私にはそうした才能はどれも皆無だった。

私は、今日まで自分の感想、意見、考え方、アイデアなどなにかしら書き続けている人生だと思う。
高校時代、学校が年1回発行する「春秋」に3年間書いていた。大学時代、文芸批評家に憧れいつでも原稿用紙(A4/400字詰め)を持ち歩いていた。
社会人になってからは、ずっとマーケティングや企画を考えることを生業として企画書を書き続けてきた。
振り返ってみれば、小学生のときに作文コンクールに応募して以来、とにかくずっと文章を書き続けていることになる。

しかし、才能がないものの悲しさで、文筆業(プロのライター)だけで生活できわけではない。
もとより、才能があれば売れるという保証があるわけではにのは世の常。どの業界を見まわしても、才能がなくても売れている人が多くいるのはご存じの通りで、特に出版業界などはそうした傾向が顕著で、巷間ベストセラーといわれている本のほとんどが自ずとそれを証明している。
むしろ才能があってかつ売れている人の方が少ないように感じているのは、果たして私だけなのだろうか。

ただ、私は不思議と自分の本を出版したいと思ったことは実はない。それでも懲りずに書き続けている。


■ソーシャルメディア社会の恩恵

ブログは、私が書くことを好きなことを知っている大学時代の友人の勧めと、ベンチャー時代に縁を得た人たちとの出会いがきっかけではじめることになった。
最初は何を書けばいいのかもわからず、趣味の自転車について日記のつもりで書き始めた。
それから8年、気がつけば、新しモノ好きな私は、ブログ以外にも様々なソーシャルメディアでいろいろと雑文を書き散らしている。

現在ではITmediaにマーケティング関連の記事を書き、ランキングでトップを頂戴するほど読まれるようになり、新しいビジネス系コンテンツサイト(Biz/Zine)では書評を担当することになった。
特にそうしたことを目指してきたわけではないが、書くこと(ブログ)を継続してきた成果だと素直に嬉しく思うと同時に、これもテクノロジーがもたらしたソーシャルメディアの恩恵だと感じている。

ところで、つい先日、宮部みゆき最新作小説のカバーイラストを、黒板アートで話題となった女子高生が担当するという異例の抜擢ニュースがあった。
私は今回はじめて知ったのだが、1月にこの女子高生の描いた映画『アナと雪の女王』のイメージを黒板アートとして描いた写真が、Twitter上で5万リツイートという反響を呼び、それを見たKADOKAWA側からの依頼で、宮部みゆきの新作のブックカバーを同様の黒板アートで描いた写真を使うことになった。
これも実にソーシャルメディア時代を象徴するエピソードである。

一方、ここのところ女性それも若い受賞者が話題だったが、13年の第148回芥川賞受賞作では、黒田夏子という同賞史上最高齢75歳で受賞者という、まさに日本の高齢化社会を象徴するような現象があった。
講談社は、そうしたことを背景に対象を60歳以上に限定した「本格ミステリー『ベテラン新人』発掘プロジェクト」を始めるほどで、なにごとも継続して諦めないことが大事だと実感する。


■マーケティング視点で「書評の極意3カ条」を再考する

今年3月、「書評の極意3カ条を授かるーー「書評家失格!」を書いた私が、書評デビューすることになって」を書いたとき、書評の極意3カ条を以下のように紹介した。

(極意その1)書評は、たんに一読者として本を読み、その本に寄り添う心構えが必要なこと。
(極意その2)文章に個性は不要。本の面白さをわかりやすく短い文章で伝えて読書を促すこと。
(極意その3)書評する本の選定にこそ、その書き手の個性がもっとも発揮されると心得ること。

実際に自分で書評を書いていくつか感じたことがある。

上記の中で、私個人が一番のキーとなるのは(極意その3)だと実感したことだ。
もちろん、ほかの2つも重要ではある。しかし、ことマーケティング的視点から考えれば、(極意その3)こそ独自性(Differentiate=識別する)を発揮すべきであることがわかるのだ。
つまり、沢山の書評コンテンツの中で独自のポジションを築き上げることが求められている。

世の中には書評コンテンツが溢れており、どうしても話題の本やベストセラーなど似たような本を取り上げているので、代わり映えがしない内容となる傾向も避けられない。
また、様々なソーシャルリーディングサービスも、ジャンルを問わずなんでもありな状況で、玉石混淆な印象は拭えない。


■21世紀的書評について考える

日本の書評は、長らく新聞の時評それも文芸時評の伝統が色濃く反映されてきたように思う。ウェブメディアでも、そうした“伝統”に留まっているものが多いと感じている。

そもそも、書評のはじまったころ、まだ書籍刊行点数が今日ほど溢れている時代でもなく、メディアの数も限られて本に関する情報が貴重な時代だったころっだった。
わかりやすく内容を紹介する、読みどころ(ポイント)をかいつまんだ文章が、いまでも書評だと金科玉条に思っているのではないか。

しかし、今日、どのメディアでも書評コーナーはあり、本の情報や読んだ感想などを共有するソーシャルブック・サービスも様々にある今日、昔とおなじように惰性で書評コーナーをつくっても仕方がない。

そうした旧来の金太郎飴的書評の「型」から脱し、新しい21世紀的書評あり方が求められている時期ではないかと思う。
書評のスタイルやあり方にもイノベーションは必要だし、似たり寄ったりの内容では、コンテンツとしてのプレゼンスを高めることもできない。

つまり、従来の時評的な新刊にこだわらず、れには書評によるテーマ設定、取り上げる本の選定、その本に対して評者独自の着眼や視点による書評こそ、まさにコンテンツでありその意義と価値が問われるのだ。

もちろん、これは極めてマーケティング思考的な意見である。なので、プロの書評家と言われる人たちとは当然異なるだろうことは承知の上である。

このブログを書くに際して、いくつかの書評についおてのブログを読んだ(下記関連リンク参照)。
そうした中で、2つのブログが印象に残った。

一つは、『書評とは何かを考えてみる』の中で以下のように書いてる。

「本を読んでいる時に「面白い!」と思うのは、やはり「ハッとする」、何か意外性や新しいことが発見できた時です。
だから、その本の「ハッとした部分」を紹介するというのが、優れた書評の条件なのではないかと思うのです。」

その彼は「別の本の知識との組み合わせの妙。」とも書いている。

もう一つ、同様に岡崎由美の先の書を読んだブロガーも『良い書評とは何か』で、極めて近しい感じの発言している。

「本は物理的には独立した事物だが、知的生産物としては様々な本と網の目状の関連を持っている。だから読書とは単に一冊の本を読むことが重要なのではなく、一冊の本を起点として知識の関連性を想像するということにある。」

私もこれが書評の意義であり価値だと思う。
この二人のブログを読んで、恥ずかしながら未読なのだが豊崎由美の『ニッポンの書評』(光文社新書)、読んでみたくなった。


■書評カテゴリの開設について

さて、そうしたことなど徒然に考えながら、今回、当該ブログに新しいカテゴリ「書評の手帖/読むヒント」を設けた
これまで「読書空間または書評歩録」に分類してあった記事から、過去8年間で書き続けてきたブログ800本ほどのうち、書評はたったの15編ほどと実に少ない。

ブログの書評のカテゴリ名であるが、畏れ多いことながら、もちろん禿鍔饌検批評家の手帖』と小林秀雄『考えるヒント』に倣っている。
書評に「家」を付けていないのはまだまだ初心者だからだ。また、小林秀雄風にいえば、私の書評がほかの人たちにとって、本を読むヒントくらいにはなって欲しいという願いからカテゴリ名を決めた。

それにしても、書評というのはだれでもが悩みつきないのだと、いまさらながらにあたらめて実感した。
私は、学生時代に吉本隆明や高橋和巳に薫陶を受け、爾来ずっと文芸批評や批評に憧れてきた。小林秀雄や禿鍔饌犬覆匹砲眇討靴鵑任たので、文章を書くとどうしても文芸批評家や批評家的な文体になってしまう癖が抜けていない。

例えば、セミナーやフォーラムについての記事を書いても、それら内容紹介や要約などの文章より、それをダシに私自身の視点や知見、主張を述べるような文章になってしまい、一般的な記事のように書くことができないで悩んでいる。書評についても、授かった極意3カ条に従って書くというのが、どうしても私にはなかなか難しい。

今回、自分が外部メディアで書評を引き受けるにあたり、いろいろと調べるてみると、私だけではなく書評を書く人であれば、誰でもが書評の方法論やスタイルに一様に悩んでいるのだということがよくわかった。

これからも書評ブログを増やし、自分なりの書評スタイルができるように修練をしていくつもりだ。それにしても、「書評と批評を架橋する新しいスタイルを確立」への道はまだまだ遠い先のことだ。
しかし、文章を書くということに定年はないし、これで完成とか最終形いうものもなく、一生の修行や鍛錬と同じだろう。

今後も読書好きの皆さまに少しでも資する記事と、引き続きご笑覧が叶えば変に嬉しく思う。


(関連リンク)
▼現役女子高生が手がけた黒板アート、宮部みゆき最新作カバーイラストに採用
http://news.mynavi.jp/news/2015/03/20/196/

▼最年長と最年少「年齢は関係ない」〜第148回芥川賞・直木賞の受賞者が決定
http://www.lifehacker.jp/2013/01/130116akutagawa_naoki_148.html

▼書評とは何かを考えてみる
http://bookvinegar.jp/plus/column/878

▼【豊崎由美氏インタビュー】1冊1冊と踊る書評のために──書評というジャンルの現在とこれから
http://www.sbbit.jp/article/cont1/25279

▼私が書評家と呼ばれるまでーSNS時代のブックレビューについて
http://ji-sedai.jp/school/application/sns.html

▼個性豊かなHONZのレビュアー
http://www.d-laboweb.jp/special/sp48/index3.html

▼『ニッポンの書評』は誰のため? 〜書評のプロと仕事のプロとの共通点
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110708/221363/

▼[書評] 面白い書評はあっても、正しい書評はない。書評をめぐるあれこれ『ニッポンの書評』
http://gappacker.com/book-japanese-book-review/

▼書評ブログ記事100本突破。書評についてじっくり考えてみる。
http://gappacker.com/think-about-book-review-blog/

▼全米一の影響力を持つ書評家ミチコ・カクタニは謎の日本人女性
http://oharakay.com/archives/983


【おすすめリンク】
●カテゴリ「書評の手帖/読むヒント」

【書評】「見えざるものを見る力」〜ビジョナリーとは「洞察力」

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私的公開日誌@150513.02

ビジョナリーについて、ここ数年とくに語られるようになった。イノベーターと同義語で語られることもある。

それは混迷し、先の見えない時代だからこそ、そうした状況にあってもまるで先が見えていたかのように製品やサービスを生み出す人物に関心や注目が集まるのだろう。

ビジョナリーといえばジム・コリンズ著のベストセラー
『ビジョナリー・カンパニー』がつとに有名だ。
ほかにもビジョナリーについての書籍はあるが、いずれも企業や組織論、リーダーシップ論として著されたものあるいは人物の才能にフォーカスした人物評伝があるだけだ。

エリック・カロニウス著に『なぜビジョナリーには未来が見えるのか?〜成功者たちの思考法を脳科学で解き明かす』
(集英社刊)は、ダン・アリエリーと共同執筆した『予想どおりに不合理:行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) の著書だ

本書が極めて特長なのは、著書のカロニウスが、
最新の脳科学や認知心理学の学者たちの知見をたよりに、そうしたビジョナリーの脳の中身を解き明かそうと試みるだ。

著書のエリック・カロニウスは、ウォール・ストリート・ジャーナル、ニューズウィーク、フォーチュンなどの世界的なメディアのジャーナリストをつとめ、スティーブ・ジョブズやリチャード・ブランソンなどをはじめ、多くのビジネス界のビジョナリーといわれる大物たちとも直接親交がある。

この
20年、もっとも大きく進歩したのはITテクノロジーだけではない。ハッブル宇宙望遠鏡のおかげで、宇宙物理学では数々の新たな発見があり、脳科学や認知心理学では人間の脳の働きや心の動きについて、多くの研究成果が得られている。

著者は
、「簡単にいうと、ビジョナリーとは、普通の人が見落とすものを見つけられる人のことである。」と定義しているが、その資質については以下の6つの要因で定義している。

(1)発見力
(2)想像力
(3)直感
(4)勇気と信念
(5)共感力
(6)運

この6つの中で第一に上げられている
「発見力」こそ、実はもっともコアとなる重要な資質だ。


■発見力とはなにか

脳はパターン認識するのだが、ビジョナリーは見つけにくいパターンを探し出す。それは通常は観察力とも呼ばれているが
洞察力(Insightという言い方が一番適切だろう。

著者は、チャップリン&シモンズ著『錯覚の科学』(文春文庫刊)などを使いながら、私たちが見えていると思っているものは、自分たちが思っているよりもはるかに少ないことを説明していく。

発見力の代表的な例を紹介しよう。
13年に日本でも公開されたドキュメンタリー映画『スティーブ・ジョブズ1995 ロスト・インタビュー』は、その後にDVD化や書籍化(講談社刊)もされたので、見たり読んだ人も多いことだろう。

そのジョブズが、
1979年にゼロックスのパルアルト研究所(通称PARC)を訪れたたことでMacintoshの開発に到ったことは、よく知られた話である。インタビューでは、

「ゼロックスのパロアルト研究所に行って、彼らが何をしているか見るべきだと、3〜4人の人間からしつこく勧められていたんだ。私は重い腰をやっと上げて、パロアルト研究所に出かけた。(中略)
いずれ世界中のコンピュータがこんなふうになると、10分と経たないうちにわかったよ。」

同年、ビル・ゲイツなど様々な人たちも
PARCを訪問していたが、最初の見学で、ALTO(パソコンの原型)を見た瞬間、ジョブズには今日のパーソナルコンピュータのあるべき姿(ビジョン)が見えていた

これに限らず、それまで見過ごされていたこと、あるいは見えていなかったことを見えるようになることがビジョナリーの最大の資質であり、それが発見力として上げられている。

多くの人に出会ったり話した経験のある人には実感できるだろうが、なにかにつけていわゆる鋭い指摘をする人というのはいる。そういう人は、観察力が鋭敏または洞察力が深い人ということもでもあり、したがって、それは同時に着眼点や着想に秀でているということでもある。

もし、そういう人に出会ったなら、その人の視点やものの見方を自分にも取り入れることで、時間はかかるだろうが徐々にそうした
脳のニューロンが自己のうちにも形成されるようになる


■直感は一種のギャンブル

(2)の想像力というのは、空想力とは異なる
。特にビジネスにおいては想力=ものごとのグランドデザインができる人という意味である。

グランドデザインにも、ロジカルなものとイマジネーティブなもとのとがあり、後者の方が多くの人々の共感をえやすく巻き込む力が強いことは知られている。両者を兼ね備えている人は希であるが、スティーブ・ジョブズはそうした一人である。彼がアップル社に復帰した際には、この両者を巧みに活用して製品戦略を4つに絞り込み、iMacの開発につなげた。

(3)の直感は、「諸刃の剣」である
としてそれにむやみに従うことを著書は戒めている。
それはギャンブルと同じにであり、これにたよることは失敗する確率も高くなると。直感にすぐれている人でそれが尊重されるのは、1の発見力と2の想像力の備わった人が、成功の確率の高い直感による判断ができる人のみ、と著者は考えている。

ジョブズは、ネックスト社もピクサーもうまくいかず、資金難からピクサーを実はマイクロソフトに売却することで合意していた。しかし、その直前になって唐突に話を翻した。

直感も、脳におけるパターン認識の一種にすぎないので、そのパターン認識の正否が直感の成否を決めるのだ。従って、発見力や想像力によって養われた直感力だからこそ、成功する確率が高いともいえる。


■その他の3つの要因について

(4)の勇気と信念は、ビジョナリーと夢想家の一番大きな違い
だ。ビジョナリーは実行力と行動力をともなう「血と汗と涙を流す。」と著者は語る。

何事も実行するには様々な障害や壁が立ちはだかるが、自己のビジョンを実現するには、不屈の精神や覚悟で行動することを忘れるなと著者自身は説いている。

仲間の裏切りや思い通りに進まず、断崖絶壁に立たされても揺るがないほどの強靱な精神が要求される。挫折や失敗してもめげず、諦めずに再挑戦する。昨今の流行言葉で表現すれば、けっして「ブレない」ということ。

(5)の共感力は、周辺の人たちを鼓舞し巻き込む術
のこと。様々な人たちの才能、協力や援助を引き寄せることで、著者はそうしたビジョナリーについて「人を引き寄せる強力な磁石」と形容している。

ジョブズを形容する際によく使われる表現「現実歪曲空間」というのがまさにそれだ。開発チームが無理だと思っていても、ジョブズがやって来て、語り出すとできるに違いないと思わせるのは有名な話しである。
それがいわゆるカリスマ性というものだろうと述べる。

(6)は、運が良いこと、「巡り合わせがもたらす好機を全て手にする。」こともビジョナリーの特長
だ。松下幸之助も運の重要さを語っているほどだ。
いわゆるセレンディピティであるが、wikipediaには以下のように書いてある。

「セレンディピティ(英:serendipity)は、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見する「能力」を指す。平たく言えば、ふとした偶然をきっかけにひらめきを得、幸運をつかみ取る能力のことである。」

つまり、能動的あるいは主体(自主)的に行動し続けていることで、幸運や偶然を自分に引き寄せることで、動かずに訪れるまでただ待つことではない。

積極的に行動することで、偶然に居合わせることからヒト・モノ・コトを引き寄せるような環境を自ら多くつくり出し、幸運に出会う可能性の確率を少しでも高めることで運を手にする。

本書は、以前紹介した
『ビジネス・クリエーション』、アントレプレナーシップが多のビジネス職能のように正しい方法に基づいて学習すれば、誰にでも身につけられると説き、『スティーブ・ジョブズ 驚異のイノベーション』では、発明家とは違いイノベーターには誰でもなれることを、各々の著者たちは語っていたのと同様、本書もビジョナリというものが「天賦の才」や一部の特殊な人たちのものではなく、脳科学や心理学についての理解を深め、訓練をすることでビジョナリーの資質を発揮できるということを説いている

しかし、だからといって本書を読んだからといって、すぐにビジョナリーにだれでもなれるわけではない。心構え、考え方や姿勢についての気づきやヒントが書かれているだけだ

誤解のないように気をつけたいのは、どれも方法論を理解してきちんと訓練や修練が必要で、取り組むのであればそれなりに時間がかかるし覚悟がいることだ。

昨今の自己啓発本のように、小手先のテクニックやノウハウ(最近では
TipsHacksという)のように、簡単に手に入れたりお手軽に身につくものではないということだけは肝に銘じておくことである。

本書は、様々な脳科学、認知心理学、神経生物学などについて諸処で言及されているので、そうした予備知識が乏しい人たちには
300ページを読み切るにはややしんどいかもしれないが、それでも著者と様々なビジネス界のビジョナリーやリーダーたちとの交流や数々のエピソードを読むだけでも面白いと感じる。

さて、この本は、普段はビジネス書とは縁のうすい集英社から刊行されているが、最近では珍しく非常に丁寧な作り方をされているビジネス書である。

巻末の本文内の「脚注」だけではなく、さらに
「主要な参考文献」も非常充実していて、原著タイトル・刊行年・出版元、邦訳・刊行年・出版元までも記載されている。しかも、邦訳は最新版で、出版元の社名などが変更になった場合は、その新しい版元名をあげている。

この参考図書リストから、いくらでも興味ある本、読みたくなる本を探し出すことはできるだろう。そうした意味からも一読の価値があると思う。

また、最近のビジネス書では訳者のあとがきはないのがあたり前になっているが、本書では珍しく「訳者あとがき」も付してある。訳書の場合、訳者がなにを感じ、翻訳のどういう点に腐心したか、訳語や文章をどうとらえたかなど、訳しながらなにを感じたかなどが書かれているので、私は読むのが好きなのだが、

この本は、様々なケースを取り上げ、脳科学や認知心理学の学者たちの知見をたよりに解き明かしていく。
最後に、大いなる哲学者ニーチェの次の言葉を紹介しよう。

「独創的ーー何か新しいことを最初に見ることではなく、古い、古くから知られた、誰にでも見られ、見過ごされているものを新しいもののように見ることが、本当に独創的な頭脳のしるしである」
(『人間的な、あまりに人間的な』より)

これは、私がもっとも気に入っている言葉である。冒頭の創造的という言葉をビジョナリーに置き換えたら、より多くのひとにも実感をともなって理解しやすいだろう。


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"コロンブス指数"で「30年後の普通や常識を考える」ーーSCHOLAR.professorに参加して
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人と機械(テクノロジー)の「付き合い方」、そしてシンギュラリティ(技術的特異点)とーーSCHOLAR.professorに参加して

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私的公開日誌@ウェブ暦150513.01

2045年問題ーーそれは人工知能(AI)が、人間(人類)の知能を超えたとき、一体この社会になにが起こるのか、我々はどうなるのかということが21世紀の大きな課題のひとつだ。

今日まで、人間は機械を開発し、発達させてながら生活環境や活動領域を飛躍的に向上させてきた。しかし、さらに高度にテクノロジーが発達し、機械が私たちの生産活動をほぼ代替してくれるようになったとき、人類(人間)に残された活動領域にはどのようなものがあるだろう。

ここのところ、AIについてはWIRED、Newsweek、TIMEなどの世界を代表する雑誌だけではなく、週刊ダイヤモンドや週刊エコノミストのようなビジネス誌でも特集が組まれるほど、関心も高く切実なテーマでもあるということだろう。

そうしたテクノロジー、特に高度の発達したAIに関する本が、数多く発刊されるようになっている。
E・ブリニョルフソン、 A・マカフィー共著『機械との競争』(日経BP社)、ダニエル・ヒリス『思考する機械コンピュータ』 (草思社文庫) 、タイラー・コーエン『大格差:機械の知能は仕事と所得をどう変えるか』(NTT出版)など、話題となった本はも多い。

SFの世界の話しだって? いやいやそう笑ってもいられない時代のすぐそばまで、私たちはすでに来てしまっているのだ。
例えば、AXNで放送されている『パーソン・オブ・インタレスト(PERSON of INTEREST)』のようなドラマでは、2つのAIの情報や命令に人間が従い、その判断に振り回されている。
そして、AI同士の対立に人間が巻き込まれているいわば代理戦争が描かれている。

佐倉教授は、東京大学大学院情報学環という部署に所属している。学際(Interdisciplinary)というのはわかっているが「学環」というのは初めて聞く言葉だ。これは、専用分野を越境して学的体系のエコシステムを志し、学際に代わる新しい学問領域創出を志向する大学院組織とのこと。
タイムリーにも、佐倉教授が中心になって著した著書が『人と「機械」をつなぐデザイン』(東京大学出版会)が先日刊行されたばかりだった。

今回の講義も、日頃から思ったり感じたりしていることについて、気づきや発見、確認など収穫の多い集いだったので、自分なりに感じたり考えたことを備忘録として記しておこうと思う。


■ロボット、サイボーグ、アンドロイド

この日、参加者への最初の演習は、サイボーグとロボットの差異について考えるというものだ。この三者の連関と区別を明確に答えられる人は、思いのほか少ないかもしれない。

ロボットというのは、人間の代替作業機械のことだ。工業用ロボットなどは代表格だろう。現在では、Pepperが一番イメージしやすいだろうが、自動掃除機、ドローンなどもこれらに含まれる。そうした意味では人間の身体活動やその機能を拡張したものだ。

サイボーグは、サイバネティック・オーガニズム(Cybernetic Organism)の略で、人間の身体と機械とのハイブリッド的な存在だ。医学分野では、その技術が応用された人工心臓、筋電義手、人工内耳、人工眼などは、ごく原初的なサイボーグ技術の応用だ。

アンドロイドは、人造人間とも称されているように人型ロボットで、ヒューマノイドタイプの機械でありAIによって自律的に行動できるものを称している。『新スタートレック』のデータ少佐は典型的なアンドロイドだし、『ブレードランナー』のレプリカントなどもそうだ。


■進化は進歩ではない。退化も進化のあり方

同じように語られるが、なんとなくその違いに気づいている言葉というものがある。例えば、進歩と進化だ。両者が異なるということは、だれでもがなんとなく感じているだろう。

進歩とは、時間と同様、基本的にはリニア(直線的)に先に進んでいくことでより高度あるいは複雑になること。進化とは環境に適応(順応)することだ。従って、進化とは適者生存という表現と置き換えても同じだ。
だから、身体機能のある器官や部位が退化したとしても、そのことで変化する環境に適合できるようになれが、それは進化なのである。

強いものが生き残るのではなく、変化に対応できるものが生き残るというダーウィンの言葉はあまりにも有名だ。ビジネスの世界でも、大(強い)企業が残るのではなく、市場環境(顧客)の変化に合わせていくことができる組織だけが残るのは同じ原則なのは既に多くの人が実感していることだ。

もちろん、生き物(人間を含めた生物)では、進化と進歩が混然一体となっていこともある。
しかし、ことテクノロジーに関しては、進化はそのまま進歩となる。つまり、退化というものが機械には存在しない。


■21世紀が直面する大きな課題ー人と機械(テクノロジー)との付き合い方

脳科学や認知心理学の学者たちから、スマートフォンなどによる脳の発達に与える影響が語られている。かつては、テレビ、そしてゲームときて今ではスマートフォンだ。さらには、紙ではなく電子書籍の教科書による学習が子どもたちの脳に与える影響までも懸念する人たちもいる。

間が築き蓄積してきた技術や知見を機械がたやすく代替できるような社会になるとどうなるだろう。今日では、かつての職人的な技術は機械が代行できる時代だ。

人間は間違いや過ちを犯す生き物だ。しかし、AIは間違えることはないといわれている。本当にそうだろうか。ウェブサイトやPCなどと同様にサイバーテロの標的になるだろう、それにより誤作動することもあるだろう、高度なAIが自分たちの任務遂行にとって人間が障害、不用と判断したとき、人間が間違っているのだから排除あるいは粛清するということもありうるかもしれない。

これまでにも、AI、ロボットなどが反乱を起こす様々な映画がある。
『2001年宇宙の旅』、人工知能HAL9000のように、任務遂行のために障害となる人間を排除する。
『ターミネーター』では、人工知能スカイネットが反旗を翻したことによりロボット軍隊を管理・指揮する。
『マトリックス』では、人工知能の反乱で人間がその動力源としてカプセルで培養されている世界だ。
『機動警察パトレイバー the Movie』では、レイバーOSが低周波音の影響で暴走するようになる。

昨年、ジョニー・デップ主演
『トランセンデンス』、今年は4月に全米でも公開された英国映画『Ex Machina』『チャッピー』が話題だ。それほど繰り返し映画化されている、まさに今日的なテーマである。

私たちが親しんでいるPC、スマートフォンなどを考えてみれば容易にわかるだろう。
新しいOSやアプリがリリースされるたびに何らかのバグが見つかり、PCの不具合や操作上のトラブルが起こる。アップル社やマイクロソフト、アドビのような大企業が莫大な研究開発費開発を投じ、想定されうるあらゆるバグやトラブルについて可能性検証はしているはずである。
それでもリリース後には必ず不具合が発生し、そのつど何度もアプリの更新の必要性にせまられた経験は誰しもあるだろう。

こうした考え方や懸念について、SFの見過ぎや終末思想に影響されすぎたと、私たちはいつまで笑っていられるだろうか?

こうしたことは、ロボットなどに限らない。
IoTが高度に発達し、われわれの生活環境に隅々にまでデジタルデバイスに囲まれるようなDgital Ambient Societyが到来したとき、人間同士の対立だけではなく機械同士のコンフリクトがいたるところで発生したら一体どうなってしまうのだろう。そうした想定外のことが、将来あらゆる社会環境で起きないという確信は誰にもないだろう。

また、薬品にかぎらず何事にも想定外の副作用はつきものだ。ある課題を解決することが別の問題を生み出してしまうことは、これまでにも多々あった。
あるいは、テクノロジーへの依存がさらに加速して社会や生活の隅々にまでに行きわたったとき、逆に機械がすべて停止したら一体世界はどうなるのか。
しかし、技術的な進歩は、自然史と同じで意図的な意志や行為がなければ、だまっていても先や前へ進んでしまう不可逆なものだ。


■テクノロジーがもたらすカタストロフィー

人類滅亡の可能性の一つとして、テクノロジーが加わることがないと、だれが確証をもって断言できるのか


21世紀は一つの人間とテクノロジーの臨界点として、遠い未来に人類史が語られるとき、18世紀半ばの産業革命と同様、「人工知能革命」が後世の歴史書に綴られる日が到来するかもしれない。

それはSF的な話しなどではなく、これからの人類社会は、格差や貧困、テロなど同様に人と高度に発達した機械=テクノロジーの付き合い方(使い方ではない)についても考えていかなくてはならない。そんなことを感じた時間だった。

宇宙物理学者のスティーブン・ホーキング博士は、将来の人類にとって2つの警告を発している。
1つは、切迫した課題ではないにしても、地球外知的生命体が存在する可能性に言及し、仮に存在することがわかったとしても接触は避けるべきといい、もうつは、最近のBBCのインタビューに応じたさいには、人工知能の開発は人類の終焉を意味するかもしれないと発言し、AIのもたらすリスクと真剣に向き合うべきだと。
ほかにも、起業家のイーロン・マスクなども、人工知能(AI)の高度な発達により人類が直面するリスクについて、ことあるごとに警鐘を鳴らしている。

これまでにも地球は、プレート移動による大陸の分裂、氷河期、小惑星(水星)の衝突など様々なカタストロフィーに見舞われ、多くの種が絶滅してきた。
それらは自然災害で避けがたいことではあったが、核やAIで滅びるとしたら、人類自らが招き寄せたテクノロジーによる大災害になるだろう

こうした考えがペシミスティックな杞憂に終わることを願っている。
しかし、いずれにしても、AIなどの高度なテクノロジーに気がついたら人類は管理されていた、という事態にだけはならないよう、それらを制御しつつ人類の歩みを進めることしか、われわれにはすでに残され道はないのは事実だ。

テクノロジーの進歩は、最初は人類の発展や幸福に資するものとオプティミスティックに歓迎されるものだ
インターネットが、コミュニケーションを進展させたが、検索履歴や様々な情報による監視社会に警鐘が鳴らされた。ソーシャルメディアが世界中の人々のつながりを育み多様性を受容した世界の平和に貢献するだろうと思われたが、実際にはフィルターバブルとプライバシー問題という副産物を生み出した。
わたしたちは、テクノロジーもらたすだろうユートピア、あるいはその先に待っている黙示録の振幅の狭間で常に右往左往している。

こうした高度な機械(テクノロジー)との関係(使い方でなく、付き合い方)については、なにもいまになって急浮上してきた問題ではない。特に、この100年ほどのテクノロジーの急激な進歩がもたらす課題に直面する様々な問題は、多くの知識人によっても警鐘を鳴らされてきた。

21世紀に生きている私たちには、高度なテクノロジーを管理するかされるかという歴史的な転換点や選択を迫られる日=「審判の日(Judgement Day)」がこないという約束ができるわけではない。

第二次世界大戦以降、哲学者ハイデガーの『技術への問い』、ハーバーマスの『イデオロギーとしての技術と科学』(ともに平凡社ライブラリー)、英国の生物学者でジャーナリストでもあるゴードン・R・テイラーによる『人間に未来はあるか(2冊)』(みすず書房)など、技術の発展と人類について考える必要性を著した代表的な著書はいくつかある。
我が国でも、唐木順三による『「科学者の社会的責任」についての覚え書き』(ちくま学芸文庫)などがそうだ。

前回、SCHOLAR.professorで講義いただいた増井俊之教授のテーマだった「30年後の普通を考える」という視点、今回のテーマを重ねてみることも意義があるかもしれない。


さて、次回のSCHOLAR.professorは5月25日(月)19:30〜22:00に開催。
講師は、救急科専門医、日本外傷学会評議員、日本航空医療学会評議員などを務める町田浩志さん。テーマは「ドクターヘリを飛ばせ!〜高い精度、迅速性が求められる中での情報共有が命を救う」で、ドクターヘリはヘリコプターを利用した医師派遣・患者緊急搬送システムのこと。

▼(5/25)「ドクターヘリを飛ばせ!〜高い精度、迅速性が求められる中での情報共有が命を救う」


(関連リンク)
▼人工知能「2045年問題」 コンピューターは人間超えるか
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO82144080Q5A120C1000000/

▼シンギュラリティ(技術的特異点)の先にある2045年の未来とは?
http://www.ikeda.asia/2014/02/2045.html

▼人工知能制覇を狙うグーグルの野望とは?
http://toyokeizai.net/articles/-/67972

▼30年後、人工知能が人類を駆逐する?AIの進化で消える仕事と残る仕事
http://biz-journal.jp/2015/05/post_9875.html

▼東京大学大学院 情報学環 佐倉統研究室
http://sakuralab.jp/

▼佐倉統教授(Twitter)
https://twitter.com/sakura_osamu

▼TEDxTokyo 2014(佐倉統教授)
http://www.tedxtokyo.com/talk/osamu-sakura/

▼佐倉統(東京大学教授・科学技術社会論)の書評(ブック・アサヒ・コム)
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/1616.html

▼SCHOLAR.professor(Webサイト)

▼SCHOLAR.professor(facebook公式ページ)


(参考図書リスト)
・『機械との競争』E・ブリニョルフソン、 A・マカフィー共著(日経BP社)
・『思考する機械コンピュータ』ダニエル・ヒリス (草思社文庫) 
・『大格差:機械の知能は仕事と所得をどう変えるか』タイラー・コーエン(NTT出版)
・『人と「機械」をつなぐデザイン』佐倉統 編(東京大学出版会)
・『技術への問い』ハイデガー(平凡社ライブラリー)
・『イデオロギーとしての技術と科学』ハーバーマス(平凡社ライブラリー)
・『人間に未来はあるか〜「生命操作」の時代への警告』ゴードン・R・テイラー(みすず書房)
・『人間に未来はあるか〜地球温暖化・森林伐採・人口過密』ゴードン・R・テイラー(みすず書房)
・『「科学者の社会的責任」についての覚え書き』唐木順三(ちくま学芸文庫)


【おすすめブログ】
●『瀬名秀明 ロボット学論集』を上梓

●「SFアニメが現実に!? 激論 ロボットトーク」に思う
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/610992.html


●"コロンブス指数"で「30年後の普通や常識を考える」ーーSCHOLAR.professorに参加して
http://blog.marketing.itmedia.co.jp/macume/entry/730.html

私的プログレッシブロック起源説ーープログレ45周年によせて

progressiverock

私的公開日誌:ウェブ暦@150506.01

プログレッシブロック(以下プログレ)が45周年を迎えた。雑誌『ストレンジ・デイズ』(187号)でその特集号を見つけたので思わず購入した。

とはいっても、これは英国で明確にそのように規定あるいは表明しているわけではなく、雑誌『ストレンジ・デイズ』が、ワーナー・ミュージック・ジャパンから50枚ものアルバムが復刻発売されたことを記念して企画された特集での話しではあるのだが。

だから、記事ではそのプログレ誕生の起源とされるのが、1969年発表のキング・クリムゾンのデビューアルバム『クリムゾン・キングの宮殿』とするならば、という「但し書きつき」である。
このアルバムは、確かにプログレの歴史において金字塔的なアルバムであることを認めるにはやぶさかではないが、私もそうなのだが、これを「起源」とするのに異論のある人はかなりいるだろう。

70年代前半、プログレは全盛期であった。私がプログレに目覚めるきっかけとなったのは、The Moody Bluesの71年リリースのアルバム『童夢』(Every Good Boy Deserves Favour)を聞いた衝撃だった。
この時期、ラジオや音楽雑誌(『ミュージック・ライフ』や『音楽専科』)では、King Crimson、EL&P、Pink Floyd、Yesの英国バンドをいわゆる「プログレ四天王」と呼んでいた。

今回の特集で「5大プログレ」という表現を初めて知ったのだが、特に記載はないが、多分これにGenesisを加えたバンドをそのように称するのだろうと思う。

残念ながら、それらのどれにもThe Moody Bluesが入っていない。
しかし、あのLez Zeppelinのジミー・ペイジをして「この世で本当にプログレッシブなバンドは、ピンク・フロイドとムーディー・ブルースだけだ」と言わしめたほどにもかかわらず、日本ではなぜかそれほどには語られないことが、個人的にはいまでも最高のロックバンドだと思っている私にはなんとも悲しい。
この当時、英国だけではなく、米国も含め世界的なバンドとして評価されていただけに、私はなんとも納得がいかないのである。

また、プログレがクラシックとの融合あるいはシンフォニックロックから出発しているし、私自身は当時は特にELO(The Electric Light Orchestra)をプログレだと思ったことはなかったが、デビューアルバム(71年)がここで取り上げられていても異論はない。

バンドというのは不思議なものだ。オリジナルメンバーの誰かが脱退し、あとから新しいメンバーが加わることでバンドが劇的に変化する(ビッグになる)ことがある。
The Moody Bluesでいえば、ジャスティン・ヘイワード(ギター)、ジョン・ロッジ(ベース)、Genesisでいえばフィル・コリンズ(ドラム)、Supertrampでいえばロジャー・ホジソン(ギター、キーボード)などが新メンバーとして加入したことで、そうした彼らが素晴らしい楽曲を創出することでバンドとしての完成度を高め、それにともない世界的なバンドへと発展していく。

これはロックバンドに限らず、企業組織(ベンチャーやスタートアップ含め)も同様だろう。新しい人材を迎え入れることで、その後の企業として変化を引き寄せたり成長や発展をを左右することがある。


■私が考える「プログレの起源」

The Moody Bluesは、67年に『デイズ・オブ・フューチャー・パスト』(Days Of Future Passed)をリリースしたが、これはクラシックのドボルザークの代表曲『新世界』のロックバージョンの再構成(解釈)しようという試みだった。
シンフォニーオーケストラとコーラスをバックにシンフォニー・ロックの誕生を告げた記念すべきアルバムだった。

68年の『失われたコードを求めて』(In Search Of The Lost Chord)、69年の『夢幻』(On The Threshold Of A Dream)などは、オーケストラに替わりどこよりも早くシンセサイザーやメロトロンを導入してサウンドを作り上げ、約半世紀ちかくたったいま聞いても斬新だと思う。
後者などは、冒頭にはコンピューターの効果音が導入され、「我思う、故に我あり」というデカルトの有名な言葉で始まる導入部だった。

2000年には、完全オリジナルメンバーによる英国ロイヤル・アルバート・ホールでコンサートを開催し、往年の名曲オンパレードのライブを見せつけたが、やはり私にとっては史上最高のロックバンドだと改めて実感した。

そういう意味においても、The Moody Bluesの成功は、その後に続々と登場する多彩なプログレの先駆的なバンドであり、草分け的な存在といっても過言ではないはずなのだ。

また、かつてキース・エマーソンが在籍していたことで知られているTHE NICEも(67年)デビューであり、68年にはJethro Tull『日曜日の印象』(This Was)でデビューを飾って注目された。

したがって、プログレ胎動の「67年」を起源とするのが、私個人としての意見である。もちろん、これにも異論のある人がいるだろうとは思っている。

また、プログレはアルバム制作に明確にコンセプトを持ち込んだことでも貢献している。詞や楽曲、アルバム全体の構成まで、そのコンセプトに基づいて製作される。これは、しかし、一方では大作主義という問題を生む温床ともなってしまった。

それにしても、プログレは、ライブで見ると今日ほどテクノロジーがないにもかかわらず、当時のレコードと同じサウンド、複雑だが的確なアンサンブルでレコードサウンドを再現するだけのテクニックを各人がもっていたことに驚嘆する。
同時代、我が国ではその後しばらく続く楽曲は二の次のアイドル歌謡の歴史の幕開の時期と重なっていた。
もとより、完全な洋楽&洋画育ちの私であるが、プログレ少年の私は楽曲レベル的にも演奏テクニック的にも、日本の音楽は100年たっても欧米ロックの水準には到達できないだろうと感じていた年頃でもあった。

72年、絶頂期のThe Moody Bluesは世界的な大ヒットの7枚目のアルバム『セヴンス・ソジャーン』(Seventh Sojourn)リリース後に来日公演を行った。私にとって初めての武道館、初の外タレのライブコンサートだったが、それを見ることができたのはいま考えれば幸運だった。

プログレにとって、作品的な完成度としては72年のYes『危機』(Close to the Edge)73年のGenesis『月影の騎士』(Selling England By The Pound)などの代表作が到達点としては双璧だろう、と私個人は思っている。

70年代後半、英国プログレは急速に退潮していく。それとは対照的にこの時期は米国製のプログレバンドであるKansasStyxが人気を博するようになるとはなんとも皮肉である。
もちろん、この2つの米国バンドも英国プログレの隆盛があったればこそなのであるが。Kansasのメンバーの一人は70,71年当時英国に滞在し、英国プログレに目の当たりにして衝撃を受けたそうだ。


■英国プログレの軌跡と意義とは

プログレの誕生は、72年以降の英国Art Rockの苗床となり、その後はRoxy Muxic、10cc、Sparks、Sailor、フランメンコロックのCarmen、女性ではKate Bushなど続々と輩出し、その後、さらにはThe Stranglers、The Policeの登場を促し、80年代になるとU2やDuran Duran、Matt Bianco、Sadeまで、英国の革新的あるいは斬新な音楽の栄華時代は続くのだ(素晴らしい時代だったな)。

今回、この記事を書くに際して、下記の関連リンクの映像を見ながら思ったのだが、60年代後半のブルース系バンドであるCream、Freeを初めとし、これらのロック史上的にも希に見るクオリティの高いバンド群のサウンドを聴いていると、そもそもロックは大人の音楽だったなぁ、と改めて実感する次第。

さて、今号のプログレ特集では、先のELOのほかには、Gentle Giant、Renaissance、Curved Air、Barclay James Harvestなど英国プログレオタク(じゃなかった、プログレ好き)にはたまらないラインアップが紹介されている。
特に、Gentle Giantの“On Reflection”をライブで再現するのはとても無理だろう、とレコードを聞いたときには思っていたのだが、BBCでのライブ(78年)を見てレコードと同じサウンドを再現したのにはビックリだった。

今回の復刻CDは、どれも1枚1,300円という安さだ。ファンにはたまらないリリースだろう。


(関連リンク)
▼『ストレンジ・デイズ』ープログレッシブロック45周年特集。
http://www.strange-ds.com/?p=6808

▼In Search of the Lost Chord(68年)- The Moody Blues
https://www.youtube.com/watch?v=9hXlY3b3oW8

▼“On The Threshold Of A Dream”(69年)- The Moody Blues

▼"The Lost Performance" - The Moody Blues live in Paris(70年)
https://www.youtube.com/watch?v=xdPlsov7bXY

▼Live at the Isle Of Wight Festival(70年) - THE MOODY BLUES
https://www.youtube.com/watch?v=vRuMgs4b1qk

▼“Hall of Fame Full concert”(2000年) - The Moody Blues
https://www.youtube.com/watch?v=gQGS1KolHA8

▼The Electric Light Orchestra(71年)
https://www.youtube.com/watch?v=fKtrdT6dxNg

▼Sight and Sound Live at BBC(78年) - Gentle Giant
https://www.youtube.com/watch?v=UM-yGcpaY_4


▼Close to the Edge - live 72 - YES
https://www.youtube.com/watch?v=kcvByrgofjc




【おすすめブログ】
●古典とはなにかーー「ロック黄金期」に育った世代の徒然モノローグ
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バーミリオン星域の会戦終結後、歴史的対談に立ち会ったラスキとニーチェの名言

gineiden

私的公開日誌:ウェブ歴@150401.01

ネグリやジョクスらに語らせるまでもなく、歴史的に見れば<帝国>の歴史は長く人類や社会を支配し、自由主義や民主主義の時期は実に短い。
世界のグローバル化どころか、銀河系のユニバーサル化された遠い未来になってもどうやらそのようだ。

遙か未来、由惑星同盟と銀河帝国として、その攻防は銀河系の彼方でも繰り広げられる
これは、いわゆる後世の歴史家によって語られている『銀河英雄伝説』の一大叙事詩である。

そのひとつ、バーミリオン星域における会戦のとき、フロイライン・マリーンドルフの機転(同盟首都ハイネセンを攻略してヤン提督率いる艦隊へ停戦命令を発する)により、銀河帝国は自由惑星同盟に勝利することになり、ここに銀河系の統一がなる。

う〜む、これほど発達した未来になってもやはり<帝国>勢力を優っているということがわかる。自由主義や民主主義を経験したあとの人類の歴史においても、やはり帝国支配は優勢で揺るがないのだな。

さて、戦闘終結後、負けた自由惑星同盟の提督ヤン・ウェンリーは、銀河帝国の皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムとついに謁見するのだが、その場で以下のような後世に残る名言が会話として交わされる。

■皇帝ラインハルト「民主共和制とは、人民が自由意志によって自分たち自身の制度と精神をおとしめる政体のことか。」
■ヤン提督「人民を害する権利は、人民自身にしかないからです。」


この歴史的な対談の場に、たまたま立ち会っていた民主制を擁護していたイギリスの著名な政治学者ハロルド・ラスキは我が意を得たりと以下のように語る。

■ラスキ「その国の政治家は、その国(国民)のレベルに見合った人しか選ぶことはできないのです。つまり、民主主義の良い点は、国民が政治家の半数が悪人(党)だと思っている点にこそあるのです。」


この対談を、そばで聞いていた哲学者のニーチェはそこへいきなり割って入り、以下のように言い放つ。

■ニーチェ「だから、私はすでに1882年の拙著『悦ばしき知識』(第一之書三十一)で、とっくに警鐘を鳴らしていたではないか。今日すでに政治は、貴族の職業ではなくなっているのだ。そして、人々はいつか政治というものを、あらゆる党派文学や俗流文学なみに<精神の淫売>という見出しで一括してしまうほどに、卑俗なものと見なすようにことがおこるかもしれないと。」


う〜む、それにしてもラインハルトとヤンに負けず劣らず、この歴史的な場面において、同席していたラスキといきなり割って入ったニーチェも、各々歴史に残る名言を残しているのだな、としみじみ感じ入る私である。

本日はエイプリル・フールなので、ちょっと自分らしく文章で遊んでみた(^_^)。

(了)


【おすすめブログ】
▼日本の平和目的の技術が軍事に利用される時
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▼政治的理念も実務実績もない議員が跋扈するこの国の行方
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▼国家の指導者とは常に国民を欺くものーー没落してゆく日本に思う
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▼日本という「井の中の蛙」ーー世界のニュース番組を見て感じること
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