Bianchiの徒然ブログ

インターネット、そこは技術のフロンティア。 これは、コミュニケーションアーキテクトたる“macume”が、新時代のツールBlogの下に、21世紀において執筆を継続し、未知のネット世界を探索して、新しい情報や人との出会いを求め、永劫進化するネット世界に自由に公開した日誌である。

古典とはなにかーー「ロック黄金期」に育った世代の徒然モノローグ

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私的公開日誌@ウェブ暦:140806.01

昨年末(13年)から今年(14年)にかけ、海外ロックの大物の来日ラッシュが続いている。

ポール・マッカートニー、イエス、エリック・クラプトン、ローリングストーンズ、ジェフ・ベック、ボブ・ディラン、ディープ・パープル、TOTO……。
ジャズに限らず、ロックについてもわれわれ日本人は特に“古典音楽”が好きなようだ。

私は進取や新奇なものが大変に好きだし、ビジネスでは現在と未来にしか興味はなく、過去には関心がない。現在と未来を見据え、過去は振り返らないようにしている。

しか〜し、ロックについては別だ。

もっとも、今日ではロックに限らずすっかりと音楽生活から足を洗ってしまった私である。

かつてはレコード1,000枚、CDも500〜600枚ほど所有していたが、いまは手元に残っているのは数十枚ほどだ。


■洋楽だけを聴いて育つ

私は純然たる洋楽ロックだけを聞いて育った世代だ。
個人的には、洋楽のロックやポップスは1965〜1985年までの20年間、いわゆる「黄金期」で“ロック古典期”は終わったと思っている。

洋楽を聴き始めた(小学校5年生)頃は、音楽評論家の福田一郎のように(60や70歳になっても)ロックだけを聴いて一生を過ごすものだと思ったし、好きな音楽傾向が年齢などによって変わるものだということも知らなかった。バンドが、音楽的な方向性の違いで解散するものもよく理解できる気がする。

好みの音楽に比べると、好みの女性というのは一生不変なような気がする(^_^;)。

初めて購入したレコードは、当時(66〜67年)、TVで番組が放送されていたThe Monkeesのテレビ番組テーマ曲のシングルだった。最初に購入した洋楽ロックのアルバムは記憶にないのだが、小学生の小遣いで買えたシングルレコードはいまでも覚えている。

その頃は、当然ながらThe Beatles、Simon & Garfunkelなどは絶頂期だったし、The Rolling Stones、The Whoなどいわゆるロックの大物も同様だった。特に、多くの友人たちがThe Beatles、Simon&Garfukleのレコードから洋楽に目覚めることほとんどだった。
しかし、この世界的に有名な二組のレコードを、実は私は1枚も所有していなかった。

ラジオでは米ヒット曲が中心で、そうしたヒット曲中心に私も聞いていた。
72年からは、音楽チャートを40位から1位まで週ごとに紹介するカウントダウン番組として最も有名な「American Top 40」がラジオ日本(旧ラジオ関東)でも開始され、音楽評論家の湯川れい子によるDJで毎回欠かさずに聞いていた。
また、81年開始の「ベストヒットUSA」にも随分とお世話になったものだった。

中学生になり、プログレッシブ・ロックを聞いたことで、私の音楽的な嗜好(好みの)に大きな転換が訪れる。そこから英国ロックを中心に聞くようになったのだった。

その当時から、今でもロック史上最高のバンドと思っているのはThe Moody Bluesだ。彼らのサウンドを確立したアルバムIn Search of the Los Code(68年)は、約半世紀も前の音源であるがいま聞いても斬新だと思う。

かつて、Lez Zeppelinのジミー・ペイジをして「この世で本当にプログレッシブなバンドは、ピンク・フロイドとムーディー・ブルースだけだ」と言わしめたほどだ。


■英国ロックへの傾倒

70年代の英国ロックは、プログレッシブ・ロックから、グラムロック、アートロック、パンクロック、ニューウェイブ、エレクトロ・ポップ(テクノポップ)からニューロマンティックに至るまで、創造的で革新的かつ多彩なロックのイノベーションをおこし続けた10年だっただろう。

そうした中で、プログレッシブロックと並んで私に大好きだったのはアートロックだ。

アートロックの嚆矢となったのは、私個人はJethro Tullだと思っている。その後、グラムロックの影響を受けたアートロックは72年のRoxy Musicを筆頭にSparks、Steve Harley & Cockney Rebel、Carmenなど続々と音楽シーンへの登場を促した。
ちなみに、Steve Harley & Cockney RebelとQeenは同期(73年)デビューなのだが、その後の成功は天と地ほどの開きとなったことはよく知られている。

そして、さらに洗練されよりポップなアートロックの大本命として10cc(73年)、Sailor(74年)などが登場することになる。

10cc、Sailorを聞いていると、どうしたらこれほどの多彩で凝った創造的で洗練された音を作り出せるのかと思うほどだ。

他には、74年『Crime Of The Century』のSupertramp。特に、新しいプログレッシブロック・バンドの登場かと期待したのだが、それもさりとてアートロックも極められず、結局ただのバンドで終わってしまったのが残念である。
もっとも、プログレッシブロック自体、70年代後半に失速してしまったので、商業的な成功という点から考えれば、Supertrampがポップ路線に舵を切ったのはいま思えば懸命な判断だったのだろう。

また、英国のバンドは新しく独自の楽器を導入することにも積極的だった。

この時期、ムーグ・シンセサイザーがプログレッシブを象徴する楽器として一躍名をはせた。

しかし、例えば、The Moody Bluesを象徴する楽器メロトロンは、時にオルガン、時にストリングス、時にシンセサイザーなど多彩な音を奏でていた。キーボード担当のマイク・ピンダーはその開発者の一人だった。メロトロンは、ほかにもDavid Bowieの代表的ヒット曲「Space Oddity」(69年)、YESGenesis、Carmenなども使用していた。

10ccが開発したギズモトロンは、英国の工科大学と共同で開発したギターアタッチメントだし、アップライトピアノ2台を背中合わせにしたような楽器ニッケルオデオンはSailor発明した楽器だった。

そうした点でも、英国ロックは先進的だった。

その後、70年代後半のパンクロック・ムーブメントの中から現れ、The Doorsの再来とまで言われたThe Stranglers(77年)。そして70年代のトリを飾ったのは、78年にデビューしたThe Policeだ。デビューシングルとなった“Roxanne”は聞いた瞬間アルバムを買いに走るほど気に入ってしまった。

後に、The Policeがあれほど世界的に成功を収めるバンドになると、デビュー時には正直思わなかった。


■洋楽全体が黄金期だった時代

ところで、その時代(70年代初め)、米国ロックはブラスロックのBlood, Sweat & Tears、Chicagoで幕を開け、James Taylorを筆頭にシンガー&ソングライターが続々誕生し、その後70年代を牽引するバンドThe EaglesThe Doobie Brothersなどが登場し、いかにもアメリカンなロックバンドな時代。
個人的には、DoobieはMichael McDonald加入したことで音楽性が大きく変わり、彼のワンマンバンドとも言われるが、そのAOR的なサウンド時代の方がずっと良いと個人的には思う。
私がシンガー&ソングライターで、これはと思ったのはCarol KingJoni Mitchel(厳密にはカナダ出身)くらいだし、男性アーティストではBruce Springsteen、Billy Joel、Boz Scaggs、Gino Vannelli(彼もカナダ人、一番好き!)の登場を待たねばならなかった。
デビュー期からユニークなロックバンドだと思ったのは、摩訶不思議なデビューアルバムだったSteely Danくらいだった

しかし、実は、一番斬新なバンドだと思ったのは、76年デビューのDr. Buzzard's Original Savannah Bandだ。
このバンドは、30〜50年代ビッグバンド・サウンドに、当時人気のディスコサウンドを融合させた独創性には思わず驚喜したものだ。
もっとも、このころは英国ロック界でも、BEE GEESのディスコサウンドへの転向に大成功の影響は大きかったらしく、David Bowieに限らずRod Stewartなどもディスコ要素を取り入れることで、ヒットを飛ばしていた情況だった。

76年頃から、米国製のプログレッシブバンドとして人気を博すようになったStyxKansasであるが、後者はメンバーが71〜72年当時に英国に留学していたとき、プログレッシブロックを聴いて大きな衝撃を受けたとのエピソードが有名だ。
当時の英国はプログレッシブバンドが絶頂期を迎えていたのでそれも納得する話だ。
米国ロック界に新しいなムーブメントが誕生するのは、Talking Heads(77年)、The Cars(78年)、The B-52's(79年)など、いわゆる米国ニュー・ウェイヴバンドが続々登場してくる70年代後半になってからだ。

しかし、斬新で独創的なロックを生みだし続け、ロック界全体を牽引してきた英国ロック界も、80年代に入るとその勢いが衰えてしまった。
84年の『焔』、87年の『ヨシュア・トゥリー』でファンになったU2が最後に聞いたそして好きなロックバンドだった。

特に後者は傑作の誉れに高いアルバムだが、聞き終わって疲れを感じ、もうロックは身体になじまないことを実感した。

私が80年代になって英国から登場して喜んだのは、ともに84年デビューのMatt Bianco、Sadeだけだった。その後、同バンドにいたBasia(87年)のソロデビューもありがたかった。

よく、洋楽の70年代を黄金時代という人がいるが、英国ロックにとっても69〜78年の10年間が絶頂期だろう。


■古典とはなにか

それらのロック音楽は、もはや「ロックの古典」と呼んで差し支えない。

私は、学問でいえば人文学でも社会科学でも古典が好きだ。古典は、それが本、絵画、音楽、映画を問わず、なぜ人々を魅了し続けるのだろうか?

吉本隆明の『マルクス紀行』(光文社文庫『カール・マルクス』所収)は、古典(この場合は書物)の価値について以下のような書き出しではじまる。

 「書物は、読むたびにあたらしく問いかけるものをもっている。いや、たえずあたらしく問いかけてくるものをさして書物と呼ぶといってもおなじだ。書物がむこうがわに固定しているのに、読むものが、書物にたいして成熟し、流動していくからである。書物のがわからするこの問いかけが、こういう流動性にたえてなおその世界にひきずりこむ力をもち、ある逃れられないつよさをもって、読むものを束縛するとき、わたしたちは、その書物を古典と呼んでいいであろう。」

上記は、私が知っている範囲内では古典について語った名言だ。

これは、マルクスの『経済学批判序説』(岩波文庫)の以下の言葉とも符合する。

「けれども困難は、ギリシャの芸術や叙事詩がある社会的な発展形態とむすびついていることを理解する点にあるのではない。困難は、それらのものがわれわれにたいしてなお芸術的なたのしみにをあたえ、しかも、ある点では規範としての、到達できない模範としての意義を持っているという点を理解する点にある。」

古典とは、吉本の「書物のがわからするこの問いかけが、こういう流動性にたえてなおその世界にひきずりこむ力をもち、ある逃れられないつよさをもって、読むものを束縛するとき、わたしたちは、その書物を古典と呼んでいいであろう。」と、マルクスの「困難は、それらのものがわれわれにたいしてなお芸術的なたのしみにをあたえ、しかもある点では、規範としての、到達できない模範としての意義を持っているという点を理解する点にある。」は同じ内容を語っている。

吉本が書物と言っているものを、その他の芸術に置き換えても同じだ。マルクスの芸術と言っているものも同様だろう。

歴史に数々の栄華を誇り、人類に足跡を残してきた規範的な文明や文化も、いずれは衰退するのは歴史の必然である。二人の言葉は照応関係にあると指摘しても間違いにはなるまい

60年〜70年代に英国ロックの“規範”を支えていた強者ロックミュージシャンたちが、70年代後半〜80年代前半にかけて「もう一度、若いヤツらアピールするロック」をやろうとバンドを結成した。Foreigner、Asiaなどが代表的だが、それでもかつての黄金期にはやはり及ばなかった。

古典は、ある歴史の一時期のある分野における頂点を産出している。そしてそれはどの分野でも同様だ。古典とは、まさに“おおいなる人類の遺産(最高値価値)”だろうと思う。哲学でいえば、ドイツ古典哲学とはまさに「流動性にたえてなおその世界にひきずりこむ力をもち」それと同時に「規範」でもあるのだ。

クリント・イーストウッド監督作品『バード』(88年)は、ジャズのチャーリー・パーカーを描いた映画であるが、ジャズがまだ大衆音楽だったが、ロックンロールの登場で、徐々にそれらにリスナーを奪われていくことが描かれていたのが印象的だった。
ロックも、ただ同じ運命を辿っただけだ。

他の音楽に比べれば長い歴史を誇るクラシック音楽ではあるが、それでもハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンを生み出した古典派と言われている時代がやはり頂点なのだろう。

そんなことを徒然に考えて、“古典英国ロック”を聴きながらこのブログを書いた私である。

━━━━━━━━━━< 梅 下 武 彦 >━━━━━━━━━━

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特集「人文書入門」ーー『文藝』2014年夏号

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私的公開日誌@140729.01

河出書房新社の季刊『文藝』(夏号)の特集が「人文書入門」。書店で偶然に見かけて思わず購入した。75ページもある。
学問は、大きく分けて人文学、社会科学、自然科学とある。私がもっとも好きなのが人文学領域なので思わず手が出た。

『文藝』は、『新潮』(新潮社)、『文學界』(文藝春秋)、『群像』(講談社)と並ぶ老舗の文芸誌だ、同誌だけは季刊誌である。

今号では、2つの対談が用意されている。
巻頭は、フランス文学だけではなく、『知の技法』の編者としても知られているフランス文学・思想の小林康夫と社会学者の大澤真幸との対談で、二人の読書体験から対談が始まる。
この二人の対談だけで30ページもある。また、二人のオススメ人文書47冊も紹介されているので、これをきっかけに読書するのも良いだろう。

以下は、二人の対談で心に残った箇所。


小林「本はあたり前の存在ではなくなつりつある。だから、本って一体何なのかをもう一度考えないといけない。その時、本は重さがあるというのが、僕には、一つの出発点です。物質的な重さという点もあるけれど、本は言葉が重みをもって、そこに凝集してい存在している状態なんじゃないか。」
大澤「でも本て、情報を得るために読むものではないですよね。情報が必要な時もあるけれど、それが本を読むことの主な目的ではないですね。本って基本的には考えるためにある。というか、本を読むと、人は真に考えるべきこと、考えに値することがあることを知るのだと思いますね。」

小林は、元々理系の人だったが大学時代に文系に転科したとのこと。大澤は高校生の頃、ニーチェの『ツァラトゥストラ』を読んで、何が書いてあるのかわからないけれど衝撃を受けたそうだ。

私も始めて読んだニーチェの本は実は『ツァラトゥストラ』(中公文庫)だったが、同じく衝撃を受けたものだ。大澤は、ニーチェの文体模写して似たような文章を書いていたようで、まったく私と同じ体験だ(笑)。


小林「僕が若い人に薦めることは、たとえば大学四年間の間に誰か一人、自分にとってのそうした世界を開示してくれる人と出会いなさい。その意味でのメンターを決めなさいと。」
大澤「だから、誰でもいいから、その人のものを読んでいると、自分の思考とシンクロする、と感じられるような、そんな著者を探し出さないといけない。読みながら、その著書の思考のダイナミズムにつき従っていくと、自分自身が壁を突き破ることができた、と感じるような著者を、です。」

読書のきっかけは人さまざまである。私の場合、大学時代のメンターは吉本隆明、高橋和巳、小林秀雄などの文芸批評家だった。いまでも、文芸批評家たちは、私にとってはメンターかつ愛読書である。
現今の学生は、何を読んだらいいのかわからない人が多いらしく、そういった学生たちへの処方箋として、読書家として知られるライフネット生命の出口さんは、新聞の書評欄で紹介されている本から始めるように薦めている。

もう1つの対談は、いとうせいこうと千葉雅也である。後者は、私は未読なのだが『働き過ぎてはいけない』が話題の著者で、一見異色対談のような気がする。しかし、千葉は10代のころ、いとうせいこうの『ノーライフキング』を読んで影響を受けたそうだ。

そのほか、アンケートで平野啓一郎、赤坂真理など10名ほどが「私のオススメ「人文書3冊」を紹介している。


さて、人文学といえば、エドワード・サイードの遺著『人文学と批評の運命〜デモクラシーのために』(岩波現代文庫)を思い出す。同著は、2000年に米名門大学のコロンビア大学の連続講演のために書かれたものである。
現代生活における人文学の重要性と未来をテーマとして著された書だ。

同書の中で、サイードはヨーロッパ中心主義的な学問の批判を行っている。彼は歴史学者ウォーラスティンの言葉を引用し、ヨーロッパ中心主義が「真のコスモポリタン・国際的な視点の可能性を、膨らませるどころか、減らしてしまう。」と警鐘を鳴らしている。

そうしたヨーロッパ中心主義への批判は、ジャック・アタリ著『1492 西欧文明の世界支配』(ちくま学芸文庫)など、主流の考え方ではないが西欧史観に基づいた考え方を批判する知識人による著書は、それでもかつてよりは増えているように思う。
1492とは、コロンブスが新大陸(米国)を発見した年であり、西欧の世界支配はここを起点にしてヨーロッパによる歴史(世界史)の捏造が開始されるというのが、アタリの主張である。

岡倉天心は『茶の本』(講談社学術文庫)の中で、西洋人の東洋人に対する典型的な態度について「不幸なことに、西洋の態度は東洋を理解するのに好ましいものではない。キリスト教の伝道師は授けようとするが、受け取ろうとはしない」と書いた。

これは、何も東洋人に対してだけではない。
かつて、遅れている野蛮なアジアの国の一つと思っていた日本が、日清(1894〜1895年)、日露戦争(1904〜1905年)を経て、アジアの帝国主義国として頭角を現すと、欧州と同じ列強国の“仲間”として認め始めるという歴史的情況は、そうしたことを如実に示している。

さて、サイードが教えていたコロンビア大学では、人文学のカリキュラムが通年授業であり、1、2年生全員が週4回の受講を義務づけられている
このあたりは、読書会「10 over 9 reading club」でレクチャーにおいでいただいた佐々木紀彦さんも、スタンフォード留学時代の学生生活での同じような経験談を語ってくれた。
私は、米大学に留学した経験がないので詳らかではないが、米大学でのそうした人文カリキュラムが、教養を育成する苗床となっていると感じた。

昨今では、米国の限らず、高度に専門分化した「たこつぼ学問化」し、深い知見と広い見識を持った言論(知識)人が、少なくなる一方なのは非常に悲しく残念に思う。

サイードは03年、スーザン・ソンタグは翌年(04年)に亡くなっている。残っているのはチョムスキーくらいか。

(関連リンク)
▼『文藝 2014年夏季号』

▼『人文学と批評の運命〜デモクラシーのために』

▼『1492 西欧文明の世界支配』

▼『茶の本』(英文収録)

 
 
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世界が注目、トマ・ピケティ教授へのインタビューに思うーーはたしてマルクスは甦るか?

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私的公開日誌@ウェブ暦:140724.01

本日から、都内の大手書店ではジャック・アタリの新刊『世界精神マルクス〜1818-1883』(藤原書店刊)が平積みされている。

同出版社は、これまでにもアルチュセールの著作を刊行しているし、塩沢由典著『マルクスの遺産〜アルチュセールから複雑系まで』(02年刊)、ジャック・デリダ著『マルクスの亡霊たち〜負債状況=国家、喪の作業、新しいインターナショナル』(07年刊)などを扱っているので、アタリのこのマルクスの伝記という新著が同社から発売されるのも納得する次第。

ジャック・アタリは、08年刊の『21世紀の歴史〜未来の人類から見た世界』(原著は06年刊)が、発売から6年たったいまでも増刷に次ぐ増刷で、大型書店では現在でも平台に積まれている店舗があるほど、日本でも大いに売れている本だ。

さて、そのアタリと同じフランス人経済学者トマ・ピケティ教授の『Le capital au XXIe siecle(21世紀の資本論)』は、年内に刊行(みすず書房)される予定だ。
世界的に話題のベストセラーで、英語版は今年4月に発売されたが、700ページを超える大著であるにもかかわらず、わずか3か月で40万部を売り上げるベストセラーで、英語版の75%が米国での販売によるものだそうだ。
その驚異的な売れ行きは、マルクスとは無縁な米国人も驚くほどである。

池田信夫がNewsweek日本版に「21世紀にマルクスはよみがえるか」というコラムを書くほどだ。また、フランスに移住した土野繁樹(元Newsweek日本版編集長)も自身のブログ(「フランス田舎暮らし」)で記事にしている。

ほかにも2〜3のピケティに関するブログがあり(下記関連リンク参照)、日本版は何ページになるのか予想もできないが(上下巻になるかも)、発売されればかなり売れるだろう。

土野のブログによれば、「ピケティは一般読者向けに平明な言葉でときにユーモアを交え、小説(バルザックやジェーン・オースティン)や映画(タイタニック)を引き書いているので読みやすい。経済書ではあるが同時に歴史書だから面白く視野が広がる。」とのことで、そうした内容がさらに多くの読者を獲得することになったのだろう。

現在発売中の『週刊東洋経済』(7/26号)では、この話題の著書の大特集を組んでいる。
全30ページを超える特集の冒頭は、この特集のために著書本人への独占インタビュー8ページが掲載されている。

それによると、この本をまとめ上げるのに15年かかったそうだ。実際の執筆は1年余りだが、データ収集に15年かかっている。

そのデータとは、世界20カ国以上各々の国のそれも実に300年分の所得と資産の変遷という歴史的資料集めについやされた。
それらデータの中には日本も含まれている
そういう意味では、資本主義社会の歴史を実証データに基づいて語っている書なのだ。

実証データに基づいた資本主義社会における格差については、小沢雅子による『新・階層消費の時代〜所得格差の拡大とその影響』(朝日文庫:89年刊)がある。
バブル経済全盛の消費論ブームに浮かれていた80年代半ば、当時、日本長期信用銀行の調査室に勤務していた小沢は、政府公表の各種統計データを駆使して周到に消費社会を実証分析し、既に所得格差の拡大が進行しつつあり、今後ますます進展するだろうことを証明してみせた。
 
ピケティの書は、21世紀の今日、それを世界20カ国、300年分の規模によるデータを使って語っているのだろう。

以下は、東洋経済掲載の本人への独占インタビュー記事の要約。


(1)「私は資本主義を否定するつもりはない。民主的な制度により、きちんと管理がなされるなら、もちろん受け入れる。私有財産や市場のシステムは基本的に個人の解放や自由を可能にするものだと思っている。
資本主義の力はイノベーションや経済成長、生活水準の向上を可能にするもので、それ自体はすばらしいのだが、当然ながら道徳的な規律というものがない。」
(2)「資本主義と民主主義はまったく同じものではない。不平等や私有財産それ自体が悪ではなく、資本主義のポジティブな力は、公共の利益のために利用すべきだ。」
(3)「この本がいろいろな反応を引き起こしたということに私はとても満足している。本の目的は議論を巻き起こすことだったからだ。必ずしも皆が私の結論に賛成でなくともいいと思っている。」


3年前、デヴィッド・ハーヴェイ『〈資本論〉入門』が発売されたが、 今年に入り、ドイツでベストセラーとなったというミヒャエル・ハインリッヒ著『『資本論』の新しい読み方―21世紀のマルクス入門』(堀之内出版)、マイケル ウェイン著『ビギナーズ『資本論』』(ちくま学芸文庫)なども刊行されている。

昨今では、大型書店に出向くと、思想コーナーには意外なほどマルクス関連の新刊図書が数多く刊行されているのに驚く
ネグリ&ハートによる帝国・マルチチュード・コモンウェルスなど、21世紀的なアプローチや視点も貢献しているような気がする。

私自身、70年代前半に大学生活を過ごしたので、ご多分に漏れずマルクスの著書は代表作数冊にはいささか親しんだ人間だ。その理念や考え方(疎外からの人類の解放)、社会学的な分析方法(いわゆる唯物弁証法)には随分と影響を受けた。
しかし、マルクス主義とは無縁で、学生運動に参加したこともない人間だ。
それでも、いまだに彼の著書(文庫)は捨てられず、いつでも手の届く書棚にそのまま並んでいる。

昨今の状況についてマルクスがブームだとは思っていないし、そうなって欲しいとも特に思ってはいない。
しかし、彼の歴史的な業績は、イデオロギーへの憎悪や嫌悪感、色眼鏡がなくなった今、その理念、資本主義社会への透徹した分析は評価されてしかるべきなのだ。


ところで、4〜5年ほど前、出版業界で一種の二ーチェ人気(ブーム)があった。まさに二匹目や三匹目のどじょうどころか雨後の竹のごとくニーチェ関連本が続々と書店に並んでいた。
そうしたブームについて書いたブログ「このブログを見よーーニーチェ人気に寄せて」の中で、私は以下のように述べた。

「現実としての社会主義は、既に歴史の審判が降りているが、「理念としてのマルクスその人と理念」は、未来に蘇る可能性がある。」

また、ニーチェブームと前後し、プロレタリア文学を代表する小林多喜二の小説『蟹工船』が同じようにベストセラーとなり、蟹工船ブーム現象といわれ、その後にさらに映画化までされたことも記憶に新しい。

21世紀となり10年余りがすぎた今日、フランスをはじめ、欧米では格差社会への反発から貧困層がデモを行い、米でも「ウォール街を占拠せよ」運動が起こり、つい先日のW杯開催国ブラジルでも、格差や不平等などへの反対デモがあり、格差は世界的な問題となっている。

昨今では、テクノロジーの発達もあり、20世紀的な工業社会でスタンダードとされた労働形態ではなく、21世紀に最適化された働き方への模索や胎動が始まっていると思っている。

私は、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』に叙述されたように、「今日はこれをし、明日はあれをし、朝には狩りをし、午後には魚をとり、夕には家畜を飼い、食後には批判をするということができる」(岩波文庫)ような、そうした労働(就労)形態はテクノロジーがもたらす社会として、数年を経ずして到来するだろうと想像してみる。

そして雇う(搾取する)側と雇われる(搾取される)側という経済社会がなくなるような社会システムが実現されれば、その時こそ真の意味での人間の歴史が始まるのかもしれないとも夢想する。

ベストセラーとなったジャック・アタリ『21世紀の歴史〜未来の人類から見た世界』によれば、そうした世界の問題を解決するために、「超民主主義」が2060年ごろ(約半世紀後)には到来すると予測(推測)しているが、はたして世界は本当にそうなっているだろうか?


(関連リンク)
▼週刊東洋経済7/26号特集「『21世紀の資本論』が問う中間層への警告」

▼「21世紀にマルクスはよみがえるか」

▼『21世紀の資本論』の衝撃〜フランス田舎暮らし(35)

▼ピケティ:「21世紀の資本」イントロダクション

▼“アベノミクスは格差社会を助長する” 欧米で話題騒然の『21世紀の資本論』 日本の将来にも警鐘



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新しい働き方への模索〜女性が提唱し、実践し、牽引するワークスタイル

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私的公開日誌@ウェブ暦:140402.01

現在、世界中のあらゆる情況や局面でパラダイムシフトが進行しつつある。

しかし、21世紀の今日でも、“先進国の日本”は20世紀的な社会環境の働き方が隅々にまで根を張っているようだ。
男女雇用機会均等法が施行され、なんと28年たっても、依然として変わらない進歩のない停滞ぶりの社会環境の原因は一体何なのだろう。

昨年、英エコノミスト誌で、女性が働くの遠慮したい国として、調査対象26カ国中25位だった日本。同じく、ダボス会議を主催する世界経済フォーラム(WEF)が、世界136カ国を対象に、男女平等の達成レベルを経済、政治、健康、教育の4分野から評価した「国際男女格差レポート2013」を発表し、136カ国中105位、しかも調査を開始していらい過去最低のランクという状態だ。

ここ数年、「ワーク・ライフバランス」という言葉をよく耳にする。

総務省も、2007年に策定(10年改定)に「仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)憲章」し、官民あげて推進に取り組んでいるが、はかばかしい成果について報告を聞いたことがない。

昨年(14年)、総務省もワーク・ライフ・バランスの推進に関する政策について、全体としてどの程度効果を上げているかなどの総合的な観点から、政策評価を初めて実施して資料を公表した。
しかし、14指標の数値目標への到達状況をみると、現時点において数値目標の水準に達したものは1指標しかないという惨憺たる結果で、やはりまったく成果があがっていない。

つい先日、私が参加している10 over 9 reading clubという読書会で、『アグリゲーター 知られざる職種 5年後に主役になる働き方』(日経BP社:13年刊)という本を読んだばかりだった。

ところで、こうした21世紀的な働き方が注目されだしたのは、ダニエル・ピンクの『フリーエージェント社会の到来―「雇われない生き方」は何を変えるか』(02年ダイヤモンド社)が刊行された頃からだろう。

もちろん、在宅ワーカーとかテレワーカー、あるいはSOHOなどと呼ばれるような働き方は、すでに20世紀から存在していた。

09年に佐々木俊尚『仕事するのにオフィスはいらない』 (光文社新書) が嚆矢となり、12年刊の本田直之『ノマドライフ 好きな場所に住んで自由に働くために、やっておくべきこと』(朝日新聞出版)あたりから昨年夏ぐらいまではノマド(ワーカー)という言葉が連日ネットで話題だった。

ノマド仕事術、ノマド思考、ノマド出張術などなんでももノマドとつける書籍が、一時は書店に溢れていたほどだ。

ほかには、女性が著した話題の本としては、12年リンダ・グラットンの『ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉』(プレジデント社)、13年フェイスブックCOOのシェリル・サンドバーグ『LEAN IN(リーン・イン) 女性、仕事、リーダーへの意欲』(日本経済新聞出版社)、最近では、これまでの主婦とはまったく異なる新世代の主婦の価値観を提示しているエミリー ・マッチャー著『ハウスワイフ2.0』(文藝春秋)などの邦訳書が話題となっている。

印象としては、ここ数年は特に女性側からの自分たちの考える働き方や生き方、あるいは価値観の主張が強いように思う。

結局、男性はいつまでたっても仕事のスタイルが変わらない、変えようとしないからだろう。


■私の30代の頃を振り返って

先週末(3/28)、「奥田サロン」に参加してきた。テーマは「新しい働き方」だった。

奥田さんが最初に起業したとき、今日でいう“ブラック企業体質”な会社してしまったことが、いまでも悔やまれるような口調の件があった。

これは、私にも十分に理解できることだ。

私もサラリーマンをやめて働き出した頃(30歳)は、同じように月月火水木金金という情況で休みがなかった。むしろ好きな仕事をしているのだから、休むということをしなくても平気だった。

誰かと食事をしていても、入浴中でも、布団に入ってからも、四六時中、とにかく仕事のことだけを考えていた。

しかし、5年ほどそうして働いていると、それが当たり前になり、早く家に帰れるのにもかかわらず、意味もなくオフィスに残っていた。そうした時間の過ごし方(=働き方)が慣習となってしまし、早く帰宅しても何をしたらよいのかわからなくなっている自分に気づいた

サラリーマンの頃は、残業をほとんどしたことがなく、会社にいつまでも残っている同僚や上司を尻目に、アフターファイブには興味のある様々な勉強会へあしげく顔を出すような生活だった。

それが自分で仕事を始めてみると、なんと会社に意味もなく残っているかつての会社の人たちと自分が同じようになってしまったのだ。

一旦そうした生活が染みついてしまうと、そこから抜け出すのはなかなか大変である。


■テクノロジーが変える仕事のあり方

21世紀になり、テクノロジーの発達が加速している。

世界的な通信インフラの拡充、ソーシャルメディアの発達、クラウド環境利用によるビジネスなどが、新しい働き方をもたらしつつある

例えば、東京、北海道、九州に各々住んでいる人たちが、一つのプロジェクトに関わって業務を推進していくようなことも、今日では可能である。こうした仕事の仕方は、都市と地方との限定されない。日本と世界中とでも可能である。

スタートアップでは、本人は日本にいてほかの開発スタッフは各々米国、スペインなどにいるような業務の進め方が可能で、定期的な会議やコミュニケーションなどはSkypeを利用して行っている。

地方の動向では、福井県鯖江市の地域活性化コミュニティのビジネスコンテストを開催するなど手伝っている友人もいる。そうしたコミュニティには、ITベンチャー、起業家、コンサルタントなど、多様な人たちが結集している。

先日も、長らく都内で仕事していた友人がいきなり四国に会社ごと引っ越した。最近、四国もそうした新しい地域活性化の動きが活発化している。

こうした働き方が可能なのも、今日のテクノロジーの進展の恩恵である。

また、クリエーター、特にイラストレーターであれば、描いた作品でホームページを作成しfacebook、Twitter、TumblrのようなSNSなどと連携させれば、国内はもちろん全世界中の人たちに作品を見てもらえる。

これまで、みんなが一カ所に集まって仕事をするというのは、20世紀的な経済発展(資本主義)がもたらした一つのワークスタイルだろうと思う。

こうした働き方は、分業と生産性能効率がそれで担保されていたことが要因だろう。

反対に、同じ所に集まって働くことによる効果というものも一方ではある

みなで休憩中、その茶飲み話から新しいアイデアが生まれる。あるいは、夜の酒の席でみなで話し合っているうちに新しい製品、新企画や新事業のヒントが見つかるといようなことは、多少なりとも誰でも経験があるだろう。

日本は、高齢化社会がますます進行していく。

企業、組織などは、いまだに多くは老人(男性)が意志決定権も予算も握っている。若い世代は頼りがないと称しては、いつまでも任せることができずに居座り続けている。残念ながら、そうした組織ではいつまでたっても変わらないだろう。

新しいワークスタイルは、女性が提唱し、実践し、牽引していくことにより、否応なしに男性も変わらざるを得ない情況に追い込まれるだろうと私は期待しているのだ。


「今日はこれをし、明日はあれをし、朝には狩りをし、午後には魚をとり、夕には家畜を飼い、食後には批判をするということができる」

上記は、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』に叙述された有名な言葉であるが、そうした就労形態はテクノロジーがもたらす社会として、数十年後には到来するだろうと想像してみる。


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【書評】現代の「パンドラの箱」─『21世紀の歴史―未来の人類から見た世界』に寄せて

私的公開日誌@ウェブ暦:140320.01

残念ながら、今回の「ビブリオバトル」では負けてしまった。

今更なにをと冷笑されるのを覚悟してこれから書くのだが、ジャック・ アタリの『21世紀の歴史―未来の人類から見た世界』をようやく読んだ。
 
今回、読むきっかけとなったのは、私が参加している10 over 9 reading club」の前回の集まり(太刀川さんのレクチャー)で、その選定図書4冊の中から、読むべき1冊として自分自身で選択したからだ。
この350ページちかい大著は、現代の「パンドラの箱」的な書である、というのが私の印象だ。

原著は2006年に刊行され、日本では08年に邦訳が出版された。この間、07年にこの書に感銘を受けた当時のサルコジ仏大統領は、すぐに「アタリ政策委員会」を立ち上げた。また、当時すでに進行しつつあった米サブプライムローン問題は、その翌年(08年)リーマン・ショックとして全世界を震撼させた。

09年のGWの真っ只中、2日間にわたってNHKスペシャルでジャック・アタリへの緊急インタビューが放送された。ちょうど暴走する金融市場からリーマン・ショックが起こり、さらにはその後に起こった数々のテロ、携帯電話の進展、ノマドの出現、気候変動など、原著刊行当時(06年)にそうした言葉が列挙されており、あたかも一種の“予言書”のようなイメージを想起させたことも、この書の売れ行きにさらに拍車をかけたのだろう。

そのおかげか、テレビインタビュー放送の翌日、Amazonのベストセラーランキングではなんと1位となり、テレビメディアは強しと実感したほどだった。
また、当時の民主党代表の鳩山、自民党の麻生なども購入したようだが、はたして日本の政治家の“素晴らしい教養”とおつむでどの程度理解できたかは、その後の政策をみれば自ずとわかろうというものだ。

その後も同書は版を重ね、国内で刊行されてから既に6年を経過しているが、都内の大型書店ではいまだに平台に積んであるほど売れている。たぶん、アタリの書籍では日本で一番売れているだろう。

さて、私がこの本を選んだのには、2つの理由がある。


■選んだ2つの理由

第一に、学生時代にドイツ古典哲学から影響を受けた私は、ヨーロッパ的知の伝統に尊敬の念を持っている
18世紀にカントが出現して以降、1930年代のフランクフルト学派(ベンヤミン、アドルノ、フロムなど)まではドイツ、第二次世界大戦後はフランスが世界の知軸となっている。これまで、両国は哲学・文学などに限らず、様々な学問分野で多彩な思想家を輩出し続けている。私は、こうして連綿と続くヨーロッパ的「知の苗床(土壌)」が大好きだ
先月のセッション読書会でチョイスした図書が、カントの『永遠平和のために』であるのも奇縁を感じる。

第二に、もとよりアタリを知ってはいたが、実際にはこれまで彼の本を読む機会がなかった。
“現代最高の知性”とも形容されているアタリであるが、アカデミックな人なのだが、デリダ、ガタリのような生粋の知識人というわけではない
30代半ばで、ミッテラン政権下では補佐官となり10年も務めた。ベルリンの壁崩壊後は「欧州復興開発銀行」の初代総裁に就任、その後はNGO「プラネット・ファイナンス」を創設し、政治や政策、経済の実務経験も豊富な人物で、あのグラミン銀行のユヌスとも親交もある。
また、オランド現仏大統領政権下でもアドバイザーを務めている。


■本書の概要
本書は、扱う対象が国際政治や国際経済を軸としているが、基本的に“未来についての歴史書”である。未来からの視座(2100年)で、そこから21世紀を振り返る(概観する)という構成となっている。なにやら『銀河英雄伝説』的だが、もちろん後世の歴史家による記述という体裁ではないので、現在から未来を語っているので実際には予測(推測)を綴ることになる。

第一章では人類の歴史を概観し、第二章では人類の発生から今日の資本主義社会までの発展史を「中心都市」に基づき時代区分ごとに述べていく。第三章では、20世紀後半の支配的な帝国として君臨し続けてきた米国が、もはやその威光(威力)を維持することが困難で、やがて衰退の道をたどることが語られている。

本書の中心課題は、もちろん第四章から第六章までである。ここで来たるべき21世紀のこれからの大転換の“歴史”が語られる。
最後に、付論として自国のフランスについて書かれている。

また、日本語版への序文のほか、いまだに版を重ね続けていることもあり、本編の後には09年、11年と二度にわたるアタリの来日時の状況や反響などについて、訳者の追記として収められている。


■21世紀を襲う「3つの波」
21世紀は、全世界を3つの大きな波に襲われるというのが、アタリの主張(予測)である。

【第一の波】「超帝国」
2035年、「市場民主主義」のグローバル化が進み、その旗振り国だったアメリカ帝国自体が皮肉にもその力を削ぐことになり、世界の諸国家の弱体化がいっそう進展する。それとともに国家を超えた「超帝国」が誕生する。
 
アタリによれば、多極化による国際社会の秩序が2025年までに形成され、アメリカ帝国は2040年までには衰退するだろうが、それより早いかもしれないとも述べている。
東欧の崩壊以降、世界秩序のバランスを担ってきたアメリカは、以前のような国際協調を牽引し維持することはもはやできない。
 
かつてのG7はすでに形骸化しその役割を終え、21世紀の今日では実質的にはG20が代わってその役割を担っている趨勢や事実がそうした情況を雄弁に物語っているだろう。
3月18日、米ホワイトハウスは、3月24、25両日にオランダ・ハーグで第3回核安全保障サミットが開催される期間中、緊急主要7カ国会議を開き、ウクライナ(クリミア半島)問題についてロシア制裁の対応を協議すると発表した。
 
プーチンにしてみれば、さほど気にも留めていないだろう。でなければ、今回の軍事行動には出られなかっただろう。なお、このサミットには中国の習近平国家主席がはじめて出席するが、当然ながらロシア制裁協議には加わらない模様だ。また、G7にロシアを加えたのがG8なのだが、ロシア排除決定的となったとの報道があるが、それでもプーチンは揺らぐことはないだろう。

市場民主主義が、民主主義をも呑み込みながら国家を弱体化させ、アメリカでさえもその前にはなすすべもなく、やがて肥大化した市場民主主義が世界を支配する「超帝国」が誕生するだろうとアタリは語る。

【第二の波】「超紛争」
それとほぼ同時進行で、世界各国、世界各地域で紛争が勃発するだろうと述べる。この20余年間でも、ソ連邦崩壊による東欧の民主化の嵐の中、ユーゴスラビアという国家は内戦をへて四五分裂した。「アラブの春」により中東諸国では混乱と内紛、アフリカ諸国は同じ国家に属しているにもかかわらず、多くの国々や地域で部族間対立による紛争や内戦が激化する一方。
 
今年に入ってからは、タイ政府と反政府勢力との対立と思っていたら、ウクライナの内紛が発生し、状況次第では国家の分裂やチェチェン共和国のような内紛状態に発展しないと誰が断言できるだろうか。

さらに、一見安定しているように思える先進諸国でも、スペインのカタルーニャやバスク、カナダのケベック州などの独立運動は有名だ。アジアに目を移せば、インドのカシミール地域の分離独立、チベットの独立、最近のウイグル族(自治区)、そして台湾と中国だけでもこれだけ独立や内紛の火種や問題を抱えている。
 
このように、内紛、内戦と分裂、地域紛争や分断が世界中いたるところで進行しつつある。
アタリによれば、こうした情勢ですら前哨戦であり、さらなる紛争や地球規模の動乱勃発の可能性を秘めており、そうした状態を「超紛争」と呼んでいる

【第三の波】「超民主主義」
こうした第一、第二のような破壊的な波により、人類がその歴史に終止符を打つ前に、第三の波が押し寄せてくる。それが「超民主主義」で、2060年ごろとアタリは予測している。
 
そうした新しい歴史を牽引するのが<トランスヒューマン>と言われる人々や<調和重視企業>などだ。 
それは、利他主義者たちであり人道支援や善意と慈愛に満ちた人々や組織(集団)であり、次世代によりよい世界を遺そうとする
ビル・ゲイツと妻をはじめ、世界的な富豪は社会貢献や慈善活動に熱心だ。またグーグルのような企業は、教育や社会の役に立つようなプロジェクトに力を注いでいる。
 
国内のスタートアップも、最近では儲けること以上により良い社会づくり、人々のためになるようなサービスを作りたいという情熱に突き動かされている若い世代が増えているように感じている。
グラミン銀行に代表されるマイクロファイナンスやフェアトレードの新しい動きなどは、まさにそうした調和重視の活動の代表例だろう。


もしも最後の(3)がなければ、本書はただのペシミストによる「警世の書」にしかならなかっただろう。楽観論(希望)で人類の希望が語られているという点では、まさに「パンドラの箱」的な書である。
訳者のおかげもあるのだろう。本書は難しい哲学や思想の言葉ではなく、極めてジャーナリスティックなセンスで綴られている

米国などでも、『ベスト&ブライテスト(上・中・下)』(朝日文庫)で知られ、ピューリッツァー賞を受賞した著名なデイヴィッド・ハルバースタム、最近では銃・病原菌・鉄ー1万3000年にわたる人類史の謎(上・下)』(草思社文庫)で同賞を獲得したジャレド・ダイアモンドのように、日本のジャーナリストと欧米のそれとは随分と異なる。
悲しいかな、我が国では大手メディアでも未だに“イエロージャーナリズムの心性”に浸ったままな人たちがほとんどという情況だ。

欧米のジャーナリストには、学者や知識人なみ博識さと情報、鋭い洞察力と透徹した思考を有する人たちがそれなりにいる。卓抜な知識と情報、その旺盛な好奇心で執筆活動をする立花隆のようなジャーナリストが著した書だと言えばわかりやすいだろう。


■オプティミスト vs ペシミスト

この本を読んで感じるのは、月並みな言い方だが「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という格言だ。
 
結局、世界は1648年の近代主権国家誕生を促したウエストファリア条約以降の世界(主権国家の集まり)が、21世紀の今日でも続いているということである。それは当時は欧州大陸だけのものであったが、350年近くを経てアジア、中東、アフリカなど、あまねく世界の隅々にまでグローバリゼーションという状況を呈している

それにともない、民主主義も世界を覆い尽くしている。民主主義とは多数決などと小学校で教えられるが、独裁国家だって多数決なのだ。民主主義とは、ちょっと歴史を勉強すれば、それが個人の権利を獲得してきた長いプロセスなのだということがわかる。
 
本書でも、いかなる時代であろうとも、人類は他のすべての価値観を差し置いて、個人の自由に最大限の価値を見出してきた」と序文でアタリは述べている。そういう意味では、民主主義とはきわめて「自己チュー」な思想だともいえるだろう。

悲しく残念ながら「超帝国」と「超紛争」はすでに世界中いたるところで進行しつつある。
アタリの語る「超民主主義」は、利他主義者たちであり人道支援や善意と慈愛に満ちた人々や組織(集団)である。それについては、アタリ自身も願いや期待という言葉を使って希望として語っているのはオプティミスト過ぎるという人もいるだろう。
日本を含め、その種はすでに世界中で芽生えつつあるように感じられるのは、はたして私だけだろうか(こちも希望的だが)。

大好きな「新スタートレック」(24世紀)の世界観(宇宙観)の中では、アタリの言う「超民主主義」として、人類は惑星連邦の一員として描かれている。私もそのような世界が到来するだろうことを切に願っている。 

この書は、歴史を研究し、進行しつつある現代への深い洞察から、来たるべき未来を予測(推測)している。
もし、歴史を学び、世界を俯瞰して世界視点による今日のグローバリゼーションについて考えたいと思う人は、本書がその一つの視座(道標)を与えてくれるだろう。しかし、それはあくまでも一つの考え方であり視点である。読んで知るのだけではなく、思索を深めたい人向けの本だと思う。

教養を高めるとはそういうことだ。歴史(歴史学)を学ぶのは、単に歴史を知ったり理解するためではない。その学を通して歴史学的な認識、視点(見方)、思考力を自己自身の内に養うためである。
それは哲学、文学、社会学、物理学、数学など、いずれの学問でも同様である。その範囲内で必要な知識に過ぎない。知識量の多寡は、そうした点から考えるべきである。

なお、本書に関連したアタリの書籍を2冊紹介しておく。
アタリ唯一の文庫『1492 西欧文明の世界支配』(ちくま学芸文庫。原著は1991年刊)は、400ページを超える大著である。コロンブスの“新大陸発見”が機縁となり、その後の今日の世界構造(文化・政治・経済)の礎をつくり出したことを論証しようと努めている。それを「ヨーロッパ像の捏造」と呼び、西欧史観を根底的に批判する試みである。
最新刊(14年1月刊行)『危機とサバイバル――21世紀を生き抜くための<7つの原則>』(作品社)は、これからも世界を襲うであろう様々な危機に対し、個人・企業・国家がサバイバルするための<7つの原則>について述べたものだ。
これらを合わせて読むことでさらにアタリの考え方や視点への理解を深めることができるだろう。

ところで、最近アタリと並んで読まれているのが<帝国>や「マルチテュード」で知られるネグリ&ハートだろう。現代フランスの知性(アタリ)とイタリアのマルクス主義者(ネグリ)の未来への視点、志向性が類似していたとしても特に驚くにはあたらない。
それらと関連してジョクス『〈帝国〉と〈共和国〉』(青土社)、ジジェク『ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』 (ちくま新書) など、21世紀になって著された書籍群も読むことで、異なる視点からの気づきを得るだけではなく、思索の深化することに資するだろう。

それにしても、先のジャレド・ダイアモンド『文明崩壊(上・下)』(草思社文庫)がベストセラーとなって以降、『国家はなぜ衰退するのか〜権力・繁栄・貧困の起源(上・下)』(早川書房)、『劣化国家』(東洋経済新報社)、『国家の興亡 ‐人口から読み解く』(ビジネス社)、『滅亡へのカウントダウン〜人口大爆発とわれわれの未来(上・下)』(早川書房)、『グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道』(白水社)、『人類5万年 文明の興亡〜なぜ西洋が世界を支配しているのか(上・下)』(筑摩書房)にいたるまで続々刊行されている。

上記の書籍はいずれも翻訳図書なのだが、ここのところこうした国家・文明・人類の衰亡を描いた書が実に多いことに驚く。
西欧人は、21世紀になり、あたかも何か人類全体の転換点を共時的に感じ取っている人たちが、それほどまでに多いのだろうか。是非とも知りたいところである。

そう、考えたとき、日本の繁栄が1964年の東京オリンピックから始まったとした場合、1991年のバブル崩壊までと考えればたかだか27年、経済白書で「もはや戦後ではない」として高度経済成長期の起点といわれている1956年から見てもわずか35年に過ぎない。
これを思えば、歴史の栄華を誇った他の数々の諸文明に比べ、“20世紀の奇跡”とまで賞された日本の発展と繁栄のなんと短すぎることか。



(図書リスト)
▼『21世紀の歴史―未来の人類から見た世界』(作品社)

▼『1492 西欧文明の世界支配』(ちくま学芸文庫)

▼『危機とサバイバル――21世紀を生き抜くための〈7つの原則〉』(作品社)

▼『<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(以文社)

▼『マルティチュード〜<帝国>時代の戦争と民主主義(上・下)』(NHKブックス)

▼『コモン・ウェルス〜<帝国>を超える革命論(上・下)』(NHKブックス)

▼『ネグリ、日本と向き合う』 (NHK出版新書)

▼『〈帝国〉と〈共和国〉』(青土社)

▼『ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』 (ちくま新書) 


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