The Blog Must Go On

インターネット、そこはテクノロジーのフロンティア。 これは、コミュニケーションアーキテクトたる“macume”が、新時代のメディアBlogの下に、21世紀において執筆を継続し、未知のネット世界を探索して新しい情報や人との出会いを求め、永劫進化するワールドワイドウェブに自由に公開した日誌である。

「書評エッセイ」の思想ーー書評と批評のはざまで考えたこと

51bkaYrcEhL

私的公開日誌@ウェブ歴:190306.01

過日、下北沢の古書店散策で宇波彰著『書評の思想』(論創社:2009年刊)という本を偶然にも見つけた。著者の宇波彰の名は知ってはいたが、その著作に接したことはこれまでに一度もなく、本書についても古書店で手に取るまではまったく知らなかった。宇波は、自身のブログ宇波彰現代哲学研究所」も開設しており月に1〜2本程度の更新を行っている。
上記の著書所収「書評のはじまり」のなかで、次のような実にもっともなことを指摘している。

“書評がオリジナルなテクストの単なる紹介・要約であるならば(時にはそれも必要であるが)、書評するものの影は薄くなってしまう。しかし、書評するものの考えだけを示すのであれば(実はそれは不可能ではあるが)、それもまた「書評」ではない。”

宇波は続けてヘーゲルに対するコジェーヴ、フロイトに対するラカンのそれぞれの姿勢(思想や著作などへの思索と著述)が書評のひとつのあり方だと語るのだが、コジェーヴもラカンも未読な私にはわからない。それは「相互主体性」の場であり、隠されている思想を発見・発掘するのが書評の理想だとしている点については納得する。

上記の著書を買い求めたのは、いまの私が定期的に書評を書いているという直接的な理由による。学生時代からおもに文芸批評家たちの著書ばかり読んでいたこともあり、当時は書評に関心をはらったことは実はなかった。ところが自分で継続的に書評を書く、それも個人ブログだけではなく他のメディアにコンスタントに寄稿するようになるにつれ、その書き方や内容について悩みや迷いが随分と出てくるようになった。
そうした個人的な事情もあり、これまでにも当該ブログでは書評のあり方やその内容について考え悩み、自分なりの書評スタイルについて模索や試行錯誤している様子について、その都度つれづれに下記のようにブログを綴ってきた。そうした過程で、こうした実情は私だけではなく、数多くの市井の書評ブロガー諸氏も同様の悩みを抱えているのだということも知った。







吉本隆明は、『悲劇の解読』において、批評は作品となることを永久に禁じられていることが一番の悩みで背理だとまで語っているのだが、書評はそれ以上に作品として成立させることが許されざるもの誰も作品と見なしていないこともまた自明なのだ。
日本における書評は、文芸批評ほどの高みを求めるのは無理なことは百も承知なのだが、都合よく消費される今様の書評ではなく、せめてエッセイと同程度の創作とみなされる感覚や余韻を読み手の読後感や印象としていかに残せるのか、私はどうしたらそこまで高められるのか毎回書きながら思案し続けていた。ビジネス書などについての内容紹介ではなく、私が関心をもっている現在性(情況論)あるいはマーケティング課題に引き寄せて書くことを心がけてきた。

私が書評家ではなく「書評エッセスト」と称しているのは、正直にいえば書評家」と名乗るには実はおこがましいという判断もあったのだが、それ以上に従来的な書評家というイメージに縛られたくないという意志が働いた結果ともいえる。上記(3)では以下のように率直に述べた。

“旧来の金太郎飴的書評の「型」から脱し、新しい21世紀的書評あり方が求められている時期ではないかと思う。
書評のスタイルやあり方にもイノベーションは必要だし、似たり寄ったりの内容では、コンテンツとしてのプレゼンスを高めることもできない。


■書評という「曖昧な」コンテンツ

忙しい現代人にとってさまざまな多くの楽しみがあるなかで、読書というのはそれなりに時間を割かねばならないこともあり、趣味で小説などを読む人をのぞけばやむをえない事情から本を読む人が多いのではないかと思う。それは、仕事や生活上での悩み(切迫し切実な課題)を抱えている人たちが、それを読むことで解答や解決策を得て、そこからなんとか解放されたいという希求があるからだろう。それが、現在の多種多様な自己啓発本が数多く刊行されている理由でもある。紀伊國屋新宿書本店のビジネス書コーナー(3F)へ出向いてみると、刊行点数では自己啓発本コーナーが一番充実している(多い)のではないかと思うほど。もちろん、自己啓発本は自覚症状のない中毒に陥りやすいことも一因だろう。

そうした現代人の書評への要請を代弁している一人は、立花隆だろう。自身は取材とその執筆のための読書なので相当の偏りがあり、かれ自身の書評は新刊案内や他人にすすめたい本の紹介ではないと断りながら、「私の「書評」論」のなかで以下のように述べている。

“週刊誌や新聞の読書欄に私が求めるのは、いま書店の店頭にある新刊書で何が面白いか、何が読む価値があるかという情報であって、それ以上のものではない。”

一般的な書評は本の内容を紹介しすぎだし、さらにその評者の見解や意見などはどうでもよいと。それでも一般の人たちは立花隆とはちがい、詳しく本の内容が紹介されている書評のほうがありがたいだろう。読まずにその内容がわかるのであれば、読むための時間も節約できるしその本を購入せずに出費も抑えられるからだ。また、HONZ代表の成毛眞は「特別付録[HONZ特製]Webで読まれる書評の書き方」のなかで、“書評に個人的な思い入れは不要だ。書き手がどんな体験をしてきた、どんな個性の持ち主かは、読み手には一切関係がない。”と、同じように評者の見解などは不要だと述べている。この二人からすれば、さしずめ私の書評などはもっとも好ましからざる典型になる。

だがもし、本の要約や読みどころ(ポイント)だけを知りたいのであれば、サマリー書評サイトbookvinegarのような書評情報に特化したありがたいサービスがある。しかも、章ごとの重要度、読書時間の目安、その著書に影響を与えた本のリスト、推薦ポイント(評価軸)までもあり、こうしたサービスのほうがほとんど客観的な内容紹介でよほど便利だと思う。ちなみに私の場合、8ポイント以上が読む本の基準。
いずれにせよ程度の差はあっても、その書評に評者の見解なり意見が入り込む余地はどうして避けがたい、と私には思われる。

海外では、しかし事情が異なる。書評そして批評も、イギリスが発祥とされている。
書評も数多く著している丸谷才一は、「イギリス書評の藝と風格について」で、書評が最初は(1)本の内容の紹介からはじまったが、ついで(2)その本の評価という軸が加わり、さらに次元の高い(3)批評性につながっていることを語っている。また欧米では、一般的に書評(bookreview)と批評(criticismまたはcritical essay)とに明確な区別や境界線はない。
一方の日本、書評と批評は別もので前者が格下で後者が格上。前者は(1)がほとんどであり(2)はそれでも多くはないように思う。(3)はむしろ禁じ手とされている。

民俗学者の赤坂憲雄は『書評はまったくむずかしい』のなかで、はじめて書評を引き受けたときに「次元の高い(3)批評性」だと信じて臨んだのだが、それは出版社もだれも期待していないうえにつまらぬ見えない政治に巻き込まれたことがあり、書評は労多くして報われない仕事だと語っている。
書評の困難さについては、吉本隆明も「「書評」を書く難しさ」のなかで、かれ自身が書評で満足したことはなくそれは批評が行う懺悔であり、現在のメディアにあふれている書評は堕落形態のようなものとまで述べている。
上記の赤坂や吉本だけではなく、いわゆる書評家たちより批評家たちの書評に運良く接する機会が私は多くあった。なによりも読みごたえがあるし、これからも批評家たちによる書評を大いに歓迎している。

批評とて、もとよりやさしいものではなくむしろいっそう困難である。
それというのも、たんなる否定あるいは非難することはだれにでもできるが正統な批判や批評はそうはいかない。それには、独自の視点にもとづく思索の軌跡や思考の深化が求められる。かりにだれかの批評文について語る場合でも、それも批評となりうる確立された分野である。だからこそ批評は、小林秀雄や禿鍔饌犬などがいうように、他人あるいはその創作物をダシにしてまさに己(の考え)を語る行為なのだともいえる。また、三島由紀夫は「批評家に小説がわかるか」で、文体をもたない批評は批評ではなく、文体をもった批評は芸術作品であるし、芸術はすべてなんらかの意味で対象(素材)への批評であるとも語っている。
さて、富岡幸一の「批評とは何か」という真摯な思索のなか、次のような言葉に出会った。

“ヨーロッパの文芸批評が「代用神学」であることの意味の深さを、われわれはまだ十分に理解していない。いいかえれば、それは日本の「批評」における神学の不在である。

私は、上記の文章には虚を突かれた。その是否は別にして、読み手に独創的な思索にもとづく視点を提供することこそ、批評精神の豊潤さである。

しかし、書評の難しさは批評とは異なる。そうした奥行きの深さを、出版社(著者も含む)や評者、読者などだれもがむしろ敬遠(遠慮)している。書き方の基本原則(文字数、内容を紹介しその書は原則ほめる、批評行為の厳禁等)はそれなりにあるのだが、本来の意味において書評は確立されたものはなく、規定演技(橋爪大三郎の絶妙な表現)ーーたんに本選びの指針(気軽に消費できる)情報としての重宝さーーが求められている。


■書評の「規定演技」を脱する

書評を自覚的に書きはじめて5年、ビジネス書の書評に注力するようになって約2年余り。今回、遅れてきたドラッカーのたんなる一読者として『ドラッカーの全教え〜自分の頭で考える技術』の書評を書きあげた。ようやく「書評エッセイスト」の名を損ねることがない記事とすることができたように感じている。
社会生態学者を自認していたドラッカーはまた、コンサルティングや教壇で人に教えていても、自分の仕事の基礎は20歳のころから終生変わらずに「文章を書くことにある」と語っていたのだが、それは「洞察し人に伝えることにある」私には読める

ところで、私が書評を書く場合、上記(2)における三カ条のうち「(極意その3)書評する本の選定にこそ、その書き手の個性がもっとも発揮されると心得ること。」が、もっとも重視していることでありがたい教えである。授かったにもかかわらず、「(極意その2)文章に個性は不要。本の面白さをわかりやすく短い文章で伝えて読書を促すこと。」は、まったく私にはできていない。
取り上げる本もそうだが、ありきたりで無難な「規定演技書評」を書くのでは意味がないし、新刊(旬な本)やベストセラー(話題本)の書評は巷のメディアにいくらでもあふれている。その著書についてだれがどのように書評として語ろうとも、それらとは関係なく自分の独自性や価値を著しどのような書き方をすれば、書評エッセイと他者は感じて読んでくれるのか苦悶してきた。

今回、『ドラッカーの全教え〜自分の頭で考える技術』の書評について、寄稿しているメディアの代表から「書評を超えてエッセイとなっているところが魅力」とこれまでのなかではもっと嬉しい読後の感想をいただいた。 また別の友人からは、書評の体をしたドラッカー論」という評を頂戴した。その指摘でハッとして読み直してみる。コーエンの本の内容紹介はわずかで、とくに書評を装った持論を語る意図や意識で書いたのではないが、結局は「ドラッカー論」として確かに展開している。それでも紹介したコーエンの本を読みたいと思う人がいれば、それで書評としての任をはたせたと思う。さらにいえば、ドラッカーを未読の若い人たちには読みたい、既読の年配者には再び読んでみようと感じてもらえたならこれにまさる幸せはない。これで「書評エッセイスト」を名乗っても嘘ではない条件を、ようやく整えたように感じている。

私にとって書評の理想形は、わずかな人文学や社会学の知識、批評家から授かった思考方法、ビジネスでの経験、書評としての自分なりのスタイルとが混然と融解し、それにもとづく思索の結果として私自身がもっとも伝えたいことを文章にして著することだということを、上述の2つの感想から気づかされた。
かつて「書評と批評とを架橋する」ことを理想にかかげ、年来の友人が「超書評」とも形容詞してくれたスタイル、それは書評をダシにしてエッセイを書くことが私にとっての書評スタイルなのだと得心することがなんとかできた。著作内容や著書の考えをたんに紹介するのではなく、その本が内包している「総体」ついていささかでも自分なりに考えたり感じていることを伝えられればという願いでもある。

“批評という自由な営みにもっともなじみやすいのはエッセイという文章形式である。エッセイ(随筆)とは、それが何かについて考える(考えてみる)「試み」としての文章形式であり、筆のおもむくままに随うことを意味するものとして、命名の原義において自由なジャンルなのだから”

上記は、井口時男の「(文芸)批評という言説」の一節なのだが、私はこれに大きく頷きつつ書評エッセイもまたそれに倣うことも可能ろうと。


■「超書評」または「新書評を切り拓く試みと志

私のビジネス書の長い書評について、ブロガーとしても目標としている友人から「ある意味、このジャンルで他が追随できない新境地を切り開きつつあるのでは」という過分な評をいただいた。門前(書評)にたたずんでいたところから、それでもようやくその門をくぐっただけにすぎない。この道をこれからもまっすぐ歩き続けられるか否か、それは私自身の今後の自己研鑽にかかっている。
その友人は、上記(6)で紹介したようにすでに卓越した「書評社会学」の道を切り拓きつつある

故スティーブ・ジョブズ風にいえば、書評エッセイとは「書評とエッセイが交差するところ」にポジショニングされ私なりに「独自性=differentiation」を発揮でき、これが私にとってのコアコンピタンスともいえるだろう。もっとも、これほどの長文で評者の見解や意見を語る書評エッセイは、雑誌はもとよりほかのウェブメディアでもまずは承認されないし、そのまま掲載もしてもらえないだろうことは理解している。掲載メディアの代表からは、書評本の選定やそのほかの記事についてもテーマや文字数制限など、どれについてもなにも指示や要請されることなく自由に書くことを許容してくれているので心から深く感謝をしている。

友人の「書評社会学」も私の「書評エッセイ」も、ともにこれまでの規定演技的な書評を脱して新しい書評を切り拓こうとする試みであり志でもある。それは勝手にいわせてもらえるならば、「超書評」あるいは「新書評」と称するべきなのかもしれないもとより、私や友人の書評への試みと志も、所詮はただの好事家の仕業にしかすぎないことは十分に承知しているが、“孤立無援な書評でないこともまた事実である。たとえ少数であっても、読んでくれる人たちがいること。それが、書き手にとっての“希望であると同時に“感謝”でもある。
欲を言えば、私自身はもっと流麗な美しい筆致による散文的文体で書きたいということなのだが、文学的な才能のない人間の悲しさでこれだけはいかんともしがたい。

ところで、こうした日本的ガラパゴス書評に抗うような新しい試みは、実は以前にもあった。
芹沢俊介が、『「ビジネス書」、時代の欲望』(1993年:時事通信社刊)を著して「ビジネス書批評宣言をした。同書のなかで、その「ビジネス書批評」に3つの条件をあげている。1つは、ビジネス書が扱っているテーマがどのような意味と重さをもっているか。2つは、著者がテーマについて語っていることや理解の仕方を明らかにすること。3つは、その著者が語っていることが的確か否か、さらには課題解決について理路が提示されているか。
同書の書評対象本をいま眺めてみると、現今でビジネス書として扱われている著作群とは随分と違うことがわかる。私は、芹沢のビジネス書批評の継続と進展に大きな期待をいだいたのだが、この1冊だけになったのはまことに残念である。
私の知識と頭脳では上記の3つの条件を満たす批評を書くのは無理だが、それでも彼に倣えば、今回のブログは私の「書評エッセスト宣言」ということにでもなろう。

また昨年、井尻千男の書評集『流行の言説・不易の思想』(1991年:PHP研究所)を、ブックオフでこれも偶然にも手にする機会を得た。著者の名は宇波と同様に知っていたがその著書にふれたことは一度もなく、この本についてもこのとき初めて知った。同書のなかで、井尻は「ベストセラーズを語って社会論にいたるような書評への試みだと語る。いまという時期、この書評本と出会えたセレンディピティに感謝。言い古されていることだが、「偶然は必然である」ということを実感する。

芹沢俊介と井尻千男、二人ともよく知られた(と思う)批評家だが、その試みも日本における書評と批評の格差をなくすあるいは紋切り型書評を刷新するなど、書評全体の発展には残念ながらつながらなかった。両著作とも、出版された時期がほぼ同じころなのも符合している。それは1980年代半ばから90年代前半にかけて雑誌や新聞などに発表したものだ。ちょうど文芸批評の衰退時期と歩調を合わせている「規定演技」を脱した書評で独自性があり異彩を放っているのは、私見で斎藤美奈子の書評だと思える。

さて、私自身は書評について、これでなんとか「若葉マーク」をはずしても恥ずかしくはないだろうという気だけはしている。本ブログが、書評という営為について記事にするのはこれが最後になるだろう。とにかく、書評については自分なりに決着がつき、迷いが消えたことだけは確かである。
それでも、このクオリティで常に書き続けられるか否か、これからはそれが問われるようになる。これに満足や慢心することなく、さらなる思考の深化と文章力に磨きをかけるための自己修養は終生続くだろう。


【おすすめブログ】




━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〓  ShapeWin Blog  〓(PRコンサルティングファーム)

ハイ・コミュニケーション私論 〓(ITmediaマーケティング)

THE ALL TWEET JOURNAL 〓(日刊発行)

“PeraichiLista” 〓(個人ポータルサイト)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

iPhone Cardはすでに開発着手かーーAppleのこれからのイノベーション戦略についての私論

appleinnovate

私的公開日誌@181226.01

林檎道<Apple/Machintosh>の記事を書くのは、実に3年半ぶりのことだ。2008〜2011年まで、アップル社やその製品などに関する記事を年に数回はコンスタントに書いていたのだが、ジョブズ逝去後に書いたのは書評「神のなせる采配か?ーー『ジョナサン・アイブ〜偉大な製品を生み出すアップルの天才デザイナー』」の1本のみ。

これは私自身の問題でもあるのだが、同社や発売される新製品を見て率直になにかを書こうというモチベーションが乏しいことは、どうしても否定できない。輝き(独自性)を放っていたものが、徐々に失われつつあるように感じているのは私だけではないし、ニューヨーク・タイムズ紙のインタビューに答えたピーター・ティールからは「アップルの時代は終わった」とまで“宣告”されてしまうほど。

さて、ここのところiPhoneの新製品(iPhone XS/XS Max/XR)の販売不振のニュースがネット上で連日のように喧伝され、みなさんもおそらく目にしていることだろう。もっとも、むかしからアップルに関するニュースは新聞や雑誌であれば部数増、オンラインであればアクセス数を稼げる“打ち出の小槌的なネタ”なので、それがネガティブかポジティブな情報かにかかわりなくメディアとしては記事化したいという誘惑がある。


■スマートフォンの「日用品化」

iPhoneが発売されておよそ10年。他のデジタル機器メーカーもAndroid OSによるマルチタッチスマートフォンをリリースし、この10年でスマートフォンは完全な成熟市場を迎えた。この間、サムスン(韓国)、エイスース(台湾)、ファーウェイ(中国)などは競うようにして新製品を発売してきた。こうしたグローバル企業群のなかにあって、「蚊帳の外」の日本企業は競争に参加するどころか追いかける余地がまったくないことは悲しい現実である。なかでもなにかと話題のファーウェイ、同社にとっての競合とはサムスンやアップル社であって日本企業など最初から眼中にすら入らなかっただろうことは想像に難くない。

20世紀後半、高機能と高品質で世界を席巻した日本であるが、前者ではこれら新興諸国の企業とその製品群に対して世界市場では競争相手にすらならず、後者ではここのところのさまざまなメーカーの相次ぐ品質検査の偽装問題が発覚し(これにも横並び意識が働いた組織の恐ろしさ)、今日では長年培ってきた国際的信用を落とすことにせっせと貢献するほどにまでなってしまったことが、だれでもがに情けない情況だと感じているだろう。

さて、初代iPhone(2007年)の画面サイズは3.5インチ、iPhone5(2012年)では4インチ、iPhone6と同6Plus(2014年)は前者が4.7インチで後者は5.5インチ(千円札とほぼ同等サイズ)、これ以降もこの2つの画面サイズは継続し、今回(2018年)発売のiPhoneXS/XS Max/XRでは、XSが5.8インチでXS Max6.5インチ、XRが6.1インチと大型製品ばかりが発表されていることには呆れてしまう。
これはアンドロイド系も同様で大画面製品ばかりだ。確かに大画面が見やすいことは誰も否定のしようがない。あの大画面に慣れてしまうと、もう小さな画面に戻ることはできないと思う。しかし、携帯性(ポケットに入れて持ち歩く)が損なわれていることもまた事実。ユーザーは大画面を歓迎する一方で、携帯性が失われていることに不満を感じている気がする。

要するに、ユーザビリティはスマートでも、片手では操作できないほど大きくなったことでもはやスマートフォンという名称に相応しくないという課題。しかも、端末の価格もiPhone、Androidのいずれも高価格化している。デジタル製品は、テクノロジーの恩恵でよりコンパクトで高機能ながら低価格化するものという一般的な方向性とは真逆である。こうした状況から、「「スマホが高い」と強く感じ始めた2018年」「アップルの2018年は価格アップの1年」などの記事を目にし、その通りだと得心している人も多いにちがいない。

こうしたユーザーの気分や雰囲気について、私は「大型化するスマートフォンの悩みとその行方について考える」という記事を寄稿したばかりだったので、ご関心のある方々はあわせてご一読を願えれば嬉しく思う。


■岐路に立たされているアップル社の苦悩と迷走

2007年のiPhone、2010年のiPad発売して以降、アップル社では新しく革新的な製品を発表していない。同社は企業設立以降、競合他社には関係なく常に独自性(Differentiate)が同時にイノベーションを発揮し続けてきた原動力にもなっていた。ところが、最近ではそれが損なわれ(喪失し)つつあるような気がしている。私自身、根っからのアップルネイティブユーザーで、最初のMac利用からすでに約四半世紀にもなる。
アップル社というのは、消費者(ユーザー)が「ワオ!」と言いたくなるような製品を発売してくれるものという期待がどうしても大きくなってしまう。常にイノベーティブな製品を発表する企業、それこそがアップル社だと宿命づけられそのように思われている難しさがつきまとう。

そうしたことを象徴するように、マーケティング戦略のミスを指摘する下記のような記事がメディアを賑わせている。


(1)は、私もiPhone SEユーザーなので実にごもっともな指摘だと頷くしかない。iPhoneの新製品群が販売不振な事情は(2)のような記事が象徴的で、こうしたありきたりなどこの企業でも打つような「カンフル剤」を同社はこれまでに実施したことがないはずだ。(3)も2020年に開始される5G(第5世代移動通信システム)に出遅れ、その結果として市場でのプレゼンスやシェアを低下させる一因となる可能性もある。


■マーケティング戦略を転換

アップル社には、ジョブズが1997年に同社に復帰して以降、革新的な製品群を次々とデザインし「ジョブズの精神を体現している後継者」のはずジョナサン・アイブ、一貫してマーケティング担当してきたフィリップ・シラーの2人がいるにもかかわらず、最近の同社が迷走していることに誰でもが疑問を感じているだろう。

「iPhoneはなぜこんなに高くなったの? スマホ業界2018年振り返り」によれば、富裕層を対象にした高級ブランドイメージを訴求する戦略に転換したらしいとのことだが、私自身はそれを直接確認できているわけではないし、「2018年Appleハードウェアを、フィリップ・シラー氏のコメントともに振り返る」を読んでもそれはわからない。
もし、富裕層を相手にするマーケティング戦略に転換したのであれば、上記記事のなかで私が述べた“The Smartphone for the Rest of Us”という、きっとジョブズだったら言ったであろう開発理念にそぐわない。

両者には、1997年ジョブズが同社に復帰後に行った最初のミーティングにおいて語った「アップルとはいったい何者で、この世界のどこに居場所があるのか」をもう一度思い起こして欲しいものだ。とくに、アップル社退社するつもりだったジョナサン・アイブは、このジョブズの開いたミーティングで残る決意をしただけになおさらである。もちろん、現CEOのティム・クックも同様に。


■これからのアップル社のイノベーション戦略私論ーーiPhone Card開発にすでに着手か

さて、アップル社はイノベーションをそれでも継続し続けなければならない企業として、今後どのような方向性(戦略)が考えられるだろうか。
現在の製品群(iMac、Macbook、iPhone、iPadなど)とサービス(iTunes、iCloudなど)のほか、同社がこれから注力するビジネスは3つだと考えられる。

第1はAIで、おそらく最優先分野だと思う。先行するアマゾンとマイクロソフトの2社AI市場シェアのほぼ半分を占めていて、この2強を追いかけているのがグーグルとIBMだが、成長率だけで考えればマイクロソフトがトップを走ってアマゾンを猛追している。これらの企業に比べアップル社はAIでは出遅れていると感じているはずだ。そのAI強化のため、スタートアップのSilk Labをすでに買収している。
第2が、コンテンツのサブスクリプション・ビジネスだ。こちらも雑誌アプリTextureを買収は完了し、2019年前半にはニュースや雑誌のサブスクリプションサービスを開始する予定と報じられている。
第3はモビリティ関連ビジネスへの参入もすでに既定路線だろうと私は判断している。

上記3つビジネス領域において、どのような製品やサービスが提供されるのか興味津々であるが、アップル社らしく一般の予想や想像すらしなかったようなモノあるいはサービスを発表し、ユーザーをワクワクさせてほしいものだ。

ここでは、現製品群それもスマートフォンやパッドなどについてだけの私見を述べておこう。
ここのところ、折りたたみタイプのスマートフォンやパッド(タブレット)端末に関するニュースが話題となっている。スタートアップのRoyoleがちかく折りたたみ式スマートフォン「FlexPai」を販売するとの報道、サムスンやファーウェイだけではなくマイクロソフトまでもが製品化を計画している折りたたみスマートフォン。
米ウォールストリート・ジャーナルによると、すでに5社が折りたたみ型スマホの技術特許を出願しているとのことなので、アップル社でも2020年にはそうした製品を発表するとの“噂”も出ているほど。折りたたみ製品はできればアップル社には避けてほしいのだが、同社でも製品化する可能性は高いだろう。しかし、どこか他社が先に製品を発売した場合、それに追随して製品を発表することになるので、これまでの同社の企業としての存在意義や価値、それにもとづく戦略としてはどうかという判断がある。

ここからは私の推測(想像)が正しければという前提なのだが、アップル社ではiPhone究極の薄さを実現した名刺またはクレジットサイズのカード型の携帯電話機の開発にはすでに着手しており、あとは技術面の問題、マーケティング戦略の課題ーー価格、ユーザーの受容性、市場投入の時期(他社の5G製品が出揃ったころ)などーーだけで、名称はきっと「iPhone Card」だろうと私は思っている。
もし、アップル社が折りたたみスマートフォンあるいはパッドを製品化すれば、よりコンパクトでポケットに携帯できる小さくて薄いて小型の通話(電話)機能に特化したカード型電話機はむしろ必要になるだろう。

また、iPad miniの新製品が2019年にも発売されるとの情報だが、「コンテンツ消費デバイス」としてはiPad miniより一回り小さい7インチ以下の製品で、HL判「平凡社ライブラリー」(文庫と新書の中間)同等サイズの製品化を強く希望する。要するに24世紀以降の惑星連邦で使われているsmall PADD(Personal Access Dsiplay Device)のイメージに一番近いサイズを、私個人が欲しているということなのだ(^_^;)。

そのiPad miniに、イタリアの「iToro」のような最高級レザーを使用した洗練されたケース(カードポケットを配した作り)を使用すれば、カード型iPhoneを入れて常に持ち歩ける。つまり、それだけを持って外出すれば、電話も忘れないで済むということだ。

もっとも同社では、折りたたみ携帯端末はバッグなどに入れたままで、Apple WatchとAir Podsを利用したコミュニケーションを提案してくるだろうし、そうしたマーケティング戦略でこれら両製品で収益拡大を図る計画を考えているだろう。そうした点で、他社に対して独自性を打ち出したマーケティング戦略というのもあり得る。
とくにApple Watchは、より洗練されたApple Braceletとして製品化されるにちがいない。しかし、Apple WatchはまだしもAir Podsは通話ということを勘案すると常時耳に挿入している必要があり、iPodのときのイヤホンとは異なり耳から白いものが垂れているようで、見た目の印象もおしゃれだとかカッコイイという感性は私自身にはない。

2007年の初代iPhone発表のプレゼンテーションーーこれはアップル史上そしてジョブズにとって最高のプレゼンーーで、ジョブズは「数年に一度、すべてを変えてしまう新製品が現れる。それを一度でも成し遂げることができれば幸運だが、アップルは幾度かの機会に恵まれた。」という同社の軌跡、その存在価値をこれからも維持し続けて欲しいとを願わずにはいられない。

いずれにしても、今後とも同社のイノベーション戦略に注視していきたいし、ユーザーが思いもしない「ワオ!」を提供して欲しいものだ。初めて見たPCはDOS-Vだったが初めて触れたのがMacだった私は、それがきっかけでICTビジネスに足を踏み入れることにもなった。ただのいちアップルネイティブユーザーとしては、アップル社のイノベーション精神が今後とも続くことを心より願うものである。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〓  ShapeWin Blog  〓(PRコンサルティングファーム)

〓 ハイ・コミュニケーション私論 〓(ITmediaマーケティングブログ)

〓 THE ALL TWEET JOURNAL 〓(日刊発行メディア)

〓 “PeraichiLista” 〓(個人ポータルサイト)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

年末恒例の「ツール・ド・書店」は大収穫!!! ビジネス書も

ツール・ド・書店2018
私的公開日誌@181224.01

本年最後の連休、街はクリスマスと年の瀬とが重なり人であふれかえっている。今年も年末恒例の「ツール・ド・書店」ーー朝から晩まで、丸1日かけて都内の大型書店(紀伊國屋書店新宿店、ブックファースト新宿店、ジュンク堂池袋本店、マルゼンジュンク堂渋谷店、丸善丸の内本店など)を回ること。ほかに古書店編もあるーーに出張った。2018年最後の書店ツアーは、思いがけぬ大収穫となった。読みたい本ばかりに目移りし、懐事情がゆるせばすべて購入したい本ばかりだったのが、それがまことに困ったことだった(~_~;)。

通常どおり定番コーナー(岩波文庫、講談社学術文庫、同文芸文庫、ちくま学術文庫など)の定点観測を済まし、その後は時間をかけて思想系や人文・社会学系の各コーナーを時間をかけて散策。今回はそれだけでは終わらず、ビジネス書や新刊書コーナーもじっくりと見て回ったことがいつもより大収穫の要因ろなった(^_^)。


(1)『メタサイコロジー論』フロイト:講談社学術文庫/¥950)
定点観測しているシリーズ文庫とはいいながら、それでも見落とすことがあるものだ。今年の年初に発売されていた。歴史にその名を残すような人には、必ず未完の書というのがある。これもその例に漏れない。本書は「フロイト(1856-1939年)が1915年に執筆し、『メタサイコロジー序説』という表題で1冊の書物にまとめることを意図していた論文のうち、現存する5篇と草稿1篇を収録したもの」だそうで、12篇の論文から成るものとして計画されていたうち、1915年3月15日から5月4日までに5篇を『国際精神分析雑誌』で発表。それが本書に収録された5編で「欲動と欲動の運命」、「抑圧」、「無意識」、「夢理論へのメタサイコロジー的補足」、「喪とメランコリー」。

(2)『世界史の哲学 全2冊』ヘーゲル:講談社学術文庫/上巻¥1,609、下巻¥1,361)
かつて、岩波文庫ではヘーゲル主著はほとんど文庫化されていたが、今日では逆にほとんど品切れまたは絶版である。同文庫から現在刊行されているのは、長谷川宏訳『歴史哲学講義 全4冊金子武蔵訳『政治論文集 全2冊』のみ。ほかに文庫では長谷川宏訳『哲学史講義 全4冊』(河出文庫)がある。この新訳の最大の特徴は、「本書は初回講義を完全に再現した『ヘーゲル講義筆記録選集』(第12巻)の全訳を日本の読者諸氏に提供する初の試みで」、また「初回講義(1822/23年)」をもとにしていることである。

(3)『精神現象学 全2冊』ヘーゲル:ちくま学芸文庫/上下巻ともに¥1,836)
2018年というのは、ヘーゲルの本が文庫化された年だった。上記(2)、そしてこの2冊。これは以前文庫だった金子武蔵の訳(絶版)はではなく、熊野純彦による新訳である。それでも金子訳がどうしても欲しい人は、平凡社ライブラリー(全2冊)で買い求めることができる。新訳というと、旧訳後に新しく発見された資料やその後研究成果、、現代人にも理解しやすいように配慮された訳語などもあり、基本的にはわかりやすくなっている“はず”なのだが、そうした新しい訳のすべてが最適とは限らないことも事実だ。本書はどうなのだろうか気になるところ。

(4)『国民論』(マルセル・モース:岩波文庫/¥972)
本書は、フランス民族学で社会学者のマルセル・モースによる、第一次世界大戦後のモースの思索を示す3編の1冊にまとめて編んだものである。モースといえば、やはり圧倒的に『贈与論』(岩波文庫/ちくま学芸文庫)が有名である。恥ずかしながら、本書を初めて知った。

(5)『基礎づけるとは何か』(ドゥルーズ:ちくま学芸文庫/¥1,404
ドゥルーズの初期の未邦訳論考集5本を精選。翻訳は、國分功一郎、長門裕介、西川耕平の3名が担当した新訳。「高校講義をもとにした「基礎づけるとは何か」、ルソー思想全体に取り組んだ「ルソーについてのソルボンヌ講義」、二つの他者論「女性についての記述」「口にすることと輪郭」、「マゾッホとマゾヒズムについて」」の5本を収録。

(6)『<自由>の条件』(大澤真幸:講談社文芸文庫/¥2,808)
ここのところ精力的に本を著している著者。今年は『自由という牢獄――責任・公共性・資本主義』(岩波現代文庫)も刊行されている。しかし、税込みで2.808円という値段は、もはや文庫価格ではない。これまで一番高額な文庫は、同じこの文庫から出ている山城むつみの『ドフトエスキー』(¥2,700)で、同様に文庫の値段とは思えないが、それを凌ぐ高価格だ。

(7)『物語批判序説』(蓮實重彦:講談社文芸文庫/¥2,268)
本書はかつて中公文庫に収められていた本。はじめて読んだポストモダン批評はなんだったか覚えてはいないのだが、この蓮實重彦だった。結局、文体的なこともさることながら、吉本隆明、高橋和巳、福田恆存、小林秀雄などを通過してきた私にはどうしても馴染めなかった。今回も手にして読むのは難しそうな気がするが、それ以上に値段が大きなネックだ。

(8)『小林秀雄』(大岡昇平:中公文庫/¥972)
中公文庫は、忘れたころに嬉しい本を文庫化するので、年に4回くらいは欠かさずチェックする。小林秀雄はいまもって、文芸批評においては屹立している大きな存在。大岡昇平は、成城高等学校在学中に小林秀雄にフランス語を学び、後にフランス文学の翻訳家、批評家・小説家になる。まさに大岡にとって、小林秀雄は師であっただろう。文庫解説が、文芸批評家の山城むつみなのがさらに嬉しい。

(9)『日本の同時代小説』(斎藤美奈子:岩波新書/¥950)
前著『文庫解説ワンダーランド』と同じく、この新刊も同新書シリーズから発売された。昭和から平成へと激動に時代50年にわたる文学的状況について書いた本。

(10)『三島由紀夫 ふたつの謎』(大澤真幸:集英社新書/¥1,015)
こちらも大澤真幸の著書。社会学者の大澤は文学・文芸批評にも造詣が深い。以前にも講談社学術文庫から『近代日本思想の肖像』という、文芸批評家の意義と価値について著しているが、今回は作家論として三島由紀夫を選んだようだ。社会学者が、三島由紀夫をどのように読み込んだのか興味津々。

(11)『ブルジョワーー歴史と文学のあいだ』(フランコ・モレッティ:みすず書房/
みすず書房は、人文学系が困難な現今の時勢にあって相変わらず良書を刊行しているが、価格も同様に高い。
誰もが知っている文学作品を素材として、独自の歴史記述を編み出す著者は、人文学の危機の時代にあって、新たな人文学のかたちを提示する。
「文学批評の偶像破壊者」(ジョン・サザーランド)と称されたモレッティが、社会科学の方法論との融合を目指して打ち立てた、新時代の文学研究と歴史研究の理想型。」というだけに、これは読みたいぞ(^_^)。

(12)『フランクフルト学派と批判理論:〈疎外〉と〈物象化〉の現代的地平』(スティーヴン・エリック・ブロナー:白水社/¥2,592)
ホルクハイマー、フロム、ベンヤミンからアドルノ、ハーバーマス、マルクーゼ等々、20世紀を彩った錚々たる思想家群像を輩出したフランクフルト大学。
「彼らの活動が「批判理論」としてではなく「フランクフルト学派」として記憶されたことが本書の大きな出発点になっている。社会をトータルに対象化し、新たな解放の思想を提示する「批判」という手法は、自家中毒をおこして(否定弁証法)、解体してしまったのではないかという問題意識である。
フランクフルト学派から批判理論へ――。これが本書の大きな柱となる。そこで浮上してくるのは、人物ではなく概念だ。とりわけ、「疎外」と「物象化」に大きな光が当てられる。
批判理論はそもそもプロレタリアートのための「解放の思想」であり、実践と結びついて意味がある。このため本書では「疎外」も「物象化」も簡潔に定義され、読者が現実に立ち向かうための武器として与えられる。」

(13)メディア・社会・世界:デジタルメディアと社会理論』(ニック・クドリー:慶應義塾大学出版会/¥4,968)
クドリーは、メディア理論研究の第一人者ということなのだが、恥ずかしながらそれを初めて知った次第(^_^;)。
「人々はメディアを通じて何をしているのか?現代社会はメディアを通じてどのように秩序化されているのか? Google、Twitter、YouTubeなどデジタル化が進むなかで、メディアと日常生活、権力、社会秩序、民主主義をめぐる分析のための新たな視座やツールが求められている。社会理論を渉猟しつつデジタルメディア社会を分析する、メディア理論研究の最前線。」


さて、今回の散策で欲しいこれらの書籍をすべて手に入れることは、私の現在の懐事情が許さない(~_~;)。
とりあえず購入したのは(1)、(4)、(8)の3冊にとどまった(>_<)。帰宅後、これらの本をどこに収めるべきかすでに悩んでいる。


■ビジネス書の収穫編
今回は、ビジネス関連の書籍も読んでみたい著書が数多くあり、とにかくタイトル、著書や出版社などをメモしてきた。すぐに読みたい著書もあれば、いずれ読まなくては思うテーマの本もある。いつものように邦訳書が多いのは、マーケティングや経営戦略関係の著書ではどうしても避けがたいことなのは仕方がない。
下記のなかでは(1)〜(4)は読むことがマストだと考えているし、ほかの著書については別の日にでも読むべきか否かをじっくりと検討したい。

(1)『サブスクリプション――「顧客の成功」が収益を生む新時代のビジネスモデル』(ティエン・ツォ 、ゲイブ・ワイザート共著:ダイヤモンド社/¥1,944)
(2)『ドラッカー全教え〜自分の頭で考える技術〜』(ウイリアム・コーエン:大和書房/¥1,728)
(3)『Measure What Matters 伝説のベンチャー投資家がGoogleに教えた成功手法 OKR』(ジョン・ドーア:日本経済新聞出版社/¥1,944)
(4)『HUMAN+MACHINE 人間+マシン:AI時代の8つの融合スキル』(ポール・R・ドーアティ、H・ジェームズ・ウィルソン共著:東洋経済新報社/¥2,160)
(5)『センスメイキング』(クリスチャン・マスビアウ:プレジデント社/¥1,944)
(6)『THE CULTURE CODE 最強チームをつくる方法』(ダニエル・コイル:かんき出版/¥1,728)
(7)『NEW POWER これからの世界の「新しい力」を手に入れろ』(ジェレミー・ハイマンズ、ヘンリー・ティムズ共著:ダイヤモンド社/¥1,944)
(8)『デジタル・ビジネスモデル 次世代企業になるための6つの問い』(ピーター・ウェイル、ステファニー・L・ウォーナー共著/日本経済新聞出版社/¥2,592)
(9)『ザ・ファーストマイル イノベーションの不確実性をコントロールする』(スコット・D・アンソニー:翔泳社/¥3.024)
(10)『TRUST 世界最先端の企業はいかに〈信頼〉を攻略したか』(レイチェル・ボッツマン:日経BP社/¥2,160)
(11)『USERS 顧客主義の終焉と企業の命運を左右する7つの戦略』(アーロン・シャピロ:翔泳社/¥1,944)
(12)『マーケティング参謀』(土居健人:クロスメディア・パブリッシング/¥1,598)


みんさん、それでは年末年始は充実した読書時間でお過ごしください\(^O^)/。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〓  ShapeWin Blog  〓(PRコンサルティングファーム)

〓 ハイ・コミュニケーション私論 〓(ITmediaマーケティングブログ)

〓 THE ALL TWEET JOURNAL 〓(日刊発行メディア)

〓 “PeraichiLista” 〓(個人ポータルサイト)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

10月の書店散策最大の収穫!ーー読書好きが持つべき極上のトートバッグ

books_tote

私的公開日誌@181029.01

久々に書店散策のブログ。

今日、雑誌は特別付録(おまけ)がすっかりと定着していることは、きっと誰でも同意するだろう。その付録がほしくて、普段は買うことがない雑誌を手にした経験はおそらくあるはるはずだ。
かつて私が小学生のころ、子ども向けの雑誌(月刊誌)には毎号なんらかの付録がついていた。そうした付録が楽しみだったので、それが復活したようにも感じる。

そうした付録でもっとも多いのがバッグ類だろう。様々なブランドやキャラクターものがおまけとして男女の雑誌を問わず毎号ついている。とくに重宝するトートバッグは、素材の多様性や種類も豊富である。私の自宅の押し入れには、そうしてたまったトートが使われないままいくつも眠っている。

先日、紀伊國屋書店新宿本店で読書好きには極上のトートバッグ「BOOK TOTE」を見つけた。ほかの都内の大型書店(たとえば、ブックファースト新宿店、丸善ジュンク堂書店渋谷店など)では見かけていない。
下げ札にはbook UNIONとある。そう、あの中古レコードやCDを扱っているディスクユニオンが販売している商品なのだ。同店が、ブックオフのように中古書籍の販売に乗り出しているわけではないようだ。

このトートバッグは、厚手のキャンバス生地で寸法 H370×W320×D130mmのボックスタイプのしっかりとした作り、LPレコードが30枚まで入るとのことで、そこがいかにもディスクユニオンらしい。しかし、今日ではそうした目的で使う人は限られるだろう。それだけに、相当の冊数を詰め込んで重たくなっても安心なほどの丈夫さで一生ものの逸品だ。

バッグの表には、種類ほどの読書に関する箴言が英文でプリントされている(写真拡大で確認可)。私は“Life Is Short Read More Books.”を選択した。
外側裏には2つのポケットがあり、単行本(菊版)と文庫か新書サイズの本が各々一冊ずつ入る。内ポケットもあり、文庫または新書が一冊入る。この内ポケットには、大画面化したスマートフォンを入れる人にはありがたいかもしれない。
持ち手は、肩に掛けられるだけの長さと余裕があり長すぎず短すぎず絶妙。またそれとは別に、バッグ本体に楕円形の手で直接持てる部分も設けられている2way仕様で、これも実にかゆいところに手が届く機能だと思う。ビジネスバッグでは2wayや3way(私個人は2way派)は当たり前だが、トートはおそらく少ないだろう。

ちなみに、持ち手ハンドルと肩からたすき掛けできる長さのストラップ付き2wayトートバッグはすでに2つ持っている。これで余分なトートバッグがまた増えてしまったのだが、それでもこれは読書好きの物欲を刺激するには十分だ。それに使い方が万能なトートバッグであれば、いくつあってもかまわないだろう。

以前にも、筑摩書房のロゴがプリントされたトートバッグをブックファースト新宿店で買い求めたことがあるのだがーーちくま文庫セットのトートバッグプレゼントキャンペーンで提供していたものを、その後に期間限定で販売したらしくそれを偶然にも見かけて購入したーー、こちらも読書好きにはマストアイテムで同店でしか扱っていなかった。

とにかく、このBOOK TOTE by book UNIONは期間限定ではなく常備販売ようだ。なによりも読書好きには嬉しい機能的なバッグである。もし、伊國屋書店新宿本店に出かけることがあれば、2F階段A脇に並んでいるので読書好きのみなさまは是非ともチェックしてみてはいかがだろうか。
これで、本に関係するトートバッグはこれで3つになった。最初はAmazonトートバッグ、次いで筑摩書房トートバッグ、そして今回のBOOK TOTE。

<追記>上記のトートバッグの売り場は、現在では2Fレジ前に移動している(2018年12月現在)



【おすすめブログ】
●3月の書店散策の収穫7冊のご紹介
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/1962286.html

●16年師走の書店ツアー、食費を削ってでも購入したい「至福の収穫文庫」この5冊
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/1953324.html

●大型書店も受難時代?ーー大ショック、ジュンク堂新宿店が来月閉店で跡地にえ〜!?
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/1639534.html

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〓 ハイ・コミュニケーション私論 〓(ITmediaマーケティング)
http://blog.marketing.itmedia.co.jp/macume/

〓  ShapeWin Blog  〓(PRコンサルティングファーム)
https://www.shapewin.co.jp/category/blog

〓 THE ALL TWEET JOURNAL 〓(日刊発行)
https://paper.li/macume#/

〓 “PeraichiLista” 〓(個人ポータルサイト)
http://peraichi.com/landingPages/view/macume

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

来たるべきAI Ambient Societyに寄せてーーシンギュラリティ研究所開設記念の講座を終えて(後編)

青山学院大学総合研究所ビル

私的公開日誌@180926.01


前編より続く)


■AIによる経営戦略の「日用品化」とマーケティングにおける「独自性」

AI社会が到来すれば、リアルデータに基づくデータ分析から導かれる最新の経営戦略(これにはマーケティングも含まれる)が常時更新され続けることになり、なにも大企業でなくともそうしたAIが提示する戦略に基づいた意思決定がビジネスでは日用品となるだろう。同一業界や業種、似たような経営資源、同じような製品群やサービスが群雄割拠している製品・サービス市場では、それはもはやAI vs AIが舵を取る企業戦略による戦いの様相を呈することになるかもしれない。

AIによるいくつかの選択肢が用意され、そのオプションからもちろん最終的には人間が判断するのだろうが、どれほど合理的な選択肢を用意しても判断して行動するのは人間なのでその合理性に必ずしも従うとはかぎらない正しい選択肢といえども、人間にとってときにはその決断(判断)が難しいこともある。AIによる経営戦略が常態化して論理的で合理的な戦略だけでは差別化が難しくなったとき、むしろ合理的ではないかもしれない思いもよらぬ人間的な感性や視点(発想・着想)が差別化ーー厳密には独自性=differetiationーーを発揮することになかもしれない。

私は米国の大学の事情に通じているわけではないが、昨今の米国の経営学(MBAなど含む)では最新のデータ分析手法や数理モデルによる経営戦略論が主流で、ドラッカーなどは“過去の人”ということで教えないし学んでもいないというような記事をどこかで読んだことがある。しかし、そうした今日的な最新手法は人間ではなくいずれAIに代替されるだろう。“社会生態学者たるドラッカー”のように人間への鋭い眼差し、社会への深い洞察に満ちた考え方(哲学)こそ、今後も古典としての価値を高めて残っていくし学ばれ続けるはずだ。

なんでもかんでも合理的かつ論理的に帰結(結果)を提示してくれるAIだが、たとえば大学生の就活に活用されるように活用されことを考えてみよう。
だれでも就活時期には悩むものである。就活時、大学だけではなくこれまでの学業成績、適性検査から趣味などもふくめた全データをもとに、その当人にとっての最適な職種や企業をAIが判定して提示してくれるとしたら、人はそうしたAIの診断に従って職業や企業を選択するようになるのだろうか。人間の自由意思はどのようになってしまうのだろうか。就職という一生にかかわる(最近はそうでもないが)重大な問題を、はたしてAIの判断に委ねてもよいものだろうか。いくら合理的かつ整合性があるとしても、はたして人はそれで割り切れるものだろうか。
それによって就活への悩みや問題が解決するとは、私にはどうしても思えない人はいくらでも論理的に思考することはできるが、基本的には感情をもつ複雑で矛盾する不合理な生き物である。

採用する側にとっては、応募者をすべてAIによる書類審査で行えば最終的に絞り込んだ人だけを面接すれば済むという効率だけの問題で、それ自体は大幅な負担軽減になるだろう。ただし、ここで課題となるのが機械に理解できないことのひとつ「相性」(英語では“Chemistry”)というものがある。
これは人間であれば避けられない。たとえば、人間関係で仲良いことを等号式(イコール)であらわすと仮定してA=B、B=CであればACとなる。だが、これは実際の人間関係では必ずしもACが成立しないことは、誰でもが経験的に実感している。人間関係は方程式では計れないからだ。
それでも、最近では「HR(Human Resources)テック」ということがいわれているので、将来にはAIによる人材アセスメント(Human Assassment)が常識になるかもしれない。


■指数関数的成長とかつての宇宙開発競争

本ブログに締めくくりに、シンギュラリティは来ない(避けられる)、AIは脅威たりえないという見解につても考えてみよう
残念ながら、私はこの件については自身で語れるだけの知識や情報に乏しい。私が知っていることといえば、AI研究者で起業家でスタンフォード大学でも講義するほどのジェリー・カプランは、AIは脅威論をしりぞけている一人だということくらいだ。彼は、AIはオートメーションの延長であり、それが人間の仕事を奪うことはなくまた仕事も時代の変化とともに変わる。テクノロジーの進歩でオートメーションの高度化が進んでも、それに代わる新たな仕事が誕生するものだと語っている。産業革命時にも同様なことがいわれたそうなのだが、結局は時代の変化に対応しそれに代わる新たな仕事が誕生(ビジネスと雇用)することで今日にいたっているということも、私たちは忘れてはならないだろう。

スピードと変化の早い今日、ビジョンの見えない状況の中で悲観論と楽観論の言説が飛び交っている。シンギュラリティ教の主張するようなことは、21世紀半ばになってもおきない可能性もある。いずれにせよ、いまよりずっとAIに依存した社会であり、それなしには生活が難しい状況となっているだろうことは推測できるし、それは私が考えている「意図せざるAIによる統制社会」ということになるかもしれない。

しかしながら、このシンギュラリティは来ないという見解について、私はなにがしかを述べるだけの知識も情報もまったく不足している。いずれにせよ、近未来にはテクノロジーの「使い方」ではなく、それとの「付き合い方」という問題が浮上してくることだけは確実だ。
これについては、私の友人であり目標としているブロガー“風観羽”が投稿した「日本的シンギュラリティ待望論を超えて」のブログをお読みいただく方が、私が語るよりずっと示唆と満ちてヒントを得られるだろう。恥ずかしながら、私は同ブログでも取りあげられている数学者の新井紀子著書『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』をいまだに手にしてはいない。

ところで、この問題で私が思い出すのは第二次世界大戦後の米ソ冷戦下における両国とくに1960年代の宇宙開発競争だ。
1961年、旧ソ連が人類初の有人宇宙飛行を成功させ、ガガーリンの「地球は青かった」という名句とともに一躍世界を駆け巡った。米国は同じ1961年、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが1960年代末までに人類を月へ送り込む「アポロ計画」を発表し、その公約どおり1969年7月、人類初の月面着陸(アポロ11号)を成功させ、こちらも「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」というアームストロングの名言が歴史に刻まれた。
一方、1960年代は旧ソ連では金星探査「ベネラ計画」を繰り返し、1970年12月にベネラ11号で人類初の金星着陸を成功させ、米国も負けじと火星探査「マリナー計画」で競うような時代だった。

こうした時代背景を象徴するかのように、1968年のキューブリック監督の『2001年宇宙の旅』が公開された。1960年代後半からみれば、2001年(33年後)は遠い未来で地球軌道上に宇宙ステーションがあり、21世紀ともなればディスカバリー号で木星探査くらい可能なように中学生当時の私には思われた。1980年のSHADOムーンベースは無理だろうが90年代後半にはそれも可能のようにも感じられるほど、米ソの宇宙開発競争は加熱し急速に進歩していた。当時の“指数関数的”な米ソの宇宙開発競争を勘案すれば、遥か未来のことのように思われたが、21世になれば映画のような宇宙ステーションも可能だろうと信じていた。

しかし、実際に2001年を経験してみると、映画と同じような快適な宇宙ステーションもなければムーンベースも実現できていない。さまざまなSF映画で描かれたようなイメージとはほど遠い、今日の私たちの社会やライフスタイルである。もちろんこれは1970年代以降、莫大な予算がかかる宇宙開発が縮小されたこともあるし、3日ほどで到達できる月とは違い火星までは現在の技術でも最低でも90日はかかる。加えて、宇宙ではさまざまな宇宙放射線を浴びるリスクが高いなど、いくつもの困難な要因があることも事実だ。NASAでは「2030年には火星に人類を送る」と発表しているが、それも実現的には難しいだろうと私個人は判断しているのだが……。

つまりなにが言いたいかというと、ある時期にはなにかの要因や理由で急速な進歩をするが、それがそのまま加速度的に持続するとは限らない。どこかの時点で、それが減速する可能性もありうるということなのだ。ある一定の量または質に達すると同様(質的な変化)の現象が起こる。弁証法的量質転化の法則は、何事についてもいえるのだ。これは経済成長はもとより、なにかの習い事(練習)や各種スポーツ競技でも同様で、それがAI開の発達速度ついてもいえるのではないかということだ。
したがって、いわゆる2045年のシンギュラリティが到来しないこともあり得るわけだ。もちろん、かつての宇宙開発競争とテクノロジーの進歩とを同列に語ることができないことは百も承知している。AIが人間の手を離れて「自律的な進化」をするという見解もあるが、それについては私は確信をもって述べることが残念ながらできない。ただし、それでも時期は遅れても遠からずやがてどこかで直面するだろうことは、私個人は否定はできないと思っている


■“Digital Ambient Society”から“AI Ambient Society”へ、そしてコミュニケーションとメディアビジネスの未来

私はここ数年、現在はDigital Ambient SocietyとそれがもたらすCommunication Metamorphoses社会であるとと繰り返し述べてきた。それは常にネットにつながりリアルとオンラインとが融解し、社会生活のあらゆる環境がメディア化され、とくにそれとは意識せずにデジタルな環境に囲まれて生活しコミュニケーションしている状態のことで、それにともなってコミュニケーションも劇的に変化するということだ。
しかし、今後数十年でそれはAI Ambient Societyへと進歩するだろう。つまり、日常生活においてAIを介して全世界と常時接続した利用が常態化している社会=環境のことで、これはシンギュラリティが数十年後に来るか否かにかかわらずそうなる

約10年前(2009年)、私は今日PCと呼ばれているツールは使う人はかなり特殊な人たちだけに限定されるだろうと述べた。一般消費者は、今日私たちが呼んでいるようなPCを持つ理由自体がとくに一般の消費者にとってはなくなるだろうと。この10年で、デジタル端末はPC主体からスマートフォンへと取って代わった。今後はビジネスパーソンですら、人によって業務の必要性から持ってもせいぜい各種パッド(タブレット)くらいになるだろう。
将来、いま主役のスマートフォンですら別のより小型の機器に代替されるかもしれないし、いまの時点ではまったく想像できない機器かもしれない。一般の消費者が生活するにはそれで十分な環境が提供されているだろう。

さて、今後のコミュニケーション(広告・宣伝、PRなど)やメディアビジネス(四大媒体など)はどのようになるだろうか。米国では、ここのところメディア業界の再編が大きなニュースだ。デジタル(インターネット)とグローバリズムの発信源である米国では、ドラスティックかつダイナミックにコミュニケーションやメディア業界も大激変とそれにともなう再編が流動的に行われている。
 
私がまだ広告代理店の傭兵(請負)マーケターだったころ(1980年代後半から90年代前半)に比べると、米国広業界の大変動は凄まじいものがある。かつては、マディソンアベニュー街で群雄割拠していたかつての大手の広告代理店も、今日では世界のメガエージェンシー・グループの「ビッグ4」(WPP Group、Omnicom Group、Ublicis Groupe、Interpublic Group)のいずれかの傘下に属している。これはたとえてみれば、日本でもかつて13行あった都市銀行が、バブル崩壊やグローバリズムの激変で現在の4グループに収斂したのと似た状況だろう。

その善し悪しとは別に、国内の広告代理店業界はこうした大激変に巻き込まれない静かな状況(ひとり蚊帳の外、という見方もできる)とは対照的である。ただし、AIの進展しだいでは、今後の日本のコミュニケーションやメディアビジネス業界も大変動に見舞われることは避けられない。国内も米国と同様に成長あるいは生き残りのため、業界内または業界を超えた再編やM&Aによる統合・合併など可能性は十分にある。

ところで、8月にスマートニュースが研究所の設立を発表した。研究所というと、これまではシンクタンクとも呼ばれて政府や大学、民間(それも)大企業などが創設するもので、各種専門家の英知を集めて調査や研究を行い、コンサルティングから政策提言などもする機関という印象があるだろう。国内の広告代理店でも、大手はみなそうした機関(組織)を有している。
しかし、これからは小さな組織でも研究部門(ラボ)が必要とされるだろう。従来の研究機関のように広く社会の課題や諸問題について総合的に調査・研究をする大きな組織は必要ではなく、自社の事業領域にフォーカスし、かすかな兆候から様々に社会の変化や行く末を洞察して研究したり全体像を描くための部門や人材が必ず必要とされてくる時代になると私は考えている。

啓蒙主義が登場して以降、ある意味では必然なのだが、人は理性的でありすべてについて合理的に考えるものあるいははずだと認識してきたように思う。科学や技術が進展すればするほど、それにつれて人間の精神も進歩するはずだという考え方で、代とは啓蒙主義的な思想は“原則正しい”と暗黙知として受容してきた歴史ともいえる
しかし、今日の世界さまざまな情況を見わたせば、この考え方(認識)を支持する人はもやは少ないのではないかとさえ感じる。人間を理性的な存在ととらえ、その精神(認識)への無謬性を信じる進歩史観はすでに破綻している。人間は太古のむかしから戦争を繰り返してきたし、いまでもそうした人間の愚かしさや不合理な存在であることも、また変わっていないしそれを忘れてはならない。

ポストモダン。我が国では1980年代に誰も彼もが口にした言葉でこれはすでに言い古されたものなのだが、それによって新たな理念を私たちが手に入れたわけではないことはおそらく誰でもが認めることだろう。この考え方は、誰もが当たり前のように受容し信じてきた近代主義的(それは同時に啓蒙主義的)な考え方に異議申し立てをした点では意味があったのだが、それに取って代わる新しい理念を残念ながら創出あるいは提示するにはいたらなかった

いつの日にか、「ノー・デジタル(AI)・デー」という日が制定され、その日には1日デジタルツールをすべてシャットアウトして過ごすというような日が訪れる(制定される)かもしれない。紙の本を読んで、万年筆で革製表紙ノートに手書きする、検索に頼らず自身で思索するなどの行為は、とてつもなく貴重で贅沢なこになるかもしれない。

ところで、片山恭一さんの300年前(18世紀)と300年後(24世紀)の選択だが、私なら迷わず知ることも学ぶこともできない後者を選ぶ。24世紀といえば、『新スタートレック(TNG)』の世界ではないか。それだけでもワクワクする。
今日でも、ハッブル宇宙望遠鏡やNASAが打ち上げた各種探査衛星(ボイジャー、カッシーニ、ニュー・ホライズンズなど)により、これまで定説と思われていた宇宙に関するこれまでの常識を次々と覆し続ける発見や従来の考え方がことごとく変更を強いられているし、天体物理学者や天文学者もそれを認めざるをえないと。
その広大な銀河で、未知の文明や多種多様な生物に出くわす。このシリーズ(『スタートレック/ディープ・スペース9』と『スタートレック/ヴォイジャー』など)では、天体物理学や各種テクノロジーに関する専門用語、ありうるかもしれない宇宙での現象や事象などが中心なのだが、そのテクノロジーの驚異的な進歩とは対照的にどれほどテクノロジーや科学が進歩した時代になっても、人間というのは結局は同じような問題で悩むものだなと実感するしそれがこの作品の魅力でもある。とくに異なる価値観(文化)と出会ったとき、人はどのように決断し振る舞うべきかを見るものに問いかける。つまり、深宇宙における人間としてのありようが描かれているのだ。

(了)


【関連リンク】
AGUSI Media Lab/青山学院大学シンギュラリティー研究所
http://www.agusi.jp/

▼米メディア再編を加速する、3つの力学とは
https://www.yomiuri.co.jp/world/nieman/20171221-OYT8T50027.html


【おすすめブログ】
■人と機械(テクノロジー)の「付き合い方」、そしてシンギュラリティ(技術的特異点)とーーSCHOLAR.professorに参加して
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/1893085.html

■「なぜ微生物学者が地球外生命体を探すのか」に限らない学びと気づきが続々の白熱講義ーーSCHOLAR.professorに参加して
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/1900864.html

■「注目すべき海外先進メディアとトレンド最前戦」に参加してーーメディア"感覚"とその未来について思う
http://blog.marketing.itmedia.co.jp/macume/entry/755.html

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〓 シェイプウィン・ブログ 〓(PR企業ブログ)

〓 ハイ・コミュニケーション私論 〓(ITmediaマーケティングブログ)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

来たるべきAI Ambient Societyに寄せてーーシンギュラリティ研究所開設記念の講座を終えて(前編)

campus_01

私的公開日誌@1809013.01

この4月、青山学院大学にシンギュラリティ研究所が創設され、それを記念した連続による基調講演+講座が終了した。
全6回のうち、日程的な都合でどうしても参加が叶わなかった第3回目(「飛躍的進化を遂げている中国電脳社会」)を除き、すべての回に参加できたことはとても貴重な経験だった。また、講座修了後の楽しい懇親会ではとてもありがたいいくつかのご縁を頂戴した。

現状の私ではこうした場に思うように参加が叶わないのだが、関心の高いイベントやリアルな集まりには従前のように積極的に出席しなくてはいけないと本当に痛感した次第。同研究所ならびに同研究所メディアラボでは、以降も継続してこうしたイベントを開催する予定なのでさらに期待したい。

本ブログでは、その4ヶ月(4〜7月)にわたるこの講演と講座を振り返りながら、いま現在私が感じたり考えていることを総括兼追記的な備忘録として残せればと思う。なお、各回の基調講演ならびに講座の内容についてはすでに記事にしてあるので、いずれか関心ある下記のテーマをご笑覧願えれば大変に嬉しく思う。

<第1回>シンギュラリティ(技術的特異点)のもつ難しさとはーー「シンギュラリティ研究所」開設記念イベントに参加して(4/22)

<第2回>「AIがみずからAIを作りだしたとき」ーーそれが真のシンギュラリティの始まり(5/13)

<第4回>AIと「意図せざること」について——21世紀を牽引するAI都市としての米国シアトルの実情にふれて(6/10)

<第5回>日本語の音声認識が難しいとAI開発者が考えている3つの理由とはーー日本語は世界でもまれで特殊な言語か?(6/24)

<第6回>小説家が示唆する来たるべきAI 社会——人間創成のシンギュラリティに触れて(7/8)

まもなく平成も終わろうとしている。結局、激動の平成(1989〜2019年)は、「失われた30年」として日本の経済的衰退と政治的荒廃の時代として人々に永く記憶されるだろうし、後世の歴史家によってきっとそのように語られるに違いない。“一時的な”経済的停滞という人もいることは理解しているが、世界の変化と進展とを勘案すれば停滞とはすなわち衰退を意味していることは誰にとっても自明でしかない。

この30年間、世界の動きをざっと振り返れば、人類史にとっては大きな歴史的な出来事ばかりだったように思う。
1989年のベルリンの壁崩壊とその後に連鎖した東欧民主化の動乱と混乱、1991年には湾岸戦争の勃発、1993年にはEU(欧州連合)の正式な誕生、2001年にアメリカ同時多発テロ(9.11)とその後のアルカイダ(イスラム教スンニ派の武装組織)による世界中でのテロ行為の頻発、2008年は米国のサブプライムローンに端を発した世界同時不況(リーマンショック)、2010年にはチュニジアにはじまる中東諸国での独裁政権に対する大規模なデモと民主化(アラブの春)に続くアラブ諸国の内紛と内戦。
人類の長い歴史において、ほんのわずか30年ほどの短いあいだにかつて経験したことがないがないだろうほど世界は大激動と大混乱を見てきた。

一方の日本。1970〜80年代にかけてそのすぐれた様々な工業製品で世界をリードし席巻してきたが、1990年半ば以降のテクノロジーの進歩と新興国の台頭で我が国が停滞しているあいだにひとり蚊帳の外に追いやられてしまった。1991年のバブル崩壊とその後に続く長く“失われた30年”(最初は10年はずだったのだが…)、2011年の東日本大震災(3.11)という価値観が大転換するほどの事態も経験した。 

結局、1995年のインターネットの商用利用以後の四半世紀を振り返ると、それまでは世界経済で主導権を握っていた日本だったが、21世紀のデジタル時代においては一度もイニシアチブをとれなかったし、実に悔しく残念なことがら現状を鑑みればこうした状況はこれからも続くことだろうことも明白だろう。断るまでもなく、私だけがそのように感じたり考えているわけではない

要するに、平成時代とはベルリンの壁の崩壊が今日のグローバリズムの礎となり、それは同時に日本社会の衰退への扉を開いたということだ。昭和を郷愁で語るのは戦後生まれの老人だけで、平成生まれの人たちは閉塞感は感じていても良い時代などとはいわないだろう。


■講演者を誰にするかという問題ーー旬な著名人か意外な人か

こうしたイベント、とくに基調講演ではそれを誰に依頼するのかというのはとても重要だ。プロモーション効果やメディアの注目度を考慮すれば、いわゆる“旬(話題)の人物”なら取材対象としてのメディアの食いつき(受け)もよいし、集客にも資するだろうことはある程度は計算できる。なにより、会社の経費で受講をする人たちにとっては、知名度ある人の講演であれば上司の承諾(理解)も得やすい。

今回についてだけいうのではなく、これはまったくの私的な意見なのだが、私はそうした人たちよりむしろ意外な人からの話を聞けるほうが嬉しい
なぜならば、AIに関する著書がありメディアにも頻繁に登場して発言している人たちならそれを読めばよいし、そうした人であればあ講演も引けを切らない。加えて、そうした人はメディアに登場することも多く、寄稿記事やインタビューが掲載されるしその見解に接することも頻繁にある。したがって、その人のスケジュールの調整や講演料などをのぞけば人選も楽だろ。

それに比べ、意外な人選にはまず企画力(目利き的なセンス)が問われる。参加者にも提供できる価値がずっと高いだろうと私は考えている。たとえてみれば、ラジオでヘビーローテンションしているにもかかわらず、リクエストが多いからとヒットしている楽曲をただオンエアするだけのDJと、そうしたことには関係なくDJ独自の好みや選曲センスに基づいて曲をかける人のとの違いといえば理解しやすいだろうか。

今回の講演でいえば、それは最終回の片山恭一さんだろう。ほかにも、個人的には作家で話を聞いてみたい人はいる。たとえば、梅田望夫との対談『ウェブ人間論』(新潮新書)、社会論・文明論エッセイ『文明の憂鬱』(新潮文庫)、近年ではソーシャルメディア時代の『私とは何か〜「個人」から「分人」へ』 (講談社現代新書)などの著書がある平野啓一郎。いずれにせよ、文人が最先端のAIやシンギュラリティをどのように受け止め、なにを感じているのかを直接うかがえる機会はまれである。 
また、メディアやサブカルチャーについて詳しい若手の社会学者・批評家(たとえば、鈴木謙介、濱野智史など)、ジャーナリストであれば『ウェブ文明論』(新潮選書)で知られメディア・コミュニケーションに詳しい池田純一『アマゾン・グーグル化する社会』など森健の話なども、個人的には面白いだろうと思う。
さらに、AR/VRなどにたずさわる人たち(たとえばTeam Labなど)の話も話題を喚起するだろう。そうしたエンジニアたちがAIをどのように考え、どのように関わろうとしているのか私でなくとも知りたいはずだ。

一方では、シンギュラリティは到来しないという人たちもいる。こうした来る・来ないという両陣営の人たちを集めた多彩な意見が交流するコンファレンスもありだ。こうして考え出すと、講演を拝聴したい人たちが次々と浮かんでしまうのでこのへんにしておこう。


■「自動運転車」と「空飛ぶ自動車」

中島聡さんによる、自動運転車による社会がその生活だけではなく社会全体のインフラに与える影響について話も刺激的だった。
いくつかの自動車メーカーが、先を競うように空飛ぶ自動車を開発しているニュースが注目を集めているし、日本でもトヨタ自動車がウーバーに5億ドル(約550億円)を投資しして自動運転車の共同開発を行うと発表し、国内タクシー会社も都内の行動で実証実験が話題だ。さらにそのウーバーは5年後の2023年に空飛ぶタクシー「Uber AIR」の実用化を目指しているというから驚きだ。

自動運転者と同じくらい、いやそれ以上にいま話題なのがこの「空飛ぶ自動車」だろう。そうしたなか、米Terrafugiaが、2019年にも市販車の販売を開始すると発表したことには驚いた。同社はボルボやロータスの親会社でもある中国の浙江吉利グループ(浙江吉利控股集団)に買収され、大幅な開発資金と人材の確保(3倍)ができたことで来年にも発売の目処がたったとのこと。価格は、高級スポーツカー(例:フェラーリなど)クラスと同程度になるらしい。

飛行距離については詳しくはないのだが、おおよそヘリコプターと同程度ということだそうだ。そうなると将来、車での外出においてたとえば渋滞区間は空を利用し、空いている区間は地上を走るということもありえるだろう。空飛ぶ自動車の場合、高速のサービスエリア(SA)などに近い場所にそうしたそうしたクルマ専用レーン(滑走路)を設け、そこから離発着するようになるかもしれない。
そうなったとき、これまでの自動運転者とは異なるさまざまな問題が発生する。燃料切れの場合、道路なら停止するだけだが空であればそれは墜落を意味する。また、ドローンとの接触もあり得るだろうしーー自動航行でレーダーなどを備えているだろうがーー、道路交通法とは異なる法的な規制、事故の責任(ソフトウェアなど)、自動車保険の問題などもあるだろう。

とにかく、20世紀中に私たちが自動車と思っていたものは21世紀の後半にはかなり違っているものになっていることだけは確かだ。近い将来のクルマは地上の道路を走るだけのものから、飛行機と同じように近距離であれば空も飛べるものとなる。もしヘリコプターのように上昇して飛べるクルマであれば、海外ドラマでよく見かけるビル屋上ヘリポートはきっと空飛ぶタクシー乗り場に取って代わることだろう。


■21世紀のデジタルをリードする米国シアトル

これは日本だけではなくEUも同様で、米国シリコンバレーを拠点とする企業群に翻弄されてきた。つい数日前、EUはグーグルAndroidの独禁法違反に対して5,700億円という過去最高額となる制裁金を課すニュースが駆け巡った。
これを、結局はグーグルもMSがかつて呼ばれたように「悪の帝国」になっただけかと受け取るか、EUも日本と同様に対抗できるだけのイノベーションがなにもできていないことへの単なる“やっかみ”と感じるかは、その人の視点(考え方)によって異なるだろう。

EUと日本に共通しているのは、長い歴史と伝統があるということだ。そうしたものを持たない米国人は実は文化的にはそうしたことに憧れてはいるが、現状を鑑みれば米国はしがらみや足枷がないぶんだけむしろ有利に作用しているように私には思える。
一方で、ここのところの中国のデジタル分野での進展や躍進ぶりとはそれとは好対照だろう。中国も、EUや日本以上に本来はそうした歴史や伝統という重石を抱えているはずだが。これに、今後はインドが大きく進展してくる可能性は、きっとだれにでも察しがつくだろう。

江藤さんの話をうかがいながら、私は歴史家ではないし経済学者でもないのだが、20世紀後半から21世紀前半にかけて世界のテクノロジーとイノベーションにほとんど主導権を握れなかったこの両地域(EUと日本)、そうした問題はどこにあるのだろうかと思わざるをえないし、私が納得できるような見解にもこれまでのところお目にかかっていない。
もとより、どこかのだれかがすでに明確に示しており、ただ私が知らないだけかもしれないだろうことは当たり前のことではあるのだが。とにかく、シリコンバレーではなく、シアトルがデジタルとくにAI領域のテクノロジーで世界をリードするようになったのはここ数年だ。

アマゾンとマイクロソフトが主導しているのだが、書評で取り上げたシリコンバレーのような問題を抱える地域の二の舞にだけはならずに21世紀に相応しい企業のあり方で世界を牽引していって欲しいと心より願っている。


■仏大統領選挙に見る“フェイクニュース”の本当の恐ろしさ

NHK-BS1スペシャルで放送された番組「“フェイクニュース”を阻止せよ〜真実をめぐる攻防戦〜」を視聴した人もきっと多いことだろう。
これを見ると、フェイクニュースは一国の大統領選挙すら左右するほどの大きな現象(国際問題)なのだということを実感する。

この番組は、2017年フランス大統領選挙期間中にソーシャルメディアに溢れたフェイクニュースと、フランスを代表するリベラル派の日刊紙『リベラシオン』との攻防を描いたルポである。同紙は、フランスで初めてネット上の嘘(捏造報道)をチェックする専門チーム(デザントクス)を設立した。今回の大統領選挙では、メディアを超えてフランス国内のメディア37社が参加したCROSS CHECKというプロジェクトまで立ち上がげた
特定政党(極右国民戦線のルペン候補)を勝利に導くため、中道派のマクロン候補に関するフェイクニュースで政治を極右国民戦線側に煽動しようとする人たちと、そうしたメディアとの戦いの記録である。

フェイクニュース発信者のひとりは、「事実はどの立場から見るかで変わる。私はメディアを全く信じていない」とうそぶく。一方のジャーナリストは、オンライン上に反乱する「フェイクニュースを多くの人が信じてしまうことに驚いている」と。前者の方が容易に発信でき、後者の事実か否か確認したり調査する(いわゆるネタの裏取り)ほうが時間がかかることは、だれにでも容易にわかることだとくに、個人運営のニュース系サイトに嘘が多いという。
デマによる風評被害を、私たちはこれまでにも日常的にいくつも経験している。たとえ、国の行方を左右するするほどではく些細なことでもだ。私は社会心理学に詳しいわけではないが、人は真実より嘘の方を容易に信じる傾向にあるとどこかで読んだ記憶がある。

“嘘をつくのが政治家の常”とはいいながらーー10年前にデザントクスを立ち上げたのは、政治家の嘘がキッカケだったのは皮肉だーー、それに便乗して大統領選挙を自分に有利に導こうとする極右国民戦線ルペン候補の言動にも呆れる。国のリーダーたらんとする人であれば、本来であればこうした事態に対し、国民の不安をいたずらに煽るのではなく冷静になるように語りかけるべきだろう。選挙に勝つためなら嘘はもとよりなんでも利用するし手段を選ばないというのは、昨今の政治家はどこの国でもみられる傾向のように感じているのは私だけだろうか。

そして、この騒動の発信源(黒幕)が番組の最後についに明らかになるのだが、その事実を知って驚愕する人も多かっただろう。
今回のフランス大統領選挙を混乱に陥れた黒幕は、ジャック・ポソビエクという米国人でトランプ大統領を支持する人物だった。そうした人物が、他国の大統領選すら左右するほどだということに愕然とする。番組内では彼は“右派ジャーナリスト”として紹介されたのだが、驚く(呆れた)ことにトランプ政権からホワイトハウスの取材を許可されたとまで自慢げにツイートとしている。
しかし、ェイクニュース=捏造報道をまき散らす人はジャーナリストではないことは誰にでも理解できるできる。2008年、米国のオバマ大統領の誕生にはソーシャルメディアが大いに貢献したのだが、トランプ大統領誕生にはソーシャルメディア上を賑わすフェイクニュースが当選を後押ししたことになるとは皮肉でしかない。
それと同じ現象がフランス大統領選挙にもおきたのだ。前者はかつて世界中の人々にコミュニケーションとつながりをもたらすことでより融和した社会が訪れるだろうと希望を持ったメディアとして、後者はフェイクニュースの温床として社会を混乱に陥れ人々の不安を煽動するものとして語られている

今回の番組を見ていてリベラシオン紙の忍耐強い奮闘を讃えたいと思うと同時に、こうしたことが日本の新聞社にもはたしてできるのだろうかと疑問にも感じる。国内でも、すでにFactCheck Initiative Japanが立ち上がっているので今後の活動を注視していきたい。

ところで、先ごろ、私はメディア・リテラシーの書評を寄稿したばかりなのだが、そこで紹介されているイギリスは『チャヴ』の書評でもすでに述べたとおりの実態だし、アメリカではフェイクニュースの“恩恵”によりトランプ政権の登場という現実を見るにつけ、イギリスやアメリカでのメディア教育の成果が上がっていると思えないと感じるのは私だけではないだろう。
もとより、メディア・リテラシーにおいては新興国にすら今後も当面は入れないだろう我が日本の現実を見るにつけ、誰でもが暗澹たる思いがするに違いない。


(「後編」に続く)


【関連リンク】
AGUSI Media Lab/青山学院大学シンギュラリティー研究所
http://www.agusi.jp/

▼青山学院大学シンギュラリティ研究所 講演会:WEDGE Infinity(ウェッジ)
http://wedge.ismedia.jp/category/aogaku

▼20XX年 AIが変える経済地図
https://www.nikkan-gendai.com/articles/columns/3343


【おすすめブログ】
■【書評】『教養としてのテクノロジー〜AI、仮想通貨、ブロックチェーン』(伊藤穰一:NHK新書)
https://www.shapewin.co.jp/blog2140

■【書評】『シリコンバレーで起こっている本当のこと』(宮地ゆう:朝日新聞出版社)
https://www.shapewin.co.jp/blog2102

■シリコンバレーの興亡に思うーーインターネット第一世代の衰亡
https://www.shapewin.co.jp/blog1882

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ShapeWin Blog 〓(PRコンサルティングファーム)

ハイ・コミュニケーション私論 〓(ITmediaマーケティング)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

日本人ビジネスマン向けAIジャンプスタートコース、「AIの世界首都」米国シアトルで開催

スクリーンショット 2018-07-20 20.56.48

私的公開日誌@180720.01

シンギュラリティ開設記念イベントで貴重なご縁を得た、米国シアトルで活躍されているInnovation Finders Capital(IFC)の江藤さんから資料のご案内をいただいた。

そのイベントでの江藤さんの話については、すでに「【イベントレポート】AIと「意図せざること」について——21世紀を牽引するAI都市としての米国シアトルの実情にふれて」として記事にしているので、ご興味のある方はそちらもご笑覧願えればありがたく思う。

20世紀の後半から21世紀の前半、シリコンバレー発の企業が世界を牽引してきたことに誰でもが頷くことだろうが、21世紀のこれからは同じ米国西海岸シアトルがその役割を担っていくだろうことも否定する人はおそらくいないだろう。
シリコンバレーについては、多くの情報が溢れているのだが、現在では同地域全体でさまざまな課題を抱えている残念な実態については「【書評】『シリコンバレーで起こっている本当のこと』」でも述べているので、関心のあるみなさんにはあわせてご参照を願えれば嬉しく思う。

シアトルは、シリコンバレー的な20世紀的な価値観に呪縛された企業群の集積地帯の“二の舞”とならならずに、それを他山の石として21世紀にふさわしい新しい企業のあり方や経済的エコシステムの創出をすることで、世界に新しいビジョンを提示すると同時に経済をも牽引して欲しいと心より願っている。

いただいた資料を、以下にご紹介をする。

「FCでは、日本のAI人材育成の為に「AIの世界首都」シアトルで日本のビジネスマン向けAIジャンプスタートコースを開催します。アメリカでもコンピュータサイエンス教育の分野でリードするノースイースタン大学シアトル校で8月22日から6日間の集中講座でしす。
 
AIシステム開発の為のAIアーキテクチャーとインフラを理解し、会社組織や事業部内での企画運営を行うノウハウを提供します。6日間のキャリキュラムにはセミナー、ハンズオン実習、客員講師の講演、AIプラットフォーム会社への訪問など、今後AI関係事業を考えているビジネスマンが必要とするノウハウと経験を得て頂きます。
 
ハンズオンでは自然言語処理のアプリケーション開発を実習します。このジャンプスタートコースはNortheastern Universityのコンピューターサイエンス学部の学部長であるIan Gorton教授を筆頭に現役のAIコースの教授陣から学ぶ本格的なコースです。
 
対象は日本のビジネスマンでこれから人工知能や機械学習の事業を推進する立場になりうる方、今後、AI分野で活躍しキャリアアップを希望されている方です。受講資格は特にありませんが、ある程度のICT関係のビジネスに携わっていた方が対象です。全編、英語での授業ですが、AIトランズレーターと日本語が堪能な先生も随時アシストをします。カジュアル会話レベルの英語力は必要です。」

<場所>アメリカ、シアトル
<日程>8月22日〜29日


また私個人としては、今後はIFC主催による日本でのAIをテーマにしたミートアップの適宜開催も期待したいところだ。


【参考サイト】
▼江藤哲郎のInnovation Finding Journey
http://wedge.ismedia.jp/category/seattle

【書評】『チャヴ〜弱者を敵視する社会』ーー格差、分断、嫌悪、排除が覆う世界のいま(後編)

Chavs-1050st-de9e25f3af04c258f188b73d1a4717ae

私的公開日誌@ウェブ暦:171229.01

(中編より続く)


■歴史の教訓

本書で、オーウェンは保守党と労働党のいずれを問わず、自らの社会政策の失政を労働者階級自体の向上心のなさや生活態度の問題が原因と押しつけ、「福祉のたかり屋」という立場に追い込んで支援政策(生活保護など)の削減の理由とする一方、そうした政策にメディアも同調してきたこと。その労働者階級の人たちーーもっとも移民との混合社会でそのコミュニティで暮らす人たちーーは、多様な人間関係と文化に触れる機会が素晴らしいとインタビューに答えているが、都合よく利用したい政治家と一面的なメディアはそうした声を報道せずに憤りすら感じている。さらには、残念なことに「リベラルなチャヴ・ヘイター」がいることもオーウェンは指摘している。

人々をリードすべき政治家の社会政策の失敗や不都合な真実があり、新聞などのメディアまでもがそれを伝えたり社会的弱者の声を代弁するどころかそうした情況を“忖度”し、報道機関(ジャーナリズム)も一緒になって誘導している社会は民主主義の危機といわねばならないだろう。
英国の労働者階級の人たちにとって、既成左派系政党(中道左派も含む)が富裕層や大企業の見方になった(右傾化)ように映るので、労働者階級を代表する政治家やメディアにそうした声ははどんどん届かなくなっているわけだ。

こうした“好機”に付け入るように、労働者階級を取り込もうとBNPのような極右政党が躍進してきたし、これは英国特有の現象ではなくEU各国も同じだ。そうした極右政党はすでに労働者階級のコミュニティに入り込んではいるが、信頼できない政党なので政界で確固たる地位を築くことはないだろうが、それでも不吉な前兆には違いないとオーウェンは懸念している。
これは、はたして私たち日本社会に直接関係ないと言い切れるだろうか。

こうしたことを顧慮したとき、私たちの脳裏に浮かぶある歴史がある。
それは、当時はもっとも先進的だったといわれているドイツのワイマール共和政(国)が34年の短期間(1919〜1933年)で崩壊し、ヒットラーの台頭を許したことだ。ほぼ同時期、日本では大正デモクラシー(1912〜1919年)の後、政治家や政党政治による腐敗と相次ぐ不況(1930年の昭和恐慌が決定打)で困窮から抜け出せない国民=労働者階級の不信と怒りを招き、それが結局は軍部の台頭を許した情況と不気味に軌を一にしているということ。それは、はたして単なる私個人の懸念や言い過ぎだけですませられないはずだ。


■「必要悪としての民主主義」

現時点においては残念ながら、私たちの生きている世界は資本主義下でのという条件付きではあるが「必要悪としての民主主義」社会といえるだろう。それは、啓蒙主義の理念をもちろん体現しているわけではない。それでも現在の社会体制は、今日までのところもっともましな制度ではあるとは思っている。
独裁体制や帝国的支配では、その体制を維持するためだけに政治家(支配者)は努力するのみだ。
しかし、民主主義社会では、政治家はもとよりそれを支える一般の人々(庶民)にも維持するだけの努力を強いるのだが、そうした自覚を社会全体がもつ必要がある。無関心とシニシズム広がれば、民主主義そのものを維持することは困難だろう。

つまり、私たちが努力を怠れば、民主主義とは容易に崩壊する可能性を常に孕んでいるほど脆いものだ、ということに異を唱える人は少なくないだろう。格差と分断、嫌悪と排除ーーそれはポピュリズムやナショナリズムとなって現れるーーが、世界を覆うようになりつつあることがそうした情況を証明している。
もはやEUは壮大な失敗とまで言われ出し、世界のことより自国中心主義のトランプ政権の誕生を支持した米国、それを追い風に勢力を拡大しつつあるEU各国の極右政党など、グローバリゼーション社会では日本もその影響に巻き込まれないとはいえない。
スウェーデンには「ソファの選択肢」という言葉あるそうだ。これは、労働者階級の人々が自分たちのなじみの政党に仕方がなく投票するより、むしろ傍観者となって自宅のソファに座っていることを指している

だれにでも経験あるだろうが、選挙のたびに投票す政治家の当選が叶わないようなことが続くと、失望や喪失感を繰り返して民主主義への信頼を諦めたくなるだろう。
日本では特に民主党政権時代(2009〜20012年)へのトラウマからか、その後に続く野党のお粗末な振る舞いも加わり、そうした野党への不信感に根強いものがある。それでも、私たちは“鼻をつまみながらでもどこかの政党あるいは政治家を選択しなければならないのが民主主義の礎石なのだ。


■来たるべき資本主義社会とは

本書で明らかなのは、英国において保守党は、特権階級や富裕層の利益を守る代弁者ではなくそれを超越した党だというイメージ、一方の労働党は「みなが中流」という意識を普及させることで国民政党たらんと欲する。そうした自分たちの都合(党利・党略)だけで本来の支持してくれるはずの選挙民を置き去りにした政策を実行したことで、それが結果として特に労働者階級からの離反を招いているのだとの自覚がないことが明らかにされる。

「万国のプロレタリア団結せよ!」と『共産党宣言』(岩波文庫)の最後に力強く呼びかけた言葉も、いまではむしろ弱々しく儚く空疎にすら聞こえる。今日、同じ労働者階級でありながらこれほどまでに分断され、先進国・新興国を問わずに「労働者階級-内-階級社会」が現出してしまっている。こうなると、もはや結束する“同志”たりえない。さらには、人種による格差や宗教的差別などによる大きな溝までもが加わりより混迷を深めている。

かつて保守派の人たちは、労働者たちの団結と結束力に怯えていたが、今日では労働者階級のかつての力は粉砕されて弱められ、向上心のない怠惰な人たちのことを指す像として作り上げられ、労働者階級に屈辱的な無力感が増している社会で支配層(富裕層とそれに支えられている政治家たち)にとって好都合だとオーウェンは語る。
結局、こうした分断や偏見によるその社会の混乱と衰退は、態度をあたらめるというだけではなく、社会構造そのものを抜本的に変革しないことには解決できそうもない

今日、ほとんどの人たちは中流階級でプロレタリアートは存在しない、そもそも階級という概念自体が古臭い発想、貧困や格差は社会政策に原因があるのではなく、向上心という個人の問題(自己責任)に還元してしまえば、政治家や富裕(支配)層にとって好都合だし、中流気分に溺れている人たちにとっても居心地が良かったのだ

ベルリンの壁が崩壊(1989年)しそれに続く東欧諸国の民主化が推し進められ、EUの発足(1992年)インターネット(1995年)やソーシャルメディア(200年代後半)が普及した社会は、それらがもたらすはずだった多様性の受容、相互理解と融和の精神といった20世紀末から21世紀の初頭に世界を覆っていた希望は、このほんの数年で今日の混迷したーー焦燥と不安定、分断と排除、格差と希望がないーー社会になってしまうとは一体誰が予想し得ただろうか

だから「何より労働組合は、今日の労働者階級に適応しなければならない。」オーウェンは語る。労働組合委員長のビリー・ヘイズも、下記のように語っている。

「労働運動は変わったということ。30年前のあり方に決して戻ったりしないことを認識すべきだ。労働組合は力を取り戻すことができるが、私などではとてもできないようなアイデアや活動を思いつける、次世代のリーダーを探さねばならない。」

さらに、私は未読なのだが、リチャード・ウィルキンソン教授がを著した『平等社会』によれば「いくつかの研究では、より公平な社会の特徴として、労働組合の活動が強力であることが上げられている」と語っているそうだ。私も確信があるわけではないが、なんとなく納得できる見解である。

そこで思い出すのは、ジャック・アタリ著『21世紀の歴史―未来の人類から見た世界』(原著06年刊:作品社)の書評でも指摘した、「第三の波:超民主主義社会」(2060年)の到来だろう。それは利他主義者たちや人道支援、善意と慈愛に満ちた人々や組織ーーそれは必ずしも企業体ではない集団ーーが、より良い社会を構築しようとする<トランスヒューマン>や<調和重視企業>などの登場を予測していることだ。 昨今ではよく「ホワイト企業」という言葉も耳にする。
加えて、今年になって書評でも取り上げた、世界的な経営学者のヘンリー・ミンツバーグ著『私たちはどこまで資本主義に従うのかー市場経済には「第3の柱」が必要である』(原著2015年刊:ダイヤモンド社)の提唱する社会の調整役としての第三柱である「多元セクター」が、いまの社会を革命以外で抜本的に変革(Radical Renewal)し、経済や政治に社会のバランサーとして役割を担うべきことを提唱しているが、その中核を担うのが労働組合であれば大きな力となるかもしれない。
日本の労働組合も、オーウェンや上記の英国の労組委員長の言葉をかみしめるべきだろうし、ミンツバーグの提言を参考にすべきだ。

ところで、EU加盟固ながら、国連が毎年公表している「世界幸福度報告書」上位ランキング常連の北欧諸国(デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドなど)、ベーシックインカムのオランなどの国もある。それは人口の少ない小国だから可能なのだという人もいるが、もちろん住んだことがないし調べたわけでもないので、その実情について私には語る資格はない。
ちなみに、英国はそれでも19位、米国14位、独は16位、そして日本は先進国中では最低の51位である。こうして見ると、なんだかこの報告書もあまり当てにはならないようにも感じるのだが……。

「ソファの選択」と「無党派層は寝ててくれればいい」情況が続けば、富裕層とそれに支えられた政治家たちの連合にとってこれほど都合のよいことはない

選挙での投票率が低い日本では違うと、はたして誰が断言できるのだろうか。

2年前(2015年)に話題となったピケティの『21世紀の資本』(原著2013年刊)は過去300年分のデータに基づいて資本主義という経済システムが加速させている格差社会を論証したが、むしろ本書のように具体的な社会状況や実態について語っている本を読むことのほうが、ずっと身近な実感をともなっていまの社会全体を理解できるだろう。

ピケティは「本の目的は議論を巻き起こすことだ」とだとインタビューに答えていたが、(7/26号『週間東洋経済』による本人への独占インタビュー)オーウェンも「階級について幅広い議論をうながしたかった」と本書の最後で語っている。二人の意識は共通しているし、その目的は十分に果たせただろう。

このオーウェンの書、そしてジャック・アタリ著『21世紀の歴史』、ヘンリー・ミンツバーグ著『私たちはどこまで資本主義に従うのか』の3冊を読むことで、私たちは以下の3つの気づきを得るだろう。

(1)特権階級の利益代弁者である保守党だけではなく、政治屋(世襲政治家も含む)ではなく、政治家の使命や矜恃をもった人を労働者の声を代表するはずの労働者党までもが下流労働者にその責任を押しつけている階級政治の実態。
(2)社会や権力者たちを監視して不正を暴いたり真実を伝えるべきメディアも、そうした情況に荷担して信用できないという現実に対処する覚悟がいること。メディアリテラシーをますます研ぎ澄ます必要がある
(3)かつてのようなイデオロギーと赤錆びのついた労働運動ではなかく、いまの時代に最適化した発想とリーダーそして戦略(言説、組織論など)が必要であること。

この21世紀の難題解決への道筋(思想や理念など)すらいまだに見いだし得ていない私たちだがこれからの<理想的な社会形成>を考えたとき、調和重視企業あるいはホワイト企業(家)が増え、多元セクターの発達とその中核には労働組合、市民ジャーナリズムによる信頼できるメディアをもつことが、より良い社会への将来像として浮かんでくるのではないだろうか。

本書の原著は2011年刊行。それなりの分量(約400ページ)、80年代以降の英国の社会・経済史に通じている人でない限り気軽に読める書著ではないが、本書と出会えて良かったと思える読後感が残った。こうした本を手にすることができるのは希である
海と月社は、主にマーケティング・コミュニケーション関連の良いビジネス書を数多く刊行している新興出版社だということはわかっていたのだが、今回の著書のような社会問題を扱ったノンフィクションの硬派な邦訳書、それも多くの読者を獲得するのが易しくはないだろうテーマと内容の著書をあえて刊行するという、喜ぶべき出版社だと認識をあたらにしなければならないし、今回のご恵贈には衷心より御礼を申し上げねばならない。

なお、ジョーンズによる第二作目『エスタブリッシュメント〜こうして彼らはすべてを手に入れる』(原著2014年刊)は、2018年春に同社から邦訳が刊行予定なので、こちらも大いに楽しみにそして期待して一刻も早い発売を待ちたい。


(了)


【関連リンク】
▼ユニセフ事務局長 日本の子どもの貧困率に懸念

▼生活保護費見直し案、最大13%減 母子加算カットも


【おすすめブログ】
【書評】『チャヴ〜弱者を敵視する社会』ーー格差、分断、嫌悪、排除が覆う世界のいま(前編)

●【書評】『チャヴ〜弱者を敵視する社会』ーー格差、分断、嫌悪、排除が覆う世界のいま(中編)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〓 ハイ・コミュニケーション私論 〓(ITmediaマーケティング)

〓 ShapeWin Blog 〓(PRコンサルティングファーム)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【書評】『チャヴ〜弱者を敵視する社会』ーー格差、分断、嫌悪、排除が覆う世界のいま(中編)

owen-jones-chavs-book-007

私的公開日誌@ウェブ暦:171225.01

(前編より続く)

■壊れ行く英国社会と労働者階級の分断

1997年の総選挙で、保守党から労働党に政権が移った。そのさい、首相となったトニー・ブレアが掲げた労働党の方針が「ニュー・レイバー」である。従来のような労働組合に依存した党のあり方を見直し真の国民政党へと脱却すべく、市場経済を引き続き重視して国営企業の民営化や能力主義などを推し進めた。

しかし、その政策は社会的な格差をさらに助長し、恩恵を受けられなかった労働者階級からの反発も強かった。要するに、労働党なのにもかかわらず、労働者階級の一層の貧困化を拡大しただけの結果に終わったのだ。

それには理由がある。労働党が1979年から1992年にかけて選挙で保守党に4回続けて敗北(サッチャーが労働組合を叩きつぶ)した後遺症だという。それ以降、労働党はなりふり構わずとにかく選挙で勝つことだけに執着するようになった。それがもはや階級は存在しない(ふり)をし、みなが中流だという“路線(方針”だったとオーウェンは振り返る。

後にサッチャーは、インタビューにて自身の最大の功績はなにかと聞かれたらこう返答した。「トニー・ブレアとニュー・レイバーね。敵を変節させたのだから。」と当然のように答えている

英国経済を担っていた工業を壊滅(保守党)させ、それを是正すべき社会政策も用意できなかった(労働党)政治家たちは、労働者個人の生活態度や生き方に問題をすり替えることにしたのだ。要するに、サッチャリズムが残した労働者階級にのしかかった諸問題を、そのままニュー・レイバーたる労働党が定着させただけいうこと。
ニュー・レイバーの手法は、下流労働者階級の自己責任になすりつけ、彼らを社会の敵のように扱うことで、その他の労働者階級(特に中流階級)の歓心を買おうとしただけだとオーウェンは語る。

例えば、ディズベリー・ムーア地区は、公営住宅の下流労働者階級の巣窟といわれている。それは、政治家たちの社会政策によってそのように「仕向けられた」結果であるにもかかわらず、いつまでたってもそうした公営住宅を出たがらないのは、向上心がないことにされてしまう。それは、労働者階級であれば誰でも成功を望む人し、当然のように持ち家が欲しいはずだという先入観がある。
ブレア政権下の首相官邸政策長だったマシュー・テイラーは、悪びれることなく以下のように発言している。

「労働党の戦略は、「いかに向上心のある労働者階級にアピールするか」だと思う。「向上心のない労働者階級」が何を指すかはともかく、彼らを放っておいたかと言われれば、まあ、そういう面はあるかもしれなしれない。たとえば、どちらにしても労働党が勝つ選挙区だ。冷たいと思われるかもしれないが、小選挙区制では、結果に大きな差の出ない選挙区の人たちにはあまり力を注がないものだから。それに、彼らはあまり、というか、もっとも投票に行かない人たちだということも理由になる。」

日本を含め、いずれの国でも政治家とはこうしたものだろう。どうせ投票には行かないだろうし、そうした人間のことなどおかまいなしだ。
向上心のある労働者階級とは、上昇志向が強く、個人主義的で中流階級の仲間に入りたいと孤高奮闘している人たちで、いまいる場所にいてはいけないしもしそこにとどまっているのであれば、それは向上心がなく自己責任にされる
サッチャリズムが推し進めた持ち家をはじめとする飽くなき所有欲の梯子を登らないのは、政策の問題ではなく本人に問題があるのだと“汚名”を着せておくほうが政権にとっては好都合でたやすいことなのは、どこの国でも同じだ。

もちろん、すべての政治家がそうした考え方をしているわけではなく、労働党で元閣内大臣だったヘイゼル・ブリアーズのようにそうした分析や見解にには「断じて同意しません。」という見識をもっている人もいた。

「トリクルダウン」という言葉がよく使われる。これは、中国の小平の先富論(先に豊かになれる者たちを富ませ、落伍した者たちを助けることで富裕層が貧困層を援助すること)、日本のアベノミクスにも通じている。しかし、実際には企業や資産家(富裕層)などの富が増えるだけで、労働者階級(いわゆる給与所得者層)はその恩恵に与ることは(富の再分配)なく、それが逆に格差を一層助長、加速させただけの結果をもたらしている現実は否定しようがない。これは先進国、新興国を問わずにだ。

世の中にはいまでも階級は厳然と2つ存在している。それは有産(資産家)階級と無産(労働者)階級だ。
有産階級は、不動産や株式などを所有し、その資産は今日では世界中を駆け巡り運用益を上げているし資産隠しも巧みだ。そうした利益で潤沢な生活をしているいわゆる富裕層はほんの一握りだ。もう一方の無産階級はいわゆる賃労働者(給与所得者)で、企業(資本家)に雇用されホワイトカラーかブルーカラーか、低所得者か高所得者にかかわらず自己の労働力を売ることだけが生活の糧である層で、つまり社会のほとんどの人たちはこれに属している収入の多寡はあっても、それは等しく労働者階級だという事実は否定のしようがない

しかし、その同じ労働者階級に属していながら中流階級のーーそれは消費生活を十分に教授できるーー人たちはそうしたこととは無縁で、食べていくことに精一杯な生活している同じ労働者に対して偏見をもち差別しているのが、英国にかぎらず今日の世界各国の実情だろう。
人は誰でも、自分は労働者階級=プロレタリアートーーそれは「貧しい生活者」と同義語ーーだとは呼ばれたくないだろうし本人自身も思いたくはない。ホワイトカラーであればなおさらだろう。
労働者階級が、同じ労働者階級でありながらそれを恥と感じ軽蔑していることは、元バスの運転手で決して裕福とはいえない人がインタビューに応じ「自分は中流だ」と発言したことに端的に表れている。
元ロンドン市長のケン・リビングストンは以下のように述べている。

「中流階級があまりにも多くの資格やルール、規制を設けすぎたせいで、労働者階級に対する壁が高くなっている。」

かつての労働者階級は、労働組合や地方自治などの組織を通じて政界に進出できたが、いまやその労働組合は疲弊し、地方自治の権限も多くが奪われた。また、コミュニティが崩壊しより個人主義的傾向が強まったことで、組合への加入率も減ったっこともある。ニュー・レイバーにより労働党が失った有権者はなんと500万人で、そのうち400万人はブレア政権発足時に同党を見捨てたのだという。

同党が労働者階級の支持基盤を再構築するには、従来のように組合(職場)だけに目を向けているだけではダメで、これからは「不安定な仕事と、パートタイムや臨時雇用の労働者の増加を特徴とする、細分化された組合非加入労働力に働きかけねばならない。」し、さらには「コミュニティ基盤を確保しなければならない」とオーウェンは述べる。

こうした実情は日本でも同様だ。厚生労働省によれば、労組組織率は、ピークだった1975年の34%から下がり続け、この10年ほどは当時の半分(17〜18%)まで落ち込んでいる。ちなみに、英国の民間企業では15%だそうだ。
日本の野党も、基本的には労組(連合)頼みだ。しかも、離合集散や呉越同舟を何度も繰り返しているので、信頼(支持)も得られないし選挙で勝つこともできないでいる。

本書を読むと、保守党がいかに特権階級の利益を守ろうとし、労働者階級の見方であるはずの労働党も問題や論点をずらしたり、結局は票につながらないこと(選挙のときだけ支持が欲しいだけ)はしないという政治家の「本質」がよくわかる。
また、口を開けば「改革」という言葉(日本でも同様だ)は、さもよりよい方針や施策のように聞こえるがーーリストラ(事業再編)が解雇意味したようにーー実際には、「削減」や「縮小(緊縮)」あるいは「廃止」などの口実にしている過ぎない。

「安心できる未来のないイギリスの若者の数が、着実に増えているのは確かだ。」というオーウェンの言葉は、そのまま今の日本にも当てはまる。


■文化的にも波及する格差と排除

こうした労働者階級=チャヴという構図は、文化面にもまで波及している。たとえば、そうした労働者階級をサッカーースタジアムから追い出すようなことも推し進められた。これはいわゆるフーリガンを排除することで、中流階級が安心して観戦できるスポーツ競技場(社交場)にしチケット代を値上げすることで収益アップも図れる一石二鳥のプランだ。
サッカー選手たちも、かつては所属する地元クラブのあるコミュニティで暮らしていたが、サッカーが巨大なビジネスになり選手たちも高額な年俸を手にすると、そうしたコミュニティからみなが離れていく。

また、テレビ番組のリアリティショーではチャヴが登場する番組が人気で、労働者階級を晒し者することで視聴率を稼ぎ、それを見ている中流階級はつかの間の上流気取りに浸っているのだと。
日本でも、みなが中流という意識とともにプロレタリアートという言葉が貧しい労働者という意味と同義語に扱われて忌み嫌われたのと同じだ。

こうしてチャヴは、「野生化した労働者階級」、「貧しいから無価値」などと扱われる。もちろん、地域コミュニティに貢献している人たち、コミュニティが気に入って昔ながらに質素に慎ましく暮らしをしている人たちもいるが、そうした人たちもチャブ扱いされいわれのない侮蔑や嘲笑の対象となってしまう。それは、チャブという言葉が労働者階級と同義になってしまったからだ。

ニュー・レイバーでは数少ない労働者階級出身のジョン・プレスコットは商船の給仕出身ながら政界に進出し、ブレア政権下では副首相と党副首相まで勤め上げた重鎮だ。そのプレスコットが貴族院に入ったさい、メディアなどは彼が労働者階級の出身だということで新聞の論説委員までもが彼を侮辱し、そのサイトには一般人からのあざけりや罵りの書き込みが多数寄せられるほどだったという。

労働党の元閣内大臣ジェイムス・パーネルは、オーウェンのインタビューに答え、1979年(サッチャー初の勝利)と1989年(ベルリンの壁崩壊)は、左派的なことすべてにダメージを与えたと

ところで、私は相撲を観ないので詳しくは知らないが、国技館でもモンゴル出身の力が土俵に上がると観衆から「モンゴルに帰れ」という罵声が飛ぶという。


■右翼政党が躍進した理由

英国だけではなく、EU全体での移民排斥の背景には、そうした移民たちの流入によりそれまでの白人労働者たちの仕事を奪ったように見える。しかしオーウェンは、それは政治家たちがきちんとした社会政策をとらなかったからだと。
 
だから、多人種による労働者階級社会のなかで、これまで経済、政治、文化などあらゆる分野で担い手だった白人たちが、そうした社会での存在感が希薄になり苛立っていることがあげられるとも。そうした憤りがEU各国での白人労働者たちの支持を得て極右政党の躍進を促しているし、英国のEU離脱につながった。

しかし、英国の炭鉱労働組の人たちは、生活をよくしたいという移民労働者たちに非はないとインタビューに答えている。また、炭鉱仕事だけではなく労働者階級の白人がしたがらない仕事を移民労働者が引き受けている割合が高く助かっていると。さらに、移民の多いコミュニティ(地区)で暮らし福祉にたずさわっている女性も、様々な移民たちはみな懸命に生活していてむしろ親切で多様な文化に接する機会があることはよいことだとまで答えている。
直接そうした移民と接している人たちはわかっているが、実態を知らない一般の中流階級だと思い込んでいる国民は、移民がイギリス人労働者の仕事を奪っているとの印象を持っている。

そうした国民感情を、ブレア政権を引き継いだ労働党のブラウン元首相までもが「イギリスの仕事はイギリス人に」などと言い出す始末で、新聞などのメディアもそうした発言の“尻馬”に乗っている。この英国社会の現状に容易につけ入るように極右のイギリス国民党(British National Party。以下、BNP)が台頭してきた。それでも、上記の炭鉱労働組合や福祉従事者などは同党を信用していないと語っている。

実際、移民が英国人労働者に与える影響は政治家やメディアの報道することに比べて少なく、それ以前から政策のせいで賃金は下がり続けていた実態があり、それにもかかわらず政治家たちは本質的な問題を避け、非難の矛先を移民に逸らすよう仕向けメディアも同調報道している。移民問題はリストの下の方にあったがトップに持っていったのだとオーウェンは語る。

要するに、政治家たちの抜本的な社会解決に向けた政策が実施できないないことを、政治家たちもメディアも移民たちにをスケープゴートとして利用しているこれこそまさにポピュリズムだ
こうした社会の傾向は、英国やEU各国だけではなく米国、そして日本も例外ではなくメディア自体の存在意義も懸念されている。


(続く)


【関連リンク】
▼「農民として生まれ、都市の労働力として使い捨てられる農民工の実態とは」(11/16「荻上チキ・Session22」ポッドキャスト)

▼東京で体感する中国低層の絶望的な閉塞感

▼英国「EU離脱」:勢いを増す欧州の「極右勢力」


【おすすめブログ】
●【書評】『チャヴ〜弱者を敵視する社会』ーー格差、分断、嫌悪、排除が覆う世界のいま(前編)

●トマ・ピケティ『21世紀の資本』刊行によせて(上)

トマ・ピケティ『21世紀の資本』刊行によせて(下)

【書評】『チャヴ〜弱者を敵視する社会』ーー格差、分断、嫌悪、排除が覆う世界のいま(前編)

919nJR4RVwL


私的公開日誌@ウェブ暦:171220.01

『チャヴ〜弱者を敵視する社会』は、今年後半の書籍ではもっとも話題の1冊だろう。本書は、21世紀版『イギリスにおける労働者階級の状態』だと思う。今回、ありがたくも海と月社よりご恵贈いただいた。

原著の初版は2011年。欧米でもベストセラーで話題となり版を重ねた英国社会の“落とし子”的著書。今年になり、ようやく邦訳で読めることになった。深紅にバーバリー柄の帽子だけの表紙は目立つし、国内の大型書店で「話題の書」や「書評本」コーナーなどに積んであり、日本でも版を重ねているし既読の人も多いだろう。

本著者のオーウェン・ジョーンズは、英『ガーディアン』紙などでコラムを担当するジャーナリスト。本書の執筆当時は20代半ばだった。しかし、この400ページちかい処女作は、様々な政治家、多くの労働者、ジャーナリスト、経済学者、歴史学者からソーシャルワーカーや慈善団体にまで丁寧に取材やインタビューを行い、それらの人々の多様な発言から事実に迫ろうとする力作で、この若い駆け出しのジャーナリストは本書で一躍世界の注目を浴びることになった。
1845年、同じ20代半ばの青年フリードリッヒ・エンゲルスも初の著書『イギリスにおける労働者階級の状態』を著したということも奇縁を感じる。

それほどの著書なので、すでにいくつか書評が出ている。いまの英国の実態と状況を克明にルポした社会史であると同時にサッチャー政権誕生(1979年)以降、約40年にわたる英国政党小史的な側面をもっている。しかも、オーウェンの筆致は、まるで政治小説のような面白さを含んでいる。
 
そうであっても、私たち日本人には、海の向こうでの出来事であり、実感をともなって本書読むことが難しいだろう。それに、本書に書かれている内容やその要約だけを知りたいのであれば、ほかの書評(下記「関連リンク」参照)の方がずっと参考になる。

そこで、私は本書を「対岸の火事」ではなく、「他山の石」として読むことにする
もとより、ここには日本人は登場しない。しかし、ここで語られている人物名や様々な人々の名前、数々の企業、メディア、政党や政治家などの名称を、そのまますべて日本社会に引き寄せ(置き換え)たらどうだろう。私たち日本社会の抱えている身近な問題として読むことができる。
 
日本でも「下流社会」という言葉を嚆矢に、若者から老人、男女をとわずに社会の貧困化が深刻な問題として浮き彫りにされ、格差や差別に多くがあえいでいる日本社会の実態は様々なメディアでも報道されているし、それをテーマにした書籍(『格差社会』『希望格差社会』『階級都市』など)も数多くが刊行されている。

本書で述べられているチャヴという言葉を、非正規雇用やフリーターあるいは貧困層、差別にあえいでいる人たちという言葉に入れ替えたらどうだろう。すると、それはまるで今日の日本社会について語られているような印象を受けるだろう
私は、本書の内容を紹介することより、私が考えたり感じたことをことを語ることでみなさんにも同じように考えてもらえたならば、これを書いた意味があるだろうと思っているし、心よりそのように願いたいたい


■世界に共通する貧困、格差、階級という大きな問題

本書は、英国の社会状況について書かれているのだが、ここで語られているテーマの本質や深層は、そもそも英国一国だけではなく、それは世界共通の問題である。
 
例えば、もっとも格差が激しい社会といわれる米国の社会状況について著し話題となった『ルポ貧困大国アメリカ』、またそうした実情をルポしたテレビ番組も放送された。中国はタテマエ上では労働者階級しかいないはずであるのだが、『貧者を喰らう国』や近刊『3億人の中国農民工〜食いつめものブルース』で、5人に一人は貧困といわれる農民工でしかもそこから脱出することはこの国ではほとんど不可能という、厳然たる階級と格差が存在しているのが中国社会の実態だ。
今日、世界的な流動化社会といわれながら、それとは反比例するかのように階級が固定化を強めている

こうした状況は、OECD(経済協力開発機構)が公表した報告書によれば、所得格差は全人口の上位10%の富裕層と下位10%の貧困層の所得格差は9.6倍で、この数字は1980年代の7倍から2000年代の9倍へと拡大し、その調査時点(2013年)にはさらに拡大し、世界の富裕層と貧困層の格差の拡大は1820年代と同じ水準にまで悪化しており、過去200年では「最も憂慮すべき」事態だと警告しているほどなのだ。


■友人宅での夕食会

本書の発端、それは著書オーウェンが高級住宅区域にある友人宅での夕食会に出席したときの出来事だった。集まった友人たちはみないわゆる中流階級といわれている人たちで、ほとんどが中道左派(いわゆる「リベラル」)である。それにもかかわらず、そのときの会話のなかで富める者が貧しい者をあざける何気ないジョークに、著書自身も驚きと疑問をもった。なぜ、これほどまでに、労働者階級への嫌悪が平然と口にされるのかと。
彼は、本書を著した理由を以下のように述べている。

「本書の狙いは、労働者階級の敵視の実際を明らかにすることだ。(中略)ことに強調したいのは、「人々の態度の変化だけを求めるべきではない」という点だ。階級差別は、階級によって深く分断された社会の主要な構成要素である。われわれが最終的に取り組まねばならないのは、差別そのものではなく、差別そのものを生み出す源、すなわち社会だ。」

オーウェンは、本書で英国社会の底辺で暮らす労働者階級の実態を活写しているのだが、それが誰の目にも明らかになっただけではなく、より重要なことは、本書がたんに英国社会が生み出している格差の実態(それは資本主義によるもの)を暴き出しただけではなく、それ以上に“厳然たる偏見を露出させた社会について語っていることだ。
 
要するに、そうした偏見による態度を是正するだけでは問題の根本的な解決にはならず、社会構造そのもを変えなくてはだめだということを伝えたいという強い意志によって著されたということ。
本書を貫くテーマは、それは以下の3つである。

(1)英国にはすでに階級社会はないという作り話の嘘を暴くこと
(2)貧困などは社会問題ではなく、自助努力すれば人はだれでも成功できるという幻想を打ち砕くこと
(3)困難な社会改革に取り組んでいる人たちを勇気づけること


■「チャヴ」とはなにか

「チャヴ」とは、元々は「急激に増加する粗野な(白人)下流階級」を指す言葉だったが、いまでは「労働者階級の全体」を指し示すしかも侮蔑の言葉となっている。彼らをあざけり、罵ったり笑いものにしたりするような悪意にみちたサイトがいくつもある状況で、さらには、そうした社会背景を利用して儲けている企業までがある。それは旅行会社やフィットネスクラブなどで、いずれもチャブを排除していることを謳い、顧客の中流意識を逆手にとって(くすぐって)利益を上げている。

そうした下流社会にいるチャヴは、政治家やその社会政策の問題ではなく本人の勤労意欲や生活態度の問題に還元し、メディア(とくに新聞)までもがそれを片棒を担ぐような報道をしている。なぜそうした自体がおこるのかといえば、ジャーナリストたちの生活が一般庶民とはかけ離れているからで、労働者階級出身のジャーナリスト自体が減っている。
それというにも、それなりに裕福でなければジャーナリストにはなれないと、全国ジャーナリスト組合委員長ジェレミー・ディアは指摘している。

英国は、先進国中でもっとも階級社会がいまだに残る国で、成功するにはサッカー選手かミュージシャンになるしかないというほどだ。デイビッド・ベッカムやウェイン・ルーニーのようなサッカー界のスーパースターたちも、労働者階級出身ということで「チャヴだ」と英国社会では馬鹿にされていることを初めて知った。

仕事がなく貧困生活を強いられ社会保障(生活保護など)を受けている人たちを、「福祉のたかり屋」として扱いそれがあたかも貧困生活強いられている労働者階級すべての人々であるかのようにニュースとして取り上げる。
オーウェンによれば、英国での不正受給者による損失は10億ポンド(約1,450億円)と無視できない額だが、富裕層による所得隠しでの損失額はその70倍の700億ポンド(約10兆1,500億円)にものぼるそうだ。

日本でも生活保護の不正受給が問題となり、まるですべての受給者たちはなんとか自分で稼ごうという意識が低い人たちばかりのように報道され、実態以上に過大にメディアで強調されることで、同じ低所得層といわれているほかの人たちの憤慨を煽り、だから生活保護者たちへの保護費の削減や受給基準の厳格化などは当然だというコンセンサスをつくり出すことに“協力”している。
脱税などのニュースに接することもあるが、それでもすべて発覚することはないように感じている。

今日の日本のメディアも、こうした英国メディアと同じ状況にある。かつて「第四の権力」といわれ、政権や社会における政策の矛盾や不正を追及したりチェックするはずだった新聞ですら、政治家など社会をコントロールしている権力者たちにすり寄っている。
 
しかも、それは世界的な傾向だ。もっとも自由を体現しているはずの米国でも、9.11以降、メディアは政府の機嫌を損ねないことや国民の顔色をうかがいながら、彼らの欲求通り(ポピュリズム)ニュースを流すように傾斜している。
そうした世界のメディア情況について、チョムスキーは湾岸戦争直後に著した『メディア・コントロール』原著:1991年)において、すでに現代の民主主義とメディア、その情報工作に関して警鐘を鳴らしていた。


■メディアの荷担とそれを利用する政治家たちの実態

オーウェンが、ジャーナリズム専攻の学生だったころ、ある保守党のそれも穏健派と目されている大物政治家を招聘し、非公開と匿名の成約条件付きで講演を依頼したとき、その議員から下記のような驚愕すべき発言があった。

「保守党は特権階級の仲間の連合で成り立っている。大きな党是はその特権を守ることだ。そして選挙に勝つ秘訣は、必要最小限のほかの人たちに必要な最小限のものを与えることだ。」

上記の発言について、20世紀の初頭にも労働者階級の3分の1が保守党に投票していた事実にオーウェン自身も得心したそうだ。保守党は、裕福な人たちの政治執行部門で特権階級連合の代弁者であり、そうした人々の利益や意志を政策として実行しているだけなのだが、民主主義制度のもとでは労働者階級をムチだけで叩くことができないので、アメも差し出しているだけにすぎないと。
 
そうした政治家たちは、選挙ごとに同じように繰り返していけば政権も維持できるし、かりに一時は政策の失態などで不興を買うことがあってもまた同じように狡猾な手段(言葉)や巧妙な政策を公約に掲げ、労働者たちの機嫌を過度に損ねなければ選挙の勝利を手にできることを学んだという。

今日の英国社会の問題は、サッチャリズム以降の政策によるものだとオーウェンは指摘している。サッチャー自身は中下位中流の出身者であったが、富豪のデニス・サッチャーと結婚したことで特権階級に囲まれる人生となった。
1979年、サッチャーは国民に呼びかけた。それは、階級というのは共産主義の考え方で人々や集団を仲違いさせるためで、本人が集団に依存した生活ではなくむしろ自助努力すべきだと。
サッチャー政権下、失業者があふれ、貧困層が増大し続け犯罪の多発と薬物中毒者も増加した。それでも、サッチャーが労働者階級から支持を得たのは、そうした人たちが成功への憧れがあり、それを自らの手で達成したいという意欲(願望)を巧みに刺激したからだ。

つまり、労働者階級に自助努力をうながし、プロレタリアートという意識から逸らすことで、階級という概念を外させることを狙っての発言なのだ。一方、労働者たちも努力しなければ報われなことも理解できるし、豊かな消費生活が送れるようになれば自らは虐げられたプロレタリアートという下流労働者から抜け出て、晴れて中流階級の“お仲間入り”が果たせるという希望が持てる。
 
政権にとってありがたいのは、労働者階級に自分たちは「中流だと勝手に思い込んでもらう」ことが肝要なのだ。つまり、人生のチャンスは社会的背景(貧困、格差、差別などを強いられている)にかかわりなく、その人の意志と行動力こそが問題だと信じ込ませることだ。
いずれにせよ、こうした状況は保守党と一部の労働者階級の双方にとって好都合だったし、メディアもそうした状況を誘導し、政治家たちもそれを利用してきたのだとオーウェンは語る。

(続く)
 

【関連リンク】
▼『CHAVS チャヴ 弱者を敵視する社会』がいろいろ凄い!!

社会分断による英国の『チャヴ 弱者を敵視する社会』は日本の近未来かもしれない 

オーウェン・ジョーンズ・インタビュー


【おすすめブログ】
●現代日雇い労働日記(前編)ーー21世紀フリーターの変容

●現代日雇い労働日記(後編)ーー21世紀資本主義社会の変容

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〓 ハイ・コミュニケーション私論 〓(ITmediaマーケティング)

〓 ShapeWin Blog 〓(PRコンサルティングファーム)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

創見に満ちた「書評社会学」の誕生ーー『風観羽』ブログの書評に触れて

41

私的公開日誌@ウェブ暦:171201.01

私がブログを開設し、もうすぐ10年になる。ブログタイトルを開設時のもの(恥ずかしいタイトルで、当時はなにも考えてなかった^-^;)からいまの“The Blog Must Go On”に変更したことを除けば、開設したころからずっと変わっていない。

ブログを開設したとき、特に書きたいようなテーマがあったわけではない。きっかけはその当時に在籍していたベンチャー企業(3D仮想世界)でPR戦略の一環として、設立間もなかったAMN(アジャイルメディア・ネットワーク)ブロガーミーティングを依頼したこと、加えて学生時代からの親友の強いすすめもあり、実際にはなんとなく始めただけで最初は何を書いたらいいのか迷うほどで、まさか10年も書き続けることになろうとは自分でも想像すらしていなかった

その後、私はブログ以外にも、08年にFacebook、09年にTumblr(13年米Yahoo!が買収)、twitter、FriendFeed(09年facebookが買収)、11年にLinkedIn(16年マイクロソフトが買収)、15年にMedium開設など、自分が気になって使ってみたいソーシャルメディアに懲りずに次々と手を染めて(アカウント開設して)きた。ほかにも、途中でサービスが停止(終了)になったりアカウント開設しただけで使わずに退会したものを含めると、正確に数えたわけではないのだが25種類くらいのソーシャルメディアは試したように思う。

10年前といえばWeb2.0という言葉がメディアでも大きな話題で、新しいインターネット時代に入ったと喧伝され、それでもソーシャルメディアといえばブログとSNSくらいしかなかった。このころブログはまだCGM/UGCと呼ばれ、それもICTや広告業界など一部の業界人たちが使っているだけでソーシャルメディアという言葉自体はもちろんなかった。SNSは、“MySpace”(当時)がもっとも有名で世界最大とそのころの各種メディアや本などでは紹介され、国内では私の初SNS体験となったmixiが最大手だった。

この10年で、デジタルツールはPCからスマートフォンが日常となり、現在では実に多種多様ななソーシャルメディアがあり、いまだに新らしく続々と誕生しそれらを利用するのが当たり前のコミュニケーション環境となっている。

さて、今回はあるブログについて触れてみたい。そのブログとは『風観羽〜情報空間を羽のように舞い本質を観る』のことである。私にとっては目標とすべきブロガーであり、そして率爾ながらもっとも刺激を受ける良きライバルである(と勝手に思っている^-^;)。
この『風観羽』(カザミバネと読む)ブログ主は、普通に企業に勤めている一般人なので、オンライン上では実名を公開してはいない。かりに“Aさんtwitter@SeaSkyWindと呼んでおこう。

Aさんは、私などとはレベルが違いそのテーマ性と記事クオリティの高さから、ハフィントンポストブロゴスなどのメディアにも記事が掲載され、またNewsPicksなどにもときどき取り上げられるほどのブロガーである。Aさんはマーケティングが専門というわけではないのだが、例えば、最近では「日本のマーケティングはもっと進化すべきだと思う」というような、マーケターにも気づきや示唆を与えるほど読み応えのある記事を書く人だ。


■セレンディピティによるリアルな場でのご縁

そのAさんとのご縁は、AMNが立ち上げ私も参加していた「ブログクラブ」(当時)主催によるブロガー同士の交流会があり、そこで幸運にも出会ったのだ。
それ以前にもAさんのブログは何かで読んだことはあったように記憶しているだが、その第一印象はとにかく「凄いブロガーがいるな」というものだった。ブログは日本ではいまだに日記に近いイメージや感覚があるかもしれないが、米国などではどちらかといえばジャーナリスト、コラムニスト、批評家、思想家、作家、エッセイストなどが情報発信するために活用するツールであり、journablogger(ジャーナブロガー)という言葉もあるほどで、それに近いような人なのだと(残念ながらこの言葉自体は普及しなかった)。
その交流会でご縁を得たことは、いまにしてみれば私にとって本当に嬉しいセレンディピティだった。

Aさんとは共通点が多い。年齢的に近く(2つ違い)私と同様に70年代半ばに学生生活を送り専攻学科も社会学系。Aさんは経済学、私は国際政治学。それに二人とも人文学(哲学、心理学、文化人類学、歴史学、文学など)が好き、読書体験(吉本隆明、高橋和巳など)までもほほとんど共通していたこともあり、出会ったときに意気投合してしまった(もちろん、これは私の勝手な思い込みかもしれないのだが……)。さらに、後で知ったのだがブログ開設した年(2008年)まで一緒だった。とどめはAさんも私と同じように1回で書く分量が多い(長い)のだ。

私にとって、目標とすべきブロガーと出会ったと感じた。それまで、マーケティングやICT・デジタル関連など仕事に関すること、好きな海外ドラマ、自転車レース(ツール・ド・フランスなど)などについて「私的公開日誌@ウェブ暦」ーーStartrek「艦長日誌(Captain's Log)」または「恒星日誌(Star Log)、宇宙暦(Stardate)…」にあやかっているーーとして徒然に雑文を書き散らしていだけだったのだが、叶うことならAさんのように知見に裏打ちされた深い洞察に満ちた文章(記事)を書いてみたい、という気持ちを強く持つことになった。

そのころのAさんの「私のブログ」という記事に以下のような文章があり、そこに表明されていることは私も同じ気持ちでブログに向かっているのでとても共感している。

「私のブログは、自分で言うのも何だが、とても地味だと思う。写真や動画を入れることは滅多に無いし、取り上げる内容もあまりup to date なものを選んでいるわけでもない。(セミナーの報告が唯一 up to dateと言えなくもない) どちらかというと、自分の関心のままに、自分が本当に書いておきたいと思うことを勝手気ままに書いている。(ただ、自分の現段階で書ける最大限ではあるため、毎回書き終わると、それなりの納得感や充実感はある。)まあ、一言で言えば、自分本位なブログなのだ。
それでも、読んでくださる方がいるのはとても嬉しいことだ。」

私のブログも開設時から実に素っ気なく、余分な写真や動画など見せるあるいは読んでもらうような工夫や要素がないし、「他人をダシにして己を語る」癖に加えて文章も長く、学生時代からの親友にもそれは指摘されているので読まれる人も限られるだろう。それでも、今後もそうした自分のコンテンツの志向性を変更しようという気持ちはない。


■卓越した独創性ある「書評社会学」

2017年5月、そのAさんのブログに東浩紀氏の新著『ゲンロン0』の私なりの読み方」という書評がアップされた。東浩紀といえば、現今の思想や批評あるいは言論情況においてほかの論客たちと比べ、“一頭地を抜く存在”と目されているのはご存じの方も多いだろう。
その東浩紀の最新刊の書評の中で、Aさんは以下のように語っている。

「ただ、自分の感じたことを他者も同じように感じるのか、あるいは、全く反対されてしまうのか、確かめてみたい誘惑にかられてしまう。よって、全体の書評というのではなく、ポイントを絞って、私の思うところを少しずつ書いていこうと考えるに至った。取り敢えずその第一弾として(第二弾がいつになるかはわからないが)、リリースしておきたい。今回は、本書をビジネスマン、経済人の立場で読むとどういう感想が出てくるのか、という観点で書いたことをまず最初に述べておきたい。」

私には思いもよらぬことだった。人文系の本、それも東浩紀の最新著書をビジネスパーソン視点で読み込むなどというのは。正直「やられた! さすがに凄い!」と思うと同時に、私にはとても真似のできないことだと感心した。人文系の豊富な知識と深く考察する力量がなければ到底できないことで、ビジネスパーソンとして築いてきたキャリアとその卓越した洞察力を見事に昇華させているAさんだからそこ可能なことだ。

そもそも、東浩紀の新刊であれば新聞やその他のメディアでも書評として取り上げられるだろうし、とくに同じ人文系の人たちからの書評は“黙っていても”数多くが出回るのは必至だ。アマゾンでも、一般読者たちからのレビューがきっといくつもつくだろう。
私自身はこの『ゲンロン0』は未読なので、同書について語ることはできない。

それというのも、ポストモダン系の思想家や批評家と呼ばれる人たちの著書は、それでも読まなくては思いながらこれまでにも何冊か挑戦したのだが、いまだにどうにも馴染めないでいるのだ。80年代以降で唯一の例外は、文芸批評家の神山睦美だ。その存在を知ったのは確か2000年代に入ってからだったと記憶しているのだが、神山の書く文章はすべて読みたいと思わせるほど引きつけられた。これほどの人を知ったこと自体が私は嬉しかった。それに比べると、Aさんは私がダメなポストモダンの著者たちまでいろいろと読み込んでいるのはさすがで、それも私には真似ができないと思っている。
もとより、これなどはまさに自己責任の問題でしかないのだが。加えて人文系の本は人文系視点をもって読むものだ」という考え方(固定観念)に囚われていたということもある。

Aさんは、その東浩紀の本を日本経済を含めた現在の世界経済の大きなうねり、ビジネス(労働)環境や社会状況などの変遷などに言及し、それにともなう社会や家族関係の変容などに引き寄せて本質的な問題にまで広く社会学的なアプローチをしている。そこに書かれている内容を、人間中心のマネジメント思想のピーター・ドラッカー、最近ではソーシャル(社会的)なものへの関心を高めているマーケティングの泰斗フィリップ・コトラー教授などになんとか接木できないかと考えているようなのだ。
Aさんご本人は、この書評ブログ文末に以下のように謙遜して記している。

「東氏の立場で言えば、本書を日本経済や企業の再生のために読むというのは、おそらく誤読であり、誤配に満ちているということになるだろう。だが、そのような誤読も誤配も、有益に思えるのが本書のもう一つの懐の深さだと思う。経営を思想として最後まで追求していた、ピーター・ドラッカーや、マーケティングを社会の良い意味での再構築の手段に昇華させようとしている、マーケティング界のカリスマ、フィリップ・コトラーに、本書を読ませて感想を聞いてみたいと本気で思うし、その領域を自分の次のライフワークにできないものか、夢想を掻き立ててくれる。但し、これは、すでに誤読を超えて、個人的な幻想の世界なのかもしれない。」

つまり、東浩紀の著書から取り出したこと(気づきや示唆など)を、ドラッカーのマネジメントやコトラー教授のマーケティングのフレームワークに引き入れあるいは活かせないものだろうかという構想(志)までもっているのだ
Aさんは「東氏の立場で言えば、本書を日本経済や企業の再生のために読むというのは、おそらく誤読」というのだが、それにインスパイアされる読み手にはむしろそうしたことは関係はないだろう。

Aさんが人文系の書評を通して今日のビジネス社会の状況を読み解くということ、これは単なる書評の域を超えて批評的思考あるいは批評家精神(と例によって勝手に称している)が宿っており、その深い考察による知見を読んだ人はきっと受け取ることだろう。

文芸批評家の斎藤美奈子が「書評家は原理的に「専門職」にはなり得ない職業である。書籍というものが森羅万象、あらゆるジャンルにわたっている以上、すべてのジャンルに精通している人間などいるわけないからだ。」(『本の本』)というごもっともなことを指摘しているのだが、そうであれば書評とは、評者の専攻学科領域の知見か自分のビジネスキャリア(専門業務)で得た経験とに引き寄せた視点を十全に働かせて思考し語るしかない

Aさんの今回の書評に接し、ここに「書評社会学」が誕生したのではないかとさえ感じる。ビジネスパーソンとしての視座に加え、社会学的な着眼点でこうした人文書を語ることができるのはほかの誰でもなくAさんだからこそ成しえることであり、その創見に満ちた書評にはこれからも大いなる期待をしたい。となると、次はその逆、すなわちビジネス書を人文学的な着眼点から語ることを、私個人としては望まないわけにはいなかない。それも私には無理だが、Aさんの経験とその自家薬籠中の知見であれば可能なことだろう。

私も、ヘンリー・ミンツバーグの『私たちはどこまで資本主義に従うのか』という書評を寄稿したばかりだった。同書は、バランス欠如の現代社会を是正するため、啓蒙的な小冊子(提言書)としてミンツバーグが著した本だ。
ここのところ「21世紀における市民社会=自己中心主義の共同体」という隘路を、どのように“始末するか”ということに私自身もあらためて関心がある(いまさらだし、大それたこと)。それは多分、“いつか来た道(革命による硬直した社会主義社会)ではなく、このグローバリゼーションが行くついた果てに「変態した資本主義社会」として現出してくるものではないか、と個人的には思っている。資本主義経済というのは、自己保存のためならどのようにも変わりうるし、それこそがこの経済システムの本質でもある。
Aさんには、是非ともライフワークとして引き続き探求していって欲しいと心より願っている。


■「ニッチ」な書評というポジショニング

多くの人たちが書評に期待しているのは本の読みどころとポイント(エッセンス)、要約的紹介など手っ取り早く内容が分かれば十分で、書評とはそうした情報としての意味が求められているのだろう。自分の関心に引き寄せて考えたこと、その思考のプロセスを織り込むような書評、つまり評者の考えや見解などは余計なことかもしれない。
現代人は、時間に追われている。いや、時間に管理されてる社会だ。書籍もそのほかの情報も過剰に溢れている。なかでも、日常的に情報に接するビジネスパーソンであれば、できれば書評対象本を読まずともその内容が短い文章に詰まっていて、新しい情報(知識)を得られることのメリットが最優先だと思う気持ちも理解できる。

変化のスピードが早く、破壊的イノベーションが常態化しているビジネス社会では、そのときどきの仕事に役立つ知識やノウハウこそが必要で、ビジネス環境が変化すればそのビジネス書も陳腐化して無用になる。ましてや、旬(新刊あるいは話題の時期)が過ぎれば、ほとんど意味をもたないのがビジネス書であり、その書評も同様であることを免れ得ない。
ウェブメディアは印刷媒体と異なるが、それなりに文字数制限はあるし長いより短い方がメディアにも読者にも好まれるだろう。

ビジネスパーソンは、業務に役立つか新しい知識を仕入れるためにビジネス新刊書を手にする。そうしたことからすれば、立花隆でなくとも書評はただの情報なので本に書かれている内容がわかるだけでよく、評者がどのように思考したのかは“不要な情報”だと。書評それ自体が、一般的には新刊書の知る情報源としていることもある。だから、本に書かれているポイントを簡潔な文章でわかりやすく紹介してくれるbookvinegarなどの要約サイトが人気なのも頷ける。

Aさんや私のように書評対象書籍を読んだことで何に気づき得て(知識)、これまでの経験や知見と照らし合わせて思索し確信したことむしろ疑問を感じたこと、ときには他者に問いかけるようで長い文章はニッチな書評だろう。だが、逆にだからこそ独自性を発揮できるともいえる。
さりながら、批評的思考あるいは批評家精神などとは口にしてみても、その批評家(批評的な営為)という存在自自体がいまでは絶滅危惧種であるし、私のような市井ブロガーの書くことは所詮はディレッタントでしかないことは本人が一番自覚している。


さて、最後に、これは手前味噌でまことに恐縮なのだが(^_^;)、クリステンセン教授の新刊『ジョブ理論〜イノベーションを予測可能にする消費のメカニズム』の書評ついて、そのAさんから以下のようなとても過分なメッセージを頂戴し、飛び上がるほどの嬉しさだった\(^O^)/。
「ある意味、このジャンルで他が追随できない新境地を梅下さんが切り開きつつあるのではとも思いました。」

また、私が最初のベンチャー時代からもっとも信頼しているエンジニアで、15年来の付き合いのある友人Kさんからは次のような言葉までいただいた。
「梅下さんと、何処ぞの飲み屋でお互いに最近読んだ本について、テニスのラリーのように語り合う、そんな印象を書評から受けます。」
これも、とてつもなくありがたい励ましのメッセージになった。

書評ではまだまだ若葉マークで、書いている本人はもちろんできるだけ多くの人に読んで欲しいとは願っている。しかし、同じ本について他者がどのような書評を語ろうがそれに関わりなく、これからも自分なりの切り口(視点)をもって独自性ある書評を書き続けていくこと。上記のメッセージは、友人だから当然ながら贔屓目で読んでくれているということもあるが、それを割り引いても上記の二人の言葉を心の糧としてさらに研鑽を積まなくてはと強く心に決めた次第。

【おすすめブログ】
●私の書評が長い3つ理由ーー読書における「書評的思考」または「超書評」という考え方

●人が読書する理由ーーその方法と量について

●ついに開催した「吉本隆明を読む会」によせて

●特集「人文書入門」ーー『文藝』2014年夏号

─────────────────────────────────
〓 ハイ・コミュニケーション私論 〓(ITmediaマーケティングブログ)

〓 ShapeWin Co.,Ltd. 〓(PRコンサルティング企業ブログ
─────────────────────────────────

私の書評が長い3つ理由ーー読書における「書評的思考」または「超書評」という考え方

批評と私

私的公開日誌@ウェブ暦:171226.01

毎月1冊、個人的な関心から読みたいビジネス書や著者あるいはみなさんが読むことで示唆やヒントがある本を取り上げ、新興PRコンサルティング企業のブログコンテンツに書評を連載し始めてほぼ1年がたった。

この間、約15冊のビジネス書を取りあげるとともに徒然なるテーマでのマーケティング・エッセイを書いてきたのだが、思いのほか多くの方々に読んでいただき、また寄稿しているメディアの代表からも過分な言葉を頂戴し、この連載を引き受けて本当によかったと心より実感している。
5年前(2012年)、それまでずっと情報収集ではお世話になっていたITmediaがマーケティングブログを開設するさい、私のような老兵にもお声がけをいただき嬉しかったが、この連載はさらに私には意義深いものとなっている。

この連載には、ありがたいことに友人や知人たち数人からは丁寧な反応(感想や意見)なども頂戴し、「書評を超えた書評だ」という人、書評を読んでその本を購入したという人、毎記事がとても参考(勉強)になるとメッセージくれる人などもいる。逆に、長くて読まれる確率が低くなってっしまうので、心配してもっと短くしてはとどうかとアドバイスしてくれる親切な友人もいる。
私の書評がほかと比べて長い理由、それをお伝えすること(ある種の弁明)ができればと思いこのブログを書くことにした。

確かに、私の書評は長いしそれを読むみなさんにもご負担をおかけしているだろうことも自覚している。一般的なメディアでの書評は、800〜1,200字が原則。文芸雑誌の書評でさえ3,000字程度である。私の書評は、4,500字を超えるものがほとんどだ。
中でも、メディア関係者よりPRビジネス(広報担当者)、ソーシャルメディアやコミュニティ運営者にこそ読んでほしいと願って書いた『デジタル・ジャーナリズムは稼げるか〜メディアの未来戦略』(ジェフ・ジャービス著:東洋経済新報社)は、前後編で10,000字にもなるという書評としては掟破りとなってしまった。

また、その経験からそれでも書評は分割してはいけないという反省から取り上げた『ジョブ理論〜イノベーションを予測可能にする消費のメカニズム』(クレイトン・クリステンセン、ほか3名著:ハーパーコリンズ・ジャパン)では、できるだけ短く収めようと思いながらそれでも1回の記事としては6,000字というそれまででは最大分量となってしまい、掲載いただいているクライアントにはテンプレート変更までも強いる結果となってしまって本当に申し訳ないと感じている。

もっとも、書評と平行して寄稿しているマーケティングエッセイも、4,500〜5,000字ほどになってしまうので、この個人ブログもそうなのだが、私の書く記事自体がそもそも長いという根本的な問題が解消できず、こちらも読んでくださる皆さまや掲載メディアには申し訳ないことだと感じている。

このブログ連載依頼を受けた当初、1回あたり3,000字程度という話しをいただき、私もそれくらいの文字数があれば十分に伝えられるだろうと思っていた。ところが、回を追うごとに文字数が増えてしまった。もちろん、書き出すころには多くても3,500からせいぜい3,800字くらには収めたいと思うのだ。
それが書き続けているうちに、伝えたいことやどうしても述べたいことがドンドン膨らんで想定外の長さになってしまう。

そうした状況にもかかわらず、クライアントから短くするように要請をうけたことは一度もなく、私が書いた書評や文章をすべてそのまま全文掲載してもらっているので、本当にありがたいことだと感じている。


■記事が長い3つの理由

新聞や雑誌では、書評が定番のコンテンツである。そのほかにもオンライン上には要約サイト(特にビジネス書)、一般の人たちが様々な書評を共有するための書評ソーシャルメディアで溢れている。
日本人は読書好きといわれてはいるが、書評の書き方を指南する講座も人気だというほどの書評好きでもある。だからというわけでもないのだが、私の書評が長い理由を考えてみた。その原因には、下記の3つの理由があると思う。

(理由その1)短くまとめる力量不足
みなさんも、本を購入するさいにはアマゾンのレビューを参考にしたことがあるだろう。今日では、書店などでも本を見つけてその場でスマホからアマゾンのレビューを参照している人たちも見かけるほどだ。

本が溢れ、忙しい現代人にとってその本がどのように評価されているのか書評は重要な情報で、買うべきか否かの判断材料にもなっている。購入者と同様、一般読者の感想や意見なので参考とした気持ちもあるだろう。
ブックレビューには長い文章もあるが、ときおりアマゾンでは簡潔で要点を指摘し、さりげなく自分の見解を添えているすぐれたレビューに出くわすことがある
そうした文章に接すると、新聞や雑誌の書評などよりずっと得るものが多いなと感じる。そして、自分にはとうてい真似のできないことであり、その才には羨ましささえ感じる。私は、そうしたときに自分自身が短くまとめるという力量が足らないことを悔しく実感してしまう。

(理由その2)批評家の影響と恩恵
学生時代から批評家(吉本隆明、高橋和巳、福田恆存など)ばかり読んできたし、いまでも批評家たちの著書を読むのが私自身が一番知的な刺激を受ける。そうした著者たちから大きな影響とさらには恩恵までも受けてきた。批評家のように思考し、彼らのように文章に著すということに長らく憧れてきた。もちろん、私がいま書いている内容がそうだとは間違ってもうぬぼれてはいない。ただ、彼らに少しでも近づきたいと努力を尽くしている。つまり、小林秀雄風に言えば「他人をダシにして己を語る」ということである。

つまり、本の内容について語りながらも、むしろその本を読んだことで自分の考えや主張を伝えたいがために書評というものを書いているのである。 

単に情報として本に書かれている内容を知りたいだけなら、要点を紹介する(まとめ)サイトが役立つだろうし、ほかの人たちがどういう感想をもったのか知りたいのなら、書評共有サイトやアマゾンのレビューで十分だろう。

私にとって、書かれている内容も大事だが、それ以上に著書の執筆動機、テーマの背景、着想や視点などが私には感心があり、自分が得た気づき、示唆、疑問などから思考したことを書き残しておきたいということなのだ。

(理由その3)情報としての意義と価値
新聞などのメディアに掲載されるほど著名人の取り上げている書評本を読みたければそれで十分だろうし、一般読者の感想が知りたければ書評共有サイトで満足できるだろうしアマゾンのブックレビューが役立つだろう。そうしたものは、メディアの幇間書評とは違って遠慮なく書いている人たちもいるし、メディアなどの書評よりずっとすぐれた内容に触れることもできる。
単に情報としての書評が欲しければ、要約サイトで済むだろう。私は、時評(読み捨て)情報となるような書評ではなく1年あるいは2、3年後に読んだとしても、そこになにがしかの気づきやヒントがある内容、つまりきちんとした読み物としてそれなりに意義や価値の記事として残しておきたいという考え方が根底にあるからだ。

わかりやすい例で言えば、【書評】『文庫解説ワンダーランド』ーー「目のつけどころが斎藤美奈子でしょ」などがそうだ。対象本のいわゆる“書評”として考えれば文章の前半はどうでもよいことで、後半の「本の時評+書評+批評=斎藤美奈子」からの内容だけが必要な情報だろう。
それも、後半の内容でもいくつもちりばめられている私個人の考えや感想なども不要で、とにかく書評対象本に書かれている内容が知りたいほかの人にとっては余計なことに違いはないだろうこともとわかっている。

ところで、かつて吉本隆明は、批評についての最大の悩みは作品になることを永遠に封じられていることだというようことを述べていたが、書評はそれ以上に禁じられ現在では暇つぶし情報として消費されているだけのような気がする。
数年後または数十年後に、もし私の書評を読んで紹介した本の内容だけではなく、書評を読んだことでなにがしかの視点、ヒント、気づきなどを得る人が一人でもいれば、それで書いたことの意義と価値があると私は思う。
つまり、生意気にも文芸批評家の高橋英夫に倣っていわせてもらえば、「書評とは何かという問いに対して、単なる要約ふうの、また解説ふうの文章の域を超えて、問題の本質に深くかかわる文章が示されたならば、その文章はすでに書評である。」という勝手な思い入れに尽きる。


結局、上記の3つの理由についても私の言い訳にしかすぎないかもしれない。長いことで読む人が少なく限られてしまうデメリットも重々承知している。それでも、私の考え方がぶれることはない。
私が書評に注力しはじめたころ、「できれば書評と批評を架橋する新しいスタイルを確立したい」最適な言葉が思い浮かずそう述べたことがある。だが、友人のメッセージにインスパイアされ「超書評」というのがとても気に入っている。超訳という言葉があるので、「超書評」というのを励みに今後ともそれを目指していくつもりである。

これからも、できるだけ簡潔で短い内容となるように努力するつもりなのではあるが、それでも長い文章で皆さまにはご負担やほかより時間を費やすこととなってしまうかもしれれない。
それにもかかわらず、みなさんにはご寛恕を願ってお付き合いをいただければこれに勝る幸せはない。

【おすすめブログ】
▼1億総書評家社会。「書評的思考」あるいは「書評家精神」のすすめーー誰にも読まれない書評。それでも書くことの3つの効用

▼書評家失格!ーー書評とは何かについて考えてみた

▼21世紀的書評のあり方とはーー書評に関するある読書人のノート

▼時間のないビジネスパーソンに嬉しいーービジネス良書の“サマリーサービス”(要約)「bookvinegar」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〓 ハイ・コミュニケーション私論 〓(ITmediaマーケティング)

〓 ShapeWin Co.,Ltd. 〓(PRコンサルティング企業のブログ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

マーケティングコミュニケーション関連の「厳選書評この4本」のご紹介

shohyonosigoto-bigl

私的公開日誌@
ウェブ暦:170711.01

昨年(2016年)4月以降、私のブログは滞っている。これは当該ブログ、ITmediaメディアマーケティングのブログともにそうした情況にある。
私のブログは、仕事に関わりがあるだけではなく関心の高い多種多様なミートアップ集まり(フォーラム、カンファレンス、セミナーなど)に参加し、そこで得た気づきやヒント、示唆に基づく考察などを記事化することが多い。

しかしながら、諸事情から残念ながらいまはそれが思うように叶わない状況にある。

さて、昨年末(11月)、マーケティング戦略に強いPR専業の新興企業(実は非常に少ない)から、ゲストブロガーとして記事を寄稿しませんかというお申し出をいただき、それ以降はマーケティングに関する記事すべては同企業サイトに寄稿している。

寄稿しているブログでは、書評を中心に記事を書いているのでだが、PR関連よりむしろマーケティングコミュニケーション全般、さらには経営戦略から人文・社会科学まで選書も自由に任されていることがとてもありがたい。
文字数も原則的にはあるのだが、私の記事はどうしてもそれを越えてしまうことが多い。しかし、どの記事も削られたことはなく、すべて私が書いた文章をそのまま全文掲載してもらえる。
とにかく、我が国では希な本当の書評が書ける素晴らしい場(メディア)をいただいたという嬉しさを感じている。


■書評という「伏魔殿」

今日では、メディア(新聞、雑誌など)では書評は定番コンテンツではあるのだが、それらは時評(月評)という役割が与えられているので、本来の書評ではなく第三者による新刊案内または紹介にしかすぎない、と私自身は判断している。
そうした書評の置かれている立場について、個人的な考えは【書評】『文庫解説ワンダーランド』ーー「目のつけどころが斎藤美奈子でしょ」」で語っているのでここでは詳しく述べないが、ご関心のある方はあわせてご笑覧を願えれば嬉しく思う。

ありていに言えば、書評というのは書評対象に書かれている内容と異なるような見解あるいは批判的なことを書くのは書評としては御法度で、その内容について語ってしかも原則的には「ほめる」ことが要求されている
したがって、本の評判を高めるまたは読みたいと強く促すことが目的とされている。それが、書評業界(あるのか否か疑問)では“暗黙の掟である。
これは例えてみれば、テレビ番組に出演しているコメンテーターが、その番組主旨や局側の意向に沿うようコメントをするのと同じである。

それは、出版社の書籍部門から刊行されている書籍が、その同じ出版社の雑誌の書評欄で取り上げられて記事になる場合、とりわけそうした掟がつきまとっているが、刊行された書籍とその出版社が直接関係ない場合もそうである。
こうしたメディアの書評について、私が読んだ“志ある書評者たちの本の中で異口同音にみなが語っていることでもある。
そうした書評事情について、民俗学者の赤坂憲雄はその著『書評はまったくむずかしい』(五柳書院)の中で以下のように述べている。

「この国のジャーナリズムの世界では、書評は書物の批評を意味するわけではない。批評など、誰一人として期待していない。著者も出版社も雑誌メディアも、誰もが暗黙のうちに、その本の商品価値が高まることばかり期待している。真っ向からの批評など、むしろ禁じ手となる。」

そうした“見えにくい政治の場で痛い目にあった赤坂は、だから「書評はむずかし」く、そうした事情にもかかわらず安くて「労多くして報われぬ仕事である」と、批評家の斎藤美奈子と同様に述べる。

また、批評家の福田和也などは、書評を厄介で信用のおけない権勢ゲームだと切って捨て、だから書評というのは出版社が思っているほど信用はされていないのだと、もっと挑発的に語っている(『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』)。
これは雑誌メディアも所有している大手出版社の書評に限らず、こうした「見えない約束事」(赤坂の言葉)に拘束され、自由かつ真摯にその書について語ることが許容されず、肯定と賛辞だけがまかり通るメディアでの書評ではまさに“疑似ステマ”と同様と言われても仕方がないのではないかとさえ感じる。

そうした事情があるからこそ、ある特定の書き手の書評集というのは希で極めて少ない。なぜならば、そうした書評のほとんどはその本が刊行した時点におけるただの読み捨て情報でしかないからだ。
幸いにして、私はそうではない書評に接してきたし、そうした人たちの書評集(単行本や文庫本)を読む機会に恵まれてきた。
もとより、立花隆のように、書評とは情報なので何が書かれているのかだけがきちんとわかればよく、その評者の見解や意見には興味も関心もないというような人もいる。これは立花隆だからこそなのだろう。


■真の書評を求めて

私もそうした呪縛や掟から解放され、私が読みたいと感じ、好評するか否かにかかわらず、他の人たちも読むことでなにがしかの参考となるだろうと得心あるいは了解ができる本だけを選定し、その本から気づきやヒント、示唆あるいは疑問など、様々に考えを巡らせたことを忌憚なく書かせてもらえことは、書評を書く立場としてはめったに得られない貴重なことだ。

新刊はもとより、旧刊・既刊あるいはその存在を知ったときにはすでに街の一般書店では手に入らない本(絶版)などを取り上げることもあり、それこそが真の書評というものだろうと勝手に思っている。

今回、そうして寄稿した書評が気がつけば10本になった。そこでそれを記念し(勝手なのだが^-^;)、それらの中から厳選した4本を以下にご紹介したい。
もし、皆さまの退屈しのぎや気分転換にでもご笑覧が叶い、なにがしかの参考にでもなれば嬉しく思う。


(1)【書評】『ビジネスで一番、大切なこと〜消費者の心を学ぶ』(ヤンミ・ムン:ダイヤモンド社)
https://www.shapewin.co.jp/blog1392
個人的にこの邦題には感心しないのだが、扱っているのはマーケティング永遠の課題であるDifferentiation(日本で「差別化」と訳される)についてだ。この訳語については、独自性や識別性などをむしろ当てる方が適切だろうと私個人は考えている。
もちろん、本書は元々は米国向けに書かれている内容である。訳書であり、本書のテーマの持つ陥穽は日本だけではなく“マーケティング立国”の米国でも、ご同様という紛うことなき事実なのである。

(2)【書評】『ピーター・ドラッカー マーケターの罪と罰』(ウィリアム・A・コーエン:日経BP社)
「私がもし現代マーケティングの父であれば、ドラッカーは現代マーケティングの祖父と称されるべき」と、本書の冒頭でコトラー教授はこう序文を寄せている。
ドラッカーに薫陶を受けた伝承者といわれているウィリアム・A・コーエンが、ドラッカーの著書(論文含む)をはじめとして講演や対談など含め、マーケティングに関する言説だけを丹念に収集して著した本。これを読むと、ドラッカーのマーケティングに関する慧眼ぶりに感服する。
原題は、“Drucker on Marketing”。

(3)【書評】『私たちはどこまで資本主義に従うのかー市場経済には「第3の柱」が必要である』(ヘンリー・ミンツバーグ:ダイヤモンド社)
ドラッカー、ポーターに比べて国内では知名度の低いミンツバーグだが、国際的にはこの二人以上の評価も得ている人。
本書は、最近の資本主義の大転換点に真摯に向き合ったミンツバーグの啓蒙的な書で、バランスを失った現在の世界に対し、より良い社会への新しいバランサーとしての「多元セクター」というコンセプトを提示し、その(市民)社会が損ねているバランスを是正しようとする提言が書かれている。
近代的自我=主体性論、要するに自己チューを乗り越え、どのようにして公共性との融和を図るべきかというのが現代思想で最大の隘路だ。フランス現代思想では、これを脱構築としてとして遂行しようとするのだが……。

(4)【書評】『競争としてのマーケティング』(丸山謙治:総合法令出版)
ジャック・トラウトとアル・ライズの二人は、私がマーケティング思考を形成するうえでもっとも多くを教えられた人たちだ。知名度ではフィリップ・コトラー教授に劣るが、二人の書は邦訳点数も多くそれだけ人気があるという証拠でもある。
コトラー教授の解(概)説書や入門書は多いが、この二人に関する入門書は本書が初めてである。すべての企業が顧客志向の今日、その陥穽に注意を促し、マーケティング戦略の本質について再考することを提唱している。

あわせて、ほかの6本も下記に簡単にご紹介。

初めて寄稿した書評は『ソーシャルメディア論〜つながりを再設計する』(藤代裕之編著:青弓社刊)だが、初回ということもあり手探り状態で堅く凡庸な書き方(書評)になってしまった。
第2回目が(上記1)で、マーケティング永遠の課題である“Differentiation”(日本語では「差別化」と訳される)で、ようやく自分でも納得できる書き方による記事となり、それがなんとか好評を得たように私は感じている。
『マーケティングのすゝめ〜21世紀のマーケティングとイノベーション』(フィリップ・コトラー/高岡浩三:中公新書ラクレ)は、齢80歳を超えてもなおマーケティングを探求しているコトラー教授。ネスレとコトラー・ビジネス・プログラム(KBP)のPRとチャチャを入れるのは野暮。昨年(16年)末に米国で刊行された“Marketing 4.0: Moving from Traditional to Digital”も、近々には国内でも刊行されるだろう。

『メディア・コミュニケーション[入門]〜対応から活用へ』(ウィリアム・ J・ホルスタイン:ファーストプレス)は、ジャーナリスによる本だが残念ながら街の一般書店ではすでに入手が叶わない。しかし、あえて書評に挑戦した。今日ではアマゾンやブックオフもあるので、こうした本でも手軽に入手可能だ。 
『コンテツマーケティング27の極意〜編集者のように考えよう』(レベッカ・リーブ:翔泳社)は、コンテンツマーケティングについて網羅的な内容で、そうしたマーケティングについて悩んでいる人には参考となるだろう。

『ウソはバレる〜「定説」が通用しない時代の新しいマーケティング』(イタマール・サイモンソン/エマニュエル・ローゼン:ダイヤモンド社)は、ステマ問題や昨今いわれているネイティブ広告などを検討している人には示唆となるだろう。
『すべては「売る」ために〜利益を徹底追求するマーケティング』(セルジオ・ジーマン:海と月社)は、2001年に米タイム誌で「20世紀三大広告人」の一人に選ばれ、CMO(最高マーケティング責任者)という言葉の普及で知られてもいるセルジオ・ジーマンの主著。刊行当時、全米では賛否両論がおこった。


上記のように、新刊・既刊(旧刊)にこだわることなく、まったくの個人的な関心にもとづき選んでコンスタントに書き継いできた。

私がこの書評を続けていてなにより嬉しいのは、クライアントから書評対象の本の選定を褒められたり、友人たちから買いました(アマゾンでポチりました)というメッセージをもらったり丁寧に感想を頂戴したとき、この書評を続けられる歓びや大いなる励みとなっている。
書評する本の選定にこだわっているのは、書評に注力することを決意し悩んでいたときに授かった「(極意その3)書評する本の選定にこそ、その書き手の個性がもっとも発揮されると心得ること。」というその教えのおかげであるとしみじみと実感している。

ところで、現在では書評だけではなく、ゲストブロガーという立場の自由度を活かしながらすでにいくつかの記事を書いている。
私は、それらを「マーケティングエッセイ」と(またまた勝手に^-^;)称している。こちらのブログも引き続き継続していくつもりである。
それは、広告代理店の傭兵マーケター約15年、ベンチャー企業のマーケティング責任者で約10年、ベンチャーや企業へのマーケティングアドバイザー歴で約5年の経験とそこで得た知見をすべて注ぎ込んだ内容とし、読者の皆さまに気づきやヒント、示唆となれば幸いである。

しかし、それは過去を振り返るような作業ではなく、現在性や未来について語るものにしたい。私に興味や関心があるのは、現在と未来だけであって過去を懐かしんだりする気持ちは一切持ってはいないしそれだけは十分に自戒したい


【おすすめブログ】
●【書評】神のなせる采配か?ーー『ジョナサン・アイブ〜偉大な製品を生み出すアップルの天才デザイナー』

●【書評】「見えざるものを見る力」〜ビジョナリーとは「洞察力」

●【書評】ビジネス書という「無間地獄」に思う

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〓 ハイ・コミュニケーション私論 〓(ITmediaマーケティング)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

3月の書店散策の収穫7冊のご紹介

1703books

私的公開日誌@
ウェブ暦:170321.01

ここ数日、ようやく春らしい日差しが感じられる時期となった。
3月の都内の大型書店散策に出かけたのだが、懐の寂しいときに限って欲しい本をいくつも目についてしまう(>_<)。

今回は新刊だけにかぎらず、既刊でも思わぬ本が出ていることを発見した。
「いやぁ、書店散策って本当にいいもんですね〜」(と水野晴郎口調)


(1)『震災後の日本で戦争を引きうける――吉本隆明『共同幻想論』を読み直す』(田中和生:現代書館/¥2200+税)
今年は、吉本隆明没後5年。ここのところ、吉本隆明やその著作に関する本の刊行が相次いでいる。著書は1974年生まれという、ここのところ相次いで登場している新世代の批評家である。
同著書は、すでに『吉本隆明』(アーツアンドクラフツ)も著している。こうした若い世代から福田恆存や吉本隆明について批評が誕生してくるのは歓迎だ\(^O^)/。

(2)『ブルデュー 国家資本(山本哲士:文化科学高等研究院出版局/¥4,800
80年代後半から90年代にかけ、構造主義、ポストモダンとは別に「ディスタンクシオン」や「ハビトゥス (Habitus)」という概念とともにフランスから登場してきたピエール・ブルデューは一部での思想界では随分と話題となった社会学者だ。
久々に名前を見かけた。山本哲士のこの本は、昨年末に刊行された『吉本隆明と『共同幻想論』、『フーコー 国家論』とをもって
国家論3部作」完結となるそうだ

(3)『社会学の使い方ジグムント・バウマン:青土社/¥2,376
ここのところ続々と翻訳本が刊行されている社会学者のバウマン。『リキッド・モダニティ』が日本の論客にも影響を与えたこともあるからだろうか。本書は社会学の入門書のようだ。

(4)『排除型社会(ジョック・ヤング:洛北出版/¥2,800+税)
本書は、困難〔difficulty〕と差異〔difference〕について書かれた本である。」と序文で著者は語っている。また、ジグムント・バウマンが「画期的な書物。驚異的なまでの博識、事実への深い洞察、明晰な論旨と論証が結びついたこの著作に、私は圧倒された。」とまで語っているのが本書である。

(5)『古典文学読本三島由紀夫/中公文庫/¥700
同文庫には、『文章読本』、『小説読本』『作家論』がある。この新刊は日本文学や古典の魅力を綴ったエッセイを初集成。文庫オリジナル。

(6)『無意識の幻想D・H・ロレンス/中公文庫/¥1,000
福田恆存が、ロレンスの『黙示録論 (ちくま学芸文庫)に大きな影響を受けたということで読んだのが、難渋な内容で途中で諦めたことがある。今回ははたして読み切れるだろうか。

(7)『高橋和巳(河出書房新社/¥2,052
同社では、これまでにもこうしたガイドブックとしては小林秀雄、吉本隆明、三島由紀夫、福田恆存などが刊行されている。まさか高橋和巳がでるとは思わなかった。

高橋和巳といえば、60年から70年代にかけて学生には吉本隆明とともに絶大な人気があった。70年代後半、遅れてやってきた学生だった私も吉本とならんで最も薫陶を受けた作家・批評家である。
最近、河出文庫から主要著作『憂鬱なる党派(上・下)』、『悲の器』や『邪宗門(上・下)』が新刊書として平積みされているのを見かけたし、4月には同文庫から『わが解体』も発売される。

個人的には、同社『高橋和巳全集』(全20巻)の第11巻(評論1)〜第14巻(評論4)をすべて文庫化してくれると嬉しくてありがたいが、それは無理だろうな。

【書評】『文庫解説ワンダーランド』ーー「目のつけどころが斎藤美奈子でしょ」

279048-1
私的公開日誌@ウェブ暦:170222.01

私は文芸批評家の斎藤美奈子の“書評を読むのが好きだ。彼女の書評を読んでいると、これが今様の「文芸批評または批評家の生きる道」という感じがしている。
斎藤美奈子の本業は文芸批評であるが、書評に関する刊行物の方が多いくらいだ。
ざっと上げただけでも、

・『読者は踊る』(文春文庫)
・『誤読日記』(文春文庫)
・『本の本 1994-2007』(ちくま文庫)
・『趣味は読書。』(ちくま文庫)
・『文芸誤報』(朝日新聞出版)

本人も書評が大好きだと公言しているのだが、これほどまでにその人の書評が書籍として刊行され、さらには文庫化までされている人を私はほかに知らない。『本の本』にいたっては800ページもあり、通常の文庫の2〜3倍のぶ厚さである。

私の学生時代、批評は随分と喧しい情況だったが書評はほとんどだれも気にもとめなかった記憶がある。今日、批評に比べて書評がメディアに溢れニーズがあるにもかかわらず、それでもまだ書評本というのは実は少ない
その理由は、雑誌も含めた様々なメディアや巷で書評コーナーが実はいわゆる「本の時評」のことであり、旬(新刊、話題の本扱い期間など)が過ぎればただの古い情報でしかなく、その価値はほとんど無も同然になってしまうからだ。
なかでも、3ヶ月や半年で陳腐化するようなビジネス書、ダイエットや健康に関する実用書などであればとくにそうで、それらの書評ともなれば書籍としてあとになって刊行するには出版社としてはリスクが高いからだ。

社会学者の橋爪大三郎は書評集『書評のおしごと』(海鳥社)のなかで、書評を規定演技のあるスポーツ競技にたとえて以下のように語っている。

「書評だけをあつめた本は、あまりみたことがない。それは、いわば規定演技のカタログ。著者(というか、評者)のまとまった考え(自由演技)がそこに書いてあるはずがないのは、明らかだ。というわけで、あまり売れそうにない。」

それでも、メディアで書評は需要の高い定番コンテンツで、最近でも時事通信文化部編集によるなんと1998年〜2014年まで、16年間分の膨大な書評を1冊にまとめた『書評大全』(三省堂刊、なんと17,820円+税)で、2,560ページという『広辞苑』も真っ青な分厚さの本が刊行されるほどだ。
こうした図書が刊行されるほど、書評に対する情報が求められているのだなとむしろ驚く。

書評家を生業としている人たちがどのくらい存在しているのか私は詳らかではないが、出版洪水の中で書評というのはほとんどが読み捨て情報なので、それもよほどの作家(文豪)や学者や著名人でもないかぎり、メディアでの連載書評を集めて書籍として刊行されることは一般的にはほとんどない。
まれな例では、<狐>の匿名でも書評集を著した村山修、ジャーナリストの立花隆などくらいだろう。

そもそも書評は、なにをもって正統な書評とするかだ。
それというのも「書評家は原理的に「専門職」にはなり得ない職業である。書籍というものが森羅万象、あらゆるジャンルにわたっている以上、すべてのジャンルに精通している人間などいるわけないからだ。」(『本の本』)と、書評大好きな斎藤本人もよく自覚している。

もとより、本の時評あるいは書評といえども、小林秀雄の『小林秀雄全文芸時評集<上/下>』(講談社文芸文庫)、吉本隆明の『空虚としての主題』(福武文庫)、『消費のなかの芸〜ベストセラーを読む』(ロッキング・オン)、柄谷行人の『反文学論』(講談社文芸文庫)などのクラスになると、本の時評といえどもあだやおろそかにはできない。
すなわち、大御所の書評や時評ともなればそれ自体がすでに一編の批評作品ともなっていることは、あらためて説明するまでもないだろう。


独自のポジショニング=斎藤美奈子の本

斎藤は、いわゆるオーソドックスな批評家ではないし、書評家としても正統派ではない

前者は、たとえば小林秀雄を頂点とし中村光夫、高橋英夫、江藤淳、磯田光一などから、最近では神山睦美、加藤典洋、山城むつみまで、細々とそれでも脈々と受け継がれているがそれらのだれとも異なる。
後者は、いわゆる新聞の書評欄のように学者、作家、ジャーナリスト、エッセイストなどが担当しているコーナーを基準とすれば、斎藤の書評は“逸脱”している
斎藤の書評スタイルには顔をしかめる人もいるだろ。文章は痛快無比で自由闊達、快刀乱麻にして軽妙洒脱である。辛辣な比喩も頼もしく、“褒め殺し”は天下一品である。

さらに彼女自身の本のタイトルの付け方、書評の見出しなどもコピーライター的なセンス抜群で文体も読んでいて愉しい。もちろん本のタイルは、編集担当者の協力もあってのことだろう。
だからというわけではあるまいが、“さとなお”の愛称で知られる元電通の佐藤尚之が、斎藤の『文学的商品学』(文春文庫)の解説を書いているというのも頷ける。

「面白い書評はあっても、正しい書評なんてない。」(豊崎由美著『ニッポンの書評』)わけなので、凡百の型どおり(規定演技)の新聞などメディアの書評に比べると、斎藤の穿つような独特の読み方は書評を超えた批評家としての資質が文章のいたるところで発現している

「書評とも時評ともつかない小論を集めた」と、自身で評する『読者は踊る』(文春文庫)などは彼女の特質が存分に発揮されている。
同書の冒頭には、「本書をお読みになる前に」として読み手が踊る読者か否かを判定するため20項目掲げられているので以下にご紹介。読書好きあるいは書評を読むのが好きな皆さまも、この機会に是非挑戦してみてはいかがだろう。私は、以下の○がついているのが該当項目だ。

○(1)空いた時間を書店でつぶすことがある。
(2)書店に入ったら、新刊書コーナーを見る。
(3)売れている本のベストテンが気になる。
(4)話題のタレント本を買うのはちょっと抵抗がある
(5)文字の少ないスカスカの本は損した気がする。
(6)見てくれが立派な本は中身も信頼できそうな気がする。
(7)上下二巻の本があったら、最初は上巻だけを買う。
(8)ベストセラーはできるだけヒトに借りて読む。
(9)欲しい本があったが、値段を見て止めたことがある。
(10)読みかけて途中でやめた本が何冊もある。
(11)新しいことを始めるときには必ずハウツー本を買う。
(12)似たような本が何冊もあったら、著者の肩書きと経歴を見て選ぶ。
(13)芥川賞・直木賞の受賞者くらいは読んでおいた方が良いような気がする。
(14)ブックガイドを読むのが好きだ。
(15)「知の最前線」「時代を読むキーワード」といった言葉に弱い。
(16)喫茶店や列車で何も読むものがないと寂しい。
(17)人の家に行くと、思わず本棚を見てしまう。
(18)本はあとがきから、文庫本は解説から読む。
(19)最近の本は値段が高すぎると思う。
(20)世の中にはくだらない本が多すぎると思う。

皆さんはどのような判定結果だろうか。
上記のうち、斎藤によれば10個以上○の人はかなり重度の「踊る読者」。5個以上は将来の「踊る読者」候補生だそうな。

私の場合は○が「8個」なので、「かなり重度の踊る読者」がほぼ当確のようだ。踊る読者のことを小市民読者と斎藤は呼んでいるがだが、私はこれまでそう感じたことはなかったが、斎藤によると私は“立派な小市民読者”ということになる。
(1)は「ことがある」どころではなく「必ず」で、人と待ち合わせをするときには書店でする。(10)は蔵書の半分は「積ん読」のままだし、(14)はブックガイドではないが、各出版社が毎年発行している「解説目録」に目を通すのがなにより楽しみだ。
(16)は空き時間があれば、本を読みたいと思う。(17)は他人の読書傾向を知りたい好奇心。(18)はまったくその通りの人間。(20)は、9割方はそうした本ばかりだと思う。

さて、そもそも斎藤のデビュー作『妊娠小説』以降『紅一点論』(共にちくま文庫)、『モダンガール論』『文壇アイドル論』(共に文春文庫)など、一連の批評著作群も極めてユニークで独創的な着想が光る書だ。

私が読んだ唯一の文芸批評は『文学的商品学』(文春文庫)だけだが、同書は高度資本主義(大衆消費)社会と文学作品におけるモノの語られ方と時代性を論じた批評で、その独特の目の付け所がいかにも斎藤美奈子らしい。
また、『読者は踊るで』(文春文庫)で指摘されている、日本の私小説の伝統は今日ではタレントの告白本に継承されているのが現在の出版情況だという見解は、これまで考えてもみなかった卓見であると思う。
『文章読本さん江』(ちくま文庫)は、文豪はなぜにかくも文章読本を著すのが好きなのか。「すべての文章読本は他の文章読本の批評になっている、という興味深い現象」に着目し、あまたの文豪の文章読本を俎上にのせた批評を展開している。
しかも、同書ではなんと第1回小林秀雄賞」を受賞してしまうというオマケ付きだ(ちなみに第2回は吉本隆明の『夏目漱石を読む』)


■本の時評+書評+批評=斎藤美奈子

その斎藤の新刊が『文庫解説ワンダーランド』で、これも着想(発想)の勝利でかつての広告コピー風にいえば「目のつけどころが斎藤美奈子でしょ」ってところだ。

しかも岩波新書である。岩波書店では、新刊案内も兼ねた読書家向けの雑誌として『図書』という薄い小冊子(PR誌)を発行している。大型書店などでは、場合によっては無料でも手にすることもできるが一年間の購読料でも1,000円しかかからない。その誌上で連載されていた『文庫解説を読む』を元に、大幅な加筆をして刊行されたのが今回の新書である。

もっとも、斎藤自身、「文庫解説という仕事が私はわりと好きである。書評より好きかもしれない。」というだけあって、自著の文庫化にさいしても『本の本』(ちくま文庫)、『誤読日記』(文春文庫)などは、書いた本人が文庫に自らが解説を付すことまでやってのける。

さて、文庫には必ず解説がつきものだ。その多くは文芸批評家や著名作家がその作品の解説を担当する。解説は、作品理解を助けるために存在していると誰でもが当たり前のように思っているだろうが、斎藤がそうではないことを暴露してしまう。
誰でも読んだことのある古典文学から現代文学までを俎上にのせ、様々な文庫解説について批評を展開する芸当は実にユニークだ。私たちは、ふつうは文庫の巻末に解説がついているのが当然と思っている。その当たり前を「なぜ」、「なんのために」と実に素朴な疑問を出発点にして以下のように語る。

「巻末の解説は文庫の付録、読者サービスのためのオマケである。しかし、人はしばしばオマケが欲しくて商品を買う。文庫解説もまた一個の作品。」

たとえば、食玩のオマケ、雑誌のオマケなどが欲しくてそれらを買った経験はだれにでもあるだろう。
私についていえば、バタイユの『文学と悪』(ちくま学芸文庫)は吉本隆明の、その吉本著『空虚としての主題』(福武文庫)は笠井潔『小林秀雄全文芸時評集(上/下)』(講談社文芸文庫)山城むつみの、と各々のオマケが欲しく(解説が読みたく)て手にした本だ。

今回の『文庫解説ワンダーランド』は、そのオマケ(解説)が批評対象で、国内では夏目漱石、川端康成、太宰治から、渡辺淳一、松本清張、赤川次郎、村上龍など、海外ではマルクス、シェイクスピアからフィッツジェラルド、カポーティ、チャンドラー、サガンまで多彩な各社の文庫解説を渉猟しながら各者各様の解説がなぜこれほどまでに違うのか、そうした事情や情況に対し「解説に解説を加える」という離れ業を披露している。
語り口は相変わらずの美奈子節が全開炸裂し、読んでいて思わずニヤリとしてしまうこと請け合いの面白さだ。

ところで、斎藤美奈子を文芸批評あるいは批評家の列に加えることに異論のある人もいるだろうことも承知している。伝統ある文芸批評とは、たとえば小林秀雄を頂点とする一連の批評家とその著作群であって、それらとは異なると。

私も、そうした伝統的な文芸批評や批評に長らく親しんできた人間だ。しかし、そうした批評家による百家争鳴の時代は、昨今では文芸批評や批評そのものはすでに絶滅危惧だと各方面から指摘されているほどだ。かつてのような情況は、悲しく残念ながら二度と到来することはないだろう。
もちろん、これには併走してきたいわゆる純文学の衰退という実情とも大いに関係している。
今日では、書評家による百家争鳴の時代ではあるだろうが。

しかし、考えてみれば先に紹介した吉本隆明著作(『空虚としての主題』や『消費の中の芸〜ベストセラーを読む』など)も、いまという高度消費社会における小説やベストセラー、それらを含めたサブカルチャー作品までも論じた著書である。
また、かつて『サブカルチャー文学論』(朝日文庫)を著した大塚英志のような批評家もいたが、現在ではそうした批評領域から足を洗ってしまった。

斎藤美奈子の書くものは、時評であり書評であり批評をもあわせもった(融解した)ような著書であることが特異で、あまたの書評家(という言い方が斎藤に許されれば)のなかでも独自のポジショニングを確保して異彩を放っている。


■斎藤美奈子の書評を私が好きな理由

とにかく、斎藤の作品はどれも一筋縄ではいかず、これまでの伝統的な文芸批評や批評の枠を超えた“企画力”がある
しかも、それらをひねりのきいたユーモアと巧みな比喩にのせ、おもわず上手いこと言うなと感心させられてしまう文章は魅力たっぷりで、もはやその文体(語り口)はまるで「書評漫談」のようなエンタテイメントですらある。

私が斎藤の書評を気に入っている理由、それは私が理想とする「批評と書評と架橋する」ということをいわば体現しているからだろう。それが、まさに斎藤美奈子の著す作品の新しさだ。
書評家の豊崎由美が、先の『ニッポンの書評』の中で、書評(ブックレビュー)と批評(クリティック)が明確に棲み分けられている(批評が格上で、書評が格下)のは日本だけで、欧米では両者に区別はないと語っていたが、こうした視点から見ればむしろ斎藤美奈子というのは日本では珍しい世界標準の書き手であるということもできよう。

私自身、もっと彼女のようにユーモア感覚にあふれ、読む人の笑いを誘うようなそれでいて辛辣だが嫌みのない比喩が上手い文章を書いてみたい、と密かに思ってはいるのだが……。

ところで、これは余談なのだが、私の手元にある書評本で一番古いのは久野収による『私の読書、私の書評』(三一新書)だ。
刊行は1976年で、この当時は読書論や文学論(批評)と比べても書評の名を冠した本が刊行されたこと自体が貴重のように感じる。この本は、様々な新聞と雑誌に久野が寄稿した書評だけを約80編を収めてある。読書論もなにも一切なく、ただそっけなく書評だけが並んでいる。
入手できたのはいつもお世話になっている下北沢の古書店「クラリスブックス」でだが、それはセレンディピティ以上のむしろ奇蹟ともいうべきで、しかも40年も前の本ながら新刊のような状態なのにも驚いた。

本書の刊行時は私の学生時代。もちろん久野収だけではなく書評というものは知っていたが、批評ばかり読んでいたので特に気にもとめなかった本だ。今日あれば真っ先に買い求めるところなのだが。
その内容はといえば、1950年代、60年代、70年代の三部構成で、目次にラインアップされている書評本をながめるだけでその当時の時代情況の息吹もさることながら、むしろ愉しいとさえ感じてしまう私である。

これは極めて私的な意見なのだが、先の村山修やこの久野の書評がたぶん王道で、本当は範ともすべきのような気が私にはする。それらを読んでいると「いやぁ、書評って本当にいいもんですね〜」と、かつての映画評論家のようなフレーズが思わず口を突いて出てくる


【他の書評リンク】
▼文庫本「解説」の「解説」の面白さ ―書評 斎藤美奈子著『文庫解説ワンダーランド』(岩波新書)―

文庫解説ワンダーランドーー目黒考ニの何もない日々

斎藤美奈子の「文庫解説ワンダーランド」を読んだ!

文庫解説ワンダーランド (岩波新書)ーーBooklogレビュー

▼文庫解説ワンダーランド 一日一読ー


【おすすめブログ】
●書評家失格!ーー書評とは何かについて考えてみた

21世紀的書評のあり方とはーー書評に関するある読書人のノート

1億総書評家社会。「書評的思考」あるいは「書評家精神」のすすめーー誰にも読まれない書評。それでも書くことの3つの効用

太宰治の生誕100年ーー忘れられている2人の作家について思う

2月の書店散策。新刊収穫のご紹介。

books_201702

私的公開日誌@
ウェブ暦:170216.01

先月は新春早々欲しい本数冊と出会ってしまったが、2月も中旬、ちくま学芸文庫、講談社学術文庫・同文芸文庫などの発売が続く。

これらの文庫では、今月はなにが刊行されるのか関心の高い本が集中するの日々なので、いつも通り都内の大型書店散歩をすると困ったことにまたまた欲しい本を発見してしまう。

それにしても、私が読みたいと思う本はとにかく文庫といえども価格が高く、引き続き食費を削ることを強いられるわけだ。いつも私の懐が寂しい状態がずっと続いているのは、そうした本が刊行されることが大きな原因となっている。

単行本では1冊3,000〜5,000円、文庫ですら1,500円以上するのがつらい。
これまでに購入した文庫で一番高かったのはモーリス・ブランショの『文学空間』(ちくま学芸文庫)で2,000円(税別)だったが、これはもはや文庫価格ではない。が、読みたいのでしようがない。
もっとも、そうした本ばかり欲しがるのが悪いのだ、といわれれば返す言葉はないのであるが(>_<)。

こうしてみると、新潮社をはじめとする一般文庫と新書というのは、まことに安いとしみじみ実感する。


(1)『革命論集』アントニオ・グラムシ(講談社学術文庫/本体1,680円+税)
先日「意外な本を、ひょっこりと刊行するのが学術文庫の得意技」と言ったばかりだったが、今月も驚いた本が文庫化。21世紀の今日、イタリア出身、マルキスト、アントニオといえば<帝国>や<マルチチュード>という言葉とともにアントニオ・ネグリが広く認知されている。しかし、20世紀、イタリア人でマルキストのアントニオといえば、「ヘゲモニー論」で有名だったのがこのグラムシだ。
グラムシ没後80年ということで、日本独自のアンソロジーだが「本邦初訳の論考を数多く含む」というのにとてもそそられるぞ。

(2)『北一輝――国家と進化』嘉戸一将(講談社学術文庫/本体1,680円+税)
皇道派青年将校による二・二六事件の理論的指導者として逮捕され、軍法会議により銃殺刑に処せられた北一輝。彼の主著『国家論及び純正社会主義』も『日本改造法案大綱』も、恥ずかしながら私は読んだことがない。
ただ、北一輝の思想には感心があり、いつかどこかでじっくりと繙いてみたいとは思っている。

(3)『社会学的想像力』C・ライト・ミルズ(ちくま学芸文庫/本体:1,400円+税)
考えてみれば、ちくま学芸文庫も意外な本をひょっこりと刊行するな。学生時代、確か専攻学科のゼミでミルズの代表作『パワー・エリート<上/下>』(東京大学出版会)を読んだ記憶がある。詳細は忘れてしまったが、少数のエスタブリッシュメントたちと産軍複合体とが、社会だけではなく国家をも支配していることを語っている書だったように思う。
当時はドイツ古典哲学しか眼中にはなく、米国の社会学者ミルズには特に興味がなかったということもあるので、他の書は読んではいない。
しかし、今回のこの本は是非とも読んでみたい。

(4)『吉本隆明 『言語にとって美とはなにか』の読み方』宇田亮一(アルファベータ/本体:2,500円+税)
臨床心理が専門という宇田亮一には、すでに『吉本隆明 『共同幻想論』の読み方』、『吉本隆明 『心的現象論』の読み方』(ともに文芸社)も刊行されている。これで吉本主著三部作の「読み方」本が出揃った。
そのほかに、その三部作をまとめてあつかった『吉本隆明“心”から読み解く思想』(彩流社)も著している。


昨年末から3ヶ月連続、欲しい本が続々刊行で痛し痒しだ。

【おすすめブログ】
▼今年初の古書店探訪記

▼今年最後の「書店ツアー」を敢行!

1億総書評家社会。「書評的思考」あるいは「書評家精神」のすすめーー誰にも読まれない書評。それでも書くことの3つの効用

poster20110525

私的公開日誌@ウェブ暦:170127.01

私はまったくの書評家ではない。そもそもライター(文筆)稼業でもない。だがここ最近、書評はとくに力を入れているコンテンツだ。書評は、それまで年に1本書くか否かだった
しかし、友人が主催し残念ながらいまは休止中のユニークな読書倶楽部に参加したこと(こういう巡り会いに感謝)をきっかけに、書評を本格的に手がけるようになる。読書がなにより好きで、そこで得た気づき、ヒント、示唆、発見などに思考をめぐらし(考え抜き)、なにがしかを書かずにはいられない性分だということもある

当該ブログには、それまでにも書店散策で出会ったり発見した本についても雑感記事を書いていたのだが、書評カテゴリを新たに設け名刺には本業のコミュニケーションアーキテクトのほか、「書評エッセイスト」と刷って(自称で“家”はちょっと畏れ多いので^-^;)いるほどだ。
学生時代からほとんど批評家に親しんできたせいで書評の書き方にもずいぶんと苦慮していたが、最近ではようやく他人の著作をダシに自己を語るという癖から脱却しつつあり授かった書評3カ条の恩恵にも感謝)、徐々に“まともな書評”のコツがなんとなく感覚的にわかってきたことも、私が書評に精を出している大きな要因ともなっている。

それでも、書評家(書評を生業にしている)ではないだけにいまでも悩むことが多く、これまでにもその難しさについては何度か記事にしている。それほど好きなのにもかかわらず、新聞や雑誌、ブログなどのメディアに掲載されている他人の書評を頻繁に読むことは実はほんどない

さて、私は当該ブログ、ITmediaマーケティングブログのほか、昨年末(16年11月)より、あるPR専門のベンチャー企業にゲストブロガーとして書評を中心に定期的に寄稿するようになった。書く(執筆)という行為は、誰にとっても主体的かつ能動的なのだが、ことビジネスとして考えれば完全受動的な受注業務である。

今回、マーケティング戦略に強い(実は非常に少ない)オンラインPR企業からのお話しで、ITmediaマーケティングの私のブログも読んでくださっていることもきっかけとなり、同社ネットのブログコーナーにゲストブロガーとして記事を寄稿しませんかとご連絡を頂戴した。
ただし、今の私はこれまでのように自由に多彩なmeetup(セミナー、フォーラム、カンファレンスなど)に積極的に参加し、そこで得た気づきやヒント、示唆などを記事にすることが叶わない実情であることを率直にお伝えした。

そこで、書評を中心に記事を書かせてもらうことでご了解とご快諾をいただいた。それであれば、現状でも書くことが可能で私らしさが表せるし、メディアにとっては定番ともなっている書評という人気コンテンツが新たに加わるとの判断もあった。

ゲストブロガーとして、新刊・既刊にこだわらず選書も私に任され、字数も3.000字程度(文芸誌の書評なみ!)でかまわないうえに、PR会社なのでそれに関連した本は業務上の必要からも皆さんは読んでいるだろうから、むしろそれらにこだわらない方がよいとの助言もいただき、自由かつ好きに書かせてもらえるというなんともありがたい申し出(条件)をいただいた。
これはお断りする理由など一切なく、謹ん(喜ん)でお引き受けすることにした。

そうして書評をいくつか書いたことで、別の視点から考えてみたらその効用や有用性について、まことに恥ずかしながら(ようやく^-^;)「ハタ!」と気づいたことがある。
かりに書いた本人以外の誰にも読まれない書評だとしても、それでも書評を書く意義と価値はあるということ。
私自身はこれを「書評的思考」あるいは「書評家精神」と、またまた勝手な言葉(概念)で表現している。まっ、批評的思考とか批評家精神という言葉はすでにあるので、それに倣っただけではあるのだが(^_^;)。
それは一体どのような視点や考え方でなぜすすめるのか、そのもたらしてくれる恩恵とはなんなのか。5年前、私は文芸批評を読むことの意義と価値について書いたが、今回は書評を書くことの意義と価値についてお話しをしたい。


■“不滅の人気コンテンツ”の書評

そもそも、書評というのは、私的な読者感想文でもなければレベルの高い批評でもない微妙な存在であると私自身は思っている。もちろん、書評にもある程度は定型の書き方や作法(掟)のようなものはあるのだが、批評のように確立された分野ではない。
 
1990年ごろ、書籍の新刊点数は約4万点だった。昨今、読書離れとか出版不況と喧伝されながらこの4〜5年は国内書籍の年間出版点数は、およそ倍の8万点前後の横ばいで推移している。総務省統計局の出版関連データには、いわゆるビジネス書というジャンル自体が項目としてはないが、年間で約5,000点、1日あたり約14点が書店に並ぶ計算だ。これにはネットによる情報化社会が、それを加速していることも一因である(これについては別稿を予定)。

どのメディア(おもに雑誌、新聞など)でも、ほとんど書評コーナー(ページ)が設けてあり、オンライン書店でもレビューサービス(アマゾンでは「週刊朝日」や「週刊文春」などの書評も提供)、「HONZ」「本が好き!」などの書評サイトも人気を集め、そのほかには一般の人たちもブログ上で書評を公表し、リアルでもオンライン(SNS)でも読書会が人気でコミュニティへの参加やそこでのビブリオバトル(書評プレゼンイベント)にも積極的である。
さらには「Booklog」「読書メーター」から本の要約サービス「bookvinegar」などの多様なソーシャルリーディング、ニュース専用アプリのSmartnewsなどでも書評カテゴリ開設するなど、そうしたブックレビューや書評ブログなどを読んで比較しながらその本を買うべきか否かを判断するなど、書籍購入にも大きく影響する。 
書店などで開催される書評家をゲストに迎えた対談イベントなどもすぐにチケットが売り切れるそうだし、書評講座も人気があると聞く。巷間よくいわれているような読書離れとは思えないほど、つまり今日では書評は人気の高いコンテンツである。

とにかく皆さん書評がお好きなようで(他人のことをとやかくは言えないが^-^;)、「書評の大衆化が起きている」(大澤聡)状況であたかも“1億総書評家社会の様相を呈している。
もちろん、中にはアフィリエイトで小遣い稼ぎだけが目的で書評ブログを書いている人もいることは知っているが、読書が好きでアウトプットするだけの時間と労力を費やしている。

マーケティング視点で見れば、メディアで書評対象の図書としピックアップされることは、今日ではその本の重要なPR戦略である。
たとえビジネス書でも、ビジネス誌だけではなく、複数の様々なメディアに書評として取り上げられれば話題や関心を喚起してその本の売れ行きに大きく影響する。メディアで取り上げられた記事の切り抜きが、書店に出向けばPOPとして置かれているのもよく見かけるし、書評本を集めたフェアもあるほどだ。

メディアに掲載される書評というのは、通常は発売から1〜3ヶ月以内の新刊書籍がおもな対象で、書評書籍もあらかじめ依頼する側(編集部など)から指定された本が対象となる。また、文字数はおおよそ800〜1,200字程度で、その範囲内に収めるのがほとんどのメディアでの習わしである。


■書評とは、情報化社会の「読書コンシェルジュ」

それほど書評の需要が高いのは、上記でも述べたが膨大な刊行図書点数を追い切れないし選択肢に困る。現代は多忙で少しでも時間を節約して読みどころ(ポイント)がわかればそれでよく、他方では読書をしたいが本が多すぎて一体なにを読んだらよいのかわからない人が最近では多いということも関係しているだろう。

ビジネス書ーー多彩なテーマと内容でこのジャンルが書店の一角を占め、年間5,000点以上も刊行し、しかもベストセラーまで次々と輩出するようになったのはこの数十年ほどだ。
ビジネス書を読む行為というは、新しい情報(知識やノウハウなど)を取得することが主な目的で、それは一種の“ビジネスツール”である。読書は時間もお金も費やすのだから効率的に本を利用したい(内容を知りたい)。そのために書評はその本のテーマと内容を知るために必要であり、あわよくば読まずに書評から知見だけ得られればそれにこしたことはないという人もいる。

また、巷間ーーそれも話題書やベストセラー書ともなれば、読んでいないなんて恥ずかしいし、同僚や取引先での雑談などのコミュニケーションにも有用なのでせめて概要だけでも知っておかなくてはという心理も働く。
変化のスピードが速い今日、多忙なビジネスパーソンにしてみれば、玉石混淆の書籍の中から読書はお金も時間も投資するのであるからできるだけ短時(期)間で大きなリターンが欲しいわけで、限られた時間とお金のなかで“読んではいけない本”に手を出すリスクは避けたい。
ビジネスパーソンに速読術が人気が高いのもごもっともなことだ。

できるだけ良質なビジネス書を選定し、その内容を要約してくれる便利なサービスに上記で紹介した“Bookvinegar”がある。
その代表Sさんは年間400冊ちかくを読んでいる。彼によれば、話題性やブームに拘泥せずに良書にこだわってピックアップしても、読んでよかったと思える本は本当に少ないという言葉が印象的だった。
このサービスで、私の場合、食指が動くのは「推薦ポイント」が8ポイント以上とシビアな点数となっているのだが、それが非常に少ないことから判断してもそれは頷ける。
「新刊ビジネス書の9割は読む必要がない」とまで断言する人までいる。私はそこまでは言わないまでも読むべきビジネス書が本当に少ないことはそれでも十分に納得している。またこれはビジネス書に限らないのであるが、新刊書、話題の本、ランキングの書店の3コーナーに興味がなく、これらはいつも散策せずに私は素通りしている。

したがって書評とは、膨大な量の書籍の中から私たちにとっての「読書コンシェルジュ」の役割を担っていると考えてもよいだろう。
書評自体、買う前に本の内容を知るための予習代わりが一般的だろうが、しかし、読んだあとで他人の書評に触れる復習が有用で、自分にはなかった視点、気がつかなかったことなどの示唆を得られる。
文芸批評家の斎藤美奈子などは、書評は「読書代行業」でバイヤーズガイドとしての予習としての利用が大多数だが、その本を読んだあとに復習として書評を読むほうが面白く、後者が「読書を立体的にする」とまで語っている。


■読まれない書評=自分自身に向けて書く書評という営為

通常、特に一般メディアに掲載されるような書評は人に読まれることを想定している。それは、市井の書評ブログでも同様だし、私もこれまではそのような心づもりで書いてきた。しかし、かりにその書いた書評が自分以外の誰も読まなかったとしても、それでも大きなメリットがあることに気がついたのだ。

それは「自分自身のために書く書評」というものだ。読書して内容を受容して済ませるだけでははなく、知識として蓄積され読んだことを自分自身の血肉化すためにも不可欠である。
書評を他人にも読んでもらいたいというような気持ち(意識)を捨て、ただ己のためだけに書くということ。さらに、読まれないという考え方はブログのPVに一喜一憂せず、まったく気にかけない(無視する)ということと同義語でもある。

私自身は書評というスタイルが好きで書いているのだが、それほど大げさなものではなく、その人に合った私的な箇条書きなどによる読書ノートやメモのようなものでもかまわないだろう。
読書ノート作成のコツやノウハウなどについての本が書店には並んでいる。かつてであれば、読んだ本についてノートに記すのであるが、そこは現在のありがたいデジタルテクノロジーの恩恵に与るのが賢明な選択というものだ。
 
デジタルに書きためておけば、その内容をキーワード検索できるし、関連する書籍あるいは参考情報(著者プロフィールとその関連書籍、文中の参考図書や資料など)のハイパーリンクを貼り付けておくことでさらにそれらに容易にアクセスができ、情報や知識の拡張性にもつながるなどのメリットは大きい。

書評にかぎらず、私はブログ原稿はすべてEvernoteを活用している。ちょっとでも思いついたことはすべてそこに書きためている。そうすると書きかけのブログが貯まるばかりなのだが、それらが後に同様なテーマや関連する記事を書くときには役立つのでとても重宝している。手書きメモも併用し、方眼紙メモ帳で胸のポケットに収まるサイズを常に持ち歩き、思いついたことやキーワードなどをその場でメモしておき、あとで読み返してからEvernoteにアップしている。
 
先にあげた「読書メーター」「ブクログ」のようなサービスを利用することのもよいだろうし、FileMakerで私家版読書メモを作成するなどデジタルツールの利便性を存分に活用することだ。

さて、書きかけの中には最後まで完成にいたることなく、ずっと眠ったままあるいはそのまま廃棄されてしまった書評もいくつもある。書き上がっていない書評は、もちろんブログにアップされないので誰にも読まれないままだ。
だが、私がここでいう“誰にも読まれない書評”というのは、そうした未完成のものではなくきちんと完成してブログにアップした記事のことである。


■「書評的思考」あるいは「書評家的精神」のすすめーーその3つ重要なポイント

さて、アップすれば誰でもアクセスできるし読まれるのだが、かりに誰にも読まれないあるいは読んで欲しくない密やかな日記のよう内容を、それではなぜ書評として書くことをすすめるのか。
それは、下記の3つの理由(メリット)があるということに気がついたからだ。

(1)思考の整理、論理的思考力の強化が図れる
ただ情報や知識を得るだけで読書をするのと、他人に読まれるか否かに関係なくアウトプットを常に意識して読書をするのとでは随分と違ってくる。
未知の情報や知識を得ること、著者の考え方や視点を理解することだけではない。かりに考え方に納得できなかったり、内容が難しくて了解できなかったとしてもなにがしかの気づきやヒントを得ることができる。
本(著者)と向き合うことで、自分の中にある知識と思考を整理できたり、欠けていたピースを見つけたような経験をしたことのある人も多いだろう。さらに、本を書評にすることで自身の思考力と文章力がさらに鍛錬される

(2)気づきや示唆などを備忘録として活用できる
アマゾンのレビューを読む人は多いと思うが、それらを読むと同じ本を読んでも十人十色だということが実によくわかる。読んだ人たち各々の視点や気づきなどがばらばらで、レビュアーの人たちはどのように読んで理解したか、その人の視点やどこをポイントにしたかなどを知ることができ、自分にはなかった発想や考え方を知る絶好の機会である。
本を読んだあと、そうした他人の書評やレビューに接することでものの見方の多様性、複眼的思考をおのずと自己のうちに持つことができるようになる。
斎藤美奈子が復習で読む書評こそ「読書を立体的にする」というのも頷ける。

(3)読書時の自分との対話し、成長を確認することができる
書評をブログなどに備忘録としてデジタル化しておけば、忘れ(眠っ)ていたり思い出せないことでも、スマホがあればすぐに検索して探し出せる。そうすることで、過去(読んだ当時)の自分と対話することができる
これなど、まさにテクノロジーのありがたさである。また、その本を読んだときに得た知見が活かされているかなど、読書時の自分と現在とを比べて検証するこにも役立つだろう。
わかったつもりがいざ内容をまとめたり要約するとき、読んだ本をどの程度自分が理解しているのか、論点をきちんと把握し咀嚼できているかなどを確認できるし、自分の成長度を測るバロメーターの役割をはたすだろう。
私もときどき、過去の自分の書評をキーワード検索したり読み返してみると、いまでは忘れていたこと、自分でも意外なことを書いていることを発見することがある。


このようにして読んで済ませるのではなく、書評にすることで上記のようなメリットが得られる。
書評を書くのは、確かに時間も労力も必要で煩わしく大変な作業ではある。また、人に読んでもらう前提と自分用に備忘録として書くのとでは、もちろん書き方など違うことも私は十分に理解しているつもりである。

読書することで、脳の神経シナプスの奥底で眠っていたあるいは埋もれていた知識や情報が目覚め、一見まったく無関係な情報と情報とが一瞬で結びついたり、人によってはそれで天啓(ひらめき)を得ることもある。
故スティーブ・ジョブズによる有名なスタンフォード大学卒業式でのスピーチでの“CONNECTING DOTSとはこのことで、ヒト・モノ・コトなどすべてのについていえることだというのが私の実感である。
 
書評を書くことで、本の内容について受け身の(受容)読書から攻めの(創造的)読書へと転換することを意味している。その意義と価値は大きい。

私が誰にも読まれない書評を書くことをすすめる大きな理由とは、書評という行為を通してまず著者と対話し、それをログとして残しておくことで数年後にはその読書時の自己とも対話ができる、ということをいまさらながら“発見したからだ。
つまり、自己の精神に「書評的思考」や「書評家精神」を形成することができ生涯の財産を手に入れることができるということなのだ。

ここまで読んで、なんだそんなことか。とっくに実践しているよという人もおられるだろうが、ま〜今頃になって私はあらためてしみじみと実感したという、なんとも情けない次第ではある(^_^;)。


【関連リンク】
▼60年あまりに渡る書籍のジャンル別出版点数動向をグラフ化してみる(2016年)(最新)

【日本の統計2016/書籍】出版の戦略。書籍の出版点数と平均定価(総務省統計局 日本の統計2016)

▼プロの書評とアマの書評は何が違うのか?

▼「よい書評」とは何か〜その本をいくら読んでもよい書評は書けない

▼初心者必見!加速度的に頭が良くなる書評ブログのメリットとその書き方とは!?

▼書評ブログを書く最大のメリットは何か?築山節氏の「脳の回転数をアップする」という言葉からインスパイされたこと。

▼それでも僕が書評を書く理由。

【おすすめブログ】
ネット社会で、改めてリアルな場、リアルなコミュニケーションの意義について考えた〜10 over 9 reading club 2014年活動を振り返って

21世紀的書評のあり方とはーー書評にするある読書人のノート

●時間のないビジネスパーソンに嬉しいーービジネス良書の“サマリーサービス”(要約)「bookvinegar」

●人が読書する理由、その方法と量について

17年新春、書店散策は欲しい本が続々と。困った、実に困った……。

170123_books

私的公開日誌@ウェブ暦:170122.01

都内の大型書店散策というのは、私にはテーマパークを楽しむような感覚がある。何時間すごしていても、私にはまったく飽きるということがない。

今回は、仕事帰りに新宿の紀伊國屋書店本店に立ち寄った。目的は、下記の(1)だけを購入するためだ。ついでに、ツアーというほどではなく軽い書店散策のつもりだったが、いつも通りに欲しい本に続々とバッタリと出会ってしまう羽目になったのだった。


(1)『文庫開設ワンダーランド』(岩波新書:840円+税)
私は斎藤美奈子の書評が好きである。実は、彼女の本業の文芸批評は読んだことはない。彼女の“余技”である書評が好きなのだ。その斎藤が、今度は文庫本の巻末にある解説について“書評”を出したのが本書だ。
文庫本の解説はオマケだが、それが欲しく(読みたく)てそれを買った経験は誰にでもあるだろう。特に好きな作家や批評家が解説を担当しているとなればなおさらである。

(2)『増補 日本人の自画像』(岩波現代文庫:1,480円+税)
https://www.iwanami.co.jp/book/b279052.html
今日では、文芸批評は絶滅危惧ジャンルである。それでもいまだに私が読み続けているのは、笠井潔、加藤典洋、神山睦美、山城むつみくらいだ。そうした中で、もっとも文庫化されているのが加藤である。
しかも、文庫化に際しては、そのほとんどが増補版としての発売。本書もその例にもれない。

(3)『愉しい学問』(講談社学術文庫:1,450円+税)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062924061
こういう意外な本を、ひょっこりと刊行するのが学術文庫の得意技だろう。本書は2012年に『喜ばしき知恵』のタイトルで河出文庫から出たばかりだ。こちらか『悦ばしき知識』という訳書名が一般的によく知られ流通している。
ニーチェの代表作は、ほぼ1882〜88年に集中している。つまり、それは『ツァラトゥストラ』しかり『善悪の彼岸』、『道徳の系譜』などがそれにあたる。
「訳者あとがき」に、なぜ刊行することにしたのかについて3つの理由を語っているのだが、それを読んで本書を無視できなくなってしまった。

(4)『テロルとゴジラ』(作品社:2,200円+税)
http://www.sakuhinsha.com/nonfiction/26061.html
こちらも思わず見つけてしまった。今回はサブカルチャー(アニメや映画など)と政治論とを収めた新刊。本人によれば、こうした社会思想論の本は『黙示録的情熱と死』(94年)以来、約20年ぶりとのこと。しかし、新書版の『国家民営化論』(95年)、『例外社会』(分厚い700ページ)も同じ領域だと私は思うのだが……。
とにかく、本書の「あとがき」に、代表作である『テロルの現象学』(84年刊)の続編ともいうべき『ユートピアの現象学』の執筆に向くとのことで、そちらも楽しみに待とうではないか。

(5)『吉本隆明と『共同幻想論』』(晶文社:4,500円+税)
http://www.shobunsha.co.jp/?p=4140
あら〜。先日、同じく高額なブランショの『終わりなき対話』第1巻を見つけても手が出なかったが、当然ながらこちらもしばらくはお預けになる。吉本隆明のこの代表作はこれまでにもっとも「論」が書かれている書である。
イリイチ、そしてフーコーの研究者と知られている山本哲士が、それらを踏まえて吉本理論の現在性を照射する書らしい。こちらも分厚い。

(6)『批評の熱度〜体験的吉本隆明論』(勁草書房:2,500円+税)
吉本隆明没後5年。著者は新聞社の学芸部に所属する記者として、晩年の吉本に何度もインタビューをしてきた。吉本の著作に触れたのは80年代前半で、初めて直接会ったのは97年。それから亡くなる12年まで年1回の取材が続く。
1980年代から2012年まで、著者がじかに接した吉本と読書体験のなかで著作を論じ、その仕事が現在と未来において持つ意義、さらにはその限界をも語る。


それでは、今年も良書とともに愉しい読書を\(^O^)/。

16年師走の書店ツアー、食費を削ってでも購入したい「至福の収穫文庫」この5冊

161229_shoten_tour

私的公開日誌@
ウェブ暦:161230.01

2016年の師走。今年も今日と明日を残すのみ。思わぬ事情からプロレタリアートだということを実感する日々ではあり、今年ほど1年が短いと感じたことはなかった。
それでも、大型書店を気ままに散策し、気になる本を手にしたり、思わぬ書とのめぐり会いが私には最も楽しいひと時である。

一昨年(14年)末に書店ツアーで年末を締めくくったが、今年は約2年ぶりの楽しい年末書店ツアーとなった。今回は仕事帰りだったこともありブックファースト新宿店、丸善&ジュンク堂書店渋谷店の2店だけとなった。
待ちかまえていたのは「至福の収穫文庫」に加え、あの大著の思わぬ発見となった\(^O^)/。

今日、スマートフォンやメール、メッセンジャーの普及さらにはGPSの進展で、街中や集まりなどでも人と偶然にも「バッタリ」出くわす機会は少ないように思う。
amazonなどオンライン書店が当たり前で目的の本がすぐに見つかる今日、気ままな書店散策だからこそ経験できる思わぬ本との悦ばしい邂逅というものがある(これはブックオフや古書店でも同様)。

今回紹介する書籍は、遊興(交際)費を削ってでも購入すべきと私自身は思った。しかも、今回は文庫が多いので棚の専有面積を大きくとらないのもありがたい。
年末年始、スカパー!恒例の海外人気ドラマの一挙放送の誘惑をはねのけ、ここは是非とも読書三昧で過ごしたいものだ。

それにしてもだ、どの本も文庫なのに1冊1,500円以上なので痛い出費となるが、良書を手に入れるためならその分だけ食費(私に遊興費の余裕などはない^-^;)を削るのが学生時代から変わらぬ私の癖である(>_<)。

まずは下記の3冊からご紹介。


(1)『内的時間意識の現象学』エトムント・フッサール(ちくま学芸文庫/定価:本体1,700円+税)
フッサールの本は、みすず書房から主要著作はほとんど刊行されているが、この本は現在は絶版となっている。
フッサールが文庫化されるのは、古くは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(中央公論社)、最近では『間主観性の現象学 その方法(1〜3)』以来のこと。
そもそも、フッサールほどの大哲学者の著作は、ほかの哲学者(例:ヘーゲルなど)に比較しても文庫化されていないのが不思議なほどだ。

ポストモダンとそれに続くマルクス主義の崩壊、もっとも重要な哲学者としては、ニーチェとフッサールが代表だろう。しかし、前者ほどには後者は文庫がされなすぎるぞ。もっともメルロ=ポンティもそうだが……。

今後、みすず書房刊の『イデーン〜純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想』『現象学の理念』だけではなく、『厳密な学としての哲学』『現象学序説〜デカルト的省察録』なども、この学芸文庫化してくれることを強く希望するものである。是非とも、学芸文庫の担当者には文庫化にむけて最大限の努力をして欲しい、と勝手なお願いをしておこう。

(2)『哲学史講義 検截如Γ廖Γ董Ε悄璽殴 (河出文庫/1,728円+税)
長谷川宏訳によるヘーゲルの同書もついに最終(第4)巻。
全集を刊行している岩波文庫ですらこの大ヘーゲルの著書はほとんど絶版になっていて手に入らず、今日では『歴史哲学講義』(長谷川宏訳)くらいしか常備(刊行)されていないのは悲しく残念な状況で、むしろ憤りすら感じる。

同文庫には頑張ってもらい、同氏訳による『精神現象学』『法哲学講義』、いわゆる哲学諸学綱要(『論理学』、『精神哲学』、『自然哲学』)も文庫化を強く望みたいぞ。

(3)『ブルジョワ 近代経済人の精神史』ヴェルナー・ゾンバルト(講談社学術文庫/定価 : 本体1,750円+消費税)
つい先日『ユダヤ人と経済生活』が、同文庫から刊行されたばかり。
マックス・ヴェーバーが、ハイゲルベルク大学を去るにあたり自ら後継者に彼を指名したそうだ。しかし、その当時はマルクス主義経済学者として名をはせていたことから、同大学教授への任官を拒否されたとのこと。
しかし、ゾンバルトはマルクス主義者ではない。

最近では、欧州をはじめとしてゾンバルト見直しの気運がたかまっているそうで、こうなれば代表作と評価されている『近代資本主義』、それにマルクス主義学者としての評判を高めたと評されている『ドイツ社会主義』の2冊も、是非ともこの学術文庫で文庫化を強く、本当に強く望みたいものだ。


【講談社学術文庫40周年】1976〜2002年の名著20点を「特別復刊!」
この文庫に限らず、同社の文芸文庫でもやむを得ない出費となってしまう。もっとも、上記のちくま学芸文庫と同様にこれらの著作群は刊行されるだけでも実にありがたい。
そもそもが、こうした本などは好事家しかくらいしか購入しないことはわかりきっていて、ニッチ市場の文庫である。高くても買うだろう(ほら、文庫にしたぞ。欲しいだろう君)と見透かされているような気がするのは私だけか。

今回のリクエスト復刻は、帯には「全国の書店員が選んだ今だから読みたい20冊」と謳ってある。
ただし、今回のリクエスト限定復刊は岩波文庫のそれとは異なり、どこの書店にも常設されていないようだ。丸善&ジュンク堂書店渋谷店には当然あるだろうと仕事帰りに立ち寄ったら、なんと1冊も置いてなかったのには驚いた。
店員に聞いたところ、今回の復刻については書店員なのに知らなかった様子だった。

逆に「ないだろうな」と思っていたいた渋谷駅前のブックファースト店には、B1書店入口の文庫コーナーに特設コーナーがあり復刻版の全ラインアップが揃っていた。

今回の復刊文庫の購入をご検討に皆さま、購入の際には書店選びにはご注意を。購入したのは下記の2点。

(4)『マルクス主義の地平』(廣松渉講談社学術文庫/定価 :
原著の出版は69年。今日では、マルクス“主義はケンシロウ風にいえば「すでに死んでいる」。廣松は、歪められたマルクスその人の思想を復元し、継承・発展させることに挑みながら独自の哲学を築いてきた。

マルクス主義の終わりを告げられていた最中、93年にデリダは『マルクスと亡霊たち』、98年はネグリの『マルクスを超えるマルクス』など、マルクスその人自身の言説と理念の「遺産創造」または「資産継承」をしようとする“心ある人たち”の本が著された。
私自身も、マルクスその人の“理念はまだ死んではいないし、再び光があたる時がくるだろうと考えている。

最近書店に出向くと、90年代〜2000年代に書店から消えつつあったマルクス関連の書籍が、四半世紀をへて再び増えていることに気がつく。
昨今ではピケティ『21世紀の資本』のおかげもあり、資本主義社会を分析するツール(社会学)としての有用性についての本が多く、現在の軋みを孕んでいる世界的な格差社会を象徴していることは否定できないだろう。

それでも、マルクスの業績がイデオロギーの消滅とともに葬り去られることなく、継承されているのは悦ばしいことだろう。
こうなると、いまではすべて手に入らないが、大月書店の国民文庫も限定復刻で高くてももよいのでなんとか復刊してほしいものだ。


(5)『近代化の理論』(講談社学術文庫/定価 :1,500円+消費税
恥ずかしながら、富永健一という社会学者を私は知らなかった。主著と言われる『社会構造と社会変動』(岩波書店)に、この数十年の激変するの世界情勢を盛り込み、著書の理論的な成熟度も加えて新しいものとして書き上げたとのこと。
本書副題「近代化における西洋と東洋」とあるように、市場経済と民主主義が西洋に興り、東洋ではそれが遅れたのかを考えるために指針となるような本だ。

私も資本主義がなぜ欧州で勃興し発達したのか、という年来の歴史的な関心があるので思わず購入した。
また、英米2カ国の歴史分析を通じ、資本主義と民主主義がどのように成立してきたのかを分析した大塚久雄の『国民経済』も、今回の復刊入りを果たしているので、あわせて購入するとよいだろう。
今後とも、同文庫には今回のようなリクエスト復刊を定期的かつ継続的に行って欲しいと心より願うものである。

こうした文庫は、岩波文庫を除き各社がときおり復刊刊行している状況なのだが、来年で21回目を迎えるリクエストによる一般書籍の「書物復権」(10共同復刊)のような、複数の出版社による共同文庫復刊として企画するのはどうだろうと私は思っている。
ただ、文庫のような単価の安い書籍でそれを実施するのは採算的に難しいのか否か、私にはわからないが是非とも検討して今後の文庫も「文庫復権」とでもなって、定期的にフェア実施してくれれば実に申し分がないのであるのだが。


(6)モーリス・ブランショ畢生の大作『終わりなき対話』が刊行開始!!!
文学、批評、言語そして哲学。
『文学空間』『来たるべき書物』どでも知られ、フランスのみならず20世紀文学史上比類なきモーリス・ブランショ畢生の大著。
原著刊行から半世紀、筑摩書房より全3巻でついに全訳刊行が開始されていることをはじめて知った。
しかし、第1巻は価が本体4,500円+消費税なので、かつてであればそれでも迷わずに飛びついていたが、現況では悲しいかなすぐには手が出せない(>_<)。

筑摩書房では『来たるべき書物』がすでに学芸文庫(2,000円+税)入りしているので、一刻も早い『文学空間』の学芸文庫化も待望しているぞ!

最後に、私がお気に入りの下北沢の古書店「クラリスブックス」にふらっと立ち寄り、年末の挨拶をするだけで本を買う予定はなかったのだが、つい余計な本を購入してしまった(^_^;)。
それでは皆さん、良書の読書とともに良い年をお過ごしください。 


【おすすめブログ】
●今年最後の「書店ツアー」を敢行!

今年初の古書店探訪記

「No Books、No Life」ーー私にとっての人生最高の散策コースはやはり「書店」だ!

現代日雇い労働日記(後編)ーー21世紀資本主義社会の変容

karl_marx

私的公開日誌@
ウェブ暦:161208.01

前編で語ったように、フリーターという言葉はバブル経済時期に誕生し、その後の社会経済環境の変化で増加の一途をたどってきた。
21世紀の今日、こうしたフリーターというのは非正規雇用労働者の代名詞となって激増し続け、しかもその状況は国内だけに限らず、世界的な傾向となり国際社会の大きな問題として浮上している。

欧州では、移民問題とも絡んで人種間対立が生じ、米国では格差はさらに深刻化して富裕層だけの自治区域(ジョージア州など)を設けるなど貧富の差が先鋭化し、地域社会の分断化や分裂、排除が一層進んで国家的な問題となっている。
つまり、先進国、新興諸国を問わず、格差社会は世界中いたるところで進行しつつあるということだ。

資本主義(厳密には、資本制生産様式に基づく経済活動による近代市民社会)は、人々に経済的な豊かさと社会的な発展とをもたらす一方で、社会に格差を生み出し増進する苗床(または副作用)があることが白日の下となった。


■3Kから新3Kあるいはブラック体質社会へ

バブル崩壊後に増加したフリーターは、それまでは敬遠されていたいわゆる3K職場(きつい、汚い、危険)や業界にも多くの人たちが流れていくようになる。
それまで特に若者が敬遠して人材が集まらなかった運送業、土木・建築業、各種工員(組み立て作業員、溶接工、旋盤工、塗装工)など、いわゆるブルーカラーに職を求めるようになった。

しかしながら、最近ではこうした業界を象徴する3Kという言葉はすっかりと耳にしなくなったが、それに代わり特サービス業に顕著な傾向として「ブラック企業」や「ブラックバイト」という言葉が定着している。

これは特に、飲食業界や小売業界などはその代表だが、看護師や介護士、保育士からIT系企業に至るまで、様々な業界の隅々にまで「新3K」(きつい、帰れない、給料が安い)が蔓延する社会として現出している。

今日、サービス産業では、労働者の半数以上(飲食業や宿泊業では75%以上、娯楽業や教育業などの場合でも50%を超え)もの人たちが非正規雇用形態で働いている。
つまり、これらの産業や職種では、正規雇用数よりも、非正規雇用者数の方が圧倒的に多いというのが実態で、人材派遣や請負ビジネスなど仕事を紹介したり人材派遣をしてピンハネ稼業が業界をさらに潤している。

いまの我が国では、サービス産業がGDP(国内総生産)全体の70%を占めているが、こうなると非正規雇用者がむしろ必要とされ、こうした働き手がいなくては成り立たないともいえるほどの社会状況だ。
こうした非正規雇用、格差社会の問題は日本だけあるいは若年層に偏った現象ではなく、全世界のあらゆる世代に共通している課題である。

特にEU諸国では、紛争と貧困から中東(シリアなど)やアフリカから難民が押し寄せていることがEU全体の問題となり、難民受け入れとその反対派による対立や暴動、各国間での不協和音の増大など、かつては国家や民族を超えて統合の象徴とまで期待されたEUすら分裂の危機に瀕している

14年10月、OECD(経済協力開発機構)が公表した報告書によれば、世界の富裕層と貧困層の格差の拡大は1820年代と同じ水準にまで悪化しており、過去200年で「最も憂慮すべき」事柄の1つだと警告している。
15年、大きな話題となったトマ・ピケティ『21世紀の資本』だが、同書は世界20カ国以上各々の国(日本も含む)、それも実に300年間の所得と資産の変遷という膨大な歴史的資料集めた実証データに基づき分析し、結局は資本主義による社会経済体制は格差を助長するものとして語っている実証社会学的な書としてベストセラーとなって話題だった。

かつては、非正規雇用の就労形態が例外的な雇用環境の社会だったが、今日では高学歴ワーキングプアすら存在するほどで世界的規模による格差社会が常態(コモディティ)となっている。


■21世紀が抱える2つの大きな「難題」

1989年、ベルリンの壁崩壊にはじまる東欧諸国とそれに続くソビエト連邦の社会主義の壊で人々は民主主義のにわか勝利に酔いしれた
あれからわずか25年がたった今日、民主主義社会とそれを支えてきた資本主義経済体制はともに危機に瀕している。

私たちは、国家や資本主義経済を自明のことと考えている。
だが、近代国家の礎となった主権国家の誕生から約350年、資本主義経済社会となって約250年、人類の歴史を考えればそうでなかった時代の方がずっと長いのだ。

人々の生活の豊かさをもたらした資本主義体制も袋小路に陥っているだけではなく、啓蒙主義の時代(17世紀後にホッブズやロック、18世紀にはモンテスキューやルソー)から営々と受け継がれてきた民主主義の考え方も、現今の世界情勢を鑑みると黄昏を迎えているようにすら感じる。
つまり、繁栄をもたらしてきた経済社会とそれを支えている民主的な政治制度(社会体制)の2つがともに危うい今日のとなっている。

人間は観念的な生き物だ。したがって、それは後退することがある。
技術や科学が進歩すればそれにつれて人間が進歩するわけではない。かつて、下部構造が進歩するつれてその反作用で上部構造も進歩する、という短絡的な発想の左翼は唯物(ただもの)論として侮蔑された。

それはリベラル派でもご同様だ。ICTが相互理解、多様性、融和をもたらすと信じていたが、残念ながら現今の世界情況は逆の方向へ進んでいる。
ICTの伸展とグローバリゼーションに覆われた21世紀。あれほど希望に満ちた未来の到来が語られていたインターネットですら、今日ではむしろ格差や分断を助長する手段とまでなっている(イーライ・パリサー著『フィルターバブル』)。
 
異なる人種や民族(ときには部族)、言語と宗教、富裕層と貧困層など、様々な要因からソーシャルメディア上でも罵り合い、逆に同じ価値観だけに寄り集まる傾向があり、ヘイトスピーチ、イスラム教徒への嫌がらせや排斥など、多様性の受容や相互理解による寛容性に満ちた社会からますます離れつつあり、より強固なつながりと排他的な共同体を志向し、社会は混乱し市民はただの群衆に転換したとき、そこに分断や内紛、世界規模でテロが頻発している。

そもそも進歩の思想とは歴史観(進歩史観)であり、それはこの300年ほどのあいだ信じられてきた。過去よりも現在、現在よりも未来が進んで優れている、よりよき社会へと向かっているという無謬性に支えられている。
それは左右のイデオロギーを問わない

20世紀、2つの大きな世界大戦をへながらも、資本主義の発展が世界中に豊かさをもたらし、今世紀末には市民主導による民主主義の勝利をもたらした。しかし、経済のグローバリズムによる豊かさが終焉し経済成長が鈍化し、待ちかまえていたのはフリーターやワーキングプアを産み出す格差社会だった。

現在の私たちは、「理念としての民主主義」も「理念としての社会主義」も歴史的な体験としては持っていない。あるのは、「現実の民主主義」と「現実の社会主義」だけだ

後者は、20世紀末には歴史の審判がおりている。
だがしかし、前者もまた歴史の審判を待つ身となっている。先進国が牽引してきた民主主義社会は、なにもその理念を実現してきたわけではない。理念と現実が乖離しているという点では、程度の差があるだけで右派も左派にも違いはない
誤解を恐れずにいえば、所詮は「必要悪」としての「虚妄的な民主主義」にしかすぎなかったのに、あたかも啓蒙主義以来の理念が実現されたかのように勘違いをしていただけだったことが先鋭的かつ露わになっただけだ。


■トランプ大統領誕生がもつ意味ーー「ポピュリズム」だけではない

米大統領選挙は、マスメディアの予想に反してドナルド・トランプが勝利した。世界が驚きをもって報じたその勝利は、国内でもポピュリズム(大衆迎合)だと報じたがそれだけが理由ではない

マーケティング視点で見れば、人々の不平や不満、怨嗟の声を煽ることで耳目を集めるまさに炎上マーケティング手法と同じだ。それほど多くの人々が格差や分断に憤りを感じているのだ。

その選挙前(10月)、NHKスペシャル『シリーズ マネー・ワールド 資本主義の未来』が3回にわたり放送された。
同番組では、成長が鈍化し、一部の富裕層と多くの貧困層を生み出し、世界的な巨大企業と国家との対立を招き、分断や格差を増殖させながら岐路に立つ資本主義について検討された。
一部の富裕層はグローバル資本主義の恩恵でその富を一層増やす一方で、その他の大多数の人々は低所得から離脱できないでいる。すなわち、たとえ高学歴を得てもワーキングプア状況と格差社会が常態化している時代なのだ。

今回の米国大領料選挙の兆候はすでにあった。
2014年、EU(欧州連合)28カ国で行われた選挙では、選挙の行われた諸国では右派または保守派が大きく躍進した。
2016年、英国は国民投票でついにEUから脱退を決めた。そして今回の米国の選挙では、マスメディアの予想に反してトランプ大統領が誕生した。

20世紀末、「ベルリンの壁崩壊」と東欧の民主化によりそれまでの東西冷戦とイデオロギー対立がなくなり、ICTの発達と普及が相互理解を促し世界はさらに融和し開かれていくに違いないに相違ないという“希望”がつかの間だけあった
しかし、歴史はその反対に進んでいる。
21世紀の今日、テロ、内戦や内紛、国家の分裂、経済格差による社会の分断、怨嗟の声による人々の亀裂など、排他的でより閉じた共同体へと急速に転回しつつある。

「民主主義とは、それほど良いものか。銀河連邦の民主共和制は、行き着くところルドルフによる銀河帝国を生み出す苗床となったではないか。」

上記は、『銀河英雄伝説』の“バーミリオン星域会戦”終結後、銀河帝国ラインハルトに敗れた自由惑星同盟ヤン・ウェンリーとの会見の席で、前者が後者に発した言葉だ。それは遠い未来、遙か彼方の銀河での出来事ではなく、近い将来にこの地球上で起こったとしても不思議ではない。
それでも、「理念」ではなく「現実」として考えれば、私は「腐っても(必要悪としての)民主主義」を支持する人間ではある。


■あらためて問うーープロレタリアートとは何か、そして誰か?

GDPの70%が消費によってもたらされる先進諸国の消費社会では、人々の生活の中心は消費行動であり、したがって労働者の生活の中心や関心は消費行為のなかに融解または溶解させられてしまう
すなわち、自分たちはプロレタリアートなのだと自覚や認識を持ちにくい社会経済構造となっている。

しかし、不動産や株式などを所有しその運用益などの不労所得でも生活を楽しめる層は、グローバルに資産を動かしながら運営し、資産が資産を産む仕組みとなっていて「パナマ文章」(いわゆるTax Haven)騒動に象徴されるように、資産隠しなども巧みにできる。そうしたこととは無縁で資産をもたず、自己の労働力を売ることでしか生活の糧のない無産階級層とがある。

後者は、年収が数百万であろうが仮に数千万円を得ていようが、企業や経済が停滞すれば真っ先に削減対象となって路頭に迷うことになる。
すなわち高額所得層といわれている人々であっても、自己の労働力を企業に預けることだけが収入源だとすれば、その実態は紛う事なきプロレタリアートなのだ。
両者にある違いは、たんなる金額の多寡にしかすぎない

19世紀、進展する産業革命で多くの人々がプロレタリアートとして生み出された。そうした経済社会体制をなんとか解消=変革(労働者の解放)したいと心より願ったマルクスは『共産党宣言』を著し、『資本論』を書き上げた。
その後、彼の思想を体現したと称するマルクス主義”たちによりソ連や東欧諸国、中国などの社会主義国家の誕生を促したが、マルクスの理念が歪められたその政治・経済体制に基づくそれらの国々では真の労働者の解放とはならず、そうした体制に疑念や異論を唱えるような人々を抑圧や弾圧して収容所に押し込めたり粛清するような専制的な恐怖国家にしかならなかった。

しかし、それが崩壊して四半世紀、今度は資本主義、それとともに併走してきた民主主義とが転換点に立たされ、変革の必要性に迫られている
左翼アレルギーへの先入観が消え、さらにはピケティに代表されるように資本主義の悪腫が露わにされている状況になっても、それでももう一度マルクスの理念へ回帰することはないだろうし、それに代替する選択肢(理念)がいまだに私たちには用意できていないことがより混迷を深めている


■21世紀資本主義社会の変容

それこそが、現代に生きる私たちにとって突きつけられた最大の難問なのだ。

21世紀もすでに15年を経過した。かつて資本主義へのカウンターイデオロギー(対抗理念)となっていた選択肢はもはやない
私たちは民主主義と資本主義の双方に疑念を抱き、試練に直面しあるいは絶望しながらも、それにとって代わりうるべき理念や思想をいまだに見いだし得ないでいる。
貨幣主体による合理的・効率的な利益第一主義による経済社会(金融資本主義)ではなく、営利追求以上の高い意識・目的を追求するべき社会を目指す経済活動に基づく視点や発想が強く求められている。

人々の欲望を飲み込む金融経済(資本主義か社会主義を問わず)が継続する限り、人々が金に狂奔するバブル経済は歴史上に何度でも繰り返される。それは先進諸国、新興国などを問わずにだ。

つい最近、“Conscious Capitalism”という言葉を初めて耳にした。
これは、最近米国で主張されている考え方だそうで、これまでの資本主義的とは異なり、企業の社会的な責任と存在理由から出てきたようで、その含意するニュアンスは「社会的意識による資本主義」くらいの意味である。

あるいは、こちらも唱えはじめられている“Kinship Economy Era"(つながりによる経済時代というニュアンス)という考え方、加えて同じように“Sustainable Capitalism”(持続可能な資本主義)という言葉もある。
これらは、ジャック・アタリが『21世紀の歴史の中で語っている調和重視企業、トランスヒューマンとの共通項する志向性があるように感じる。

上記の言葉や考え方が、ほぼ同時期に様々な人たちから提唱あるいはいくつかの企業が誕生している状況(ムーブメント)は、資本主義による経済システムが転換点あるいは変容期を迎えていることを象徴している。

ところで、『新スタートレック(TNG)(例:第1シーズン26話「突然の訪問者」)あるいは劇場映画第8作『ファースト・コンタクトなどでも、エンタープライズ号のピカード艦長は20〜21世紀の人たちと接することになるのだが、24世紀において人はもはやモノを所有することに興味はなく、お金ではなく人類の成長のために働くことが当たり前の世界だと繰り返し語っている。
それは、資本主義でも社会主義でもない、そういうのが当たり前な経済システムや社会(世界)体制となっているのだろう。

私なら、昔は良かったなどと懐かしむのではなく、むしろそうした未来社会こそ体験してみたい
はたして、私たちはそうした世界へと向かっていくことができるのだろうか。

「日雇い労働の歴史がまた1ページ……。」と、『銀河英雄伝説のナレーション風に最後は締めておこう。


(了)


(関連リンク)
▼ホリエモン 日本は狂ってる 派遣会社の会長=経済戦略会議の委員

▼派遣会社は、企業に「正社員1人分の給料で派遣を2〜3人雇えます」と売り込む
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/c1abc31ee363bac957ccc19ec268ff1d

▼韓国社会に衝撃を与えた3人の「突然の死」

▼日本の問題は収入差の拡大より、むしろいろいろな格差の「固定化」が進んでいることだ
http://diamond.jp/articles/-/54697

NHKスペシャル『シリーズ マネー・ワールド 資本主義の未来』
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20161016

【おすすめブログ】
●トマ・ピケティ『21世紀の資本』刊行によせて(上)

●トマ・ピケティ『21世紀の資本』刊行によせて(下)

●(続)トマ・ピケティ『21世紀の資本』刊行によせて

●【書評】現代の「パンドラの箱」─『21世紀の歴史―未来の人類から見た世界』
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/1841572.html

PRの本質、それは「法人格」の統合コミュニケーション力のこと
http://blog.marketing.itmedia.co.jp/macume/entry/791.html
記事検索
ネットサービス
広告・マーケティング
銀河英雄伝説コンプリート
マーケティング書籍
Twitter Widget
livedoor プロフィール

macume

TagCloud
  • ライブドアブログ