The Blog Must Go On

インターネット、そこは最新技術のフロンティア。 これは、コミュニケーションアーキテクトたる“macume”が、新時代のメディアBlogの下に、21世紀において執筆を継続し、未知のネット世界を探索して、新しい情報や人との出会いを求め、永劫進化するネット世界に自由に公開した日誌である。Blogの歴史が、また1ページ……。

【書評】『チャヴ〜弱者を敵視する社会』ーー格差、分断、嫌悪、排除が覆う世界のいま(後編)

Chavs-1050st-de9e25f3af04c258f188b73d1a4717ae

私的公開日誌@ウェブ暦:171229.01

(中編より続く)


■歴史の教訓

本書で、オーウェンは保守党と労働党のいずれを問わず、自らの社会政策の失政を労働者階級自体の向上心のなさや生活態度の問題が原因と押しつけ、「福祉のたかり屋」という立場に追い込んで支援政策(生活保護など)の削減の理由とする一方、そうした政策にメディアも同調してきたこと。その労働者階級の人たちーーもっとも移民との混合社会でそのコミュニティで暮らす人たちーーは、多様な人間関係と文化に触れる機会が素晴らしいとインタビューに答えているが、都合よく利用したい政治家と一面的なメディアはそうした声を報道せずに憤りすら感じている。さらには、残念なことに「リベラルなチャヴ・ヘイター」がいることもオーウェンは指摘している。

人々をリードすべき政治家の社会政策の失敗や不都合な真実があり、新聞などのメディアまでもがそれを伝えたり社会的弱者の声を代弁するどころかそうした情況を“忖度”し、報道機関(ジャーナリズム)も一緒になって誘導している社会は民主主義の危機といわねばならないだろう。
英国の労働者階級の人たちにとって、既成左派系政党(中道左派も含む)が富裕層や大企業の見方になった(右傾化)ように映るので、労働者階級を代表する政治家やメディアにそうした声ははどんどん届かなくなっているわけだ。

こうした“好機”に付け入るように、労働者階級を取り込もうとBNPのような極右政党が躍進してきたし、これは英国特有の現象ではなくEU各国も同じだ。そうした極右政党はすでに労働者階級のコミュニティに入り込んではいるが、信頼できない政党なので政界で確固たる地位を築くことはないだろうが、それでも不吉な前兆には違いないとオーウェンは懸念している。
これは、はたして私たち日本社会に直接関係ないと言い切れるだろうか。

こうしたことを顧慮したとき、私たちの脳裏に浮かぶある歴史がある。
それは、当時はもっとも先進的だったといわれているドイツのワイマール共和政(国)が34年の短期間(1919〜1933年)で崩壊し、ヒットラーの台頭を許したことだ。ほぼ同時期、日本では大正デモクラシー(1912〜1919年)の後、政治家や政党政治による腐敗と相次ぐ不況(1930年の昭和恐慌が決定打)で困窮から抜け出せない国民=労働者階級の不信と怒りを招き、それが結局は軍部の台頭を許した情況と不気味に軌を一にしているということ。それは、はたして単なる私個人の懸念や言い過ぎだけですませられないはずだ。


■「必要悪としての民主主義」

現時点においては残念ながら、私たちの生きている世界は資本主義下でのという条件付きではあるが「必要悪としての民主主義」社会といえるだろう。それは、啓蒙主義の理念をもちろん体現しているわけではない。それでも現在の社会体制は、今日までのところもっともましな制度ではあるとは思っている。
独裁体制や帝国的支配では、その体制を維持するためだけに政治家(支配者)は努力するのみだ。
しかし、民主主義社会では、政治家はもとよりそれを支える一般の人々(庶民)にも維持するだけの努力を強いるのだが、そうした自覚を社会全体がもつ必要がある。無関心とシニシズム広がれば、民主主義そのものを維持することは困難だろう。

つまり、私たちが努力を怠れば、民主主義とは容易に崩壊する可能性を常に孕んでいるほど脆いものだ、ということに異を唱える人は少なくないだろう。格差と分断、嫌悪と排除ーーそれはポピュリズムやナショナリズムとなって現れるーーが、世界を覆うようになりつつあることがそうした情況を証明している。
もはやEUは壮大な失敗とまで言われ出し、世界のことより自国中心主義のトランプ政権の誕生を支持した米国、それを追い風に勢力を拡大しつつあるEU各国の極右政党など、グローバリゼーション社会では日本もその影響に巻き込まれないとはいえない。
スウェーデンには「ソファの選択肢」という言葉あるそうだ。これは、労働者階級の人々が自分たちのなじみの政党に仕方がなく投票するより、むしろ傍観者となって自宅のソファに座っていることを指している

だれにでも経験あるだろうが、選挙のたびに投票す政治家の当選が叶わないようなことが続くと、失望や喪失感を繰り返して民主主義への信頼を諦めたくなるだろう。
日本では特に民主党政権時代(2009〜20012年)へのトラウマからか、その後に続く野党のお粗末な振る舞いも加わり、そうした野党への不信感に根強いものがある。それでも、私たちは“鼻をつまみながらでもどこかの政党あるいは政治家を選択しなければならないのが民主主義の礎石なのだ。


■来たるべき資本主義社会とは

本書で明らかなのは、英国において保守党は、特権階級や富裕層の利益を守る代弁者ではなくそれを超越した党だというイメージ、一方の労働党は「みなが中流」という意識を普及させることで国民政党たらんと欲する。そうした自分たちの都合(党利・党略)だけで本来の支持してくれるはずの選挙民を置き去りにした政策を実行したことで、それが結果として特に労働者階級からの離反を招いているのだとの自覚がないことが明らかにされる。

「万国のプロレタリア団結せよ!」と『共産党宣言』(岩波文庫)の最後に力強く呼びかけた言葉も、いまではむしろ弱々しく儚く空疎にすら聞こえる。今日、同じ労働者階級でありながらこれほどまでに分断され、先進国・新興国を問わずに「労働者階級-内-階級社会」が現出してしまっている。こうなると、もはや結束する“同志”たりえない。さらには、人種による格差や宗教的差別などによる大きな溝までもが加わりより混迷を深めている。

かつて保守派の人たちは、労働者たちの団結と結束力に怯えていたが、今日では労働者階級のかつての力は粉砕されて弱められ、向上心のない怠惰な人たちのことを指す像として作り上げられ、労働者階級に屈辱的な無力感が増している社会で支配層(富裕層とそれに支えられている政治家たち)にとって好都合だとオーウェンは語る。
結局、こうした分断や偏見によるその社会の混乱と衰退は、態度をあたらめるというだけではなく、社会構造そのものを抜本的に変革しないことには解決できそうもない

今日、ほとんどの人たちは中流階級でプロレタリアートは存在しない、そもそも階級という概念自体が古臭い発想、貧困や格差は社会政策に原因があるのではなく、向上心という個人の問題(自己責任)に還元してしまえば、政治家や富裕(支配)層にとって好都合だし、中流気分に溺れている人たちにとっても居心地が良かったのだ

ベルリンの壁が崩壊(1989年)しそれに続く東欧諸国の民主化が推し進められ、EUの発足(1992年)インターネット(1995年)やソーシャルメディア(200年代後半)が普及した社会は、それらがもたらすはずだった多様性の受容、相互理解と融和の精神といった20世紀末から21世紀の初頭に世界を覆っていた希望は、このほんの数年で今日の混迷したーー焦燥と不安定、分断と排除、格差と希望がないーー社会になってしまうとは一体誰が予想し得ただろうか

だから「何より労働組合は、今日の労働者階級に適応しなければならない。」オーウェンは語る。労働組合委員長のビリー・ヘイズも、下記のように語っている。

「労働運動は変わったということ。30年前のあり方に決して戻ったりしないことを認識すべきだ。労働組合は力を取り戻すことができるが、私などではとてもできないようなアイデアや活動を思いつける、次世代のリーダーを探さねばならない。」

さらに、私は未読なのだが、リチャード・ウィルキンソン教授がを著した『平等社会』によれば「いくつかの研究では、より公平な社会の特徴として、労働組合の活動が強力であることが上げられている」と語っているそうだ。私も確信があるわけではないが、なんとなく納得できる見解である。

そこで思い出すのは、ジャック・アタリ著『21世紀の歴史―未来の人類から見た世界』(原著06年刊:作品社)の書評でも指摘した、「第三の波:超民主主義社会」(2060年)の到来だろう。それは利他主義者たちや人道支援、善意と慈愛に満ちた人々や組織ーーそれは必ずしも企業体ではない集団ーーが、より良い社会を構築しようとする<トランスヒューマン>や<調和重視企業>などの登場を予測していることだ。 昨今ではよく「ホワイト企業」という言葉も耳にする。
加えて、今年になって書評でも取り上げた、世界的な経営学者のヘンリー・ミンツバーグ著『私たちはどこまで資本主義に従うのかー市場経済には「第3の柱」が必要である』(原著2015年刊:ダイヤモンド社)の提唱する社会の調整役としての第三柱である「多元セクター」が、いまの社会を革命以外で抜本的に変革(Radical Renewal)し、経済や政治に社会のバランサーとして役割を担うべきことを提唱しているが、その中核を担うのが労働組合であれば大きな力となるかもしれない。
日本の労働組合も、オーウェンや上記の英国の労組委員長の言葉をかみしめるべきだろうし、ミンツバーグの提言を参考にすべきだ。

ところで、EU加盟固ながら、国連が毎年公表している「世界幸福度報告書」上位ランキング常連の北欧諸国(デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドなど)、ベーシックインカムのオランなどの国もある。それは人口の少ない小国だから可能なのだという人もいるが、もちろん住んだことがないし調べたわけでもないので、その実情について私には語る資格はない。
ちなみに、英国はそれでも19位、米国14位、独は16位、そして日本は先進国中では最低の51位である。こうして見ると、なんだかこの報告書もあまり当てにはならないようにも感じるのだが……。

「ソファの選択」と「無党派層は寝ててくれればいい」情況が続けば、富裕層とそれに支えられた政治家たちの連合にとってこれほど都合のよいことはない

選挙での投票率が低い日本では違うと、はたして誰が断言できるのだろうか。

2年前(2015年)に話題となったピケティの『21世紀の資本』(原著2013年刊)は過去300年分のデータに基づいて資本主義という経済システムが加速させている格差社会を論証したが、むしろ本書のように具体的な社会状況や実態について語っている本を読むことのほうが、ずっと身近な実感をともなっていまの社会全体を理解できるだろう。

ピケティは「本の目的は議論を巻き起こすことだ」とだとインタビューに答えていたが、(7/26号『週間東洋経済』による本人への独占インタビュー)オーウェンも「階級について幅広い議論をうながしたかった」と本書の最後で語っている。二人の意識は共通しているし、その目的は十分に果たせただろう。

このオーウェンの書、そしてジャック・アタリ著『21世紀の歴史』、ヘンリー・ミンツバーグ著『私たちはどこまで資本主義に従うのか』の3冊を読むことで、私たちは以下の3つの気づきを得るだろう。

(1)特権階級の利益代弁者である保守党だけではなく、政治屋(世襲政治家も含む)ではなく、政治家の使命や矜恃をもった人を労働者の声を代表するはずの労働者党までもが下流労働者にその責任を押しつけている階級政治の実態。
(2)社会や権力者たちを監視して不正を暴いたり真実を伝えるべきメディアも、そうした情況に荷担して信用できないという現実に対処する覚悟がいること。メディアリテラシーをますます研ぎ澄ます必要がある
(3)かつてのようなイデオロギーと赤錆びのついた労働運動ではなかく、いまの時代に最適化した発想とリーダーそして戦略(言説、組織論など)が必要であること。

この21世紀の難題解決への道筋(思想や理念など)すらいまだに見いだし得ていない私たちだがこれからの<理想的な社会形成>を考えたとき、調和重視企業あるいはホワイト企業(家)が増え、多元セクターの発達とその中核には労働組合、市民ジャーナリズムによる信頼できるメディアをもつことが、より良い社会への将来像として浮かんでくるのではないだろうか。

本書の原著は2011年刊行。それなりの分量(約400ページ)、80年代以降の英国の社会・経済史に通じている人でない限り気軽に読める書著ではないが、本書と出会えて良かったと思える読後感が残った。こうした本を手にすることができるのは希である
海と月社は、主にマーケティング・コミュニケーション関連の良いビジネス書を数多く刊行している新興出版社だということはわかっていたのだが、今回の著書のような社会問題を扱ったノンフィクションの硬派な邦訳書、それも多くの読者を獲得するのが易しくはないだろうテーマと内容の著書をあえて刊行するという、喜ぶべき出版社だと認識をあたらにしなければならないし、今回のご恵贈には衷心より御礼を申し上げねばならない。

なお、ジョーンズによる第二作目『エスタブリッシュメント〜こうして彼らはすべてを手に入れる』(原著2014年刊)は、2018年春に同社から邦訳が刊行予定なので、こちらも大いに楽しみにそして期待して一刻も早い発売を待ちたい。


(了)


【関連リンク】
▼ユニセフ事務局長 日本の子どもの貧困率に懸念

▼生活保護費見直し案、最大13%減 母子加算カットも


【おすすめブログ】
【書評】『チャヴ〜弱者を敵視する社会』ーー格差、分断、嫌悪、排除が覆う世界のいま(前編)

●【書評】『チャヴ〜弱者を敵視する社会』ーー格差、分断、嫌悪、排除が覆う世界のいま(中編)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〓 ハイ・コミュニケーション私論 〓(ITmediaマーケティング)

〓 ShapeWin Blog 〓(PRコンサルティングファーム)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【書評】『チャヴ〜弱者を敵視する社会』ーー格差、分断、嫌悪、排除が覆う世界のいま(中編)

owen-jones-chavs-book-007

私的公開日誌@ウェブ暦:171225.01

(前編より続く)

■壊れ行く英国社会と労働者階級の分断

1997年の総選挙で、保守党から労働党に政権が移った。そのさい、首相となったトニー・ブレアが掲げた労働党の方針が「ニュー・レイバー」である。従来のような労働組合に依存した党のあり方を見直し真の国民政党へと脱却すべく、市場経済を引き続き重視して国営企業の民営化や能力主義などを推し進めた。

しかし、その政策は社会的な格差をさらに助長し、恩恵を受けられなかった労働者階級からの反発も強かった。要するに、労働党なのにもかかわらず、労働者階級の一層の貧困化を拡大しただけの結果に終わったのだ。

それには理由がある。労働党が1979年から1992年にかけて選挙で保守党に4回続けて敗北(サッチャーが労働組合を叩きつぶ)した後遺症だという。それ以降、労働党はなりふり構わずとにかく選挙で勝つことだけに執着するようになった。それがもはや階級は存在しない(ふり)をし、みなが中流だという“路線(方針”だったとオーウェンは振り返る。

後にサッチャーは、インタビューにて自身の最大の功績はなにかと聞かれたらこう返答した。「トニー・ブレアとニュー・レイバーね。敵を変節させたのだから。」と当然のように答えている

英国経済を担っていた工業を壊滅(保守党)させ、それを是正すべき社会政策も用意できなかった(労働党)政治家たちは、労働者個人の生活態度や生き方に問題をすり替えることにしたのだ。要するに、サッチャリズムが残した労働者階級にのしかかった諸問題を、そのままニュー・レイバーたる労働党が定着させただけいうこと。
ニュー・レイバーの手法は、下流労働者階級の自己責任になすりつけ、彼らを社会の敵のように扱うことで、その他の労働者階級(特に中流階級)の歓心を買おうとしただけだとオーウェンは語る。

例えば、ディズベリー・ムーア地区は、公営住宅の下流労働者階級の巣窟といわれている。それは、政治家たちの社会政策によってそのように「仕向けられた」結果であるにもかかわらず、いつまでたってもそうした公営住宅を出たがらないのは、向上心がないことにされてしまう。それは、労働者階級であれば誰でも成功を望む人し、当然のように持ち家が欲しいはずだという先入観がある。
ブレア政権下の首相官邸政策長だったマシュー・テイラーは、悪びれることなく以下のように発言している。

「労働党の戦略は、「いかに向上心のある労働者階級にアピールするか」だと思う。「向上心のない労働者階級」が何を指すかはともかく、彼らを放っておいたかと言われれば、まあ、そういう面はあるかもしれなしれない。たとえば、どちらにしても労働党が勝つ選挙区だ。冷たいと思われるかもしれないが、小選挙区制では、結果に大きな差の出ない選挙区の人たちにはあまり力を注がないものだから。それに、彼らはあまり、というか、もっとも投票に行かない人たちだということも理由になる。」

日本を含め、いずれの国でも政治家とはこうしたものだろう。どうせ投票には行かないだろうし、そうした人間のことなどおかまいなしだ。
向上心のある労働者階級とは、上昇志向が強く、個人主義的で中流階級の仲間に入りたいと孤高奮闘している人たちで、いまいる場所にいてはいけないしもしそこにとどまっているのであれば、それは向上心がなく自己責任にされる
サッチャリズムが推し進めた持ち家をはじめとする飽くなき所有欲の梯子を登らないのは、政策の問題ではなく本人に問題があるのだと“汚名”を着せておくほうが政権にとっては好都合でたやすいことなのは、どこの国でも同じだ。

もちろん、すべての政治家がそうした考え方をしているわけではなく、労働党で元閣内大臣だったヘイゼル・ブリアーズのようにそうした分析や見解にには「断じて同意しません。」という見識をもっている人もいた。

「トリクルダウン」という言葉がよく使われる。これは、中国の小平の先富論(先に豊かになれる者たちを富ませ、落伍した者たちを助けることで富裕層が貧困層を援助すること)、日本のアベノミクスにも通じている。しかし、実際には企業や資産家(富裕層)などの富が増えるだけで、労働者階級(いわゆる給与所得者層)はその恩恵に与ることは(富の再分配)なく、それが逆に格差を一層助長、加速させただけの結果をもたらしている現実は否定しようがない。これは先進国、新興国を問わずにだ。

世の中にはいまでも階級は厳然と2つ存在している。それは有産(資産家)階級と無産(労働者)階級だ。
有産階級は、不動産や株式などを所有し、その資産は今日では世界中を駆け巡り運用益を上げているし資産隠しも巧みだ。そうした利益で潤沢な生活をしているいわゆる富裕層はほんの一握りだ。もう一方の無産階級はいわゆる賃労働者(給与所得者)で、企業(資本家)に雇用されホワイトカラーかブルーカラーか、低所得者か高所得者にかかわらず自己の労働力を売ることだけが生活の糧である層で、つまり社会のほとんどの人たちはこれに属している収入の多寡はあっても、それは等しく労働者階級だという事実は否定のしようがない

しかし、その同じ労働者階級に属していながら中流階級のーーそれは消費生活を十分に教授できるーー人たちはそうしたこととは無縁で、食べていくことに精一杯な生活している同じ労働者に対して偏見をもち差別しているのが、英国にかぎらず今日の世界各国の実情だろう。
人は誰でも、自分は労働者階級=プロレタリアートーーそれは「貧しい生活者」と同義語ーーだとは呼ばれたくないだろうし本人自身も思いたくはない。ホワイトカラーであればなおさらだろう。
労働者階級が、同じ労働者階級でありながらそれを恥と感じ軽蔑していることは、元バスの運転手で決して裕福とはいえない人がインタビューに応じ「自分は中流だ」と発言したことに端的に表れている。
元ロンドン市長のケン・リビングストンは以下のように述べている。

「中流階級があまりにも多くの資格やルール、規制を設けすぎたせいで、労働者階級に対する壁が高くなっている。」

かつての労働者階級は、労働組合や地方自治などの組織を通じて政界に進出できたが、いまやその労働組合は疲弊し、地方自治の権限も多くが奪われた。また、コミュニティが崩壊しより個人主義的傾向が強まったことで、組合への加入率も減ったっこともある。ニュー・レイバーにより労働党が失った有権者はなんと500万人で、そのうち400万人はブレア政権発足時に同党を見捨てたのだという。

同党が労働者階級の支持基盤を再構築するには、従来のように組合(職場)だけに目を向けているだけではダメで、これからは「不安定な仕事と、パートタイムや臨時雇用の労働者の増加を特徴とする、細分化された組合非加入労働力に働きかけねばならない。」し、さらには「コミュニティ基盤を確保しなければならない」とオーウェンは述べる。

こうした実情は日本でも同様だ。厚生労働省によれば、労組組織率は、ピークだった1975年の34%から下がり続け、この10年ほどは当時の半分(17〜18%)まで落ち込んでいる。ちなみに、英国の民間企業では15%だそうだ。
日本の野党も、基本的には労組(連合)頼みだ。しかも、離合集散や呉越同舟を何度も繰り返しているので、信頼(支持)も得られないし選挙で勝つこともできないでいる。

本書を読むと、保守党がいかに特権階級の利益を守ろうとし、労働者階級の見方であるはずの労働党も問題や論点をずらしたり、結局は票につながらないこと(選挙のときだけ支持が欲しいだけ)はしないという政治家の「本質」がよくわかる。
また、口を開けば「改革」という言葉(日本でも同様だ)は、さもよりよい方針や施策のように聞こえるがーーリストラ(事業再編)が解雇意味したようにーー実際には、「削減」や「縮小(緊縮)」あるいは「廃止」などの口実にしている過ぎない。

「安心できる未来のないイギリスの若者の数が、着実に増えているのは確かだ。」というオーウェンの言葉は、そのまま今の日本にも当てはまる。


■文化的にも波及する格差と排除

こうした労働者階級=チャヴという構図は、文化面にもまで波及している。たとえば、そうした労働者階級をサッカーースタジアムから追い出すようなことも推し進められた。これはいわゆるフーリガンを排除することで、中流階級が安心して観戦できるスポーツ競技場(社交場)にしチケット代を値上げすることで収益アップも図れる一石二鳥のプランだ。
サッカー選手たちも、かつては所属する地元クラブのあるコミュニティで暮らしていたが、サッカーが巨大なビジネスになり選手たちも高額な年俸を手にすると、そうしたコミュニティからみなが離れていく。

また、テレビ番組のリアリティショーではチャヴが登場する番組が人気で、労働者階級を晒し者することで視聴率を稼ぎ、それを見ている中流階級はつかの間の上流気取りに浸っているのだと。
日本でも、みなが中流という意識とともにプロレタリアートという言葉が貧しい労働者という意味と同義語に扱われて忌み嫌われたのと同じだ。

こうしてチャヴは、「野生化した労働者階級」、「貧しいから無価値」などと扱われる。もちろん、地域コミュニティに貢献している人たち、コミュニティが気に入って昔ながらに質素に慎ましく暮らしをしている人たちもいるが、そうした人たちもチャブ扱いされいわれのない侮蔑や嘲笑の対象となってしまう。それは、チャブという言葉が労働者階級と同義になってしまったからだ。

ニュー・レイバーでは数少ない労働者階級出身のジョン・プレスコットは商船の給仕出身ながら政界に進出し、ブレア政権下では副首相と党副首相まで勤め上げた重鎮だ。そのプレスコットが貴族院に入ったさい、メディアなどは彼が労働者階級の出身だということで新聞の論説委員までもが彼を侮辱し、そのサイトには一般人からのあざけりや罵りの書き込みが多数寄せられるほどだったという。

労働党の元閣内大臣ジェイムス・パーネルは、オーウェンのインタビューに答え、1979年(サッチャー初の勝利)と1989年(ベルリンの壁崩壊)は、左派的なことすべてにダメージを与えたと

ところで、私は相撲を観ないので詳しくは知らないが、国技館でもモンゴル出身の力が土俵に上がると観衆から「モンゴルに帰れ」という罵声が飛ぶという。


■右翼政党が躍進した理由

英国だけではなく、EU全体での移民排斥の背景には、そうした移民たちの流入によりそれまでの白人労働者たちの仕事を奪ったように見える。しかしオーウェンは、それは政治家たちがきちんとした社会政策をとらなかったからだと。
 
だから、多人種による労働者階級社会のなかで、これまで経済、政治、文化などあらゆる分野で担い手だった白人たちが、そうした社会での存在感が希薄になり苛立っていることがあげられるとも。そうした憤りがEU各国での白人労働者たちの支持を得て極右政党の躍進を促しているし、英国のEU離脱につながった。

しかし、英国の炭鉱労働組の人たちは、生活をよくしたいという移民労働者たちに非はないとインタビューに答えている。また、炭鉱仕事だけではなく労働者階級の白人がしたがらない仕事を移民労働者が引き受けている割合が高く助かっていると。さらに、移民の多いコミュニティ(地区)で暮らし福祉にたずさわっている女性も、様々な移民たちはみな懸命に生活していてむしろ親切で多様な文化に接する機会があることはよいことだとまで答えている。
直接そうした移民と接している人たちはわかっているが、実態を知らない一般の中流階級だと思い込んでいる国民は、移民がイギリス人労働者の仕事を奪っているとの印象を持っている。

そうした国民感情を、ブレア政権を引き継いだ労働党のブラウン元首相までもが「イギリスの仕事はイギリス人に」などと言い出す始末で、新聞などのメディアもそうした発言の“尻馬”に乗っている。この英国社会の現状に容易につけ入るように極右のイギリス国民党(British National Party。以下、BNP)が台頭してきた。それでも、上記の炭鉱労働組合や福祉従事者などは同党を信用していないと語っている。

実際、移民が英国人労働者に与える影響は政治家やメディアの報道することに比べて少なく、それ以前から政策のせいで賃金は下がり続けていた実態があり、それにもかかわらず政治家たちは本質的な問題を避け、非難の矛先を移民に逸らすよう仕向けメディアも同調報道している。移民問題はリストの下の方にあったがトップに持っていったのだとオーウェンは語る。

要するに、政治家たちの抜本的な社会解決に向けた政策が実施できないないことを、政治家たちもメディアも移民たちにをスケープゴートとして利用しているこれこそまさにポピュリズムだ
こうした社会の傾向は、英国やEU各国だけではなく米国、そして日本も例外ではなくメディア自体の存在意義も懸念されている。


(続く)


【関連リンク】
▼「農民として生まれ、都市の労働力として使い捨てられる農民工の実態とは」(11/16「荻上チキ・Session22」ポッドキャスト)

▼東京で体感する中国低層の絶望的な閉塞感

▼英国「EU離脱」:勢いを増す欧州の「極右勢力」


【おすすめブログ】
●【書評】『チャヴ〜弱者を敵視する社会』ーー格差、分断、嫌悪、排除が覆う世界のいま(前編)

●トマ・ピケティ『21世紀の資本』刊行によせて(上)

トマ・ピケティ『21世紀の資本』刊行によせて(下)

【書評】『チャヴ〜弱者を敵視する社会』ーー格差、分断、嫌悪、排除が覆う世界のいま(前編)

919nJR4RVwL


私的公開日誌@ウェブ暦:171220.01

『チャヴ〜弱者を敵視する社会』は、今年後半の書籍ではもっとも話題の1冊だろう。本書は、21世紀版『イギリスにおける労働者階級の状態』だと思う。今回、ありがたくも海と月社よりご恵贈いただいた。

原著の初版は2011年。欧米でもベストセラーで話題となり版を重ねた英国社会の“落とし子”的著書。今年になり、ようやく邦訳で読めることになった。深紅にバーバリー柄の帽子だけの表紙は目立つし、国内の大型書店で「話題の書」や「書評本」コーナーなどに積んであり、日本でも版を重ねているし既読の人も多いだろう。

本著者のオーウェン・ジョーンズは、英『ガーディアン』紙などでコラムを担当するジャーナリスト。本書の執筆当時は20代半ばだった。しかし、この400ページちかい処女作は、様々な政治家、多くの労働者、ジャーナリスト、経済学者、歴史学者からソーシャルワーカーや慈善団体にまで丁寧に取材やインタビューを行い、それらの人々の多様な発言から事実に迫ろうとする力作で、この若い駆け出しのジャーナリストは本書で一躍世界の注目を浴びることになった。
1845年、同じ20代半ばの青年フリードリッヒ・エンゲルスも初の著書『イギリスにおける労働者階級の状態』を著したということも奇縁を感じる。

それほどの著書なので、すでにいくつか書評が出ている。いまの英国の実態と状況を克明にルポした社会史であると同時にサッチャー政権誕生(1979年)以降、約40年にわたる英国政党小史的な側面をもっている。しかも、オーウェンの筆致は、まるで政治小説のような面白さを含んでいる。
 
そうであっても、私たち日本人には、海の向こうでの出来事であり、実感をともなって本書読むことが難しいだろう。それに、本書に書かれている内容やその要約だけを知りたいのであれば、ほかの書評(下記「関連リンク」参照)の方がずっと参考になる。

そこで、私は本書を「対岸の火事」ではなく、「他山の石」として読むことにする
もとより、ここには日本人は登場しない。しかし、ここで語られている人物名や様々な人々の名前、数々の企業、メディア、政党や政治家などの名称を、そのまますべて日本社会に引き寄せ(置き換え)たらどうだろう。私たち日本社会の抱えている身近な問題として読むことができる。
 
日本でも「下流社会」という言葉を嚆矢に、若者から老人、男女をとわずに社会の貧困化が深刻な問題として浮き彫りにされ、格差や差別に多くがあえいでいる日本社会の実態は様々なメディアでも報道されているし、それをテーマにした書籍(『格差社会』『希望格差社会』『階級都市』など)も数多くが刊行されている。

本書で述べられているチャヴという言葉を、非正規雇用やフリーターあるいは貧困層、差別にあえいでいる人たちという言葉に入れ替えたらどうだろう。すると、それはまるで今日の日本社会について語られているような印象を受けるだろう
私は、本書の内容を紹介することより、私が考えたり感じたことをことを語ることでみなさんにも同じように考えてもらえたならば、これを書いた意味があるだろうと思っているし、心よりそのように願いたいたい


■世界に共通する貧困、格差、階級という大きな問題

本書は、英国の社会状況について書かれているのだが、ここで語られているテーマの本質や深層は、そもそも英国一国だけではなく、それは世界共通の問題である。
 
例えば、もっとも格差が激しい社会といわれる米国の社会状況について著し話題となった『ルポ貧困大国アメリカ』、またそうした実情をルポしたテレビ番組も放送された。中国はタテマエ上では労働者階級しかいないはずであるのだが、『貧者を喰らう国』や近刊『3億人の中国農民工〜食いつめものブルース』で、5人に一人は貧困といわれる農民工でしかもそこから脱出することはこの国ではほとんど不可能という、厳然たる階級と格差が存在しているのが中国社会の実態だ。
今日、世界的な流動化社会といわれながら、それとは反比例するかのように階級が固定化を強めている

こうした状況は、OECD(経済協力開発機構)が公表した報告書によれば、所得格差は全人口の上位10%の富裕層と下位10%の貧困層の所得格差は9.6倍で、この数字は1980年代の7倍から2000年代の9倍へと拡大し、その調査時点(2013年)にはさらに拡大し、世界の富裕層と貧困層の格差の拡大は1820年代と同じ水準にまで悪化しており、過去200年では「最も憂慮すべき」事態だと警告しているほどなのだ。


■友人宅での夕食会

本書の発端、それは著書オーウェンが高級住宅区域にある友人宅での夕食会に出席したときの出来事だった。集まった友人たちはみないわゆる中流階級といわれている人たちで、ほとんどが中道左派(いわゆる「リベラル」)である。それにもかかわらず、そのときの会話のなかで富める者が貧しい者をあざける何気ないジョークに、著書自身も驚きと疑問をもった。なぜ、これほどまでに、労働者階級への嫌悪が平然と口にされるのかと。
彼は、本書を著した理由を以下のように述べている。

「本書の狙いは、労働者階級の敵視の実際を明らかにすることだ。(中略)ことに強調したいのは、「人々の態度の変化だけを求めるべきではない」という点だ。階級差別は、階級によって深く分断された社会の主要な構成要素である。われわれが最終的に取り組まねばならないのは、差別そのものではなく、差別そのものを生み出す源、すなわち社会だ。」

オーウェンは、本書で英国社会の底辺で暮らす労働者階級の実態を活写しているのだが、それが誰の目にも明らかになっただけではなく、より重要なことは、本書がたんに英国社会が生み出している格差の実態(それは資本主義によるもの)を暴き出しただけではなく、それ以上に“厳然たる偏見を露出させた社会について語っていることだ。
 
要するに、そうした偏見による態度を是正するだけでは問題の根本的な解決にはならず、社会構造そのもを変えなくてはだめだということを伝えたいという強い意志によって著されたということ。
本書を貫くテーマは、それは以下の3つである。

(1)英国にはすでに階級社会はないという作り話の嘘を暴くこと
(2)貧困などは社会問題ではなく、自助努力すれば人はだれでも成功できるという幻想を打ち砕くこと
(3)困難な社会改革に取り組んでいる人たちを勇気づけること


■「チャヴ」とはなにか

「チャヴ」とは、元々は「急激に増加する粗野な(白人)下流階級」を指す言葉だったが、いまでは「労働者階級の全体」を指し示すしかも侮蔑の言葉となっている。彼らをあざけり、罵ったり笑いものにしたりするような悪意にみちたサイトがいくつもある状況で、さらには、そうした社会背景を利用して儲けている企業までがある。それは旅行会社やフィットネスクラブなどで、いずれもチャブを排除していることを謳い、顧客の中流意識を逆手にとって(くすぐって)利益を上げている。

そうした下流社会にいるチャヴは、政治家やその社会政策の問題ではなく本人の勤労意欲や生活態度の問題に還元し、メディア(とくに新聞)までもがそれを片棒を担ぐような報道をしている。なぜそうした自体がおこるのかといえば、ジャーナリストたちの生活が一般庶民とはかけ離れているからで、労働者階級出身のジャーナリスト自体が減っている。
それというにも、それなりに裕福でなければジャーナリストにはなれないと、全国ジャーナリスト組合委員長ジェレミー・ディアは指摘している。

英国は、先進国中でもっとも階級社会がいまだに残る国で、成功するにはサッカー選手かミュージシャンになるしかないというほどだ。デイビッド・ベッカムやウェイン・ルーニーのようなサッカー界のスーパースターたちも、労働者階級出身ということで「チャヴだ」と英国社会では馬鹿にされていることを初めて知った。

仕事がなく貧困生活を強いられ社会保障(生活保護など)を受けている人たちを、「福祉のたかり屋」として扱いそれがあたかも貧困生活強いられている労働者階級すべての人々であるかのようにニュースとして取り上げる。
オーウェンによれば、英国での不正受給者による損失は10億ポンド(約1,450億円)と無視できない額だが、富裕層による所得隠しでの損失額はその70倍の700億ポンド(約10兆1,500億円)にものぼるそうだ。

日本でも生活保護の不正受給が問題となり、まるですべての受給者たちはなんとか自分で稼ごうという意識が低い人たちばかりのように報道され、実態以上に過大にメディアで強調されることで、同じ低所得層といわれているほかの人たちの憤慨を煽り、だから生活保護者たちへの保護費の削減や受給基準の厳格化などは当然だというコンセンサスをつくり出すことに“協力”している。
脱税などのニュースに接することもあるが、それでもすべて発覚することはないように感じている。

今日の日本のメディアも、こうした英国メディアと同じ状況にある。かつて「第四の権力」といわれ、政権や社会における政策の矛盾や不正を追及したりチェックするはずだった新聞ですら、政治家など社会をコントロールしている権力者たちにすり寄っている。
 
しかも、それは世界的な傾向だ。もっとも自由を体現しているはずの米国でも、9.11以降、メディアは政府の機嫌を損ねないことや国民の顔色をうかがいながら、彼らの欲求通り(ポピュリズム)ニュースを流すように傾斜している。
そうした世界のメディア情況について、チョムスキーは湾岸戦争直後に著した『メディア・コントロール』原著:1991年)において、すでに現代の民主主義とメディア、その情報工作に関して警鐘を鳴らしていた。


■メディアの荷担とそれを利用する政治家たちの実態

オーウェンが、ジャーナリズム専攻の学生だったころ、ある保守党のそれも穏健派と目されている大物政治家を招聘し、非公開と匿名の成約条件付きで講演を依頼したとき、その議員から下記のような驚愕すべき発言があった。

「保守党は特権階級の仲間の連合で成り立っている。大きな党是はその特権を守ることだ。そして選挙に勝つ秘訣は、必要最小限のほかの人たちに必要な最小限のものを与えることだ。」

上記の発言について、20世紀の初頭にも労働者階級の3分の1が保守党に投票していた事実にオーウェン自身も得心したそうだ。保守党は、裕福な人たちの政治執行部門で特権階級連合の代弁者であり、そうした人々の利益や意志を政策として実行しているだけなのだが、民主主義制度のもとでは労働者階級をムチだけで叩くことができないので、アメも差し出しているだけにすぎないと。
 
そうした政治家たちは、選挙ごとに同じように繰り返していけば政権も維持できるし、かりに一時は政策の失態などで不興を買うことがあってもまた同じように狡猾な手段(言葉)や巧妙な政策を公約に掲げ、労働者たちの機嫌を過度に損ねなければ選挙の勝利を手にできることを学んだという。

今日の英国社会の問題は、サッチャリズム以降の政策によるものだとオーウェンは指摘している。サッチャー自身は中下位中流の出身者であったが、富豪のデニス・サッチャーと結婚したことで特権階級に囲まれる人生となった。
1979年、サッチャーは国民に呼びかけた。それは、階級というのは共産主義の考え方で人々や集団を仲違いさせるためで、本人が集団に依存した生活ではなくむしろ自助努力すべきだと。
サッチャー政権下、失業者があふれ、貧困層が増大し続け犯罪の多発と薬物中毒者も増加した。それでも、サッチャーが労働者階級から支持を得たのは、そうした人たちが成功への憧れがあり、それを自らの手で達成したいという意欲(願望)を巧みに刺激したからだ。

つまり、労働者階級に自助努力をうながし、プロレタリアートという意識から逸らすことで、階級という概念を外させることを狙っての発言なのだ。一方、労働者たちも努力しなければ報われなことも理解できるし、豊かな消費生活が送れるようになれば自らは虐げられたプロレタリアートという下流労働者から抜け出て、晴れて中流階級の“お仲間入り”が果たせるという希望が持てる。
 
政権にとってありがたいのは、労働者階級に自分たちは「中流だと勝手に思い込んでもらう」ことが肝要なのだ。つまり、人生のチャンスは社会的背景(貧困、格差、差別などを強いられている)にかかわりなく、その人の意志と行動力こそが問題だと信じ込ませることだ。
いずれにせよ、こうした状況は保守党と一部の労働者階級の双方にとって好都合だったし、メディアもそうした状況を誘導し、政治家たちもそれを利用してきたのだとオーウェンは語る。

(続く)
 

【関連リンク】
▼『CHAVS チャヴ 弱者を敵視する社会』がいろいろ凄い!!

社会分断による英国の『チャヴ 弱者を敵視する社会』は日本の近未来かもしれない 

オーウェン・ジョーンズ・インタビュー


【おすすめブログ】
●現代日雇い労働日記(前編)ーー21世紀フリーターの変容

●現代日雇い労働日記(後編)ーー21世紀資本主義社会の変容

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〓 ハイ・コミュニケーション私論 〓(ITmediaマーケティング)

〓 ShapeWin Blog 〓(PRコンサルティングファーム)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

創見に満ちた「書評社会学」の誕生ーー『風観羽』ブログの書評に触れて

41

私的公開日誌@ウェブ暦:171201.01

私がブログを開設し、もうすぐ10年になる。ブログタイトルを開設時のもの(恥ずかしいタイトルで、当時はなにも考えてなかった^-^;)からいまの“The Blog Must Go On”に変更したことを除けば、開設したころからずっと変わっていない。

ブログを開設したとき、特に書きたいようなテーマがあったわけではない。きっかけはその当時に在籍していたベンチャー企業(3D仮想世界)でPR戦略の一環として、設立間もなかったAMN(アジャイルメディア・ネットワーク)ブロガーミーティングを依頼したこと、加えて学生時代からの親友から強くすすめられこともあり、実際にはなんとなく始めただけで最初は何を書いたらいいのか迷うほどで、まさか10年も書き続けることになろうとは自分でも想像すらしていなかった

その後、私はブログ以外にも、08年にFacebook、09年にTumblr(13年米Yahoo!が買収)、twitter、FriendFeed(09年facebookが買収)、11年にLinkedIn(16年マイクロソフトが買収)、15年にMedium開設など、自分が気になって使ってみたいソーシャルメディアに懲りずに次々と手を染めて(アカウント開設して)きた。ほかにも、途中でサービスが停止(終了)になったりアカウント開設しただけで使わずに退会したものを含めると、正確に数えたわけではないのだが25種類くらいのソーシャルメディアは試したように思う。

10年前といえばWeb2.0という言葉がメディアでも大きな話題で、新しいインターネット時代に入ったと喧伝され、それでもソーシャルメディアといえばブログとSNSくらいしかなかった。このころブログはまだCGM/UGCと呼ばれ、それもICTや広告業界など一部の業界人たちが使っているだけでソーシャルメディアという言葉自体はもちろんなかった。SNSは、“MySpace”(当時)がもっとも有名で世界最大とそのころの各種メディアや本などでは紹介され、国内では私の初SNS体験となったmixiが最大手だった。

この10年で、デジタルツールはPCからスマートフォンが日常となり、現在では実に多種多様ななソーシャルメディアがあり、いまだに新らしく続々と誕生しそれらを利用するのが当たり前のコミュニケーション環境となっている。

さて、今回はあるブログについて触れてみたい。そのブログとは『風観羽〜情報空間を羽のように舞い本質を観る』のことである。私にとっては目標とすべきブロガーであり、そして率爾ながらもっとも刺激を受ける良きライバルである(と勝手に思っている^-^;)。
この『風観羽』(カザミバネと読む)ブログ主は、普通に企業に勤めている一般人なので、オンライン上では実名を公開してはいない。かりに“Aさんtwitter@SeaSkyWindと呼んでおこう。

Aさんは、私などとはレベルが違いそのテーマ性と記事クオリティの高さから、ハフィントンポストブロゴスなどのメディアにも記事が掲載され、またNewsPicksなどにもときどき取り上げられるほどのブロガーである。Aさんはマーケティングが専門というわけではないのだが、例えば、最近では「日本のマーケティングはもっと進化すべきだと思う」というような、マーケターにも気づきや示唆を与えるほど読み応えのある記事を書く人だ。


■セレンディピティによるリアルな場でのご縁

そのAさんとのご縁は、AMNが立ち上げ私も参加していた「ブログクラブ」(当時)主催によるブロガー同士の交流会があり、そこで幸運にも出会ったのだ。
それ以前にもAさんのブログは何かで読んだことはあったように記憶しているだが、その第一印象はとにかく「凄いブロガーがいるな」というものだった。ブログは日本ではいまだに日記に近いイメージや感覚があるかもしれないが、米国などではどちらかといえばジャーナリスト、コラムニスト、批評家、思想家、作家、エッセイストなどが情報発信するために活用するツールであり、journablogger(ジャーナブロガー)という言葉もあるほどで、それに近いような人なのだと(残念ながらこの言葉自体は普及しなかった)。
その交流会でご縁を得たことは、いまにしてみれば私にとって本当に嬉しいセレンディピティだった。

Aさんとは共通点が多い。年齢的に近く(2つ違い)私と同様に70年代半ばに学生生活を送り専攻学科も社会学系。Aさんは経済学、私は国際政治学。それに二人とも人文学(哲学、心理学、文化人類学、歴史学、文学など)が好き、読書体験(吉本隆明、高橋和巳など)までもほほとんど共通していたこともあり、出会ったときに意気投合してしまった(もちろん、これは私の勝手な思い込みかもしれないのだが……)。さらに、後で知ったのだがブログ開設した年(2008年)まで一緒だった。とどめはAさんも私と同じように1回で書く分量が多い(長い)のだ。

私にとって、目標とすべきブロガーと出会ったと感じた。それまで、マーケティングやICT・デジタル関連など仕事に関すること、好きな海外ドラマ、自転車レース(ツール・ド・フランスなど)などについて「私的公開日誌@ウェブ暦」ーーStartrek「艦長日誌(Captain's Log)」または「恒星日誌(Star Log)、宇宙暦(Stardate)…」にあやかっているーーとして徒然に雑文を書き散らしていだけだったのだが、叶うことならAさんのように知見に裏打ちされた深い洞察に満ちた文章(記事)を書いてみたい、という気持ちを強く持つことになった。

そのころのAさんの「私のブログ」という記事に以下のような文章があり、そこに表明されていることは私も同じ気持ちでブログに向かっているのでとても共感している。

「私のブログは、自分で言うのも何だが、とても地味だと思う。写真や動画を入れることは滅多に無いし、取り上げる内容もあまりup to date なものを選んでいるわけでもない。(セミナーの報告が唯一 up to dateと言えなくもない) どちらかというと、自分の関心のままに、自分が本当に書いておきたいと思うことを勝手気ままに書いている。(ただ、自分の現段階で書ける最大限ではあるため、毎回書き終わると、それなりの納得感や充実感はある。)まあ、一言で言えば、自分本位なブログなのだ。
それでも、読んでくださる方がいるのはとても嬉しいことだ。」

私のブログも開設時から実に素っ気なく、余分な写真や動画など見せるあるいは読んでもらうような工夫や要素がないし、「他人をダシにして己を語る」癖に加えて文章も長く、学生時代からの親友にもそれは指摘されているので読まれる人も限られるだろう。それでも、今後もそうした自分のコンテンツの志向性を変更しようという気持ちはない。


■卓越した独創性ある「書評社会学」

2017年5月、そのAさんのブログに東浩紀氏の新著『ゲンロン0』の私なりの読み方」という書評がアップされた。東浩紀といえば、現今の思想や批評あるいは言論情況においてほかの論客たちと比べ、“一頭地を抜く存在”と目されているのはご存じの方も多いだろう。
その東浩紀の最新刊の書評の中で、Aさんは以下のように語っている。

「ただ、自分の感じたことを他者も同じように感じるのか、あるいは、全く反対されてしまうのか、確かめてみたい誘惑にかられてしまう。よって、全体の書評というのではなく、ポイントを絞って、私の思うところを少しずつ書いていこうと考えるに至った。取り敢えずその第一弾として(第二弾がいつになるかはわからないが)、リリースしておきたい。今回は、本書をビジネスマン、経済人の立場で読むとどういう感想が出てくるのか、という観点で書いたことをまず最初に述べておきたい。」

私には思いもよらぬことだった。人文系の本、それも東浩紀の最新著書をビジネスパーソン視点で読み込むなどというのは。正直「やられた! さすがに凄い!」と思うと同時に、私にはとても真似のできないことだと感心した。人文系の豊富な知識と深く考察する力量がなければ到底できないことで、ビジネスパーソンとして築いてきたキャリアとその卓越した洞察力を見事に昇華させているAさんだからそこ可能なことだ。

そもそも、東浩紀の新刊であれば新聞やその他のメディアでも書評として取り上げられるだろうし、とくに同じ人文系の人たちからの書評は“黙っていても”数多くが出回るのは必至だ。アマゾンでも、一般読者たちからのレビューがきっといくつもつくだろう。
私自身はこの『ゲンロン0』は未読なので、同書について語ることはできない。

それというのも、ポストモダン系の思想家や批評家と呼ばれる人たちの著書は、それでも読まなくては思いながらこれまでにも何冊か挑戦したのだが、いまだにどうにも馴染めないでいるのだ。80年代以降で唯一の例外は、文芸批評家の神山睦美だ。その存在を知ったのは確か2000年代に入ってからだったと記憶しているのだが、神山の書く文章はすべて読みたいと思わせるほど引きつけられた。これほどの人を知ったこと自体が私は嬉しかった。それに比べると、Aさんは私がダメなポストモダンの著者たちまでいろいろと読み込んでいるのはさすがで、それも私には真似ができないと思っている。
もとより、これなどはまさに自己責任の問題でしかないのだが。加えて人文系の本は人文系視点をもって読むものだ」という考え方(固定観念)に囚われていたということもある。

Aさんは、その東浩紀の本を日本経済を含めた現在の世界経済の大きなうねり、ビジネス(労働)環境や社会状況などの変遷などに言及し、それにともなう社会や家族関係の変容などに引き寄せて本質的な問題にまで広く社会学的なアプローチをしている。そこに書かれている内容を、人間中心のマネジメント思想のピーター・ドラッカー、最近ではソーシャル(社会的)なものへの関心を高めているマーケティングの泰斗フィリップ・コトラー教授などになんとか接木できないかと考えているようなのだ。
Aさんご本人は、この書評ブログ文末に以下のように謙遜して記している。

「東氏の立場で言えば、本書を日本経済や企業の再生のために読むというのは、おそらく誤読であり、誤配に満ちているということになるだろう。だが、そのような誤読も誤配も、有益に思えるのが本書のもう一つの懐の深さだと思う。経営を思想として最後まで追求していた、ピーター・ドラッカーや、マーケティングを社会の良い意味での再構築の手段に昇華させようとしている、マーケティング界のカリスマ、フィリップ・コトラーに、本書を読ませて感想を聞いてみたいと本気で思うし、その領域を自分の次のライフワークにできないものか、夢想を掻き立ててくれる。但し、これは、すでに誤読を超えて、個人的な幻想の世界なのかもしれない。」

つまり、東浩紀の著書から取り出したこと(気づきや示唆など)を、ドラッカーやコトラー教授の新しいマネジメントやマーケティングのフレームワークに引き入れあるいは活かせないものだろうかという構想(志)までもっているのだ
Aさんは「東氏の立場で言えば、本書を日本経済や企業の再生のために読むというのは、おそらく誤読」というのだが、それにインスパイアされる読み手にはむしろそうしたことは関係はないだろう。

Aさんが人文系の書評を通して今日のビジネス社会の状況を読み解くということ、これは単なる書評の域を超えて批評的思考あるいは批評家精神(と例によって勝手に称している)が宿っており、その深い考察による知見を読んだ人はきっと受け取ることだろう。

文芸批評家の斎藤美奈子が「書評家は原理的に「専門職」にはなり得ない職業である。書籍というものが森羅万象、あらゆるジャンルにわたっている以上、すべてのジャンルに精通している人間などいるわけないからだ。」(『本の本』)というごもっともなことを指摘しているのだが、そうであれば書評とは、評者の専攻学科領域の知見か自分のビジネスキャリア(専門業務)で得た経験とに引き寄せた視点を十全に働かせて思考し語るしかない

Aさんの今回の書評に接し、ここに「書評社会学」が誕生したのではないかとさえ感じる。ビジネスパーソンとしての視座に加え、社会学的な着眼点でこうした人文書を語ることができるのはほかの誰でもなくAさんだからこそ成しえることであり、その創見に満ちた書評にはこれからも大いなる期待をしたい。となると、次はその逆、すなわちビジネス書を人文学的な着眼点から語ることを、私個人としては望まないわけにはいなかない。それも私には無理だが、Aさんの経験とその自家薬籠中の知見であれば可能なことだろう。

私も、ヘンリー・ミンツバーグの『私たちはどこまで資本主義に従うのか』という書評を寄稿したばかりだった。同書は、バランス欠如の現代社会を是正するため、啓蒙的な小冊子(提言書)としてミンツバーグが著した本だ。
ここのところ「21世紀における市民社会=自己中心主義の共同体」という隘路を、どのように“始末するか”ということに私自身もあらためて関心がある(いまさらだし、大それたこと)。それは多分、“いつか来た道(革命による硬直した社会主義社会)ではなく、このグローバリゼーションが行くついた果てに「変態した資本主義社会」として現出してくるものではないか、と個人的には思っている。資本主義経済というのは、自己保存のためならどのようにも変わりうるし、それこそがこの経済システムの本質でもある。
Aさんには、是非ともライフワークとして引き続き探求していって欲しいと心より願っている。


■「ニッチ」な書評というポジショニング

多くの人たちが書評に期待しているのは本の読みどころとポイント(エッセンス)、要約的紹介など手っ取り早く内容が分かれば十分で、書評とはそうした情報としての意味が求められているのだろう。自分の関心に引き寄せて考えたこと、その思考のプロセスを織り込むような書評、つまり評者の考えや見解などは余計なことかもしれない。
現代人は、時間に追われている。いや、時間に管理されてる社会だ。書籍もそのほかの情報も過剰に溢れている。なかでも、日常的に情報に接するビジネスパーソンであれば、できれば書評対象本を読まずともその内容が短い文章に詰まっていて、新しい情報(知識)を得られることのメリットが最優先だと思う気持ちも理解できる。

変化のスピードが早く、破壊的イノベーションが常態化しているビジネス社会では、そのときどきの仕事に役立つ知識やノウハウこそが必要で、ビジネス環境が変化すればそのビジネス書も陳腐化して無用になる。ましてや、旬(新刊あるいは話題の時期)が過ぎれば、ほとんど意味をもたないのがビジネス書であり、その書評も同様であることを免れ得ない。
ウェブメディアは印刷媒体と異なるが、それなりに文字数制限はあるし長いより短い方がメディアにも読者にも好まれるだろう。

ビジネスパーソンは、業務に役立つか新しい知識を仕入れるためにビジネス新刊書を手にする。そうしたことからすれば、立花隆でなくとも書評はただの情報なので本に書かれている内容がわかるだけでよく、評者がどのように思考したのかは“不要な情報”だと。書評それ自体が、一般的には新刊書の知る情報源としていることもある。だから、本に書かれているポイントを簡潔な文章でわかりやすく紹介してくれるbookvinegarなどの要約サイトが人気なのも頷ける。

Aさんや私のように書評対象書籍を読んだことで何に気づき得て(知識)、これまでの経験や知見と照らし合わせて思索し確信したことむしろ疑問を感じたこと、ときには他者に問いかけるようで長い文章はニッチな書評だろう。だが、逆にだからこそ独自性を発揮できるともいえる。
さりながら、批評的思考あるいは批評家精神などとは口にしてみても、その批評家(批評的な営為)という存在自自体がいまでは絶滅危惧種であるし、私のような市井ブロガーの書くことは所詮はディレッタントでしかないことは本人が一番自覚している。


さて、最後に、これは手前味噌でまことに恐縮なのだが(^_^;)、クリステンセン教授の新刊『ジョブ理論〜イノベーションを予測可能にする消費のメカニズム』の書評ついて、そのAさんから以下のようなとても過分なメッセージを頂戴し、飛び上がるほどの嬉しさだった\(^O^)/。
「ある意味、このジャンルで他が追随できない新境地を梅下さんが切り開きつつあるのではとも思いました。」

また、私が最初のベンチャー時代からもっとも信頼しているエンジニアで、15年来の付き合いのある友人Kさんからは次のような言葉までいただいた。
「梅下さんと、何処ぞの飲み屋でお互いに最近読んだ本について、テニスのラリーのように語り合う、そんな印象を書評から受けます。」
これも、とてつもなくありがたい励ましのメッセージになった。

書評ではまだまだ若葉マークで、書いている本人はもちろんできるだけ多くの人に読んで欲しいとは願っている。しかし、同じ本について他者がどのような書評を語ろうがそれに関わりなく、これからも自分なりの切り口(視点)をもって独自性ある書評を書き続けていくこと。上記のメッセージは、友人だから当然ながら贔屓目で読んでくれているということもあるが、それを割り引いても上記の二人の言葉を心の糧としてさらに研鑽を積まなくてはと強く心に決めた次第。

【おすすめブログ】
●私の書評が長い3つ理由ーー読書における「書評的思考」または「超書評」という考え方

●人が読書する理由ーーその方法と量について

●ついに開催した「吉本隆明を読む会」によせて

●特集「人文書入門」ーー『文藝』2014年夏号

─────────────────────────────────
〓 ハイ・コミュニケーション私論 〓(ITmediaマーケティングブログ)

〓 ShapeWin Co.,Ltd. 〓(PRコンサルティング企業ブログ
─────────────────────────────────

私の書評が長い3つ理由ーー読書における「書評的思考」または「超書評」という考え方

批評と私

私的公開日誌@ウェブ暦:171226.01

毎月1冊、個人的な関心から読みたいビジネス書や著者あるいはみなさんが読むことで示唆やヒントがある本を取り上げ、新興PRコンサルティング企業のブログコンテンツに書評を連載し始めてほぼ1年がたった。

この間、約15冊のビジネス書を取りあげるとともに徒然なるテーマでのマーケティング・エッセイを書いてきたのだが、思いのほか多くの方々に読んでいただき、また寄稿しているメディアの代表からも過分な言葉を頂戴し、この連載を引き受けて本当によかったと心より実感している。
5年前(2012年)、それまでずっと情報収集ではお世話になっていたITmediaがマーケティングブログを開設するさい、私のような老兵にもお声がけをいただき嬉しかったが、この連載はさらに私には意義深いものとなっている。

この連載には、ありがたいことに友人や知人たち数人からは丁寧な反応(感想や意見)なども頂戴し、「書評を超えた書評だ」という人、書評を読んでその本を購入したという人、毎記事がとても参考(勉強)になるとメッセージくれる人などもいる。逆に、長くて読まれる確率が低くなってっしまうので、心配してもっと短くしてはとどうかとアドバイスしてくれる親切な友人もいる。
私の書評がほかと比べて長い理由、それをお伝えすること(ある種の弁明)ができればと思いこのブログを書くことにした。

確かに、私の書評は長いしそれを読むみなさんにもご負担をおかけしているだろうことも自覚している。一般的なメディアでの書評は、800〜1,200字が原則。文芸雑誌の書評でさえ3,000字程度である。私の書評は、4,500字を超えるものがほとんどだ。
中でも、メディア関係者よりPRビジネス(広報担当者)、ソーシャルメディアやコミュニティ運営者にこそ読んでほしいと願って書いた『デジタル・ジャーナリズムは稼げるか〜メディアの未来戦略』(ジェフ・ジャービス著:東洋経済新報社)は、前後編で10,000字にもなるという書評としては掟破りとなってしまった。

また、その経験からそれでも書評は分割してはいけないという反省から取り上げた『ジョブ理論〜イノベーションを予測可能にする消費のメカニズム』(クレイトン・クリステンセン、ほか3名著:ハーパーコリンズ・ジャパン)では、できるだけ短く収めようと思いながらそれでも1回の記事としては6,000字というそれまででは最大分量となってしまい、掲載いただいているクライアントにはテンプレート変更までも強いる結果となってしまって本当に申し訳ないと感じている。

もっとも、書評と平行して寄稿しているマーケティングエッセイも、4,500〜5,000字ほどになってしまうので、この個人ブログもそうなのだが、私の書く記事自体がそもそも長いという根本的な問題が解消できず、こちらも読んでくださる皆さまや掲載メディアには申し訳ないことだと感じている。

このブログ連載依頼を受けた当初、1回あたり3,000字程度という話しをいただき、私もそれくらいの文字数があれば十分に伝えられるだろうと思っていた。ところが、回を追うごとに文字数が増えてしまった。もちろん、書き出すころには多くても3,500からせいぜい3,800字くらには収めたいと思うのだ。
それが書き続けているうちに、伝えたいことやどうしても述べたいことがドンドン膨らんで想定外の長さになってしまう。

そうした状況にもかかわらず、クライアントから短くするように要請をうけたことは一度もなく、私が書いた書評や文章をすべてそのまま全文掲載してもらっているので、本当にありがたいことだと感じている。


■記事が長い3つの理由

新聞や雑誌では、書評が定番のコンテンツである。そのほかにもオンライン上には要約サイト(特にビジネス書)、一般の人たちが様々な書評を共有するための書評ソーシャルメディアで溢れている。
日本人は読書好きといわれてはいるが、書評の書き方を指南する講座も人気だというほどの書評好きでもある。だからというわけでもないのだが、私の書評が長い理由を考えてみた。その原因には、下記の3つの理由があると思う。

(理由その1)短くまとめる力量不足
みなさんも、本を購入するさいにはアマゾンのレビューを参考にしたことがあるだろう。今日では、書店などでも本を見つけてその場でスマホからアマゾンのレビューを参照している人たちも見かけるほどだ。

本が溢れ、忙しい現代人にとってその本がどのように評価されているのか書評は重要な情報で、買うべきか否かの判断材料にもなっている。購入者と同様、一般読者の感想や意見なので参考とした気持ちもあるだろう。
ブックレビューには長い文章もあるが、ときおりアマゾンでは簡潔で要点を指摘し、さりげなく自分の見解を添えているすぐれたレビューに出くわすことがある
そうした文章に接すると、新聞や雑誌の書評などよりずっと得るものが多いなと感じる。そして、自分にはとうてい真似のできないことであり、その才には羨ましささえ感じる。私は、そうしたときに自分自身が短くまとめるという力量が足らないことを悔しく実感してしまう。

(理由その2)批評家の影響と恩恵
学生時代から批評家(吉本隆明、高橋和巳、福田恆存など)ばかり読んできたし、いまでも批評家たちの著書を読むのが私自身が一番知的な刺激を受ける。そうした著者たちから大きな影響とさらには恩恵までも受けてきた。批評家のように思考し、彼らのように文章に著すということに長らく憧れてきた。もちろん、私がいま書いている内容がそうだとは間違ってもうぬぼれてはいない。ただ、彼らに少しでも近づきたいと努力を尽くしている。つまり、小林秀雄風に言えば「他人をダシにして己を語る」ということである。

つまり、本の内容について語りながらも、むしろその本を読んだことで自分の考えや主張を伝えたいがために書評というものを書いているのである。 

単に情報として本に書かれている内容を知りたいだけなら、要点を紹介する(まとめ)サイトが役立つだろうし、ほかの人たちがどういう感想をもったのか知りたいのなら、書評共有サイトやアマゾンのレビューで十分だろう。

私にとって、書かれている内容も大事だが、それ以上に著書の執筆動機、テーマの背景、着想や視点などが私には感心があり、自分が得た気づき、示唆、疑問などから思考したことを書き残しておきたいということなのだ。

(理由その3)情報としての意義と価値
新聞などのメディアに掲載されるほど著名人の取り上げている書評本を読みたければそれで十分だろうし、一般読者の感想が知りたければ書評共有サイトで満足できるだろうしアマゾンのブックレビューが役立つだろう。そうしたものは、メディアの幇間書評とは違って遠慮なく書いている人たちもいるし、メディアなどの書評よりずっとすぐれた内容に触れることもできる。
単に情報としての書評が欲しければ、要約サイトで済むだろう。私は、時評(読み捨て)情報となるような書評ではなく1年あるいは2、3年後に読んだとしても、そこになにがしかの気づきやヒントがある内容、つまりきちんとした読み物としてそれなりに意義や価値の記事として残しておきたいという考え方が根底にあるからだ。

わかりやすい例で言えば、【書評】『文庫解説ワンダーランド』ーー「目のつけどころが斎藤美奈子でしょ」などがそうだ。対象本のいわゆる“書評”として考えれば文章の前半はどうでもよいことで、後半の「本の時評+書評+批評=斎藤美奈子」からの内容だけが必要な情報だろう。
それも、後半の内容でもいくつもちりばめられている私個人の考えや感想なども不要で、とにかく書評対象本に書かれている内容が知りたいほかの人にとっては余計なことに違いはないだろうこともとわかっている。

ところで、かつて吉本隆明は、批評についての最大の悩みは作品になることを永遠に封じられていることだというようことを述べていたが、書評はそれ以上に禁じられ現在では暇つぶし情報として消費されているだけのような気がする。
数年後または数十年後に、もし私の書評を読んで紹介した本の内容だけではなく、書評を読んだことでなにがしかの視点、ヒント、気づきなどを得る人が一人でもいれば、それで書いたことの意義と価値があると私は思う。
つまり、生意気にも文芸批評家の高橋英夫に倣っていわせてもらえば、「書評とは何かという問いに対して、単なる要約ふうの、また解説ふうの文章の域を超えて、問題の本質に深くかかわる文章が示されたならば、その文章はすでに書評である。」という勝手な思い入れに尽きる。


結局、上記の3つの理由についても私の言い訳にしかすぎないかもしれない。長いことで読む人が少なく限られてしまうデメリットも重々承知している。それでも、私の考え方がぶれることはない。
私が書評に注力しはじめたころ、「できれば書評と批評を架橋する新しいスタイルを確立したい」最適な言葉が思い浮かずそう述べたことがある。だが、友人のメッセージにインスパイアされ「超書評」というのがとても気に入っている。超訳という言葉があるので、「超書評」というのを励みに今後ともそれを目指していくつもりである。

これからも、できるだけ簡潔で短い内容となるように努力するつもりなのではあるが、それでも長い文章で皆さまにはご負担やほかより時間を費やすこととなってしまうかもしれれない。
それにもかかわらず、みなさんにはご寛恕を願ってお付き合いをいただければこれに勝る幸せはない。

【おすすめブログ】
▼1億総書評家社会。「書評的思考」あるいは「書評家精神」のすすめーー誰にも読まれない書評。それでも書くことの3つの効用

▼書評家失格!ーー書評とは何かについて考えてみた

▼21世紀的書評のあり方とはーー書評に関するある読書人のノート

▼時間のないビジネスパーソンに嬉しいーービジネス良書の“サマリーサービス”(要約)「bookvinegar」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〓 ハイ・コミュニケーション私論 〓(ITmediaマーケティング)

〓 ShapeWin Co.,Ltd. 〓(PRコンサルティング企業のブログ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

マーケティングコミュニケーション関連の「厳選書評この4本」のご紹介

shohyonosigoto-bigl

私的公開日誌@
ウェブ暦:170711.01

昨年(2016年)4月以降、私のブログは滞っている。これは当該ブログ、ITmediaメディアマーケティングのブログともにそうした情況にある。
私のブログは、仕事に関わりがあるだけではなく関心の高い多種多様なミートアップ集まり(フォーラム、カンファレンス、セミナーなど)に参加し、そこで得た気づきやヒント、示唆に基づく考察などを記事化することが多い。

しかしながら、諸事情から残念ながらいまはそれが思うように叶わない状況にある。

さて、昨年末(11月)、マーケティング戦略に強いPR専業の新興企業(実は非常に少ない)から、ゲストブロガーとして記事を寄稿しませんかというお申し出をいただき、それ以降はマーケティングに関する記事すべては同企業サイトに寄稿している。

寄稿しているブログでは、書評を中心に記事を書いているのでだが、PR関連よりむしろマーケティングコミュニケーション全般、さらには経営戦略から人文・社会科学まで選書も自由に任されていることがとてもありがたい。
文字数も原則的にはあるのだが、私の記事はどうしてもそれを越えてしまうことが多い。しかし、どの記事も削られたことはなく、すべて私が書いた文章をそのまま全文掲載してもらえる。
とにかく、我が国では希な本当の書評が書ける素晴らしい場(メディア)をいただいたという嬉しさを感じている。


■書評という「伏魔殿」

今日では、メディア(新聞、雑誌など)では書評は定番コンテンツではあるのだが、それらは時評(月評)という役割が与えられているので、本来の書評ではなく第三者による新刊案内または紹介にしかすぎない、と私自身は判断している。
そうした書評の置かれている立場について、個人的な考えは【書評】『文庫解説ワンダーランド』ーー「目のつけどころが斎藤美奈子でしょ」」で語っているのでここでは詳しく述べないが、ご関心のある方はあわせてご笑覧を願えれば嬉しく思う。

ありていに言えば、書評というのは書評対象に書かれている内容と異なるような見解あるいは批判的なことを書くのは書評としては御法度で、その内容について語ってしかも原則的には「ほめる」ことが要求されている
したがって、本の評判を高めるまたは読みたいと強く促すことが目的とされている。それが、書評業界(あるのか否か疑問)では“暗黙の掟である。
これは例えてみれば、テレビ番組に出演しているコメンテーターが、その番組主旨や局側の意向に沿うようコメントをするのと同じである。

それは、出版社の書籍部門から刊行されている書籍が、その同じ出版社の雑誌の書評欄で取り上げられて記事になる場合、とりわけそうした掟がつきまとっているが、刊行された書籍とその出版社が直接関係ない場合もそうである。
こうしたメディアの書評について、私が読んだ“志ある書評者たちの本の中で異口同音にみなが語っていることでもある。
そうした書評事情について、民俗学者の赤坂憲雄はその著『書評はまったくむずかしい』(五柳書院)の中で以下のように述べている。

「この国のジャーナリズムの世界では、書評は書物の批評を意味するわけではない。批評など、誰一人として期待していない。著者も出版社も雑誌メディアも、誰もが暗黙のうちに、その本の商品価値が高まることばかり期待している。真っ向からの批評など、むしろ禁じ手となる。」

そうした“見えにくい政治の場で痛い目にあった赤坂は、だから「書評はむずかし」く、そうした事情にもかかわらず安くて「労多くして報われぬ仕事である」と、批評家の斎藤美奈子と同様に述べる。

また、批評家の福田和也などは、書評を厄介で信用のおけない権勢ゲームだと切って捨て、だから書評というのは出版社が思っているほど信用はされていないのだと、もっと挑発的に語っている(『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』)。
これは雑誌メディアも所有している大手出版社の書評に限らず、こうした「見えない約束事」(赤坂の言葉)に拘束され、自由かつ真摯にその書について語ることが許容されず、肯定と賛辞だけがまかり通るメディアでの書評ではまさに“疑似ステマ”と同様と言われても仕方がないのではないかとさえ感じる。

そうした事情があるからこそ、ある特定の書き手の書評集というのは希で極めて少ない。なぜならば、そうした書評のほとんどはその本が刊行した時点におけるただの読み捨て情報でしかないからだ。
幸いにして、私はそうではない書評に接してきたし、そうした人たちの書評集(単行本や文庫本)を読む機会に恵まれてきた。
もとより、立花隆のように、書評とは情報なので何が書かれているのかだけがきちんとわかればよく、その評者の見解や意見には興味も関心もないというような人もいる。これは立花隆だからこそなのだろう。


■真の書評を求めて

私もそうした呪縛や掟から解放され、私が読みたいと感じ、好評するか否かにかかわらず、他の人たちも読むことでなにがしかの参考となるだろうと得心あるいは了解ができる本だけを選定し、その本から気づきやヒント、示唆あるいは疑問など、様々に考えを巡らせたことを忌憚なく書かせてもらえことは、書評を書く立場としてはめったに得られない貴重なことだ。

新刊はもとより、旧刊・既刊あるいはその存在を知ったときにはすでに街の一般書店では手に入らない本(絶版)などを取り上げることもあり、それこそが真の書評というものだろうと勝手に思っている。

今回、そうして寄稿した書評が気がつけば10本になった。そこでそれを記念し(勝手なのだが^-^;)、それらの中から厳選した4本を以下にご紹介したい。
もし、皆さまの退屈しのぎや気分転換にでもご笑覧が叶い、なにがしかの参考にでもなれば嬉しく思う。


(1)【書評】『ビジネスで一番、大切なこと〜消費者の心を学ぶ』(ヤンミ・ムン:ダイヤモンド社)
https://www.shapewin.co.jp/blog1392
個人的にこの邦題には感心しないのだが、扱っているのはマーケティング永遠の課題であるDifferentiation(日本で「差別化」と訳される)についてだ。この訳語については、独自性や識別性などをむしろ当てる方が適切だろうと私個人は考えている。
もちろん、本書は元々は米国向けに書かれている内容である。訳書であり、本書のテーマの持つ陥穽は日本だけではなく“マーケティング立国”の米国でも、ご同様という紛うことなき事実なのである。

(2)【書評】『ピーター・ドラッカー マーケターの罪と罰』(ウィリアム・A・コーエン:日経BP社)
「私がもし現代マーケティングの父であれば、ドラッカーは現代マーケティングの祖父と称されるべき」と、本書の冒頭でコトラー教授はこう序文を寄せている。
ドラッカーに薫陶を受けた伝承者といわれているウィリアム・A・コーエンが、ドラッカーの著書(論文含む)をはじめとして講演や対談など含め、マーケティングに関する言説だけを丹念に収集して著した本。これを読むと、ドラッカーのマーケティングに関する慧眼ぶりに感服する。
原題は、“Drucker on Marketing”。

(3)【書評】『私たちはどこまで資本主義に従うのかー市場経済には「第3の柱」が必要である』(ヘンリー・ミンツバーグ:ダイヤモンド社)
ドラッカー、ポーターに比べて国内では知名度の低いミンツバーグだが、国際的にはこの二人以上の評価も得ている人。
本書は、最近の資本主義の大転換点に真摯に向き合ったミンツバーグの啓蒙的な書で、バランスを失った現在の世界に対し、より良い社会への新しいバランサーとしての「多元セクター」というコンセプトを提示し、その(市民)社会が損ねているバランスを是正しようとする提言が書かれている。
近代的自我=主体性論、要するに自己チューを乗り越え、どのようにして公共性との融和を図るべきかというのが現代思想で最大の隘路だ。フランス現代思想では、これを脱構築としてとして遂行しようとするのだが……。

(4)【書評】『競争としてのマーケティング』(丸山謙治:総合法令出版)
ジャック・トラウトとアル・ライズの二人は、私がマーケティング思考を形成するうえでもっとも多くを教えられた人たちだ。知名度ではフィリップ・コトラー教授に劣るが、二人の書は邦訳点数も多くそれだけ人気があるという証拠でもある。
コトラー教授の解(概)説書や入門書は多いが、この二人に関する入門書は本書が初めてである。すべての企業が顧客志向の今日、その陥穽に注意を促し、マーケティング戦略の本質について再考することを提唱している。

あわせて、ほかの6本も下記に簡単にご紹介。

初めて寄稿した書評は『ソーシャルメディア論〜つながりを再設計する』(藤代裕之編著:青弓社刊)だが、初回ということもあり手探り状態で堅く凡庸な書き方(書評)になってしまった。
第2回目が(上記1)で、マーケティング永遠の課題である“Differentiation”(日本語では「差別化」と訳される)で、ようやく自分でも納得できる書き方による記事となり、それがなんとか好評を得たように私は感じている。
『マーケティングのすゝめ〜21世紀のマーケティングとイノベーション』(フィリップ・コトラー/高岡浩三:中公新書ラクレ)は、齢80歳を超えてもなおマーケティングを探求しているコトラー教授。ネスレとコトラー・ビジネス・プログラム(KBP)のPRとチャチャを入れるのは野暮。昨年(16年)末に米国で刊行された“Marketing 4.0: Moving from Traditional to Digital”も、近々には国内でも刊行されるだろう。

『メディア・コミュニケーション[入門]〜対応から活用へ』(ウィリアム・ J・ホルスタイン:ファーストプレス)は、ジャーナリスによる本だが残念ながら街の一般書店ではすでに入手が叶わない。しかし、あえて書評に挑戦した。今日ではアマゾンやブックオフもあるので、こうした本でも手軽に入手可能だ。 
『コンテツマーケティング27の極意〜編集者のように考えよう』(レベッカ・リーブ:翔泳社)は、コンテンツマーケティングについて網羅的な内容で、そうしたマーケティングについて悩んでいる人には参考となるだろう。

『ウソはバレる〜「定説」が通用しない時代の新しいマーケティング』(イタマール・サイモンソン/エマニュエル・ローゼン:ダイヤモンド社)は、ステマ問題や昨今いわれているネイティブ広告などを検討している人には示唆となるだろう。
『すべては「売る」ために〜利益を徹底追求するマーケティング』(セルジオ・ジーマン:海と月社)は、2001年に米タイム誌で「20世紀三大広告人」の一人に選ばれ、CMO(最高マーケティング責任者)という言葉の普及で知られてもいるセルジオ・ジーマンの主著。刊行当時、全米では賛否両論がおこった。


上記のように、新刊・既刊(旧刊)にこだわることなく、まったくの個人的な関心にもとづき選んでコンスタントに書き継いできた。

私がこの書評を続けていてなにより嬉しいのは、クライアントから書評対象の本の選定を褒められたり、友人たちから買いました(アマゾンでポチりました)というメッセージをもらったり丁寧に感想を頂戴したとき、この書評を続けられる歓びや大いなる励みとなっている。
書評する本の選定にこだわっているのは、書評に注力することを決意し悩んでいたときに授かった「(極意その3)書評する本の選定にこそ、その書き手の個性がもっとも発揮されると心得ること。」というその教えのおかげであるとしみじみと実感している。

ところで、現在では書評だけではなく、ゲストブロガーという立場の自由度を活かしながらすでにいくつかの記事を書いている。
私は、それらを「マーケティングエッセイ」と(またまた勝手に^-^;)称している。こちらのブログも引き続き継続していくつもりである。
それは、広告代理店の傭兵マーケター約15年、ベンチャー企業のマーケティング責任者で約10年、ベンチャーや企業へのマーケティングアドバイザー歴で約5年の経験とそこで得た知見をすべて注ぎ込んだ内容とし、読者の皆さまに気づきやヒント、示唆となれば幸いである。

しかし、それは過去を振り返るような作業ではなく、現在性や未来について語るものにしたい。私に興味や関心があるのは、現在と未来だけであって過去を懐かしんだりする気持ちは一切持ってはいないしそれだけは十分に自戒したい


【おすすめブログ】
●【書評】神のなせる采配か?ーー『ジョナサン・アイブ〜偉大な製品を生み出すアップルの天才デザイナー』

●【書評】「見えざるものを見る力」〜ビジョナリーとは「洞察力」

●【書評】ビジネス書という「無間地獄」に思う

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〓 ハイ・コミュニケーション私論 〓(ITmediaマーケティング)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

3月の書店散策の収穫7冊のご紹介

1703books

私的公開日誌@
ウェブ暦:170321.01

ここ数日、ようやく春らしい日差しが感じられる時期となった。
3月の都内の大型書店散策に出かけたのだが、懐の寂しいときに限って欲しい本をいくつも目についてしまう(>_<)。

今回は新刊だけにかぎらず、既刊でも思わぬ本が出ていることを発見した。
「いやぁ、書店散策って本当にいいもんですね〜」(と水野晴郎口調)


(1)『震災後の日本で戦争を引きうける――吉本隆明『共同幻想論』を読み直す』(田中和生:現代書館/¥2200+税)
今年は、吉本隆明没後5年。ここのところ、吉本隆明やその著作に関する本の刊行が相次いでいる。著書は1974年生まれという、ここのところ相次いで登場している新世代の批評家である。
同著書は、すでに『吉本隆明』(アーツアンドクラフツ)も著している。こうした若い世代から福田恆存や吉本隆明について批評が誕生してくるのは歓迎だ\(^O^)/。

(2)『ブルデュー 国家資本(山本哲士:文化科学高等研究院出版局/¥4,800
80年代後半から90年代にかけ、構造主義、ポストモダンとは別に「ディスタンクシオン」や「ハビトゥス (Habitus)」という概念とともにフランスから登場してきたピエール・ブルデューは一部での思想界では随分と話題となった社会学者だ。
久々に名前を見かけた。山本哲士のこの本は、昨年末に刊行された『吉本隆明と『共同幻想論』、『フーコー 国家論』とをもって
国家論3部作」完結となるそうだ

(3)『社会学の使い方ジグムント・バウマン:青土社/¥2,376
ここのところ続々と翻訳本が刊行されている社会学者のバウマン。『リキッド・モダニティ』が日本の論客にも影響を与えたこともあるからだろうか。本書は社会学の入門書のようだ。

(4)『排除型社会(ジョック・ヤング:洛北出版/¥2,800+税)
本書は、困難〔difficulty〕と差異〔difference〕について書かれた本である。」と序文で著者は語っている。また、ジグムント・バウマンが「画期的な書物。驚異的なまでの博識、事実への深い洞察、明晰な論旨と論証が結びついたこの著作に、私は圧倒された。」とまで語っているのが本書である。

(5)『古典文学読本三島由紀夫/中公文庫/¥700
同文庫には、『文章読本』、『小説読本』『作家論』がある。この新刊は日本文学や古典の魅力を綴ったエッセイを初集成。文庫オリジナル。

(6)『無意識の幻想D・H・ロレンス/中公文庫/¥1,000
福田恆存が、ロレンスの『黙示録論 (ちくま学芸文庫)に大きな影響を受けたということで読んだのが、難渋な内容で途中で諦めたことがある。今回ははたして読み切れるだろうか。

(7)『高橋和巳(河出書房新社/¥2,052
同社では、これまでにもこうしたガイドブックとしては小林秀雄、吉本隆明、三島由紀夫、福田恆存などが刊行されている。まさか高橋和巳がでるとは思わなかった。

高橋和巳といえば、60年から70年代にかけて学生には吉本隆明とともに絶大な人気があった。70年代後半、遅れてやってきた学生だった私も吉本とならんで最も薫陶を受けた作家・批評家である。
最近、河出文庫から主要著作『憂鬱なる党派(上・下)』、『悲の器』や『邪宗門(上・下)』が新刊書として平積みされているのを見かけたし、4月には同文庫から『わが解体』も発売される。

個人的には、同社『高橋和巳全集』(全20巻)の第11巻(評論1)〜第14巻(評論4)をすべて文庫化してくれると嬉しくてありがたいが、それは無理だろうな。

【書評】『文庫解説ワンダーランド』ーー「目のつけどころが斎藤美奈子でしょ」

279048-1
私的公開日誌@ウェブ暦:170222.01

私は文芸批評家の斎藤美奈子の“書評を読むのが好きだ。彼女の書評を読んでいると、これが今様の「文芸批評または批評家の生きる道」という感じがしている。
斎藤美奈子の本業は文芸批評であるが、書評に関する刊行物の方が多いくらいだ。
ざっと上げただけでも、

・『読者は踊る』(文春文庫)
・『誤読日記』(文春文庫)
・『本の本 1994-2007』(ちくま文庫)
・『趣味は読書。』(ちくま文庫)
・『文芸誤報』(朝日新聞出版)

本人も書評が大好きだと公言しているのだが、これほどまでにその人の書評が書籍として刊行され、さらには文庫化までされている人を私はほかに知らない。『本の本』にいたっては800ページもあり、通常の文庫の2〜3倍のぶ厚さである。

私の学生時代、批評は随分と喧しい情況だったが書評はほとんどだれも気にもとめなかった記憶がある。今日、批評に比べて書評がメディアに溢れニーズがあるにもかかわらず、それでもまだ書評本というのは実は少ない
その理由は、雑誌も含めた様々なメディアや巷で書評コーナーが実はいわゆる「本の時評」のことであり、旬(新刊、話題の本扱い期間など)が過ぎればただの古い情報でしかなく、その価値はほとんど無も同然になってしまうからだ。
なかでも、3ヶ月や半年で陳腐化するようなビジネス書、ダイエットや健康に関する実用書などであればとくにそうで、それらの書評ともなれば書籍としてあとになって刊行するには出版社としてはリスクが高いからだ。

社会学者の橋爪大三郎は書評集『書評のおしごと』(海鳥社)のなかで、書評を規定演技のあるスポーツ競技にたとえて以下のように語っている。

「書評だけをあつめた本は、あまりみたことがない。それは、いわば規定演技のカタログ。著者(というか、評者)のまとまった考え(自由演技)がそこに書いてあるはずがないのは、明らかだ。というわけで、あまり売れそうにない。」

それでも、メディアで書評は需要の高い定番コンテンツで、最近でも時事通信文化部編集によるなんと1998年〜2014年まで、16年間分の膨大な書評を1冊にまとめた『書評大全』(三省堂刊、なんと17,820円+税)で、2,560ページという『広辞苑』も真っ青な分厚さの本が刊行されるほどだ。
こうした図書が刊行されるほど、書評に対する情報が求められているのだなとむしろ驚く。

書評家を生業としている人たちがどのくらい存在しているのか私は詳らかではないが、出版洪水の中で書評というのはほとんどが読み捨て情報なので、それもよほどの作家(文豪)や学者や著名人でもないかぎり、メディアでの連載書評を集めて書籍として刊行されることは一般的にはほとんどない。
まれな例では、<狐>の匿名でも書評集を著した村山修、ジャーナリストの立花隆などくらいだろう。

そもそも書評は、なにをもって正統な書評とするかだ。
それというのも「書評家は原理的に「専門職」にはなり得ない職業である。書籍というものが森羅万象、あらゆるジャンルにわたっている以上、すべてのジャンルに精通している人間などいるわけないからだ。」(『本の本』)と、書評大好きな斎藤本人もよく自覚している。

もとより、本の時評あるいは書評といえども、小林秀雄の『小林秀雄全文芸時評集<上/下>』(講談社文芸文庫)、吉本隆明の『空虚としての主題』(福武文庫)、『消費のなかの芸〜ベストセラーを読む』(ロッキング・オン)、柄谷行人の『反文学論』(講談社文芸文庫)などのクラスになると、本の時評といえどもあだやおろそかにはできない。
すなわち、大御所の書評や時評ともなればそれ自体がすでに一編の批評作品ともなっていることは、あらためて説明するまでもないだろう。


独自のポジショニング=斎藤美奈子の本

斎藤は、いわゆるオーソドックスな批評家ではないし、書評家としても正統派ではない

前者は、たとえば小林秀雄を頂点とし中村光夫、高橋英夫、江藤淳、磯田光一などから、最近では神山睦美、加藤典洋、山城むつみまで、細々とそれでも脈々と受け継がれているがそれらのだれとも異なる。
後者は、いわゆる新聞の書評欄のように学者、作家、ジャーナリスト、エッセイストなどが担当しているコーナーを基準とすれば、斎藤の書評は“逸脱”している
斎藤の書評スタイルには顔をしかめる人もいるだろ。文章は痛快無比で自由闊達、快刀乱麻にして軽妙洒脱である。辛辣な比喩も頼もしく、“褒め殺し”は天下一品である。

さらに彼女自身の本のタイトルの付け方、書評の見出しなどもコピーライター的なセンス抜群で文体も読んでいて愉しい。もちろん本のタイルは、編集担当者の協力もあってのことだろう。
だからというわけではあるまいが、“さとなお”の愛称で知られる元電通の佐藤尚之が、斎藤の『文学的商品学』(文春文庫)の解説を書いているというのも頷ける。

「面白い書評はあっても、正しい書評なんてない。」(豊崎由美著『ニッポンの書評』)わけなので、凡百の型どおり(規定演技)の新聞などメディアの書評に比べると、斎藤の穿つような独特の読み方は書評を超えた批評家としての資質が文章のいたるところで発現している

「書評とも時評ともつかない小論を集めた」と、自身で評する『読者は踊る』(文春文庫)などは彼女の特質が存分に発揮されている。
同書の冒頭には、「本書をお読みになる前に」として読み手が踊る読者か否かを判定するため20項目掲げられているので以下にご紹介。読書好きあるいは書評を読むのが好きな皆さまも、この機会に是非挑戦してみてはいかがだろう。私は、以下の○がついているのが該当項目だ。

○(1)空いた時間を書店でつぶすことがある。
(2)書店に入ったら、新刊書コーナーを見る。
(3)売れている本のベストテンが気になる。
(4)話題のタレント本を買うのはちょっと抵抗がある
(5)文字の少ないスカスカの本は損した気がする。
(6)見てくれが立派な本は中身も信頼できそうな気がする。
(7)上下二巻の本があったら、最初は上巻だけを買う。
(8)ベストセラーはできるだけヒトに借りて読む。
(9)欲しい本があったが、値段を見て止めたことがある。
(10)読みかけて途中でやめた本が何冊もある。
(11)新しいことを始めるときには必ずハウツー本を買う。
(12)似たような本が何冊もあったら、著者の肩書きと経歴を見て選ぶ。
(13)芥川賞・直木賞の受賞者くらいは読んでおいた方が良いような気がする。
(14)ブックガイドを読むのが好きだ。
(15)「知の最前線」「時代を読むキーワード」といった言葉に弱い。
(16)喫茶店や列車で何も読むものがないと寂しい。
(17)人の家に行くと、思わず本棚を見てしまう。
(18)本はあとがきから、文庫本は解説から読む。
(19)最近の本は値段が高すぎると思う。
(20)世の中にはくだらない本が多すぎると思う。

皆さんはどのような判定結果だろうか。
上記のうち、斎藤によれば10個以上○の人はかなり重度の「踊る読者」。5個以上は将来の「踊る読者」候補生だそうな。

私の場合は○が「8個」なので、「かなり重度の踊る読者」がほぼ当確のようだ。踊る読者のことを小市民読者と斎藤は呼んでいるがだが、私はこれまでそう感じたことはなかったが、斎藤によると私は“立派な小市民読者”ということになる。
(1)は「ことがある」どころではなく「必ず」で、人と待ち合わせをするときには書店でする。(10)は蔵書の半分は「積ん読」のままだし、(14)はブックガイドではないが、各出版社が毎年発行している「解説目録」に目を通すのがなにより楽しみだ。
(16)は空き時間があれば、本を読みたいと思う。(17)は他人の読書傾向を知りたい好奇心。(18)はまったくその通りの人間。(20)は、9割方はそうした本ばかりだと思う。

さて、そもそも斎藤のデビュー作『妊娠小説』以降『紅一点論』(共にちくま文庫)、『モダンガール論』『文壇アイドル論』(共に文春文庫)など、一連の批評著作群も極めてユニークで独創的な着想が光る書だ。

私が読んだ唯一の文芸批評は『文学的商品学』(文春文庫)だけだが、同書は高度資本主義(大衆消費)社会と文学作品におけるモノの語られ方と時代性を論じた批評で、その独特の目の付け所がいかにも斎藤美奈子らしい。
また、『読者は踊るで』(文春文庫)で指摘されている、日本の私小説の伝統は今日ではタレントの告白本に継承されているのが現在の出版情況だという見解は、これまで考えてもみなかった卓見であると思う。
『文章読本さん江』(ちくま文庫)は、文豪はなぜにかくも文章読本を著すのが好きなのか。「すべての文章読本は他の文章読本の批評になっている、という興味深い現象」に着目し、あまたの文豪の文章読本を俎上にのせた批評を展開している。
しかも、同書ではなんと第1回小林秀雄賞」を受賞してしまうというオマケ付きだ(ちなみに第2回は吉本隆明の『夏目漱石を読む』)


■本の時評+書評+批評=斎藤美奈子

その斎藤の新刊が『文庫解説ワンダーランド』で、これも着想(発想)の勝利でかつての広告コピー風にいえば「目のつけどころが斎藤美奈子でしょ」ってところだ。

しかも岩波新書である。岩波書店では、新刊案内も兼ねた読書家向けの雑誌として『図書』という薄い小冊子(PR誌)を発行している。大型書店などでは、場合によっては無料でも手にすることもできるが一年間の購読料でも1,000円しかかからない。その誌上で連載されていた『文庫解説を読む』を元に、大幅な加筆をして刊行されたのが今回の新書である。

もっとも、斎藤自身、「文庫解説という仕事が私はわりと好きである。書評より好きかもしれない。」というだけあって、自著の文庫化にさいしても『本の本』(ちくま文庫)、『誤読日記』(文春文庫)などは、書いた本人が文庫に自らが解説を付すことまでやってのける。

さて、文庫には必ず解説がつきものだ。その多くは文芸批評家や著名作家がその作品の解説を担当する。解説は、作品理解を助けるために存在していると誰でもが当たり前のように思っているだろうが、斎藤がそうではないことを暴露してしまう。
誰でも読んだことのある古典文学から現代文学までを俎上にのせ、様々な文庫解説について批評を展開する芸当は実にユニークだ。私たちは、ふつうは文庫の巻末に解説がついているのが当然と思っている。その当たり前を「なぜ」、「なんのために」と実に素朴な疑問を出発点にして以下のように語る。

「巻末の解説は文庫の付録、読者サービスのためのオマケである。しかし、人はしばしばオマケが欲しくて商品を買う。文庫解説もまた一個の作品。」

たとえば、食玩のオマケ、雑誌のオマケなどが欲しくてそれらを買った経験はだれにでもあるだろう。
私についていえば、バタイユの『文学と悪』(ちくま学芸文庫)は吉本隆明の、その吉本著『空虚としての主題』(福武文庫)は笠井潔『小林秀雄全文芸時評集(上/下)』(講談社文芸文庫)山城むつみの、と各々のオマケが欲しく(解説が読みたく)て手にした本だ。

今回の『文庫解説ワンダーランド』は、そのオマケ(解説)が批評対象で、国内では夏目漱石、川端康成、太宰治から、渡辺淳一、松本清張、赤川次郎、村上龍など、海外ではマルクス、シェイクスピアからフィッツジェラルド、カポーティ、チャンドラー、サガンまで多彩な各社の文庫解説を渉猟しながら各者各様の解説がなぜこれほどまでに違うのか、そうした事情や情況に対し「解説に解説を加える」という離れ業を披露している。
語り口は相変わらずの美奈子節が全開炸裂し、読んでいて思わずニヤリとしてしまうこと請け合いの面白さだ。

ところで、斎藤美奈子を文芸批評あるいは批評家の列に加えることに異論のある人もいるだろうことも承知している。伝統ある文芸批評とは、たとえば小林秀雄を頂点とする一連の批評家とその著作群であって、それらとは異なると。

私も、そうした伝統的な文芸批評や批評に長らく親しんできた人間だ。しかし、そうした批評家による百家争鳴の時代は、昨今では文芸批評や批評そのものはすでに絶滅危惧だと各方面から指摘されているほどだ。かつてのような情況は、悲しく残念ながら二度と到来することはないだろう。
もちろん、これには併走してきたいわゆる純文学の衰退という実情とも大いに関係している。
今日では、書評家による百家争鳴の時代ではあるだろうが。

しかし、考えてみれば先に紹介した吉本隆明著作(『空虚としての主題』や『消費の中の芸〜ベストセラーを読む』など)も、いまという高度消費社会における小説やベストセラー、それらを含めたサブカルチャー作品までも論じた著書である。
また、かつて『サブカルチャー文学論』(朝日文庫)を著した大塚英志のような批評家もいたが、現在ではそうした批評領域から足を洗ってしまった。

斎藤美奈子の書くものは、時評であり書評であり批評をもあわせもった(融解した)ような著書であることが特異で、あまたの書評家(という言い方が斎藤に許されれば)のなかでも独自のポジショニングを確保して異彩を放っている。


■斎藤美奈子の書評を私が好きな理由

とにかく、斎藤の作品はどれも一筋縄ではいかず、これまでの伝統的な文芸批評や批評の枠を超えた“企画力”がある
しかも、それらをひねりのきいたユーモアと巧みな比喩にのせ、おもわず上手いこと言うなと感心させられてしまう文章は魅力たっぷりで、もはやその文体(語り口)はまるで「書評漫談」のようなエンタテイメントですらある。

私が斎藤の書評を気に入っている理由、それは私が理想とする「批評と書評と架橋する」ということをいわば体現しているからだろう。それが、まさに斎藤美奈子の著す作品の新しさだ。
書評家の豊崎由美が、先の『ニッポンの書評』の中で、書評(ブックレビュー)と批評(クリティック)が明確に棲み分けられている(批評が格上で、書評が格下)のは日本だけで、欧米では両者に区別はないと語っていたが、こうした視点から見ればむしろ斎藤美奈子というのは日本では珍しい世界標準の書き手であるということもできよう。

私自身、もっと彼女のようにユーモア感覚にあふれ、読む人の笑いを誘うようなそれでいて辛辣だが嫌みのない比喩が上手い文章を書いてみたい、と密かに思ってはいるのだが……。

ところで、これは余談なのだが、私の手元にある書評本で一番古いのは久野収による『私の読書、私の書評』(三一新書)だ。
刊行は1976年で、この当時は読書論や文学論(批評)と比べても書評の名を冠した本が刊行されたこと自体が貴重のように感じる。この本は、様々な新聞と雑誌に久野が寄稿した書評だけを約80編を収めてある。読書論もなにも一切なく、ただそっけなく書評だけが並んでいる。
入手できたのはいつもお世話になっている下北沢の古書店「クラリスブックス」でだが、それはセレンディピティ以上のむしろ奇蹟ともいうべきで、しかも40年も前の本ながら新刊のような状態なのにも驚いた。

本書の刊行時は私の学生時代。もちろん久野収だけではなく書評というものは知っていたが、批評ばかり読んでいたので特に気にもとめなかった本だ。今日あれば真っ先に買い求めるところなのだが。
その内容はといえば、1950年代、60年代、70年代の三部構成で、目次にラインアップされている書評本をながめるだけでその当時の時代情況の息吹もさることながら、むしろ愉しいとさえ感じてしまう私である。

これは極めて私的な意見なのだが、先の村山修やこの久野の書評がたぶん王道で、本当は範ともすべきのような気が私にはする。それらを読んでいると「いやぁ、書評って本当にいいもんですね〜」と、かつての映画評論家のようなフレーズが思わず口を突いて出てくる


【他の書評リンク】
▼文庫本「解説」の「解説」の面白さ ―書評 斎藤美奈子著『文庫解説ワンダーランド』(岩波新書)―

文庫解説ワンダーランドーー目黒考ニの何もない日々

斎藤美奈子の「文庫解説ワンダーランド」を読んだ!

文庫解説ワンダーランド (岩波新書)ーーBooklogレビュー

▼文庫解説ワンダーランド 一日一読ー


【おすすめブログ】
●書評家失格!ーー書評とは何かについて考えてみた

21世紀的書評のあり方とはーー書評に関するある読書人のノート

1億総書評家社会。「書評的思考」あるいは「書評家精神」のすすめーー誰にも読まれない書評。それでも書くことの3つの効用

太宰治の生誕100年ーー忘れられている2人の作家について思う

2月の書店散策。新刊収穫のご紹介。

books_201702

私的公開日誌@
ウェブ暦:170216.01

先月は新春早々欲しい本数冊と出会ってしまったが、2月も中旬、ちくま学芸文庫、講談社学術文庫・同文芸文庫などの発売が続く。

これらの文庫では、今月はなにが刊行されるのか関心の高い本が集中するの日々なので、いつも通り都内の大型書店散歩をすると困ったことにまたまた欲しい本を発見してしまう。

それにしても、私が読みたいと思う本はとにかく文庫といえども価格が高く、引き続き食費を削ることを強いられるわけだ。いつも私の懐が寂しい状態がずっと続いているのは、そうした本が刊行されることが大きな原因となっている。

単行本では1冊3,000〜5,000円、文庫ですら1,500円以上するのがつらい。
これまでに購入した文庫で一番高かったのはモーリス・ブランショの『文学空間』(ちくま学芸文庫)で2,000円(税別)だったが、これはもはや文庫価格ではない。が、読みたいのでしようがない。
もっとも、そうした本ばかり欲しがるのが悪いのだ、といわれれば返す言葉はないのであるが(>_<)。

こうしてみると、新潮社をはじめとする一般文庫と新書というのは、まことに安いとしみじみ実感する。


(1)『革命論集』アントニオ・グラムシ(講談社学術文庫/本体1,680円+税)
先日「意外な本を、ひょっこりと刊行するのが学術文庫の得意技」と言ったばかりだったが、今月も驚いた本が文庫化。21世紀の今日、イタリア出身、マルキスト、アントニオといえば<帝国>や<マルチチュード>という言葉とともにアントニオ・ネグリが広く認知されている。しかし、20世紀、イタリア人でマルキストのアントニオといえば、「ヘゲモニー論」で有名だったのがこのグラムシだ。
グラムシ没後80年ということで、日本独自のアンソロジーだが「本邦初訳の論考を数多く含む」というのにとてもそそられるぞ。

(2)『北一輝――国家と進化』嘉戸一将(講談社学術文庫/本体1,680円+税)
皇道派青年将校による二・二六事件の理論的指導者として逮捕され、軍法会議により銃殺刑に処せられた北一輝。彼の主著『国家論及び純正社会主義』も『日本改造法案大綱』も、恥ずかしながら私は読んだことがない。
ただ、北一輝の思想には感心があり、いつかどこかでじっくりと繙いてみたいとは思っている。

(3)『社会学的想像力』C・ライト・ミルズ(ちくま学芸文庫/本体:1,400円+税)
考えてみれば、ちくま学芸文庫も意外な本をひょっこりと刊行するな。学生時代、確か専攻学科のゼミでミルズの代表作『パワー・エリート<上/下>』(東京大学出版会)を読んだ記憶がある。詳細は忘れてしまったが、少数のエスタブリッシュメントたちと産軍複合体とが、社会だけではなく国家をも支配していることを語っている書だったように思う。
当時はドイツ古典哲学しか眼中にはなく、米国の社会学者ミルズには特に興味がなかったということもあるので、他の書は読んではいない。
しかし、今回のこの本は是非とも読んでみたい。

(4)『吉本隆明 『言語にとって美とはなにか』の読み方』宇田亮一(アルファベータ/本体:2,500円+税)
臨床心理が専門という宇田亮一には、すでに『吉本隆明 『共同幻想論』の読み方』、『吉本隆明 『心的現象論』の読み方』(ともに文芸社)も刊行されている。これで吉本主著三部作の「読み方」本が出揃った。
そのほかに、その三部作をまとめてあつかった『吉本隆明“心”から読み解く思想』(彩流社)も著している。


昨年末から3ヶ月連続、欲しい本が続々刊行で痛し痒しだ。

【おすすめブログ】
▼今年初の古書店探訪記

▼今年最後の「書店ツアー」を敢行!

1億総書評家社会。「書評的思考」あるいは「書評家精神」のすすめーー誰にも読まれない書評。それでも書くことの3つの効用

poster20110525

私的公開日誌@ウェブ暦:170127.01

私はまったくの書評家ではない。そもそもライター(文筆)稼業でもない。だがここ最近、書評はとくに力を入れているコンテンツだ。書評は、それまで年に1本書くか否かだった
しかし、友人が主催し残念ながらいまは休止中のユニークな読書倶楽部に参加したこと(こういう巡り会いに感謝)をきっかけに、書評を本格的に手がけるようになる。読書がなにより好きで、そこで得た気づき、ヒント、示唆、発見などに思考をめぐらし(考え抜き)、なにがしかを書かずにはいられない性分だということもある

当該ブログには、それまでにも書店散策で出会ったり発見した本についても雑感記事を書いていたのだが、書評カテゴリを新たに設け名刺には本業のコミュニケーションアーキテクトのほか、「書評エッセイスト」と刷って(自称で“家”はちょっと畏れ多いので^-^;)いるほどだ。
学生時代からほとんど批評家に親しんできたせいで書評の書き方にもずいぶんと苦慮していたが、最近ではようやく他人の著作をダシに自己を語るという癖から脱却しつつあり授かった書評3カ条の恩恵にも感謝)、徐々に“まともな書評”のコツがなんとなく感覚的にわかってきたことも、私が書評に精を出している大きな要因ともなっている。

それでも、書評家(書評を生業にしている)ではないだけにいまでも悩むことが多く、これまでにもその難しさについては何度か記事にしている。それほど好きなのにもかかわらず、新聞や雑誌、ブログなどのメディアに掲載されている他人の書評を頻繁に読むことは実はほんどない

さて、私は当該ブログ、ITmediaマーケティングブログのほか、昨年末(16年11月)より、あるPR専門のベンチャー企業にゲストブロガーとして書評を中心に定期的に寄稿するようになった。書く(執筆)という行為は、誰にとっても主体的かつ能動的なのだが、ことビジネスとして考えれば完全受動的な受注業務である。

今回、マーケティング戦略に強い(実は非常に少ない)オンラインPR企業からのお話しで、ITmediaマーケティングの私のブログも読んでくださっていることもきっかけとなり、同社ネットのブログコーナーにゲストブロガーとして記事を寄稿しませんかとご連絡を頂戴した。
ただし、今の私はこれまでのように自由に多彩なmeetup(セミナー、フォーラム、カンファレンスなど)に積極的に参加し、そこで得た気づきやヒント、示唆などを記事にすることが叶わない実情であることを率直にお伝えした。

そこで、書評を中心に記事を書かせてもらうことでご了解とご快諾をいただいた。それであれば、現状でも書くことが可能で私らしさが表せるし、メディアにとっては定番ともなっている書評という人気コンテンツが新たに加わるとの判断もあった。

ゲストブロガーとして、新刊・既刊にこだわらず選書も私に任され、字数も3.000字程度(文芸誌の書評なみ!)でかまわないうえに、PR会社なのでそれに関連した本は業務上の必要からも皆さんは読んでいるだろうから、むしろそれらにこだわらない方がよいとの助言もいただき、自由かつ好きに書かせてもらえるというなんともありがたい申し出(条件)をいただいた。
これはお断りする理由など一切なく、謹ん(喜ん)でお引き受けすることにした。

そうして書評をいくつか書いたことで、別の視点から考えてみたらその効用や有用性について、まことに恥ずかしながら(ようやく^-^;)「ハタ!」と気づいたことがある。
かりに書いた本人以外の誰にも読まれない書評だとしても、それでも書評を書く意義と価値はあるということ。
私自身はこれを「書評的思考」あるいは「書評家精神」と、またまた勝手な言葉(概念)で表現している。まっ、批評的思考とか批評家精神という言葉はすでにあるので、それに倣っただけではあるのだが(^_^;)。
それは一体どのような視点や考え方でなぜすすめるのか、そのもたらしてくれる恩恵とはなんなのか。5年前、私は文芸批評を読むことの意義と価値について書いたが、今回は書評を書くことの意義と価値についてお話しをしたい。


■“不滅の人気コンテンツ”の書評

そもそも、書評というのは、私的な読者感想文でもなければレベルの高い批評でもない微妙な存在であると私自身は思っている。もちろん、書評にもある程度は定型の書き方や作法(掟)のようなものはあるのだが、批評のように確立された分野ではない。
 
1990年ごろ、書籍の新刊点数は約4万点だった。昨今、読書離れとか出版不況と喧伝されながらこの4〜5年は国内書籍の年間出版点数は、およそ倍の8万点前後の横ばいで推移している。総務省統計局の出版関連データには、いわゆるビジネス書というジャンル自体が項目としてはないが、年間で約5,000点、1日あたり約14点が書店に並ぶ計算だ。これにはネットによる情報化社会が、それを加速していることも一因である(これについては別稿を予定)。

どのメディア(おもに雑誌、新聞など)でも、ほとんど書評コーナー(ページ)が設けてあり、オンライン書店でもレビューサービス(アマゾンでは「週刊朝日」や「週刊文春」などの書評も提供)、「HONZ」「本が好き!」などの書評サイトも人気を集め、そのほかには一般の人たちもブログ上で書評を公表し、リアルでもオンライン(SNS)でも読書会が人気でコミュニティへの参加やそこでのビブリオバトル(書評プレゼンイベント)にも積極的である。
さらには「Booklog」「読書メーター」から本の要約サービス「bookvinegar」などの多様なソーシャルリーディング、ニュース専用アプリのSmartnewsなどでも書評カテゴリ開設するなど、そうしたブックレビューや書評ブログなどを読んで比較しながらその本を買うべきか否かを判断するなど、書籍購入にも大きく影響する。 
書店などで開催される書評家をゲストに迎えた対談イベントなどもすぐにチケットが売り切れるそうだし、書評講座も人気があると聞く。巷間よくいわれているような読書離れとは思えないほど、つまり今日では書評は人気の高いコンテンツである。

とにかく皆さん書評がお好きなようで(他人のことをとやかくは言えないが^-^;)、「書評の大衆化が起きている」(大澤聡)状況であたかも“1億総書評家社会の様相を呈している。
もちろん、中にはアフィリエイトで小遣い稼ぎだけが目的で書評ブログを書いている人もいることは知っているが、読書が好きでアウトプットするだけの時間と労力を費やしている。

マーケティング視点で見れば、メディアで書評対象の図書としピックアップされることは、今日ではその本の重要なPR戦略である。
たとえビジネス書でも、ビジネス誌だけではなく、複数の様々なメディアに書評として取り上げられれば話題や関心を喚起してその本の売れ行きに大きく影響する。メディアで取り上げられた記事の切り抜きが、書店に出向けばPOPとして置かれているのもよく見かけるし、書評本を集めたフェアもあるほどだ。

メディアに掲載される書評というのは、通常は発売から1〜3ヶ月以内の新刊書籍がおもな対象で、書評書籍もあらかじめ依頼する側(編集部など)から指定された本が対象となる。また、文字数はおおよそ800〜1,200字程度で、その範囲内に収めるのがほとんどのメディアでの習わしである。


■書評とは、情報化社会の「読書コンシェルジュ」

それほど書評の需要が高いのは、上記でも述べたが膨大な刊行図書点数を追い切れないし選択肢に困る。現代は多忙で少しでも時間を節約して読みどころ(ポイント)がわかればそれでよく、他方では読書をしたいが本が多すぎて一体なにを読んだらよいのかわからない人が最近では多いということも関係しているだろう。

ビジネス書ーー多彩なテーマと内容でこのジャンルが書店の一角を占め、年間5,000点以上も刊行し、しかもベストセラーまで次々と輩出するようになったのはこの数十年ほどだ。
ビジネス書を読む行為というは、新しい情報(知識やノウハウなど)を取得することが主な目的で、それは一種の“ビジネスツール”である。読書は時間もお金も費やすのだから効率的に本を利用したい(内容を知りたい)。そのために書評はその本のテーマと内容を知るために必要であり、あわよくば読まずに書評から知見だけ得られればそれにこしたことはないという人もいる。

また、巷間ーーそれも話題書やベストセラー書ともなれば、読んでいないなんて恥ずかしいし、同僚や取引先での雑談などのコミュニケーションにも有用なのでせめて概要だけでも知っておかなくてはという心理も働く。
変化のスピードが速い今日、多忙なビジネスパーソンにしてみれば、玉石混淆の書籍の中から読書はお金も時間も投資するのであるからできるだけ短時(期)間で大きなリターンが欲しいわけで、限られた時間とお金のなかで“読んではいけない本”に手を出すリスクは避けたい。
ビジネスパーソンに速読術が人気が高いのもごもっともなことだ。

できるだけ良質なビジネス書を選定し、その内容を要約してくれる便利なサービスに上記で紹介した“Bookvinegar”がある。
その代表Sさんは年間400冊ちかくを読んでいる。彼によれば、話題性やブームに拘泥せずに良書にこだわってピックアップしても、読んでよかったと思える本は本当に少ないという言葉が印象的だった。
このサービスで、私の場合、食指が動くのは「推薦ポイント」が8ポイント以上とシビアな点数となっているのだが、それが非常に少ないことから判断してもそれは頷ける。
「新刊ビジネス書の9割は読む必要がない」とまで断言する人までいる。私はそこまでは言わないまでも読むべきビジネス書が本当に少ないことはそれでも十分に納得している。またこれはビジネス書に限らないのであるが、新刊書、話題の本、ランキングの書店の3コーナーに興味がなく、これらはいつも散策せずに私は素通りしている。

したがって書評とは、膨大な量の書籍の中から私たちにとっての「読書コンシェルジュ」の役割を担っていると考えてもよいだろう。
書評自体、買う前に本の内容を知るための予習代わりが一般的だろうが、しかし、読んだあとで他人の書評に触れる復習が有用で、自分にはなかった視点、気がつかなかったことなどの示唆を得られる。
文芸批評家の斎藤美奈子などは、書評は「読書代行業」でバイヤーズガイドとしての予習としての利用が大多数だが、その本を読んだあとに復習として書評を読むほうが面白く、後者が「読書を立体的にする」とまで語っている。


■読まれない書評=自分自身に向けて書く書評という営為

通常、特に一般メディアに掲載されるような書評は人に読まれることを想定している。それは、市井の書評ブログでも同様だし、私もこれまではそのような心づもりで書いてきた。しかし、かりにその書いた書評が自分以外の誰も読まなかったとしても、それでも大きなメリットがあることに気がついたのだ。

それは「自分自身のために書く書評」というものだ。読書して内容を受容して済ませるだけでははなく、知識として蓄積され読んだことを自分自身の血肉化すためにも不可欠である。
書評を他人にも読んでもらいたいというような気持ち(意識)を捨て、ただ己のためだけに書くということ。さらに、読まれないという考え方はブログのPVに一喜一憂せず、まったく気にかけない(無視する)ということと同義語でもある。

私自身は書評というスタイルが好きで書いているのだが、それほど大げさなものではなく、その人に合った私的な箇条書きなどによる読書ノートやメモのようなものでもかまわないだろう。
読書ノート作成のコツやノウハウなどについての本が書店には並んでいる。かつてであれば、読んだ本についてノートに記すのであるが、そこは現在のありがたいデジタルテクノロジーの恩恵に与るのが賢明な選択というものだ。
 
デジタルに書きためておけば、その内容をキーワード検索できるし、関連する書籍あるいは参考情報(著者プロフィールとその関連書籍、文中の参考図書や資料など)のハイパーリンクを貼り付けておくことでさらにそれらに容易にアクセスができ、情報や知識の拡張性にもつながるなどのメリットは大きい。

書評にかぎらず、私はブログ原稿はすべてEvernoteを活用している。ちょっとでも思いついたことはすべてそこに書きためている。そうすると書きかけのブログが貯まるばかりなのだが、それらが後に同様なテーマや関連する記事を書くときには役立つのでとても重宝している。手書きメモも併用し、方眼紙メモ帳で胸のポケットに収まるサイズを常に持ち歩き、思いついたことやキーワードなどをその場でメモしておき、あとで読み返してからEvernoteにアップしている。
 
先にあげた「読書メーター」「ブクログ」のようなサービスを利用することのもよいだろうし、FileMakerで私家版読書メモを作成するなどデジタルツールの利便性を存分に活用することだ。

さて、書きかけの中には最後まで完成にいたることなく、ずっと眠ったままあるいはそのまま廃棄されてしまった書評もいくつもある。書き上がっていない書評は、もちろんブログにアップされないので誰にも読まれないままだ。
だが、私がここでいう“誰にも読まれない書評”というのは、そうした未完成のものではなくきちんと完成してブログにアップした記事のことである。


■「書評的思考」あるいは「書評家的精神」のすすめーーその3つ重要なポイント

さて、アップすれば誰でもアクセスできるし読まれるのだが、かりに誰にも読まれないあるいは読んで欲しくない密やかな日記のよう内容を、それではなぜ書評として書くことをすすめるのか。
それは、下記の3つの理由(メリット)があるということに気がついたからだ。

(1)思考の整理、論理的思考力の強化が図れる
ただ情報や知識を得るだけで読書をするのと、他人に読まれるか否かに関係なくアウトプットを常に意識して読書をするのとでは随分と違ってくる。
未知の情報や知識を得ること、著者の考え方や視点を理解することだけではない。かりに考え方に納得できなかったり、内容が難しくて了解できなかったとしてもなにがしかの気づきやヒントを得ることができる。
本(著者)と向き合うことで、自分の中にある知識と思考を整理できたり、欠けていたピースを見つけたような経験をしたことのある人も多いだろう。さらに、本を書評にすることで自身の思考力と文章力がさらに鍛錬される

(2)気づきや示唆などを備忘録として活用できる
アマゾンのレビューを読む人は多いと思うが、それらを読むと同じ本を読んでも十人十色だということが実によくわかる。読んだ人たち各々の視点や気づきなどがばらばらで、レビュアーの人たちはどのように読んで理解したか、その人の視点やどこをポイントにしたかなどを知ることができ、自分にはなかった発想や考え方を知る絶好の機会である。
本を読んだあと、そうした他人の書評やレビューに接することでものの見方の多様性、複眼的思考をおのずと自己のうちに持つことができるようになる。
斎藤美奈子が復習で読む書評こそ「読書を立体的にする」というのも頷ける。

(3)読書時の自分との対話し、成長を確認することができる
書評をブログなどに備忘録としてデジタル化しておけば、忘れ(眠っ)ていたり思い出せないことでも、スマホがあればすぐに検索して探し出せる。そうすることで、過去(読んだ当時)の自分と対話することができる
これなど、まさにテクノロジーのありがたさである。また、その本を読んだときに得た知見が活かされているかなど、読書時の自分と現在とを比べて検証するこにも役立つだろう。
わかったつもりがいざ内容をまとめたり要約するとき、読んだ本をどの程度自分が理解しているのか、論点をきちんと把握し咀嚼できているかなどを確認できるし、自分の成長度を測るバロメーターの役割をはたすだろう。
私もときどき、過去の自分の書評をキーワード検索したり読み返してみると、いまでは忘れていたこと、自分でも意外なことを書いていることを発見することがある。


このようにして読んで済ませるのではなく、書評にすることで上記のようなメリットが得られる。
書評を書くのは、確かに時間も労力も必要で煩わしく大変な作業ではある。また、人に読んでもらう前提と自分用に備忘録として書くのとでは、もちろん書き方など違うことも私は十分に理解しているつもりである。

読書することで、脳の神経シナプスの奥底で眠っていたあるいは埋もれていた知識や情報が目覚め、一見まったく無関係な情報と情報とが一瞬で結びついたり、人によってはそれで天啓(ひらめき)を得ることもある。
故スティーブ・ジョブズによる有名なスタンフォード大学卒業式でのスピーチでの“CONNECTING DOTSとはこのことで、ヒト・モノ・コトなどすべてのについていえることだというのが私の実感である。
 
書評を書くことで、本の内容について受け身の(受容)読書から攻めの(創造的)読書へと転換することを意味している。その意義と価値は大きい。

私が誰にも読まれない書評を書くことをすすめる大きな理由とは、書評という行為を通してまず著者と対話し、それをログとして残しておくことで数年後にはその読書時の自己とも対話ができる、ということをいまさらながら“発見したからだ。
つまり、自己の精神に「書評的思考」や「書評的精神」を形成することができ生涯の財産を手に入れることができるということなのだ。

ここまで読んで、なんだそんなことか。とっくに実践しているよという人もおられるだろうが、ま〜今頃になって私はあらためてしみじみと実感したという、なんとも情けない次第ではある(^_^;)。


【関連リンク】
▼60年あまりに渡る書籍のジャンル別出版点数動向をグラフ化してみる(2016年)(最新)

【日本の統計2016/書籍】出版の戦略。書籍の出版点数と平均定価(総務省統計局 日本の統計2016)

▼プロの書評とアマの書評は何が違うのか?

▼「よい書評」とは何か〜その本をいくら読んでもよい書評は書けない

▼初心者必見!加速度的に頭が良くなる書評ブログのメリットとその書き方とは!?

▼書評ブログを書く最大のメリットは何か?築山節氏の「脳の回転数をアップする」という言葉からインスパイされたこと。

▼それでも僕が書評を書く理由。

【おすすめブログ】
ネット社会で、改めてリアルな場、リアルなコミュニケーションの意義について考えた〜10 over 9 reading club 2014年活動を振り返って

21世紀的書評のあり方とはーー書評にするある読書人のノート

●時間のないビジネスパーソンに嬉しいーービジネス良書の“サマリーサービス”(要約)「bookvinegar」

●人が読書する理由、その方法と量について

17年新春、書店散策は欲しい本が続々と。困った、実に困った……。

170123_books

私的公開日誌@ウェブ暦:170122.01

都内の大型書店散策というのは、私にはテーマパークを楽しむような感覚がある。何時間すごしていても、私にはまったく飽きるということがない。

今回は、仕事帰りに新宿の紀伊國屋書店本店に立ち寄った。目的は、下記の(1)だけを購入するためだ。ついでに、ツアーというほどではなく軽い書店散策のつもりだったが、いつも通りに欲しい本に続々とバッタリと出会ってしまう羽目になったのだった。


(1)『文庫開設ワンダーランド』(岩波新書:840円+税)
私は斎藤美奈子の書評が好きである。実は、彼女の本業の文芸批評は読んだことはない。彼女の“余技”である書評が好きなのだ。その斎藤が、今度は文庫本の巻末にある解説について“書評”を出したのが本書だ。
文庫本の解説はオマケだが、それが欲しく(読みたく)てそれを買った経験は誰にでもあるだろう。特に好きな作家や批評家が解説を担当しているとなればなおさらである。

(2)『増補 日本人の自画像』(岩波現代文庫:1,480円+税)
https://www.iwanami.co.jp/book/b279052.html
今日では、文芸批評は絶滅危惧ジャンルである。それでもいまだに私が読み続けているのは、笠井潔、加藤典洋、神山睦美、山城むつみくらいだ。そうした中で、もっとも文庫化されているのが加藤である。
しかも、文庫化に際しては、そのほとんどが増補版としての発売。本書もその例にもれない。

(3)『愉しい学問』(講談社学術文庫:1,450円+税)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062924061
こういう意外な本を、ひょっこりと刊行するのが学術文庫の得意技だろう。本書は2012年に『喜ばしき知恵』のタイトルで河出文庫から出たばかりだ。こちらか『悦ばしき知識』という訳書名が一般的によく知られ流通している。
ニーチェの代表作は、ほぼ1882〜88年に集中している。つまり、それは『ツァラトゥストラ』しかり『善悪の彼岸』、『道徳の系譜』などがそれにあたる。
「訳者あとがき」に、なぜ刊行することにしたのかについて3つの理由を語っているのだが、それを読んで本書を無視できなくなってしまった。

(4)『テロルとゴジラ』(作品社:2,200円+税)
http://www.sakuhinsha.com/nonfiction/26061.html
こちらも思わず見つけてしまった。今回はサブカルチャー(アニメや映画など)と政治論とを収めた新刊。本人によれば、こうした社会思想論の本は『黙示録的情熱と死』(94年)以来、約20年ぶりとのこと。しかし、新書版の『国家民営化論』(95年)、『例外社会』(分厚い700ページ)も同じ領域だと私は思うのだが……。
とにかく、本書の「あとがき」に、代表作である『テロルの現象学』(84年刊)の続編ともいうべき『ユートピアの現象学』の執筆に向くとのことで、そちらも楽しみに待とうではないか。

(5)『吉本隆明と『共同幻想論』』(晶文社:4,500円+税)
http://www.shobunsha.co.jp/?p=4140
あら〜。先日、同じく高額なブランショの『終わりなき対話』第1巻を見つけても手が出なかったが、当然ながらこちらもしばらくはお預けになる。吉本隆明のこの代表作はこれまでにもっとも「論」が書かれている書である。
イリイチ、そしてフーコーの研究者と知られている山本哲士が、それらを踏まえて吉本理論の現在性を照射する書らしい。こちらも分厚い。

(6)『批評の熱度〜体験的吉本隆明論』(勁草書房:2,500円+税)
吉本隆明没後5年。著者は新聞社の学芸部に所属する記者として、晩年の吉本に何度もインタビューをしてきた。吉本の著作に触れたのは80年代前半で、初めて直接会ったのは97年。それから亡くなる12年まで年1回の取材が続く。
1980年代から2012年まで、著者がじかに接した吉本と読書体験のなかで著作を論じ、その仕事が現在と未来において持つ意義、さらにはその限界をも語る。


それでは、今年も良書とともに愉しい読書を\(^O^)/。

16年師走の書店ツアー、食費を削ってでも購入したい「至福の収穫文庫」この5冊

161229_shoten_tour

私的公開日誌@
ウェブ暦:161230.01

2016年の師走。今年も今日と明日を残すのみ。思わぬ事情からプロレタリアートだということを実感する日々ではあり、今年ほど1年が短いと感じたことはなかった。
それでも、大型書店を気ままに散策し、気になる本を手にしたり、思わぬ書とのめぐり会いが私には最も楽しいひと時である。

一昨年(14年)末に書店ツアーで年末を締めくくったが、今年は約2年ぶりの楽しい年末書店ツアーとなった。今回は仕事帰りだったこともありブックファースト新宿店、丸善&ジュンク堂書店渋谷店の2店だけとなった。
待ちかまえていたのは「至福の収穫文庫」に加え、あの大著の思わぬ発見となった\(^O^)/。

今日、スマートフォンやメール、メッセンジャーの普及さらにはGPSの進展で、街中や集まりなどでも人と偶然にも「バッタリ」出くわす機会は少ないように思う。
amazonなどオンライン書店が当たり前で目的の本がすぐに見つかる今日、気ままな書店散策だからこそ経験できる思わぬ本との悦ばしい邂逅というものがある(これはブックオフや古書店でも同様)。

今回紹介する書籍は、遊興(交際)費を削ってでも購入すべきと私自身は思った。しかも、今回は文庫が多いので棚の専有面積を大きくとらないのもありがたい。
年末年始、スカパー!恒例の海外人気ドラマの一挙放送の誘惑をはねのけ、ここは是非とも読書三昧で過ごしたいものだ。

それにしてもだ、どの本も文庫なのに1冊1,500円以上なので痛い出費となるが、良書を手に入れるためならその分だけ食費(私に遊興費の余裕などはない^-^;)を削るのが学生時代から変わらぬ私の癖である(>_<)。

まずは下記の3冊からご紹介。


(1)『内的時間意識の現象学』エトムント・フッサール(ちくま学芸文庫/定価:本体1,700円+税)
フッサールの本は、みすず書房から主要著作はほとんど刊行されているが、この本は現在は絶版となっている。
フッサールが文庫化されるのは、古くは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(中央公論社)、最近では『間主観性の現象学 その方法(1〜3)』以来のこと。
そもそも、フッサールほどの大哲学者の著作は、ほかの哲学者(例:ヘーゲルなど)に比較しても文庫化されていないのが不思議なほどだ。

ポストモダンとそれに続くマルクス主義の崩壊、もっとも重要な哲学者としては、ニーチェとフッサールが代表だろう。しかし、前者ほどには後者は文庫がされなすぎるぞ。もっともメルロ=ポンティもそうだが……。

今後、みすず書房刊の『イデーン〜純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想』『現象学の理念』だけではなく、『厳密な学としての哲学』『現象学序説〜デカルト的省察録』なども、この学芸文庫化してくれることを強く希望するものである。是非とも、学芸文庫の担当者には文庫化にむけて最大限の努力をして欲しい、と勝手なお願いをしておこう。

(2)『哲学史講義 検截如Γ廖Γ董Ε悄璽殴 (河出文庫/1,728円+税)
長谷川宏訳によるヘーゲルの同書もついに最終(第4)巻。
全集を刊行している岩波文庫ですらこの大ヘーゲルの著書はほとんど絶版になっていて手に入らず、今日では『歴史哲学講義』(長谷川宏訳)くらいしか常備(刊行)されていないのは悲しく残念な状況で、むしろ憤りすら感じる。

同文庫には頑張ってもらい、同氏訳による『精神現象学』『法哲学講義』、いわゆる哲学諸学綱要(『論理学』、『精神哲学』、『自然哲学』)も文庫化を強く望みたいぞ。

(3)『ブルジョワ 近代経済人の精神史』ヴェルナー・ゾンバルト(講談社学術文庫/定価 : 本体1,750円+消費税)
つい先日『ユダヤ人と経済生活』が、同文庫から刊行されたばかり。
マックス・ヴェーバーが、ハイゲルベルク大学を去るにあたり自ら後継者に彼を指名したそうだ。しかし、その当時はマルクス主義経済学者として名をはせていたことから、同大学教授への任官を拒否されたとのこと。
しかし、ゾンバルトはマルクス主義者ではない。

最近では、欧州をはじめとしてゾンバルト見直しの気運がたかまっているそうで、こうなれば代表作と評価されている『近代資本主義』、それにマルクス主義学者としての評判を高めたと評されている『ドイツ社会主義』の2冊も、是非ともこの学術文庫で文庫化を強く、本当に強く望みたいものだ。


【講談社学術文庫40周年】1976〜2002年の名著20点を「特別復刊!」
この文庫に限らず、同社の文芸文庫でもやむを得ない出費となってしまう。もっとも、上記のちくま学芸文庫と同様にこれらの著作群は刊行されるだけでも実にありがたい。
そもそもが、こうした本などは好事家しかくらいしか購入しないことはわかりきっていて、ニッチ市場の文庫である。高くても買うだろう(ほら、文庫にしたぞ。欲しいだろう君)と見透かされているような気がするのは私だけか。

今回のリクエスト復刻は、帯には「全国の書店員が選んだ今だから読みたい20冊」と謳ってある。
ただし、今回のリクエスト限定復刊は岩波文庫のそれとは異なり、どこの書店にも常設されていないようだ。丸善&ジュンク堂書店渋谷店には当然あるだろうと仕事帰りに立ち寄ったら、なんと1冊も置いてなかったのには驚いた。
店員に聞いたところ、今回の復刻については書店員なのに知らなかった様子だった。

逆に「ないだろうな」と思っていたいた渋谷駅前のブックファースト店には、B1書店入口の文庫コーナーに特設コーナーがあり復刻版の全ラインアップが揃っていた。

今回の復刊文庫の購入をご検討に皆さま、購入の際には書店選びにはご注意を。購入したのは下記の2点。

(4)『マルクス主義の地平』(廣松渉講談社学術文庫/定価 :
原著の出版は69年。今日では、マルクス“主義はケンシロウ風にいえば「すでに死んでいる」。廣松は、歪められたマルクスその人の思想を復元し、継承・発展させることに挑みながら独自の哲学を築いてきた。

マルクス主義の終わりを告げられていた最中、93年にデリダは『マルクスと亡霊たち』、98年はネグリの『マルクスを超えるマルクス』など、マルクスその人自身の言説と理念の「遺産創造」または「資産継承」をしようとする“心ある人たち”の本が著された。
私自身も、マルクスその人の“理念はまだ死んではいないし、再び光があたる時がくるだろうと考えている。

最近書店に出向くと、90年代〜2000年代に書店から消えつつあったマルクス関連の書籍が、四半世紀をへて再び増えていることに気がつく。
昨今ではピケティ『21世紀の資本』のおかげもあり、資本主義社会を分析するツール(社会学)としての有用性についての本が多く、現在の軋みを孕んでいる世界的な格差社会を象徴していることは否定できないだろう。

それでも、マルクスの業績がイデオロギーの消滅とともに葬り去られることなく、継承されているのは悦ばしいことだろう。
こうなると、いまではすべて手に入らないが、大月書店の国民文庫も限定復刻で高くてももよいのでなんとか復刊してほしいものだ。


(5)『近代化の理論』(講談社学術文庫/定価 :1,500円+消費税
恥ずかしながら、富永健一という社会学者を私は知らなかった。主著と言われる『社会構造と社会変動』(岩波書店)に、この数十年の激変するの世界情勢を盛り込み、著書の理論的な成熟度も加えて新しいものとして書き上げたとのこと。
本書副題「近代化における西洋と東洋」とあるように、市場経済と民主主義が西洋に興り、東洋ではそれが遅れたのかを考えるために指針となるような本だ。

私も資本主義がなぜ欧州で勃興し発達したのか、という年来の歴史的な関心があるので思わず購入した。
また、英米2カ国の歴史分析を通じ、資本主義と民主主義がどのように成立してきたのかを分析した大塚久雄の『国民経済』も、今回の復刊入りを果たしているので、あわせて購入するとよいだろう。
今後とも、同文庫には今回のようなリクエスト復刊を定期的かつ継続的に行って欲しいと心より願うものである。

こうした文庫は、岩波文庫を除き各社がときおり復刊刊行している状況なのだが、来年で21回目を迎えるリクエストによる一般書籍の「書物復権」(10共同復刊)のような、複数の出版社による共同文庫復刊として企画するのはどうだろうと私は思っている。
ただ、文庫のような単価の安い書籍でそれを実施するのは採算的に難しいのか否か、私にはわからないが是非とも検討して今後の文庫も「文庫復権」とでもなって、定期的にフェア実施してくれれば実に申し分がないのであるのだが。


(6)モーリス・ブランショ畢生の大作『終わりなき対話』が刊行開始!!!
文学、批評、言語そして哲学。
『文学空間』『来たるべき書物』どでも知られ、フランスのみならず20世紀文学史上比類なきモーリス・ブランショ畢生の大著。
原著刊行から半世紀、筑摩書房より全3巻でついに全訳刊行が開始されていることをはじめて知った。
しかし、第1巻は価が本体4,500円+消費税なので、かつてであればそれでも迷わずに飛びついていたが、現況では悲しいかなすぐには手が出せない(>_<)。

筑摩書房では『来たるべき書物』がすでに学芸文庫(2,000円+税)入りしているので、一刻も早い『文学空間』の学芸文庫化も待望しているぞ!

最後に、私がお気に入りの下北沢の古書店「クラリスブックス」にふらっと立ち寄り、年末の挨拶をするだけで本を買う予定はなかったのだが、つい余計な本を購入してしまった(^_^;)。
それでは皆さん、良書の読書とともに良い年をお過ごしください。 


【おすすめブログ】
●今年最後の「書店ツアー」を敢行!

今年初の古書店探訪記

「No Books、No Life」ーー私にとっての人生最高の散策コースはやはり「書店」だ!

現代日雇い労働日記(後編)ーー21世紀資本主義社会の変容

karl_marx

私的公開日誌@
ウェブ暦:161208.01

前編で語ったように、フリーターという言葉はバブル経済時期に誕生し、その後の社会経済環境の変化で増加の一途をたどってきた。
21世紀の今日、こうしたフリーターというのは非正規雇用労働者の代名詞となって激増し続け、しかもその状況は国内だけに限らず、世界的な傾向となり国際社会の大きな問題として浮上している。

欧州では、移民問題とも絡んで人種間対立が生じ、米国では格差はさらに深刻化して富裕層だけの自治区域(ジョージア州など)を設けるなど貧富の差が先鋭化し、地域社会の分断化や分裂、排除が一層進んで国家的な問題となっている。
つまり、先進国、新興諸国を問わず、格差社会は世界中いたるところで進行しつつあるということだ。

資本主義(厳密には、資本制生産様式に基づく経済活動による近代市民社会)は、人々に経済的な豊かさと社会的な発展とをもたらす一方で、社会に格差を生み出し増進する苗床(または副作用)があることが白日の下となった。


■3Kから新3Kあるいはブラック体質社会へ

バブル崩壊後に増加したフリーターは、それまでは敬遠されていたいわゆる3K職場(きつい、汚い、危険)や業界にも多くの人たちが流れていくようになる。
それまで特に若者が敬遠して人材が集まらなかった運送業、土木・建築業、各種工員(組み立て作業員、溶接工、旋盤工、塗装工)など、いわゆるブルーカラーに職を求めるようになった。

しかしながら、最近ではこうした業界を象徴する3Kという言葉はすっかりと耳にしなくなったが、それに代わり特サービス業に顕著な傾向として「ブラック企業」や「ブラックバイト」という言葉が定着している。

これは特に、飲食業界や小売業界などはその代表だが、看護師や介護士、保育士からIT系企業に至るまで、様々な業界の隅々にまで「新3K」(きつい、帰れない、給料が安い)が蔓延する社会として現出している。

今日、サービス産業では、労働者の半数以上(飲食業や宿泊業では75%以上、娯楽業や教育業などの場合でも50%を超え)もの人たちが非正規雇用形態で働いている。
つまり、これらの産業や職種では、正規雇用数よりも、非正規雇用者数の方が圧倒的に多いというのが実態で、人材派遣や請負ビジネスなど仕事を紹介したり人材派遣をしてピンハネ稼業が業界をさらに潤している。

いまの我が国では、サービス産業がGDP(国内総生産)全体の70%を占めているが、こうなると非正規雇用者がむしろ必要とされ、こうした働き手がいなくては成り立たないともいえるほどの社会状況だ。
こうした非正規雇用、格差社会の問題は日本だけあるいは若年層に偏った現象ではなく、全世界のあらゆる世代に共通している課題である。

特にEU諸国では、紛争と貧困から中東(シリアなど)やアフリカから難民が押し寄せていることがEU全体の問題となり、難民受け入れとその反対派による対立や暴動、各国間での不協和音の増大など、かつては国家や民族を超えて統合の象徴とまで期待されたEUすら分裂の危機に瀕している

14年10月、OECD(経済協力開発機構)が公表した報告書によれば、世界の富裕層と貧困層の格差の拡大は1820年代と同じ水準にまで悪化しており、過去200年で「最も憂慮すべき」事柄の1つだと警告している。
15年、大きな話題となったトマ・ピケティ『21世紀の資本』だが、同書は世界20カ国以上各々の国(日本も含む)、それも実に300年間の所得と資産の変遷という膨大な歴史的資料集めた実証データに基づき分析し、結局は資本主義による社会経済体制は格差を助長するものとして語っている実証社会学的な書としてベストセラーとなって話題だった。

かつては、非正規雇用の就労形態が例外的な雇用環境の社会だったが、今日では高学歴ワーキングプアすら存在するほどで世界的規模による格差社会が常態(コモディティ)となっている。


■21世紀が抱える2つの大きな「難題」

1989年、ベルリンの壁崩壊にはじまる東欧諸国とそれに続くソビエト連邦の社会主義の壊で人々は民主主義のにわか勝利に酔いしれた
あれからわずか25年がたった今日、民主主義社会とそれを支えてきた資本主義経済体制はともに危機に瀕している。

私たちは、国家や資本主義経済を自明のことと考えている。
だが、近代国家の礎となった主権国家の誕生から約350年、資本主義経済社会となって約250年、人類の歴史を考えればそうでなかった時代の方がずっと長いのだ。

人々の生活の豊かさをもたらした資本主義体制も袋小路に陥っているだけではなく、啓蒙主義の時代(17世紀後にホッブズやロック、18世紀にはモンテスキューやルソー)から営々と受け継がれてきた民主主義の考え方も、現今の世界情勢を鑑みると黄昏を迎えているようにすら感じる。
つまり、繁栄をもたらしてきた経済社会とそれを支えている民主的な政治制度(社会体制)の2つがともに危うい今日のとなっている。

人間は観念的な生き物だ。したがって、それは後退することがある。
技術や科学が進歩すればそれにつれて人間が進歩するわけではない。かつて、下部構造が進歩するつれてその反作用で上部構造も進歩する、という短絡的な発想の左翼は唯物(ただもの)論として侮蔑された。

それはリベラル派でもご同様だ。ICTが相互理解、多様性、融和をもたらすと信じていたが、残念ながら現今の世界情況は逆の方向へ進んでいる。
ICTの伸展とグローバリゼーションに覆われた21世紀。あれほど希望に満ちた未来の到来が語られていたインターネットですら、今日ではむしろ格差や分断を助長する手段とまでなっている(イーライ・パリサー著『フィルターバブル』)。
 
異なる人種や民族(ときには部族)、言語と宗教、富裕層と貧困層など、様々な要因からソーシャルメディア上でも罵り合い、逆に同じ価値観だけに寄り集まる傾向があり、ヘイトスピーチ、イスラム教徒への嫌がらせや排斥など、多様性の受容や相互理解による寛容性に満ちた社会からますます離れつつあり、より強固なつながりと排他的な共同体を志向し、社会は混乱し市民はただの群衆に転換したとき、そこに分断や内紛、世界規模でテロが頻発している。

そもそも進歩の思想とは歴史観(進歩史観)であり、それはこの300年ほどのあいだ信じられてきた。過去よりも現在、現在よりも未来が進んで優れている、よりよき社会へと向かっているという無謬性に支えられている。
それは左右のイデオロギーを問わない

20世紀、2つの大きな世界大戦をへながらも、資本主義の発展が世界中に豊かさをもたらし、今世紀末には市民主導による民主主義の勝利をもたらした。しかし、経済のグローバリズムによる豊かさが終焉し経済成長が鈍化し、待ちかまえていたのはフリーターやワーキングプアを産み出す格差社会だった。

現在の私たちは、「理念としての民主主義」も「理念としての社会主義」も歴史的な体験としては持っていない。あるのは、「現実の民主主義」と「現実の社会主義」だけだ

後者は、20世紀末には歴史の審判がおりている。
だがしかし、前者もまた歴史の審判を待つ身となっている。先進国が牽引してきた民主主義社会は、なにもその理念を実現してきたわけではない。理念と現実が乖離しているという点では、程度の差があるだけで右派も左派にも違いはない
誤解を恐れずにいえば、所詮は「必要悪」としての「虚妄的な民主主義」にしかすぎなかったのに、あたかも啓蒙主義以来の理念が実現されたかのように勘違いをしていただけだったことが先鋭的かつ露わになっただけだ。


■トランプ大統領誕生がもつ意味ーー「ポピュリズム」だけではない

米大統領選挙は、マスメディアの予想に反してドナルド・トランプが勝利した。世界が驚きをもって報じたその勝利は、国内でもポピュリズム(大衆迎合)だと報じたがそれだけが理由ではない

マーケティング視点で見れば、人々の不平や不満、怨嗟の声を煽ることで耳目を集めるまさに炎上マーケティング手法と同じだ。それほど多くの人々が格差や分断に憤りを感じているのだ。

その選挙前(10月)、NHKスペシャル『シリーズ マネー・ワールド 資本主義の未来』が3回にわたり放送された。
同番組では、成長が鈍化し、一部の富裕層と多くの貧困層を生み出し、世界的な巨大企業と国家との対立を招き、分断や格差を増殖させながら岐路に立つ資本主義について検討された。
一部の富裕層はグローバル資本主義の恩恵でその富を一層増やす一方で、その他の大多数の人々は低所得から離脱できないでいる。すなわち、たとえ高学歴を得てもワーキングプア状況と格差社会が常態化している時代なのだ。

今回の米国大領料選挙の兆候はすでにあった。
2014年、EU(欧州連合)28カ国で行われた選挙では、選挙の行われた諸国では右派または保守派が大きく躍進した。
2016年、英国は国民投票でついにEUから脱退を決めた。そして今回の米国の選挙では、マスメディアの予想に反してトランプ大統領が誕生した。

20世紀末、「ベルリンの壁崩壊」と東欧の民主化によりそれまでの東西冷戦とイデオロギー対立がなくなり、ICTの発達と普及が相互理解を促し世界はさらに融和し開かれていくに違いないに相違ないという“希望”がつかの間だけあった
しかし、歴史はその反対に進んでいる。
21世紀の今日、テロ、内戦や内紛、国家の分裂、経済格差による社会の分断、怨嗟の声による人々の亀裂など、排他的でより閉じた共同体へと急速に転回しつつある。

「民主主義とは、それほど良いものか。銀河連邦の民主共和制は、行き着くところルドルフによる銀河帝国を生み出す苗床となったではないか。」

上記は、『銀河英雄伝説』の“バーミリオン星域会戦”終結後、銀河帝国ラインハルトに敗れた自由惑星同盟ヤン・ウェンリーとの会見の席で、前者が後者に発した言葉だ。それは遠い未来、遙か彼方の銀河での出来事ではなく、近い将来にこの地球上で起こったとしても不思議ではない。
それでも、「理念」ではなく「現実」として考えれば、私は「腐っても(必要悪としての)民主主義」を支持する人間ではある。


■あらためて問うーープロレタリアートとは何か、そして誰か?

GDPの70%が消費によってもたらされる先進諸国の消費社会では、人々の生活の中心は消費行動であり、したがって労働者の生活の中心や関心は消費行為のなかに融解または溶解させられてしまう
すなわち、自分たちはプロレタリアートなのだと自覚や認識を持ちにくい社会経済構造となっている。

しかし、不動産や株式などを所有しその運用益などの不労所得でも生活を楽しめる層は、グローバルに資産を動かしながら運営し、資産が資産を産む仕組みとなっていて「パナマ文章」(いわゆるTax Haven)騒動に象徴されるように、資産隠しなども巧みにできる。そうしたこととは無縁で資産をもたず、自己の労働力を売ることでしか生活の糧のない無産階級層とがある。

後者は、年収が数百万であろうが仮に数千万円を得ていようが、企業や経済が停滞すれば真っ先に削減対象となって路頭に迷うことになる。
すなわち高額所得層といわれている人々であっても、自己の労働力を企業に預けることだけが収入源だとすれば、その実態は紛う事なきプロレタリアートなのだ。
両者にある違いは、たんなる金額の多寡にしかすぎない

19世紀、進展する産業革命で多くの人々がプロレタリアートとして生み出された。そうした経済社会体制をなんとか解消=変革(労働者の解放)したいと心より願ったマルクスは『共産党宣言』を著し、『資本論』を書き上げた。
その後、彼の思想を体現したと称するマルクス主義”たちによりソ連や東欧諸国、中国などの社会主義国家の誕生を促したが、マルクスの理念が歪められたその政治・経済体制に基づくそれらの国々では真の労働者の解放とはならず、そうした体制に疑念や異論を唱えるような人々を抑圧や弾圧して収容所に押し込めたり粛清するような専制的な恐怖国家にしかならなかった。

しかし、それが崩壊して四半世紀、今度は資本主義、それとともに併走してきた民主主義とが転換点に立たされ、変革の必要性に迫られている
左翼アレルギーへの先入観が消え、さらにはピケティに代表されるように資本主義の悪腫が露わにされている状況になっても、それでももう一度マルクスの理念へ回帰することはないだろうし、それに代替する選択肢(理念)がいまだに私たちには用意できていないことがより混迷を深めている


■21世紀資本主義社会の変容

それこそが、現代に生きる私たちにとって突きつけられた最大の難問なのだ。

21世紀もすでに15年を経過した。かつて資本主義へのカウンターイデオロギー(対抗理念)となっていた選択肢はもはやない
私たちは民主主義と資本主義の双方に疑念を抱き、試練に直面しあるいは絶望しながらも、それにとって代わりうるべき理念や思想をいまだに見いだし得ないでいる。
貨幣主体による合理的・効率的な利益第一主義による経済社会(金融資本主義)ではなく、営利追求以上の高い意識・目的を追求するべき社会を目指す経済活動に基づく視点や発想が強く求められている。

人々の欲望を飲み込む金融経済(資本主義か社会主義を問わず)が継続する限り、人々が金に狂奔するバブル経済は歴史上に何度でも繰り返される。それは先進諸国、新興国などを問わずにだ。

つい最近、“Conscious Capitalism”という言葉を初めて耳にした。
これは、最近米国で主張されている考え方だそうで、これまでの資本主義的とは異なり、企業の社会的な責任と存在理由から出てきたようで、その含意するニュアンスは「社会的意識による資本主義」くらいの意味である。

あるいは、こちらも唱えはじめられている“Kinship Economy Era"(つながりによる経済時代というニュアンス)という考え方、加えて同じように“Sustainable Capitalism”(持続可能な資本主義)という言葉もある。
これらは、ジャック・アタリが『21世紀の歴史の中で語っている調和重視企業、トランスヒューマンとの共通項する志向性があるように感じる。

上記の言葉や考え方が、ほぼ同時期に様々な人たちから提唱あるいはいくつかの企業が誕生している状況(ムーブメント)は、資本主義による経済システムが転換点あるいは変容期を迎えていることを象徴している。

ところで、『新スタートレック(TNG)(例:第1シーズン26話「突然の訪問者」)あるいは劇場映画第8作『ファースト・コンタクトなどでも、エンタープライズ号のピカード艦長は20〜21世紀の人たちと接することになるのだが、24世紀において人はもはやモノを所有することに興味はなく、お金ではなく人類の成長のために働くことが当たり前の世界だと繰り返し語っている。
それは、資本主義でも社会主義でもない、そういうのが当たり前な経済システムや社会(世界)体制となっているのだろう。

私なら、昔は良かったなどと懐かしむのではなく、むしろそうした未来社会こそ体験してみたい
はたして、私たちはそうした世界へと向かっていくことができるのだろうか。

「日雇い労働の歴史がまた1ページ……。」と、『銀河英雄伝説のナレーション風に最後は締めておこう。


(了)


(関連リンク)
▼ホリエモン 日本は狂ってる 派遣会社の会長=経済戦略会議の委員

▼派遣会社は、企業に「正社員1人分の給料で派遣を2〜3人雇えます」と売り込む
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/c1abc31ee363bac957ccc19ec268ff1d

▼韓国社会に衝撃を与えた3人の「突然の死」

▼日本の問題は収入差の拡大より、むしろいろいろな格差の「固定化」が進んでいることだ
http://diamond.jp/articles/-/54697

NHKスペシャル『シリーズ マネー・ワールド 資本主義の未来』
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20161016

【おすすめブログ】
●トマ・ピケティ『21世紀の資本』刊行によせて(上)

●トマ・ピケティ『21世紀の資本』刊行によせて(下)

●(続)トマ・ピケティ『21世紀の資本』刊行によせて

●【書評】現代の「パンドラの箱」─『21世紀の歴史―未来の人類から見た世界』
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/1841572.html

PRの本質、それは「法人格」の統合コミュニケーション力のこと
http://blog.marketing.itmedia.co.jp/macume/entry/791.html

現代日雇い労働日記(前編)ーー21世紀フリーターの変容

工場日記

私的公開日誌@ウェブ暦:160913.01

「日雇い労働者、それは最後のプロレタリアート。
これは、惑星連邦マーケティング・スペシャルエージェントが、新時代の非正規用社会の下に、二十一世紀のフリーター社会において日雇い労働を継続し、 新世紀のプロレタリアート体験を通して著した日誌である。」

と大好きな『新スタートレックのナレーションに倣ってはじめてみた。

私自身、これまでいわゆる頭脳労働(ホワイトカラー)をずっと生業にしてきたのだが、今回、いくつかの不運な事情や状況が重なり、思いもかけずに生涯ではじめて肉体労働(ブルーカラー)で糊口をしのぐ身となった。
これもなにかの運あるいは定めなのかもしれない思うことにした。

これから書くことは、直接には私の生業には関係がないし、なにか利益を生むわけではないので無意味なような気もする。しかし、どうしてもなにがしかを書かずにはいられない性分なのだ。
いまの私にとって、こうしたブログを綴るということが唯一の頭脳労働(=楽しみ)でもある。

どうしてこれを日記にしようと思ったかというと、念頭にはあのシモーヌ・ヴェイユ『工場日記』(ちくま学芸文庫)が実はあったからだ。
もっとも、ヴェイユに感化されたのは私だけではなく、調べてみるとすでに13年に柴田広史による『平成工場日記ーー高学歴ワーキングプアが垣間見た社会の一断面』(文芸社)なる著が著されていたことを恥ずかしながらじめて知った次第。未読なのだが、是非とも読んでみたい。

ヴェイユといえば、ハンナ・アレントと並ぶ20世紀を代表する女性の知性では双璧だろう。もちろん、その人の読書体験により彼女たちのほか、スーザン・ソンタグあるいはシモーヌ・ド・ボーヴォワールを上げる人がいるかもしれない。
かしその明晰さ、透徹性と純粋さ、転変の特異性でヴェイユに比類する人はいないだろうし、これほど読むものを引きつける例を私はほかに知らない。

もっとも私の場合、彼女のように堅硬な意志や崇高で純粋な思念から、進んで日雇い労働についたわけではなく「自分の心にそむいて、冷酷な必然の定めに服し」ている由無い仕儀からであり、ヴェイユの日記にあやかること自体、畏れ多いことではあることは本人も重々承知のうえでもある。

それに、日記といっても彼女のように工場での仕事について日々の短信を記し、怜悧な洞察や深い省察を読んだ人たちに与えられるようなことはできるはずもなく、これまでとはまったく異なる仕事環境の日々で過ごすなか、そこから見えてきた社会の断面や世相、人間模様などの情況などについて、ありていにいえば私的心象風景を気が向いたら徒然に書き残すという体たらくであるのでその旨ご承知おきいただきいただきたい。


そもそもフリーターとは

はじめて「フリーター」という言葉をきいたとき、それはフリーランスライターの略かと思った。それが多様な職種でのフリー(ランス)アルバイターの略称だと後に知る。言葉自体、バブル経済の真っ只中(87年)、リクルート社のアルバイト情報誌『フロムエーの造語である

この言葉の出自は、アルバイト(アルバイター)では学生っぽいしパート(タイマー)では主婦のような印象を受ける。そこで、窮屈なサラリーマン(会社員)生活から自由なことあるいは趣味など好きなことに打ち込んだり時間を使ったりして生きていくために、元々は自らが選択するポジティブな働き方を指し示す表現だったような記憶がある。

だから、この言葉に学生は含まれないし、主婦も対象外となっている。
つまり、学校卒業後、正規雇用につかずにアルバイトだけで生計を立てて生活している人たちを総称する言葉なのだ。
例えば、洋の東西を問わず、役者やプロのミュージシャンを目指す人たちはむかしからこうした生き方だっただろう。また、好きな仕事が見つかるまでの執行猶予期間という主体的かつ選択的な就労形態だったはずだ。

しかし、今日では非正規雇用者全体を指し示し、格差社会や貧困生活者を象徴する働き方というネガティブな意味が染み込んでいる
したがって、今日では、フリーター=下流=ワーキングプア=非正規雇用者という図式がすっかりと定着している。要するに、紛う事なきプロレタリアートだということだ。


■フリーターの苗床となったバブル経済

だから、これは私見なのだが、フリーターという言葉は80年代のバブルの頃にはじまったと思っている。

80年代は空前の好景気を背景に、コンビニなどのチェーン店の拡大や不動産バブルにわく建設業界を中心にして高額のアルバイトも多数あり、場合によっては正規雇用よりずっと稼げる仕事が様々に存在していた時代だった。
このころは、求職情報は新聞の求人広告や折り込みチラシより、こうした各種求人情報誌が主流となる(その後、フリーペーパーさらにはネットに)。

リクルート『週刊就職情報』のほかにも同社ではアルバイト専門の『FromA』、女性を対象にした同社の『とらばーゆ』などを含め、様々なアルバイト媒体も創刊され、「ヤリガイ」というコピーやCMが流行り、学生援護会発刊の『日刊アルバイトニュース』が『an』とリニューアルしたにもこのころだ。

フリーターは、組織や時間にも拘束されず、堅苦しいネクタイとスーツという制服の着用して企業組織の呪縛からも解放され、都合のいいときに好きに働いて稼いで自由に時間が使える生活という時流の空気感にもマッチし、「ヤリガイ」や「職業選択の自由」という広告コピーとともに当時は大きな話題となって様々なメディアでも随分と喧伝された。
一時などは、いやいやサラリーマンになった人たちからすればむしろ羨望すらあり、メディアでの扱いもあたかも新時代のライフスタイルの到来とでもいったような雰囲気で、随分ともてはやされいたような記憶がある。

いま思えば、「80年代は奇妙な時代」(佐伯啓思の表現)ではあった。こうして80年代半ばのバブル景気による日本社会の背景から注目され、メディアやアルバイト情報誌でフリーターという言葉が盛んに使われるようになった。
その後この言葉が定着し、かの『広辞苑』にも掲載されるようになったのがバブル経済崩壊の91年というのはなんとも皮肉である。
直近で例えれば、似たような言葉ノマド(ワーカー)などはそうかもしれない。

ちなみに、バブル景気は、内閣府による景気動向指数(CI)上は、86年12月〜91年2月までの51カ月間とされる。


■バブル崩壊がもたらしたもの

ところが、そのバブル景気崩壊後にこうした状況は一変する。

バブル崩壊の時期は、内閣府の景気基準日付では91年3月としている。これは、90年3月に大蔵省から通達された「土地関連融資の抑制について(いわゆる総量規制)」が嚆矢となり、土地や株式などの資産価格の暴落、ゼネコンなどの破綻、金融機関の不良債権化、企業業績の急激な悪化、それにともない学生の就職難などをもたらし、90年代後半には大手金融機関の相次ぐ倒産が「金融危機」をもたらすことになり、「失われた10年(さらに20年、その後は……)」の要因となってしまうのだ。

そうなると、今度は学校を卒業して就活に励んでも就職先が見つからないことから、否応なしにフリーターを選択せざるをえない時代となる。
このような不況を背景に就職氷河期(これもリクルートの造語)が訪れる。
企業はリストラを断行し、さらには新卒社員の採用抑制して人員のスリム化を進めるその一方で、派遣社員やパート、アルバイト、嘱託社員などの非正規雇用者でそれを補うようになる。

さて「ガテン系」という言葉がある。
これはブルーカラー(肉体労働)を指す象徴的な表現で、元々はリクルート創刊(91年9月)による求人情報誌の名称で、土木・建築・運送業など、いわゆるブルーカラーに特化した求人情報誌で、この雑誌名が語源である。
バブル当時、ガテン系職業は「3K」(きつい、汚い、危険)といわる三重苦職種として慢性的な人材不足に悩まされていた。そこで、雇用側の仕方がない事情もありそうした職種の職場環境の改善や高給優遇を打ち出す企業が増え、加えてバブル崩壊とも重なって数年後にはガテン系の職種にも人が集まるようになる。

インターネットによるオンライン求人情報が当たり前(主流)となった今日では、すでにほとんどの求人誌が消滅している。この求人誌『ガテン』も09年には休刊しているが、代わって現在では『パワーワーカー』という同じガテン系求人誌が刊行され、『タウンワーク』などと同じように駅やコンビニで無料で入手できる。


■非正規雇用ーー若年層から全世代へ拡大

今年2月に公表された総務省の最新(平成27年)の労働力調査」によれば、全雇用者5,284万人のうち,正規の職員・従業員は,前年に比べ26万人増加して3,304万人という一方で、非正規の職員・従業員は18万人増加して1,980万人だ。

さて、1984年、雇用労働者全体のうち10人のうちの1〜2人だけが非正規雇用労働者で15.3%だった。
しかし、その割合は年々増加の一途をたどり、2014年にはその割合が実に全体の37.4%と、この30年間で10人のうち3人ないしは4人が非正規雇用労働者となっている。

1990 年代前半まで非正規雇用の中心は35〜54歳で、その大半が女性などのいわゆる主婦のパートであった。
バブル崩壊による新卒の採用が落ち込んだここともあり、その後、2000年ごろにかけては若年層の非正規雇用者が増加
しかし、少子化が進み若年人口が減っていくとともに、15〜24歳の非正規雇用者数は2000年ごろをピークに実は減少傾向に転じている。

それとは対照的に、高齢化社会の進展により、65歳以上の非正規雇用者は1990年の41万人から2015年には261万人へと6倍以上にも増えた
非正規雇用者のうち、55歳以上の人は1990年時点ではおよそ5人に1人だったが、2015 年には3人に1人になっている。

こうした各種統計(総務省、厚生労働省、内閣府)による情報は、すでに様々なニュースやメディアなどでもたびたび取り上げられているし、格差社会の是正やセーフティネットの必要性は深刻な社会問題化し、山田昌弘著『希望格差社会〜「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』(ちくま文庫)で語られていることはすでによく知られているし、それは国内に限らず世界的情況であることも我々には十分に了解していることである。

「現代日雇い労働の歴史がまた1ページ……。」と、ここはやはり大好きな『銀河英雄伝説のナレーション風に締めておこう。


(続く)


(関連リンク)
▼「中年フリーター」のあまりにも残酷な現実

▼なんで中高年フリーターって正社員採用されないの?と思った時に読む話

▼何歳までフリーターとしてやっていけるか?

▼わが国サービス産業の現状と問題点(PDF)

▼労働力調査(基本集計) 平成27年度(2015年度)平均(速報)結果

▼世界の貧富の格差が拡大、1820年代の水準にまで悪化 OECD


【おすすめブログ
●セレンディピティ、キャリアのピボット、またはレイヤーとしての人付き合いについて考えてみた

●根深い「負のエコシステム」ーー新年度時期に繰り返される様々な光景

●いまや大学講師も「使い捨て」の時代ーー京都大、非常勤職員100人を22年度再契約せず

戯作【推薦状第2弾】「このブログを読め〜未来のマーケッターに与うる言説ーーニーチェ」

倫敦巴里_ニーチェ
私的公開日誌@ウェブ暦:160405.01

10ヶ月前(15年6月)、川端康成の文体模写で自分のブログへの推薦状を書くというなんとも粋狂なことに挑戦したのだが、やはり実に楽しくて仕方がなかった。

悲しいかな詩も文学作品も創作する才能がない私には、せめてこうした文体模写での遊びくらしかないというわびしさもある(~_~;)。
和田誠の『倫敦巴里』も、なんとか復刻して知らない人たちにやはり楽しんで欲しいものだ。

さて、今回の文体模写は、畏れ多くもニーチェを選んだこれも、文体模写の元ネタ探しで楽しんでいただければ嬉しく思う(明白すぎるかも^o^;)。


戯作【推薦状第2弾】「このブログを読め〜未来のマーケッターに与うる言葉ーーニーチェ」

「この大いに高貴にして才気ある人物について、私がなにがしかを述べておくことは、どうしてもしておかねばならぬことのように思われる。

梅下くんが発する様々な言説のうちで独自の位置をしめているのは、私の言を要するまでもなくDigital Ambient Society(電子環境社会)とCommunication Metamorphoses(交流変容)である。

この2つの言葉は、私のEwig Wiederkehren(永劫回帰)、Wille zur Macht(力への意志)と同様、永遠に語り継がれるであろう。

彼は、この2つの言葉でこれからの新時代のマーケッターたちに最大の贈り物をした。幾千年にも響くであろうこの言葉は、彼自身の魂の深淵からほとばしる叡智よってもたらされたものである。

彼は断じて夢想家ではない。無限のビジョンの充溢と幸福の深みから、一人また一人、一社また一社とつらなってくるのだ。

さあ兄弟たちよ、彼とともにその魂の杯を酌み交わそうではないか。」


学生時代、ドイツ古典哲学こそ最高峰の哲学だと私は思っていた私は、実はニーチェにはまったく関心がなく読んだこともなかった。

徹頭徹尾に論理的な思考(特にヘーゲル)に憧れたていたのは、小学生のころに見た『スタートレック/宇宙大作戦』(OST)の影響かもしれない。
とにかくスポックが一番好きで、感情に流されるカークとは違い常に沈着冷静、論理的に破綻したり誤謬がないのは究極の理想なのだ、と信じていたし将来そうした人間になりたいと思っていたほどだった。
もちろん、今日ではそのようなことはけっして思ってはいないのだが。

初めて読んだニーチェの本は中公文庫の手塚富雄訳による『ツァラトゥストラ』だった。
なにを言いたいのかよくわからなかったが、とにかく魂を揺さぶられるような文章だった。
ちなみに、社会学者の大澤真幸が初めて読んだのも『ツァラトゥストラ』だということを最近になって知った。私と同じように、なにが書いてあるのか理解できなかったが衝撃を受けたと語っている。

古典文献学者だったニーチェは、偶然にもショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』を手にしたことで、哲学者としての誕生することになったといっても過言ではないだろう。
もとより、二人は直接的には面識はないが、まさにセレンディピティの典型例である。ちなみに、ショーペンハウアーはゲーテとは親交があり、そのゲーテは彼を絶賛していたそうだ。

それほどのショーペンハウアーではあっても、同時代には絶対的なヘーゲル哲学が君臨していた。今日においても、どちらかというと、栄華を極めたドイツ古典哲学にショーペンハウアーは入れてもらえず
傍流扱いしかされていない。
ニーチェも、現在ではその独自の思想や影響力、哲学史的意義などが評価されているが、当時はショーペンハウアーと同じような不遇を託つ身となるとは歴史の皮肉だ。

ニーチェが存在しなければ、ショーペンハウアーはほとんど一顧だにされることない哲学者のようにも思う。
しかし、彼はまた、仏教やインド哲学に影響を受けた最初の西欧の哲学者である。それ以降では、同じようにインド哲学、特にヨガの世界観に感化されて人智学を創始したルドルフ・シュタイナーが有名だろう。

ショーペンハウアーは、裕福な商家の出自であり、美味い食事を堪能しつつ厭世哲学を語っていたと言われている。
それが事実か否か、私は彼の研究者でないし彼の主著も読んでいないのでわからない。

70年代、『ニーチェ全集』を刊行していた白水社から、『ショーペンハウアー全集』(全14巻+別巻1)が出ていた記憶はあるのだが、代表作『意志と表象としての世界』ですら、今日では中公クラシックスから刊行(全3冊)されているだけだ。その代表作にしても、世に知られているわりには読まれていない書だろう。

実をいえば、私がショーペンハウアーの著書で読んだことがあるのは、恥ずかしながらエッセイして知られている『読書について』だけだ。
これは、多分、彼の著書中で最も読まれている本だろう。岩波文庫をはじめ各出版社からこれまでにも様々な訳者によっていくつも刊行されている。

「どんなにたくさんあっても整理されていない蔵書より、ほどよい冊数で、きちんと整理されている蔵書のほうが、ずっと役に立つ。同じ事が知識についてもいえる。いかに大量にかき集めても、自分の頭で考えずに鵜呑みした知識より、量はずっと少なくとも、じっくり考え抜いた知識のほうが、はるかに価値がある」ーー『読書について』

大量の知識を獲得することが重要だと思っていた私には、この本はとても気づきの多かった著書だった。
いつか主著である『意志と表象としての世界』も、じっくりと読んでみたいと思っている。

あれ!? ニーチェではなく、なんかずっとショーペンハウアーについて語っている(^_^;)……。
な、なにとぞご容赦のほどを。


【おすすめブログ】
戯作【推薦状】「梅下くんのブログを推奨しますーー川端康成」

●「精神の淫売」としての政治という情況ーーニーチェの箴言に寄せて

http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/977751.html

●このブログを見よーーニーチェ人気に寄せて
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/1182101.html

●特集「人文書入門」ーー『文藝』2014年夏号
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/1858840.html

────────────────────────────
〓 ハイ・コミュニケーション私論 〓(ITmediaマーケティング)
http://blog.marketing.itmedia.co.jp/macume/
────────────────────────────

MEMOから始めよ!ーーブロガー的メモしたことを活かす3つのコツ

img_5941

私的公開日誌@
ウェブ暦:160309.01

様々な便利なデジタルツールがありながら、手書きの手帳はそれでも種類も販売部数も年々増え続けて好調だという。
また、手帳の活用術の関する本も人気があり、書店に出向けば毎年新しい本が刊行され何冊も見つけられる。
これほどテクノロジーの発達した今日、書くことは打つことに等しい。それでも、手書きの手帳やノートなどの人気は衰えていないし、そうしたものについてのノウハウや活用方法などを指南する本も人気が高い。

ところで、私はいつでも小さなメモ帳を持ち歩いている。A7サイズのリングタイプでポケットに携帯できる(トップ画像)。このサイズは、最近の海外ドラマの犯罪捜査ものでも刑事がよく手にしているタイプのメモ帳だ。一番有名なのはやはり『刑事コロンボ』だろう。日本だと警察手帳にメモを取るシーンが多いが、海外ではバッジを見せると、このタイプのメモ帳を利用している。
それにコンビニでもどこでも手に入る。
 
そのほか、カバンにはノートも2冊入れてあるこちらはA5サイズ。1冊は打ち合わせに使い、もう1冊はセミナーやフォーラムなどで使用するノートだ。メモ帳・ノートは、罫線ではなくすべて方眼紙か無地を利用している。もらいものノートやメモ帳もあるが最近は方眼紙タイプが多いのが嬉しい。

世間には、メモは一切取らない。すべて覚えるという人がいる。メモを取ると、そのことに注意がいってしまうし、書いたことで安心してしまうからだそうだ。
これは、ごもっともなことだと感じるが、私はメモを取る方だ。会議だけではなく、勉強会、セミナー、フォーラムなどのイベントではメモは必須だ。もちろん、あとでブログを書くからということも理由にはある。

人はメモを取る生きだといっても過言ではないのだが、そもそもなんでメモを取るのか。
その理由や目的は、その人のよって様々だろう。もちろん、議事録、レポートや報告書、メディア用に記事にするなど、人によってメモを取る理由や目的は様々なので一様ではないだろう。
特にセミナーやフォーラムなどで、よくPCでメモしている人たちを見かけるのである。そのうちの何人かは、きっとウェッブを含めたメディア関係者だろうと思う。

私のメモの取り方に関していえば、自分だけがわかればよく、目的もアウトプット(ブログ)用のメモ、あるいはノートということになる。


■メモ帳を携帯している理由

私がメモ帳を常に携帯しているのは、書いておけば忘れても大丈夫だからだ。また、書店散策をしていて気になる本を見つけた場合など、すぐにその場で書き留めておけるからだ。都内の事情しかわからないのだが、どの書店でもスマートフォンで本の表紙でも写真を撮るのことは禁止している。

また、クリエイティブ系の人もメモ帳を持ち歩いている人が多い、いつでもどこでもアイデアを思いついたとき、その場で素早くメモに残しておくためだ。コピーライターやデザイナーなどはそうした人が多いし、ITリテラシーの高い人の中にもメモだけは手書きするという人が何人かはいる。
また、筆記具は、ポケットメモの場合は水性ボールペン、ノートではシャープペンシルで芯にはB2を利用と決めている。


■私流3つのコツ

ここで紹介する3つのコツは、あくまでも私流であるので、だれにでも最適なものか否かは確信があるわけではない。しかし、長年いろいろと試行錯誤してきた方法であることだけは確かだ。
したがって、このコツが何人かの人たちには役立つだろうと判断している。

(コツその1)メモは手書きにする
今日、書くことは打つことである。書くより打つ方が早い人も多いだろう。私もそうだが、ブログやビジネス文章を作成するときはその方が確かに早い。それでも手書きメモは重要だ。
手書きであれば、瞬時に文字、図形、記号などなんでも書き込める。特に図形や図案の場合、早いし手書きの方がやはり早いしそのフリーハンド感覚が好きからだ。

さらに、年々PCでメモを取る人が増え続け、あのキーボードの音がうるさいと感じているのだ。講師や登壇者が話しをはじめると、周りで一斉にキーボードが鳴り出す。そうした当の本人たちは自覚はないだろうが、あまりにもキーボードを打つ人が多いとやはり耳障りだ。場合によっては、話している人より打つ音が大きいことすらある。
PCでメモを取る人は、そうしたことには十分に配慮して欲しいものだと感じる。

(コツその2)メモは気づきを書くこと
ブログなので、勉強会やセミナーあるいはフォーラムなどで、登壇者の話した内容を細大漏らさず採録するように見事に内容をまとめている記事に接すると、私には到底まねができないなと感じる。
そうした話した内容をトレースするかような内容は、参加しなくてもあとでそうした記事やブログを読めば話した内容を把握できるでありがたいことではある。
また、最近ではU-NOTEやログミーのようなサービスもあるので、そうしたサービスを利用すれば話した内容はほぼ全部を把握できる。

私がメモを取る場合、話しを聞いていて気づいたことだけを書くようにしている。それはヒントであったり、示唆、疑問点など聞いていて自分でなんとなく「引っ掛かった点」である。そうしたことを残しておくことで、あとでアウトプット(ブログ)するときにとても役立つのだ。

(コツその3)メモは見返すこと
メモを書いたらそれで終わりではない。そもそも何のためにメモを取るのかだ。私はアウトプットのためにメモを残すが、それでもメモした内容すべてブログにするわけでもない。
メモを見返しながら書く内容全体を構成し、思考を整理しながらその途中でメモを見返して書かない場合もある。それはその内容が役立たないということではない、ただ今回のブログには書かないだけで、そのメモは別のところで必ず役立つことがある。

しかも、そうして見返したメモなので、その内容は記憶に残りやすい。記憶に残っていれば、なにかの拍子にパッと思い浮かぶことがあり、それがアイデアや企画、新しいブログのテーマにつながるのだ。

数年前、サイモン・シネック著『WHYから始めよ!―インスパイア型リーダーはここが違う』(日本経済新聞出版社)が書店で人気だった。この著書は、米国人によって書かれたものであるが、多くの人たちはWHAT(何をする=成果)やHOW(どうやる=手法)など、どうしても目先のことばかりばかり気にするが、メモを取るという単純なことにおいてもWHY(なぜ=この場合は意義と価値)が重要なことを思い知る次第。


(関連リンク)
▼どうして「パソコンでのメモ」を繰り返していると脳力が落ちるのか?
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/258310/090400013/

▼A7メモ帳を常に持ち歩く習慣

http://bit.ly/21ZIfjg

▼考え倒すにはB6メモ術が最強かも!
http://tsukuru.xyz/?p=531

▼ベテラン新聞記者に聞く、「上手なメモの取り方」
https://gakumado.mynavi.jp/freshers/articles/13998

▼基本に返ろう:完璧なメモを取る方法
http://www.lifehacker.jp/2013/05/130508back_to_basics.html

▼メモの取り方のコツは、メモを後で取ること。
http://bit.ly/21ez50g

▼聞いた内容を完全に理解できるメモの取り方
http://bit.ly/1LIXucr

▼頭が片づく!人気コピーライターの「メモ術」
http://toyokeizai.net/articles/-/101269

▼QUOVADIS→フランクリン→ほぼ日手帳を辞め、デジタル手帳を6年使った僕がまた「ほぼ日」に戻った理由
http://leemanparadise.com/neta/post-3421/

▼手帳使いの達人が説く 私が手帳を愛する理由
http://xbrand.yahoo.co.jp/category/business_money/17540/1.html


(おすすめブログ)
●デジタルネイティブ社会のPCキーボード「騒音」というイノセンスな問題
http://blog.marketing.itmedia.co.jp/macume/entry/322.html

●文章作成に必須! これはいい!!ーーMac専用フルスクリーンエディタ「Ommwriter」
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/1014644.html

●Mac専用なだけではない。国産フリーエディタ「iText/iText Express」が、この上もなく重宝な「5つの理由」
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/1010223.html

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〓 ハイ・コミュニケーション私論 〓(ITmediaマーケティング)
http://blog.marketing.itmedia.co.jp/macume/

〓 PeraichiLista 〓(個人ポータルサイト)
http://peraichi.com/landingPages/view/macume
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

久々に新ブラウザが登場ーーVivaldiとBraveを早速試す

browser2016

私的公開日誌@ウェブ暦:160205.01

今回、久々に新しいブラウザがリリースされたニュースが飛び込んできた。
しかも、昨年後半から今年にかけて相次いで2つもリリースされた。
それが、VivaldiBraveである。

私はブラウザが大好きだ。これまでにも新しいブラウザがリリースされるたびに、インストールしてブログも何度か書いてきた。
思えばブラウザとの付き合いは実に長い。私にとって、インターネットの歴史とは即ちブラウザの利用の変遷でもあるかもしれないと思う。

最近はスマートフォンが主流なので、各々のネイティブアプリが全盛で、ブラウザの利用者は少ないし、10代の若年層であればeメール同様、ひょっとしたらブラウザを使ったことがない人たちすらいる昨今だろう。
私は、スマートフォンでもほとんどがブラウザ利用するほど大好きなのだ。

■はじまりはNetscape
今日では、このブラウザを知っている人はむしろ少ないだろう。95年〜98年の3年間、ブラウザといえばそれはNetscapeのことだった。
当時は、ブラウザを立ち上げることは、同時にメールも確認できるようないわゆる“スイートアプリ”だった。

そうした爆発的なインターネット人気に慌てたMicrosoft(MS)は、巻き返しを図べく同社初のブラウザであるInternet Explorer(IE)を投入
Windows 95にIEをバンドルし、同OSを利用するベンダーのPCすべてにてにインストールするよう強要した(?)こともあり、99年、NetscapeはMSの戦略(陥穽)に完全に打ちのめされてブラウザ市場から駆逐されることになる。
わずか3年ほどの天下だった。

その後、Netscape Navigatorとリニューアルして細々とリリースを続け、08年Netscapeはついに終焉を迎えた。

同じく90年代末、アップル純正ブラウザCyberDogがリリースされた。
ブラウザ、メール、ニュースリーダー、アドレスブックなどの機能も備え、Macユーザーならこのアプリには思い入れの多い人もいるだろう。
データ読み込みのステータスバーでは、犬が走るカワイイアプリで、さすがにアップル社らしいUI・UXだった。
だから、OS Xでアップル純正ブラウザSafariをリリースしたとき、あまりにも普通のUI・UXだったので嬉しさ半分のがっかり半分だった。

■Firefox、そしてGoogle Chromeが登場
04年、Netscape(Mozilla)の系統を引き継ぐブラウザFirefoxの登場は、とにかく嬉しかった\(^O^)/。
このブラウザは、今日のブラウザの標準であるブブラウジング、機能拡張(アドオン、プラグイン)の礎を築いた革新的なブラウザだ。しかもマルチOS対応でもある。
このブラウザは、一時はかなりのシェアだったし、私はいまでもずっとバージョンアップしながら利用し続けている。

06年、同じようにNetscape(Mozilla)の流れを汲んだSeaMonkeyが後を追うようにして登場した。
このブラウザは、メールクライアント、ニュースグループなども揃えており、よりNetscapeの正統なる後継者のようなインターフェイスだった。
現在では、こちらは開発を終了しているようだ。
もっとも、続けても利用者がほとんどいない状況では、それも仕方がないだろう。

2000年代前半、Netscapeを駆逐してブラウザ市場の95%を独占していたあのIEですら、2016年の今日ではシェアは一桁代目前でほんのわずかである。
しかし、これはIEにかぎらず、Firefox、Safari、Operaなど、軒並みシェアを減らし続けている。
そうした中で、Windows 10では新ブラウザのMS Edgeを標準搭載したが、それでもChromeには遠く及ばないし、新ブラウザ投入もかつてのIEのような栄華を望むのは無理というものだろう。

ましてや、スマートデバイス(ほとんどはスマートフォン)が中心の社会になり、ネイティブアプリが当たり前になってい状況では、デスクトップPCでのブラウザのシェアを競うこと自体、ほとんどが無意味である。
しかも、この新ブラウザのレンダリングエンジンには、当初はWebKit系を採用することも検討したようだが、そうしたオープンソースのレンダリングエンジンを採用しなかった理由として、IEのTridentのように独自なエンジンEdgeHTMLを持つことで、困ったことだがそれでもなんとか優位性を確保したいという思惑があるようだ。 

■Vivaldi(画像左)
この新ブラウザVivaldiは、なんとあの元Operaの共同設立者Jon von Tetzchneが立ち上げ、Chrome(28以降)、Opera(15以上)でも採用され、WebKitから分岐したレンダリングエンジンBlinkがベースになっている。
従って、Chromeで利用できる機能拡張の多くがVivaldiでも利用できるし、Chromeユーザーであれば違和感なく移行できるだろう。

このブラウザにはいくつかの特長があるのだが、私のようにたくさんのタブを大量に開いているユーザーには、なんといっても「タブスタッキング機能」が便利だろう。
最初はちょっと戸惑うが、慣れれば類似するタブをまとめてくれるので重宝するだろう。

ほかにも、画面が分割されてタイルのように並んで表示できる「タイリング機能」、URLやテキストメモを記録できる「メモ機能」など、独自の機能を備えている。

各機能のナビゲーションも日本語で利用できるので、興味のある人とくにChromeユーザーは試してみるとよいだろう。

■Brave(画像右)
プログラミング言語JavaScriptを作り、Mozillaの前のCEOだったBrendan Eichが新たに開発したブラウザがBraveである。
当初は、サインアップしたユーザにのみ初期バージョンを提供していたが、現在ではサインアップなしでもダウンロードして利用できる。

現在、私のiMacのDockにはOmniWeb、Safari、Opera、Brave(新)、Vivaldi(新)、Firefox、Google Chromeと7つのアイコンが並んでいる。
どれも、最新バージョンで利用しているが、このBraveはとにかく、ほかのどれよりも起動も表示スピードも圧倒的に速い

こちらは、各機能のナビゲーションは全て英語で、Macユーザーは、OS10.9以上でしか利用できないので、その点だけは注意が必要である。

とにかく新しいブラウザの登場は、ブラウザ大好きな人間にとってはこよなく嬉しい状況だ。
今後も21世紀にふさわしいブラウザのさらなる登場に大いに期待したい。


(関連リンク)
▼これまで200万回以上ダウンロードされたVivaldiブラウザがいよいよ公開ベータへ
http://jp.techcrunch.com/2015/11/03/20151102vivaldi-in-beta/

▼ヘビーユーザーのためのブラウザー「Vivaldiベータ版」を試した

▼Operaの人が作ったブラウザ、Vivaldiを試してみた

▼前Mozilla CEOら、新ブラウザ「Brave」公開

▼JavaScriptの父、オープンソースの高速Webブラウザ「Brave」をβリリース

▼新ブラウザ「Brave」(β)を使ってみた Chromeより速くてウザい広告は少ない

▼「Netscape」誕生から20年--ウェブ普及の立役者を振り返る

▼ついに日本でもIEが過半数割れに、世界はすでにChromeが寡占

▼ChromeがMicrosoft Edgeの増加上回る - 10月ブラウザシェア

▼こんなに違う! 世界と日本のブラウザシェア


(おすすめブログ)
●続・激化する「ブラウザ戦争」は誰のため、そして何のため?ーーソーシャルブラウザ“RockMelt”

●「Browserオタク」と呼ばれる私ーー今はFlock、SeaMonkey、Firefoxが、私の“ブラウザ御三家”
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/1143682.html

●激化する「ブラウザ戦争」は誰のため、そして何のため?
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/795206.html

●Appleの「インターネット・スイート」ーー今こそ復活して欲しい「Cyberdog」

───────────────────────

〓 ハイ・コミュニケーション私論 〓(ITmedia)
http://blog.marketing.itmedia.co.jp/macume/
───────────────────────
 

研究者たちに会ってきた!ーー「大学共同利用機関シンポジウム2015」に思うこと

main

私的公開日誌@
ウェブ暦:151203.01

「このイベント会場できっと出会いそう」と、友人から教えられたのが「大学共同利用機関シンポジウム2015」だった。しかし、その肝心の友人は、当日は仕事で参加できなかったという残念なことに。

私は、毎月SCHOLARに参加していながら、実はこのシンポジウムについては恥ずかしながらまったく知らなかった(^_^;)。
今回、「研究者に会いに行こう!」というキャッチフレーズに誘われ初めて参加した。
ホンネをいえば、自宅にいると11・12月の日曜日に一挙放送している『銀河英雄伝説 外伝』を見て過ごしてしまい、気がつくと夕方という事態は避けたかったという恥ずかしい個人的な事実はあるのだが(;^O^;)。


■大学共同利用機関について

大学共同利用機関とは、全国の研究者の一種のコミュニティーで、国内だけではなく海外の研究者とも連携して学術研究を推進するハブ的な役割を担っている。

各大学だけでは困難な大規模な施設や設備、膨大な学術資料やデータなどの知的基盤、ネットワーク型共同研究や新分野開拓のための場の提供と利用促進を図り、効果的な共同研究をを通じた学術研究の発展に貢献することが目的とのこと。

2004年、下記の4つの大学共同利用機関法人が設立され、各研究分野には様々な研究機関が参加している。

(1)人間文化研究機構(国立歴史民俗博物館/国文学研究資料館/国立国語研究所/国際日本文化研究センター/総合地球環境学研究所/国立民族学博物館)
(2)自然科学研究機構(国立天文台/核融合科学研究所/基礎生物学研究所/生理学研究所/分子科学研究所)
(3)高エネルギー加速器研究機構(素粒子原子核研究所/物質構造科学研究所/加速器研究施設/共通基盤研究施設)
(4)情報・システム研究機構(国立極地研究所/国立情報学研究所/統計数理研究所/国立遺伝学研究所)

年1回、これら各々の研究機関が一堂に会し、各所属の研究者たちの最新の研究成果を発表したり、研究者を目指す人たちとの交流することを目的に、2010年より開催されているのがこのシンポジウム(正式名称は「大学共同利用機関博覧会」)である。


■イベントに参加しての印象

このイベントは今回で6回目を数え、年1回、都内で開催している。
これまでベルサール秋葉原、有楽町の東京国際フォーラムなどで開催してきたが、今回はじめて秋葉原UDX(2階のUDX GALLERY)での開催となった。また、この機関が正式に勧誘したわけではないようだが、宇宙航空研究開発機構(JAXA)もこのシンポジウムには毎年参加しているようだ。

今年はサイトは昨年までとは違い、ポップなイメージの告知サイトとなった(添付画像)。
当日、各研究機関のブースが出展し、また各研究機関から研究たちが成果を発表するプレゼンテーション(各15分)もあり、会場はほぼ満席だった。
事務局の人に話をうかがったところ、これまでは上記の4つの機構から一人づつの講演形式だったが、今年は初めて各研究機関すべてのプレゼンテーション時間を設けたようにしたとのこと。
これは実に良いことだと思う。

研究者や開発職に限らず、日本人はプレゼンテーションが下手だと言われている。こうした、場でわかりやすく時間内で一般の人々にわかりやすく伝え、自分たちの研究内容や成果を知ってもらうのは非常に貴重でありがたいことだと感じる。

この日、宇宙大好きの私の一番のお目当ては、やはり国立天文台である。
同研究機関の「研究者」バッジをつけた人とブースで気軽に直接話しができるなんてとにかく嬉しい(^_^)。

ハッブル宇宙望遠鏡のおかげで、宇宙に関して様々な新しさと驚きに満ちた発見が数多くあったし、後継機で18年にも打ち上げが予定されているジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡のようにさらに高性能な宇宙望遠鏡も用意できる今日、地球の大気層に阻まれるている地上望遠鏡はそれでも役に立ったりすることがあるのでしょうかとか。
宇宙全体の96%を占める暗黒物質(ダークマター)や暗黒エネルギー(ダークエネルギー)はいつきちんと観測できるのでしょうか、などというまことに素人のアホ丸出しのような質問にも親切丁寧に教えて(答えて)くれたのだ。

核融合科学研究所のプレゼンでは、実用化や商業利用についての話しがなかったので、早速展示ブースに赴いて質問した。
すると、まず施設を作るのに10年、実験には20年ほど要するとの話しだった。核という言葉を聞くと、我々日本人は先験的に拒絶反応を示してしまう。
いまの日本の原発政策、核分裂による大量の放射性廃棄物がでる原発には私も反対だが、それでもなお核についての研究は是非とも必要であると認識している。

それというのも、宇宙について研究するにしてもより詳しく核について知ることは不可欠だし、人類の存亡にかかわるエネルギー源の確保という避けては通れない問題を解決するためにも、どうしても核については継続して研究することが必要なのだ。
融合というのは、原子力(核分裂)に比べて生成可能なエネルギー量が大きく、また、放射性廃棄物や二次的に出る放射線の量も極めて少なく、その意味では現時点で「理想の核融合燃料」というのは紛れもない事実なのだ。
そもそも、太陽の輝きはこの核融合反応から発している膨大なエネルギーなのだ。


■戦略的な広報活動の必要性

さて、私は、マーケティングコミュニケーションの専門家なので、どうしてもそうした視点でこのイベントを見てしまう。そこでいくつか気がついたことがあるので記しておきたい。

とにかく、PR不足を感じてしまった。
初回(10年)から今年の第6回目まで含め、メディアでの記事やブロガーによる記事などほぼゼロである。広報ワーキンググループ事務局というのはあるのだが、これが前述した4つの各機構により毎年持ち回り制なのだ。

今年は「高エネルギー加速機構」が担当なので、同機構のサーバー内(kek.jp)にシンポジウムページをアップしてあるが、昨年だと自然科学研究所の「基礎生物学」が担当なので、同機構内の(nibb.ac.jp)のアドレスにシンポジウムのサイトがあるという具合だ。
したがって、毎年シンポジウム開催のアドレスがまちまちで開催年により異なるのだ。

大学共同利用機関としてのサイトもアドレス(4kikou.org)があるにもかかわらず、持ち回り制だという理由からのようだが、なんともったいないことをしているのだと感じる。その肝心の機関のサイトも、20世紀の会社案内のようでなんとも味気なくて誰がアクセするのだという印象。

Twitterアカウントも開設してあるが、イベントの案内だけをただツイート(流している)だけである。昨年は、ニコニコ生放送(ライブ中継)を通じた配信と質問を受け付けたそうだが、それも今年は行っていないとのこと。

要するに、持ち回り性だということもあるので、統一しかつ継続的なコミュニケーション戦略がないのである。
例えば、4つの機構の共同ブログでもあれば、日頃から研究者の日常や研究生活など、情報発信できるとは思うのだが、そうしたことも個々人任せで実施されていない。

また、メディア関係者(大手新聞社)も取材に来てくれないそうだ(過去の記事を検索してもないわけだ)。
ロイターやAFP通信など海外メディアに比べ、日本の新聞社は科学については冷淡で記事になることが非常に少ない。
日本人がノーベル賞を受賞したりすればそれなりに取り上げられるが、その科学的な業績などを報道するよりも人物像などに焦点がおかれ、それも芸能レポーターと同様に一時的に騒ぐのが常である(STAP細胞事件が象徴的)。

私であれば、大手メディアなどはどうでもよく、各種の専門雑誌(例:『天文ガイド』など)、サイエンスライター(フリーランス含む)、また科学についてブログを書いている一般の科学好きな市井の人たちを探し出し、そうした人たちにアプローチ(招待)する。
どうせ、一般メディアなど、あとでネットで記事などを発見して慌てて取材に行くような人種なので、ネットでシェアされることの方が今日ではずっと重要なのだ。

特に、サイエンスライターやブロガーたちとの関係は、一朝一夕にできるわけではなく、日頃から地道にネットワーク作りをして継続的なコミュニケーションをしておく必要がある。
そうして、こうしたイベントの時にこそ招待し、できるだけ多くのブロガーたちに記事を書いてもいらうように“おもてなし”するのだ。


■大学共同利用機関への大いなる期待

各研究機関の展示ブースで、かなり年配の人たち数人が専門的な質問をしている姿を見かけた。おそらく、かつては大学での研究者や企業の研究開発職だった人たちかもしれない。後輩たちの研究成果を見るために訪れたという風情ではないだろうか。

最近では子どもや親子向けのサイエンスイベントが盛んだ。
有名なところでは、小学生を対象にした三菱電機の「こどもサイエンス教室」、ディスカバリーチャンネルと宇宙航空研究開発機構(JAXA)共催で、親子で楽しめる「ディスカバリーキッズ科学実験館コズミックカレッジ」などで、小さな頃から科学者や研究者とじかに触れる機会が提供されている。

中学生や高校生も、将来の研究者の予備軍だろう。
そうした人たち向けに夏休みを利用してこうしたシンポジウムを開催することも、少し長い目でみれば日本の研究や開発に大きく貢献できるだろう。
さらに、一般の人たちにとって、研究機関というのは気軽に訪れることができるものではない。民間でも、オープンイノベーションに積極的に取りくむことで成果を上げつつある企業がいくつもある。
ここのところ大学発ベンチャー企業の増加、産学連携の活発な動きも増えているという追い風もある。

ところで、SCHOLARでは、この8月に九州大学理事・副学長でマス・フォア・インダストリ研究所教授の若山正人さんをお迎えして「21世紀を変える数学の可能性」という講義を開催したが、福岡市は大学だけではなく市全体でイノベーションや産学連携に様々な施策で取り組んでいる地域として、ここのところ様々な活動がメディアにも取り上げられ大きな話題となっている。

もちろん、福岡市は、国家戦略特区に指定されており、特にグローバル創業・雇用創出特区(創業特区)に選定されているということもある。
最近では広島県がそうだろう。

後、そうした積極的で活発な活動なども巻き込んだり活用し、さらなる研鑽による研究成果が社会に大きく貢献することを願いたい。
また、このシンポジウムは継続して、さらなる発展も期待することを願いながら帰路についた。


(関連リンク)
▼「大学共同利用機関シンポジウム2015」(ウェブサイト)

▼Twitter

▼大学共同利用機関法人
http://www.4kikou.org/

▼福岡の“まちなかの力”がベンチャーを生み出す
http://bizzine.jp/article/detail/958

▼地方が日本のインキュベート施設になる–福岡市長が語る、地域活性化への取り組み
http://logmi.jp/80644

▼大学発のイノベーションを創出するファンドが誕生!ともに成長するスタートアップメンバーを募集!
http://fukuoka-ijyu.jp/2015/08/04/kyujin18/

▼福岡市の起業・創業応援サイト - 創業するなら福岡市!
http://sougyou.city.fukuoka.lg.jp/

▼Innovation Studio Fukuoka(福岡)
http://www.innovation-studio.jp/

▼Innovators 100 Hiroshima(広島)
http://www.innovators100.org/


(おすすめブログ)
●"コロンブス指数"で「30年後の普通や常識を考える」ーーSCHOLAR.professorに参加して
http://blog.marketing.itmedia.co.jp/macume/entry/730.html

●テーマ「なぜ微生物学者が地球外生命体を探すのか」に限らない学びと気づきが続々の白熱講義ーーSCHOLAR.professorに参加して
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/1900864.html

●人と機械(テクノロジー)の「付き合い方」、そしてシンギュラリティ(技術的特異点)とーーSCHOLAR.professorに参加して
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/1893085.html

テーマ「なぜ微生物学者が地球外生命体を探すのか」に限らない学びと気づきが続々の白熱講義ーーSCHOLAR.professorに参加して

takai_sinsho

私的公開日誌@
ウェブ暦:150721.01

7月14日の夜、探査機「ニューホライズンズ」が冥王星に最接近するニュースに、世界中が沸き立っていた。
まさにその前夜(13日)、JAMSTEC(海洋研究開発機構)で極限環境生物の研究に携わり、JAXA(宇宙航空研究開発機構)で地球外生命探査の客員教授も務める高井研さんを講師にお迎えし、「なぜ微生物学者が地球外生命体を探すのか」をテーマにした講義SCHOLARで開講された

私は小学生のころ、天文雑誌を毎号買っていたほど宇宙が大好きで、将来は天文学者になりたいとまで思っていた。
それは『宇宙大作戦/スタートレック』(OST)を欠かさずに見ていたことの影響が大きい。もちろん、その後に続くシリーズも含めていまだに一番好きだ。
ディスカバリーチャンネルで、宇宙に関する番組を見ていると、登場する天文学者、物理学者、宇宙(天体物理)学者、惑星科学の研究者から宇宙飛行士にいたるまで、スタートレックの影響がとても大きくて強いことがよくわかる。それは、すでに文化なのだ。

中学生になり、父親にねだって天体望遠鏡(反射式)を買ってもらった。初めて自分の目で実際に月のクレーター、土星の輪などを見たときの感激はいまでも忘れられない。
しかし、悲しいかな数学、物理や化学などはどう頑張ってみても苦手で、早々に天文学者のへの道は諦めた。

『インターステラー』(原題: Interstellar)が話題の映画監督クリストファー・ノーラン
1980年、カール・セーガンが監修した番組『コスモス』に影響され、彼も天文学者になりたかったそうだ。
しかし、作文が好きで数学が苦手だった(私と同じだ!)ので諦めた、と天体物理学者ニール・ドグラース・タイソンが司会を務める人気TV番組『Star Talk』(ナショナルジオグラフィック・チャンネル)でのインタビューで語っていた。
数式や化学式は、自然科学を学ぶもには不可欠だ。特に数学は宇宙語とも称されているので、これが苦手だと天文学者にはなれない。

幼少のころ、こういうなにがしかに大きな影響をうけた体験というのは、きっと誰にでもあるだろう。
例えば、『キャプテン翼』を読んでサッカー選手になった人たちは多い。しかし、すべての人がプロになれるわけではない。ましてやJリーガーしかも日本代表、さらには海外の名門クラブチームで活躍できる選手ともなればごく一握りに過ぎない。


■生命に関する「二大命題」とは?

冒頭、高井先生は自己紹介したあと、参加者に向かって下記の質問をした。

1.生命とはなにか
2.生命の起源とは

上記の2つこそ、生命に関する「二大命題」だそう。
先生は、参加者に問いかけた。どちらがより上位の概念と考えるかと。
一般的には、1がより汎用的かつ上位の概念と思われている。しかし、高井先生にとっては2こそが重要なのだという。

高井先生は「地球生物学者」で、専門は超高熱微生物(超高熱性細菌)の生態学。現在は主に世界各地の深海底に生息している多種多様な生物を研究している。

超高熱微生物とは、極限環境微生物の一種で現在でも生息している古い細菌である。極度に高い温度(約100℃あるいはそれ以上)を好む生物群で、非常な高温に耐えることができる生命体のことだ。
主に温泉や熱水地に生息している。また、近年では高圧の深海、海底火山の熱水噴出孔周辺に生息する多種多様な生物も発見されている。
反対に、極低温微生物というのも存在する。

深海底の生物についてわかってきたのは、実は1980年以降のことである。それまで、深海底は、太陽の光も届かない闇の世界で、生物はほとんど存在していないと考えられていた。

さて、太陽エネルギーの恩恵を受けている「光の生態系」に対し、深海底のマントルや地殻あるいはマグマなどの地球内部エネルギー源で生息する生き物を、高井先生は「暗黒の生態系」と呼んでいる
そして地球誕生45億年の歴史において、「生命の起源」をこれらの「暗黒の生態系」と先生は考えて研究に励んでいるのだ。
ちなみに、先生はこの暗黒の生態系」を「プレカンブリアンエコシステム」と呼んでいる。

「暗黒の生態系」とは、実に巧いネーミングだ。
宇宙についても同じことがいえる。

この20年ほどの間、各種無人探査機、そしてハッブル宇宙望遠鏡のおかげで宇宙についてたくさんのことを知ることができた。それらは、私たち(地球人)の推測、予測・予想、憶測、想定、想像をはるかに超えていた
要するに、私たちが、宇宙についてわかっていることは今日でも少なく、わかっていないことの方が圧倒的に多いという事実なのだ。

それというのも、宇宙における「暗黒物質」(ダークマター)や「暗黒エネルギー」(ダークエネルギー)、それらは前者が23%、後者は72%と2つで宇宙全体の実に95%を占めている物質で、前者は宇宙や天体・銀河を形成し(まとまらせ)、後者は宇宙の膨張を促進している重要な物質なのにもかかわらず、見ることも触れることも不可能で、なぜ存在しているのか今日の最新科学でも依然として謎なのだ。

先日、無人探査機「ニューホライズンズ」の冥王星最接近の最初の映像を見た近国立天文台の渡部潤一教授は、「冥王星は、月よりも小さいため、地形の表面での活動は月と同じようにかなり以前に終わっていると考えられていたので、天文学者の予想を大きく覆す結果だ。冥王星の内部にどのようなエネルギー源があるのか、その理由を探ることが今後のポイントになる」と語っている。

つまり、同じ系内についてすらわかっていないことが多いのだ。想像を絶する広大な宇宙について、私たちはなにもわかっていないのに等しい。

ところで、先月(6月)、MITベンチャーフォーラムに参加し、そこでTomyK Ltd. 代表(ACCESS共同創業者)鎌田富久さんから聞いた話しで気づきがあった。
それは「問題解決より、課題設定の方が大事」という視点だった。課題の設定の仕方により当然ながら解決方法(アプローチ)が異なるのだ。

高井先生の場合、課題(この場合、仮説)設定を「生命の起源」とし、それによるアプローチ(研究)をする手法を選んだのだと私は思った。


■すべては「生命の起源」探求のためにーーキャリア形成あるいは職業選択について

高井先生は、大学院から今日まで、そのキャリアの節目で選んだきた道は、すべてがいかに「生命の起源」につながる研究を継続できるかという判断基準で選択してきたと。

ドクターのとき、3つの選択肢が用意されていたそうだ。
JAMSTEC(海洋研究開発機構)は、もっとも自由度とフレキシビリティが高かったから選んだと仰っていた。つまり、先生自身が引き続き「生命の起源」研究がもっとも継続できる組織あるいは職場環境として選択したということだ。

その後も、すべての選択はその1点のみによると。そうした点では実にぶれていない。
ちなみに、JAXAと比較すると一般的な知名度があるわけではないが、JAMSTEC(海洋研究開発機構)は、しかしNASA(アメリカ航空宇宙局)に近しい存在であると高井先生の話しだ。

ところで、3月のSCHOLARでは、慶應義塾大学環境情報学部教授の増井俊之教授をお招きし、「当たり前に受け入れている不便を拒否しよう」がテーマの講義を聴いた。
そのときの増井先生のキャリア選択の視点と考え方と、高井先生とのそれを比較すると面白いだろう。

増井教授は、次に進むときは、自分がなにか新しく学べるあるいはこれまで知らなかったことについて、知見を得るチャンスがあるか否かでキャリアの選択を決定してきた、というような趣旨のことを語っていたように記憶している(ひょっとしたら、読んだ著書に書かれていたかも^-^;)。

そうした人生やキャリアの選択肢において、どちらが最適解なのかは、私にはわからない。
どちらの考え方がより正しいのかとか、価値があるのかなど正解はないだろう。
それは、その人の職種、かかわっている専門分野や領域、人との出会いや縁、人間関係、職場環境、さらには運によって異なるだろう。
しかし、お二方に共通しているのは、確固たる自分自身での判断基準を持っているということだ。


■人間進化の根源的なものーー好奇心とイマジネーション

今年の3月、日本人を中心とする研究チームが、氷で覆われた土星の衛星エンケラドス内部に「熱水」が存在するという研究成果を、世界5か国から集まった科学者たちの国際会議で発表した。
地球以外で初めて「水・熱・有機物」という生命誕生に必要な3要素を確認し、世界中の科学者たちを驚かせたことは私たちの記憶にも新しいだろう。

そうした状況を受け、翌月(4/13)のNHKクローズアップ現代で「ついに発見!? 地球外生命に挑む科学者たち」が放送された。その際、番組でゲスト出演したのが高井先生だった。

系内では、生命可能性の存在が高い筆頭といわれているエンケラドス(土星)のほか、エウロパ(木星)、タイタン(土星)、ガニメデ(木星)と、4つの衛星に生命の可能性が指摘されている。すべて木星と土星の衛星である。

もちろん、冥王星の外縁部のカイパーベルト内(太陽系外縁天体群)には氷の天体が数百万も存在し、そのなかには冥王星と同じあるいはより大きい氷の天体が存在する可能性があることもわかってきた。そのうちのひとつで、05年に発見された準惑星エリスの公転周期なんと約550年。
仮にそうした天体群の中に、天体内部エネルギーを持っているものがあれば、さらに生命の可能性は広がるだろう。

なにせ、冥王星、エリスの先には、いわゆる「オールトの雲」(約1光年)が存在し、その範囲内には、大小なんと1兆個の天体が存在するともいわれている。

これは、わゆる系外惑星についても同じことがいえる
そうした天体のどれかで万が一にも生命が確認され、そのDNAなどの解析が進んで判明したとき、地球だけが生命誕生の天体ではなく、あまねく宇宙には生命が満ちあふれていることも推測されるし、地球だけではなく宇宙における生命の起源解明にもつながる可能性すら秘めているのだ。

そうすれば、「アストロバイオロジー=宇宙共通原理としても生物学」が大きな意味や価値を発揮する。

あ〜、やはり早くエンタープライズ号ができないかな。
完成すれば、宇宙探査(スタートレック)が格段に進歩するぞ。そうしたときに生きていて、その時代や社会の到来を見てみたいものだ。

また、昨今では大きな話題となっているシンギュラリティ(技術的特異点)であるが、高度に発達したAI(ロボット)が誕生したときにも、人間にとって生命とはなにかという哲学的かつ科学的な命題が突きつけられるだろう

高井先生の話しは聞いているだけでワクワクするし、好奇心とイマジネーションがとても刺激される
先生ご自身は、だれもやらないことに意義を感じ、せざるをえない動機、つまり初源的なもの、根源的ななにかに突き動かされていると仰っていた。
それはまさしく科学者としてパトスだろうし、自己欲求や自己実現の究極の姿かもしれない。
私自身も常に好奇心を持って生きているし、それがある意味では自分の原動力、もっといえばレゾンデートルだと勝手に思っている(^_^;)。

成功するか否かは不明だが、好きなことを追求して生きていくのは茨の道である。この世の中で、もっとも困難なことは意志的に生きることだと私は感じている。

もとより、しがらみに悩みながら生きていくのも辛いしストレスだぞとの声が聞こえてくるし、それも一理はあるのを認めるのにやぶさかではない。
しかし、私は実感的に断言できる。それでも大組織の中でその一員や歯車として、誰かの判断や決定に従って行動や選択している方がある意味では楽だと(キッパリ)。

私は、最近、都職員として8年間勤めた職を辞して福祉作業所を立ち上げた人の記事を読んだ。
こうした道を選択する方が、不平不満だけを言いながら都の職員職にしがみついて生きるより、遥かに険しい道を歩むことになるだろうことは、だれにでも容易に理解できることだ。

人はなにか課題や問題を前にしたとき、できる方法を探すのは遥かに大変だし困難だが、できない理由を答えるのは簡単で楽だし、それが一般的な習性だというのは否定のしようがない事実だ
これは例えてみれば、“GOTHAM”のゴードン刑事の生き方を選択しようと人は望まないだろうが、それでもあえてその茨の道を選択する人はいるとうことだ(^_^;)。

ところで、講義後、私が高井先生にエンケラドス(土星)とエウロパ(木星)、そのどちらにより生命の存在する可能性が高いとお考えですかと質問したところ、エウロパと実は返答があったことも付け加えておこう(^_^)。


■短期的な利益か、それとも意義と価値かーー難しい問題

また、短期的な現世利益(リターン)か、長期的でしかもリターンがあるか否かわからないものに投資するのかという、二者択一の選択の問いかけが先生からあった。

私は、後者が自分自身の価値観と生き方だと思うが、機関投資家のようにすぐに利益を得られるのかを選択するのは、その人の価値観や生き方であると思う。

もちろん、どちらだけしか存在しないのはバランスを欠くとは思っているし、現状の経済活動を円滑にするのは難しいだろうことも理解できる。
エンタープライズ号のピカード艦長の言う「24世紀には、お金ではなく人類の成長のために働く。」というのが当たり前な世界システムが、一刻でも早くできあがるようになるのがもちろん理想だと私個人は思っている。

今回、高井先生の講義に参加したのは、もちろんテーマに最も関心があったからである。
しかし、テーマによる講義だけではなく、様々な気づきやヒント、学びと確認がある非常に貴重な体験だった。人は何に影響を受けて生き方を決めるのか、キャリア形成に対する考え方、人生の様々な段階(レイヤー)で出会うセレンディピティや運(チャンス)などのとらえ方などだ。

かのゲーテは、たった1冊の書(本)がその人の人生を変える、というような主旨の発言を確かしていたように記憶している。なにかに気づく、発見する、ヒントをえる、影響を受ける、さらには開眼や啓示を受けるようなとき、それが人、音楽か映画、あるいはマンガやアニメである場合もあるだろう。

たとえそれがどのようなものに基づく体験であれ、なにかを学ぶ人、気づく人というのはなんでも栄養として吸収したり養分とするものなのだ


■これまで参加して感じていること

さて、高井先生の白熱講義は、私個人にとってはこれまでの中でも特に印象深く興味の尽きない講義だった。
SCHOLARは、聴講するだけの講義や拝聴するだけのありがちな20世紀的セミナーや講演会とはまったく異なる。
例えてみれば、今日の「アテナイの学堂」のような気がする(ちと大げさか^-^;)。

毎回の講義は、普段ではめったに聞けない話や内容であり、またこうした場がなければ会う機会やご縁をえることが叶わない人たちだ。刺激的で私の好奇心をそそるテーマや内容だからこそ、都合がついて可能な限り参加している。

しかし、学生(大学院生)もいるが、参加者の多くはほとんどがビジネスパーソンつまり社会人である。職種や年齢、キャリアやバックグラウンドも異なる多彩な人が集まっている。

したがって、テーマによる講義がもちろん最重要なのだが、それだけではなく、講義内容から参加者が様々な気づきや発見、自分自身で持ち帰れる“なにか”があることが理想的なのだと実感した。もちろん、すべての講義が常に同じというわけにはいかないだろうが。

もっとも、同じ本や映画を見ても、すべての人がそこからなにかを学んだり気づきえる(厳密には引き出せる)わけではない。やはり、人それぞれである。「本の半分は、読者によってつくられる」との格言もあるくらいだ。
だから、それは提供者側の課題でだけではなく、その半分は参加している私たち姿勢や心構えに実はかかっているいるという自覚も、また大いなる真実であるのだ。

例えば、スピルバーグ監督作『ジュラシック・パーク』(93年)と『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』(97年)は、恐竜のCG技術ばかり注目されたが、隠されたテーマは高度なバイオテクノロジーを持つ科学者と、資本制社会においてそれを支援する企業との関係性(あり方)について、実は問題や極めて示唆を与える作品として提示されているのだ、という視点で見ることもできるだろう。

いづれにせよ、新しい試みなので試行錯誤はあるだろうが、SCHOLARにはこれからも期待したい。

さて、次回のSCHOLARは8/28(金)の開講で、初の週末開催となる。
「21世紀を変える数学の可能性」をテーマに、九州大学理事・副学長、マス・フォア・インダストリ研究所教授若山正人さんをお迎えしての講義だ。
ま、まずい。なんと、私のもっとも苦手な数学の登場だ。はたしてついて行けるのか、いまから心配だ(~_~;)。

(1)九州大学 マス・フォア・インダストリ研究所
http://imi.kyushu-u.ac.jp/~wakayama/index.html

(2)「数学の博士を広く世に送り出すことは疑いなく社会に役に立つ」(若山正人さんのインタビュー)
http://globe.asahi.com/feature/100201/side/01_06.html



(関連リンク)
▼JAMSTEC(深海・地殻内生物圏研究分野)
http://www.jamstec.go.jp/sugar/j/

▼プレカンブリアンエコシステムラボラトリー
http://www.jamstec.go.jp/less/precam/j/

▼高井研「まだ見ぬ生命を深海・宇宙に求めて」(JAXAインタビュー)
http://www.jaxa.jp/article/interview/2013/vol78/index_j.html

▼第11回 高井研:私を氷衛星地球外生命探査に連れてって(前編)
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20140708/406546/

▼第12回 高井研:私を氷衛星地球外生命探査に連れてって(後編)
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20140708/406546/

▼「ついに発見!? 地球外生命に挑む科学者たち」(NHKクローズアップ現代)
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/d13)etail02_3639_all.html

▼「高井研「極限・宇宙生物学〜生命の起源はどこにあるのか」(13年12月6日)
https://www.youtube.com/watch?v=RDniq-rhyvE

▼イノベーションに欠かせない「好奇心ドリブン」の学習法
https://mirai.doda.jp/series/point-of-view/planned-happenstance-learning/


▼福祉作業所に革命を起こす 元東京都職員が職を投げ打ってのチャレンジ
http://www.huffingtonpost.jp/jun-hori/handicapped-work_b_7829432.html?utm_hp_ref=japan-society


(おすすめブログ)
●生命体存在の可能性が高い太陽系内の衛星についての「まとめ」
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/1899843.html

●MITベンチャーフォーラムーー「新産業・新技術ベンチャーカンファレンス」に参加して
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/1896886.html

●"コロンブス指数"で「30年後の普通や常識を考える」ーーSCHOLAR.professorに参加して
http://blog.marketing.itmedia.co.jp/macume/entry/730.html

●アオヤマの学堂:SHOLARイベント
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/cat_50673.html

●近未来像を見る[宇宙/ロボット/SF]
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/cat_35550.html

────────────────────────────
「ハイ・コミュニケーション私論」〓 ( ITmedia )
────────────────────────────

生命体存在の可能性が高い太陽系内の衛星についての「まとめ」

AS20150311005624_comm

私的公開日誌@
ウェブ暦:150710.01

本日(7/10)、東京は太陽のありがたみを実感する天気だった。
24分。これは、昨日、気象庁が発表した7月1〜9日までの日照時間の合計だ。合計で30分未満、1日ではない。7月になってから、ずっと雨続きやどんよりした曇りの日々が1週間以上も続いていたのだ。
私たち地球に生き物にとって、太陽の恵みはありがたいものだと本当に感じる(実際には強力なプラズマの放射線で危険なのだが)。

さて、いよいよ来週「宇宙週間」がやってくる\(^O^)/。
これは、いわゆる宇宙科学技術が人類の発展に貢献したことを祝う「世界宇宙週間」(10月上旬)、あるいは国内で「宇宙の日」と公式に制定されたものとはなんの関係もなく、私が勝手にそう決めているだけなのだ。

7月13日(月)、SCHOLARではJAMSTEC(海洋研究開発機構)で深海の極限環境生物の研究職、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の客員教授として地球外生命探査にも携わっている高井研さんをお招きし、「なぜ微生物学者が地球外生命体を探すのか」をテーマに講義が行われ、もちろん私も参加する。
直接質問したり話しができるなんて、なんという幸運なのだろう。
 
私が所属する惑星連邦や艦隊アカデミーではこうしたことはあたり前だが、21世の現在ではめずらしく貴重な機会である。

7月14日(火)、9年半、約50億キロの長旅のはての日本時間の21時ごろ、探査機「ニューホライズンズ」が冥王星へ最接近する時がやって来る。
もちろん、「ニューホライズンズ」が冥王星に近づくことで、新しい発見があるかも知れないが、周回軌道による観察ではなくフライバイ(通過)だけなので、観測時間は極めて限られている。チャンスは一度きりだ。
ひょっとすると、CNNなどの海外メディアではニュース速報が入るかもしれないので、そうしたチャンネルを見られる人はチェックしよう。

今回のブログは、13日(月)の高井先の講義はその地球外生命体についての話しが中心となる様子なので、それに先立ち、予習として太陽系内で生命体が存在する可能性が高い衛星についての「まとめ」をお届けする。
当日参加する人たちは、これで予習してから参加しよう。もちろん、残念ながら参加が叶わない人たちも。

今年の3月、日本人を中心とする研究チームが、氷で覆われた土星の衛星エンケラドス内部に「熱水」が存在するという研究成果を、世界5か国から集まった科学者たちの前で発表し、地球以外で初めて「水・熱・有機物」という生命誕生に必要な3要素を確認した。

その土星の衛星エンケラドスは、太陽系内で地球以外に最初に生命体が発見される天体になるかもしれないのだ。
同じ土星最大の衛星タイタンは、衛星ながら厚く濃い大気層に包まれ、04年にタイタン表面に着陸した探査機「ホイヘンス」により、メタンまたはエタンの雨が降り、川・湖・海などが存在していることが判明している。

一方、太陽系最大の惑星、木星の衛星エウロパにも同じように氷の下には海があると推測されている。

つまり、そうした様々な天体環境(この場合、衛星)で、生きいている極限環境微生物のいる可能性が高いということを示唆している。

20世紀中、かつて地球のとなりの惑星である火星や金星の実態がわかっていなかったころ、両惑星には生命体がいると信じられていた。

しかし、今日では両惑星に生命体が存在することの可能性が低いことは一般の人でも知っている。火星の場合、まだ発見されていないが、地表下に極限環境微生物がいる可能性はまだ残されているが、金星は太陽系でもっとも熱く灼熱地獄(450℃)で生命体が存在できる環境がないことは判明している。

火星や金星の実態がわかったとき、太陽系内の惑星に生命体が存在するのは、やはり地球だけだと思われていた。
ところが、21世紀になり、実はなんと木星と土星の衛星に生命体存在の可能性が発見されたのだ。

これはハッブル宇宙望遠鏡による様々な発見と同じくらいに学会を驚かせた。
宇宙は広大過ぎる。宇宙全体の95%を占める暗黒物質(23%)と暗黒エネルギー(72%)だが、いまだに触れることも見ることもできないし、それがなぜ存在しているのかもわかっていはいない。
宇宙には、まだまだわからないこと、発見されていないことの方が圧倒的に多いのは厳然たる事実だ。

ちなみに、太陽系内の衛星で生命体が存在する可能性の高いトップ4は以下の衛星。

(1)エンケラドス(土星)
(2)エウロパ(木星)
(3)タイタン(土星)
(4)ガニメデ(木星)

すべて木星と土星の衛星だ。
系外惑星や衛星の生命探査は、ワープ航法が実現できていない現在ではエンタープライズ号ができるまで待つしかない(^_^;)ので実際には難しいが(冥王星なら、地球からランナバウトとでも行ける距離だが)、現時点では太陽系内であれば20年以内にはたぶん生命存在の証拠がつかめるように思う。

なんとか一刻も早く、地球外での生命体の発見がなされることを心底願うばかり。
なお、この13日(月)の高井先生の講義は、メンバー以外でも宇宙に興味のある人はどなたでも参加が可能。まだ席の用意はあるようなので、参加希望者は下記から急いでお申し込みを。

★7/13(月)「なぜ微生物学者が地球外生命体を探すのか」 by 高井研


(エンケラドス)
・土星衛星、生命が育つ環境 海底の熱水でできた物質確認
http://www.asahi.com/articles/ASH3B5GMSH3BULBJ00J.html

・土星の衛星エンケラドスに生命の新たな可能性
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20150312/438954/

・エンケラドスの地下海に熱水環境
http://www.astroarts.co.jp/news/2015/03/12enceladus/index-j.shtml


(エウロパ)
・木星の衛星エウロパに生命は存在するか 
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK23024_T20C14A6000000/

・木星の衛星「エウロパ」に巨大な湖、生命存在の可能性高まる
http://www.cnn.co.jp/fringe/30004625.html


(タイタン)
・土星の衛星タイタンに「エタンの湖」を確認、生命の可能性も?
http://bit.ly/1D4qt0J

・タイタンのアストロバイオロジー探査 - 日本惑星科学会
https://www.wakusei.jp/book/pp/2011/2011-2/2011-2-094.pdf

10年前の土星衛星タイタン着陸を、2分で振り返る動画

(ガニメデ)
・木星の衛星ガニメデに奇妙な膨れ発見、海の証拠か
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/033000021/

・木星の衛星ガニメデ、地下に水 「生命の可能性さらに」
http://digital.asahi.com/articles/ASH3F21X9H3FUHBI001.html

・ガニメアンはいるのか? 木星の衛星「ガニメデ」の地下に大量の水
http://thepage.jp/detail/20150316-00000005-wordleaf


【おすすめブログ】
●ついに夢のような「宇宙の週」がやってくる、ヤア、ヤア、ヤア!!!
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/1899718.html
記事検索
ネットサービス
広告・マーケティング
銀河英雄伝説コンプリート
マーケティング書籍
Twitter Widget
livedoor プロフィール

macume

TagCloud
  • ライブドアブログ