私的公開日誌:ウェブ暦@150330.01
それはまるで「神の采配」としか思えない。ジョブズとアイブとの出会いのことだ。それが、本書を読んだ第一印象である。
iMacにはじまる今日のアップル社の快進撃と隆盛は、スティーブ・ジョブズひとりに帰せられるものではない。
ジョブズ、現CEOティム・クック、本書の主人公であるジョナサン・アイブとが三位一体となり、アップル帝国をつくり上げたという方が正しいだろう。
私は、勘違いをしていたのだが、アイブの名が特に知られるようになったのはここ数年で、その最初が98年の初代iMacからのデザイナーだと思っていたのだが、実はそれよりずっと前から同社のデザイナーだった。
本書は、故ジョブズの“魂の継承者”たるジョナサン・アイブの英国時代の若かりしころから、アップル社でだれよりも権限を持つほどの存在になるまでを綴った本だ。
全13章のうち、彼の英国時代が3章まで、アップル社時代が4章からで、特に故ジョブズとの関わりがあり読み応えのあるのが5章からである。
■高校時代からその“天賦の才”を発揮
アイブは、すでに高校生のころから頭角をあらわしその才能は際立っていた。
彼は、英国王立芸術協会(RSA)のコンテストで、賞を2回も受賞した初めての学生だった。高校時代に1回、大学時代に1回。
大学の学費は、当時の英国屈指のデザイン企業RWG(ロバーツ・ウィーバー・グループ)が学費を援助した唯一の学生であり、大学時代にはそこでインターンもしていた。
大学を卒業するころには、すでにプロの世界でもその名を知られていたほどだった。
アイブ自身、コンピュータにはなじまなかったそうだが、1987年、Macintoshと出会ったことが、その後の彼の運命の導きとなる。
大学卒業後、そのRWGに入社してプロとしてのキャリアをスタートさせた。
そこでは、世界各国の大手企業からの仕事を引き受けていたが、景気の悪化から同社をやめることになった。
その直後、ロンドンにあるデザイン企業Tangerine(タンジェリン)に加わった。
RWG、タンジェリン時代は、世界の有名な大手企業のプロダクトデザインをいくつも手がけたが、そうした中には日本企業も数多くあった。
1991年、ロバート・ブルーナーがそのタンジェリンを訪問する。
ブルーナーは、当時のアップル社内にデザインスタジオ(IDg)を開設し、デザイン責任者におさまっていた。
89年、アイブが大学を卒業したてのとき、RSAの賞金で米国旅行に出かけた。その際、カリフォルニアを訪問してブルーナーと知り合った。
ブルーナーは、優秀なデザイナーを探して欧州のデザイン会社をいくつも訪れていたのだが、もっとも関心をもっていたのがアイブであり、どうしても彼をアップル社にスカウトしたいと切望していた。
アップル社はタンジェリンと契約したが、最終的な正式な製品には到らなかった。
92年、ブルーナーの誘いを受け、アイブは妻とともに米国に渡りアップル社に入社する。彼は27歳だった。
■アップル社ーージョブズとの出会い
アイブが最初に手がけたのは、当時PDAといわれ、これからの時代を担う製品とまで称されていた2代目のニュートン・メッセージパッドだった。
その後、97年、アップル20周年記念限定製品として販売されたMacintosh「スパルタカス」のデザインにも携わった。
しかし、アップルの業績は回復せず、倒産まであと3ヶ月となったとき、ジョブズが劇的に同社に復帰する。アイブ自身、この時点では実はアップル社を去って英国へ帰国することを考えていた。
ジョブズ復帰が発表された日のミーティングの場で「僕らの目標は金儲けではなく、偉大な製品を作ることだ」というジョブズの宣言で思いとどまる。
ジョブスは以下のようにも語った。
「アップルが市場の支持を失ったのは、顧客の本当のニーズに集中せずにすべての人にあらゆるものを提供しようとしたからだ。」
そうして製品ラインアップを含め、大胆な集中と選択(リストラ)を断行する。その中にはアイブも手がけてきたニュートン・メッセージパッドも含まれていた。
我が国でも集中と選択(リストラ)というのは行われるが、それは自社の都合で行われることがほとんどだ。ジョブスは、それではダメなことをわかっていたのだろう。
製品のコンセプト自体から作り直し、顧客にとって何が最良なのかを根本から考え直した。
当初、ジョブズは外部の著名デザイナーを探していた。アイブのことなど知らなかったのだ。
しかし、しばらくしてデザインスタジオを訪問したとたん、そこに並べられていたプロトタイプの数々を見て驚き、アイブと意気投合してその後はこのスタジオに入り浸りになる。
そしてiMacが誕生する。
しかし、発売された当時、特にフロッピーディスクドライブを非搭載としたことが批判された。それについて、アイブは以下のように語る。
「フロッピーディスクドライブは、古臭い技術だ。批判は承知しているが前進に摩擦はつきものだし、進化が段階的に起こるとは限らない。」
別に日本企業でなくとも、通常であれば役員会では承認されないだろう製品だ。役員の誰かが「フロッピーディスクドライブはあった方がいいだろう」といえば、その通りだと他も常識的な同意するだろう(ないよりはあったほうがという意味で)。
そうして、いくつものほとんど使われないような機能までつけた製品が開発される。
しかし、iMacは大ヒットして、ここからアップル社の復活劇が始まる。
Macintoshが最初につくられたとき、それまでのようなコマンドを打ち込んでコンピュータを操作する専門家以外の人たちのためのコンピュータという意味で、“The Computer For the Rest of Us.”(普通の人々のためのコンピュータ)をコンセプトに掲げていた。
実は、iMac購入者の32%が初めてPCを購入し、12%がWindowsから乗り換えだった。
そのポップな筐体からおもちゃのようだとも評されたが、iMacはそのコンセプト(原点)へ回帰するようなマシンだった。
その後のiPod、iPhone、iPadもそうなのだが、発表時はさんざんな評価だったがこれらの製品はいずれも大ヒットし、それまでPCやそうしたデバイスとは無縁な多くの人たちを魅了し、結局は競合他社も追随することになる。
ジョブズは、日本でもベストセラーとなったウォルター・アイザクソン著『スティーブ・ジョブズ』(講談社刊)の中で、アイブについて以下のように語っている。
「アップルでジョニー以上に業務運営の権限を持つのは私だけだ。彼に支持を与えたり、口を挟んだりできる人間はいない。私がそうしたからだ。」
「アップルの魂をだれよりもよく理解している。僕に精神的なパートナーがいるとしたら、それはジョニーだな。」
ジョブズが、いかにアイブを信頼しきっていたかがわかる。
そいういう意味では、アイブこそ、ジョブズの精神を体現している後継者であり、唯一無二の存在で換えのきかいない人物であるには違いないのだ。
しかし、この間がすべて順調だったわけではない、アイブと当時の上司との軋轢や葛藤、エンジニア部門との対立など、いくつかはまるでドラマさながらのエピソードのように本書でも紹介されている。
また、デザイナーがはたす役割は、素材選び、工法や工程などの製造技術まで含めた仕事だということがよくわかるだろう。
これから、プロダクトデザイナーを目指したい人には、様々なヒントや気づきを提供してくれる点が多いのも本書の特長である。
本書の著者は、以下のように締めくくっている。
「iMacに始まったジョニーとジョブズとのコラボレーションは、歴史上もっとも豊かに実った創造的パートナーシップといっていいだろう。ふたりは力を合わせてアップルのエンジニアリング主導の文化を覆し、すべてがはるかに融合されたデザイン主導の手法を築き上げた。そのこでは、ハードウェア、ソフトウェア、広告も含めた創造的なエンジニアリングという意味での「デザイン」がアップルのすべてに沁み込んでいた。」
歴史に「れば・たら」はないが、もしアイブがアップルに入社しなかったら、これほどの復活劇と大成功はなかっただろう。
アップル社のデザインでは、これまではフロッグデザインのヘルトムット・エスリンガーが有名であった。その彼は『デザイン イノベーション〜デザイン戦略の次の一手』(翔泳社刊)を著している。
いつの日か、アイブも自身のデザイン哲学と秘密を同様に語る本を著してくれるだろう、と期待したいものだ。
(関連リンク)
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