私的公開日誌@180926.01
(前編より続く)
■AIによる経営戦略の「日用品化」とマーケティングにおける「独自性」
AI社会が到来すれば、リアルデータに基づくデータ分析から導かれる最新の経営戦略(これにはマーケティングも含まれる)が常時更新され続けることになり、なにも大企業でなくともそうしたAIが提示する戦略に基づいた意思決定がビジネスでは日用品となるだろう。同一業界や業種、似たような経営資源、同じような製品群やサービスが群雄割拠している製品・サービス市場では、それはもはやAI vs AIが舵を取る企業戦略による戦いの様相を呈することになるかもしれない。
AIによるいくつかの選択肢が用意され、そのオプションからもちろん最終的には人間が判断するのだろうが、どれほど合理的な選択肢を用意しても判断して行動するのは人間なのでその合理性に必ずしも従うとはかぎらない。正しい選択肢といえども、人間にとってときにはその決断(判断)が難しいこともある。AIによる経営戦略が常態化して論理的で合理的な戦略だけでは差別化が難しくなったとき、むしろ合理的ではないかもしれない思いもよらぬ人間的な感性や視点(発想・着想)が差別化ーー厳密には独自性=differetiationーーを発揮することになかもしれない。
私は米国の大学の事情に通じているわけではないが、昨今の米国の経営学(MBAなど含む)では最新のデータ分析手法や数理モデルによる経営戦略論が主流で、ドラッカーなどは“過去の人”ということで教えないし学んでもいないというような記事をどこかで読んだことがある。しかし、そうした今日的な最新手法は人間ではなくいずれAIに代替されるだろう。“社会生態学者たるドラッカー”のように人間への鋭い眼差し、社会への深い洞察に満ちた考え方(哲学)こそ、今後も古典としての価値を高めて残っていくし学ばれ続けるはずだ。
なんでもかんでも合理的かつ論理的に帰結(結果)を提示してくれるAIだが、たとえば大学生の就活に活用されるように活用されことを考えてみよう。
だれでも就活時期には悩むものである。就活時、大学だけではなくこれまでの学業成績、適性検査から趣味などもふくめた全データをもとに、その当人にとっての最適な職種や企業をAIが判定して提示してくれるとしたら、人はそうしたAIの診断に従って職業や企業を選択するようになるのだろうか。人間の自由意思はどのようになってしまうのだろうか。就職という一生にかかわる(最近はそうでもないが)重大な問題を、はたしてAIの判断に委ねてもよいものだろうか。いくら合理的かつ整合性があるとしても、はたして人はそれで割り切れるものだろうか。
それによって就活への悩みや問題が解決するとは、私にはどうしても思えない。人はいくらでも論理的に思考することはできるが、基本的には感情をもつ複雑で矛盾する不合理な生き物である。
採用する側にとっては、応募者をすべてAIによる書類審査で行えば最終的に絞り込んだ人だけを面接すれば済むという効率だけの問題で、それ自体は大幅な負担軽減になるだろう。ただし、ここで課題となるのが機械に理解できないことのひとつ「相性」(英語では“Chemistry”)というものがある。
これは人間であれば避けられない。たとえば、人間関係で仲良いことを等号式(イコール)であらわすと仮定してA=B、B=CであればA=Cとなる。だが、これは実際の人間関係では必ずしもA=Cが成立しないことは、誰でもが経験的に実感している。人間関係は方程式では計れないからだ。
それでも、最近では「HR(Human Resources)テック」ということがいわれているので、将来にはAIによる人材アセスメント(Human Assassment)が常識になるかもしれない。
■指数関数的成長とかつての宇宙開発競争
本ブログに締めくくりに、シンギュラリティは来ない(避けられる)、AIは脅威たりえないという見解につても考えてみよう。
残念ながら、私はこの件については自身で語れるだけの知識や情報に乏しい。私が知っていることといえば、AI研究者で起業家でスタンフォード大学でも講義するほどのジェリー・カプランは、AIは脅威論をしりぞけている一人だということくらいだ。彼は、AIはオートメーションの延長であり、それが人間の仕事を奪うことはなくまた仕事も時代の変化とともに変わる。テクノロジーの進歩でオートメーションの高度化が進んでも、それに代わる新たな仕事が誕生するものだと語っている。産業革命時にも同様なことがいわれたそうなのだが、結局は時代の変化に対応しそれに代わる新たな仕事が誕生(ビジネスと雇用)することで今日にいたっているということも、私たちは忘れてはならないだろう。
スピードと変化の早い今日、ビジョンの見えない状況の中で悲観論と楽観論の言説が飛び交っている。シンギュラリティ教の主張するようなことは、21世紀半ばになってもおきない可能性もある。いずれにせよ、いまよりずっとAIに依存した社会であり、それなしには生活が難しい状況となっているだろうことは推測できるし、それは私が考えている「意図せざるAIによる統制社会」ということになるかもしれない。
しかしながら、このシンギュラリティは来ないという見解について、私はなにがしかを述べるだけの知識も情報もまったく不足している。いずれにせよ、近未来にはテクノロジーの「使い方」ではなく、それとの「付き合い方」という問題が浮上してくることだけは確実だ。
これについては、私の友人であり目標としているブロガー“風観羽”が投稿した「日本的シンギュラリティ待望論を超えて」のブログをお読みいただく方が、私が語るよりずっと示唆と満ちてヒントを得られるだろう。恥ずかしながら、私は同ブログでも取りあげられている数学者の新井紀子著書『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』をいまだに手にしてはいない。
ところで、この問題で私が思い出すのは第二次世界大戦後の米ソ冷戦下における両国とくに1960年代の宇宙開発競争だ。
1961年、旧ソ連が人類初の有人宇宙飛行を成功させ、ガガーリンの「地球は青かった」という名句とともに一躍世界を駆け巡った。米国は同じ1961年、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが1960年代末までに人類を月へ送り込む「アポロ計画」を発表し、その公約どおり1969年7月、人類初の月面着陸(アポロ11号)を成功させ、こちらも「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」というアームストロングの名言が歴史に刻まれた。
一方、1960年代は旧ソ連では金星探査「ベネラ計画」を繰り返し、1970年12月にベネラ11号で人類初の金星着陸を成功させ、米国も負けじと火星探査「マリナー計画」で競うような時代だった。
こうした時代背景を象徴するかのように、1968年のキューブリック監督の『2001年宇宙の旅』が公開された。1960年代後半からみれば、2001年(33年後)は遠い未来で地球軌道上に宇宙ステーションがあり、21世紀ともなればディスカバリー号で木星探査くらい可能なように中学生当時の私には思われた。1980年のSHADOムーンベースは無理だろうが90年代後半にはそれも可能のようにも感じられるほど、米ソの宇宙開発競争は加熱し急速に進歩していた。当時の“指数関数的”な米ソの宇宙開発競争を勘案すれば、遥か未来のことのように思われたが、21世になれば映画のような宇宙ステーションも可能だろうと信じていた。
しかし、実際に2001年を経験してみると、映画と同じような快適な宇宙ステーションもなければムーンベースも実現できていない。さまざまなSF映画で描かれたようなイメージとはほど遠い、今日の私たちの社会やライフスタイルである。もちろんこれは1970年代以降、莫大な予算がかかる宇宙開発が縮小されたこともあるし、3日ほどで到達できる月とは違い火星までは現在の技術でも最低でも90日はかかる。加えて、宇宙ではさまざまな宇宙放射線を浴びるリスクが高いなど、いくつもの困難な要因があることも事実だ。NASAでは「2030年には火星に人類を送る」と発表しているが、それも実現的には難しいだろうと私個人は判断しているのだが……。
つまりなにが言いたいかというと、ある時期にはなにかの要因や理由で急速な進歩をするが、それがそのまま加速度的に持続するとは限らない。どこかの時点で、それが減速する可能性もありうるということなのだ。ある一定の量または質に達すると同様(質的な変化)の現象が起こる。弁証法的量質転化の法則は、何事についてもいえるのだ。これは経済成長はもとより、なにかの習い事(練習)や各種スポーツ競技でも同様で、それがAI開の発達速度ついてもいえるのではないかということだ。
したがって、いわゆる2045年のシンギュラリティが到来しないこともあり得るわけだ。もちろん、かつての宇宙開発競争とテクノロジーの進歩とを同列に語ることができないことは百も承知している。AIが人間の手を離れて「自律的な進化」をするという見解もあるが、それについては私は確信をもって述べることが残念ながらできない。ただし、それでも時期は遅れても遠からずやがてどこかで直面するだろうことは、私個人は否定はできないと思っている。
■“Digital Ambient Society”から“AI Ambient Society”へ、そしてコミュニケーションとメディアビジネスの未来
私はここ数年、現在はDigital Ambient SocietyとそれがもたらすCommunication Metamorphoses社会であるとと繰り返し述べてきた。それは常にネットにつながりリアルとオンラインとが融解し、社会生活のあらゆる環境がメディア化され、とくにそれとは意識せずにデジタルな環境に囲まれて生活しコミュニケーションしている状態のことで、それにともなってコミュニケーションも劇的に変化するということだ。
しかし、今後数十年でそれはAI Ambient Societyへと進歩するだろう。つまり、日常生活においてAIを介して全世界と常時接続した利用が常態化している社会=環境のことで、これはシンギュラリティが数十年後に来るか否かにかかわらずそうなる。
約10年前(2009年)、私は今日PCと呼ばれているツールは使う人はかなり特殊な人たちだけに限定されるだろうと述べた。一般消費者は、今日私たちが呼んでいるようなPCを持つ理由自体がとくに一般の消費者にとってはなくなるだろうと。この10年で、デジタル端末はPC主体からスマートフォンへと取って代わった。今後はビジネスパーソンですら、人によって業務の必要性から持ってもせいぜい各種パッド(タブレット)くらいになるだろう。
将来、いま主役のスマートフォンですら別のより小型の機器に代替されるかもしれないし、いまの時点ではまったく想像できない機器かもしれない。一般の消費者が生活するにはそれで十分な環境が提供されているだろう。
さて、今後のコミュニケーション(広告・宣伝、PRなど)やメディアビジネス(四大媒体など)はどのようになるだろうか。米国では、ここのところメディア業界の再編が大きなニュースだ。デジタル(インターネット)とグローバリズムの発信源である米国では、ドラスティックかつダイナミックにコミュニケーションやメディア業界も大激変とそれにともなう再編が流動的に行われている。
私がまだ広告代理店の傭兵(請負)マーケターだったころ(1980年代後半から90年代前半)に比べると、米国広業界の大変動は凄まじいものがある。かつては、マディソンアベニュー街で群雄割拠していたかつての大手の広告代理店も、今日では世界のメガエージェンシー・グループの「ビッグ4」(WPP Group、Omnicom Group、Ublicis Groupe、Interpublic Group)のいずれかの傘下に属している。これはたとえてみれば、日本でもかつて13行あった都市銀行が、バブル崩壊やグローバリズムの激変で現在の4グループに収斂したのと似た状況だろう。
その善し悪しとは別に、国内の広告代理店業界はこうした大激変に巻き込まれない静かな状況(ひとり蚊帳の外、という見方もできる)とは対照的である。ただし、AIの進展しだいでは、今後の日本のコミュニケーションやメディアビジネス業界も大変動に見舞われることは避けられない。国内も米国と同様に成長あるいは生き残りのため、業界内または業界を超えた再編やM&Aによる統合・合併など可能性は十分にある。
ところで、8月にスマートニュースが研究所の設立を発表した。研究所というと、これまではシンクタンクとも呼ばれて政府や大学、民間(それも)大企業などが創設するもので、各種専門家の英知を集めて調査や研究を行い、コンサルティングから政策提言などもする機関という印象があるだろう。国内の広告代理店でも、大手はみなそうした機関(組織)を有している。
しかし、これからは小さな組織でも研究部門(ラボ)が必要とされるだろう。従来の研究機関のように広く社会の課題や諸問題について総合的に調査・研究をする大きな組織は必要ではなく、自社の事業領域にフォーカスし、かすかな兆候から様々に社会の変化や行く末を洞察して研究したり全体像を描くための部門や人材が必ず必要とされてくる時代になると私は考えている。
啓蒙主義が登場して以降、ある意味では必然なのだが、人は理性的でありすべてについて合理的に考えるものあるいははずだと認識してきたように思う。科学や技術が進展すればするほど、それにつれて人間の精神も進歩するはずだという考え方で、近代とは啓蒙主義的な思想は“原則正しい”と暗黙知として受容してきた歴史ともいえる。
しかし、今日の世界さまざまな情況を見わたせば、この考え方(認識)を支持する人はもやは少ないのではないかとさえ感じる。人間を理性的な存在ととらえ、その精神(認識)への無謬性を信じる進歩史観はすでに破綻している。人間は太古のむかしから戦争を繰り返してきたし、いまでもそうした人間の愚かしさや不合理な存在であることも、また変わっていないしそれを忘れてはならない。
ポストモダン。我が国では1980年代に誰も彼もが口にした言葉でこれはすでに言い古されたものなのだが、それによって新たな理念を私たちが手に入れたわけではないことはおそらく誰でもが認めることだろう。この考え方は、誰もが当たり前のように受容し信じてきた近代主義的(それは同時に啓蒙主義的)な考え方に異議申し立てをした点では意味があったのだが、それに取って代わる新しい理念を残念ながら創出あるいは提示するにはいたらなかった。
いつの日にか、「ノー・デジタル(AI)・デー」という日が制定され、その日には1日デジタルツールをすべてシャットアウトして過ごすというような日が訪れる(制定される)かもしれない。紙の本を読んで、万年筆で革製表紙ノートに手書きする、検索に頼らず自身で思索するなどの行為は、とてつもなく貴重で贅沢なことになるかもしれない。
ところで、片山恭一さんの300年前(18世紀)と300年後(24世紀)の選択だが、私なら迷わず知ることも学ぶこともできない後者を選ぶ。24世紀といえば、『新スタートレック(TNG)』の世界ではないか。それだけでもワクワクする。
今日でも、ハッブル宇宙望遠鏡やNASAが打ち上げた各種探査衛星(ボイジャー、カッシーニ、ニュー・ホライズンズなど)により、これまで定説と思われていた宇宙に関するこれまでの常識を次々と覆し続ける発見や従来の考え方がことごとく変更を強いられているし、天体物理学者や天文学者もそれを認めざるをえないと。
その広大な銀河で、未知の文明や多種多様な生物に出くわす。このシリーズ(『スタートレック/ディープ・スペース9』と『スタートレック/ヴォイジャー』など)では、天体物理学や各種テクノロジーに関する専門用語、ありうるかもしれない宇宙での現象や事象などが中心なのだが、そのテクノロジーの驚異的な進歩とは対照的にどれほどテクノロジーや科学が進歩した時代になっても、人間というのは結局は同じような問題で悩むものだなと実感するしそれがこの作品の魅力でもある。とくに異なる価値観(文化)と出会ったとき、人はどのように決断し振る舞うべきかを見るものに問いかける。つまり、深宇宙における人間としてのありようが描かれているのだ。
(了)
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