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インターネット、そこはテクノロジーのフロンティア。 これは、コミュニケーションアーキテクトたる“macume”が、新時代のメディアBlogの下に、21世紀において執筆を継続し、未知のネット世界を探索して新しい情報や人との出会いを求め、永劫進化するワールドワイドウェブに自由に公開した日誌である。

AI

来たるべきAI Ambient Societyに寄せてーーシンギュラリティ研究所開設記念の講座を終えて(後編)

青山学院大学総合研究所ビル

私的公開日誌@180926.01


前編より続く)


■AIによる経営戦略の「日用品化」とマーケティングにおける「独自性」

AI社会が到来すれば、リアルデータに基づくデータ分析から導かれる最新の経営戦略(これにはマーケティングも含まれる)が常時更新され続けることになり、なにも大企業でなくともそうしたAIが提示する戦略に基づいた意思決定がビジネスでは日用品となるだろう。同一業界や業種、似たような経営資源、同じような製品群やサービスが群雄割拠している製品・サービス市場では、それはもはやAI vs AIが舵を取る企業戦略による戦いの様相を呈することになるかもしれない。

AIによるいくつかの選択肢が用意され、そのオプションからもちろん最終的には人間が判断するのだろうが、どれほど合理的な選択肢を用意しても判断して行動するのは人間なのでその合理性に必ずしも従うとはかぎらない正しい選択肢といえども、人間にとってときにはその決断(判断)が難しいこともある。AIによる経営戦略が常態化して論理的で合理的な戦略だけでは差別化が難しくなったとき、むしろ合理的ではないかもしれない思いもよらぬ人間的な感性や視点(発想・着想)が差別化ーー厳密には独自性=differetiationーーを発揮することになかもしれない。

私は米国の大学の事情に通じているわけではないが、昨今の米国の経営学(MBAなど含む)では最新のデータ分析手法や数理モデルによる経営戦略論が主流で、ドラッカーなどは“過去の人”ということで教えないし学んでもいないというような記事をどこかで読んだことがある。しかし、そうした今日的な最新手法は人間ではなくいずれAIに代替されるだろう。“社会生態学者たるドラッカー”のように人間への鋭い眼差し、社会への深い洞察に満ちた考え方(哲学)こそ、今後も古典としての価値を高めて残っていくし学ばれ続けるはずだ。

なんでもかんでも合理的かつ論理的に帰結(結果)を提示してくれるAIだが、たとえば大学生の就活に活用されるように活用されことを考えてみよう。
だれでも就活時期には悩むものである。就活時、大学だけではなくこれまでの学業成績、適性検査から趣味などもふくめた全データをもとに、その当人にとっての最適な職種や企業をAIが判定して提示してくれるとしたら、人はそうしたAIの診断に従って職業や企業を選択するようになるのだろうか。人間の自由意思はどのようになってしまうのだろうか。就職という一生にかかわる(最近はそうでもないが)重大な問題を、はたしてAIの判断に委ねてもよいものだろうか。いくら合理的かつ整合性があるとしても、はたして人はそれで割り切れるものだろうか。
それによって就活への悩みや問題が解決するとは、私にはどうしても思えない人はいくらでも論理的に思考することはできるが、基本的には感情をもつ複雑で矛盾する不合理な生き物である。

採用する側にとっては、応募者をすべてAIによる書類審査で行えば最終的に絞り込んだ人だけを面接すれば済むという効率だけの問題で、それ自体は大幅な負担軽減になるだろう。ただし、ここで課題となるのが機械に理解できないことのひとつ「相性」(英語では“Chemistry”)というものがある。
これは人間であれば避けられない。たとえば、人間関係で仲良いことを等号式(イコール)であらわすと仮定してA=B、B=CであればACとなる。だが、これは実際の人間関係では必ずしもACが成立しないことは、誰でもが経験的に実感している。人間関係は方程式では計れないからだ。
それでも、最近では「HR(Human Resources)テック」ということがいわれているので、将来にはAIによる人材アセスメント(Human Assassment)が常識になるかもしれない。


■指数関数的成長とかつての宇宙開発競争

本ブログに締めくくりに、シンギュラリティは来ない(避けられる)、AIは脅威たりえないという見解につても考えてみよう
残念ながら、私はこの件については自身で語れるだけの知識や情報に乏しい。私が知っていることといえば、AI研究者で起業家でスタンフォード大学でも講義するほどのジェリー・カプランは、AIは脅威論をしりぞけている一人だということくらいだ。彼は、AIはオートメーションの延長であり、それが人間の仕事を奪うことはなくまた仕事も時代の変化とともに変わる。テクノロジーの進歩でオートメーションの高度化が進んでも、それに代わる新たな仕事が誕生するものだと語っている。産業革命時にも同様なことがいわれたそうなのだが、結局は時代の変化に対応しそれに代わる新たな仕事が誕生(ビジネスと雇用)することで今日にいたっているということも、私たちは忘れてはならないだろう。

スピードと変化の早い今日、ビジョンの見えない状況の中で悲観論と楽観論の言説が飛び交っている。シンギュラリティ教の主張するようなことは、21世紀半ばになってもおきない可能性もある。いずれにせよ、いまよりずっとAIに依存した社会であり、それなしには生活が難しい状況となっているだろうことは推測できるし、それは私が考えている「意図せざるAIによる統制社会」ということになるかもしれない。

しかしながら、このシンギュラリティは来ないという見解について、私はなにがしかを述べるだけの知識も情報もまったく不足している。いずれにせよ、近未来にはテクノロジーの「使い方」ではなく、それとの「付き合い方」という問題が浮上してくることだけは確実だ。
これについては、私の友人であり目標としているブロガー“風観羽”が投稿した「日本的シンギュラリティ待望論を超えて」のブログをお読みいただく方が、私が語るよりずっと示唆と満ちてヒントを得られるだろう。恥ずかしながら、私は同ブログでも取りあげられている数学者の新井紀子著書『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』をいまだに手にしてはいない。

ところで、この問題で私が思い出すのは第二次世界大戦後の米ソ冷戦下における両国とくに1960年代の宇宙開発競争だ。
1961年、旧ソ連が人類初の有人宇宙飛行を成功させ、ガガーリンの「地球は青かった」という名句とともに一躍世界を駆け巡った。米国は同じ1961年、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが1960年代末までに人類を月へ送り込む「アポロ計画」を発表し、その公約どおり1969年7月、人類初の月面着陸(アポロ11号)を成功させ、こちらも「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」というアームストロングの名言が歴史に刻まれた。
一方、1960年代は旧ソ連では金星探査「ベネラ計画」を繰り返し、1970年12月にベネラ11号で人類初の金星着陸を成功させ、米国も負けじと火星探査「マリナー計画」で競うような時代だった。

こうした時代背景を象徴するかのように、1968年のキューブリック監督の『2001年宇宙の旅』が公開された。1960年代後半からみれば、2001年(33年後)は遠い未来で地球軌道上に宇宙ステーションがあり、21世紀ともなればディスカバリー号で木星探査くらい可能なように中学生当時の私には思われた。1980年のSHADOムーンベースは無理だろうが90年代後半にはそれも可能のようにも感じられるほど、米ソの宇宙開発競争は加熱し急速に進歩していた。当時の“指数関数的”な米ソの宇宙開発競争を勘案すれば、遥か未来のことのように思われたが、21世になれば映画のような宇宙ステーションも可能だろうと信じていた。

しかし、実際に2001年を経験してみると、映画と同じような快適な宇宙ステーションもなければムーンベースも実現できていない。さまざまなSF映画で描かれたようなイメージとはほど遠い、今日の私たちの社会やライフスタイルである。もちろんこれは1970年代以降、莫大な予算がかかる宇宙開発が縮小されたこともあるし、3日ほどで到達できる月とは違い火星までは現在の技術でも最低でも90日はかかる。加えて、宇宙ではさまざまな宇宙放射線を浴びるリスクが高いなど、いくつもの困難な要因があることも事実だ。NASAでは「2030年には火星に人類を送る」と発表しているが、それも実現的には難しいだろうと私個人は判断しているのだが……。

つまりなにが言いたいかというと、ある時期にはなにかの要因や理由で急速な進歩をするが、それがそのまま加速度的に持続するとは限らない。どこかの時点で、それが減速する可能性もありうるということなのだ。ある一定の量または質に達すると同様(質的な変化)の現象が起こる。弁証法的量質転化の法則は、何事についてもいえるのだ。これは経済成長はもとより、なにかの習い事(練習)や各種スポーツ競技でも同様で、それがAI開の発達速度ついてもいえるのではないかということだ。
したがって、いわゆる2045年のシンギュラリティが到来しないこともあり得るわけだ。もちろん、かつての宇宙開発競争とテクノロジーの進歩とを同列に語ることができないことは百も承知している。AIが人間の手を離れて「自律的な進化」をするという見解もあるが、それについては私は確信をもって述べることが残念ながらできない。ただし、それでも時期は遅れても遠からずやがてどこかで直面するだろうことは、私個人は否定はできないと思っている


■“Digital Ambient Society”から“AI Ambient Society”へ、そしてコミュニケーションとメディアビジネスの未来

私はここ数年、現在はDigital Ambient SocietyとそれがもたらすCommunication Metamorphoses社会であるとと繰り返し述べてきた。それは常にネットにつながりリアルとオンラインとが融解し、社会生活のあらゆる環境がメディア化され、とくにそれとは意識せずにデジタルな環境に囲まれて生活しコミュニケーションしている状態のことで、それにともなってコミュニケーションも劇的に変化するということだ。
しかし、今後数十年でそれはAI Ambient Societyへと進歩するだろう。つまり、日常生活においてAIを介して全世界と常時接続した利用が常態化している社会=環境のことで、これはシンギュラリティが数十年後に来るか否かにかかわらずそうなる

約10年前(2009年)、私は今日PCと呼ばれているツールは使う人はかなり特殊な人たちだけに限定されるだろうと述べた。一般消費者は、今日私たちが呼んでいるようなPCを持つ理由自体がとくに一般の消費者にとってはなくなるだろうと。この10年で、デジタル端末はPC主体からスマートフォンへと取って代わった。今後はビジネスパーソンですら、人によって業務の必要性から持ってもせいぜい各種パッド(タブレット)くらいになるだろう。
将来、いま主役のスマートフォンですら別のより小型の機器に代替されるかもしれないし、いまの時点ではまったく想像できない機器かもしれない。一般の消費者が生活するにはそれで十分な環境が提供されているだろう。

さて、今後のコミュニケーション(広告・宣伝、PRなど)やメディアビジネス(四大媒体など)はどのようになるだろうか。米国では、ここのところメディア業界の再編が大きなニュースだ。デジタル(インターネット)とグローバリズムの発信源である米国では、ドラスティックかつダイナミックにコミュニケーションやメディア業界も大激変とそれにともなう再編が流動的に行われている。
 
私がまだ広告代理店の傭兵(請負)マーケターだったころ(1980年代後半から90年代前半)に比べると、米国広業界の大変動は凄まじいものがある。かつては、マディソンアベニュー街で群雄割拠していたかつての大手の広告代理店も、今日では世界のメガエージェンシー・グループの「ビッグ4」(WPP Group、Omnicom Group、Ublicis Groupe、Interpublic Group)のいずれかの傘下に属している。これはたとえてみれば、日本でもかつて13行あった都市銀行が、バブル崩壊やグローバリズムの激変で現在の4グループに収斂したのと似た状況だろう。

その善し悪しとは別に、国内の広告代理店業界はこうした大激変に巻き込まれない静かな状況(ひとり蚊帳の外、という見方もできる)とは対照的である。ただし、AIの進展しだいでは、今後の日本のコミュニケーションやメディアビジネス業界も大変動に見舞われることは避けられない。国内も米国と同様に成長あるいは生き残りのため、業界内または業界を超えた再編やM&Aによる統合・合併など可能性は十分にある。

ところで、8月にスマートニュースが研究所の設立を発表した。研究所というと、これまではシンクタンクとも呼ばれて政府や大学、民間(それも)大企業などが創設するもので、各種専門家の英知を集めて調査や研究を行い、コンサルティングから政策提言などもする機関という印象があるだろう。国内の広告代理店でも、大手はみなそうした機関(組織)を有している。
しかし、これからは小さな組織でも研究部門(ラボ)が必要とされるだろう。従来の研究機関のように広く社会の課題や諸問題について総合的に調査・研究をする大きな組織は必要ではなく、自社の事業領域にフォーカスし、かすかな兆候から様々に社会の変化や行く末を洞察して研究したり全体像を描くための部門や人材が必ず必要とされてくる時代になると私は考えている。

啓蒙主義が登場して以降、ある意味では必然なのだが、人は理性的でありすべてについて合理的に考えるものあるいははずだと認識してきたように思う。科学や技術が進展すればするほど、それにつれて人間の精神も進歩するはずだという考え方で、代とは啓蒙主義的な思想は“原則正しい”と暗黙知として受容してきた歴史ともいえる
しかし、今日の世界さまざまな情況を見わたせば、この考え方(認識)を支持する人はもやは少ないのではないかとさえ感じる。人間を理性的な存在ととらえ、その精神(認識)への無謬性を信じる進歩史観はすでに破綻している。人間は太古のむかしから戦争を繰り返してきたし、いまでもそうした人間の愚かしさや不合理な存在であることも、また変わっていないしそれを忘れてはならない。

ポストモダン。我が国では1980年代に誰も彼もが口にした言葉でこれはすでに言い古されたものなのだが、それによって新たな理念を私たちが手に入れたわけではないことはおそらく誰でもが認めることだろう。この考え方は、誰もが当たり前のように受容し信じてきた近代主義的(それは同時に啓蒙主義的)な考え方に異議申し立てをした点では意味があったのだが、それに取って代わる新しい理念を残念ながら創出あるいは提示するにはいたらなかった

いつの日にか、「ノー・デジタル(AI)・デー」という日が制定され、その日には1日デジタルツールをすべてシャットアウトして過ごすというような日が訪れる(制定される)かもしれない。紙の本を読んで、万年筆で革製表紙ノートに手書きする、検索に頼らず自身で思索するなどの行為は、とてつもなく貴重で贅沢なこになるかもしれない。

ところで、片山恭一さんの300年前(18世紀)と300年後(24世紀)の選択だが、私なら迷わず知ることも学ぶこともできない後者を選ぶ。24世紀といえば、『新スタートレック(TNG)』の世界ではないか。それだけでもワクワクする。
今日でも、ハッブル宇宙望遠鏡やNASAが打ち上げた各種探査衛星(ボイジャー、カッシーニ、ニュー・ホライズンズなど)により、これまで定説と思われていた宇宙に関するこれまでの常識を次々と覆し続ける発見や従来の考え方がことごとく変更を強いられているし、天体物理学者や天文学者もそれを認めざるをえないと。
その広大な銀河で、未知の文明や多種多様な生物に出くわす。このシリーズ(『スタートレック/ディープ・スペース9』と『スタートレック/ヴォイジャー』など)では、天体物理学や各種テクノロジーに関する専門用語、ありうるかもしれない宇宙での現象や事象などが中心なのだが、そのテクノロジーの驚異的な進歩とは対照的にどれほどテクノロジーや科学が進歩した時代になっても、人間というのは結局は同じような問題で悩むものだなと実感するしそれがこの作品の魅力でもある。とくに異なる価値観(文化)と出会ったとき、人はどのように決断し振る舞うべきかを見るものに問いかける。つまり、深宇宙における人間としてのありようが描かれているのだ。

(了)


【関連リンク】
AGUSI Media Lab/青山学院大学シンギュラリティー研究所
http://www.agusi.jp/

▼米メディア再編を加速する、3つの力学とは
https://www.yomiuri.co.jp/world/nieman/20171221-OYT8T50027.html


【おすすめブログ】
■人と機械(テクノロジー)の「付き合い方」、そしてシンギュラリティ(技術的特異点)とーーSCHOLAR.professorに参加して
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来たるべきAI Ambient Societyに寄せてーーシンギュラリティ研究所開設記念の講座を終えて(前編)

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私的公開日誌@1809013.01

この4月、青山学院大学にシンギュラリティ研究所が創設され、それを記念した連続による基調講演+講座が終了した。
全6回のうち、日程的な都合でどうしても参加が叶わなかった第3回目(「飛躍的進化を遂げている中国電脳社会」)を除き、すべての回に参加できたことはとても貴重な経験だった。また、講座修了後の楽しい懇親会ではとてもありがたいいくつかのご縁を頂戴した。

現状の私ではこうした場に思うように参加が叶わないのだが、関心の高いイベントやリアルな集まりには従前のように積極的に出席しなくてはいけないと本当に痛感した次第。同研究所ならびに同研究所メディアラボでは、以降も継続してこうしたイベントを開催する予定なのでさらに期待したい。

本ブログでは、その4ヶ月(4〜7月)にわたるこの講演と講座を振り返りながら、いま現在私が感じたり考えていることを総括兼追記的な備忘録として残せればと思う。なお、各回の基調講演ならびに講座の内容についてはすでに記事にしてあるので、いずれか関心ある下記のテーマをご笑覧願えれば大変に嬉しく思う。

<第1回>シンギュラリティ(技術的特異点)のもつ難しさとはーー「シンギュラリティ研究所」開設記念イベントに参加して(4/22)

<第2回>「AIがみずからAIを作りだしたとき」ーーそれが真のシンギュラリティの始まり(5/13)

<第4回>AIと「意図せざること」について——21世紀を牽引するAI都市としての米国シアトルの実情にふれて(6/10)

<第5回>日本語の音声認識が難しいとAI開発者が考えている3つの理由とはーー日本語は世界でもまれで特殊な言語か?(6/24)

<第6回>小説家が示唆する来たるべきAI 社会——人間創成のシンギュラリティに触れて(7/8)

まもなく平成も終わろうとしている。結局、激動の平成(1989〜2019年)は、「失われた30年」として日本の経済的衰退と政治的荒廃の時代として人々に永く記憶されるだろうし、後世の歴史家によってきっとそのように語られるに違いない。“一時的な”経済的停滞という人もいることは理解しているが、世界の変化と進展とを勘案すれば停滞とはすなわち衰退を意味していることは誰にとっても自明でしかない。

この30年間、世界の動きをざっと振り返れば、人類史にとっては大きな歴史的な出来事ばかりだったように思う。
1989年のベルリンの壁崩壊とその後に連鎖した東欧民主化の動乱と混乱、1991年には湾岸戦争の勃発、1993年にはEU(欧州連合)の正式な誕生、2001年にアメリカ同時多発テロ(9.11)とその後のアルカイダ(イスラム教スンニ派の武装組織)による世界中でのテロ行為の頻発、2008年は米国のサブプライムローンに端を発した世界同時不況(リーマンショック)、2010年にはチュニジアにはじまる中東諸国での独裁政権に対する大規模なデモと民主化(アラブの春)に続くアラブ諸国の内紛と内戦。
人類の長い歴史において、ほんのわずか30年ほどの短いあいだにかつて経験したことがないがないだろうほど世界は大激動と大混乱を見てきた。

一方の日本。1970〜80年代にかけてそのすぐれた様々な工業製品で世界をリードし席巻してきたが、1990年半ば以降のテクノロジーの進歩と新興国の台頭で我が国が停滞しているあいだにひとり蚊帳の外に追いやられてしまった。1991年のバブル崩壊とその後に続く長く“失われた30年”(最初は10年はずだったのだが…)、2011年の東日本大震災(3.11)という価値観が大転換するほどの事態も経験した。 

結局、1995年のインターネットの商用利用以後の四半世紀を振り返ると、それまでは世界経済で主導権を握っていた日本だったが、21世紀のデジタル時代においては一度もイニシアチブをとれなかったし、実に悔しく残念なことがら現状を鑑みればこうした状況はこれからも続くことだろうことも明白だろう。断るまでもなく、私だけがそのように感じたり考えているわけではない

要するに、平成時代とはベルリンの壁の崩壊が今日のグローバリズムの礎となり、それは同時に日本社会の衰退への扉を開いたということだ。昭和を郷愁で語るのは戦後生まれの老人だけで、平成生まれの人たちは閉塞感は感じていても良い時代などとはいわないだろう。


■講演者を誰にするかという問題ーー旬な著名人か意外な人か

こうしたイベント、とくに基調講演ではそれを誰に依頼するのかというのはとても重要だ。プロモーション効果やメディアの注目度を考慮すれば、いわゆる“旬(話題)の人物”なら取材対象としてのメディアの食いつき(受け)もよいし、集客にも資するだろうことはある程度は計算できる。なにより、会社の経費で受講をする人たちにとっては、知名度ある人の講演であれば上司の承諾(理解)も得やすい。

今回についてだけいうのではなく、これはまったくの私的な意見なのだが、私はそうした人たちよりむしろ意外な人からの話を聞けるほうが嬉しい
なぜならば、AIに関する著書がありメディアにも頻繁に登場して発言している人たちならそれを読めばよいし、そうした人であればあ講演も引けを切らない。加えて、そうした人はメディアに登場することも多く、寄稿記事やインタビューが掲載されるしその見解に接することも頻繁にある。したがって、その人のスケジュールの調整や講演料などをのぞけば人選も楽だろ。

それに比べ、意外な人選にはまず企画力(目利き的なセンス)が問われる。参加者にも提供できる価値がずっと高いだろうと私は考えている。たとえてみれば、ラジオでヘビーローテンションしているにもかかわらず、リクエストが多いからとヒットしている楽曲をただオンエアするだけのDJと、そうしたことには関係なくDJ独自の好みや選曲センスに基づいて曲をかける人のとの違いといえば理解しやすいだろうか。

今回の講演でいえば、それは最終回の片山恭一さんだろう。ほかにも、個人的には作家で話を聞いてみたい人はいる。たとえば、梅田望夫との対談『ウェブ人間論』(新潮新書)、社会論・文明論エッセイ『文明の憂鬱』(新潮文庫)、近年ではソーシャルメディア時代の『私とは何か〜「個人」から「分人」へ』 (講談社現代新書)などの著書がある平野啓一郎。いずれにせよ、文人が最先端のAIやシンギュラリティをどのように受け止め、なにを感じているのかを直接うかがえる機会はまれである。 
また、メディアやサブカルチャーについて詳しい若手の社会学者・批評家(たとえば、鈴木謙介、濱野智史など)、ジャーナリストであれば『ウェブ文明論』(新潮選書)で知られメディア・コミュニケーションに詳しい池田純一『アマゾン・グーグル化する社会』など森健の話なども、個人的には面白いだろうと思う。
さらに、AR/VRなどにたずさわる人たち(たとえばTeam Labなど)の話も話題を喚起するだろう。そうしたエンジニアたちがAIをどのように考え、どのように関わろうとしているのか私でなくとも知りたいはずだ。

一方では、シンギュラリティは到来しないという人たちもいる。こうした来る・来ないという両陣営の人たちを集めた多彩な意見が交流するコンファレンスもありだ。こうして考え出すと、講演を拝聴したい人たちが次々と浮かんでしまうのでこのへんにしておこう。


■「自動運転車」と「空飛ぶ自動車」

中島聡さんによる、自動運転車による社会がその生活だけではなく社会全体のインフラに与える影響について話も刺激的だった。
いくつかの自動車メーカーが、先を競うように空飛ぶ自動車を開発しているニュースが注目を集めているし、日本でもトヨタ自動車がウーバーに5億ドル(約550億円)を投資しして自動運転車の共同開発を行うと発表し、国内タクシー会社も都内の行動で実証実験が話題だ。さらにそのウーバーは5年後の2023年に空飛ぶタクシー「Uber AIR」の実用化を目指しているというから驚きだ。

自動運転者と同じくらい、いやそれ以上にいま話題なのがこの「空飛ぶ自動車」だろう。そうしたなか、米Terrafugiaが、2019年にも市販車の販売を開始すると発表したことには驚いた。同社はボルボやロータスの親会社でもある中国の浙江吉利グループ(浙江吉利控股集団)に買収され、大幅な開発資金と人材の確保(3倍)ができたことで来年にも発売の目処がたったとのこと。価格は、高級スポーツカー(例:フェラーリなど)クラスと同程度になるらしい。

飛行距離については詳しくはないのだが、おおよそヘリコプターと同程度ということだそうだ。そうなると将来、車での外出においてたとえば渋滞区間は空を利用し、空いている区間は地上を走るということもありえるだろう。空飛ぶ自動車の場合、高速のサービスエリア(SA)などに近い場所にそうしたそうしたクルマ専用レーン(滑走路)を設け、そこから離発着するようになるかもしれない。
そうなったとき、これまでの自動運転者とは異なるさまざまな問題が発生する。燃料切れの場合、道路なら停止するだけだが空であればそれは墜落を意味する。また、ドローンとの接触もあり得るだろうしーー自動航行でレーダーなどを備えているだろうがーー、道路交通法とは異なる法的な規制、事故の責任(ソフトウェアなど)、自動車保険の問題などもあるだろう。

とにかく、20世紀中に私たちが自動車と思っていたものは21世紀の後半にはかなり違っているものになっていることだけは確かだ。近い将来のクルマは地上の道路を走るだけのものから、飛行機と同じように近距離であれば空も飛べるものとなる。もしヘリコプターのように上昇して飛べるクルマであれば、海外ドラマでよく見かけるビル屋上ヘリポートはきっと空飛ぶタクシー乗り場に取って代わることだろう。


■21世紀のデジタルをリードする米国シアトル

これは日本だけではなくEUも同様で、米国シリコンバレーを拠点とする企業群に翻弄されてきた。つい数日前、EUはグーグルAndroidの独禁法違反に対して5,700億円という過去最高額となる制裁金を課すニュースが駆け巡った。
これを、結局はグーグルもMSがかつて呼ばれたように「悪の帝国」になっただけかと受け取るか、EUも日本と同様に対抗できるだけのイノベーションがなにもできていないことへの単なる“やっかみ”と感じるかは、その人の視点(考え方)によって異なるだろう。

EUと日本に共通しているのは、長い歴史と伝統があるということだ。そうしたものを持たない米国人は実は文化的にはそうしたことに憧れてはいるが、現状を鑑みれば米国はしがらみや足枷がないぶんだけむしろ有利に作用しているように私には思える。
一方で、ここのところの中国のデジタル分野での進展や躍進ぶりとはそれとは好対照だろう。中国も、EUや日本以上に本来はそうした歴史や伝統という重石を抱えているはずだが。これに、今後はインドが大きく進展してくる可能性は、きっとだれにでも察しがつくだろう。

江藤さんの話をうかがいながら、私は歴史家ではないし経済学者でもないのだが、20世紀後半から21世紀前半にかけて世界のテクノロジーとイノベーションにほとんど主導権を握れなかったこの両地域(EUと日本)、そうした問題はどこにあるのだろうかと思わざるをえないし、私が納得できるような見解にもこれまでのところお目にかかっていない。
もとより、どこかのだれかがすでに明確に示しており、ただ私が知らないだけかもしれないだろうことは当たり前のことではあるのだが。とにかく、シリコンバレーではなく、シアトルがデジタルとくにAI領域のテクノロジーで世界をリードするようになったのはここ数年だ。

アマゾンとマイクロソフトが主導しているのだが、書評で取り上げたシリコンバレーのような問題を抱える地域の二の舞にだけはならずに21世紀に相応しい企業のあり方で世界を牽引していって欲しいと心より願っている。


■仏大統領選挙に見る“フェイクニュース”の本当の恐ろしさ

NHK-BS1スペシャルで放送された番組「“フェイクニュース”を阻止せよ〜真実をめぐる攻防戦〜」を視聴した人もきっと多いことだろう。
これを見ると、フェイクニュースは一国の大統領選挙すら左右するほどの大きな現象(国際問題)なのだということを実感する。

この番組は、2017年フランス大統領選挙期間中にソーシャルメディアに溢れたフェイクニュースと、フランスを代表するリベラル派の日刊紙『リベラシオン』との攻防を描いたルポである。同紙は、フランスで初めてネット上の嘘(捏造報道)をチェックする専門チーム(デザントクス)を設立した。今回の大統領選挙では、メディアを超えてフランス国内のメディア37社が参加したCROSS CHECKというプロジェクトまで立ち上がげた
特定政党(極右国民戦線のルペン候補)を勝利に導くため、中道派のマクロン候補に関するフェイクニュースで政治を極右国民戦線側に煽動しようとする人たちと、そうしたメディアとの戦いの記録である。

フェイクニュース発信者のひとりは、「事実はどの立場から見るかで変わる。私はメディアを全く信じていない」とうそぶく。一方のジャーナリストは、オンライン上に反乱する「フェイクニュースを多くの人が信じてしまうことに驚いている」と。前者の方が容易に発信でき、後者の事実か否か確認したり調査する(いわゆるネタの裏取り)ほうが時間がかかることは、だれにでも容易にわかることだとくに、個人運営のニュース系サイトに嘘が多いという。
デマによる風評被害を、私たちはこれまでにも日常的にいくつも経験している。たとえ、国の行方を左右するするほどではく些細なことでもだ。私は社会心理学に詳しいわけではないが、人は真実より嘘の方を容易に信じる傾向にあるとどこかで読んだ記憶がある。

“嘘をつくのが政治家の常”とはいいながらーー10年前にデザントクスを立ち上げたのは、政治家の嘘がキッカケだったのは皮肉だーー、それに便乗して大統領選挙を自分に有利に導こうとする極右国民戦線ルペン候補の言動にも呆れる。国のリーダーたらんとする人であれば、本来であればこうした事態に対し、国民の不安をいたずらに煽るのではなく冷静になるように語りかけるべきだろう。選挙に勝つためなら嘘はもとよりなんでも利用するし手段を選ばないというのは、昨今の政治家はどこの国でもみられる傾向のように感じているのは私だけだろうか。

そして、この騒動の発信源(黒幕)が番組の最後についに明らかになるのだが、その事実を知って驚愕する人も多かっただろう。
今回のフランス大統領選挙を混乱に陥れた黒幕は、ジャック・ポソビエクという米国人でトランプ大統領を支持する人物だった。そうした人物が、他国の大統領選すら左右するほどだということに愕然とする。番組内では彼は“右派ジャーナリスト”として紹介されたのだが、驚く(呆れた)ことにトランプ政権からホワイトハウスの取材を許可されたとまで自慢げにツイートとしている。
しかし、ェイクニュース=捏造報道をまき散らす人はジャーナリストではないことは誰にでも理解できるできる。2008年、米国のオバマ大統領の誕生にはソーシャルメディアが大いに貢献したのだが、トランプ大統領誕生にはソーシャルメディア上を賑わすフェイクニュースが当選を後押ししたことになるとは皮肉でしかない。
それと同じ現象がフランス大統領選挙にもおきたのだ。前者はかつて世界中の人々にコミュニケーションとつながりをもたらすことでより融和した社会が訪れるだろうと希望を持ったメディアとして、後者はフェイクニュースの温床として社会を混乱に陥れ人々の不安を煽動するものとして語られている

今回の番組を見ていてリベラシオン紙の忍耐強い奮闘を讃えたいと思うと同時に、こうしたことが日本の新聞社にもはたしてできるのだろうかと疑問にも感じる。国内でも、すでにFactCheck Initiative Japanが立ち上がっているので今後の活動を注視していきたい。

ところで、先ごろ、私はメディア・リテラシーの書評を寄稿したばかりなのだが、そこで紹介されているイギリスは『チャヴ』の書評でもすでに述べたとおりの実態だし、アメリカではフェイクニュースの“恩恵”によりトランプ政権の登場という現実を見るにつけ、イギリスやアメリカでのメディア教育の成果が上がっていると思えないと感じるのは私だけではないだろう。
もとより、メディア・リテラシーにおいては新興国にすら今後も当面は入れないだろう我が日本の現実を見るにつけ、誰でもが暗澹たる思いがするに違いない。


(「後編」に続く)


【関連リンク】
AGUSI Media Lab/青山学院大学シンギュラリティー研究所
http://www.agusi.jp/

▼青山学院大学シンギュラリティ研究所 講演会:WEDGE Infinity(ウェッジ)
http://wedge.ismedia.jp/category/aogaku

▼20XX年 AIが変える経済地図
https://www.nikkan-gendai.com/articles/columns/3343


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■【書評】『教養としてのテクノロジー〜AI、仮想通貨、ブロックチェーン』(伊藤穰一:NHK新書)
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日本人ビジネスマン向けAIジャンプスタートコース、「AIの世界首都」米国シアトルで開催

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シンギュラリティ開設記念イベントで貴重なご縁を得た、米国シアトルで活躍されているInnovation Finders Capital(IFC)の江藤さんから資料のご案内をいただいた。

そのイベントでの江藤さんの話については、すでに「【イベントレポート】AIと「意図せざること」について——21世紀を牽引するAI都市としての米国シアトルの実情にふれて」として記事にしているので、ご興味のある方はそちらもご笑覧願えればありがたく思う。

20世紀の後半から21世紀の前半、シリコンバレー発の企業が世界を牽引してきたことに誰でもが頷くことだろうが、21世紀のこれからは同じ米国西海岸シアトルがその役割を担っていくだろうことも否定する人はおそらくいないだろう。
シリコンバレーについては、多くの情報が溢れているのだが、現在では同地域全体でさまざまな課題を抱えている残念な実態については「【書評】『シリコンバレーで起こっている本当のこと』」でも述べているので、関心のあるみなさんにはあわせてご参照を願えれば嬉しく思う。

シアトルは、シリコンバレー的な20世紀的な価値観に呪縛された企業群の集積地帯の“二の舞”とならならずに、それを他山の石として21世紀にふさわしい新しい企業のあり方や経済的エコシステムの創出をすることで、世界に新しいビジョンを提示すると同時に経済をも牽引して欲しいと心より願っている。

いただいた資料を、以下にご紹介をする。

「FCでは、日本のAI人材育成の為に「AIの世界首都」シアトルで日本のビジネスマン向けAIジャンプスタートコースを開催します。アメリカでもコンピュータサイエンス教育の分野でリードするノースイースタン大学シアトル校で8月22日から6日間の集中講座でしす。
 
AIシステム開発の為のAIアーキテクチャーとインフラを理解し、会社組織や事業部内での企画運営を行うノウハウを提供します。6日間のキャリキュラムにはセミナー、ハンズオン実習、客員講師の講演、AIプラットフォーム会社への訪問など、今後AI関係事業を考えているビジネスマンが必要とするノウハウと経験を得て頂きます。
 
ハンズオンでは自然言語処理のアプリケーション開発を実習します。このジャンプスタートコースはNortheastern Universityのコンピューターサイエンス学部の学部長であるIan Gorton教授を筆頭に現役のAIコースの教授陣から学ぶ本格的なコースです。
 
対象は日本のビジネスマンでこれから人工知能や機械学習の事業を推進する立場になりうる方、今後、AI分野で活躍しキャリアアップを希望されている方です。受講資格は特にありませんが、ある程度のICT関係のビジネスに携わっていた方が対象です。全編、英語での授業ですが、AIトランズレーターと日本語が堪能な先生も随時アシストをします。カジュアル会話レベルの英語力は必要です。」

<場所>アメリカ、シアトル
<日程>8月22日〜29日


また私個人としては、今後はIFC主催による日本でのAIをテーマにしたミートアップの適宜開催も期待したいところだ。


【参考サイト】
▼江藤哲郎のInnovation Finding Journey
http://wedge.ismedia.jp/category/seattle

人と機械(テクノロジー)の「付き合い方」、そしてシンギュラリティ(技術的特異点)とーーSCHOLAR.professorに参加して

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2045年問題ーーそれは人工知能(AI)が、人間(人類)の知能を超えたとき、一体この社会になにが起こるのか、我々はどうなるのかということが21世紀の大きな課題のひとつだ。

今日まで、人間は機械を開発し、発達させてながら生活環境や活動領域を飛躍的に向上させてきた。しかし、さらに高度にテクノロジーが発達し、機械が私たちの生産活動をほぼ代替してくれるようになったとき、人類(人間)に残された活動領域にはどのようなものがあるだろう。

ここのところ、AIについてはWIRED、Newsweek、TIMEなどの世界を代表する雑誌だけではなく、週刊ダイヤモンドや週刊エコノミストのようなビジネス誌でも特集が組まれるほど、関心も高く切実なテーマでもあるということだろう。

そうしたテクノロジー、特に高度の発達したAIに関する本が、数多く発刊されるようになっている。
E・ブリニョルフソン、 A・マカフィー共著『機械との競争』(日経BP社)、ダニエル・ヒリス『思考する機械コンピュータ』 (草思社文庫) 、タイラー・コーエン『大格差:機械の知能は仕事と所得をどう変えるか』(NTT出版)など、話題となった本はも多い。

SFの世界の話しだって? いやいやそう笑ってもいられない時代のすぐそばまで、私たちはすでに来てしまっているのだ。
例えば、AXNで放送されている『パーソン・オブ・インタレスト(PERSON of INTEREST)』のようなドラマでは、2つのAIの情報や命令に人間が従い、その判断に振り回されている。
そして、AI同士の対立に人間が巻き込まれているいわば代理戦争が描かれている。

佐倉教授は、東京大学大学院情報学環という部署に所属している。学際(Interdisciplinary)というのはわかっているが「学環」というのは初めて聞く言葉だ。これは、専用分野を越境して学的体系のエコシステムを志し、学際に代わる新しい学問領域創出を志向する大学院組織とのこと。
タイムリーにも、佐倉教授が中心になって著した著書が『人と「機械」をつなぐデザイン』(東京大学出版会)が先日刊行されたばかりだった。

今回の講義も、日頃から思ったり感じたりしていることについて、気づきや発見、確認など収穫の多い集いだったので、自分なりに感じたり考えたことを備忘録として記しておこうと思う。


■ロボット、サイボーグ、アンドロイド

この日、参加者への最初の演習は、サイボーグとロボットの差異について考えるというものだ。この三者の連関と区別を明確に答えられる人は、思いのほか少ないかもしれない。

ロボットというのは、人間の代替作業機械のことだ。工業用ロボットなどは代表格だろう。現在では、Pepperが一番イメージしやすいだろうが、自動掃除機、ドローンなどもこれらに含まれる。そうした意味では人間の身体活動やその機能を拡張したものだ。

サイボーグは、サイバネティック・オーガニズム(Cybernetic Organism)の略で、人間の身体と機械とのハイブリッド的な存在だ。医学分野では、その技術が応用された人工心臓、筋電義手、人工内耳、人工眼などは、ごく原初的なサイボーグ技術の応用だ。

アンドロイドは、人造人間とも称されているように人型ロボットで、ヒューマノイドタイプの機械でありAIによって自律的に行動できるものを称している。『新スタートレック』のデータ少佐は典型的なアンドロイドだし、『ブレードランナー』のレプリカントなどもそうだ。


■進化は進歩ではない。退化も進化のあり方

同じように語られるが、なんとなくその違いに気づいている言葉というものがある。例えば、進歩と進化だ。両者が異なるということは、だれでもがなんとなく感じているだろう。

進歩とは、時間と同様、基本的にはリニア(直線的)に先に進んでいくことでより高度あるいは複雑になること。進化とは環境に適応(順応)することだ。従って、進化とは適者生存という表現と置き換えても同じだ。
だから、身体機能のある器官や部位が退化したとしても、そのことで変化する環境に適合できるようになれが、それは進化なのである。

強いものが生き残るのではなく、変化に対応できるものが生き残るというダーウィンの言葉はあまりにも有名だ。ビジネスの世界でも、大(強い)企業が残るのではなく、市場環境(顧客)の変化に合わせていくことができる組織だけが残るのは同じ原則なのは既に多くの人が実感していることだ。

もちろん、生き物(人間を含めた生物)では、進化と進歩が混然一体となっていこともある。
しかし、ことテクノロジーに関しては、進化はそのまま進歩となる。つまり、退化というものが機械には存在しない。


■21世紀が直面する大きな課題ー人と機械(テクノロジー)との付き合い方

脳科学や認知心理学の学者たちから、スマートフォンなどによる脳の発達に与える影響が語られている。かつては、テレビ、そしてゲームときて今ではスマートフォンだ。さらには、紙ではなく電子書籍の教科書による学習が子どもたちの脳に与える影響までも懸念する人たちもいる。

間が築き蓄積してきた技術や知見を機械がたやすく代替できるような社会になるとどうなるだろう。今日では、かつての職人的な技術は機械が代行できる時代だ。

人間は間違いや過ちを犯す生き物だ。しかし、AIは間違えることはないといわれている。本当にそうだろうか。ウェブサイトやPCなどと同様にサイバーテロの標的になるだろう、それにより誤作動することもあるだろう、高度なAIが自分たちの任務遂行にとって人間が障害、不用と判断したとき、人間が間違っているのだから排除あるいは粛清するということもありうるかもしれない。

これまでにも、AI、ロボットなどが反乱を起こす様々な映画がある。
『2001年宇宙の旅』、人工知能HAL9000のように、任務遂行のために障害となる人間を排除する。
『ターミネーター』では、人工知能スカイネットが反旗を翻したことによりロボット軍隊を管理・指揮する。
『マトリックス』では、人工知能の反乱で人間がその動力源としてカプセルで培養されている世界だ。
『機動警察パトレイバー the Movie』では、レイバーOSが低周波音の影響で暴走するようになる。

昨年、ジョニー・デップ主演
『トランセンデンス』、今年は4月に全米でも公開された英国映画『Ex Machina』『チャッピー』が話題だ。それほど繰り返し映画化されている、まさに今日的なテーマである。

私たちが親しんでいるPC、スマートフォンなどを考えてみれば容易にわかるだろう。
新しいOSやアプリがリリースされるたびに何らかのバグが見つかり、PCの不具合や操作上のトラブルが起こる。アップル社やマイクロソフト、アドビのような大企業が莫大な研究開発費開発を投じ、想定されうるあらゆるバグやトラブルについて可能性検証はしているはずである。
それでもリリース後には必ず不具合が発生し、そのつど何度もアプリの更新の必要性にせまられた経験は誰しもあるだろう。

こうした考え方や懸念について、SFの見過ぎや終末思想に影響されすぎたと、私たちはいつまで笑っていられるだろうか?

こうしたことは、ロボットなどに限らない。
IoTが高度に発達し、われわれの生活環境に隅々にまでデジタルデバイスに囲まれるようなDgital Ambient Societyが到来したとき、人間同士の対立だけではなく機械同士のコンフリクトがいたるところで発生したら一体どうなってしまうのだろう。そうした想定外のことが、将来あらゆる社会環境で起きないという確信は誰にもないだろう。

また、薬品にかぎらず何事にも想定外の副作用はつきものだ。ある課題を解決することが別の問題を生み出してしまうことは、これまでにも多々あった。
あるいは、テクノロジーへの依存がさらに加速して社会や生活の隅々にまでに行きわたったとき、逆に機械がすべて停止したら一体世界はどうなるのか。
しかし、技術的な進歩は、自然史と同じで意図的な意志や行為がなければ、だまっていても先や前へ進んでしまう不可逆なものだ。


■テクノロジーがもたらすカタストロフィー

人類滅亡の可能性の一つとして、テクノロジーが加わることがないと、だれが確証をもって断言できるのか


21世紀は一つの人間とテクノロジーの臨界点として、遠い未来に人類史が語られるとき、18世紀半ばの産業革命と同様、「人工知能革命」が後世の歴史書に綴られる日が到来するかもしれない。

それはSF的な話しなどではなく、これからの人類社会は、格差や貧困、テロなど同様に人と高度に発達した機械=テクノロジーの付き合い方(使い方ではない)についても考えていかなくてはならない。そんなことを感じた時間だった。

宇宙物理学者のスティーブン・ホーキング博士は、将来の人類にとって2つの警告を発している。
1つは、切迫した課題ではないにしても、地球外知的生命体が存在する可能性に言及し、仮に存在することがわかったとしても接触は避けるべきといい、もうつは、最近のBBCのインタビューに応じたさいには、人工知能の開発は人類の終焉を意味するかもしれないと発言し、AIのもたらすリスクと真剣に向き合うべきだと。
ほかにも、起業家のイーロン・マスクなども、人工知能(AI)の高度な発達により人類が直面するリスクについて、ことあるごとに警鐘を鳴らしている。

これまでにも地球は、プレート移動による大陸の分裂、氷河期、小惑星(水星)の衝突など様々なカタストロフィーに見舞われ、多くの種が絶滅してきた。
それらは自然災害で避けがたいことではあったが、核やAIで滅びるとしたら、人類自らが招き寄せたテクノロジーによる大災害になるだろう

こうした考えがペシミスティックな杞憂に終わることを願っている。
しかし、いずれにしても、AIなどの高度なテクノロジーに気がついたら人類は管理されていた、という事態にだけはならないよう、それらを制御しつつ人類の歩みを進めることしか、われわれにはすでに残され道はないのは事実だ。

テクノロジーの進歩は、最初は人類の発展や幸福に資するものとオプティミスティックに歓迎されるものだ
インターネットが、コミュニケーションを進展させたが、検索履歴や様々な情報による監視社会に警鐘が鳴らされた。ソーシャルメディアが世界中の人々のつながりを育み多様性を受容した世界の平和に貢献するだろうと思われたが、実際にはフィルターバブルとプライバシー問題という副産物を生み出した。
わたしたちは、テクノロジーもらたすだろうユートピア、あるいはその先に待っている黙示録の振幅の狭間で常に右往左往している。

こうした高度な機械(テクノロジー)との関係(使い方でなく、付き合い方)については、なにもいまになって急浮上してきた問題ではない。特に、この100年ほどのテクノロジーの急激な進歩がもたらす課題に直面する様々な問題は、多くの知識人によっても警鐘を鳴らされてきた。

21世紀に生きている私たちには、高度なテクノロジーを管理するかされるかという歴史的な転換点や選択を迫られる日がこないという約束ができるわけではない。

第二次世界大戦以降、哲学者ハイデガーの『技術への問い』、ハーバーマスの『イデオロギーとしての技術と科学』(ともに平凡社ライブラリー)、英国の生物学者でジャーナリストでもあるゴードン・R・テイラーによる『人間に未来はあるか(2冊)』(みすず書房)など、技術の発展と人類について考える必要性を著した代表的な著書はいくつかある。
我が国でも、唐木順三による『「科学者の社会的責任」についての覚え書き』(ちくま学芸文庫)などがそうだ。

前回、SCHOLAR.professorで講義いただいた増井俊之教授のテーマだった「30年後の普通を考える」という視点、今回のテーマを重ねてみることも意義があるかもしれない。


さて、次回のSCHOLAR.professorは5月25日(月)19:30〜22:00に開催。
講師は、救急科専門医、日本外傷学会評議員、日本航空医療学会評議員などを務める町田浩志さん。テーマは「ドクターヘリを飛ばせ!〜高い精度、迅速性が求められる中での情報共有が命を救う」で、ドクターヘリはヘリコプターを利用した医師派遣・患者緊急搬送システムのこと。

▼(5/25)「ドクターヘリを飛ばせ!〜高い精度、迅速性が求められる中での情報共有が命を救う」


(関連リンク)
▼人工知能「2045年問題」 コンピューターは人間超えるか
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO82144080Q5A120C1000000/

▼シンギュラリティ(技術的特異点)の先にある2045年の未来とは?
http://www.ikeda.asia/2014/02/2045.html

▼人工知能制覇を狙うグーグルの野望とは?
http://toyokeizai.net/articles/-/67972

▼30年後、人工知能が人類を駆逐する?AIの進化で消える仕事と残る仕事
http://biz-journal.jp/2015/05/post_9875.html

▼東京大学大学院 情報学環 佐倉統研究室
http://sakuralab.jp/

▼佐倉統教授(Twitter)
https://twitter.com/sakura_osamu

▼TEDxTokyo 2014(佐倉統教授)
http://www.tedxtokyo.com/talk/osamu-sakura/

▼佐倉統(東京大学教授・科学技術社会論)の書評(ブック・アサヒ・コム)
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/1616.html

▼SCHOLAR.professor(Webサイト)

▼SCHOLAR.professor(facebook公式ページ)


(参考図書リスト)
・『機械との競争』E・ブリニョルフソン、 A・マカフィー共著(日経BP社)
・『思考する機械コンピュータ』ダニエル・ヒリス (草思社文庫) 
・『大格差:機械の知能は仕事と所得をどう変えるか』タイラー・コーエン(NTT出版)
・『人と「機械」をつなぐデザイン』佐倉統 編(東京大学出版会)
・『技術への問い』ハイデガー(平凡社ライブラリー)
・『イデオロギーとしての技術と科学』ハーバーマス(平凡社ライブラリー)
・『人間に未来はあるか〜「生命操作」の時代への警告』ゴードン・R・テイラー(みすず書房)
・『人間に未来はあるか〜地球温暖化・森林伐採・人口過密』ゴードン・R・テイラー(みすず書房)
・『「科学者の社会的責任」についての覚え書き』唐木順三(ちくま学芸文庫)


【おすすめブログ】
●『瀬名秀明 ロボット学論集』を上梓

●「SFアニメが現実に!? 激論 ロボットトーク」に思う
http://blog.livedoor.jp/macumeld/archives/610992.html


●"コロンブス指数"で「30年後の普通や常識を考える」ーーSCHOLAR.professorに参加して
http://blog.marketing.itmedia.co.jp/macume/entry/730.html
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