magaminの株と歴史の雑感

株と戦前の昭和史について考えます  

国家の権威、民主主義、平和主義、国際的連帯、等は、われわれの場合はいつもほとんど固い純粋の教義的観念になった公然たる概念である。すなわち一般の国民生活に必要なものの判断がすべて、この観念からだけ生ずるのである。 一度入り込んだ先入観という視角のもとに、あらゆる利害を考察するというこのいやなやり方は、客観的には自己の心情に矛盾することを主観的に考えてみるという能力をすべて殺し、ついに手段と目的を完全にひっくり返すようになる。

ZOO〈1〉 乙一 を読んでみました

[カザリとヨーコ]
[SEVEN ROOMS]
[SO・far]
[陽だまりの詩]
[ZOO]

という5つの短編からなる短編集でした。
とにかく読みやすいです。全編、僕や私という一人称主観が語り手で、なんというか私小説風です。語り手に合わせて話を理解していけばいいだけで、読む方としてはすごく楽です。
この語り手たちは置かれている環境が酷かったりするのですが、自分のささやかな才覚で酷い状況をできるだけ克服しようとします。ですから、どの話もある意味若干ポジティブな内容となっていて、辛気臭い内容をえんえん読まされてウンザリするということはないです。

[SEVEN ROOMS]が一番出来が良かったです。ただこの短編は、「ミステリーアンソロジーⅡ 放課後の殺人者」というアンソロジー集に書き下ろしで採用され文庫化されていています。私はこの短編は再読になってしまい、出来のいい短編だけにちょっと損したような気持になりました。

[陽だまりの詩]が私的にはいまいちでした。アンドロイドか主観形式で語るのですが、設定に無理があると思います。いい話だと言えなくもないのですが、感情を持ったアンドロイドが主観的に語ってしまっては人間中心主義の世界観が強烈で、逆にアンドロイドが可哀そうになってしまいました。

トータルで悪くない短編集でした。ただZOO〈1〉1は250ページほどの薄い文庫本です。この後にZOO〈2〉があります。これ、二冊に分ける必要があるのかという疑問は残りました。

magamin1029

現状の左翼リベラル思想は堕落している

安倍政権の年代別支持率は、40代以下は支持のほうが高くて50代以上は不支持のほうが高い。普通の保守政党のパターンとは逆だ。

何故逆転現象が生じているのか。

これやっぱり年金がらみだと思う。
高齢者の年金に対する執着というのはすごい。年金をもらうことを当然の権利だと確信している。

アベノミクスというのはインフレ政策であって、突き詰めて考えると、年金給付の確実性を棄損するところがある。このあたりのことを高年齢層は嗅ぎつけて、アンチ安倍に回っているのではないだろうか。

高齢者に多い左翼リベラル思想というのは、結局自己保身によって支えられているということになる。
このような支持層に支えられている野党が政権を取ることは全く不可能だろう。
真のリベラルは年金ギャングの向こう側に出なくてはならないだろう。



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キングダム理解のために 3

趙の武霊王が乗馬戦法を採用したのですが、昔ながらの戦いに固執する保守派によって殺されてしまいます。そしてこの乗馬戦法を徹底的に採用したのが秦です。

秦という国は辺境の新興国で、古いものに対する執着がほかの六国に比べて少なかったのです。現代で言えば、こだわりの少なかったアメリカが旧世界を抑えてヘゲモニー国家になったみたいなものです。


キングダム理解のために 2
キングダム理解のために 1

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キングダム理解のために 2




秦の中国統一の40年ほど前(紀元前260年ごろ)

の七ヶ国で戦国七雄。
昔、晋(しん)という国があったのですが、紀元前四五三年にの三国に分裂しました。
この紀元前四五三年以前を「春秋時代」、以降を「戦国時代」といい、あわせて「春秋戦国時代」ともいいます。

日本の歴史区分の名称である「戦国時代」は、中国の「戦国」から採られています。


キングダム理解のために 1


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ふるさとについて  文学のふるさと  坂口安吾

 
「文学のふるさと」は坂口安吾、昭和16年の評論。

坂口安吾はこのように言う。
私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然しかし、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。

すなわち安吾のいう「ふるさと」というのは、
「兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川」
みたいなノスタルジックな思い出の場所のようなものではない。

安吾は芥川龍之介の甥である葛巻という人物と親しくしていて、芥川の晩年の手記を見ることができた。その手記に、農民作家なる人が芥川の家を訪ねてきて、生まれた子供を殺して一斗缶に詰めて埋めたという話をする、というものがある。
農民作家に、
「あんた、これをひどいと思うかね。口減らしのために殺すというのを、あんたひどいとおもうかね」
と言われて芥川は言葉に詰まったという。
さて、農民作家はこの動かしがたい「事実」を残して、芥川の書斎から立去ったのですが、この客が立去ると、彼は突然突き放されたような気がしました。たった一人、置き残されてしまったような気がしたのです。

この突き放すところのものを、安吾は「ふるさと」と言っている。

自分なりにいろいろ考えてみる。

「インターステラ」という映画がある。主人公たちは滅びゆく地球の代わりを探そうと別宇宙の惑星を巡るのだけれど、まー、ろくでもない惑星ばかりなんだよね。しかし他惑星の住環境が酷いのは惑星の責任ではなく人類の都合であって、これは全くどうしようもない。同情も正義も文学もない宇宙で主人公たちは悪戦苦闘する。別の宇宙空間で自分たちは世界から突き放されるのではないかという予感が満ちる中、実際何度かドーンって突き放される繰り返し。
結局「インターステラ」の面白さというのは、人類が宇宙(世界)に突き放されるところの「突き放され具合」にあると思う。
この突き放すところのものが、安吾のいう「ふるさと」ということになるのではないか。

中国思想にも同じ「ふるさと」観がある。荘子の中に、
会えば離れ、成すれば壊れ、角は砕け、貴は辱められ、愚は堕ちる。知を積み重ねても、それは悲しい。弟子よ、これを記せ。ただ道徳の郷があるだけだと
とある。

なぜ安吾がこのような「ふるさと」思想に至ったのかというと、太平洋戦争切迫の結果だと思う。あの戦争は日本にとって中国とアメリカとの両面戦争だった。正直、中国とアメリカ相手に両方同時に戦争するなんてあり得ないでしょう。ナチスドイツだってフランスを制圧して、返す刀でソ連に侵攻した。日本なんかよりはるかに合理的だった。日本は世界に突き放されて、その結果として見えたものが「ふるさと」なのではないか。残酷な「ふるさと」なんて見ずに死ねればそれに越したことはないのだろうが、見てしまったものはしょうがない。
安吾の後の「堕落論」などは「ふるさと」思想の延長戦上にある。生きよ堕ちよ、だから。




キングダム理解のために 1

趙の武霊王が乗馬戦法を始めたのですが、その前までは馬に戦闘馬車を引かせて戦っていました。



こんなやつです。

こういうヤツよりは乗馬戦法のほうが合理的だというわけでしょう。
しかしどこにでも合理性より伝統を重視する人たちはいるわけで、そんな頭カチカチのひとに武霊王は殺されてしまいます。


magamin1029

坂口安吾 「デカダン文学論」 島崎藤村に対するディスり方が強烈です。藤村はとばっちりです

島崎藤村は近代日本文学を代表する大作家だと思う。藤村の何がすごいかというと、近代文学のメインフレームである三人称客観形式というものを「破戒」の時点でほぼ完全にマスターしている点だ。「破戒」の発表は明治39年。
外部の視点で登場人物たちの内面を描きながら物語をまとめるという近代小説的作業というのは難しいのだけれど、藤村はこれを苦も無くこなしている。
夏目漱石だってなかなか藤村のようにはいかなかった。例えば「こころ」は一人称主観形式だし、「吾輩は猫である」は一人称猫観だ。
だから藤村の小説のすごさというのは、その内容にあるのではなく形式にある。

評論家の平野謙が藤村の「新生」を評論したものに、安吾はこう咬みつく。

「新生」の中で主人公が自分の手をためつすかしつ眺めて、この手だな、とか思い入れよろしくわが身の罪の深さを思うところが人生の深処にふれているとか、鬼気せまるものがあるとか、平野君、フザけたもうな。人生の深処がそんなアンドンの灯の翳みたいなボヤけたところにころがっていて、たまるものか。そんなところは藤村の人を甘く見たゴマ化し技法で、一番よくないところだ。

これは平野謙が悪い。藤村の小説の内容を誉めてしまったのではきつい。
安吾はさらにこのように藤村批判を展開する。

島崎藤村は誠実な作家だというけれども、実際は大いに不誠実な作家で、それは藤村自身と彼の文章(小説)との距離というものを見れば分る。藤村と小説とは距りがあって、彼の分りにくい文章というものはこの距離をごまかすための小手先の悪戦苦闘で魂の悪戦苦闘というものではない。

藤村とその文章との距離というものが、藤村の三人称客観小説世界を形成しているわけで、藤村独自の距離感を「小手先の悪戦苦闘」とまで言ってしまったのでは、これちょっと言いすぎなのではないかというのはある。
安吾の言いたいこともわかる。安吾は大文字の「文学」とは形式ではなく内実だと言いたいのだろう。

安吾はさらにかぶせてくる。

彼がどうして姪という肉親の小娘と情慾を結ぶに至るかというと、彼みたいに心にもない取澄し方をしていると、知らない女の人を口説く手掛りがつかめなくなる。彼が取澄せば女の方はよけい取澄して応じるものであるから、彼は自分のポーズを突きぬけて失敗するかも知れぬ口説にのりだすだけの勇気がないのだ。肉親の女にはその障壁がないので、藤村はポーズを崩す怖れなしにかなり自由に又自然にポーズから情慾へ移行することが出来易かったのだと思う。


これには参った。形式とか言っているから、藤村お前は女にもてないんだと言っているわけだ。滅茶苦茶なんだけれど、オタクよりもヤンキーのほうが女の子にもてたというかつての時代状況を考えれば、安吾の言うことは一理ある。
安吾の剛腕、炸裂だ。大爆笑だよ。

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