magaminの株と歴史の雑感

株と戦前の昭和史について考えます  

2017年08月

今日、木田元の「ハイデガーの思想」を読んでいて、ちょっと「永劫回帰」について理解したかも。  現代における根本前提というのは、個々人が、自分が自分であることの確信を持つということにある。自分が自分であるということは、当たり前だと考えがちなのだけれど、そうではない。分裂病などは、自分の一体性が維持できない症状を示す。  自分の自己同一性というのは、無条件に与えられるわけではなく、何らかの力とシステムによって与えられているとしか考えられない。  では、どのような力か? どのようなシステムか?  この場合の力が、「力への意思」であり、システムが「永劫回帰」ということだろう。  結局トータルでどういうことかというと、何らかの個から発生する生きようとする力が、「永劫回帰」すなわち循環によって、力が循環するところと循環しないところとの差を明確にするという。自分と他者との差が明確にされる。   自分が自分であることの根拠というのは、「力への意思」と「永劫回帰」ということになる。   ニーチェは、この近代世界を相対化しようと試み、行き着いたところは、この世界が前提としている観念とは「当たり前としての自分が自分であること」というものだ。   はっきり言って、常識とか当たり前とか、クソなんだよね。   突き詰めて考えたニーチェって、やっぱりすごいって思う。

私は、「自分探し」ということに否定的ではない。  若者の「自分探し」に否定的な大人も多いと思う。たぶん、「自分探し、で本当の自分を見つようなんて馬鹿げている。自分が自分であるというのは当たり前であって、ここ以外の場所に本当の自分がいるなどというのは甘えだ」 という意見だと思う。    しかし、自分が自分であるというのは本当に当たり前なのだろうか。それが当たり前なら、分裂病や神経症という「自分が自分であるということに確信が持てない病気」になる人々が、日本だけで何百万人もいるというのはどういうわけなんだ?  自分が自分であるということは当たり前となっているにもかかわらず、それにふさわしい訓練が学校や家庭で行われるかというと、そうでもない。  馬鹿でない限り気がつく、ここまでは何とかやってこれたけど、ここから先を頑張れば自分が自分でなくなってしまうのではないかって。 こんな時に、「自分が自分であるのは当たり前だ、突撃せよ」 なんていうのは残酷過ぎないだろうか。  自分探しでも何でもやって、自分が自分であるという確信を養う時間も必要だ。レールから多少外れるかもしれないけれど、まあ死ぬよりマシだろう。  

この「世界システム論」というのはうまく出来ている。  近代世界というのは、中核国と周辺国の役割分担によって、周辺国の富が中核国に回収されるというシステムだという。この概念を核にして、産業革命とか、フランス革命とか、2つの大戦とかをキレイに説明しようという。  近代をこのように考えることは、結局マルクスであり唯物論だ。「世界システム論」がマルクスだと、私は思いつきで断言しているわけではない。実際に「資本論」のどこかに、マルクスが「世界システム論」的なことを語っているところがあった。どこだったかよく覚えていないのだけれど、「資本論」2.3巻目だったような気がする。    まあ、「世界システム論」もいいだろう。しかし、中核国と周辺国とはいったいどのような運命によって分かれてしまったのか? 世界を進歩なるものに駆り立てる推進力は何なんだ? 世界がシステムなら、私たちは世界に向かって何もすることが出来ないのか? 「世界システム論」はこのような問いに答えることが出来ないだろう。    私は答えることが出来る。  中核国と周辺国とはいったいどのような運命によって分かれてしまったのか?  個人の一体性をどれだけ確信できるか、その確信を社会がどれだけ保障できるかによってだ。   世界を進歩なるものに駆り立てる推進力は何なんだ?  近代世界は進歩上昇しているのだろうか、拡散堕落しているのではないだろうか。  世界がシステムなら、私たちは世界に向かって何もすることが出来ないのか?  否、私たちには世界観そのものを変更する能力がある。   

太宰治の「トカトントン」は、日本近代文学の一つの到達点だと思う。日本とは何か、近代とは何か、文学とは何か、ということが、この短編に凝縮されている。日本においての小説という形式における最高峰だろう。  まず設定がすばらしい。終戦時の玉音放送という最高に厳粛な場面の後で、どこからともなく「トカトントン」という金槌の音を聞いたら、急にテンションが転換して何もかも馬鹿馬鹿しくなってしまうという。後はこの繰り返しだ。だんだんと「トカトントン」と聞こえる頻度が短くなってくるという。   そもそも、想い出というのは何に依存しているのかというと、過去に経験した事実ではない。まず当時の雰囲気を思い出して、その雰囲気に属している記憶が次々と喚起されるという。このことは、ゆっくり考えれば、誰もが思い当たることであるだろう。 記憶というのは雰囲気に依存している。 「トカトントン」とは、この雰囲気を破壊するメロディーだ。  太宰治のうまいところは、この「トカトントン」という音が聞こえる前の雰囲気を盛り上げる場面で、渾身の言葉を繰り出すところだ。  「厳粛とは、あのような感じを言うのでしょうか」  この言説は、「トカトントン」の落ちにつながっていてすばらしい。この落差が、大日本帝国の落差を表現している。   雰囲気が変わることによって人生が変わるということはある。  江戸と明治を両方生きた福沢諭吉は、「一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるが如し」 と言った。これはどういうことかというと、時代の雰囲気が変わることによって、個人の一体性の根拠ですら変動するということだ。戦前と戦後でそのような根拠の変更があってもおかしくないわけで、このことを太宰治は「トカトントン」という言葉に集約しているわけだ。   「トカトントン」は今の時代にも当てはまる。  生涯未婚率についてなんだけど。  バブル崩壊以前は生涯未婚率5パーセントの時代だった。よっぽどのダメ人間でない限り結婚程度は出来るだろうという雰囲気だった。ところが現在は、生涯未婚率20パー超で、これが30パーめがけて上昇しているという。ここ30年のうちのどこかで時代の雰囲気が転換した。生涯未婚率の転換というのは、日本においては200年ぶりの事だから、現代の日本においては、一身にして二生を経るが如くと感じたり、、「トカトントン」の音を聞いたりした人はかなり多いと思う。

読んでいない本を堂々と語るためにはどうすればいいかというと、結論から言えば、共同体内に存在するであろう共有図書館的なものを把握して、本の共有図書館における位置を知るということだ。そもそも「堂々と語る方法」なのだから、その本の真理を知る必要はなく、本どうしの関係性を知れば、語るには十分だ、ということだろう。    このことは、実は本に限らず、教養とされるものならば何にでも当てはまる。多くの人は「知ったかぶり」をしている。しかし、共有図書館的なものを把握しさえすれば、無条件に「知ったかぶり」をしていいかというと、そのようなわけではない。二つ条件があって、一つは、共同体内においてある一定以上の知的レベルであると、みなから認められていなくてはならない。狭い共同体内で一定以上であると認められる一番簡単な方法は、弱いやつを貶めるということだ。こいつは自分よりダメだから、逆算すると自分はある一定以上ですよね、というわけだ。   もう一つの条件というのは、この世界における価値というものはすべて相対的なものだと確信することだ。価値というものはそれ自身の中に存在するのではなく、周りとの関係性のうちにあるとして、これを堂々と語るためには、この事について確信していなくてはならない。   確かに、この二つの条件をクリアーできれば、この世界でよろしくやっていけるだろうとは思うのだけれど、個人的にはこれらの条件は受け入れられない。とろいヤツも引っ張りあげられなくてはならないと思うし、価値とはそれ自身の中にあるとしか考えられないし。    読んでいない本について堂々と語る方法というのは、ピエール バイヤールの考えているのとは別にもう一つあると思う。  本をランク付けする。Aランク、Bランク、Cランク。 それで、Aランク本の価値観に従って、そのほかの本の価値の序列を作る。慣れてくると、本をさらっと読んだだけで、この本にはAランク本の価値観がどれだけ付与されているかがわかるようになる。その本の価値を知っているわけだから、堂々と人にも語れるという。   ここで問題なのは、Aランク本を何にするかということなのだけれど、個人的意見としては「孟子」と「プラトン」だ。 本の価値というのは、読んで面白かったとか、ワクワクしたとか、そのようなものではない。読んで面白いとか、そのようなものは自分と本との関係性であって、Cランク本の評価の話になってくる。Aランク本というのは、その巨大さ、その重力、によって決まるものであって、個人が勝手に決めるようなものではない。  しかし現状は、誰かが決めてくれるわけでもないから、個人の客観性で判断して、Aランク本を「孟子」と「プラトン」にしている。

映画「僕だけがいない街」が、個人的には、まずまずだったのではないかと思った。  ヤフー映画の評価は意外と低くて、マンガやアニメよりつまらない、というコメントが多かった。   そんなにアニメ版は面白いのかと思って、全編を見てみた。   結末が違うだけで、そう差はなかったと思うけれど。現代バージョンの表現力は、映画のほうがいいぐらいだろう。  映画「僕だけがいない街」が不満な人というのは、結末が不満なのだろう。  結末において、アニメは犯人の心理説明重視で、映画は主人公のいい所を強調していた。  個人的には映画の方が共感する。だいたい、幼女連続殺人犯の心理解説とか、そんなにこだわることもないだろうと思うけど。アニメ版最終話の、くもの糸がどうとか、あれって別にたいした意味もないだろう。深読みすれば、何らかの哲学みたいなものもあるかもしれないけれど、レアな殺人犯の妄想を、しつこく追跡する気持ちには普通ならないだろう。    最初にアニメを見た人は、アニメの落ちに愛着がわくのかな。 それとも、アニメコミュニティーみたいなものがあって、そこではアニメ「僕だけがいない街」のラストについての刺激的な議論みたいなものがあったのかな。  

竹田 青嗣 「ニーチェ入門」 は、ニーチェをヨーロッパ思想史のなかにうまく当てはめながら、分かりやすく説明している。 竹田青嗣は、ニーチェの思想には「近代の世界観を相対化する」ということと「近代が陥るであろうニヒリズムをどのように克服するか」ということとの2つのテーマがあるという。フーコー等のポストモダニズムの思想家は、この前者「近代の世界観を相対化する」ことについては取り組んでいるのだけれど、後者「近代が陥るであろうニヒリズムをどのように克服するか」ということについては沈黙しているという。  それはある。私もそう思う。  しかし何故フーコーが、「近代が陥るであろうニヒリズムをどのように克服するか」というテーマに触れることが出来なかったのかというと、これはフーコーの能力不足というより、ここを掘ってしまうと必然的にヒトラーの思想に行き着いてしまうから、ということだったと思う。 竹田青嗣 「ニーチェ入門」 においても、ニーチェとヒトラーとの関係というのが、全く薄い論理で否定されている。ニーチェは反ユダヤ主義者ではなかったとか、ニーチェの作品内でナチスよりの言説が多いのは、ニーチェの妹がこれを編集したからだとか、正直話にならない。  アカデミズムが、自らの正当性を守るために、あったことをなかったことにするなんて、ちょっと感心しない。そのようなことは、ニーチェが一番批判したことではないだろうか。   私が、ヒトラーとニーチェとの関係性について説明する。  ニーチェ以降の実存主義系統の哲学者が目指した 「近代の世界観を相対化する」 とは結局どういうことなのか。結論から言うと、近代世界というのは、当たり前に存在するのではなく、人間存在に関する一つの前提があるということだ。ある世界観に前提があるということは、その前提を変えれば世界は変わるだろうから、前提を発見するということは、世界を相対化するということになる。  では、私たちのこの世界の前提とは何か?  それは、自分が自分であること、自己の一体性、自分と他人とは明確に異なる、などの自己同一観念は当たり前であり、人間なら誰もが持っているはずだという信仰だ。  このような信仰から、民主主義や人権観念というのは発生している。人間は成人になると、自然と自分が自分であると認識するようになり、少なくとも最低限の大人にはなる。だから、成人にはほとんど無条件に政治参加の機会や基本的人権が認められているわけだ。  このような世界観というのは、一つの見識ではあると思う。この世界の前提を発見したとしても、とりたててこの世界の整合性に不都合がないのなら、その前提をそっとしておくという考えも成り立つ。  しかしなかなかそういうわけにはいかない。  この世界の弱点というのは、「自分が自分である」ということが当たり前になっているから、、「自分が自分である」ための訓練などというものはしない。よって、自己同一性の怪しいようなやつまで、ジャンジャン同じ社会に参加してくる。この社会というのは、「自分が自分である」ということが前提されているわけだから社会的プレッシャーがきつめで、脱落者が多く出る。社会から脱落する同胞が多くなれば、それだけ社会の生産性は落ちてくる。それでいいのかという議論は当然でてくる。 これがニーチェの、「近代が陥るであろうニヒリズムをどのように克服するか」ということにつながってくる。この問題を大きく解決しようとしたのがヒトラーだ。ヒトラーは、自己の同一性なるものは無条件に与えられるものではなく、自らが勝ち取るものであると、国家がその枠組みを与えるべきだと主張した。このような枠みにそって、ヒトラーの「わが闘争」のなかには近代世界観を相対化し、さらにドイツのニヒリズムを克服するためのアイデアが多数存在している。  ニーチェは、ニヒリズムを克服するために「力への意思」という漠然としたことを主張したけれども、ヒトラーは、ワイマールのニヒリズムを克服するために、国家の一体性、個人の一体性の強化を主張した。「力への意思」というものを、一体性への志向と理解したのだろう。ヒトラーの論理は正しい。近代以降、個人の人格の一体性が空洞化しつつあるから、そのあたりを国家主動で再編成しようというわけで、きわめてわかりやすい論理に帰着する。  ヒトラーは個人的には失敗したのだけれど、ニーチェの思想を現実の政治世界で実践して、現代にまで総力戦思想という巨大な影響を及ぼしている。  ニーチェとヒトラーを切り離してしまうと、哲学のみを論じるアカデミズムにとっては快適かもしれないが、ニーチェそれ自身の価値というは、極端に低下すると思う。

前回、近代以降の世界においては、「自分が自分であるという自己同一性」が当然の前提とされている、と書いた。 これについて、別の切り口で考えてみる。  例えば、「正義」について。  正義とは何かを現代的に表現するなら、個体間を調停する者、ということになるだろう。しかし、この程度の概念レベルだと、「正義」と「正義の振りをするやつ」との区別がつかない。だから現代社会においては、「正義」と「正義の振りをするやつ」とは結果が同じだろうから、その辺の区別はあいまいでかまわないということになっていると思うよ。  ところがプラトンは「正義」と「エセ正義」とを峻別しようとした。どのような論理を展開したかというと、正義の定義として、個体間を調停する者では甘いというんだよね。 個体がそれぞれに確固とした自己の統一性を確立するならば、個体間を調停する者など必要ないだろう、という。すなわち、正義とは自己の統一性を確立するそのこと自体にあるという。  自己の統一性をめぐる問題というのは、その社会の世界観を決定する力を持つ。 現代は、自己の統一性を当然の前提として成り立っていて、かつての時代は、自己の統一性は社会的鍛錬によって獲得するものだとされていた。これは、どちらがいいとか悪いとかそういうものでもないと思うのだけれど、社会の安定的継続性という点においては、現代社会のほうに疑義が存在するだろう。自己の統一性という、一見当たり前なのだけれど実はあいまいなものに根底をおく近代以降の世界が不安定化したのは、ある意味当たり前だ。  しかしその不安定化のあり方というのが、古代と同じ感じで、すなわち同様のパターンがある。   その繰り返す歴史のシステムについてはまた今度。  

近代は古代を繰り返している。 これを考慮に入れて、近代と近世の違いを考えてみたい。  私は思うのだけれど、近代における最大の特徴というのは、「自分が自分であることが無条件に前提とされている」 ということだろう。自分が自分である、なんて当たり前だと思うかもしれないけれど、実はそうではない。実際、現代日本で神経症や分裂病という、自らの精神の一体性を保てないという病気で苦しむ人が何百万人と存在している。神経症、分裂病予備軍を入れれば、その数は何倍にも膨れ上がるだろう。  現代社会が何故このように大量の神経症、分裂病患者を抱えているかというと、社会が「自分が自分であるという自己同一性」を当然視することによって、過重な労働、過重な学習を強要しているからだ。  日本において、明治期以前は人格教育というものがあった。人格教育とは、突き詰めて言えば一体なんだったのかというと、社会システムと連動しながら「自分は自分である」という確信を養成するものだったろう。これをあまりに養成しすぎて、「自分が自分である」ということが、当たり前になってしまった時に近代は始まった。「自分が自分である」ということを土台にして、自分はこの世界で何が出来るのかということを、人間は考え始めた。もっと労働が出来るよねとか、もっと学習が出来るよねとか、その土台の上に様々なものを乗せはじめた。  この世界は自由だといわれている。しかしそもそも自由とはなんだろうか? 結局、現代の自由というのは、岩盤とされる土台の上にいろんなものを乗せる自由なんだよ。  「自分が自分であるという自己同一性」というのが岩盤とされているのだけれど、実はこのようなものは岩盤でもなんでもない。その証拠に、はじめに書いたのだけれど、神経症や分裂病の患者が、日本だけで何百万人も存在している。   このことをトータルで考えるとどうなるか?   「自分が自分であるという自己同一性」という状態が、何らかのエネルギーだとするなら、近代から現代に至る私たちは、近代以前の先人達が蓄えたエネルギーを消費しながら社会の一体性や発展性を維持しているということになる。  はたしてこれは進歩なのだろうか?  プラトンが言うように、堕落なのではないだろうか?  人間の歴史に何らかのシステムがあるとするなら、システムを理解するというところまでは出来るだろう。しかし、システムの外に出るということは、出来るのだろうか?  

私はテレビってもう必要ないと思って、地デジになった時に、我が家は移行しなかった。だから何年もテレビを見ていない。  でもこの前名古屋に旅行して、ビジネスホテルに泊まった時に、小学生の子供達が、やけにテレビを見る。珍しいのだろう。  陸上中継、朝のワイドショーニュース、東大生の漢字クイズ、私も子供に付き合って見ていたのだけれど、久しぶりに見て思ったことはテレビって総じてテンション高めだなということ。  何年も見ていないから、テレビのテンションの水準についていけない。  結局、テレビって「祭り」だよなと思った。24時間テレビとか27時間何とかとか、あれって夏祭りだよ。ドラマとか映画とかって、祭りの出し物的な感じだよね。  日本が成長している間は、テレビは祭りで、それはそれでよかったのかもしれないけれど、日本が衰退してくると、リアルのテンションとテレビのテンションとの乖離というが目立つということはあると思う。 このあたりが、ここ二十年のテレビの地盤沈下の原因だと思う。   しかしそもそも、テレビが祭り、すなわち常時祭り状態だなんてくだらないよ。祭りって、たまにあるからワクワクするんだろう? 毎日テレビを見て、いつもハイテンションで、いったいいつ沈思黙考するんだ?   もし毎日が祭りだったら、人の知能は低下する。毎日テレビを見るなら、その人の知能は低下する。 知能が低下しても、幸せならかまわないという考え方もあるだろうが、その辺の加減というは、それぞれが考えるべきだろう。

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