magaminの株と歴史の雑感

株と戦前の昭和史について考えます  

2018年04月

第一章 伊佐山刑事
第二章 谷沢検事
第三章 綾部弁護士
第四章 石嶺裁判官

となっていて、これらの人物が殺されるまでの成り行きみたいなものが、それぞれの人物の三人称主観形式で書かれてある。この4人の人物の共通点というのは、何年か前の殺人事件の裁判に関わっていたというもので、その裁判で有罪とされた犯人が、懲役6年を勤めて出獄して、自分の裁判の関係者を殺して回っているらしい。

小説における三人称主観形式というのは、例えばこの小説の冒頭

「心臓の鼓動が聞こえた。緊張しているのか江木雅史は自問した。確かに緊張している。それは当然の事だ」

のように、江木雅史という三人称が主観的に語る小説形式の意味である。
ただ、三人称主観形式という言葉は、今さっき私が作ったものであって、おそらくすべての人には初耳の言葉であろう。

この小説は、伊佐山刑事、谷沢検事、綾部弁護士、石嶺裁判官という人物の三人称主観形式パートの間に、殺人の罪で有罪が確定した江木雅史の三人称主観形式パートがはさみ込まれるという形になっている。江木パートの三人称主観が語る真実は、江木が冤罪であるということだ。江木の上司が殺されたのだけれど、江木は殺っていない。上司が殺された時、江木は一人で釣りをしていた。

「江木は上司を殺していない」というが真理があるなら、すなわち江木は冤罪だという。そして冤罪の怒りによって、裁判に関わった人たちを次々と4人まで殺したという。冤罪というのは恐ろしいと、冤罪という煉獄に落ちた江木には同情すると。

ちょっとマテ。ほんとうに江木は冤罪なのか? 江木が冤罪であるという真理は、江木パートの三人称主観が語る真実に依存している。三人称主観が語る事柄の真実性は、この世界には真実があるという私たちの確信に依存している。しかし、真実などというものは、どこまでも確定できるわけでもないだろう。
この小説を読んで、読者が江木は冤罪であると思ってしまうのは、この小説の形式に依存しているからではないだろうか。

状況からして江木は黒だ。上司が殺された当日に、その上司の胸倉をつかんでいる。アリバイもない、あいまいながらも目撃者もいる。
最も重要なのは、江木が出獄した後に、裁判関係者を殺して回っていることだ。そもそも、一人も殺したことのない人間が、復讐として安易に殺人という手段を選ぶだろうか。

三人称主観が江木が冤罪だと語ったとしても、そんなものは信ずるに足らない。そんなことを信じていたらきりがない。テレビの言うことは本当だろうとか、医者の言うことは本当だろうとか、大学教授の言うことは本当だろうとか、三人称主観の語ることは本当だろうとか、馬鹿げた暇人にどこまでもマジで付き合っていたのでは、脳細胞がいくつあっても足りない。

例えば人間個人が、意識の一体性を持って成立しているのはなぜだろうか。

西田幾多郎は、それは「統一的或る者」という何らかの力が存在しているからだ、と仮定している。精神的で根源的な力を基礎にして世界のあり方を説明しようというのが、この「善の研究」という哲学書だ。

正直言って、精神的力を仮定しての世界説明ではオカルトになってしまうだろう。普通、簡単には受け入れられないね。
まあでもよく考えてみると、科学というのは精神的力というのは受け入れないのだけれど、物理的な力というのは受け入れている。
宇宙には4つの力があるという。重力、電磁気力、弱い力、強い力。宇宙に力があるというのは認められているわけだ。例えば重力って何だろう? 質量のある物同士は互いに引き合うというのだけれど、どういう構造で引き合っているんだ? 

私は重力研究家でもないから、簡単にウィキを見てみる。

うーん、重力発生の理由についての言及はないね。どーせそんなものは分からないのだろう。重力の原因は分からないけれど重力の結果は明らかだから、重力なる力が仮定されていて誰もがその仮定を認めているわけだ。
同じことが、西田幾多郎の仮定した精神的力としての「統一的或る者」についても言うことができるのではないだろうか。すなわち、「統一的或る者」という力の結果が明らかで、その力の存在の仮定を受け入れたほうが有用だ、ということが説得力をもって語られたら、精神的力の存在について一考してもいいのではないだろうか。

人間の価値は何によって決められるのだろうか。その人の地位だろうか、名誉だろうか、お金だろうか。
もちろん違う。人間の価値とは外部から計られるものではなく、人間内部から立ち現れてくるものだ。「統一的或る者」という力が、人間の心と体を統一的にまとめているなら、その人間個人の内部にある「統一的或る者」以外に価値はありえない。そして先ほど「統一的或る者」という力が存在すると設定したばかりだ。

統一あるところには力が隠れている。人間個々に「統一的或る者」という力が付与されているなら、それは犬や猫にもあるだろう。犬や猫もワンワンニャーニャーと自らの一体性を主張している。さらに言えば、すべての生きとし生けるものに「統一的或る者」は存在していると推論できるだろう。

意識があるから「統一的或る者」という力が発生するのではない。逆だ逆。「統一的或る者」の統一力の結果、意識は存在している。重力と物質との関係も同じだろう。重力は物質の結果ではなく原因だ。

さあどんどん行くよ。

統一あるところに「統一的或る者」はいる。人間社会はなぜ一体性を形成しているのか? 「統一的或る者」の統一力の結果だ。国家は、その構成員の合意によって形成されるなどという簡単なものではない。人間の意識の根源である「統一的或る者」とは別のレベルで、国家の一体性の根拠となっている「統一的或る者」という統一力が存在している。

「統一的或る者」はアルファでありオメガである。時間や空間というものも、「統一的或る者」が作り出したこの世界を理解するための形式に過ぎない。「統一的或る者」はこの世界において、時間や空間のなかに多層的に存在しているかのように見える。

正義とは何であるか。
体系を内部から支える力だ。すなわち「統一的或る者」である。
善とは何であるか。
体系を内部から支える根拠だ。すなわち「統一的或る者」である。
神とはなんであるか。
「統一的或る者」そのものである。

、とまあこのように、西田幾多郎は1つの力を設定することで、すがすがしいまでの突き抜けた論理を形成している。

私は、西田幾多郎が「力」を設定したくなる気持ちも分からないでもない。近代以降の啓蒙思想ってちょっとおかしいところがある。
私の経験上、強い気持ちが強い論理を育む、ということはあっても強い論理が強い気持ちを育むということはない。啓蒙観念というのは、この辺の区別があいまいだよね。
だから、「善の研究」というのは、哲学というより哲学のアンチテーゼとしての「哲学」みたいなものだと思う。

現代日本では生涯未婚率が上昇している。1965年において男性の生涯未婚率1.50%女性の生涯未婚率2.53%から、2015年において男性の生涯未婚率23.37%女性の生涯未婚率14.06%、となっている。

この数字で驚くのは、現代のオジサンの未婚率の高さではなくかつての日本の既婚率の高さだ。男性の生涯未婚率1.50%?!! とにかくでもとりあえずでも結婚しろみたいな強力な社会的雰囲気があったと推測される。そういえば私が子供のころ1980年代、まわりのオジサンオバサンはほぼ例外なく結婚していた。

日本における皆婚社会というものがいつごろ成立したのか。この本によると、どうやら16世紀頃らしい。先進地域である畿内では1500年ごろから、畿内の周辺としての尾張、播磨では1550年ごろから、その外側では1600年ごろから皆婚社会に移行した。だからこの皆婚社会というのが中世と近世の境目といえるだろう。

諏訪地方おいて17世紀後半の平均世帯規模は7.04人だったのが、幕末においては4.25人になっている。世帯内の奴属農民や傍系親族が独立したり消滅したりして世帯規模が縮小した。
どういう変化が起こったのかというと、労働へのモチベーションの低い昔ながらの作男や結婚の見込みのない次男や三男を抱えた大家族で労働するより、そのようなものを独立させてそれぞれが労働する方がトータルとして生産性が高くなるという、さらにその合理性が社会の雰囲気となって結婚が強制力となっていったのだろう。

日本の皆婚社会の歴史というのは、実は400年の歴史があった。

時代と関係なく、男と女の互いに互いを求め合う情熱は同じであるという。男女間の情熱を満たしつつより合理性の高い社会体制に移行したのが、室町末期以降の日本だったということなのだろう。

しかし、日本の400年の伝統であった皆婚社会は、現代において完全に崩れた。この理由なのだけれど、私の観察するところ結婚したくないヤツは結婚しなくなったというのはある。もっと遊びたいから結婚お断りみたいな。このパターンは、男性の場合10%弱はいるのではないだろうか。
そして残りの10%強の男性が、結婚したくてもできないというパターンだと思う。

生涯未婚率において男性より女性の方が9%も低い。とにかく女性優位なんだよね。ここ20年ぐらいで女性も当たり前に仕事をするようになって、変な男と一緒になるよりは一人で生きていく方がマシだと考えるようになったのだろう。
常識的な判断だと思う。能力のある女性が、この世界で自分には何がどれだけできるのか試したいと考えるのなら、それは実行されなくてはならない。

男性未婚者は下層に多い。私はトラックの運転手をしているのだけれど、周りの30代40代の男性の半分は未婚だ。こいつらに多いパターンは、女性に対して過度な期待をしているということだ。一番多いのが、親の面倒をみてほしいということ。女性にとって、この要求はかなりきついものなのではないだろうか。
男性にとっては、昔の女性は嫁ぎ先の親の面倒をみるのが当たり前だったのだから、今の女性もお願いしますということだと思うのだけれど、今と昔は平均寿命が違う。
大正期においては、結婚時の夫婦の平均期待寿命は夫61.5歳妻61.0歳だった。1990年時点では、夫77.1歳妻82.7歳となっている。現状ではもっと伸びているだろう。かつては女性にとって、夫の引退した両親との同居は6.7年だったのだけれど、現代では20年以上にもなる。アリ地獄に落ちる可能性があるなら、女性が尻込みするというのは女性の責任ではない。

未婚率が上昇して出生率が低い結果、日本の人口が減少しているのだけれど、どこかの時点で均衡するだろうとは思う。
400年前に皆婚社会となり人口の増加が始まり、日本は中世から近世へと時代のフェーズが変わった。本当の時代の変化というのは、明治維新とか太平洋戦争とかそういうイベントにではなくて、未婚率とか人口の変化とかそのようなものにこそあるのかもしれない。
日本の人口がどこかの時点で均衡した時には、今とは違う別の世界が現れているだろう。

話の内容としては、第一次世界大戦後から第二次大戦開戦までの期間において、オーストリア貴族の息子のなげやりな堕落行みたいなものだった。
この貴族の息子というのが二重人格で、メルヒオールとバルタザールという人格間での対話という形式で話が進んでいく。

この小説は、読んで直接面白いというものではない。謎があって解決があるとか、ばらまかれた伏線を回収しながらエンディングに向かうとか、一つの思想によって世界観を形成するとか、そういう小説らしい小説ではない。
敢えて言うなら、おばちゃんたちの井戸端会議、女子高生たちのレディーストーク積み重ねみたいなものだろう。

「バルタザールの遍歴」を面白いかどうかの判断は、この小説の文体を受け入れられるかどうかにかかっていると思う。

本というのはいろんなところで読んだりする。寝る前のベッドの中とか、通勤電車の中、パチンコをやりながら(これは私だけか)。
「バルタザールの遍歴」を、この週末パチンコをやりながら読んでいたら、100ページほど読んだところでこれ以上は読めないという精神状態になった。文体勝負の小説だから精神に対する負荷が高い。

このような本を、文章を味わいながらじっくり読もうとする人はすばらしい、本物の本好きだ。私のように、この本をパチンコ屋で読もうなんてヤツは下の下だろう。


寝てるときに見る夢について。
夢というのは、後から思い出すとぼんやりしたものなのだけれど、夢を見ているその時においては異様なリアル感がある。

夢の特徴というのは、確信というものが急にドンって与えられるところにあると思う。今まで海で泳いでいたら次の瞬間空を飛んでいたりという夢を見たとしても、なぜ急に場面が変わったのか不思議に思ったりはしない。ああ、そういうものかと思ってしまう。夢の中で、友達を探していると急にそういえばあいつはオレが殺したんだと思い出したりする。
夢の構造とはどうなっているのか? 

森鴎外の作風は、時代小説を書き始める以前と以後とでは異なっているという。鴎外は小説世界にまとまりをつけるのが嫌になって時代小説を書きはじめたという。
「山椒大夫」の中にこのようにある。

「子供らの母は最初に宿を借ることを許してから、主人の大夫の言うことを聴かなくてはならぬような勢いになった。掟を破ってまで宿を貸してくれたのを、ありがたくは思っても、何事によらず言うがままになるほど、大夫を信じてはいない。こういう勢いになったのは、大夫の詞に人を押しつける強みがあって、母親はそれに抗(あらが)うことが出来ぬからである。その抗うことの出来ぬのは、どこか恐ろしいところがあるからである。しかし母親は自分が大夫を恐れているとは思っていない。自分の心がはっきりわかっていない」

この母には主体性というものがない。相手に強く出られると、「主人の大夫の言うことを聴かなくてはならぬような勢い」になってしまう。「山椒大夫」という小説は、勧善懲悪とかピカレスクとかさらに言えば無常観とか、そのようなものとは全く無縁に、ただこの母のような登場人物達がその運命の中で喜んだり悲しんだりしているだけだ。


これって夢の構造と同じだろう。

「山椒大夫」をヒントに夢の構造について考えてみる。
そういえば夢の中では、抽象的な価値観の序列ってないよね。好きとか嫌いとかはあるけれど、善とか悪とかはない。抽象的な価値の序列というものはなく、ただ好きなもの嫌いなもののリアルな実体のみの世界だという。
だから、その世界において強力な実体があらわれると、もう拒否することが出来ないんだよね。普通は抽象的な価値の序列みたいなものが心を防御していると思うのだけれど、夢の世界においては、その防御がないから、実体が直接心を占拠して確信になってしまう。

志賀直哉の奇妙な小説も同じように説明できる。「暗夜行路」の主人公は気分に支配されている。時任謙作は小説のはじめは不快な気分の状態だったのだけれど、終わりのころになると調和的な気分になってくる。気分の変化に理由とかはない。時任謙作は、ふと自分の父親は本当の父親ではないと思う。するととたんに祖父こそが本当の父親であると確信する。
夢の構造と同じだろう。

夢の構造と「山椒大夫」と「暗夜行路」をつなげて考えるとはどういうことかというと、明治という時代が、強力な実体並列の世界から抽象的価値観の序列の世界への移行の時期だったのではないかという意味となるだろう。

上巻のみの書評。書評というか感想みたいな。まだ上巻しか読んでないし。

あらすじとしては、アフリカ大陸中央部のコンゴで人類の進化系の子供が生まれて、その子供を殺そうとするアメリカ政府と、守ろうとする幾人かの人たちの話。
生物学のウンチクも取り込んで、小説自体がかなりリアルな感じになっている。生物は進化しているということになっていて、この「進化論」を未来に適用すると、サルから人間に進化したのと同じように、人間から超人みたいなものに進化するのではないか、というのは考えられなくもない。
そして、アメリカ対超人という枠組みで下巻に続いていくのだろうという。

こんなふうにざっくばらんに書いちゃうと少年漫画みたいになってしまうのだけれど、実際は生物学の知識をふんだんに取り込んでいて、かなりリアルなストーリーになっている。生物学の勉強にもなるレベルだろう。

進化というのは遺伝子の突然変異によって起こるとされている。
もうちょっと詳しく言うと、
遺伝子というのは4種類の塩基がひも状に連なったものが、2本一組になって二重螺旋状態で連なったものだ。生物のタンパク質は20種類の必須アミノ酸で構成されていて、4種類の塩基が3つ一組で一つの必須アミノ酸をコードしている。遺伝子の突然変異というのは、この塩基がどこかで1つ変わってしまうということ。1つ変わると、コードするアミノ酸が変わってしまう。アミノ酸が連なったものがタンパク質であって、あるタンパク質を構成するアミノ酸が一つ変わるだけで、そのタンパク質の形状が変わってしまう。このように遺伝子の変異というのは重大で、大概においてはマイナスの作用なのだけれど、稀に生物の生存に有利な変異が起こって、これが蓄積されることで進化が起こるとされている。

生物学ではこのような進化の説明がなされているのだけれど、はっきりいって私はこの論理を信じることが出来ない。いかにももっともらしい論理の積み重ねのように見えるのだけれど、よく考えるとありえないと思う。

例えばキリンの首について。キリンの首が長くなったのは、首が長くなるような突然変異の積み重ねということになる。しかし、首が長くなるだけでは駄目でしょう。首が長くなると同時に、首を支える体の骨格、筋肉が発達しなければ、全体を形成することは出来ないでしょう。首が長くなる遺伝子突然変異と首を支える体の骨格の遺伝子突然変異とその骨格を支える筋肉の遺伝子突然変異が、同時に起こってさらにそれが積み重なるなんていう確率はどれぐらいなのだろうか。1000万年かけてキリンの首が長くなったとして、1世代10年として、100万回の遺伝子コピーとなる。100万回程度で、生存に有利な突然変異同時多発積み重ねなんていうことが起こるものだろうか。

普通に考えたらありえないレベルだと思う。

生物の進化というのは謎なんだよね。考えてみれば不思議な話で、地球や土や鉄や空気は、変化はするけど進化したりしない。進化するのは生物だけ。
どういうことなのだろうか。

私の仮説なのだけれど。
ある物体が高いところにあるとする。何かのきっかけでその物体が落下するとする。その物体は落下する。加速度をつけて落下する。なぜかというと、重力という力に引っ張られるからだ。私たちはその物体を外から見ているから落下しているとわかるけれども、その物体の内側からしか世界を判断できないとしたらどうだろうか。
その世界においては、加速度という不思議な現象が世界には存在していて、加速度の原因をその世界の内在的な原因から説明しようとし始めるのではないだろうか。例えば、加速度とは突然変異としての偶然、みたいな。

生物としての枠組みの外に生物が出られないとするなら、生物を進化させる力を生物が理解するってことは出来ないということになるのかな。この「ジェノサイド」の超人も、ホモサピエンスより知的レベルは高いだろうが、生物の枠の外に出てその力の根源を認識するのは無理なのかなーなんて思う。

本を読みながら、関係のないことを際限もなく考えてしまうという、「失われた時を求めて」状態。

話の内容としては、3歳の娘を精神障害者に殺された夫婦が、離婚しながらも一緒に、刑法39条によって不起訴になった犯人を追い掛け回すというものだった。

精神障害者が犯罪を犯した場合、無罪になったり刑が減刑されたりするのだけれど、これはどうなのかというのが話の本筋だ。重い話なんだよね。
そして読み始める。
文章は軽い感じで読みやすい。大丈夫か? と思う。扱う内容が重いのに文章が軽いと逃げ場がなくなるのではないかと心配になる。この軽さでは、社会の不条理を個人の苦悩にすりかえることができない。

さらに序盤から、本筋に関係ないところでも作者の本音トークみたいなのが炸裂する。
被害者の妻というのが、離婚した後再婚する。この再婚相手というのはある程度社会的地位のある人だ。被害者の妻が精神的におかしくなって、再婚相手は手を焼くんだよね。被害者の妻が離婚届を机の上において家出するのだけれど、これに対する再婚相手の内面表現が、

「願ってもない僥倖(ぎょうこう)だった。いわれるまでもなく、明日の朝一番で市役所に行くつもりだ」

とある。「ほっとした」とかなんとかですますこともできるのに、本音トーク炸裂だろう。

犯人の彼女というのがキャバクラ嬢なんだけれども、このキャバクラでの描写というのがまた本音トークだ。かっこいい若い男性が来るとキャバ嬢はほっとして、キモいオヤジが来るとがっかりするという。キモいオヤジなんだから出来るだけ金を引っ張ってやろうという。
キャバクラって何なんだろうね、あれ。もてないヤツが金を払ってキャバ嬢にもてたからといって、なんの実質もないことは明らかだ。

男は金を払って夢を買っているという意見もある。しかしこれが作者の罠だろう。キャバクラで男が見る真実と、統合失調症患者が見る真実と、何が違うのですか? というわけだ。

このような本音トークの流れで、精神障害者による犯罪とは何なのかという問題に肉薄しようとしているというのがこの小説の面白いところだなと思った。

「わが闘争」を読む限り、ヒトラーが目指したものはドイツの一体性というものだろう。

何かの一体性を形成するというのは、じつは難しい。
国家においても、独裁者が強権によって統一を維持するということは理論上はありえるけれども、その程度の一体性では、その国はたいしたことないだろうということは容易に想像がつく。
風邪を引いたとする。病院にいくといろいろ薬をくれる。しかしあんなものは気休めであって、風邪のウイルスを撃退するのは体の免疫機能だ。免疫とは結局個体の内と外とをわける機構であり、免疫力はその個体の一体性を維持する力に依存している。そして、体の一体性をいかに高めるかというと、これは難しい。

ヒトラーはどのようにドイツの一体性を高めようとしたか。
まずドイツの内と外を区別する。ドイツの内側はアーリア人で、ドイツの外側はユダヤ人だという。ヒトラーのユダヤ人差別というのは、それが目的というよりも、ドイツの一体性を高めようとすることの手段だろう。
ヒトラーのユダヤ人にたいする歴史的事実は確かに極悪だった。だからといって、ヒトラーを知らなくていいということにはならないだろう。それほどヒトラーの思想というのは強力なんだよね。

国家でも人でも、その一体性というのは極めて重要で、それは価値といってもいいくらなものだ。ヒトラーはこのように言う。

「同盟政策についての問題。誰の目にも明白な欠陥に満ちたワイマールのドイツと、およそ同盟する国があるかどうか」

これは男についても同じで、誰の目にも明白な欠陥に満ちた男と、およそ結婚する女があるかどうか、という文章も成り立つ。明白な欠陥とは、国家においても人格においても、その一体性の欠如に由来すると考えてそう的外れでもないと思う。

ヒトラーは、一体性において大事なことはその形式ではなく内実であるという。そりゃそうだ。ではヒトラーの考える一体性ふあれる国家の内実とはどのようなものか。

「ただ健全であるものだけが子供を生むべきで、自分が病身であり欠陥があるにもかかわらず子供をつくることは恥辱であり、むしろ子供を生むことを断念することが最高の名誉である、ということに留意しなければならない。しかし反対に、国民の健全な子供を生まないことは非難されねばならない」
「病身であったり虚弱であったりすることは、恥ではなくただ気の毒な不幸に過ぎない。しかしこの不幸を自分のエゴイズムから、何の罪もない子供に負わすことは犯罪であり、これに対して罪のない病人が自分の子供を持つことを断念し、他日力強い社会の力強い一員になることを約束されている民族の見知らぬ貧しい幼い子供に愛情を注ぐのは賞賛すべき人間性の尊さであると、国家は一人ひとりに教えるべきである」

現代の建前的常識によっては、このようなヒトラーの言論は認められない。人間の価値は平等であるとされている。ところが多くの人の本音はどうか。
ネットでは知的障害者やその親に対する差別の言説があふれている。多くの人がそれを見て、ああ他の人の本音もそうなんだ、と思い安心する。
思考が分裂していて一体性に欠けているわけだ。結果、ヒトラーの一体性のある言説に比べて、このような人が何を語ろうが、言葉の力が劣ることになる。

そう、そして誰もがしょうがないよねって思う。本音と建前を分けるのは、この世界を生きるためにしょうがないと思う。
このような意見に対して、ヒトラーはこのように言う。

「もちろん、今日のあわれむべきおおぜいの俗物どもには、このようなことは決して理解できないであろう。なるほどおまえたちにはとてもできない。おまえたちの世界はこういうためには適当ではないのだ。おまえたちはただ一つだけ心配がある。つまりおまえたち個人の生活だ。そしておまえたちにはただ一つの神かある。つまりおまえたちの金だ。たが、我々はおまえたちに用はない。自分たちの生存を支配しているものを金とは考えずに、他の神を信じているおおぜいの人々に向かうのだ。われわれはなによりもまず青年に呼びかける。彼らの父たちの怠惰と無関心が犯した罪に彼ら自身で挑戦するのだ」

この「わが闘争」という本は口述筆記だという。だからヒトラーは、自らの思想を語ると同時に、それに対する異論への反論を考えているわけだ。ヒトラーというのは、一体性の思想と懸絶した言語能力を併せ持った、ある種の怪物だろう。

一体性の思想が成立するとするなら、それは強力なものとなる。近代以降、一体性の思想というのは基本、存在しない。何らかの一体性の存在には何らかの力が必要だろう。例えば、地球がその一体性を維持しているのは重力という力があるからだ。生物の個体も一体性を維持しているわけだから、おそらく何らかの力が作用していると思うのだけれど、その何というか生物力みたいなものがあるのかないのか、どのようなものか全く問題にされない。

すなわち近代以降においては、生物の一体性、さらには個々の人間精神の一体性まで前提とされてしまっている。人間精神の一体性を直接問題にしてしまうと、生物力みたいなオカルトになってしまう。
この社会では、自分の自己同一性の懐疑に悩む人も多い。しかし現代医学のレベルではこのような人を救うことは難しい。科学というものが、直接精神の一体性の根源を問題にすることができないからだ。

ヒトラーは、このような近代社会の不手際に対して別の世界観を提示する。
国家と個人。国家の一体性と個人の一体性が、互いに互いを強化し合うシステムを形成できれば、今までよりも強力な世界が立ち現れるだろうというわけだ。

西洋近代哲学のなかで一頭地を抜く思想だろう。

8つの小品からなる、ノンフィクションスポーツ短編集だった。

表題作の「スローカーブをもう一球」というのは、群馬県の進学校である高崎高校の野球部が甲子園に行くという話だった。弱いチームが勝ち進むということなのだけれども、その秘密というのはこのチームのエース川端君が優秀だからだと思った。

彼は考えながら野球をする。例えばこのようにある。

「スローカーブを投げたときのバッターの表情を見ていると、バッターがどんな気持ちか、手に取るようにわかるんだ。--川端はそう考えている」

運動しながら考えるというのは難しいよ。数学の問題も机の前に静かに座っているから解けるのであって、走りながらの酸欠状態では不可能だろう。
運動しながら考えるためには、おそらく何らかのハイレベルでの条件が必要だと思う。その条件をクリアーしているのだから、川端君はすごいよ。

私は、中学、高校、大学でバレーボールをやっていた。中高は部活、大学は体育会。初めて大学で部活の練習に参加した時はびっくりした。
大学バレー、スゲー、と思った。
身長180センチ台、運動神経抜群そうなエースとセンターを四枚そろえて、ドッコンドッコン打つんだよ。先輩に聞いたら、これで東海リーグ二部だという。

「えっ、二部?」

と思った。
その後すぐ春リーグというのがあって、ウチの大学は二部で優勝した。そりゃそうだろう、と思った。あれだけのエースをそろえて二部はない。二部で優勝したから、一部最下位との入れ替え戦がある。相手は愛知教育大学だという。

余裕でしょ、と思った。愛知教育大学って国公立でしょ。中京大学とか愛知大学とかのようなスポーツ大学ではないでしょ。

ところが、やってみたらボロ負け。相手にはすごいエースがいて、うちのセンターのブロックの上から打ってくる。おまえエヴァンゲリオンかよ(30年前当時はグレートマジンガーかよとつっこんだ)。

私は、バレーは考えちゃダメだ、高さとパワーだと思った。
すなわち私には、運動しながら考えるための条件は与えられなかったんだよね。

私が大学バレーをした4年間、うちの大学はずっと東海リーグ二部だった。

あらすじとしては、
主人公は41歳のばついち女性で、まずその高校生の息子が失踪する。翌日に主人公の25歳の愛人が不審死して、疑われたのが主人公の元夫の再婚相手の連れ子の女子高生。この女子高生のボーイフレンドが主人公の愛人だ。そして、この女子高生は自殺して、主人公のアラフォー女性の息子は、父親の再婚相手の別居先にしけこんでいたのを母親に発見される。で、主人公の25歳の愛人を殺したのは、主人公の息子の同級生の女の子だったという。

このあらすじを一読しただけでは、たぶんよくわからないと思う。さらに、関係性がわかっても、関係性の必然性がわからない。

まず主人公の25歳の愛人。高校生のかわいい女の子に夢中なのだけれど、41歳の主人公の女性とも肉体関係があるわけだ。
おまえどんだけストライクゾーン広いんだよ、と突っ込みたくなる。私が25歳の時を思い出してもこれはない。低目のスライダーを狙っているときに、高めの直球が来たら打てないよ。

次に、主人公の息子が、失踪したと思っていたら、実は父親の再婚相手のその別居先にしけこんでいたという。その前に、主人公の息子は再婚相手の連れ子である自殺した女子高生と仲良くデートしてるんだよ。
これはない。おまえは大谷か?二刀流か? 先発で勝ち星を稼いだ後に三試合連続でホームラン打っちゃう? 

あと、主人公の息子の同級生の女の子が、主人公の愛人を殺したことを告白するのだけれど、この告白に対して担任の男子教師の発言、

「君の精神は、まるで土の下で腐った球根みたいだ。ボロボロで臭くて、何も生えてこない。僕はまずそのことを君に教えたい」

ありえない。男ならどんな冴えない女子高生にも、これは言わない。

トータルで考えて、この小説にどういう整合性が考えられるかということなんだけれど、結局、ある種のアラフォー女性の奇妙な夢、ということではないだろうか。私たちも男、とくに若い男に対する魅力は、若い女性に負けてませんよということかな。

あまり生産的な考え方だと思わないけれども。

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