ヘーゲルは「歴史哲学講義」の中でこのように言う。

「精神が無自覚のうちにかかわりをもつ真理が深遠であればあるほど、その場で経験する精神の疎外は深刻なものとなる。しかし、精神はそうした疎外を経てはじめて真の和解を獲得します」 

「真の和解」とは何か? 

結論から言えば、「個体の一体性と、その所属する共同体の一体性とが、互いにその一体性を強化しあうようなシステム」、ということになるだろう。

そのようなシステムがあったとして、そのシステムの中で生きるものにとっては、一体性こそが正義であり、善であり、そのシステムそのものは進歩であるだろう。

ヘーゲルのこのような問題設定というのは正しいだろう。ただ、ヘーゲルが世界史がどのように進歩したかという説明に入ると、ちょっと整合性に欠けたところはあるだろうとは思う。ここのところでヘーゲルを批判してもたいして意味はない。

大事なのは問題設定だから。

私の昔の友達が言っていた、

「自分の人生の難問に取り組むことなくしては、実用的な学問を修めて世の中を渡っていくのは無意味だと思った」 

私も同じように思った。
しかしまずもって、自分の人生の難問とは何か、というのが問題なんだよ。何が分からないのか分からないみたいな。でもなんだか違和感があるっていうか。


「自分探し」みたいな物語があって、そういうことに取り付かれる若者もいたりする。それを否定する大人もいて、諦めることが大人になるみたいな。

ヘーゲルの「歴史哲学講義」を読んで思うのは、その問題の設定は正しい、しかしその回答は疑問だということだ。問題の設定が正しいということは、すばらしいことだ。そもそも誰もが、自分の人生の難問とは何なのかすら分からないのだから。


関連記事