magaminの株と歴史の雑感

株と戦前の昭和史について考えます  

カテゴリ: 純文読書日記

この「日本文化私観」は
一 「日本的」ということ
二 俗悪について(人間は人間を)
三 家について
四 美について
という構成になっていて、それぞれに安吾らしい文章がつづられている。

「家について」の中にこのようにある。

「僕はもうこの十年来、たいがい一人で住んでいる。何もない旅先から帰ってきたりする。すると、必ず、悔いがある。叱る母もいないし、怒る女房も子供もいない。それでいて、家へ帰る、という時には、いつも変な悲しさと、後ろめたさから逃げることができない。帰るということの中には、必ず、振り返る魔物がいる。そうして、文学は、こういうところから生まれてくるのだ、と僕は思っている」

本当にこういう感覚ってある。私は結婚するまで何年か一人暮らしをしていたけれど、夜中、ドアを開けてから、誰もいない真っ暗な部屋に入り電灯のひもを引っ張るまでは、何だか薄らさみしいような気持になった。

エリア88という漫画で、一人暮らしの部屋に帰った時に真っ暗なのが嫌だから、部屋を出るときはいつも電気をつけっぱなしにするというヤツがいた。そいつが乗る戦闘機がもうダメだというときに、彼は親友に無線でこのように言う。

「オレの部屋の電気は消しておいてくれ」

分かるわー、と思って。
誰もいない部屋に帰った時のあの感覚って何だろう。気圧が外より低いような、地面がちょっとゆるいような、そんな場所に迷い込んだような。
それを安吾は、

「帰るということの中には、必ず、振り返る魔物がいる」

とか、さらには、

「文学は、こういうところから生まれてくるのだ」

とか、本当にうまいことをいうと思って。久しぶりに「日本文化私観」を読み返して感心した次第。

柄谷行人の言う憲法9条の根拠とは、まず第一に、日本人の江戸時代平和的鎖国の記憶、第二に、「9条にある戦争放棄は単なる放棄ではなく、国際社会に向けられた贈与」というポトラッチ理論、最後にカントの「世界共和国」の3つだ。 柄谷行人の特徴というのは、その論理に飛躍があるということだろう。彼の「日本近代文学の起源」というのを読んだことがあるのだけれど、全ての章が飛躍の結論を待ち構えている。  彼の文章をはじめて読むと、この飛躍がかっこいいみたいになるんだよ。やはり飛躍は飛躍であって、時間と共に釈然としないものがたまってくる。 今回の柄谷行人の話にしても、始めて彼の文章を読む人は感心するかもしれないけれど、慣れている人にとって見れば、またアイツの飛躍かみたいなことになるだろうと思う。  まずカントについて。日本の憲法9条というのは、アメリカから天下ったものであって、日本国憲法草案を作った人の中にカント信者がいたのではないか、というのが流れとしての合理的推論だと思う。 しかし、カントの世界共和国という概念は、哲学というより希望であって、整合性の根拠が全くあいまいなんだよね。このカント哲学の根拠のあいまい性を補強したのヘーゲルの歴史哲学だった。すなわち、カントの世界共和国という観念だけでは、憲法9条を支えるには力不足なんだよね。 憲法9条というのは、カントから来ているのに、カントが力不足というのだから、話にならない構造になっている。  つぎの憲法9条の補強材料、ポトラッチ。私はそもそも思うのだけれど、無条件に他者に贈与すれば、無条件に他者から認められるなんていうお気楽論理がありえるのかな。ポトラッチで二つの社会集団が仲良くなったとしても、そもそもポトラッチ以前に二つの社会集団間に何らかの関係性が有ったと考えるのが普通だろう。大事なのはポトラッチではなく、自己と他者との潜在的な関係性だろう。これもちょっとどうか。   そして最初の江戸時代の平和的鎖国って言うやつ。 江戸時代の鎖国というのは、日本人の無意識でというのではなく、明が鎖国政策をしていたから、幕府もやったということではないのかな。江戸幕府が鎖国政策を敷くにあたって、彼らなりの意識的な損得勘定があったとだろう。時と共に、それらが忘れられていったというだけの話で。 世界帝国に従うのが日本の無意識だということも言えるだろうけれど、それをいったらおしまいでしょう。  すなわち、柄谷行人のいう憲法9条の根拠全ては飛躍なんだよね。

「行人」を2日で読むんだから、私も暇だよね。 トラック荷物の納品待ちの時間とかで読んじゃう。同僚とかはスマホゲームとかやっているのだけれど、正直あんなものやる気にならない。この世界でショボイのに、架空の世界でかっこつけたって意味ないと思う。  「行人」って、「こころ」と相似形だろう。語り手の目上の人が、ちょっと神経質な人で、その人をめぐる長文の手紙が巻末を飾るという。 「行人」において、語り手の兄である一郎という人物なんだけれど、はっきり言って彼は神経症だろう。正しいことが完璧に社会で行われていないと悩むとか、気持ちは分かるけれども、このようなきっちりした考え方というのは、精神衛生上よくないだろう。そしてこのような考え方を押し付けられる方も迷惑千万だろう。 確かに、文明論的な考え方も出来る。日本は列強の圧迫の中、明治維新以降、植民地化の回避のために戦ってきた。それが日露戦争以後、列強にも日本の実力が認められて植民地化はほぼ回避された。日本の独立という大きい目標が達成された後の時代に、何らかの虚無感みたいなものが現れるということはありえる。日本独立のために頑張っていたのに、独立が達成されたからといって、急に頑張ることをやめることは出来ない。何のために頑張っているのかという疑問が沸いてくるということはあるだろう。 「行人」の発表というのが大正元年だから、このような文脈で語り手の兄である一郎という人物を判断するということは可能だろう。  目標なしで頑張りすぎで精神衰弱になったみたいな話だ。  この論理を「こころ」に当てはめてみる。「こころ」という小説では、「先生」自らが自殺の理由を手紙に書く。この「先生」も神経症だろう。神経症患者自身が書いた告白というものは、主観的真実としてはともかく、客観的真実としては認められない。「先生」自身は、その手紙の中で、自分の自殺は20年前に自殺した友人に対する罪悪感だといっているけれど、これは主観的真実であって、客観的真実というのはおそらく、神経症が高じて自殺しようとする時に、20年前に自殺した友人を思い出し、それを自身の自殺の理由だと確信してしまった、ということだろう。神経症が発症して意識レベルの低い状態になると、あいまいなことでも確信してしまうということがあるんだよね。 「こころ」の「先生」の自殺の理由というのは、このあたりだろう。    語り手の兄である一郎という人物、苦しむ彼をみんなで救ってあげようというのが「行人」の結末なのだけれど、はっきり言って彼は救いようがない。彼は自分が救われることばかりを考えている。妻に救われたいとか、弟に救われたいとか、求めるだけで救われるなら誰も苦労しない。絶対即相対とか、チャンチャラおかしい。   経験的に自らを救おうとするものは必ず救われない。人を救おうとするものだけが、救われたり救われなかったりする事実があるだけだ。

半分ほど読んだのだけれど、「行人」は結構面白い。 「行人」の後に発表された「こころ」が、神経症患者の告白本みたいで、ちょっとキツイ感じだったので、「行人」も怪しいのではないかと思っていたのだけれど、そういうわけでもない。   「こころ」の「先生」というのがほとんど理解不能なのだけれど、この「行人」においては、「こころ」の「先生」的な人物の精神状態を解説してくれる主人公が存在している。  これはありがたい話だ。  「行人」の主人公である語り手というのがざっくばらんな常識人で、感情移入しやすい。この主人公が、ちょっと神経症的な兄のフォローをするというのが、「行人」という小説の筋だ。 この兄という人物と、「こころ」の「先生」というのは、同じたぐいの人物だろう。ある種、常識を超えたような考え方をしていて、「行人」の兄の場合は、自分の妻の貞節を弟に二人きりの一泊旅行をすることで試して欲しいと懇願し、「こころ」の「先生」の場合は、妻との三角関係にあったところの自殺した友人への贖罪のために自殺しようとするわけで。 「こころ」の場合は、この「先生」の不可思議な行動を解説してくれる作中人物が存在しないので、「こころ」という作品自体が、分かる人しか分からないみたいなことになっていると思う。 しかし「行人」の場合は、奇妙な言動をする兄の心理を説明させられる弟がいるというのは心強い。 「行人」のなかには、「こころ」を理解するためのヒントというか、ヒント以上のものがあると思う。そういうつもりで「行人」を読んでいる。  「行人」の最初のほうで、主人公は友人の知り合いの女性が気になる。主人公は友人に遠慮して、その女性に一歩踏み込むのをためらう。普通そうだよね。女性はいっぱいいる。人類の半分は女性だ。敢えて友人が気にかけている女性に手を出すこともないだろう。  ところが、「こころ」の「先生」は友人の気にかけている女性に敢えて手を出す。ここまではありえる。青春時代にはよくあることだったりする。それを、20年もたって友人に対する贖罪だといって自殺しようとする。これはない。  この辺の具合を、「行人」は説明してくれているのではないか、と思うんだよね。

村上春樹の「ノルウェーの森」を読んだのは27年前、私が二十歳のときだった。 衝撃的にかっこいいと思った。  その後、村上春樹の小説は、だんだんつまらなくなってきていると思う。だからといって、「ノルウェーの森」が今読んで面白いかというと、全然そんなことない。 結局どういうことかというと、村上春樹が変わったのではなくて、私、もしくは私たちが変わってしまったのではないだろうか。   27年前、私も若かった。 自分の善意とか思いとかが正しいと思う反面、他人の意見にも何らかの価値があるのではないか、と思いながら、私は自分と他者との価値の間で揺れていた。 この「揺れている」というのが、実は問題で、強く言われると自分が小さくなり、弱い相手には自分が大きくなり、その不安定さ自体が自分の善意を侵食する。 自分が弱ると、より他人に影響されやすくなるという悪循環。  ここで「ノルウェーの森」だ。  この小説の主人公は、心の揺れというものがない。その初期設定として、主人公「僕」は、自分と他者との関係性が、少し自分優位のところで固定されているんだよね。揺れていないから、実際よりクールに見える。少し自分優位の状況が保障されるために、登場人物たちはちょっとづつ主人公を持ち上げる。 全体として、無理が分散されて、小説の整合性が取れているように見える。  これを現実で実践するとどうなるかというと、自分を固定すると自分を失い、条件が整わないと自分が持ち上げられるということはありえないという自己認識にいたる。  自分の世界観をとりあえず固定する、というのは、自分の事だから何とでもなるのだけれど、自分をよいしょしてくれる他者を期待するというのは、多くの場合なんともならない。 最初読んだ時はいいのだけれど、時と共に小説の整合性は崩れていく。 ある一定数、崩れない人もいると思うよ。自分が思っていたより、親が金持ちだったり学歴が高かったりして、自己評価を少し高めに固定してもみんな自分をそれなりによいしょしてくれたみたいな、村上春樹ありがとうみたいな。  付き合いきれない。  そんなところに人生の意味とかないだろう。  そんな場所にいつまでもいたら、私なら凍えてしまう。

「こころ」という小説は、どうもわからない。いろいろあったとしてもだよ、20年もたって自殺しようというのはないと思うんだよね。   まずこの小説はおかしいことだらけだ。   まず、「先生」の友達のKが、女に振られたから自殺するんだけれど、こんなのまずない。女に振られたからって自殺していたんでは、命がいくつあっても足りない。私なんて何回死ななければいけないんだ、ということになる。  これを乗り越えたとして、「先生」はなんで先生なんだ?  主人公の青年が、彼のことを先生と呼んでいるから「先生」なのだろうけれど、「先生」は尊敬できる部分がなにもない。中年無職、生涯ニートの暇人だし。 これも乗り越えたとして、最後のあの手紙。いくらなんでも長すぎるだろう。私があの量の手紙を貰ったら、まず怖くて読めないね。 これも乗り越えよう。 青年は「先生」のことが個人的理由でとても好きだったとして。  そして最後、「先生」が自殺する理由というのが、自分と妻との三角関係で、20年前に自殺したKに対する贖罪だという。最初に言ったけれども、これはない、これだけはない。20年ってかなりだよ。私は20年前に結婚したけれど、結婚した経緯というのはよく覚えていない。私は、妻が「結婚すれば」と言った記憶があるのだけれど、妻に聞くと、私のほうが結婚しようと言ったらしい。20年たつと、本当に真実は闇の中だ。 「先生」、何が悪かったのかというと、毎月、Kの墓参りをしていたことだと思う。 これは、あえて理由を探したらだよ。 墓参りなんていうものは、自分の前に、親族があって、地域社会があって、それらの思いを自分の後ろに伝える子供があって、始めて意味を持つ。前にも後にも何もないのに、ただ死んだ人を拝むというのでは、「先生」、呪われたんじゃないか。 これは私なりに「心」と言う作品を善意に判断してのことで、普通に考えると、登場人物全員が神経症ということになるんじゃないか。   どういうことなんだろうか。  日本近代文学史上最高の作家とされる夏目漱石の、最高の作品とされる「こころ」の評価がこんなのでいいのかと思う。 そこで、信頼できる評論家の「こころ」の評論を読んでみた。大澤真幸の「近代日本思想の肖像」のなかの「明治の精神と心の自律性」というやつ。 この中で大澤真幸は、「先生」がお嬢さんを好きになったのは、友人Kがお嬢さんを好きになったからだという。友人Kはある種の判定者で、友人Kがお嬢さんを好きになるということは、お嬢さんに価値があるということになる。価値のあるお嬢さんを「先生」が好きになったという。  なるほど、ありえなくはないな。 人が持っていると欲しくなるという論理だろう。なくはないけれども、自分がやりたい女性を人に判定してもらおうという、この「先生」の根性はどうだろう。どこまで奴隷根性なんだ、こうはなりなくないよね。  大澤真幸は、この論理をさらに押して、友人Kという具体的な判定者が、共同体の中でその実体を失い観念のみなったとして、それはその共同体の神だよね、という。そのような第三者の審級のようなものが日本において形成されたのは明治末頃だという。神が、この女はやる価値があるかどうかを判断した後に、男たちはその女のやる価値を受け入れるということになる。  もっともらしいことを言っているように聞こえるかもしれないが、私はそのようなものは認めない。女の価値を付与する神とか、ふざけるな。犬が交尾するのに神様とかが必要なのかよ。人間だって同じだろう。 大澤真幸の論理は、神の存在証明というより、神の不存在証明だろう。

「アンダーグラウンド」という本は、サリン事件の被害者の証言を集めた本だ。 なぜ村上春樹がこのような本を書いたのか、というのを問題にしたい。 あとがきの中で村上春樹は、オウムが他人事ではなかったからではないか、と書いている。  どういう意味か?  オウム信者と、村上春樹小説の主人公たちには、共通点がある。どちらも、自分が自分であるという意識、すなわち自己同一性に確信が持てなかった、というところだ。 村上春樹小説の主人公たちは、この統合失調症気質をかっこいい個性だと考えて、それをオシャレな音楽や言葉遣いで飾ったりしている。 オウム信者は、自己同一性を確立しようとして、自分の世界を縮小した。彼らは、それを出家と称した。 自己同一性というのは、自分と世界との認識の循環によって形成されるものだと、私は思う。大きい茫漠とした世界においては、自分とは何か分からなくなるけれど、小さい濃密な世界においては自分を確立しやすい。  自分から他者へ、他者から自分へ、という認識循環の回転数があがるからだ思う。  良い悪いは別にして、自己同一性の不確実さに向き合う誠実さという一点では、村上春樹小説の主人公たちよりオウム信者の方が上だろう。  これは恐ろしい話でね、誠実に自己同一性を確立しようとして、自分の世界を縮小したら、縮小されたところの空白の世界に暮らす人々は、人間としての意味を失い「物」になってしまう。 物だから、殺しても良心の呵責はない。 これはホロコーストと同じ構造だよね。 ナチスは、ドイツの一体性を願い、ドイツ世界を縮小して、縮小されたところの空白の世界に暮らすユダヤ人を物としてあつかった。   どうすればいいんだ?   村上春樹のようにオシャンティーを気取るか、オウムのように人の心を失うか。 解決の道筋はないかのように見える。この世界は、自己同一性が社会参加の前提とされているかのように見える。

大澤真幸 近代日本思想の肖像 の「世界を見る目」という章は、村上春樹の「アフターダーク」についてのの評論だ。 ピントが外れていると思うんだよね。 大澤真幸は「近代日本思想の肖像」の中で、夏目漱石とか丸山真男とか太宰治とか柄谷行人とかを論じて、いいところまでいっていると思うのだけれど、村上春樹についてはかなり甘いのではないかと思う。  この本の前書きに、20世紀は文学から哲学へという流れだったけれども、21世紀に入って哲学から文学へという流れに変わったと書いてある。  全くその通りだと思う。  ならば、哲学から文学に、とくに村上春樹にはもっと切り込まなくてはならないだろう。大澤真幸の村上春樹論は力不足だろう。  そう思って、私は、私の村上春樹論を書いてみた。

昔、結核小説というものがあった。 結核という病気はかっこいいみたいな。実際の結核というのは悲惨な病気なのだけれど、イメージとして薄倖の才子の病気として、小説の中で描かれることが多かった。日本で言えば、徳富蘆花の「ほととぎす」なんかが代表だろう。 1882年にロベルト・コッホが結核菌を発見した。 結核とは細菌性の伝染病であるということが分かって、結核は美しい病気だというイメージが急速に低下していった。  私は、村上春樹の小説は、現代の結核小説的なものだと思う。  村上春樹の小説の根幹というのは、主人公の「喪失感」や「孤独」 だ。主人公の抱く喪失感ってかっこいい、という前提がまずある。そのかっこいい私の「喪失感」を飾るために、オシャレなライフスタイルや、あの独特の言葉遣いがある。  では、主人公の「喪失感」とは何か?  いうなれば、現実感覚の希薄さということになる。自分が自分であることの不確実さ、特定の他人が特定の他人であることの不確実さ。  多くの人が確実だと思っていることを、自分は不確実だと思っているこのかっこよさ、というものが、村上春樹の小説の前提にある。  そして、自己同一性の不確実さというものには、統合失調症という病名がついている。しかし、実際の統合失調症という病気自体は悲惨な病気だ。しかし統合失調症的イメージ、自分が自分であることの不確実さはかっこいい、という。    村上春樹の小説は、統合失調症小説ということになるだろう。 

話の筋というものはほとんどない。ユリとマリという21歳と19歳の姉妹がいて、この妹のマリというのが主人公だろう。 マリが深夜のファミレスで本を読んでいると、姉の知り合いでありマリも面識の高橋という若い男と会う。ちょっと話す。そいつの口利き?で、その日マリはラブホテルで中国女性の通訳を手伝う。朝方、マリは、高橋とまた会って、互いの身の上話をして別れる。 その間、姉のユリはずっと寝ているという。  これだけなんだよね。  話の整合性とかつながりとか、そういうのはほとんどないと判断されてもしょうがないレベルだと思う。 話の整合性を探ろうとしても、ちょいちょいのぞく村上春樹節が気に障ってしょうがない。 例えば、白川という男に仕事中に妻から電話がかかってきて、白川はこのように言う。  「11時過ぎね、その時は夜食をとりにそとにでてたんだ。それからスターバックスに行ってマキアートを飲んだ。君はずっと起きてたの?」   マキアートとかいるかな?  そんなことまで妻を通じて読者に報告する必要があるかな?  もしかして20年前は、スターバックスに行ってマキアートを飲むのがオシャレだったりしたのかな?  あと、場面ごとにBGMが流れている設定になってたりする。「天井のスピーカーからはペット.ショップ.ボーイズの古いヒットソングが小音量で流れている」  ペット.ショップ.ボーイズってなんだ? その音楽は、この小説の整合性と何か関係があるのか? もしかしてただのオシャレ狙いなんじゃないだろな?  まあこのよなイライラを敢えて乗り越えて、「アフターダーク」の内容について考えてみたい。  主人公マリを囲む人たちはいまいち頼りない、例えば高橋。 彼はこのように言う。 「お父さんはたとえ何があろうと僕を一人にするべきじゃなかったんだ」 高橋は、父親が姿かたちはそのままでも別の誰かにすり替わっているような気がする、という。これは統合失調症における症状の1つだね。  マリを囲む人のもうひとり、ラブホテルでバイトをするコオロギという女性。コオロギは何かから逃げていて、日本中のラブホテルのバイトを転々としている。ラブホのバイトは面が割れにくいらしいよ。コオロギは、体に何箇所か、追ってくる者からの刻印みたいなものをされているらしい。 コオロギは強度の神経症でしょう。   マリを囲む人のさらにもうひとり。 マリの姉のユリ。 彼女は寝てるんだよね。まあ、寝てるというか、何らかの力によって、精神が狭い部屋に閉じ込められているらしい。彼女は子供のころから周りから可愛いと言われ、自分も可愛いを演じ続けることで、自分を失ってしまったんだろう。 この3人はえらそうなことを言っていても、現代社会の成人として平均に達していない。この世界では、自分が自分であること、自己同一性が前提とされている。この3人は、その前提を満たしていない。  これに対してマリは違う。ちょっとずつ努力することが出来る。自分の世界をちょっとずつ造ることができる。 話としては、マリは他の3人よりは強いとは言っても、平均人であって、弱い3人を引っ張りあげるということは出来ない。   評論するとしてもこれぐらいだな。あと出来るだろうことは、「アフターダーク」を他の村上作品の中にどのように位置づけるかということぐらいだろうけれど、このレベル程度の作品をそこまで持ち上げることもないと思う。

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