西田 幾多郎の文章は、奇怪な日本語であるとか、ドイツ観念論哲学の翻訳レベルの難解さとか言われていますが、善の研究を実際に読んでみると、そうでもないですね。現代日本語で書かれていて理解可能なレベルです。

「意識」とはなんなのでしょうか。

西田 幾多郎は最初に「意識」を、ある種の統一力の結果であると定義しています。そんなものかと思う設定ですが、この設定がとんでもない結論を生むことになります。

個人それぞれは、「活動的統一力」によって意識が発生して、人間らしくなっているわけですが、、「活動的統一力」はよく観察するとあらゆるものにあるわけです。犬にも猫にもありますよね。個体として活動して、ある種の意識生命体と判断できますから。
では物質には意識はあるのでしょうか。意識を、「活動的統一力」とするなら、物質にも結晶を作るなどの統一性があるわけだから、意識があるということになります。逆方向に考えれば、国家にも意識があると言う事になります。、「活動的統一力」によって、ある種一塊になっているわけですから。さらに世界、宇宙とどんどん拡大できます。

この調子で「活動的統一力」を展開する事によって、西田 幾多郎は巨大な論理体系を構築します。ギリシャ哲学、スコラ哲学、ウパニシャッド、大乗、ヘーゲル、カント、ベンサム、をなで斬りです。すがすがしいほどです。


西田哲学をオカルトと判断するのは簡単です。石に意識があると言うのですから、大日本帝国に意識があると言うのですから。
だけど、現代科学がどれほど私たちに「意識」というものを説明してくれているでしょうか。全くお手上げ状態です。何も説明してくれていません。精神と物質を明確に区別する二元論に立脚する現代文明は、「意識」をうまく説明できない構造になっているのでしょう。

まあ例えば、私が右腕を動かそうとして実際に動かしたとします。私の意志が脳内のシナプスに働きかけて、その結果腕を動かしたということになるのでしょう。そうなると、意思と最初のシナプスとの間にサイコキネシス現象があったということになります。突き詰めればオカルトになります。
コンピューターに個人の脳内の情報をすべてぶち込めば、そのコンピューターの上空に意識が発生するのでしょうか。このように突き詰めればオカルトになります。

西田哲学には説得力があって、現代社会の欠陥を明確にしてくれています。

だけど私は今の世界、そんな嫌いではないですよ。いいところもいっぱいあるのではないでしょうか。大事なのはこの世界にマジにならない、ということだと思います。何かを思いつめて自殺したり、仕事しすぎて精神を病んだりしてはつまらないということです。なぜなら、この現代世界には欠陥があるのですから。意識や意思や愛や神など、人間が本当に知りたいであろうことの、その中心部分は盲点に入ったかのように見えなくなるわけですから。