magaminの株と歴史の雑感

株と戦前の昭和史について考えます  

カテゴリ:哲学読書日記 > ヘーゲル

かつてアフリカからアメリカに、黒人がひどい扱いで奴隷として運ばれたというのはよく知られている。イギリスひどいみたいな、ネットの議論もある。 しかしなぜアフリカの黒人は、あのような奴隷船に乗せられ、システマティックに運ばれていったのか不思議ではないだろうか。彼らにも親やふるさとがあっだろう、と普通は考える。   ヘーゲルの「歴史哲学講義」のなかに、アフリカ中南部の描写がある。これがちょっと衝撃的なんだよね。 「歴史哲学講義」のなかでヘーゲルは、東から西に向かって文明が進歩していると語っている。中国が最低で、ヨーロッパが最高ということになる。現代日本人としては受け入れにくい論理なのだけれど、19世紀前半という時代背景を考えれば、ヨーロッパの無自覚差別主義者がそのように考えることはありえるだろう。ヘーゲルは中国について書いているのだけれど、これが当たらずとも遠からず、全くでたらめというわけでもない。19世紀前半において、はるか彼方の極東の国について、ある程度は知っているわけだ。  アフリカは中国よりはるかにヨーロッパに近い。ヨーロッパとの関係性も深いから、勉強熱心なヘーゲルは、中国よりアフリカの方が詳しいだろうという合理的推論が成り立つ。  ヘーゲルのアフリカに対する評価というのはひどい。中国は歴史がある、だから言及する価値があるけれども、アフリカは歴史がないから言及する価値がないという。どのように言及する価値がないかということを、ヘーゲルは例をあげて言及しているのだけれど、これがひどいんだよ。    「黒人はヨーロッパ人の奴隷にされアメリカに売られますが、アフリカ現地での運命の方がもっと悲惨だといえます」   このように始まる。  どのように悲惨か? 「現地においてすでに、両親が子供を売ったり、反対に子供が両親を売ったりする」 本当かよ? と思う。 さらに 「黒人の一夫多妻制は、しばしば子供をたくさんつくって、つぎつぎと奴隷に売り飛ばすという目的を持っていて、ロンドンの黒人がつぶやいたという、自分の親族全員を売ってしまったために貧乏になったという、素朴な嘆きは珍しいものではありません」  これが本当だとするなら、おそらく本当だろうけれども、結局どういうことなのかって考える。  この世界って、無条件に与えられているわけではない。歴史がなければ、奴隷に売ったり売られたりして、それを当たり前だと思ってしまうという。その歴史も、当たり前に形成されるわけではなく、かつて何らかの、先人達のきっかけや努力みたいなものが存在していた結果なのであろう。 ヨーロッパ人は原罪という言葉を使うけれども、これを日本語で言えば、歴史に対して義理があるということになるだろう。

「歴史哲学講義」を読み終わった。二十歳の読んだときは全く理解できなかったが、25年たった今、明確に理解できたと思う。 ヘーゲルはすばらしいよ。  近代世界の強さというのは何に由来しているのかというと、ヘーゲルが言うには、「個体の一体性と、その所属する共同体の一体性とが、互いにその一体性を強化しあうようなシステム」にあると。 西洋近代は、一体どこからこの観念を引っ張ってきたのか。ヘーゲルも「歴史哲学講義」の最後で、ちょっと言及していたけれども、プラトンの「国家」からだろう。   ヘーゲルはプラトンの正統な後継者といってもかまわないだろう。   「個体の一体性と、その所属する共同体の一体性とが、互いにその一体性を強化しあうようなシステム」があるとするなら、私たちは、例えばだよ、いい車に乗ったり美人の女を連れたりして、自分の強さを外側にアピールする必要なんてない。外界の評価が自分の一体性を支えるなんて、奴隷を意味するよ。奴隷としてしか生きる道がないのならしょうがない。でもそうではない。 この近代世界には、自分の一体性が強化されうるシステムがあるという。  この世界は生きる価値があるよ。

「自分の人生の難問に取り組むことなくしては、実用的な学問を修めて世の中を渡っていくのは無意味だと思った」 このように私の昔の友達が言っていた。私も同じように思った。  しかしまずもって、自分の人生の難問とは何か、というのが問題なんだよ。何が分からないのか分からないみたいな。でもなんだか違和感があるっていうか。  「自分探し」みたいな物語があって、そういうことに取り付かれる若者もいたりする。それを否定する大人もいて、諦めることが大人になるみたいな。 私は諦めていない、人生の難問を。 結婚して子供も4人いて、トラックドライバーとして働いていても、いまだに昔の疑問を諦められずに、ヘーゲルを読んでいる。  ヘーゲルの「歴史哲学講義」を読んで思うのは、その問題の設定は正しい、しかしその回答は疑問だということだ。 問題の設定がただしい、ということは、すばらしいことだ。そもそも誰もが、自分の人生の難問とは何なのかすら分からないのだから。 ヘーゲルはこのように言う。  「精神が無自覚のうちにかかわりをもつ真理が深遠であればあるほど、その場で経験する精神の疎外は深刻なものとなる。しかし、精神はそうした疎外を経てはじめて真の和解を獲得します」 ヘーゲルはすばらしいよ。   では「真の和解」とは何か?   結論から言えば、「個体の一体性と、その所属する共同体の一体性とが、互いにその一体性を強化しあうようなシステム」、ということになるだろう。 そのようなシステムがあったとして、そのシステムの中で生きるものにとっては、一体性こそが正義であり、善であり、そのシステムそのものは進歩であるだろう。 ヘーゲルのこのような問題設定というのは正しいだろう。ただ、ヘーゲルが世界史がどのように進歩したかという説明に入ると、ちょっと整合性に欠けたところはあるだろうとは思う。ここのところでヘーゲルを批判してもたいして意味はない。 大事なのは問題設定だから。  

「世界に生きる主観として全体の動きに関心をもち、一般的な目的にしたがって行動し、法律を理解し、そこに満足を見いださなくてはならない」  このようなレベルの国民が現れるためには、かなりの歴史の積み重ねがなくてはならないとヘーゲルは言う。  国家と個人の一体性が互いに強化しあうような社会というのは、ついに近代ヨーロッパに現れたところの、ハイレベルな世界観だという。  ヨーロッパ中心主義だとは思うけれども、西洋の威力の中でもがいた日本の近代の事を思い返すと、一概にヘーゲルの言説をヨーロッパ中心主義だといって否定することも出来ない。  しかし、そのようなことを考える時、福沢諭吉のことを思い出す。一体彼はどこから現れたんだ?  一身独立して、一国独立す。 上の人間にペコペコして、下の人間に威張り散らすようでは、人格が確立しているとはいえない。そんなゴム人間が形成する国家というものは、他国と伍して独立を保つというのは難しい。  福沢諭吉は、このようなことを言っていた。これが共感を呼んで、「学問のすすめ」は、明治において空前のベストセラーとなった。  ヘーゲル流に考えれば、日本には明治初期にはすでに、ある程度の共同体意識と平等意識というのが、すでに存在していたということになるよな。 さらに言えば、共同体の善意と、それを信じる強い個人のセットというのが、日本には少なくとも明治初期にはあったということになる。 近代世界へのレールというのが存在していたわけだ。その後の日本の歴史がそれを証明した。 結局、ヘーゲルの歴史哲学の枠組みというのは、ちょっと大げさだった、ということはいえるのではないかと思う。 

ヘーゲル的世界観というのは、いまだに生きていると思う。 個人の一体性と国家の一体性が、互いにフィードバックしあって互いに強化しあうという世界観。 一体性というものが価値を持つ。一体性こそが正義であり、良心の源泉となる。  個人の一体性が国家の一体性を強化するターンと、国家の一体性が個人の一体性を強化するターンが繰り返すのだと思う。近代日本で考えれば、40年サイクルだろう。明治維新から第一次世界大戦終結までが、個人の一体性が国家の一体性を強化するターン。そこから太平洋戦争敗戦までが国家の一体性が個人の一体性を強化するターン。敗戦からバブルまでが、個人の一体性が国家の一体性を強化するターン。バブル崩壊から現在まで、国家の一体性が個人の一体性を強化するターン途中。  景気のいいときは個人が主導し、景気の悪い時は国家が主導するというパターンで、日本は現在2週目となる。  ヘーゲル的世界観においては、この周回を重ねるごとに、国家と個人の自己同一性は高まっていくということなのだろう。    最近思うのだけれど、このようなヘーゲル的観念というのは、訓練みたいなのが必要なのかなって。観念に観念を重ねているわけで、はっきりした根拠というのはないんだよね。 材料から物を作るみたいな、確固とした手触りがない。 しかし実体がないとしても、自分の自己同一性を意識すれば、たとえ無からでも意味というものが立ち現れると思う。

昔、もう25年ぐらい前か、私は大学に通っていて、名古屋の今池というところで下宿生活をしていた。彼女が遊びに来て、くだらないぐだぐだ喋るから、ヘーゲルの精神現象学を読み出した。そしたら彼女、怒って、「私よりもヘーゲルのほうが好きなんでしょ」みたいなことを言う。否定も出来ないから黙っていたら、さらに激怒するし。 その彼女と結婚して、20年たつのだけれど、喧嘩をするといまだに、「あんたはヘーゲルでも読んでればいいのよ」 と言われる。  本当にその通りだな、と思う。  「歴史哲学講義」、岩波文庫での上巻まで読んだ。ヘーゲルは世界史における精神史というものにチャレンジしているのだと思う。これは巨大なチャレンジで、ヘーゲルの時代水準を考えると、哲学史上の頭抜けた業績だろう。世界のそれぞれの文明を、内部から再構成しようというというのは、誠実な知的作業だと思う。ヘーゲル哲学は、誠実で巨大で知的で、方向性としてはすばらしい。  ただその具体的な内容となると、疑問はある。  人間の精神レベルというのは、東から西に行くほど高くなるとヘーゲルは思い込んでいる。中国からインド、ペルシャ、ユダヤ、エジプト、ギリシャ、ヨーロッパ、とだんだんと人間の程度が上がっていくという。中国は民度、最低レベルだから。日本は言及すらない。 19世紀前半、ヨーロッパはすでにインドまで支配していた。ヘーゲルは、中国がヨーロッパに支配されるのも時間の問題だろう、とこの本の中で言っている。ヘーゲルの論理からすれば、当然だろう。東に行くほど人間の精神力は薄弱になるのだから。  ところが実際はどうだったか?  中国はギリギリのところで植民地支配を回避して、現代において巨大な経済大国として勃興しつつある。はっきり言えば、東アジアに何らかの精神的な底力があったことは明らかだろう。 ヘーゲルのどこが間違っていたのだろか。私は、ヘーゲルの考え方に問題があったのではなく、その知的誠実さに足りないところがあったと思う。 ヘーゲルに知的誠実さに足りないとするなら、私たちにはなおさら、知的誠実さが足りないということになりがちだろうということは、簡単に推測が出来る。 ヘーゲルでさえ、未来を予測することは出来なかった。予測をゆがめるバイアスというのは、いたるところにある。

「歴史哲学講義」、序論から本編に入った. 本編に入って、中国、インドまで読んだ。この後、ペルシャ、ヨーロッパと続くのだけれど、近代において19世紀前半のヨーロッパを歴史の最先端とするような日本人としてはちょっとイヤな落ちが予測できる。  普通ならふざけるなって、もう読まないのだけれど、ヘーゲルは特別だよ。おそらく私の上をかぶせて来るだろう。  ヘーゲルは中国の精神状況、さらに言うなら、中国人の自己同一性について描写している。どうせヘーゲルは中国の事なんて知らないだろうと思っていたのだけれど、これが結構的確なんだよね。ヘーゲルは19世紀前半の人で、中国なんてヨーロッパとは一番関係性の薄い地域で、ヘーゲルといえども世界史全体をカバーするというのは難しいだろうと思っていたのだけれど、これがそうでもない。細かいところを突っ込もうと思えば出来るだろうけれど、大筋では間違っていない印象だ。   ヘーゲルの歴史哲学とはどのようなものかというと、人間の自己同一性がある一定レベルを超えると、その人間の集団が「国家」という整合性をもった統一体を形成する。整合性を持った国家は、その成員をより自己同一性を持った人格に陶冶する。人格の陶冶された国家の構成員は、国家という集合をさらに整合性を持ったものへと再編成する。 すなわち、国家と国民個人というのは、その一体性において互いにフィードバックしあい、それぞれの一体性を強化しあうような関係にあり、これをヘーゲルは進歩と考えている。 今日はすばらしいアイデアが閃いた。このすばらしさが分かる人も少ないと思うけれど。  福沢諭吉って、ヘーゲルの半面だろう。福沢は、個人の人格の一体性が完成されて始めて、一国独立するって言っていたよね。「学問のすすめ」だったか。福沢の言う、個人の一体性から国家の独立という考えは、ヘーゲルの補強しあう個人と国家においての、個人から国家へという半面の関係を示している。  では、国家から個人へという、もう半面を示している日本の思想家とは誰か?  徳富蘇峰だろう。  徳富蘇峰といっても、ぴんと来ない人もほとんどだろうけれど、こればっかりは蘇峰の「終戦後日記」を読んでもらうしかない。福沢と蘇峰というのは、ライバルみたいなものだと思うのだけれど、真のライバルというのは、互いが互いを高めあうものなんだね。  国民から国家へ、国家から国民へ。互いにその自己同一性を高めあう。もしかしたら、そういうことってあるかもね。

「歴史哲学講義」の序論まで読んだ。 読んだのはいいのだけれど、47歳にもなってヘーゲルを読んで、何なのかって思う。そもそも今、ヘーゲルなんて読んでるやついるのか。  歳をとるとエネルギーがなくなる。若い時は徹夜でゲームとかやっていたけれど、もう全くゲームなんてやる気にならない。音楽も一切聴かなくなった。ブルーハーツとか好きだったのだけれど。  ただ残ったのは、古典を読むという、これだけだ。ヘーゲルを読んで新しい発見が出来れば、また明日生きる意味が立ち現れるだろうみたいな。    「歴史哲学講義」なんだけれど、ヘーゲルにしてはすごく分かりやすい言葉で書いてあるなと思った。学生向けの講義録みたいな感じで、これでヘーゲルを理解できなければ、救われないだろうという、逆にハードルがあがる感じだね。   内容を私なりに解釈してみる。  ヘーゲルは、近代において人間は自らの自由を認識するにいたったという。近代人には、自由というものが無条件に与えられているとするなら、これは自由主義だ。ヘーゲルは、自由主義を根本に論理を展開していくのかと最初思った。読み進めると、ちょっと違うなという。  自由とか正義とか、このような概念は、何らかの実体があるというものではなく、自己の一体性が確立した所に立ち現れるメタレベルの概念なんだよね。自由や正義を人間が認識するためには、その前段階として、何らかの価値体系が必要だ。だから自由主義の自由や正義感というのは無条件に与えられてあるという考え方は、そもそも間違っている。  このへんをヘーゲルはどうするのか、と思ったのだけれど、さすがヘーゲル、 歴史哲学とは歴史を前提とした哲学であって、歴史を持たない人間集団は歴史哲学体系から排除するという。  すなわち、歴史や国家を持った民族は、ある一定の自己同一性を備えているはずだから、その前提条件を持ってヘーゲルは歴史哲学を語ろうというわけだ。 エリートの哲学だな。  エリートの哲学というと、ヘーゲルには申し訳ないような。 ヘーゲルは出来るだけ誠実な語り口で、個人の自己同一性が、国家の自己同一性へと展開していくはずだという。 だから、個人の自己同一性の実現というのは、ヘーゲルの願いなんだと思う。  前提ではなく祈り。   誠実な哲学者には、その論理のどこかに祈りがこめられているものだ。  自由主義。 自由主義は個人の自己同一性に依存している。個人の自己同一性が祈りであった時は、自由主義には力があった。しかし、個人の自己同一性が自由主義の前提となったとき、リベラルは力を失い始めたのではないだろうか。

哲学なんてもう流行んないですね。難しいうえに役に立たない、お金にならない、ときては、どうしようもない。特にヘーゲルは、哲学の中でも最も難しくて、最も役立たない部類に入ると思います。

ヘーゲルの精神現象学とは、どういう哲学かと言うと、
 人間の民族集団は、それぞれにある一定のルールに基づいた精神世界を形成していますが、その精神世界は過去から未来に向かって進歩発展していくものである、と考えます。で、ここからがヘーゲルのすごいところなんですが、その民族集団の精神世界がその終着駅にまで進歩した時には、人間は初めて人間を理解することになります。もっと分かりやすくいいますと、

人間というのは、同じ時代に生きている同じ集団に属した人間と実感として一番分かり合えて、その時代や集団間の距離が離れるにしたがって、急速に互いに理解不能になっていきます。ところがヘーゲルの人間精神史なるものが完成した時には、自分が歴史のうえでどこにいるのかが分かるようになることによって、過去や未来の人間集団の空気を実感として理解できるようになる、

と言うわけなのです。

ここで問題なのは、人間の精神というものは過去から未来にかけて、本当に何らかの必然性を伴って進歩発展しているのか、ということです。
この問題をスルーしたとして、次の問題は、人間精神史を作るためには、過去に存在した社会をある程度まで再現して、それぞれの社会同志の関係性を詳細に研究しなくてはいけないと言う事です。ちっと考えてみてください。必然性をともなって生成発展する、滅びなかった文明、滅びた文明全てを包括する、人間の精神史。それは驚くほど巨大な論理体系になるでしょう。

職場や学校で、こいつは何を考えてるのかわからないなんていう人もいるでしょう。おじさんやおばさんは、最近の若い人は何を考えているのか分からない、なんて口にしたくなることもあるでしょう。でもその程度のことは、「精神現象学」を読むだけで、たちどころに理解できるようになります。ただ「精神現象学」を読むためのコストが若者を理解するためのコストよりはるかに大きいというのが難点なんですが。



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