magaminの株と歴史の雑感

株と戦前の昭和史について考えます  

カテゴリ:純文読書日記 > 渡辺京二

太平洋戦争前は日本人の共同体願望は近代天皇制に凝固しました。しかし、近代天皇制は日本国内のみに通用する論理で、朝鮮や中国のなかで天皇なんていっても相手にされないのは当たり前です。いくら大日本帝国がアジア共同体を熱望しても、その旗頭が天皇では相手にされる可能性は低いです。

その一敗地にまみれた日本人の共同体願望が、アメリカが与えてくれた日本国憲法の中で再び蘇るわけです。

それが憲法9条。

戦争を放棄するということを世界が受け入れてくれれば、それは世界連邦、世界丸ごと共同体です。日本人の共同体願望への希望は明治国家天皇のかわりに憲法9条が牽引役になるわけです。天皇なんていうローカルなシンボルよりも「戦争放棄」という普遍的なスローガンの方が、日本人の共同体への渇望を満たしてくれる可能性が高いだろうというのは、戦後においては常識的な考えだったと思います。

しかし、あの戦争から70年。世界連邦なんていうのは明らかにムリというのが分かってきました。ですから、共同体願望を持つ日本人は、憲法9条というタームから嫌韓というタームに移動しているということでしょう。憲法9条というものと嫌韓というものは、右と左に遠く離れているように見えて、共同体願望と言う地下道でつながっているのです。

しかしもう明らかなのです。人間同士のつながりを求めるのであれば、日々誠実に努力するしかないのです。天皇だとか、9条だとか、韓国だとかに何かを求めても今さらそれは効果のあることなのでしょうか。町に出てお尻の大きな女の子に優しくするほうが、はるかに自分の共同体願望を満たす事につながるのではないでしょうか。

太平洋戦争の原因というものについにたどり着きました。

渡辺京二の「北一輝」の中に、

「明治維新以降の日本国家は、現実には富国強兵の資本制創設を国家目標としながら、資本制の市民社会論理とは全く異なる住人である村落共同体の基層民を天皇制共同体の幻想でナショナリズムに誘導するというある種のダブルスタンダード政策を採ってきた。それが大正7、8年ごろから破綻し始める」

「今まで村落共同体の中で暮らしてきた人々は、分立する個的利害のゲームの理論である市民社会的論理の只中に引きずり出され、驚愕し、困惑した。しかしあとずさるべき共同体的生活圏は大正7、8年には崩壊にさらされていた」

基層民のなかでは、市民社会への反感、共同体への願望、というものが増進していきます。

「右翼イデオローグの存在理由は、天皇制権力に逆流を始めた基層民の意識に敵を見つけてやる事にあった。このイデオローグの中で最も優秀であった人物が北一輝である」

日本人の増殖された共同体願望というものが、明治国家が積み上げてきたものを全て押し流し、あの太平洋戦争になるわけです。軍部が悪魔だったとか、近衛文麿が馬鹿だったとか、ルーズベルトの陰謀だったとか、ピント外れのたわごとに比べれは、渡辺京二の論理ははるかに私にとってシックリきます。

物事の本質をつかめば、応用問題を解くのは簡単です。
最近、韓国をけなす論調みたいなものが目立ちます。それは、私達の満たされない共同体願望のために右翼イデオローグが、敵を見つけてくれているわけです。共同体願望の意識を反韓国や反フジテレビに誘導しているわけです。それってあまりいいことではないですよね。共同体願望自体は悪い意識だとは思いません。それぞれの人が自分の願望を健全に満たす努力をすればいいと思います。しかし、外に敵を作って自分の共同体願望を満足させようとするのならば、それは安易な道を選択していると言わなくてはいけません。

福島原発が爆発して後、反原発ということでほとんどの原発が止まっています。日本国としては大損害です。原発推進派の論理は
「原発より火力の方がよっぽど人を殺している。石炭を掘り出すのに世界中でどれだけの人が死んでいるのか。それに対して、福島原発の爆発では誰も死んでいない」
といいますが、反原発派の人が問題にしているのは、人の死ではなく、共同体の死です。例えば100人の共同体の中で、一人や二人死んでも何の問題もありません、共同体は生き続けますから。しかし、その共同体の近くで原発が爆発したらどうでしょう。一人も死なないかもしれませんが、非難区域とかに指定されて、共同体は死にます。反原発運動というのは、共同体願望的意識の一つの発現形態なのです。

憲法9条とはなんなのでしょうか。創価学会とはなんなのでしょうか。近代的天皇とはなんなのでしょうか。今まで説明しにくかったものが、この共同体願望の論理を使えば、説明しやすくなるのではないかと思います。


にほんブログ村 なるほどと思った方はクリックしてみてください

このページのトップヘ