magaminの株と歴史の雑感

株と戦前の昭和史について考えます  

カテゴリ: マンガ

森絵都の「カラフル」という小説を読んだ。

自殺したはずの中三の男の子に、他の人の魂が輪廻転生するという設定の話だった。 ネタバレで申し訳ないのだけれど、結末は、他人の魂のはずだったのだけれど、実は自殺した中三の男の子自身の魂が自分自身に転生した、ということだった。

毎週土曜日は、近くのブックオフに行って、108円コーナーで読みやすそうな小説を買って、パチンコしながら読むというのが習慣化している。

で、この「カラフル]という小説なのだけれど、結局これでは、中三の少年が自殺し損ねた後、ちょっと分裂症的な夢を見ていたということになるのではないかな。なんせ、他人の肉体だと思っていたのが、実は自分の肉体だったというのだから。
この小説はアニメ映画化されていて、かなり評判がいいのだろうとは思う。これが感動作だとするなら、その原因は主人公の精神と肉体との明確な分離にあるだろう。
主人公の少年は一回死んだのだけれど、別の魂が充填されて運よくこの世界によみがえった。魂が別人だと思い込んでいる主人公は、けっこう自由に中学生活を送り、いままでのしょぼい世界から一歩踏み出すみたいな。
このような生まれ変わり体験というのは、精神と肉体との明確な分離の結果なのだけれど、そもそも「精神と肉体との明確な分離」というのは、この小説の初期設定だろう? 
初期設定に感動するというのも、ちょっと難しいね。

この本は250ページと短めなんだよね。初期設定を、最後同じ設定に収束させようというのだから、もっと内容的に波乱万丈あってもいいような気がする。 結局は夢落ちみたいなものなのだから。

大して期待せずに見た。主演はキムタクだし、1vs300というキャッチコピーだし。 予想に反して、内容はすばらしかった。 映画という表現形式における評価の基準とはなんだろうか。私たちは、何を持ってこの映画は面白いとか、面白くないとか判断しているのだろうか。 私は、なんらかの「整合性とその根拠」が、その映画内で表現できているかどうか、にあると思う。 「無限の住人」という映画の中で、主人公の剣士は不死の体を与えられている。不死こそは、現代における人間の夢だ。その夢を、主人公の剣士は体現している。 不死とは何か、それは完全な整合性だ。 ここからここまでみたいに、時間が区切られてしまった場合、そこには完全な整合性は存在しえない。整合性を救うためには、過去に天国を設定するか、未来に天国を設定するか、それとも、永遠の時間を生きるか、のどれかしかない。 現代は、永遠の時間を設定することによって、その整合性を維持している。ヘーゲルは、歴史とは様々な地域の競合による進歩によって、個人の精神が確立、解放される過程のことである、と考えた。このヘーゲル的世界観には、永遠の時間というものが設定されている。 しかし、この世界観で世界は救われるかもしれないが、個人は救われないだろう。個人の時間は有限だから。人は必ず死ぬ。 このギャップは根源的には埋められないのだけれど、個人的に、「自分は永遠に生きる」 と思い込むことは出来る。 じつは、このように思い込んでいるヤツは、現代社会においてかなり多い。 自己評価が高く態度のでかいヤツは、たいがいこのパターンだ。 そして、まがい物の整合性に本物の整合性がぶつかったらどうなるか?  どんな天才でも、本物の整合性には勝てない。世界の整合性における個人とは、金や名誉や才能や奇妙な思い込みによって救われるものではなく、自らの整合性を他者との関係により、より強化することによってのみ救われる。 「無限の住人」という映画は、この辺をうまく表現していたと思う。 (以降 ネタばれあり)  そして、あとは整合性の根拠なのだけれど、この映画においては、キムタクに敵討ちを頼む女の子だね。このこはキムタクの昔の連れに似ているという。ただ似ているだけで、整合性の根拠としては薄弱なのだけれど、なんせ主人公が整合性の化け物だから、根拠を敢えて薄弱にしている。このへんは、うまいと思った。キムタクの昔の思い女性は、キムタクのことを「兄さま」と呼んでいたのだけれど、敵討ちを頼む女の子は、キムタクのことを、ことあるごとに「兄さん」と呼んでしまう。 そして最後の最後、死にゆくと思われたキムタクに、女の子は「兄さん」語りかけ、キムタクに「兄さまだろ」と突っこまれる。整合性の完全性と、その根拠の薄弱性のコントラストがすばらしい。 この映画は、今年の実写邦画ではおそらくベストだろう。

話の筋は、まじめ系のアラサー女性が、現代の京都と本能寺の変前日の京都を行ったりきたりするもの。タイムトラベル系ほんわかあっさり映画だった。  話の筋道に取り立てて無理なところもなく、誰もが知っている本能寺の変に向けて、話が比較的たんたんと進む感じが、観るものに安心感を誘う。 現代をまじめに生きようとするアラサー女性向けには、かなりハイレベルな出来になっていたのではないかと思う。   まあでも、私のようなオヤジがあえて観るようなものでもない。オヤジって、結婚間近のアラサー女性女性の心の揺れとかには興味がないんだなと思った。

前編、後編の2部作制で長い映画なのだけれど、暇と心の余裕のある人は十分に楽しめるだろうという、一定レベル以上の映画だったろう。   内容は、基本的に警察ミステリーだ。  (以下の文章にはネタバレがあります)   普通、警察ミステリーというのは、警察と犯人との戦いの話なのだけれど、この「64(ロクヨン)」は、警察、犯人、被害者の三つ巴になっている。 私は、映画という表現形式は、「整合性とその根拠」を必要としていると考えている。警察ミステリーというジャンルの場合、「整合性とその根拠」というのは、近代社会の刑法という形ですでに与えられている。というか、ミステリーというジャンル自体が、近代表現形式の小説や映画に対して「整合性とその根拠」を簡単に与えるために開発されたものなのではないかと思う。   話は戻って、この「64(ロクヨン)」という映画の場合なのだけれど、被害者という視点を導入しているので、単純に法律的正義のみを押し出すのは難しくなっている。代わりに、整合性の根拠を提供しているのが、娘に対する父の愛、ということになる。 被害者は、そもそも誘拐犯に娘を殺される。 犯人は、犯行の14年後において2人の娘がいて、被害者にロックオンされた犯人は、娘を被害者に狂言誘拐される。 主人公の警察官、彼には娘がいるのだけれど、引きこもりの末現在行方不明という。 すなわち、娘を失った、もしくは失いそうな父親たちが、協働して一つの世界を構成しようとしているわけだ。「64(ロクヨン)」という映画世界内では、娘を持つ男こそが価値なんだよ。娘を持たない男は端っこ寄ってろみたいなところはある。  「64(ロクヨン)」という映画の「整合性とその根拠」は、父と娘との関係性としての娘というこになる。 私には娘が二人いる。高校二年と小学二年。たしかに可愛い。かわいいのだけれど、もし私の娘が誘拐された場合、この「64(ロクヨン)」の被害者や加害者のように、全身全霊で私が娘を心配できるかというと、ちょっと疑問だ。現実問題として、娘って神様とかそういうものではなく、普通の人格だ。一緒に生活すれば、トイレに行けば飯も食う、いびきもかけば寝言も言う。 現実に娘を抱えている立場から言えば、この「64(ロクヨン)」という映画は、娘というものを持ち上げすぎているという感覚はある。  まあ、だからといって、娘というものを持ち上げられることが気分が悪いといことでもない。  娘は神ではないけれど、天使ではある。

安心して観れる映画だね。 競技かるたなるものを、高校生の5人組で戦うという話なのだけれど、これだけで映画という表現形式内での統一性、整合性、というものは与えられやすい。みんなで頑張る、ということと、物語の統一性、ということとの距離は非常に短い。 かつ、整合性の根拠が「競技かるた」というもので、これが日本の伝統っぽくて、整合性の根拠の説明というのがいらないというのも強みだよね。  すなわち、「高校競技かるた」なるものが、団体戦メインで日本の伝統体現という、映画の存在基盤である「整合性とその根拠」というのを同時に満たしているという、すばらしい題材なんだよね。 たいした技がなくても、映画で前編と後編という、普通なら無理な構成もけっこう軽くクリアーしてしまっている感じだ。これなら、もう一発ぐらい続編がいけるのではないかという感触だ。

正直、グロいところはもうちょっと削れないものかと思う。意味なくグロいのは勘弁。  あと、この映画を犯人当てミステリーと考えたなら、ちょっと力不足のところがある。中盤で、犯人、刑事、キャスター、自称真犯人、が集まるところがあって、そこで、犯人は犯人ではない、自称真犯人も犯人ではない、ということになった。  こうなると必然的に真犯人は誰だ? ということになる。 消去法を実行すると、犯人はキャスター仲村トオルではないかという推測がすぐに成り立つ。結果その通りだった。 そもそも登場人物が限られる2時間程度の映像で、犯人当てミステリーは厳しいと思う。  細かいところとなると、多くのの無理があるだろう。22年前、犯人は肩をピストルで撃たれたのに警察から逃げ切れたこと。年齢の設定の甘いことが気になりすぎること。藤原竜也が整形後であって、整形前と言葉も正確も変わりすぎていること。  以上のことに目をつぶって、この映画の本質だけを判断するなら、悪くはないと思う。犯人に殺された被害者の遺族がチームを組んで真犯人をあぶりだそう、というシナリオ自体は悪くない。さらに、刑事の妹が被害者の一人なんだけれど、この子はちょっとうつ病気味で、生きようとする意志が弱いみたいなところがある。殺される時も弱気なことを言って犯人をガッカリさせたらしいのだけれど、この被害者の兄と婚約者がタッグを組んで22年の時を越え犯人を追い詰めるほどの力を、この死んでいった生きる意志の弱い女性から得たという。  この部分には、映画としての整合性とその根拠が表現されている。  このあたりのところをもっと膨らましていけば、映画としてよりよかったと思うけれど。

かるた競技をやる高校生の話だった。 かるた競技には5人の団体戦というものがあるらしく、「ちはやふる 前編」は、その団体戦の結果にいたる描写がメインだった。 かるた好きがそれぞれの力を生かして団体戦を勝ち抜くということが徹底されていて、映画全体の整合性という面では合格点だろう。気になるほどの無駄な描写というのもなかったと思う。 そして、その整合性の根拠というのが「百人一首かるた」であって、これは日本の伝統で、とりたてて根拠の説明というのは必要とされない。  トータルで、安心して観れる映画だということになるだろう。

私たちは、現代小説や映画を、面白いとかいまいちだとか判断している。しかしいったい、私たちは、どのような基準で判断しているのだろうか。 無数の判断基準があるような評価だろうけれど、私はそうは思わない。 面白いかどうかを決定するような、価値基準のヒエラルキーがあると思う。役者の演技などというものは、このヒエラルキーの下のほうの価値基準だろう。だからこの「3月のライオン」という映画で、神木という主人公役の演技というのは、作品自体を評価するに当たって、たいした問題にはならない。  では、現代小説や映画において、評価基準ヒエラルキーの最上位とは何か。  はっきりいってしまえば、物語の整合性とその根拠が表現できているかどうか、ということだ。  なぜ面白さに、物語の整合性とその根拠が必要とされているのか、というと、結局この近代世界の成り立ちとそのあり方みたいな、ちょっと難しい話になってくると思う。  そして、「3月のライオン」 についてなのだけれど。 プロ将棋世界という限られた世界の話で、なおかつ主人公は奨励会をすでに中学生で突破しているという設定で、この映画においては、世界の整合性とその根拠というのが、ほとんどすでに与えられているという。  主人公が苦境に陥っても叫んでも、安心して観ていられる。現代の水戸黄門時代劇みたいなものだろう。  まあ、ずるいっちゃあずるいんだけど、チャレンジするだけが映画じゃないと思うし、いい意味で一般ウケするなら、それでいいという考えもありえる。

剣道を頑張る女の子達の群像劇形式の小説だった。  そもそも、目的をもって頑張れる人は、必然的に人生が充実しているわけで、剣道を頑張る女の子なんて可愛いに決まっている。読んでいて気持ちいい小説だった。  今、選挙期間中なのだけれど、候補者の中には、暇なヤツっていうのが多いのではないだろうか。それはもちろんまじめに政治をしようと考えている人もいるだろうけれど、お金があって、暇で、虚名に取り付かれているような人が立候補してしまうっていうのがありがちだろう。私の選挙区でも、一級建築士で市会議員を何期も務めて、今回の選挙に立候補している、地元では有名な地主の娘というのがいる。よっぽど暇なんだろうなと思う。建築はどうなっちゃったんだ? この程度の人間には、整合性の取れた主義主張とかありえないと思う。語れることというのは、いかにしたら人を出し抜けるかという方法論ぐらいのものだろう。  対照的に、剣道を頑張れる女の子達ってかわいいね。 私の娘はセブンティーンで、高校で陸上をやっている。女子陸上部は5人いるらしいのだけれど、2年生は娘1人だという。走るのが好きだというのは昔から知っているから、陸上部というのは分かるのだけれど、同学年の仲間ゼロで平然とした顔をしている。どんだけメンタル強いんだよって思う。   頑張る娘はとくにかわいい。

不覚にも泣いちゃったよね。  これまでの日本の戦争映画というのは、反戦映画かもしくはその反動ということになりがちだったのだけれど、この映画は、アニメながら今までのイデオロギーの枠を破ったかのような真理を抱えている。   戦後、あの戦争について多くの事が語られてきたけれども、大概のものが、あの時ああすればよかったみたいな結果論だ。もっと早く降参していればとか、国力を比べれば戦争するべきではなかったとか、東條はクズだとか、近衛はバカだとか。   このような論理に欠けているのは、歴史に対する謙虚さだ。  人間には限界がある。誰も永遠に生きることはできない。人間個人の有限性というものが、人間の世界観の柱の一つだろう。 にもかかわらず、あの時あーすればよかったとか、こーすればよかったとか、失敗の原因はこれだとか、私はこのような傲慢な意見に、強烈な違和感を持つ。 もしかして、お前ら永遠に生きようと思っていないか? 当たり前の論理を展開しているつもりでも、その前提がありえないんだよ。  日本が成長している間は、永遠に成長する、永遠に生きる、みたいな馬鹿げた前提に立脚した思想というのがありえたのだけれど、今の日本においては、その前提条件は崩れた。「この世界の片隅に」という映画は、あの戦争についてやっとまともな議論が出来る時が来たという、まあ、証明みたいなものだろう。

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