magaminの株と歴史の雑感

株と戦前の昭和史について考えます  

カテゴリ:純文読書日記 > 安丸良夫



明治維新から太平洋戦争時の総動員体制までの歴史の流れというのは、国家が天皇制という形式の元に国民のエネルギーというものを出来るだけ吸い上げようとするものだったと思います。国家の手は一般の民衆にまで及んできました。

ここでいう民衆とはなんなのでしょうか。マスメディアではよく「庶民」という言葉を使いますよね。民衆とか庶民とかというものは漠然とした言葉であって、私なりに定義しなおするなら「都市部下層民」「ブルーカラー」ということになると思います。

ブルーカラーとはどのような人たちか知っていますか? 

昔魚屋だったという職場のおじいさんから聞いた話です。そのおじいさんの名前を仮に中島さんとしておきましょう。昭和60年ごろ中島さんは川崎小杉近くの魚屋で働いていました。魚屋のある同じ建屋に肉屋と八百屋も入っていて、当時このような形式の集合店舗を「ストアー」と呼んでいました。
小杉のストアーに入っていた肉屋は夫婦2人でやっていました。2人とも当時45歳くらいで、旦那はハゲ、奥さんはブス、中島さんが言うには、その奥さん、山田邦子を太らせたような感じだったそうです。その当時、周りには大きなスーパーが出来始めていて、ストアーの売り上げは落ち始めます。肉屋もそう。収入を補おうと、奥さんはスナックを始めます。中島さんも付き合いで、肉屋の奥さんが始めたスナックに何回か行ったそうです。すなわち肉屋の奥さんは、昼間はスッピンで肉屋を、夜は厚化粧をしてスナックを、です。
肉屋の旦那は、自分の奥さんに男が出来るのではないかと心配で、毎日奥さんのスナックに行って奥さんを監視するのです。
カツラをかぶって。
繰り返しますけど、その奥さんというのは45歳位で山田邦子を太らせたようなブスですよ。
中島さんはおかしくてしょうがないわけです。昼間は汗だくになって肉屋で働いている夫婦が、夜は、ブスの奥さんはスナックで厚化粧のママ、ハゲの旦那はカツラをかぶってカウンターの隅で奥さんの監視ですから。
結局、その夫婦はどうなったのかというと、なんとその奥さんに男が出来て離婚する事になったらしいです。

私は、この肉屋の夫婦を馬鹿にするつもりなんか全くなくて、逆に生活に対する貪欲さというものに感心します。

明治維新以降、日本という国家体制は、このようなブルーカラー的エネルギーを徐々に内側に抱え込む事により巨大化したのでしょう。巨大化しなければ、当時帝国主義と呼ばれていた近代世界システムの不条理の中で、日本は生き残っていく事が出来なかったのですから。
日本が具体的にどのようにして国家システムを巨大化させたのかというのは、私が「近代天皇像の形成」の1章から8章まで紹介してきたとおりです。



江戸時代中期以降、日本民衆の中で「通俗道徳」というものが発達してきます。「通俗道徳」は勤勉、倹約、正直、憐れみ、などの徳目から成り立っていて、この「通俗道徳」を守ることによって、村や家を次代に繋げていけると信じられていました。
この「通俗道徳」が地域社会で有効に機能するためには少なくとも2つの条件が必要です。1つ目は、村落や家の指導的役割を果たす人間が「通俗道徳」を厳守する事。2つ目は、村落指導者層に権威を付与するための体制的サポートが存在する事です。

明治14年に始まる松方デフレによって、農村地域は厳しい状況に立たされます。村落指導者層には村を維持するという使命感を持って伝統を実践した人も多かったでしょう。
私も日本人ですから、このあたりの感覚というのは分かります。
松方デフレ下、村落指導者層は「通俗道徳」を強化し、村の祭りとか習俗とかのハレ的要素を抑制しようとします。村の秩序を再構成するための権威の源泉として天皇制がよりどころとなりました。

天皇というものは、村落指導者層という国家と民衆の結節点であるところの者を最も拘束したのです。

ここで思い出すのは橘孝三郎です。
橘孝三郎は515事件に参加した民間人です。昭和初期、彼は、農本主義的、まあすなわち「通俗道徳」に秩序付けられたところの農場を立ち上げようとしていました。昭和初期のデフレで荒廃した農村を再生するためのモデルを作ろうとしていたのでしょう。そんな時、海軍の仕官に515事件の参加を要請されるのです。農本主義もいいが、社会の仕組みを変えることも農村を救う事になるのではないかと説得されたのです。橘孝三郎は、自分には妻も子供もいるし未来を託す農場もある、危ない話には参加したくない、と最初思ったそうです。しかし次の瞬間、かれは頭の奥で、

「卑怯者」

という声を聞きました。
橘孝三郎はこういっています。

「そして私は515事件に飛び込んだ」

農村指導者層の、村を維持しよう、日本を維持しようという、執念というか魂というかそんなものを感じます。農村指導者と天皇制は、互いが互いを必要としあうことにより成立していて、国家はそこから国民的エネルギーを調達しているのです。




日本において民俗行事や習俗に対する権力的規制は、17世紀ごろからありますが、本格化するのは明治維新以降です。

江戸時代、幕府の民衆に対する指導というのは村の指導者層にかなり依存していています。その結果、例えば、村の祭りなどにおいては若者組はできるだけ祭りを派手にしようとするし、指導者層は村の秩序を守るために若者組などのハレ的行動を抑えようとしていました。

明治政府は、この祭り等の民俗行事に手を突っ込んできます。明治5年、路上での放尿の禁止、裸体の禁止、道や川にゴミを捨てることの禁止、などが体系的に実施されます。さらに続いて祭礼的な民俗行事が禁止されます。
祭りなどは村の祭日であったりしたのですが、明治政府は祭日を国家的に統制しようとします。旧暦から新暦への移行というのにも、民衆を国家に統制しようという目的もあったのでしょう。

しかし民俗的なものを強制的に統制するということは、簡単な事ではないです。実際明治初期においては民衆の騒乱というものが全国的に起こりました。明治政府はこれを何とか乗り切ったわけですが、秩序が崩壊することなく明治国家が国家としての一体性を維持できた理由のひとつが、日本民衆の生き神信仰にあったでしょう。明治天皇は明治5年から明治18年まで積極的に地方巡幸をします。これは日本人の生き神信仰を考え合わせた、明治国家のアピール行動です。

以下の写真を見てください。
イメージ 1

これは昭和天皇の戦後における地方巡幸の写真ですが、日本人の生き神信仰が戦後も死んではいなかったということでしょう。

このようにして明治国家は日本の習俗を、あるときは利用しあるときは抑圧しながら、国民のエネルギーを国家に集め日本の一体性を維持することに成功しました。

このように一般民衆の視点で明治国家を考えれば、人によって明治国家の評価というものが分かれてくると思います。例えば、祭り好きの人にとっては明治国家は呪いしょう。イタコやこっくりさんなどのオカルトが好きな人は、明治国家、余計な事しやがって、と思うでしょう。

私なんかは、明治人は頑張ったなと感謝の気持ちです。



大日本帝国憲法第28条には

日本臣民は、安寧秩序を妨げず、かつ、臣民としての義務に背かない限りにおいて、信教の自由を有する

と書かれています。「安寧秩序を妨げず、かつ、臣民としての義務に背かない限りにおいて」という微妙な文言こそありますが、明治国家には信教の自由は存在したと私は判断します。現代日本においてさえ反社会的な宗教集団に対しては、公安の監視がついて信教の自由が制限されうるわけですから、国家というものが存在する限り完全な信教の自由というものはありえません。

明治国家に信教の自由がまがりなりにも存在した歴史的経緯はどのようなものであったのでしょうか。

明治初頭においては神道を国教にしようとする動きが存在していました。しかしこの神道というものは各派で教義がバラバラらしいですよ。明治初年において統一神道を形成するためにかなりの議論がありました。ただしその内容というのが、高天原はどこにあるかとか、天照大神と高皇産霊神とはどちらが真の太陽か、だとか結論の出ようのないものでした。そんな議論を聞いていた木戸孝允とか大久保利通とかはあきれ返ったでしょうね。国家のための宗教なんだから神学論なんていうのは適当に切り上げてもらえないかと思ったでしょう。神道がそんなことをしている間に仏教側の反撃が始まります。
仏教側の主張というのは、
民衆を馴致するのは仏教に任せて欲しい、仏教には歴史的な積み重ねによる民衆からの信頼がある。さらにこれからの仏教は、仏教内部に抱える祈祷や卜占などの民俗的なものを切り捨て、近代日本の文明開化に貢献する用意がある、
というものです。これは明治政府首脳部には魅力的な意見だったと思います。
結果、廃仏毀釈なんていう政策は撤回され、国家神道は
「皇室歴代の祖宗、国家有功の名臣を祭りし」
と非宗教的なものに後退していきます。そしてそのトータルな結果が、大日本帝国憲法第28条信教の自由なわけです。

明治国家というと、明治初期と15年戦争時をつないで自由がなかったかのようなイメージも存在しますが、そうでもないのですよね。当たり前なのですが、日本には歴史の積み重ねによる多様な思考形態というのが、明治初期においてすでに存在していました。
多数の集団形態の共存、共存の枠組みである天皇制。生存のために、互いが互いを必要としているのです。それは自由の一つの形式であると思います。



前回は平田篤胤の国学について考えてみました。平田篤胤の思想が下から明治維新を支えたとするなら、水戸学は上から明治維新を規定したと言えると思います。

水戸学というのはそもそもが秩序の学問です。天皇-徳川幕府-外様大名-武士-一般民衆 という秩序を大事にしましょうというというものです。支配の正統性が薄い徳川幕府に対しての、御三家のひとつ水戸藩からの側面支援という事なのでしょう。

しかしこれ物事を簡単に考えすぎているところがあります。

徳川幕府に力がある間はいいですよ。しかしその力がなくなってくると秩序の枠組みが流動化してきます。天皇を重んじる事によって相対的に幕府を軽んじるという論理が成立します。さらに状況が進むと、天皇を重んじる振りをして状況を操作しようなんていう人間が現れてきます。

その代表的な人物が真木和泉(1813-1864)です。

真木和泉は久留米の神職の家に生まれます。始めは薩摩藩に接近して寺田屋事件で幽閉されると、その後は長州に接近。最後は禁門の変に参加して戦死します。真木和泉は極端な尊王論を展開しますが、未来の状況にたいして安易な予想を立てていたわけではなく、維新成就は「百敗一成の事」と自分で言っています。真木和泉の人生には、徒手空拳ながらよく歴史にいどんだ人間のマキャベリズム的凄みがあります。

真木和泉には世界に対して何らかの確信があったのでしょう。普通の人間は、マキャベリズム的に状況を操作しようとすればそのうち何が何だか分からなくなってきますよ。
真木和泉の「確信」がうらやましい。



平田 篤胤(ひらた あつたね)1776-1843は江戸後期の国学者です。

江戸時代も後期になってくると一般民衆の知的レベルも上がってきます。知的レベルが上がるとはどういうことかというと、自分は何のために生まれてきたのかとか、この世界はどのような仕組みになっているのかとか考えるようになるという事だと思います。

江戸幕府なんていうものは結局強いものが天下を丸めたというだけのもので、そこには支配の正統性なるものが少ないのです。18世紀も後半になってくると、日本においてウエスタンインパクトが強くなってきて、武力だけで民衆を統率するというのが難しくなってきています。民衆の精神の中にまで手を突っ込み、日本国民全体を精神秩序のイデオロギーにまとめる事が必要になってきます。

いろんなまとめ方があったでしょう。その当時一番有力なイデオロギーの一つが平田 篤胤の草莽国学です。

平田 篤胤の論理というのは部分部分を取り出してみれば神国日本中心主義で、現代はもちろん当時においてもついていけないところがあるのですが、トータルで考えてみると、日本の民族信仰を丸ごと包摂しながらそれに秩序を与えようという、きわめてエネルギッシュな精神動態です。現代から見れば、幕末に何故あのような尊皇攘夷という奇怪な思考パターンが存在したのか不思議に思うのです。しかしそれは物質的に満たされ、日本の独立が当然と思われる現代から過去を見たときの感想であって、当時にしてみれば、民衆の精神世界にまで踏み込む秩序の論理の中で最も優秀なものを選択せざるを得なかったという時代の必然性があったのです。平田 篤胤の時代には民俗的世界に根ざした秩序化こそが必要とされていたのです。

靖国神社について考えて見ましょう。
死んだ人間の魂はどうなるのでしょうか。現代においてはいろんな考えがあるでしょう。死んだ魂は現代においては自由なのです。ただ江戸後期となるとそういうわけには行きません。死んだ日本人の魂が当時の社会秩序を掘り崩す可能性があったのです。江戸時代後期においては支配体制の外側に存在する民衆の情念が時代を決定するような可能性があったのだと思います。死んだ人間の魂がどこに行くのか、とくに国のために死んでさらに祭られることのない魂はどうなるのか。民衆の情念にまで、死んだ日本人の魂にまで踏み込んで秩序づけるのが草莽国学であり靖国神社だったのだと思います。

現代においても、混沌ウェルカムみたいな人は靖国神社なんていうものは必要ありません。しかし精神的なものに何らかの秩序が必要だと考える人なら靖国神社は一つの選択肢であるとは思います。



江戸幕府というのは庶民の生活の中にまでは手を突っ込んではきません。現代において課税というものは個人単位もしくは家族単位ですが、江戸時代においては村単位です。まあ17世紀においてはその程度の統治体系で十分だったのでしょう。

しかし18世紀になると日本庶民の精神レベルというのも上昇してきます。此岸の統治体系である幕藩体制の外側に民衆の生活実感みたいなものがリアルに成長してきます。

その一つの例として大杉大明神の大流行が上げられています。大杉大明神とは1727年常陸から始まり上総下総をへて江戸へ広がった流行神で、多数の華麗な神輿の行列が出て大群衆が集まったそうです。
徳川支配体制のその外側には民衆的情念なるものが存在していて、きっかけさえあれば、集団意識のような感じでその情念は此岸に噴出してくるのです。

18世紀末から19世紀初頭にかけて、日本において西洋からの圧力というのが徐々に強まってきます。そのような圧力の下では、徳川支配体制の外側にある民衆の情念にも「秩序性」みたいなものが現れてきます。
例として挙げられているのが大塩平八郎の乱。
大塩平八郎の乱において蜂起勢は、中央に「天照皇太神宮」、両脇に「湯武両聖王」「八幡大菩薩」と書いた旗を掲げていたそうです。ここには情念が歴史の蓄積とつながる事により、価値の秩序のようなものが見えてきます。

何かを知る事が自由への道なのでしょうか。それとも反対に何も知らない混沌こそが自由なのでしょうか。

18世紀末、日本の民衆は何も知らない混沌としての自由という枠組みから一歩踏み出したのだと思います。



世界はどのような仕組みになっているのでしょうか。日本人ですから、まず日本の事を考えていこうと思うのです。現代日本は結構自由な感じでみんなやっていると思うのですが、本当に自由なのでしょうか。本当に何も前提条件はないのでしょうか。

この本は日本近代を考える上で、一つの到達点だと思います。ですから詳細に考えていこうと思います。

紀元1600年前後、信長秀吉家康時代。封建制の時代だったのですが、「天下」という統一日本を表現する言葉が存在していました。北は津軽から南は薩摩まで、日本は一つにまとまるべきだとまではいえないのですが、まとまった方がいいという程度のコンセンサスは存在したのです。その日本を貫く3つの要素というのが、

1 武威をテコとした権力的支配秩序
2 天皇を頂点とする儀礼的秩序
3 伝統的宗教による宗教的宇宙論的秩序

となります。

徳川幕府というのは、儀礼的秩序や宗教的宇宙論的秩序にも気は配ってはいるのですが、基本的に「武威をテコとした権力的支配秩序」がメインの政体です。鎖国体制を敷いていますから、国民の心の中まで手を突っ込む必要はなかったのです。

荻生徂徠(1666-1728)という儒者がいたのですが、彼は「政論」という著作の中で、
徳川幕府の支配体制というのは甘いところがある。権力的支配秩序のみでは、今は太平かもしれないが近い将来、この放置されている民衆の情念のようなもので徳川支配体制がひっくり返る可能性がある。徳川幕府は支配の枠組みを物理的なものからもっと精神的なものにまで広げるべきだ、
と言っています。

これは驚くべき慧眼だったと思います。現実に明治政府は徂徠的なものを実行しましたから。

明治国家自体は滅びましたが、その明治国家精神の延長上に私達は生存しています。

日本には祭りというものが存在します。都市部や臨海部においては夏祭りが主流です。江戸時代においては、この祭りというものは民衆の精神を開放する場でした。この精神の開放度合いというのが現代の比ではないのです。江戸時代、祭りの絶頂においてはフリーセックスになったり、祭りが終わらないということになったりしていました。フリーセックスなんて嘘だろう、と思うかもしれませんが本当です。祭りが終わらないというのはどういうことかというと、「ええじゃないか運動」のように一つの村で始まった祭りが、他の村々に伝播していくのです。

現代において私達は自由に生きているようですが、精神面においては江戸時代の民衆に比べてさえ、本当に自由であると断言は出来ないのです。





出口なお(1837-1918)は大本教の教祖です。

出口なおが「神がかり」をしたのは56歳です。彼女はものごころついたころから社会の最底辺で必死に働きます。古きよき日本人女性によくある献身的な働き、現代から見ればほとんど捨て身の働きです。彼女の場合、その捨て身の働きは生活向上の結果には結びつきませんでした。理由として、父や夫や長男のだらしなさ、明治という時代の厳しさ、などがあげられるでしょう。

ここで問題なのは、まず何故日本人は捨て身の労働をするのか、ということです。現代日本にも過労死やブラック企業問題などに明らかなように、この捨て身の精神は継続して生き続けています。

江戸時代中期に「通俗道徳」と呼ばれる民衆の倫理観が確立されます。通俗道徳の徳目の内容は、勤勉、倹約、正直、憐れみ、などから形成されていています。通俗道徳は、これを村全員家族全員で守ることによって、村や家を次世代につないでいくという、当時においてほとんど唯一の倫理思想なのです。最低でも江戸中期にまで遡れる倫理思想ですから、近代天皇制よりも古い、すなわち近代天皇制の下部構造を構成したような倫理思想です。日本人の心の深くに食い込んで、「通俗道徳」は現代日本人にも引き継がれているのでしょう。

この通俗道徳が効果を発揮するためには、二つの条件が必要です。まず一つめは、これを全員で守るということです。二つめは、社会的上昇のチャンスが開かれてあるということです。出口なおのようなぐうたらな夫をもったり、初等教育を受けていなかったりすると、この二つの条件から外れる事になります。出口なおは56年間頑張りぬいて尚且つ家族の生活が破綻しているのをみて、社会が正しく自分の努力が足りないという考えを転換し、自分が正しく社会が悪いというトータルな自覚に至ったのです。

これは一見傲慢な考えのようですが、56年という時間をただひたすら自分以外の人間に捧げ尽した者のみに許されるある種の預言者状態だと思います。

私は近代において日本というのは頑張ったと思います。その結果として今の日本があると理解しています。しかし、誰が頑張ったんでしょうか。明治天皇や伊藤博文だけが頑張ったのでしょうか。根源的には出口なおのような人たちのまさに無数の捨て身の献身こそが日本を結局は支えたのだと思います。



日本という国はお金を稼いだだけでは評価されませんよね。

ある集団がお金を稼いで、そして日本という国で皆が認める貢献をして初めて、その集団は日本指導者層ヒエラルキーに参加できます。日本において社会的に認められたと実感するためには、この日本指導者層ヒエラルキーに参加する必要があります。このヒエラルキーの最上位に天皇制があるのです。

多くの新興企業のホームページでは、社会に役に立つ企業、とか、アリガトウを集める、とかのキャッチフレーズが前面に掲げられています。
例えば、
3097物語コーポレーションは、
私達は自らを磨き、自ら意思決定が出来る、「自立した人」を目指します
とあります。
6059ウチヤマホールディングスは、
人の喜びを創造する企業であること
とあります。
株主なんていうのは、成長性とかPBRとかそんなものしか観ていません。ではその偽善的なキャッチフレーズは何のためにあるのか。結局のところ経営者の、日本指導者層ヒエラルキーに参加したいという社会的な願望の結果です。

日本において何らかの集団の指導者は、天皇制を頂点とする日本的ヒエラルキーに参加しようとすることによって、自らを正当化し自らを励まして、日々のエネルギーを調達しようとしているのです。
天皇制というものはかなり開かれた存在で、このような多くの集団から力を付与されています。そしてそれぞれの集団は、天皇制ヒエラルキーに参加しようとすることによって、自らを鼓舞しているのです。
全体として日本は成長していくわけです。これはね、実にうまく出来たシステムだと思います。

しかし、真に自由な人間は、天皇制なんていうものを必要とせずに、自らを励まし自らを開放していくべきではないでしょうか。

まあ私のような日本的ヒエラルキーに何の関係もない、一介のブルーカラーがえらそうな事を言ってもどうしようもないことなのですが。
天皇制というものが、日本において実質的な存在価値があるということは認めます。しかし遠い未来に日本人が天皇制を越えたもっと普遍的な価値を見いだすであろうことを、私は期待します。





このページのトップヘ