<「人は大河の一滴」
 それは小さな水の粒にすぎないが、大きな水の流れをかたちづくる一滴であり、永遠の時間に向かって動いていくリズムの一部なのだと、川の水を眺めながら私にはごく自然にそう感じられるのだった。>
(p31)

 雨粒は、天から落ちて、地上に集まり、川の流れとなって海に注ぐ。海ではまた蒸発し、再び天に帰る。人のいのちはこの雨粒のようなもの。それは、しょせん雨粒なのだが、雨粒の1滴無くしては、滔々と流れる大河も存在することはできないのだ。そんな、五木寛之氏の死生観、人生観、宗教観を著したものが、「大河の一滴」(幻冬舎)である。


大河の一滴
  • 五木寛之
  • 幻冬舎
  • 500円
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書評



 五木氏は、少年時代に敗戦により、旧植民地から弟と妹をつれて、命からがら日本へ引き揚げた体験を持っている。このとき五木氏はまだ13歳。38度線の境界を、彼は妹を背負い、弟の手を引いて走った。弟が力尽きて倒れれば、迷わず置いていくつもりだったと言う。そのような体験が、五木氏の思想に大きな影響を与えたことは想像に難くない。

 五木氏は、親鸞の思想に共鳴しており、本書にも「親鸞」の教えになぞらえた箇所がある。例えば、次のようなものだ。

<「浄土へと往生する」という意味は、生前どのような人であったとしても、すべての人は大河の一滴として大きな海に還り、ふたたび蒸発してそれに向かうという大きな生命の物語を信じることにほかならない。>(p39)

 しかし、人の生は、苦の連続である。仏教では、生・老・病・死を四苦とし、これに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦を加えたものを八苦と呼んでいる。人は、大河の一滴として、永遠に生命のサイクルを繰り返す。それだけでは、ただ輪廻の輪に囚われているだけだ。人は、輪廻転生し、未来永劫苦しまなくてはならないのか。しかし、ここで、五木氏は次のように言う。

<人間は生まれてきて、生き続けてきて、生きている存在。そこにまず人間の一番大きな価値があるのだ>(p109)

 そう、人は、生きているだけで素晴らしいのだ。これに気付く事、これこそが輪廻の輪から抜け出す道、すなわち解脱ということなのだろうと思う。五木氏も述べているように、かって、お釈迦様も人を四苦八苦を抱えた存在と見なすところから始まった。しかし、どんなどん底にあっても、がんばらなくてもいいのだ。人は「がんばれ」と言われれば、かえって辛くなるときもある。ただ生きているだけですばらしい。この言葉を私たちはもっと噛みしめなければならないのだ。心が疲れた時、寂しくてたまらないときは、ぜひ読んでほしい。一度ではなく何度も何度も。次第に心が軽くなってくるのだ感じられることだろう。

 なお、この本は、「本が好き!」さまを通じて献本していただいたものです。お礼申し上げます。

安田成美/大河の一滴

安田成美/大河の一滴




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