本書は、この分野の第一人者である木田元さんによる、ハイデガーの思想についての解説書である。ハイデガーと言えば、ただちに思い浮かぶのは、その主著である「存在と時間」だ。この書は、その後の思想史に計り知れない影響を与えた。しかし、木田さんによれば、「存在と時間」とは、未完の書だという。元々は、表題の下に、「上巻」という文字が印刷されており、本書の全体の構想を見ても、第1部の第1篇、第2篇しか収められておらず、肝心の本論は下巻の方で展開される予定だったというのだ。だから、ハイデガーが考えていたことを理解するためには、書かれていない下巻に、彼が何を書こうと考えていたかも含めて、考えなければならないという。

 序論に書かれていることからは、彼は、存在一般の意味の究明を狙っていたようだ。しかし、上巻では、その準備作業としての人間存在の分析に終始しているために、従来は、実存哲学の書や哲学的人間学の書として読まれていた。しかし、ハイデガーは、このような読まれたかをすることに、一貫して否定的な態度だった。

 ところで、「存在とは何か」ということは、古代ギリシャ以来西洋哲学学がといつづけてい根本的な問いだという。本書によれば、ハイデガーは、存在一般の意味を問うことにより、<存在>=<生成>という存在概念を構成して、アリストテレス依頼の、人間中心で、自然を死せる質料と見る機械論的自然観を覆えそうとしていたという。しかし、その企ては、結局成功せず、下巻は未完のまま終わった。それではなぜ、失敗に終わったのか。

 著者は、その理由も推測しているが、これがなかなかに難解だ。「現存在」だとか「存在了解」とか、何度読んでも理解に苦しむような哲学用語が並んでおり、ロジックの方も、正直なところ良く分からない。木田さん自身も、別の著書で「哲学は何の役にも立たない」と述べているが、こういった哲学用語満載の意味の取りにくい文章を読むと、本当にその通りだと思ってしまう。

 しかし、間違っていることを恐れずに、書かれていることを超意訳してみよう。どうも、ハイデガーは、人間が、存在という視点を設定し、その中に身を置くときに、視界に現れるすべてのものが存在者として見えてくるということを言いたかったらしい。ハイデガーは、この存在という視点を設定する事を、<存在了解>と呼んでいたようだが、木田さんは、この概念こそがハイデガーに壮大な企てを思いつかせるとともに挫折にも導いた犯人だという。<存在了解>というものは、人間の在り方に連動するもので、人間が本来性に立ち返ることの主導権は人間にある。しかし、人間主義的文化の転覆を人間が行うのは、明らかに自己撞着だということだ。

 相当に哲学の方面に精通していないと、思想的な部分を理解する事は困難だが、ハイデガーの人となり(性格的にはかなり難ありの人物だったらしいが)や、「存在と時間」の評価に関する部分を中心に読めばなかなかに面白い。もちろん、この方面の得意な人は、ハイデガーの思想に切り込んでいくのも良いだろう。端的に言えば、未完の書ひとつで、思想史上に燦然と輝く存在になったハイデガー。時代背景というのもあったのだろうが、真の天才とはこんなものかもしれない。たまには、頭を悩ませながら、このような書をひも解くのもまた一興ではないだろうか。


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