雲が行くまで待とう

音楽(8割がたクラシック音楽)と本を中心にしたブログです。あらすじの紹介はあまりしていません。 なお、以前に別のブログから引っ越して来たり最近ブログのURLを変更したりしたため古い記事内のリンク先URLがエラーになってしまいます。申し訳ありません。

20170809_053613475_iOS国立新美術館でのジャコメッティ展を見る。

彫刻ばかりでなく素描なども展示されていて、かなり網羅的な展覧会だった。

かつて私はこの人の彫刻がどれも細長いことに「外界との緊張関係に耐えかねて我と我が身を削って行った結果」を見ていた。このブログに書いたこともある。

しかし今回は違う意見を持った。ジャコメッティの作品は常に「視る」と言う行為からまっすぐに導き出されている。目に映るものをどう描くか、どう形として表現するかが中心的な関心で、その難しさがああ言う形態を取るのだと思う。

以前は分かっていなかった。

水準の高い展覧会を実現させた皆さんに敬意を表します。勉強になりました。ありがとうございました。


劇作家で俳優のサム・シェパードが亡くなった。73歳。ALS(筋萎縮性側索硬化症)を患っていたのだそうだ。

この人が脚本を担当した「パリ、テキサス」と脚本を書き主演もした「アメリカ、家族のいる風景」はどちらも私にとって忘れがたい作品だ。

ご冥福をお祈りします。

コリン・デイヴィスがバイエルン放送交響楽団を指揮したブラームスの2番のディスクを聴く。

この人の音楽づくりは、スコアから読み取った音楽の論理展開と響きとを追求することを片時も離れることがない。表現が勢いに流されてしまうことが決してない。この人の演奏でオケがきつい響きを出したり急いたりしたら、それはスコアにそう書いてあるのだ。

この指揮者の演奏を聞いていると「身を委ねていればブラームスのところに連れて行ってくれる」という安心感をおぼえる。聴き終えた時には、ああこれは本当にいい音楽だ、と心から思うのだ。

実に素晴らしい指揮者だ。

「ある作家の日記」を読む。ヴァージニア・ウルフの日記を夫君レナードが編んだもの(神谷恵美子訳、みすず書房)。1918年から1941年までの日記が収められている。

彼女の多くの作品の成立過程を知ることができるし、彼女が自分の作品に対する批評に傷つきあるいは気を良くした記述からは、作品の評判に無関心ではいられず心が揺れ動くありさまが伝わってくる。

そしてまた後半では、ドイツ軍による爆撃に翻弄される第二次世界大戦真っ只中のイギリス人の生活と心理を知ることができる。

フォースターやジョイスなど同時代の他の作家についての言及も興味深い。私にとって一番印象的だったのは次の言葉だった。

今私はプルーストに埋没しているのだけれど、プルーストの特徴というのは、極度の感受性が極度の根気づよさに結びついているところにある。彼はこれらの移ろい行く色の最後の一点まで追求する。(101ページ)

なるほどなあ、と感じ入ってしまった。プルーストの本質をこんなに鮮やかに切り取った文章に出会ったことはなかった。

編集者である夫君レナードの序文も勉強になった。例えば次の一節。

最善の場合、そして全然削除されていない場合でさえ、日記というものは筆者の肖像をゆがめるか、またはその一部を描き出すにすぎない。ヴァージニア・ウルフみずからこの日記のどこかで記しているように、或るとくべつの気分-たとえばいらいらとかみじめさとか-だけを記録するという習慣におちいり、その反対の気分であるときには日記を書かない、ということになりやすいからである。こうしてできあがった肖像は従って初めからバランスのとれないものであって、もしだれかがさらにその上、もう一つべつの特徴を意図的に取りのぞくとすれば、それはおそらく単なる漫画になってしまうであろう。(viページ)

言われてみればもっとも至極なのだが、私は今までこう考えたことがなかった。日記を読む時の基本的なアプローチを教えてもらった。

シューマンの交響曲第2番をバーンスタインの指揮するウィーン・フィルのDVDで聴く。1985年の収録。

バーンスタインのシューマン2番と言うと、私にはPMFオーケストラを指揮した「バーンスタイン最後のメッセージ」のディスクでの演奏がまず思い出されるのだが、ここでのウィーン・フィルとの演奏も凄い。第1楽章序奏のソステヌートが既にただならぬものがある。

第3楽章のアダージョ・エスプレッシーヴォに特に圧倒された。この音楽はロマン派の作曲家が書いた最も美しい緩徐楽章の一つだと思うが、バーンスタインのなみなみならぬ感情移入のおかげで、凄絶さすら感じさせる深い表現になっている。

尋常でない曲の尋常でない演奏だ。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番変イ長調をグールドの演奏で聴く。1956年の録音。

ここでグールドはこの曲の巨大さと距離を取って明晰な表現を目指していると感じる。第1楽章の分散和音の楽句のクリアーさが、清冽と言いたいような印象を与える。

「『ない仕事』の作り方」と言うみうらじゅんの本を読む。

この本はAm氏に薦めてもらった。私はみうらじゅんが作り出した「マイブーム」と言う言葉を使ったことがないし「ゆるキャラ」についても没交渉なのだが、思いもよらなかった発想があるからと、忠告の意味も兼ねて推薦してもらったからにはきちんと読まねばならない。もちろんこの人の本は初めてで、どこの売り場にあるのか本屋で店員に聞かないといけない有様だった。「サブカル」の棚にあると教えてもらって、そう言えばサブカルチャーと言うものにもとんと縁がないなあ、と思うくらいの門外漢と言うか場違いと言うか別世界と言うか、要するに何も知らずに読み始めた。

そうすると、この人がとても真っ当な考え方を持った人であることがよくわかった。誰もしていないことを仕事として創り出しているからと言って非常識な人では全くない。していることは突拍子もないのだけれど、突拍子もないことをする理由を説明するときの論理は筋が通っている。

「私が」では考えないのだ、自分なくしが大切なのだ、と言う一節(131ページ)を読んで、村上春樹が対談集で語っていた「今、世界の人がどうしてこんなに苦しむかというと、自己表現をしなくてはいけないという強迫観念があるからですよ。」と言う言葉を思い出した。(この本については以前このブログに書いた。)

本を読んだからと言ってみうらじゅんのようにはなれないし同じことはできない。当たり前である。本人も、「私はみうらさんみたいな仕事がしたいと言われるといちばん困る」と書いている(132ページ)。「私は一人で十分。二人いるとうるさいくらいです」と言う。(こう言う発言を、自分を特別視していると受け取るか自分を突き放して見ていると受け取るかでこの人に対する評価が決まってくるのだろう。)

私にとってこの本は、全く知らない世界を垣間見させてくれて刺激になったし、自分の行動や価値観を検証する手がかりになったのでありがたかった。このところ色々とうまく行かないことが多くてどうしたものかと思ってきたのだが、自分が自分がと考えていたからなのかな。

ハーゲン弦楽四重奏団の演奏会を聴く(7月4日、トッパンホール)。

ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第14番嬰ヘ長調作品142とシューベルトの弦楽四重奏曲第14番ニ短調D810「死と乙女」の2曲。

いつもながら緊密な演奏で、目の詰まった音楽を楽しんだと言う印象が残る。ショスタコーヴィッチの終楽章のソット・ヴォーチェでの表現と、シューベルトの終楽章の水も漏らさぬと言いたくなるような高精度のアンサンブルが忘れがたい。

アンコールにハイドンの弦楽四重奏曲 変ロ長調 Op.76-4から第2楽章アダージョが演奏された。

ハンフリー・バートンによるバーンスタインの伝記を、ようやくなかばまで読んだ。

1957年の「ウエスト・サイド・ストーリー」初演をめぐる記述は、この本の前半の山場のひとつだと思う。やはりこれはバーンスタインにとってとても大きな出来事だったのだ。ちょうどこのころ、ニューヨーク・フィルの常任指揮者就任が決まり、いろいろな面で彼のキャリアが花咲こうとしていた。

読んでいても、作品になじみがあるので面白い。「ウエスト・サイド・ストーリー」はこのしばらく前に初演された「キャンディード」と並行して作曲され、二つの舞台作品の間で曲が入れ替わったりしたのだそうだ。"One Hand, One Heart"がもともとは「キャンディード」のために作曲されたと言うのを読むとびっくりしてしまう。私はあの曲を、マリアが働くブライダルショップに閉店後にトニーがやってきてふたりで結婚式のまねをして愛を確かめ合う場面と切り離しては考えられないのだ。

さらに、"Something's Coming"が初演の何日か前に急遽作曲され挿入されたと言う話も驚きだ。あの曲はトニーの「何かが起こりそうだ」と言う予感を歌って、ミュージカル全体の方向性を決め聴き手の期待を高める重要なナンバーだ。これがない形で「ウエスト・サイド・ストーリー」が着想されたということが信じられない。

他にも驚くべきエピソードがたくさんあって興奮するが、初演のてんまつを読み終えて思うのは、大切なのは「秘話」のたぐいではなくやはり作品そのものだということだ。緊密な台本、息を呑むほどすばらしい音楽、切れがあって躍動感に満ちたダンスが、このミュージカルを価値のある舞台作品にしている。

ガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読む。

とても不思議な、そしてとても魅力的な小説だった。

この話には年代の表記もなく、登場人物たちの年齢もほとんど分からない。一行で何年も経過したりするが、一方でずっと同じペースでゆるゆる時が経過してゆく。いつの時代のことなのか、前の記述からどれだけ時間が経っているのか定かでない中で、赤ん坊が産まれ、親や祖父母や曾祖父母や高祖父母の名前をつけられ、名前をもらった親族の容貌や性格を受け継いだり受け継がなかったりしながら成長し老いて死んでゆく。小説の中に同じ名前がずっと登場し続けることになる。

物語の展開する町マコンドが何年も降り続く長雨に降り込められている時の描写に「雨を眺めているよりほかに何もすることがなく、時間を年月日や時刻に分けるのも無意味なので、それが丸ごと、ゆっくりと過ぎていくのを感じているのに違いなかった」と言う一節があるが(242ページ)、これは小説全体を正確に言い表していると思う。

この小説を読んでいると、時間というものが、普段感じているように流れて行って決して戻ってこないものと言うよりは、円環をなしてぐるぐると同じところをめぐっているような、あるいは降り積もって堆積してゆくものであるかのように感じられる。

二段組で300ページを超える長い作品であり、百年をゆうに超える時間とその間に起きる数え切れない出来事について書かれているが、結局この小説はたったひとつの点に収斂する。それが、作中で述べられる「この一族の最初の者は樹につながれ、最後の者は蟻のむさぼるところとなる」と言う命題だ。堆積してゆく時間がみずからの重みでどんどん圧縮されて小さい塊になり、このセンテンスひとつで言い表されるような、手に取れるほどのものになって行くようだ。

これに加えて、死者がしばしば現れて生きている者と言葉を交わし、また、空中浮遊や昇天などの超現実的な出来事が起こるので、読み進むにつれて生と死の境目、現実と夢想の境目がぼやけてくる。あるいは、境目などもともとなかったのではないかと言う気持ちになる。

他の小説で経験したことのない感覚を味わった。

「外資系トップの英語力」を読む(ダイヤモンド社)。

外資系トップの思考力」と同じ発想でまとめられた本で、「英語力」の方が先に出版された。

外資系企業で社長をつとめている人たちのインタビューをまとめた本だが、彼らに共通しているのは英語を手段としてとらえていることだ。従って、話している内容の中心は「どうやって英語を勉強したか」よりも「英語を使って意思疎通する世界に身を置いて何がわかったか」と言うことであり、ひいてはビジネスの本質はどこにあるか、である。この点は読む前からある程度予想していたので、やはりそうだったか、と思った。

逆に思いがけなかったのは「日本のことを知らないといけない」「日本について説明できないといけない」と何人もが強調していることだった。多様性の世界だからこそ、自分のバックグラウンドを大切にしないといけない、それをきちんと言葉にできないといけない、と言う強い気持ちが伝わってくる。

中上健次の「岬」を読む。芥川賞受賞作品の表題作の他に「黄金比の朝」「火宅」「浄徳寺ツアー」の合計4編の中編小説が収められている(文春文庫)。

「彼」や「ぼく」という主人公の独白を中心にして作品が語られて行く。読んでいてその純度あるいは密度の高さに驚いた。一点をめがけて書いていてぶれることががない。

さらに、独白がとても論理的なのに気づいた。人の思いはそもそも脈絡がなく断片的でさまざまに移ろうが、ここでの主人公の思いは一つ一つの思考とその論理的意味がきちんと辿れる。例えば主人公が何かに対して嫌悪感を抱いたとすると、それはなぜなのかがわかるように書いてある。

作者は論証を独白という形で書き表しているのではもちろんない。わかりやすい文章を書こうとしている訳でもない。「揺れ動く思考の流れを通して揺るぎないものを書く」ことを目指しているように私には感じられる。

強い印象を受けたもう一つの点は、登場人物たちの「業」である。多くの登場人物が業にからめ取られ、そこから抜け出すことはおろか身動きすることすらできない。作者はその業を自らの内にあるものとして捉えている。修飾語の少ない短くて硬質なセンテンスがそれを見事に描き出す。


ヘンデルのリコーダー・ソナタをブリュッヘンの演奏によるディスクで聴く。

「作品1」として出版されたソナタ集に収められた作品を中心に、ヘ長調のトリオ・ソナタも取り上げられている。

リコーダーと通奏低音と言うような小さな編成の曲であっても、ヘンデルの音楽は構えが大きくてしかも内容が充実している。雄渾なもの壮大なものが感じられる。ブリュッヘンたちの演奏はそれを的確に表現している。

ブリュッヘンは先年亡くなり、このディスクで共演しているレオンハルトもアーノンクール(トリオ・ソナタにのみ参加)も鬼籍に入った。私はこの人たちの演奏でバロック音楽とオリジナル楽器の響きを学んできた。いや、バロックに限らず、彼らがレパートリーを拡げて行くのに伴って、ハイドンもモーツァルトもベートーヴェンもドヴォルザークもブラームスもガーシュウィンも改めて聴きなおし、目を見開かされる思いをしてきた。

以前もこのブログに書いたことだが、自分にとってガイドをつとめてくれた名人たちが次々と亡くなって行くのはとてもさびしい。

渡辺一夫、鈴木力衛のお二人がまとめ大久保輝臣が補った「増補 フランス文学案内」を読む(岩波文庫)。

フランス文学史のパースペクティブを獲得するのに役に立った。

演劇と詩の重要性に改めて思い至った。私の読書は小説中心なので、もう少し拡げる必要がある。

バルトークの無伴奏ヴァイオリン・ソナタと「2本のヴァイオリンのための44の二重奏曲」からの抜粋をメニューヒンのディスクで聴く。デュオのパートナーはネル・ゴトコフスキー。

二重奏曲は短い曲が多いのだが、音楽がいきなり聴き手のこころにまっすぐ入ってくるような直裁な音楽だ。無伴奏ヴァイオイン・ソナタもその点は共通している。さらにソナタには厳しさがある。

この純度の高さ、虚飾を排してまっすぐに本質に切り込む力の強さは、バルトークの作品を貫く特色だと思う。

トゥルゲーネフの「初恋」を読む(沼野恭子訳、光文社古典新訳文庫)。

この小説は主人公(語り手)の心が恋に揺れ動きふるえるさまを描く。作家の関心は、事件や出来事よりもそれによって主人公の心がどう乱されたかにある。

このような純一さは、中篇小説と言う器でこそ可能になったと思う。

アメリカの鱒釣り」を読んで頭の中が火照ったようになっていたので、それを冷ますには読書ではなくて音楽を、それも、構成のきっちりした音楽ではなくて、と考えて、アイヴズのヴァイオリン・ソナタ集のディスクを聴いた。ヴァイオリンはヒラリー・ハーン、ピアノはヴァレンティーナ・リシッツァ。

複雑なテクスチュアや錯綜するリズムと誰でも知っているような民謡などのメロディがいきなり並置されるアイヴズの音楽はブローティガンとは全く違う形で頭を揺すぶってくれた。

この人の曲は、主題労作-つまり主題の提出と展開-とか変奏とかパラフレーズとか、西洋のクラシック音楽の技法の多くを離れたところで成り立っている。このディスクに収められているのは名前こそソナタだが、伝統的なソナタとは大きく違う世界を持っている。

やっぱりアイヴズは独自の作曲家で、その作品はスケールが大きく奥が深い。


ブローティガンの「アメリカの鱒釣り」を読む(藤本和子訳、新潮文庫)。

読んでいて頭を揺すぶられるような気がした。この本に収められた短編のどれもが、横溢する(あるいは、あらゆる方向に向かって放射されると言う方がまだしも正確かもしれない)様々なイメージに満ちている。使う言葉は平易だが、これが「何のことなのか」「何を伝えようとしているのか」を理解するのは容易ではない。ただ翻弄されているように感じる。

でも読んでゆくうちに、そうやって理解しようとするのをいつしかやめていた。テキストの「意味」を捜し求めるのではなく、テキストの流れの中に身を任せて漂っているような気持ちになった。そうすると、なかなか心地よい文章なのである。

この本の翻訳が日本で刊行されたのは1975年なのだそうだ。柴田元幸は巻末の解説で、当時はノーマン・メイラーらの重厚な作品がアメリカ文学の中心をなしていて、そこにやってきたブローティガンは「かっこよく」て「ものすごい開放感を感じた」と書いている。私は1975年の状況を知らないが、それから40年以上を経て今読んでも、ブローティガンがもたらしたショックなり、彼が開けた風穴なりを感じ取ることができる。

カート・ヴォネガットのような作家もこう言う歴史的文脈で捉えることができるのだろう。

スーザン・ソンタグの「隠喩としての病い」を読む(富山太佳夫訳、みすず書房)。

結核と癌の二つの病気が「隠喩」としてどう機能してきたかを歴史的な文脈の中で捉えようとした本である。

日本で訳書が刊行されたのは1982年だった。私はその年に買ったのに読まずに今日までずっと放ってあった。

この本が書かれた後のがん治療の変化(進歩)やがんに対する捉え方の変化を自分の中で参照しながら読むことになった。一方では分子標的薬などがん治療法の進歩があり、患者への告知もごく当然になったが、同時にがんと言う病気のイメージには根強く変わらないものがある。そして結核も、完全に過去の病気となったわけではない。

病いについて書くことの意味を考えさせられた。

酒井崇男「タレントの時代」を読む(講談社現代新書)。

企業活動の成功の鍵を握るものを情報という視点から捉えて「設計情報」であるとし、その設計情報の質を決めるのは「タレント」と呼ぶべき人材であると規定した上で、タレントを生かす仕組みを提言する。今日の日本のエレクトロニクス産業低迷に対する強い問題意識とトヨタの経営に学ぼうという姿勢が基調になっている。

著者が例に引くアメリカ企業の変化(例えば、採用活動をリクルーティングと呼ばずタレント・アクイジションと呼ぶようになったことなど)やシリコンバレー企業で今何が起きているかは私にとって身近なことなので、読んでいて論点がすっと頭に入ってきた。

この本の論理展開はスッキリしていて、著者はどんどん論を進める。その点から言っても語られている内容から言っても甘口の本ではない。

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