雲が行くまで待とう

音楽(8割がたクラシック音楽)と本を中心にしたブログです。あらすじの紹介はあまりしていません。 なお、以前に別のブログから引っ越して来たり最近ブログのURLを変更したりしたため古い記事内のリンク先URLがエラーになってしまいます。申し訳ありません。

「吉松隆の 調性で読み解くクラシック」を読む。

作曲家吉松隆が、長調の音楽を聴くと「楽しい」、短調の曲を聴くと「悲しい」と感じることを出発点に、なぜそうなのか、そもそも調性というものは何なのかを解説した本である。この人の作品については、「サイバーバード協奏曲」と題されたサクソフォーン協奏曲についてこのブログに書いた

私は自分が行う「クラシック音楽を120%楽しもう」と題したセミナーで調性による響きの違いを説明し、この違い気づくと聴いていてもっと楽しくなりますよ、と話している。共通する問題意識を感じてこの本を読んだ。

調性とは何か、楽器からみた調性、科学的にみた調性、調性の歴史、と言う章立てで書いている。これは当然で、調性そのものについて、さらには楽器の音が生み出される理由について、調性と言うものが確立されてきた歴史にして、と掘り下げていかないと、きちんとした説明にならないのだ。

しかも、きちんと説明するとどうしても、聞いたことがないような言葉を使わないといけない(純正調とか平均律とか言う用語を日常的に使う人はほとんどいない)。さらに、歴史の話をし始めると、何しろ形の残らない音というものを対象にするので、断定的に述べるのはとても難しくなる。

難しい主題を分かり易く説明してくださっている著者にお礼を言いたい。

ジノ・フランチェスカッティのヴァイオリンとロベール・カザドシュのピアノで、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ「春」と「クロイツェル」を聴く。1958年から1961年にかけて録音されたベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集から。

この二人のベートーヴェンについてはイブリー・ギトリスがインタヴューでその明るさを讃える発言をしていた。

確かにこれはさんさんと降り注ぐ陽光を浴びているかのような明るくて陰のない演奏だ。斜に構えない、肯定的なベートーヴェン。「クロイツェル」終楽章のプレストが、まるでイタリア起源の舞曲「タランテラ」の様に響く。

でも同時に、フランチェスカッティの音にはきちんとした核あるいは芯がある。決して、とろけるような(あるいは聴き手の心をとろけさせるような)音色ではない。そして、放縦に陥ることなく、音楽の骨格はしっかりしている。

背筋が伸びた人が話しているのを聴くような、でも厳しさではなく親しみを感じさせる演奏だ。 

ドニゼッティのオペラ「愛の妙薬」を聴く(8月11日、よこすかベイサイドポケット)。

出演は、アディーナが坂口裕子、ネモリーノが後田祥平、ベルコーレが増原英也、ドゥルカマーラが宮本史利、ジャンネッタが服部響子。弦楽四重奏とピアノが伴奏する。

実に楽しい舞台だった。私は筋金入りのオペラ・ファンではないが、幸運にもこれまで東京以外に名古屋、大阪、ウィーン、ベルリン、ハンブルク、ミュンヘン、パリでオペラを聴く機会を得た。今日の「愛の妙薬」は、楽しさから言うとその最上のものに属する。

成功の原因は三つある。

一つは、ソロが皆達者だったこと。声量があるし表現が自分のものになっていた。「でこぼこ」がなく全員が高い水準だったのが素晴らしい。

二つ目は、合唱が上手だったこと。村人と兵隊を「ラ・スペツィア・オペラ合唱団」と言う団体がつとめていたが、オペラの合唱をよく知った人たちで、演技もうまく、とても充実していた。

合唱が上手なのでソリストたちがとても歌いやすいのがよくわかる。非力な合唱だとソロが孤軍奮闘と言う感じになって声を張り上げなくてはならずとても大変なのだが、この合唱はソリストをうまく「乗せて」いた。

三つめは演出の趣味がよかったことである。500席程度の小さい小屋で、オケではなく小編成の伴奏と言う舞台だが、それをうまく利用し、大道具を使わず背景に風景写真を投影し、そこに字幕も載せて、最小限の装置で効果を上げていた。人の動きに無駄がなく(これは、合唱団がオペラに慣れていて動作が自然だったからでもある)、音楽に集中できる演出だった。こう言う風にするのも面白い、と思った。演出家の名前がチラシその他に明記されていなかったのが残念だ。

オペラの楽しさを存分に味合うことができてよかった。

この公演はご当地横須賀出身の歌手宮本史利さんが中心となって実現したものだと思う。その実行力に敬意を評すると共に、ここまでできるのなら定期的に公演し、ロッシーニ(例えば『セヴィリアの理髪師』)やモーツァルト(例えば『コジ・ファン・トゥッテ』)などを上演していただきたい。いや、他にも、「ラ・ボエーム」だって「ジャンニ・スキッキ」だって、あるいは工夫次第で「ファルスタッフ」だって舞台にかけられる。こう言う水準のオペラ上演を重ねると「小劇場のオペラは横須賀に行って見るものだ」と言う定評ができる日も遠くはない。

公演にたずさわった方全員に深く感謝し、今後ますますのご発展をお祈りします。素晴らしい公演でした。ありがとうございました。

三島由紀夫の「近代能楽集」を読む(新潮文庫)。

8月19日にオペラ「卒塔婆小町」を金沢で観るのでその予習を兼ねて。

三島本人が解説で「能楽の自由な空間と時間の処理や、露わな形而上学的な主題などを、そのまま現代に生かすために、シテュエーションのほうを現代化した」と書いている通り、能の作品の設定を現代に移している。

私には「時間の自由な処理」がとても面白かった。例えば「卒塔婆小町」に見られるような、戯曲の中で過去と現在とを縦横に行き来するさまに感銘を受けた。

これは能楽の素晴らしさだろうし、それを十二分に生かした三島の筆の冴えでもある。

村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を仏訳で読む。

私は日本の文学作品を外国語で読む。語学の勉強のためでもあり、また、読み飛ばしてしまう悪い癖のある私にとっては、少しずつ外国語訳で読み原文にも当たることできちんと腰を据えて原作を読むためでもある。

この翻訳はいったん脇に置くことにする。「大手の旅行会社」は「おおて(と言う場所)の旅行会社」だろうか?ショルダーバッグを「たすき掛けにし」は「たすきで(身体に)つけ」の意味だろうか?(話の)「水を向けても」は「温泉の湯の方に視線を向けて」だろうか?

私のフランス語がもっと上手になればきちんと言えるのだろうが、今の私にできるのは、この訳で勉強するのはしばしお休みすることだ。

藤田嗣治の展覧会を見る(東京都美術館)。

彼の画業の全貌を捉えようとした意欲的で大規模な展覧会だった。生涯のほぼ全てにわたる時期の作品が展示されている。

取り上げる題材と作風を何回か変えているが、この人はとても「静かな」絵を描く人なのだと言うことがよく分かった。「争闘(猫)」と題された作品でも、彼の関心の中心は喧嘩をしている何匹もの猫の運動をどう画面に構成して表現するかにある。

1926年の第4回芸術家愛好援助会(AAAA)舞踏会のためのポスターが2作品あって、単純化された色彩と描線が異彩を放ち大変面白かった。

大変勉強になりました。展覧会主催者の皆さまにお礼申し上げます。

最近、豊島区大塚がずいぶん注目されている。放送番組を含めて報道機関に取り上げられることがにわかに増えた。ちょうど同じくらいの時期に、私は縁あって大塚の人たちと会い、話し、一緒に行動するようになった。その中で、大塚の人たちの考え方と行動にはっきりした特色が三つあると思うようになった。私はこれこそが大塚の持つ一番大きな資産だと考えている。「大塚は人にあり」と強く思う。以下説明させていただきたい。

なお、この小文では「大塚の人たち」と言う言葉を使うが、これは私が大塚の方々を誰も彼もひっくるめて同一視したり全員が同じ価値観を持っていると考えたりしているからでは決してない。大塚は年齢も人種も国籍も宗教も異なる人たちがその多様性を生かして暮らしている街である。女性が大変活躍している。

1. 「発信志向」

大塚の人たちの意識と行動の特色は、まず何と言っても街の外に対して「大塚はこう言う街です」「大塚にこう言うものがあります」「大塚でこう言うことをしています」と発信する意欲がとても強いことである。そして、発信が芸事と結びつくことが多い。だから大塚発の行事は会議や展覧会などよりは歌や踊りが中心になる。

その一つの例として「おおつか音楽祭」をあげたい。今年2018年で10回目を迎えた。5月末から6月上旬くらいの期間に、大塚の複数の会場で様々な演奏家たちが弾き、歌い、あるいは踊る。

大塚では一年中発信のための行事が行われている。区や商店街や地元団体が開くものに個別の店が行うものも加えると、行事のない週はないだろうと思う。

2. 「前進志向」

大塚の人たちの意識と行動の特色の2点目は、あくまで前に進もうとすることである。彼らの辞書に「後戻りする」と言う言葉はない。

今年6月に大塚駅南口前の広場で市が立った。初めての試みだった。地元の商店の人たちが食べ物飲み物を販売し、個人も店を出した。当日の天気が怪しそうで、予報では雨になると言うことだったので、朝早く私は主催者の一人に実施するのか聞いて見た。「やります」返事はこれだけ。私が何を気にしているのかは伝わらなかった。

7月の同じ広場での行事は雨にたたられた。私は夕方会場に歩いて向かいながら、霧雨が小雨になり本降りになって来るので困ったなあと思っていた。会場に着いたら皆傘をさしたりして雨をよけながら飲み物を楽しんでいる。生演奏を聞いて盛り上がっている。音楽と同時に踊りもあり、仮設舞台の外で雨に濡れながら踊っている。

結局この日は雨がますます激しくなり、それに呼応して演奏も踊りも熱が入り、観客も傘を閉じて土砂降りの中ずぶ濡れになって皆で踊った。後にも先にもあんなに濡れたことはない、と何人も言っていた。雨は水を差すどころではなくかえって催しを盛り上げた。

私はこの二つの行事で、大塚の人たちには中止とか中断とか言う発想がないのを知った。学校の運動会であれなんであれ、「当日朝6時の時点で主催者が判断する」ような催しが多いが、その判断はどちらかと言うと中止側に傾く。大事を取り、何か起きたらどうなるかどうするか考えると慎重になる。今の日本ではどんどんその傾向が強くなっている。私はある高校が保護者あてに「明日は雪の予報が出ているので休校にする」と連絡したのに驚いたことがある。学校としては、生徒が雪のなか滑って転んで怪我でもして学校の責任問題になるのを避けたかったのだろう。大塚の行事でも、中止の決定が朝下されても、雨足が激しくなって来た時点で中断してもおかしくなかった。

物事をしない理由はいくつも見つかる。曰く「慎重な検討が必要だ」、曰く「それより先に他にすべきことがあるのではないか」、曰く「他の選択肢はないのか」、曰く「時期尚早だ」、曰く「費用に見合う効果はあるのか」、などなど。一方で、物事をする理由は通常一つ、「したい」と言うことだけだ。出てくる意見の数で考えれば「しない」ことになる。逆に「する」のは、推進者に強い熱意や情熱があるか、懸念をものともしない推進力がある場合である。

大塚の人たちは明らかに後者だ。雨の日の行事の判断ばかりではない。新しい試みでも、面白そうだ、やってみよう、と言う気持ちが彼らを前に進める。誰も慎重な検討などと言わないのだ。

これは日本人の一般的な行動様式とは大きく違う。日本人は問題を起こさないように注意深く慎重に考えて、しばしば「しない」ことを選択する。昔日米の首脳会談だったか外交協議だったかで日本側が「前向きに検討する」と回答し、それを賛成と受け取った米国側と否定の婉曲的表現のつもりだった日本側との間でのちに大きな問題になったと言う話がよく知られている。これは大塚の人たちには当てはまらない。彼らが前向きに検討すると言ったらやるのだ。

私は欧米人と一緒に仕事をすることが多いので、この点で彼我の違いをいつも感じている。その経験から言うと、大塚の人たちの前進志向は日本人としては特異だ。

3. 「蟻の巣づくり方式」

大塚の人たちの意識と行動の特色の3点目は、役割分担と協力関係に「蟻の巣づくり方式」と呼ぶべき原理が働くことだ。

蟻の巣は最初に描かれた全体図や設計図に基づいて作られてゆく訳ではない。蟻はその場その場で穴を広げあるいは掘るのをやめる。一匹一匹の作業が巣を作ってゆく。女王蟻の指示などどこにもない。

大塚の人たちの役割分担と協力関係はこれによく似ている。例えば駅前広場で行事をすることになると、誰それは酒屋なので露天での酒の販売を手配し、誰それは音響機材を持っているから持ち込んで操作し、誰それは知り合いの音楽家に出演を依頼し、誰それは仲間と踊り、誰それは慣れた司会を引き受ける。気づいた人が言い、気づいた人がやる。思い思いにしていることが、全体の中にきちんとはまって行く。一人一人の得意分野と個性が発揮され、しかも調和している。こうやって自発的に皆が持ち寄ったもので全体がみるみる出来上がってゆくのは実に面白い。

中心となる人、調整する人、指示し依頼する人はもちろんいるが、大塚の人たちはその指示や依頼があるから動くのではない。ここには統率と言うものはない。あるのは共有であり、しかも共有のために浸透させたり教化したり徹底したりする必要はない。大塚の人たちは、各自の「持ち場」で働くのではなく自分の「居場所」で仕事をするのだ。彼らは一枚岩ではない。あくまでも一人一人の自立と自律に基づいて協力し分担する。それが蟻の巣を作るように物事を形づくって行く。

このやり方に馴染まない人は加わらないか去って行くかする。新しい人たちが加わって来る。新しいとは若いと言うことを意味しない。面白そうだと思う人、自分の「居場所」を見つけた人が入ってくる。その時に、大塚の人たちは純血主義を取らない。歴史のある街だから何代も前から地元で商売をして来た人たちが多いのだが、地元出身でないなどと言う理由で入れてもらえないことはない。彼らにとっては人間関係と信頼関係が問題なのだ。

ここまでは大塚の人たちに見られる意識と行動の特色について述べて来た。逆に彼らにないものを二つ挙げておきたい。

ひとつは「輪番制」あるいは「任期」と言う考え方である。彼らが「前回は私がしたから、次回は他の方にお願いします」と言うのを聞いたことがない。大塚でも役割交代はもちろんあるし、役員が終身制であるわけでもないが、定まった任期を全うし次の人に交代しようと言う意識が薄い。なぜかと言うと、大塚の人たちは「特定の人に業務負担が集中しないように交代して取り組もう」と言う考えを前提としないからである。大塚では業務負担は前述の「居場所意識」によって結果として平均化されるのであって、最初に業務量を見積もってから誰かが平等に割り振っているわけではない。

もうひとつ大塚の人たちの意識と行動にないのは、継続を目的とする考え方である。彼らは今面白いこと、今できること、今やりたいこと、今すべきだと思うことに取り組む。その中には一朝一夕にはできないので取り組みが何年も続くものも多いが、彼らにとって継続は結果であって目的ではない。

こう言う人たちが何人もいると言うのは大変なことだ。「人は大塚にあり」と言う感を強くする。

近年、街づくりの焦点と関心は施設や設備の「箱もの」から、その「中身」に移って来た。あるいは、箱ものと中身を同時に考えようという機運が盛り上がって来た。私は大塚の人たちを見ていて、「人」と言う要素もこれに劣らず大切だと思うようになった。「箱もの」と「中身」を作りだし、担い、発展させ、変えて行く存在としての「人」を合わせて三軸で考えることが必要だと思う。「人」の軸が一番難しいだろうけれど。

地域の活性化や課題解決に取り組んでいらっしゃる地方自治体や商店街や地域団体の皆さんに、大塚をご覧になることをお勧めしたい。その時には、駅や都電や駅前広場やバラや通りや店を見て、そこで行われている催しを見て、そして、ぜひ大塚の人たちとじっくり話しをしていただきたい。貴重な示唆を得られると思う。

村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を再び読む。

以前読んだ時には「でもそんなのはただの言い訳よね?」と言う言葉が小説全体の中で一番心に残った。痛い言葉だった。

今回は、主人公多崎つくるが高校生時代の友人たちを16年ぶりに訪れる描写に惹かれて読んだ。5人の
親密な友達サークルからなぜ自分が追放されたのかその理由を知るための再会だ。

自分が最近43年ぶりに何人かの友人に同窓会で再会したことが、今回の私の興味の背景にある。もちろん彼らは私を追放したわけではない。また、久しぶりに会ったことを皆喜んでくれた。でも私には、長年顔を合わせなかった同級生に会うのが怖いと言う気持ちと、長い時間がたったのだからそろそろ顔を合わせておくべきだと言う気持ちがない交ぜになって、会の場所に向かうのに決心がいった。受け入れてもらえるだろうかと言う心配は杞憂に終わり、皆の暖かさに感謝して家路についたから、結局は一人相撲というか、自分の影に自分で怯えていたようなものだったのだけれど。

どうもこの小説は、私にとっては読む前に起きた個人的な出来事と結びついてしまう作品のようだ。

ドンナ・マクドナルドの"The Odyssey of the Philip Jones Brass Ensemble"を読む(Editions Bim)。

以前このブログで触れた通り、フィリップ・ジョーンズはイギリス人のトランペット奏者であり、フィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブル(以下PJBE)は彼が設立しリーダーをつとめた金管楽器合奏団である。PJBEは1951年に設立され1986年に解散した。フィリップ・ジョーンズは2000年に亡くなった。

この本はPJBEの歩みをクロノロジカルに記述している。フィリップ・ジョーンズとPJBEの足跡をきちんとたどっておきたいと思って読んだ。

フィリップ・ジョーンズは若い頃からオーケストラでの仕事に飽き足らず、金管楽器による室内楽を求めてブラス・アンサンブルを結成し活動を始めた。当時「金管楽器による室内楽」に対して周囲が無知だった、と言うよりそもそもそんなものは存在しなかったと言うことは、当時フィリップ・ジョーンズが在籍していたフィルハーモニア管弦楽団の練習やレコーディングセッションの合間にPJBEが練習していたら指揮者のオットー・クレンペラーが「救世軍がここで何をしているんだ?」と言ったという逸話によく現れている。

そんな中でフィリップ・ジョーンズは、PJBEの出演機会を作り出すために演奏会のオーガナイザーやBBCに売り込み、作曲家に金管楽器のための曲を委嘱し、ルネッサンスやバロックの音楽を金管楽器のために編曲する。さらにレコード会社と交渉し、金管楽器の曲を出版してくれる出版社を探す。ここでは妻ウルスラさんがマネージャーとして(時には演奏旅行中の移動費用節約のためPJBEメンバーを乗せたヴァンを自分で運転までして)大きく貢献した。

PJBEのメンバー確保も彼がすべき大切な仕事だった。PJBEの核となった五重奏(トランペット2、ホルン、トロンボーン、チューバ)にしかるべき奏者を迎えるのと、おのおのの演奏機会に応じて随時演奏者を確保するのと、これはどちらも他に仕事のある人たちが対象だから苦労が大きい。のちにPJBEが発展して五重奏ばかりではなくトランペット4、トロンボーン4、ホルンとチューバ各1の10人編成を取るようになっても(あるいは、大編成になったからこそ)、誰それはこの演奏旅行には参加できなかった、誰それは多忙でPJBEを退団したという記述がそこかしこに見られ、これを切り盛りするのは並大抵ではないとつくづく思った。

このようにメンバーの異動があってもPJBEの演奏はいつも高い水準を維持していた。音色にも統一感がある。これはフィリップ・ジョーンズがアンサンブルのリーダーとして演奏をきちんと統率していたことに加えて、ロンドンに優れたフリーランスの金管楽器奏者が数多くいたからこそ可能になったのだと思う。

演奏旅行というものは思いもかけない事件事故が続発するものだが、PJBEの場合にも、演奏会場やホテルや移動の車やブラス・アンサンブルに不慣れな聴衆のトラブルに見舞われて苦心惨憺する記述が、この本のユーモラスな面を形成している。

タイへの演奏旅行で月曜日の演奏会に全く客が集まりそうにないのでなんとかしたいと前日の日曜日に記者会見が開かれた。集まったジャーナリストたちが室内楽の何たるかを全く知らず会見が盛り上がらない中、一人一人が自分の経歴を話していてホルンのアイフォー・ジェイムズの番になった時、ドラキュラ映画の伴奏音楽の仕事をしたことがあると彼が言ってポケットからドラキュラの歯を取り出してつけて見せた。これに報道陣が反応してカメラのフラッシュが次々に光りどの新聞にも記事が載って演奏会は満員になったのだと言う。このくだりを読んで、私は思わず吹き出してしまった。一体どうしてこの歯を持ち歩いていたのか。

こう言う記述は、程度の差こそあれ私が知っていたことを補強するものだった。私が全然知らなかったのは、フィリップ・ジョーンズとPJBEのメンバー間の音楽的緊張関係である。彼が日本でのライブ録音の出来に全く満足できなかったことに続いて、次の記述がある。

録音と言うものについては色々と弁解が可能だが、フィリップはそもそもグループの演奏がよくないと信じていた。彼はふだんから思ったことを口にする。友人や同僚たちはこれを、彼が自分を含め全員が高い水準に到達することを求めるからだと理解する。彼は自分がダメなものを容赦しないことは分かっていたが、時に自分がどんなにぶっきらぼうになるかを自覚していなかった。彼は概して、いつなだめ、いつすかし、いつ叱責するかをわきまえていた。どんな状況でも演奏会を損なうようなことはしないと言うのは彼にとって鉄則だった。しかし、日本でそれをした。最後の演奏会の一時間前、リハーサルの後に、メンバーたちに向かって演奏がよくないと指摘した。
「金管楽器グループとして世界を回ってこれだけのお金をもらいたいのなら、今より良い演奏をしなくてはいけない。練習したい人は私と一緒に残ってくれ。そうでない人は辞めてもらって結構。」彼はこの最後通牒を少し恥ずかしそうに振り返った。
彼は飛行機がヒースロー空港に着く前に皆が決めるように求めた。メンバーたちは腹を立て、こんな侮辱はないと彼に言った。二十四時間経たないうちに何人かが辞めていった。
彼は当時を振り返って言う。「面白いのは、良く練習して良い演奏をして私が辞めて欲しくないと思った連中は辞めて、練習しない連中は何も気づかず辞めもしなかったんだ。」つまり、引退を考え始めた時になって、彼はグループの大がかりな再構成をしなければならなくなったのである。
これは1981年の来日公演の時のことだそうだ。

室内楽というのは演奏者がお互いの音楽に対して信頼し敬意を払っていないと成立しないジャンルである。他のプレーヤーの音楽性を認めつつも意見の相違や対立が生まれることがある。多くの場合、それは「プロとしてこれは譲れない」と考える点のぶつかり合いだ。いったん対立すると、おのおのが自分の音楽に自信を持っているだけに、溝は広がる。

私は1981年以降にもPJBEを実演で聴いたが、こういうことは全く知らなかったし気づきもしなかった。

色々と考えさせられる本だった。PJBEの録音を改めて聞き直そうと思う。







ジャック・ロンドンの「白いきば」を読む(阿部知二訳、河出書房新社)。

実に面白かった。

夢枕漠の解説が簡潔にしてポイントをついている。その最後のセンテンスが、まさに正鵠を射ている。

 自然や人間たちが、生き生きとしていて、しかも情に流されていないというのは、読んでいて気持ちがよかった。

私が何のかのと書くより、これを引用しておしまいにするのが当を得ていると思う。

ハイドン・フィルハーモニーの演奏会を聴く(6月30日、サントリーホール)。

ハイドンが仕えていたエステルハージ家の宮殿であるエステルハーザ宮に本拠を置き、ハイドンが生活し仕事をした場所でハイドンを演奏する、と言うことを目的に活動しているオーケストラである。Iwさんにお誘いいただいたので行ってみた。

よく考えたら私はこのオケのディスクを持っている。設立された時にはアウストロ・ハンガリアン・ハイドン管弦楽団と言う名称で、設立者のアダム・フィッシャーが音楽監督をしていた。何年か前にチェリストで指揮者のニコラス・アルトシュテットが音楽監督を引き継ぎ、また、楽団名称も「ハイドン・フィルハーモニー」になったのだそうだ。

曲はハイドンの交響曲第92番「オックスフォード」、チェロ協奏曲第1番、交響曲第94番「驚愕」と言うハイドン・プログラム。チェロ協奏曲ではアルトシュテットが独奏と指揮の両方を受け持つ。今回の日本公演にはモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」も持って来たようだ。

この指揮者とオケの音楽づくりは、ハイドンの「面白さ」に焦点を当てている。ハイドンの音楽は、調性感の撹乱と安定(これこそがソナタ形式の真髄だ)の絶妙なうまさに加えていたるところに仕掛けがあり、思いもよらぬ変化や聴いたことがないような響きに満ちている。アルトシュテットもオケも、その面白さを分析の結果としてではなくむしろ反射神経的に提示し表現する。聴いているとあたかもすばしこい小動物が動き回るのを見ているような気持ちになる。

より演奏に即して言えば、彼らはテンポの変化と強弱の差異と強いアタックを武器にする。私は、ハイドンの交響曲のメヌエットでリタルダンドとディミニュエンドで音楽を止めてからさっと元に戻すのを初めて聴いた(交響曲第92番『オックスフォード』)。

彼らはピリオド楽器の演奏法を取り入れている。ビブラートが少なく音はおのおの減衰する。ただし古楽器の団体ではない。ピッチは低くないようだし、ホルンやトランペット以外の管楽器はモダン楽器だ。(つまり現代ピッチのナチュラルホルンとナチュラルトランペットを使っているという事になる。)これは設立者のアダム・フィッシャーがディスクの解説に書いていることと一致する。彼は、「ピリオド楽器への愛情は人一倍持っているが、私はこのオケではモダン楽器を選択した」という意味のことを述べていた。私は彼らの演奏から、ピリオド奏法はごく当たり前になり、モダン楽器とピリオド楽器とがテーゼがアンチテーゼとしてではなく相互補完的あるいは両論併記的に受け止められる時代が来たのだと言うことを学んだ。

先日指揮者のNkさんから「世界中で演奏は日進月歩だ」と言われたのは、一つにはこう言うことを意味していたのではないかと考えた。

協奏曲でのアルトシュテットの演奏は、上に書いたオケ全体の音楽づくりと一致している。別の言い方をすれば、彼はチェロの演奏と指揮とで同じアプローチを取る。その結果、ソロとオケは音楽づくりと音色の両方で渾然一体となり、先日このブログで書いたペライアのモーツァルト以上に、ソロはオケの延長線上にある。

アンコールはハイドンの交響曲第88番ト長調Hob.I:88より第4楽章。溌剌かつ颯爽とした演奏で小気味よかった。同時にハイドンの「良い意味での田舎臭さ」も失っていなかった。

今若い演奏家が何をしようとしているか、どう言う音楽づくりをしているかの一端に触れ、同時代の演奏家をもっと聴かないといけないと痛感した。もっともっと勉強しないといけません。


夏目漱石の「坑夫」を読む(岩波文庫)。

ジェイ・ルービンが村上春樹と私」でこの作品に触れていて名前を知った。全然聞いたこともなかった。ルービンは10何年か前にこの小説を英訳したのだそうだ。

とても「すわりが悪い」小説だ。

語り手が出奔してあてもなく歩いているとポン引きに鉱山で働かないかと声をかけられ、何となくついて行くことにする。ポン引きは途中で他にも職のない者を誘う。語り手は坑夫たちにあしらわれたり、鉱山の中を案内されたりする。結局坑夫にはなれず鉱山で別の仕事をあてがわれ、何ヶ月か勤めてから東京に帰る。

こう書くと、あらすじにも何にもなっていないじゃないかと怒られそうだが、実際こう言う話なのだ。素っ気ないといえば素っ気ない。

紅野謙介の解説を読むと、漱石は「坑夫」で当時の小説に異議を申し立てたかったのではないかと思う。本文に「よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらえるのと云って得意がっている」ことに対して「性格なんて纏まったものはありゃしない」とあるが、この小説の語り手の行動は「性格」で決まるのではなく「心理」で決まる。その「心理」とはつまりは「反応」であって、「坑夫」は、誰かがこう言ったから自分はこうした、周囲の状況がこうだったからこうした、と言うことでできた小説だ。

これは読んでいて相当妙な気がするものだ。語り手が次にどう言う行動に出るか皆目予測がつかない。かと言って、意外な行動が大きく筋を展開させるようなこともない。何しろ全てが「反応」だから、語り手の行動は意外といえばことごとく意外で、大きな山場などとはない。

もしかすると私は知らず知らずのうちに登場人物(特に、主人公)の「性格」が行動を規定する小説を読み慣れてごく当たり前だと思っているのかもしれない。でもこれは私ばかりではないようで、「坑夫」は漱石の小説の中では有名でもないし高く評価されてもいないようだ。

不思議な小説だなあ、と言う読後感が残る。

村上春樹の「遠い太鼓」を再び読む(講談社文庫)。

村上春樹が初めて海外に住んだ3年間に綴った文章を収めている。色々な都市の印象を描いた文章があり、手続きやトラブルなどを通して滞在先の国の国民性や文化について考えた文章がある。

この本は単行本として1990年に刊行された。私はそのすぐ後に読んだので、今回は28年ぶりの再読だった。

前に読んだとき同様、なるほどなあ、と感じ入る部分があり、思わず笑ってしまう部分もあるが、一番私の印象に残ったのは「蜂のジョルジョと蜂のカルロ」「蜂は飛ぶ」「ミコノス撤退」などの、村上春樹のが疲れていて心が冷えていることを書いた文章だ。前に読んだときにも増してこういう文章が胸に迫る。それはなぜかというのはここに書いても詮無いことだけれど。


マリア・ジョアン・ピリスのバッハ鍵盤楽曲集のディスクを聴く。収められているのはパルティータ第1番、イギリス組曲第3番、フランス組曲第2番の3曲。

とても端正な演奏で楽しい。バッハの音楽にきちんと向き合っている姿勢が伝わる。明るいがけばけばしくない音色もありがたい。

ピリスは私が大好きなピアニストの一人で、デュメイと入れたモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集を皮切りにいろいろなディスクを聴いてきた。実演で聴いたベートーヴェンも素晴らしかった。でもこのバッハのディスクには最初あまり感銘を受けなかったことを白状しないといけない。

私は演奏にオーセンティックであることを強く求めるわけではないが、バロック時代の音楽作品はピリオド楽器で演奏されたものを聴く方がずっと耳に心地よく響く。ただしバッハの場合には少々話が違って、ラモーやヘンデルをピアノで聴く気には(歴史的演奏を別にすれば)ならないが、バッハであればピアノでの演奏にも意義があると感じている。これはバッハの音楽がもつユニバーサルな性格のおかげだろう。

そう思っている私でも、ピリスのバッハは最初響きの上での違和感があった。おかげで心に入ってこなかった。

何年かぶりに聴いた今回はなぜかそう言う障害なくすっと演奏に入っていった。あるいは自分の中でのこだわりが時間と共に消えたのかもしれない。ピリスのバッハを楽しめるようになったのは嬉しい。

やはりディスクは第一印象にこだわらず何回も繰り返して聴くべきだ。第一印象がずっと変わらない場合も多いけれど。

マレイ・ペライアが独奏と指揮を兼ねたモーツァルトのピアノ協奏曲第23番イ長調 K. 488のディスクを聴く。オーケストラはイングランド室内管弦楽団(この団体の日本語表記については以前にこのブログに書いた記事をご参照いただきたい)。

ディスクの説明によるとこれは1984年の録音だそうだ。ペライアによるモーツァルトのピアノ協奏曲全集の中の一枚である。私は確か1980年代後半にこの全集のどれかの曲を聴いて、ピアノ独奏とオケの音色の間の統一感にとても強い印象を受けた。

今聴いても同じ印象を受ける。これは、指揮も担当したペライアが、独奏ピアノと管弦楽の音色の方向性が同じであるべきだと考え、かつ、それがオケに浸透した結果に他ならない。

協奏曲には独奏者の名人芸を堪能するための音楽と言う性格があるから、オケとの音色や音楽の対比を際立たせて音楽づくりをすることが可能だ。このアプローチを取った場合には、全体の統一感は他の要素で担保することになる。

ペライアは自分とオケの音色を同じ方向に向かせようとする。その結果、例えば弦楽器の伸ばしの音を光背のようにしてピアノが独奏するときにはピアノはオケの「中」から聞こえてくるし、また、ピアノ独奏がひと段落して休みになるときに主役交代とばかりにオケが張り切ることはない。

そしてペライアが志向するのは鋭くなく角が立っていない音であり音楽だ。彼の演奏ではモーツァルトの「フォルテ」は決して「スフォルツァンド」にならない。音楽の素材としての音の処理がとても丁寧で、きちんと「面取り」してから煮た大根を食べているような気持ちになる。

また、ペライアの音色(そして彼がオケから引き出している音色)はブレンドされた中間色というべきものである。決して原色的ではない。

この演奏は、ピアノ(弱音)の領域を中心にして、とても注意深く組み立てられ配慮が行き届いた音楽になっている。

「人工知能はこうして創られる」を読んでいて、あれっ、と思った。

脳の仕組みを解説している章に、ヤリイカの飼育に成功してその神経細胞研究に成果を上げた松本元と言う学者の業績が紹介されている。ヤリイカの飼育?その神経細胞研究?あれだ!

昔読んだ「新井素子のサイエンス・オデッセイ」と言う本にそう言う学者の話があったはずだ、と思って再び読んだら、その通りだった。

松本先生のこの本の当時の肩書は工業技術院電子技術総合研究所の電子計算機部アナログ情報研究室長だった。

ヤリイカは神経細胞が他の生物に比べて巨大で研究に適しているが、飼育ができなくて研究が進んでいなかった。この人は、それならイカさえ飼えるようになれば研究が進むという一心で、当時不可能とされていたヤリイカの人工飼育に取り組み、3年以上の試行錯誤を経て、死んでしまうのは
水槽の中のアンモニアが増えることが原因であることをつきとめ、アンモニア除去によって飼育を可能にした。

本が出版されたのは1985年ごろで私は出てすぐ読んだので、30年以上経っている。それなのになぜ覚えていたかと言うと、この先生の行動と言葉がすごく印象的だったからだ。

イカの飼育方法の確立に3年以上をかけ(魚類学者でも水族館の飼育係でもない別の分野の学者が3年半イカ飼育に没頭するというのがすごい)、その間は論文を一本も書けなかったのに、飼えるようになったとたんにその遅れを取り返すような新発見をして研究を一気に進めたということと、新井素子に語っている次の言葉が忘れられない。

 それで、さっき、情報処理やってる典型動物としてアメフラシの話をしたけれども、実はアメフラシではほんとうは不満なんです。(中略)
 なぜかっていうと、アメフラシは大きくていいんだけど、体が透明でないから。典型動物としてぼくらが今いちばんさがしてるのはね、脳が平らで、全身が透明、という動物。しかもパターン認識ぐらいはやってくれるやつ(笑)。脳が完全に外側から完全に見えれば、神経の活動をいつもテレビでモニターできるでしょ。

そして「注文が無理じゃないですか?」と新井素子が尋ねるのに対してこう答える。

 いや、無理でもそれがいれば研究が進むから(笑)。だってヤリイカの例があるでしょ。ヤリイカなんで、あんな太い神経、すごい注文が無理じゃないですか。でも現にそういう動物がいたわけだから。

さらにこう続ける。

 そいつをさがし出して飼うことができれてしまえば、研究はもう九〇パーセント以上完成なんですよね。(中略)
 ほんとに、研究ってジャンプがあるんですよね。やっぱり執念をもって、そうだと思いつめてさがすと、いるんですよ、世の中には。

これを読んだ時に私はびっくり仰天した。今こうして書き写していても、やっぱりすごいと思う。こう言う発想の人がいるんだなあ、ブレークスルーと言うのはこう言う人からうまれるんだなあ、と感嘆する。

「新井素子のサイエンス・オデッセイ」は、理科に弱いSF作家が最先端分野の科学者に話を聞く、という企画の本だった。新井素子が素朴な疑問を
専門家に投げかけて教えてもらうことで、素人に先端化学を解説する本を作ろうと編集者が考えたわけだ。

5人の科学者が登場し、それぞれひとつの章で新井素子に研究内容を語る。彼らはそれぞれ、地球外生命体、神経細胞のメカニズム、宇宙論、ロボット、光コンピュータの専門家である。これらが1980年代前半に最も脚光を浴びていた分野ということになる。

宇宙論の森山雅樹東大教授の章は、新井素子の質問が教授の説明うまくとかみあっていない。それだけ難しい分野なのだと思う。松本教授のインタビューはいちばんまとまりがよい。彼女の驚きと好奇心が伝わってくる。

合原一幸「人工知能はこうして創られる」を読む(株式会社ウエッジ)。

AIの発展が著しい今日にあって、全体像を理解しておく必要があるとずっと感じていた。これは何と言ってもまずサイエンスの話なので、サイエンスの視点を理解しないといけない。そうでないと興味本位な接し方をすることになってセンセーショナルなあるいはトリヴィアルな事柄ばかりを話題にすることになってしまう。

どう言う本が良いのか探しあぐねていたらOtさんがこの本を紹介していたので読んでみた。第一線の人工知能研究者に企業でAIに携わっている人も加わり、多面的に今日の人工知能を概観している。

以下のような点について自分の理解を整理することができて大変助かった。

  • ニューラルネットワーク研究と人工知能研究の関係と、おのおのがこれまでどう「ブーム」的な盛り上がりを見せ衰退して来たか
  • 人工知能研究が、なぜ今日広く注目を集めるだけの成果を上げるようになったか
  • ニューラルネットワークの仕組みと機能について何が分かったか、何が分かっていないか
  • ニューラルネットワーク研究と人工知能研究のどこが難しいか
  • ニューラルネットワーク研究の成果を反映した電子回路をどう構築しようとしているか
人工知能に対しては脳科学、電子工学、ソフトウエア工学その他の学際的アプローチが必須であることがよく分かった。同時に、ニューロンの働きをどう数学的に記述するかがアルゴリズムを定義しそれを実装した電子回路を作り上げる上で決定的な重要性を持っていることを痛感した。

説明に出て来る数式はほとんどが私の理解を超えるが、書いてある事が難しいと言うこととそれに向き合わないと言うことはまったく別の次元の問題である。私としては、これからの社会にAIとその応用が決定的な影響を与えてゆく事が間違いない以上、大まかな姿であれそれを理解するのは(あるいは、少なくとも理解しようとするのは)自分の社会的責任の領域に属する課題であると考える。

大変勉強になりました。執筆された方々に深く感謝します。







中崎尚「Q&Aで学ぶGDPRのリスクと対応策」を読む(商事法務)。

GDPRはGeneral Data Protection Regulationの略で、日本の個人情報保護法に相当するEUの規則。この5月から施行されEU域内でビジネスを展開する日本の企業に関連が深いので、全体像を理解したいと思って読んだ。

日本の個人情報保護法とは異なる考え方を取り入れている部分が多いのと、この規則に違反した場合の反則金が巨額なので、日本企業は速やかに対応することを迫られる。インターネット時代の新たな商習慣を意識しているし、個人の権利を幅広く認めている(したがって企業に対して様々な義務を課している)ので、きちんと理解しないとリスクが大きい。

私にとっては、EUの法体系を理解する上でも大変役に立った。

アルバート・J・ルービンの「ゴッホ この世の旅人」を読む(講談社)。訳者は高儀進先生。

ルービンは精神分析医であり、ゴッホの書簡と生涯とから芸術家ゴッホを考察する。ここでルービンはゴッホを「狂気の天才」とする見方に与せず、「抑鬱的傾向は強かったが現実的な世界観を持った繊細な人」としてゴッホを捉えている。

ゴッホには自分のちょうど一年前に生まれてすぐに死んだ同名の兄がいた。最初のヴィンセントは1852年3月30日に生まれ、画家ヴィンセントは1853年3月30日生まれである。この同名の兄はヴィンセントにとって極めて大きい存在で、ヴィンセントは母が兄を喪った悲しみにくれて自分を顧みてくれないという意識を持ち、そこから、死んでゆく者が愛され生きている者が疎まれると考えた、とルービンは言う。

ヴィンセントと両親との関係は難しい。彼は両親を生活面でも宗教面でも自分を否定し抑圧する存在と考えていた。両親に対するこのような反発は自分の生まれた国オランダへの反発にもつながっている。

私は以下の一節に目を見開かされた。

(1881年)八月に、有名な一連のヒマワリの絵の最初のものを描いた。すでにパリで描いたヒマワリの絵の続きである。彼にとってヒマワリは特別な魅力を持っていたが、それは、人間臭いヒマワリが、自画像とも、心暖かい後援者とも思われたのは間違いない。ヴィンセントが揶揄したオランダのチューリップとは大違いのこの無骨な茎と粗野な葉を持った野卑なもの-まぐさと安い燃料として使われるもの-は、すぐれて農民の花である。(251ページ)

ゴッホがチューリップを描いたと言う話は聞かない。こう言う視点から考えるとそれも得心が行く。

画商の見習いとしてハーグやロンドンやパリで働き、イギリスで助教員となり、アムステルダムで神学校に入り、ボリナージュで伝道し、画家になってからもアントワープ、パリ、アルル、サン=レミ、オヴェールと土地から土地へと移ったゴッホの生活は、一見すると取り止めがないようだが、実は「宗教」が変わらぬ主題として彼の生涯を貫いているのだと思う。絵を描くのはゴッホにとって宗教的行為だったのだ。旧約聖書の詩篇第一九四篇から取られたと言う題名「この世の旅人」(原題はStranger on the Earth)はこのようなゴッホの生涯を描いた本にとてもふさわしい。

一つよくわからないことがある。

52ページにこう言う記述がある。

ごくわずかな例外はあるが、彼は自分の言わんとすることを幻想的にも、空想的にも、あからさまに象徴的にも表現しなかった。それどころか、芸術に対するそのような態度を嘲り、それを「ルドン風」と呼んだ(書簡514)。

208ページには、ゴッホにとって印象派の作品に慣れるのは容易ではなかったが間も無く考え方が変わったとして、「彼はピサロ、シニャック、ルドン、ギヨーマンに会い、彼らの作品にも感心した。」とある。

357ページには、「(ゴッホは)一八八八年には、オディオン・ルドンによって一般的な人気を博するようになった、象徴的で秘教的な美術を批判している。」とある。

書簡514と言うのは、巻末の註によれば1888年2月から翌年5月にかけてアルルで書かれたものらしい。ゴッホがルドンに会ったのもアルル時代のことと思われる。ゴッホのルドンに対する評価は一体どうだったのか?

自分で書簡を読まないといけないのだろう。

こんなことが妙に気になるのは、「ルドン-秘密の花園」と題した展覧会を三菱一号美術館で先日見たからなのだが。

マーク・ピーターセンの「英語のこころ」を読む(集英社インターナショナル新書)。

この本では「語彙」に焦点を当てている。とても勉強になった。「細雪」のサイデンステッカーによる英訳についての説明がためになる。自分でも読んでみようかと思う。

日本人の英語」を初めて読んだ時の、一気に自分の英語に対する理解が広がったような気持ちは今でも忘れない。あれから30年経ったのだ。ピーターセン先生は古希を迎え、長年奉職した明治大学を定年退職された。時の経過に改めて驚く。

達者な日本語を操る先生がご自分を「永遠の日本語学習者」と書いているのには頭が下がる。私も頑張らなくては。

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