雲が行くまで待とう

音楽と本を中心にしたブログです。ブログ名はハイドンの弦楽四重奏曲第82番(ヘ長調、Hob. III: 82)の標題「雲が行くまで待とう」から取りました。   2023年11月にトップの写真を入れ替えました。Onさんからご提供いただいた伊勢志摩の安乗埼(ありのさき)灯台の写真です。

雲が行くまで待とう イメージ画像

2010年02月

 村上春樹「めくらやなぎと眠る女」に収録されていた「蛍」に刺激を受け、「ノルウェイの森」を読む。この前読んだのは2006年9月だと思うので、3年半ぶりということになる。  最初に日本語で読み、次にジェイ・ルービンの翻訳による英語で読んだ。以前に書いたとおり、村

 帰りの飛行機は行きとは違ってA380だった。確かに大きい機体である。私は入り口を間違えてしまって、自分の席にたどり着くまでに、機内を延々と歩き、2階に上がってまた延々と戻ってこないといけなかった。  座席も他の飛行機とずいぶん違う。  こちらが前。  座席を
『1922 シンガポールで一週間会議 -帰りはA380』の画像

 午前中の会議が終わったところで、ホテルのフロント前で全員で集合写真を撮った。  ポロシャツをあてがわれ、皆でこれを着て写る。  時間が前後して申し訳ないが掲載させていただく。
『1921 シンガポールで一週間会議 -集合写真』の画像

 夕食の後サリーと別れて3人で宿に戻る。荷物を置いてあるので。  オチーはここで降り、荷物を取って、Mさんと二人で同じタクシーで空港に向かう。Mさんは全日空でターミナル2、私はシンガポール航空でターミナル3である。  ターミナル3は新しいし、私は久しぶりのシン
『1920 シンガポールで一週間会議 -初めてのターミナル3』の画像

 会議が早めに終わったので、オーチャード・ロードで買い物をすることにした。案内役はサリーで、日本から一緒に来ているMさんと、フィリピンのオチーが一緒である。オチーは明日午後2時の飛行機で帰るとかで、今晩は暇なのだ。中国の2人フェリーとジェニーはカジノに行くと
『1918 シンガポールで一週間会議 -オーチャード・ロードで買い物』の画像

 会議を終え、皆でゲイランGeylangにシーフードを食べに行く。  店に向かう車中サリーが教えてくれたところでは、ここはかつての紅灯街で、昔は女性が一人で行くようなところではなかったとか。(サリーはここの地名をゲランと発音していた。)これを書くためにウエブで調
『1916 シンガポールで一週間会議 -ゲランでシーフード』の画像

 ホテルのフロント前に停めてあった自転車の写真を掲載する。  どうしてこんなものを載せるかと言うと、日本で言う「ママチャリ」を海外で見たのはほとんど初めてだからである。ホーチミンには走っていたはずだが、何しろあの街は今バイクに席巻されているから、自転車の
『1915 シンガポールで一週間会議 -ママチャリ』の画像

 今日の昼食は月曜日と同じく、会議をしている隣の部屋でだった。  人数も大体同じで、同じ円卓を囲むので、同じように皿が縦長に置かれる。マッシュルームのみじん切りのクリーム・スープ、白身の魚のグリル、クレーム・ブリュレ風のデザートだった。
『1914 シンガポールで一週間会議 -再び「縦長皿」の昼食』の画像

 リゾート・ワールドで食事をするのはあきらめ、3人で話して、私が昨日食べた「シルクロード」に再び行くことにする。たいした距離ではない。店に入ったらウエイトレスに「また来たの」と言う表情で見られたが、かまうものか。  何と言ってもここは中華料理屋なので、メニ
『1913 シンガポールで一週間会議 -また「シルクロード」』の画像

 会議が終わり、部屋で会社のメールを読んだりしてから夕食に出ようと部屋を出たら、北京から来ているフェリーとジェニーの二人に行き当たった。同行させてもらうことにする。  モノレールの駅に来た。宿からすぐである。このモノレールは最近できたものだと思う。  「
『1912 シンガポールで一週間会議 -「リゾート・ワールド」散策』の画像

 昨日の中華のマーボー豆腐とチャーハンを持ち帰らせてもらって朝食に食べた。  今日の昼食はホテルのレストランでバッフェだった。ここも前回来た店。  つい寿司などを取ってしまう。気楽なので。野菜不足にならないようにサラダは食べることにしているが。
『1911 シンガポールで一週間会議 -バッフェで昼食』の画像

 会議が終わり、皆は北京から来ているフェリーを先頭に、ヴィヴォシティーと言うショッピング・センターに買い物と食事に出かけた。ここはセントーサ島から橋を渡って本土(と言うのもおかしいが)に渡ったすぐのところにある。私は一人で中華を食べに行くことにした。前回
『1909 シンガポールで一週間会議 -ビーチの中華再び』の画像

 午後になってしまったが、午前中のことをひとつ書く。  昨日も今日も、朝食を抜いた。でもそうすると、昼前にお腹が空くのである。  ちょうど午前中の休憩時間に、コーヒーやお茶と一緒にちょっと食べられるものが出てくるので、それで小腹を満たす。  昨日はビーフ
『1908 シンガポールで一週間会議 -午前のおやつ』の画像

 昼食はホテルのタイ料理のレストランで取る。昨年6月にも来た店である。  店内は外光が入り明るくて快適である。料理は前回とほとんど同じだった。8ヶ月も前のことなので気にはならない。  まず葉っぱに乗せたアピタイザーが出てきた。前回と同じもの。  つづいて、
『1907 シンガポールで一週間会議 -タイ・レストランで昼食』の画像

 会議は5時半ころ終わり、6時から全員で夕食を取った。セントーサ島のなかのゴルフコース脇のイタリアン・レストランで、私にとってここに来るのは昨年3月以来3回目である。  テラスでビールやワインを飲んだ後テーブルに移り、まず生ハムとカラマリを皆で取り分ける。
『1906 シンガポールで一週間会議 -3度目のゴルフコース脇イタリアン・レストラン』の画像

 朝9時から会議が始まった。昼食は会議で使っている隣の部屋で全員でひとつの円卓を囲んだ。  出てきたのは「チャーハン定食」とでも言うべきものである。チャーハンのほかに、味噌汁(実はえびと帆立貝)、むつのような白身の魚、蛸、果物が皿の上に乗っている。  本当
『1905 シンガポールで一週間会議 -チャーハン定食』の画像

 またシンガポールに行く。今回は月曜日から金曜日まで会議が続く。  月曜日の朝一番から予定が入っているので、日曜日のうちに移動しないといけない。ところがいろいろと用事があって、いつも乗る10:30や17:30の便に乗れず、19:00に成田を出発することになった。1:35にシ

 翻訳家の浅倉久志さんが亡くなった。  私はこの人の翻訳でカート・ヴォネガットの作品に出会った。確か最初に読んだのは「タイタンの妖女」だったと思う。  その後、「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」「チャンピオンたちの朝食」「スラップスティック」「

 俳優の藤田まことさんが亡くなった。76歳とのことである。  私がこの人をはじめて知ったのは、「てなもんや三度笠」の主役としてだった。スポンサーである前田製菓の製品の宣伝文句「俺がこんなに強いのも、当たり前田のクラッカー」という台詞と共に、幼い子供だった私

 映画「パリ、テキサス」の台本を読んだ。  ずいぶん前にこのブログに書いた、この映画の撮影地を訪れる旅の記事を読み返す機会があって、台本も再度読んでみたのだった。アメリカでは映画台本が本屋でたくさん売られていて、すぐ手に入る。もちろんハリウッド映画中心だ
『1899 「パリ、テキサス」を読む』の画像

 アルバム「ポール・サイモン」の冒頭に収められた「母と子の絆」について、from船橋氏からいろいろ教えていただいた。  氏は、「レゲエ」が世界市場に紹介されたのは「母と子の絆」あたりからだったのではないか、と述べ、エリック・クラプトンの大ヒット「アイ・ショット

 三笠公園から歩いて「さいか屋」に来た。ここが5月で閉店すると言う話をこのブログで書いて以来、閉まる前にどうしても来ておきたかったので。  やっぱり心なしか人出が少ないような気がする。  裏口に回ったら、駐車場と店を結ぶバスがちょうど来ていた。
『1897 横須賀の一日 -さいか屋』の画像

 昼食の後は三笠公園に来た。ここには記念艦「三笠」がある。このところ「坂の上の雲」のドラマ化などで話題になっている、日露戦争の日本海海戦のときの日本海軍連合艦隊旗艦である。  艦内に入れるようになっている。これは左舷の砲。  これは艦首を見たところ。
『1896 横須賀の一日 -三笠公園』の画像

 墓参りの後は親戚の家に寄って線香などあげ、それから昼食に向かう。  やって来たのは横須賀中心部に程近い「東京庵」。昨年9月に来てこのブログに書いた店である。この店の蕎麦がすごく食べたかったがなかなか機会がなかった。  細くて繊細な味の蕎麦で、おいしい。皆

 お茶を飲んだ後寺にまた来て、墓参りをする。  特に変わったことがあるわけではないし、以前にも書いたので省略するが、本堂の写真を一枚掲載する。左に写っているのは鐘のお堂の足。なかなか大きな寺なのだ。光線の加減で屋根が「白とび」してしまって申し訳ない。
『1894 横須賀の一日 -墓参り』の画像

 今日は下の娘を連れて横須賀に行って来た。いろいろと用事を片付けないといけない。妹一家も一緒だった。  まずは墓参りなのだが、10時半に寺に集合にしたら、9時過ぎに着いてしまった。前日にナビで調べたら所要時間3時間と言われて7時半に出たのに、途中の道がすいてい
『1893 横須賀の一日 -コーチヤと京急観音崎ホテル』の画像

 「1887 ポール・サイモン」の記事にfrom船橋氏からいただいたコメントに、この曲はポールの作曲ではないのでは、と言うご指摘があったので、これについて書く。  レコードのジャケットには、「このアルバムに収録された曲はすべてポール・サイモン作曲、ただし、『ホーボ

 BSで放送されていた「カレファックス・リード・クインテット」の演奏会を録画で観た。面白い!  この団体は、オーボエ、クラリネット、サクソフォーン、バス・クラリネット、ファゴットの5人によるオランダの管楽合奏団である。1980年代半ばに設立されたのだそうだ。古楽
『1889 カレファックス・リード・クインテット』の画像

 映画「シャネル&ストラヴィンスキー」を観た。作曲家ストラヴィンスキーとココ・シャネルのかかわりを取り上げた映画。(シネスイッチ銀座)  butcher59氏のブログbutcher's logでも取り上げられているし、前から興味があったので、早く観ないと終わってしまう、と足を
『1888 「シャネル&ストラヴィンスキー」』の画像

 「ひとりごと」から「時の流れに」を経て「ポール・サイモン・ソング・ブック」までポール・サイモンのソロ・アルバムを聴いてきて、今回は「ポール・サイモン」。  これはガーファンクルとのデュオを解消したポールが最初に発表したディスクである。冒頭に収められている
『1887 「ポール・サイモン」』の画像

 レオン・フライシャーが独奏と指揮を受け持ったモーツァルトのピアノ協奏曲のディスクを聴く。収録されているのは第12番イ長調K.414、第7番ヘ長調K.242「ロドロン」(3台のピアノのための協奏曲をモーツァルト自身が2台ピアノ用に編曲したもの)、第23番イ長調K.488。シュ
『1897 フライシャー指揮・独奏 モーツァルト ピアノ協奏曲第12、7、23番』の画像

 最近あるところでいっこく堂の腹話術のみごとさに打たれ、彼が出演している「兵士の物語」のDVDを観た。彼が兵士役をつとめ、腹話術で他の役も演じる他に篠井英介が語り手と悪魔で出演し、ファス・バレエ・ダンサーズが踊る。演奏は笠松泰洋指揮のアンサンブル・ゾリステン
『1896 いっこく堂ほか ストラヴィンスキー「兵士の物語」』の画像

 ポール・サイモンの「時の流れに」に参加しているハーモニカのトゥーツ・シールマンスのことを調べていたら、彼がビル・エヴァンスと競演した"Affinity"と言うディスクの存在を知ったので聴いてみた。この二人のほかに参加しているのは、ベースのマルク・ジョンソン、ドラム
『1895 ビル・エヴァンス/トゥーツ・シールマンス 「アフィニティ」』の画像

昨日はファゴット(バスーン)吹きが5人集まって飲み会だった。50歳から32歳までと、年齢もさまざまだが、久しぶりに会ったこともあり、大いに盛りあがった。ファゴット奏者と言うものは世界中どこでも結束が固いものなのである。  その時に"United Sounds of Bassoon"と
『1894 United Sounds of Bassoon』の画像

 「ひとりごと」と「時の流れに」に続いて「ポール・サイモン・ソング・ブック」を聴く。  これは彼のごく初期のアルバムで、確かイギリスで録音されたものだと思う。モノラルである。  日本以外では発売されていなくて、かつて来日したポールがこれが売られているのを
『1893 ポール・サイモン・ソング・ブック』の画像

 「ひとりごと」に続いてポール・サイモンのソロ・アルバムを聴く。1975年発表の「時の流れに」。以前にこのブログに書いたときにはLPを聴いたが、最近CDを手に入れたのでそちらで聴く。  このディスクを私は昔から大好きで、LP時代に何回となく聴いたが、あらためて聴くと
『1892 ポール・サイモン「時の流れに」』の画像

 江川紹子さんの「勇気ってなんだろう」を読む。  9人の人たちが、つらい決断をし、あるいは世の中にあらがってまで自分の信念を貫く姿を、本人の言葉を通して描く。彼らは、登山家であったり、元警察官であったり、元国会議員であったりする。  その中で私には、イスラ
『1889 江川紹子「勇気ってなんだろう」』の画像

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