ハイドン・フィルハーモニーの演奏会を聴く(6月30日、サントリーホール)。

ハイドンが仕えていたエステルハージ家の宮殿であるエステルハーザ宮に本拠を置き、ハイドンが生活し仕事をした場所でハイドンを演奏する、と言うことを目的に活動しているオーケストラである。Iwさんにお誘いいただいたので行ってみた。

よく考えたら私はこのオケのディスクを持っている。設立された時にはアウストロ・ハンガリアン・ハイドン管弦楽団と言う名称で、設立者のアダム・フィッシャーが音楽監督をしていた。何年か前にチェリストで指揮者のニコラス・アルトシュテットが音楽監督を引き継ぎ、また、楽団名称も「ハイドン・フィルハーモニー」になったのだそうだ。

曲はハイドンの交響曲第92番「オックスフォード」、チェロ協奏曲第1番、交響曲第94番「驚愕」と言うハイドン・プログラム。チェロ協奏曲ではアルトシュテットが独奏と指揮の両方を受け持つ。今回の日本公演にはモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」も持って来たようだ。

この指揮者とオケの音楽づくりは、ハイドンの「面白さ」に焦点を当てている。ハイドンの音楽は、調性感の撹乱と安定(これこそがソナタ形式の真髄だ)の絶妙なうまさに加えていたるところに仕掛けがあり、思いもよらぬ変化や聴いたことがないような響きに満ちている。アルトシュテットもオケも、その面白さを分析の結果としてではなくむしろ反射神経的に提示し表現する。聴いているとあたかもすばしこい小動物が動き回るのを見ているような気持ちになる。

より演奏に即して言えば、彼らはテンポの変化と強弱の差異と強いアタックを武器にする。私は、ハイドンの交響曲のメヌエットでリタルダンドとディミニュエンドで音楽を止めてからさっと元に戻すのを初めて聴いた(交響曲第92番『オックスフォード』)。

彼らはピリオド楽器の演奏法を取り入れている。ビブラートが少なく音はおのおの減衰する。ただし古楽器の団体ではない。ピッチは低くないようだし、ホルンやトランペット以外の管楽器はモダン楽器だ。(つまり現代ピッチのナチュラルホルンとナチュラルトランペットを使っているという事になる。)これは設立者のアダム・フィッシャーがディスクの解説に書いていることと一致する。彼は、「ピリオド楽器への愛情は人一倍持っているが、私はこのオケではモダン楽器を選択した」という意味のことを述べていた。私は彼らの演奏から、ピリオド奏法はごく当たり前になり、モダン楽器とピリオド楽器とがテーゼがアンチテーゼとしてではなく相互補完的あるいは両論併記的に受け止められる時代が来たのだと言うことを学んだ。

先日指揮者のNkさんから「世界中で演奏は日進月歩だ」と言われたのは、一つにはこう言うことを意味していたのではないかと考えた。

協奏曲でのアルトシュテットの演奏は、上に書いたオケ全体の音楽づくりと一致している。別の言い方をすれば、彼はチェロの演奏と指揮とで同じアプローチを取る。その結果、ソロとオケは音楽づくりと音色の両方で渾然一体となり、先日このブログで書いたペライアのモーツァルト以上に、ソロはオケの延長線上にある。

アンコールはハイドンの交響曲第88番ト長調Hob.I:88より第4楽章。溌剌かつ颯爽とした演奏で小気味よかった。同時にハイドンの「良い意味での田舎臭さ」も失っていなかった。

今若い演奏家が何をしようとしているか、どう言う音楽づくりをしているかの一端に触れ、同時代の演奏家をもっと聴かないといけないと痛感した。もっともっと勉強しないといけません。