孫さんのあれこれ雑記

2015年11月

私のパソコンでは、右クリックで新しい”folder"を作成すると、「新しいフォルダー」と表示される。
しかし、以前の古いOSでの表記は、「新しいフォルダ」だった。
一体どちらが正しいのだろうか。
元の語の発音からすると、「er」と伸ばす音であるから、私は「フォルダー」と表記するのが正しいと思っている。
今のPCでの表記になってその違和感が解消した。
しかし、wikipediaでは「フォルダ」となっている。

その違和感の根源を探ってみると、古くは子供の頃からの記憶にたどり着いた。
小学校の教科書に、「ビニルのひもで、・・・」という記述があったことで、不思議な感触を覚えたのを今でも記憶している。
「ビニル」とは前後の文章から、「ビニール」のことであるとわかった。
ビニールなのに、何で「ビニル」と書くのか。

それ以後も、時折外来語のカタカナ表記の違和感を覚えることがあった。
「温かいコーヒあります」【コーヒー】
「豚肉ショガ焼」【ショウガ焼】
「今日はスイチを切らないでください」【スイッチ】

これらは、私よりずっと年配の人が書いた外来語のカタカナ表現の誤記例である。ちなみに三番目は、学生時代、ホテルの厨房でアルバイトをしていて、室内の壁を塗装しなおしたから一晩換気扇のスイッチを切らないでほしい、という伝言文である。

外来語の氾濫が訪れる前に大人になった年配の人たちは、新たに入ってきた言葉に戸惑いどうカタカナで表記していいのか、迷う事も多かったのだろうか。
そして、なるべく文字数をコンパクトに省略して表記したいという意識が働いたのではないか。

しかし一方で外来語は、その発音が日本語とは異なることから「これは間違い」というカタカナでの表記は、実はないのだといえる。
「フォルダー」も「フォルダ」もいずれも正解でも間違いではないだろう。

あの「ビニル」は、年配の人がカタカナで拗音や撥音を表記するのが苦手だから、その慣習が公の書物でも表示されてしまった、というものかもしれない。
ちなみに今ビニルと打っても、そのままカタカナで変換されるから、あながち間違った表記では無いのかも知れない。

取るに足らないことかもしれないが、言葉にはこだわりを持つ私なので、一旦気になりだすと、というより、以前から引っかかっていたことを吐き出した次第である。

今回の松浦亜弥さんに関する記事では、頻度高く繰り返し嗜んでいるとはいえないものの、思い出したときに再生している2つの映像を紹介する。

私にとって、彼女は涙が出るほどの感動的な歌声を持っていることは以前も書いたが、それほどの強烈さはなくとも、私の中でこんな歌声に包まれていたい強く思った映像だ。
おそらくこの2つの音源は、ライブで秘密裏に確保されたものであろうから、余り公にすべきでないものと思う。
ただ幸い、訪れる人も少ないこの場であるから、貼り付けても危険性は少ないだろうという独断で紹介させてもらうことにする。
少しでも知ってもらいたいから。

これらの映像から聞こえる彼女の歌声からは、何とも言えない感傷をくすぐられるようなものを感じるのだ。
最近思うのだが、私が追い求めている郷愁というものにも通じるものがあるのではと。
歌っている動画がないことで、想像力が働き余計その思いが強まるのかもしれないが。

私が何故、彼女のことを繰り返し書くのか不思議に思う人もいるだろうが、私の中では、その郷愁に通じるといった思いに達したところで納得するものを感じている。
聴いていてこのような感触になる歌声を、私は他の歌手の歌声ではまだ感じたことがない。
そして、彼女の実際のライブでもまだ残念ながら感じていない。
しかし実際に、そのような効力のある歌声を持っているし出せるのだ。

それをいつの日か実際に感じることができれば、これほど嬉しいことはない。
 



上は2013年、下は今年の、ほぼ同じ位置から撮影した紅葉の画像である。

IMGP7401

P1160166

もちろん、光線状態など撮影条件の違いはあると思う。
しかし、2013年をはじめ、条件の整ったときのこの場所の紅葉は本当に見事なものだ。

私はほぼ毎年ここに紅葉を見に出向く。手ごろな場所にあるからだが、そのことで紅葉をベストの状態で見ることの難しさを実感している。
今年は、今月に入って異常な高温が続いているものの、10月前半や下旬~11月頭に朝晩の冷え込みを受けているので、今年は鮮やかな紅葉が見られると思っていた。
でも話によると、10月の降水量が非常に少なかったことで葉に水分が少なく、紅葉が始まる(葉への養分の供給が止まる)と同時に落葉してしまうのだと。
事実、この写真をみても紅葉している樹は見頃を過ぎたようになっている一方、まだ青葉も目立つ。

木々から感じられる季節の風景として、春の桜と晩秋の紅葉が双璧といったところだろうが、私は後者により魅力を感じる。
春の訪れを象徴する華やかな桜は、気持が浮き立つものである。しかしそれよりも、散り行くものの美しさを感じ、奥ゆかしい紅葉の方が好きだ。
古い町並にも共通するものがあるからだろうか。

桜の花は、気温などの条件で開花や見頃が前後することはあっても、必ず満開の見頃がある。
ピークの時に立ち会うことが出来れば、毎年満開の見応えある姿を眼にすることが出来る。

ところが紅葉はそうではない。
初秋に長雨が続けばくすんで鮮やかでなくなる。逆の場合も今年のように上手く持ってくれない。
さらに訪ねたときの天候、時間帯にも左右される。

紅葉は、その年の秋の気候条件の成果が表れるわけである。一つとして同じ年はない。鮮やかでないからと言って、落胆する事もない。同じ場所を定点観測していることで、奥ゆかしくも気まぐれなものなのだと、紅葉とはそういうものだ、と思えるようになった。

華やかなものよりも奥ゆかしいもの、それも出会えるかそのときになってみないとわからないもの。だたそれに接したときの感銘は代えがたいものがある。
私が一番好きな季節の風景であることは間違いない。

私の車には、例に漏れずカーナビが装備されている。
しかし、もったいないといわれるかもしれないが使うことは余りというかほとんどないといえる。
遠方はレンタカーを使う事もあるのだが、レンタカーでの探訪でも、都市部などやむをえない場合を除いては、意識して使わないようにしている。
(但し現在位置把握のため、画面だけ表示させていることは多い)

ある人が、「また訪ねようと思っても、前回は全てカーナビに目的地を入力して案内のままに訪ねたので、位置関係がよくわからない。ましてや人を案内することはできない」と言っているのを耳にした。
カーナビに頼る余りそのような事態になるのは、私にとって由々しきことだ。
私は学生の頃には鉄道に乗って全国各地を旅することを趣味としていた。それはまさに「線」の旅の極致といったもので、逆に線を辿るだけの味気ないものともいえるのだが、極端なことをいうと、目的地はない、線のみが目的ともいうべきものだった。
それが最近は町並という「点」を目的としたものになって、その過程がぼやけてきている事を実感している。
カーナビの世話になりたくない、という意識は、せめてもの抵抗だろうか。

カーナビの画面を参照しながら走るにしても、必ず北が上になっていないと気がすまない。レンタカーを使っても、何故か初期設定は、必ず自車の進行方向が上を向くようになっていて、交差点を曲がると地図が回転する。私はそれに非常に違和感を感じ、まず設定を変える。今どの方角方向に向っているのかが全くわからなくなるからだ。地図を念頭に置いた東西南北の座標軸の中に身を置いていないと、移動していて不安だ。

今でも旅はその過程、線も尊重したいという思いは変わらない。カーナビに頼ることで、線の旅が点の旅に変わることはごめん蒙りたい。
大げさに言えば、昔の旅人は、線の苦労があったからこそ点での感動が得られたわけで、線をおろそかにすると、それが減殺されてしまう。団体の観光旅行は、「線」の旅の典型であり、それも例えば移動の道中終始居眠りしたり、仲間との談笑に興じたりしていると、点の印象しかなくなってしまう。あとで思い起こしても、「そういえばここへ行ったっけ?」となることは間違いなく、またその過程はおろか「点」の位置、訪ねた順序も曖昧なものになってしまう。個人の旅行でも、カーナビ任せにすることで、点の旅に拍車がかかるのではないかと。

過程があって目的がある、私はそれを今後の探訪でも意識したいものだ。

有名人の情報発信源として、ブログやSNSはすっかり当り前になっている。
今更、言うまでもないことだろう。
例えばlivedoorやYahooといった記事に挙がって来る芸能情報は、ソース(出典)が本人のブログで明かしたもの、といった例が驚くほど多い。私は、普段余り意識してみている訳でないので、たまたま眼にしたネット記事でそれらの一部に接するに過ぎないのだが、それでもそう感じるのだから相当なものだ。

でも実際、これがトップニュースになるのか、もっと社会に発信すべき記事はあるはずなのに、と感じるほど、その内容の多くは取るに足らないものである。
また、こんなプライベートなことまで発信して、大丈夫なのか?彼ら彼女らはネットを通してプライベートが明け透けになることに関してここまで抵抗がないのか?と驚いてしまう事も多い。

私がこの記事を書こうと思ったのは、先日ある女性タレントが、自分の出産風景を第三者に撮影させたという記事がネットに流れ、それに対する批判が噴出した、という記事を見たことがきっかけだ。
はっきりとした私の感じるところを言えば、公私の区別という面で常識がなさすぎるし、ちょっとだらしなさ過ぎはしませんか、ということになる。
出産というデリケートな瞬間を、例えば夫婦の間家族の間で共有する意味で記録するのであればまだ理解できなくもないが、ネットで公表するということは、それ以上の意図があったのだろう。
幾ら情報を発信すべき立場にある者だとは言っても、一線を越えているのではないか。
その映像を公開する目的で撮影したのかどうかは別にしても、例えファンでも、そこまでのプライベートな情報を求めているのかどうかと考えると、疑問に思わざるを得ない。

物心付いた頃からネット環境があり、また携帯やスマホが身近にあった世代からすると、そういう拒否反応は薄いのかもしれないが、少なくとも私は、かなりの違和感を覚えてしまう。
私も、実はSNSに分類されるコンテンツを利用しているのだが、個人的なことは書かないようにしているし、それ以前に書けない。

中には、まったくと言っていいほど活動していないのに、片やブログやSNSでは個人的なことを含め盛んに発信している人も少なくない。
世間は、そのネット記事を通してのみその人の存在を認識する。ブログやSNSの話題は拡散され易いから、話題に登りやすいし、それだけで「活動している人」という認識を持つ。

そこに大きな実態と世間の認識の差が生まれているように思えてならない。

そしてこうした有名人のネット内の行動が、特に若い人たちの間に影響して、公私の境がつかなくなることは心配だ。
若い人という言葉を頻発するのは、自分が年寄りくさくなるようで余り言いたくないのだけど、例えば20歳前後の人は私から見ると間違いなく若い人なので、彼ら彼女らの様子をネットやTV、そして実際に眼にするに、その傾向が既に現れているようで心配になってくる。

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