2016年05月

2016年05月28日

周南は知らないが、徳山なら良く知っている・・?

鉄道紀行作家の宮脇俊三氏が書き記した一節を、最近ふと思い起こした。どの本かは思い出せないが、
『福岡市の代表駅は「博多」である。だから、福岡は知らないが、博多なら良く知っているという気がしている』
というものだ。

このくだりを眼にして私も共感したから頭に残っていたのだろうが、実感するところだ。
いくつか例を挙げると、

・・・私が新社会人時代の数年を過したのは山口県の徳山だった。その後周辺市町合併で周南市という市名に変った。だから、人から徳山といわれると昔住んでいましたよと即座に反応したくなるが、周南市といわれると何だか別の町のように感じる。受け答えも多分、ああそうなんですか、で終わってしまう。

・・・岐阜県の古川や、秋田県の角館など、詳細に歩いたことのある町は、印象的に古川、角館という地名の認識以外にない。飛騨市?仙北市?などといわれても・・。岐阜、秋田のあの辺りという感覚しかない。

私は小中学生の頃地図を見るのが好きで、その頃既に全国の多くの市町村名を覚えてしまっていたので、今でも国内の地名知識はその頃のものがベースになっているからだろう。

それに私、どうも変化そして新しいものにどうしてもまず抵抗感を覚えてしまう傾向があるようだから、尚更だ。

多くの人にとっては、そんなことはそれほど気にもならないことなのかもしれない。地理地名に疎い人の方が、かえってすんなりと受け入れてしまうものかもしれない。

地理地名への強さが、私の数少ない自慢できる項目?だったはずなのに、それすら揺らいでいるような気がしている。


mago_emon at 20:54|PermalinkComments(2)地理・地名など 

2016年05月22日

真逆 全然

言葉は進化し変るもの、それは当り前のことだが、定着の過程には摩擦や抵抗があって、それに持ちこたえたものだけが受け入れられるようだ。
今回は、世間にはほぼ受け入れられていると思われる言葉なのに、私はまだどうも抵抗感が拭い去れない2語に触れたい。

まず一つ目。真逆という単語だ。マギャクと発音する。もはやTVで氾濫している用語だ。
ある時から、この単語が妙に耳につき、そのたびに引っかかるもの、ある意味不快感に近いものを覚えだした。
真反対とはいうが・・・?
この熟語自体は実は昔から存在した。しかしその読みは「まさか」であり(あの「まさか!」の意)、意味はもちろん違うものだ。
間違った日本語として一時一例に挙げられていたように思うが、最近では民放のアナウンサーなどはもはや抵抗なく発語している。そしてついに最近、NHKの(地方の)アナウンサーからも発せられるのを耳にして愕然としてしまった。
さすがに私はショックを隠せなかった。
残念ながら定着の方向に動いているようだ。もはや定着してしまっているといってもいいかもしれない。
これは世代の認識の違いというより、メディア特に民放のバラエティー番組で多用され始めたことが発端のように思う。
まあそれまで耳に馴染んでいなかっただけで、別に使うことに弊害がないのであれば、広まっても当然なのかもしれない。私のようなものが最後まで抵抗感を持つだけで、やがてはそれも薄らいでしまうものなのかも。

もう一つは、「全然」の用法だ。
「全然」の後には、本来は必ず否定語が伴うはずであり、私も文字で書く時にはそれを守っているはずだ。しかし、いつのまにか単にそれに続く形容詞の度合いを強めるものとして使われるようになったようだ。
以前書いたことのある「大丈夫」のように、本来の意味よりその用途が広くなっているようだ。
そういえば「全然大丈夫」という言いまわし、今思うと私自身も違和感が無いではないか。
しかももしかしたら私、無意識のうちに使っているような気がする。いや間違いなく日常的に発している。
何だか判らなくなってきた。

自分の中では、「真逆」に対する抵抗感は未だに残っていても、「全然」はその流れに呑まれいつの間にか受け入れてしまっているように思う。
私はその抵抗が普通の人より少し強いだけで、こうして新語が無意識に取り入れられていくのだろう。


mago_emon at 21:20|PermalinkComments(0)言葉のはなし 

2016年05月16日

南予の鯛めし

最近、ふと数年前に愛媛県で味わった鯛めしの味を思い出した。
鯛めしというと、一般的には鯛の身が入った炊き込み御飯風のものを思い浮かべるだろう。
しかしこの鯛めしは、鯛の刺身を米飯の上に載せ、そこに醤油ベースの出汁をかけ、卵黄と絡めていただくものであった。店で出てくるものを見たときは、一見刺身定食かと思わせる。
愛媛県でも南部の方、通称南予地方での食べ方であるため、南予風鯛めしいう名でネット検索しても多くヒットする。何でもこれは南予地方の漁師飯が発祥なのだという。私はある本を読んでいて、この地域では鯛めしとは言いながらイメージとは異なるものが食されているという知識はあったが、実際出てきたものを目にして、わが地元にはない食べ方に興味深さが増した。
新鮮な鯛の刺身をわざわざ海鮮丼のようにして食べるのはもったいないと私も少し思った。確かに夜に刺身をネタに酒をというのならそうだろうが、この鯛めしに関してはここが絶妙だった。秘伝の出汁と卵黄もお互いが絶妙な調和を持って鯛の刺身の美味さを引き立てる。

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南予風の鯛めし(店舗で出される一例)

ご当地で食してみたい郷土食。筆頭は秋田のきりたんぽ鍋だが、この鯛めしもそれに匹敵する。
秋田はそう簡単には行けないが、愛媛であればその気になればこの鯛めしの為に日帰りしても良い。
ネットを見ると、色々事細かいレシピが紹介されている。問題は出汁の調合だろう。酒や味醂を使うものは、僅かな比率の違いでも大きな味の違いが出る。我が家で再現するのはまず不可能だろう。やはりこうした郷土料理は、現地に赴き食すに限る。

鯛めしを食べた日の晩、宿泊した旅館でも「ひゅうが飯」という名のぶっ掛け飯もいただくことになるのだが、こちらは更に漁師飯的なイメージを抱いた。
鯛めしの原点ともいわれ、鯛以外の具材を用いたものを指すともいわれる。
一説には日向(現在の宮崎県)から伝わったものともいわれる。

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ひゅうが飯。これを米飯にかけていただく。

少し有名になると、すぐに大都市を始め各地で味わえるようになるが、それはどうかと思う。郷土料理の価値は、その土地で味わってこそ価値のあるものではと。

mago_emon at 22:34|PermalinkComments(0)食と酒 

2016年05月12日

松浦亜弥さんの復帰は・・?

先月頃より、彼女に関連のあった人の記事からそれに反応してか、ファンの一部から復帰待望論的な記事や書き込みをはじめ、ネットでささやかな動きが続いている。
私が敏感に反応してしまうだけで、普通に過していると、全く気付くことなく通り過ぎてしまうことだろうが・・・・・

とはいえ私は復帰を熱望する、帰ってきて!また歌が聞きたい!とアピールしたり、そのような書き込みをしたりすることはだいぶ前からやめている。

実際この一件を考えると、正直非常に疲れる。本人からの意思表示も一切無い訳だし、こちらが考えても結論など出る筈もない。

ただ一つ思うのは、このまま活動を永遠に中止してしまうことはないのではということだ。
その根拠の一つとして、2013年末のライブで、「また歌える環境になる事を自分自身待っている」いった内容の発言があったとのこと。(私が参加した回ではそれに類した発言は聞けなかったが・・・)

私の勝手な想像では、恐らくもう一人お子さんほしいだろう。
そうすると、仮に来年ぐらい2人目が誕生して、付きっ切りにならなくなる3・4歳頃に、マイペースながらぼちぼち再活動の方向に向うのではないかと。
その頃彼女は35歳くらい。

これも希望をこめてのことではある。

でも、この35歳というのが実際のところ、一つのリミットでもあると思う。
その時点で、本格的な活動をしていない期間が既に約10年に達する。
27歳のライブのときに、既に歌う気持を切っていたと公言していたくらいなのだから、20代前半の頃の歌唱としての全盛期並の歌声を再度聴かせようとするならば、それなりの努力と期間が必要になるように思う。
加えて女性歌手の場合、第一線で活躍している人を見ても40歳前後になると声量や声の張りが随分落ちてしまうという印象がある。男性の歌手では壮年期或いは老年期に差しかかろうとする方まで若い頃と変らぬ声で活躍されている例も多いのにである。女性の場合肺活量や筋力をはじめ、妊娠出産など様々な体の変化もあるため、男性に比べどうしても不利であることは仕方ないことだ。

そうした事もあって、客観的に考えると、今の現状から子育てや家庭を軌道に乗せた後に再度我々が納得するレベルの歌手としてのキャリアを積上げようとするのは、幾ら才能のある彼女とて並大抵ではないものと考えざるを得ない。
果して気力体力モチベーションがその頃にあるかまたは再度湧き上がってくるだろうか?そこが鍵になる。
それに活動と言っても、節目の時だけ復活ライブを行うという限定したものであったり、ファンへの顔見せ程度のものであれば、極端に言えば出てきて貰わなくてもよい。
しかも私が個人的に魅力を感じているのは10代のアイドル曲群ではなく、あくまでも20代になって歌唱力が一段と向上して以降の、ストレートに心の琴線に触れる楽曲・歌唱群だ。復帰叶うのであればその続きが見たい。多くの、特に古くからのファンとはそこが違うのかもしれないが、この部分が世間に全くと言っていいほど知られていないのが非常にもったいない。そして、そこに再活動の意義があるはずだ。
これらは、昨年4月に書いた以下の記事の内容とも共通するが、そこはずっと変らないぶれない部分でもある。語りかけ形式はもうこの1度きりにするが。
松浦亜弥さんへの最初で最後のちょっと本音の手紙」

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このように書くと、冷たく厳しい言い方のように思われるかもしれないが、期待度が低い人に対してこんなことは言わないし、考えたり書いたりする労力は裂けない。実際、今この記事を書いていて例えば前回の読書感想文の記事などとは比較にならないエネルギーを必要としている。彼女に対してこそ書ける言い回しなのだ。

今回は、燻っていた思いを先日来のネット上の動きに刺激されて少し吐き出した次第。

mago_emon at 23:50|PermalinkComments(2)松浦亜弥 

2016年05月09日

貴重な水資源

この連休を利用して読んでおきたいと思った一冊、予定通り最終日に読了した。

「見えない巨大水脈 地下水の科学」(講談社ブルーバックス)というもので、新書版の250ページほどのもの。比較的わかりやすい解説で読みやすかった。

きっかけは、先日来の熊本県を中心とする地震の影響で、熊本市内にある湧水を水源とする名所の池が干からびてしまったというニュースを見たことだ。

私は水のある風景、特に綺麗な湧水のある風景が好きだ。私の探訪先でも様々な風景に接することがある。ある町では、市街地に多数の湧水ポイントがあり、飲料水用・炊事用・洗濯用などに水槽が分けられ、生活に根ざした水場があった。また他では、町中の湧水池で水需要の全てが賄われ、上水道が全く無い町もあった。湧き水そのものが観光資源となっているところも数多い。

河川や湖などと違い眼につきにくいが、陸上にある淡水の8割は地下水という形で存在すること。そして絶海の孤島のようなところにも何故淡水による地下水が存在し、井戸などでそれが得られるかなどのメカニズムなどを、本書は新たに教えてくれた。
しかしそれは、地下水としての水の供給(涵養という)と汲み上げなどによる消費が非常に繊細なバランスの上に成り立っていること。ひとたび崩れると、また有害物質などで汚染されると、その回復は容易ではないこと。非常にデリケートな資源であること。
そういうことを本書は語りかける。

日本のように水道水がそのまま飲用に適する国は少なく、それだけに我々は水そして地下水に関する意識が低く、普通に生活していると当り前に感じて貴重なものとは思いにくい。

この本を読むと、水は化石燃料などと同様、貴重な資源なのだということがわかる。


IMGP4019

市街地の湧水地の例(盛岡市)


災害報道から奇しくも水の貴重さを再認識することになった形だが、そういうきっかけは大切なものだ。
そして最後に、災害に遭われた地域が日常を早く取り戻し、そしてもとどおり湧水の豊かな町への復活を祈りたい。



mago_emon at 22:25|PermalinkComments(0)読書など