孫さんのあれこれ雑記

2016年06月

ここでも度々記事にしている松浦亜弥さんの話題。

今日はかなりのファンの人、あるいはもとファンであっただろう人まで、ネット上で書き込んだりつぶやいたりしているのを眼にした。

今日は彼女の誕生日で、それも30歳という節目だからだ。

数年前に偶然彼女そしてその曲に触れて魅力を感じるきっかけがなかったら、今でも派手な衣装を着てアイドル曲を歌っているといった印象、それもかなり以前の淡いものでしかないわけだ。今日が誕生日ということも知る事もなかっただろう。ましてやこんな記事を書くこともない。

そう考えると不思議なものだ。

さてこの30歳、そして30代という年代。世間的には、20代までは若者とひとくくりに出来るけど、30歳ともなればやはり立派な大人というイメージだ。
私見をいうと、いわゆるアラサー世代というのは、女性が一番その魅力を発揮する年代だと思っている。
女ざかりというわけだ。
彼女の歩んできた歌うという仕事を考えても、声量や響きといった若い部分に任せるだけの歌い方から、ある程度の人生経験を経て説得力が出てくる頃と思う。
その一番魅力が発揮されるだろう年代に、表から隠れてしまっているのは残念というしかないが、しかしその人生経験を積むという部分がこれまで、例えば普通のOLさんなどとはちょっと違った形になっていたのだろうかと。
10代の頃から特殊な世界にいて、数年前からそれをようやく体得しようとしているのだから、実体験が伴って本当の説得力を持つ歌が聴けるようになるように、その準備期間なのだ、と思うようにしている。

私は直接見聞きしていないが、彼女の発言にも、実際女は30歳からというのがあったと聞く。
さらに、彼女は一生歌いたいと思っているということも、どこからか漏れ聞いた。
しかしその準備期間がどれくらいになるのか、まだ見当もつかないのが現状だ。

それにしても、既に抜群の表現力のある歌声に、さらに説得力が加わるのなら、どんな歌が聴けるのだろうか。
考えただけで、気持が高ぶる。

多くのファン、特にベテランのファンとは随分毛色の違う偏ったファンの私だが、そんな私でもそれらを微かな心のよりどころとして、その日が来ることを密かに期待している。

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2試合連続サヨナラ逆転本塁打男・・とんでもない若手選手が現れたものである。
カープの鈴木誠也選手のことだ。そしてそれに留まらず今日も決勝本塁打を放った。

何しろ主催試合で9回以降のビハインドの場面で塁上に一発逆転できる走者がいて、そのタイミングで本塁打を打たなくてはいけない、そのチャンスが2試合連続で巡って来てこないといけないからだ。

前回チームでこれを記録したのは、84年の長島清幸選手で、32年ぶりとなる快挙だ。

このことで一つの観戦記憶が改めて思い起こされた。
序盤から先発大野豊投手をはじめ対戦チームに打ち込まれ、中盤で4-10と大きく劣勢の状況だった。
ところが後半になると打線が奮起して挽回し、8回裏2死満塁の場面で長嶋清幸選手が登場、見事に逆転満塁本塁打を叩き込んで12-10で勝利を収めたという試合だ。
この試合では打たれたが当時はこの大野投手をはじめ北別府投手、川口投手など磐石の先発陣を擁しており、また山本浩二選手など打線の主軸も健在だった。
(ちなみに既に晩年になっていた池谷投手がこの試合の勝利投手になっているはずだ)

この年が何年だったか100%の自信はないが、多分その84年であったと記憶している。
その年はリーグ優勝をおさめている。今年はその再現かという思いが、特に30代後半以降のファンには実感を帯びてきたのではないか、と。

私は実は、このカープの全盛時代に底辺に留まり続けていた球団に同情的感情をいだき、密かに応援していた。これは誰にも話したことがないが、地元を離れていた時期はむしろその球団を主に応援していたような傾向もある。その後その球団が戦力を整え何度かリーグ優勝することとなると、その思いは少し淡くなっていった。

今でもその球団との首位争いを演じ、最後はカープが勝つというのが、私の一番理想とするセリーグのペナントレース展開なのである。今年はその展開にはなっていないが、そんな贅沢は言ってはいられない。

不本意ながら最もリーグ優勝から遠ざかっているその不名誉を払拭できるチャンスだ。

小学校5・6年のときの担任の先生、ふと思い出すともう還暦を迎えているのに気付いた。
それでちょっと愕然として、今日は駄文を少しだけ書くことにする。
先生は新米教師だった。大学卒業後、しばらく鉄工所で働いていたとのことだが教員の夢を捨てきれなかったとのこと。20代後半にはなっていたが世間的には新しいことをするには十分若い。

先生はわが町が地元ではなかったが、夏休みに町の史跡めぐりのツアーをしてもらった。
私は夏休み中なのにめんどくさい、暑いなあと余り乗り気ではなかったのはまあ、子供だから仕方ない。
でもまだ20代の若者であった先生に、知らない土地の古墳や史跡といったものに自ら興味を持つということ自体、難しいもの。
しかも地元の子供に案内し、教えるというとなると相当した調べが必要だったと思う。

キャンプや屋外活動など、何回か先生独自の企画にも参加させて貰った。
6年の秋になると、体育会系の先生のこと朝の授業開始前校庭のグラウンドを何周走ったか、その数値を当時開催予定のロス五輪になぞらえて、「アメリカ大陸横断マラソン」などと銘打ってクラスの皆を奮い立たせてくれた。何しろグラウンドの周回数×児童数×日数なのだから、春を迎える頃になるとたしかほとんど横断し切ったように記憶している。

卒業式後の最後の先生の言葉に、ほとんどのクラスメイトが泣いていたのを今でもはっきりと覚えている。
先生自身も涙を流していた。

卒業文集に添えた文章には、「この2年間、新米教師として馬車馬のように走り続け、皆に迷惑をかけた事もあったと思う」と記されている。
2回ほど同窓会があったが、もう随分前のことだ。
各人の今の境遇次第では参加し辛くなるものもあるかもしれないが、今年やっても参加率は高いと思う。

小学校から中学高校の担任の先生で、一番印象的で会ってみたい先生というと真っ先にこの小5・6のときの先生を挙げる。

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