言葉のはなし

2018年02月03日

普通に

「普通におめでたいと思う」

今日もまた眼にしたか、と思う。
あるネット記事のコメント欄でのことである。
今や、この言い回しはそれこそ「普通に」使われるようになっているようだ。
しかし私としては違和感と、わずかながらとはいえ不快感も感じる。
こういうと逆に何でと不思議に思われる方も、もしかするといらっしゃるかもしれない。

私の知らないところで色々と小さな流行り言葉や好んで使われる言い回しが起こっては消えしているのだろうけど、この「普通に(+形容詞)」は今や根強くはびこっているのは間違いない。

しかしわざわざ取り上げるのは少なくとも以前(といっても何時ごろまでかはもはやはっきりしないが)は頻繁に使われる言い回しではなかったからだ。
私個人的にも使ったことはないと思う。

もっと他の表現があるはずだし、「とても」「すごく」といった意味を内包しているように感じる事もあるし、良い意味でも悪い意味でも使われるようだ。とりあえずの反応としては無難な言い方ということでとっさに出てくるものなのか、単に語彙力に乏しいのか、そんな言い回しをよく耳にし眼にするから使ってみようと思うのだろうか。

いずれにせよ、はっきり断言せずその意味を曖昧にさせる言い回しであることは間違いない。

女子高校生などで隠語のように使われる意味不明な流行語とは違い、それこそ「普通」の単語なので、抵抗なく受け入れ使う人も多いのだろうが、ただそれが特定の言い方で余りに多用され始めると、やはり違和感を覚えるわけだ。

こういうのにいちいち反応するのも、おかしいのだろうか。


mago_emon at 23:27|PermalinkComments(0)

2017年05月27日

布団を「引く」

最近手にした一冊の新書本。興味深く本編を読み終え、あとがきのページを開いたのだが、今回はそこにも読みどころ、感じどころがあった。

京都市出身の著者が、「七」の発音に関して疑問を呈されているという内容だ。

『七五三という言葉を、私は「ひちごさん」と読む。「しちごさん」とは、まず言わない。私にとって、七は「ひち」であり、「しち」は不快にひびく』
というくだりから始まり、「七面鳥」「七福神」「上七軒(京都市の地名)」などと次々に例を挙げて「シチ」という発音に違和感を抱くことを述べている。

私も全くとはいわないが、かなり同感だ。
イチ・ニ・サン、と数字を数えていって、ロクまで数えた時、次は確かに発音的には「ヒチ」だと私も思う。
実際そう言っている。もちろん、文字にすると「シチ」であることは知っているが、幼少のころから自然とヒチと発音していて身についてしまっているようだ。
「七」のみならず、「質屋」なども「ヒチヤ」と発音する。町を歩くと「ひち」という仮名遣いが行われている物件を眼にすることすらある。

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「ひちや」と表記された例(呉市にて)

近畿地方を中心とした地域では「七」を代表として、「シ」が「ヒ」と発音される傾向があることが一般的ということを、聞いたことがある。その広がりがどこまでなのか、九州あたりまで影響があるのかはよくわからないし、岐阜県にも「七宗(ひちそう)」町という自治体があるのだから、西日本限定と言うわけでもなさそうだ。
(七宗町については、「しちそう」ではなく、「ひちそう」と打った場合のみ変換されるので間違いない。自治体のかな表記も「ひちそう」が正式のようだ)

その辺りまで考えて、唐突に思い出されたのが、小学校の卒業文集で、あるクラスメイトが書いた一節だ。
今手元にはないのだが、それは
「ふとんを引いたら、畳が見えなくなるほど狭い部屋」
というくだりである。修学旅行時の部屋での一風景を書いたものだ。

すこし古い言い方で、「床を延べる」と言い換えられるその動作、布団を「引く」ではなく「敷く」と表現するのが普通のような気がする。
私も、その点実を言うと少し自信がないのだが、布団を「引く」という表現でもOKであれば、あえて取り上げる必要もない。しかしこれはどうも本来「敷く」という語句を「ヒク」と普段から発音しているために、文章にする時に「引く」と書き間違えたのではないか。床を延べる動作は「引く」でも、表現自体はそれほど間違いではない感じがするわけだし。
そういえば、「紙を敷く」も「ヒク」と発音しているように思う。

どうでもよいようなことだが、私の中で少し引っかかる。

mago_emon at 20:50|PermalinkComments(0)

2017年03月23日

「やばい」の用例の広まりに思う

最近、先月だったか、ある中学校で「やばい」という言葉の使用が禁止されるといった話題を眼にした。

この言葉自体、私も自然に使うが、もちろん「悪い結果(が予想されるとき)」に使う。
これが本来の用法で、このほかに無いはずだ。
過去形で「やばかった」という場合は、その悪い結果が回避されて、安堵した時に使う。
もちろん口語、もっというと俗語に近い単語であり、文章では使用しないという認識だ。

こう書いて、私もちょっと自信がない。そのような使い方をする人が、今何割いるのだろうかと。
肯定的な意味で使うことに抵抗のない人が、もはや何割かいるように思う。
中学校で禁止されるように若年層で顕著な現象なのだろうけど、その広まりはどうも若い人だけでないようにも感じる。

TV番組などでも、例えばグルメレポートのレポーターなどがこの言葉を頻発する。
この場合、噂どおり、または期待以上の美味しさであることを示す言葉で、もちろんマイナス要素を示すものではない。
しかし、やはり嬉々とした表情で口にする言葉ではないというのが私の感覚だ。

この単語をプラスの内容でも自然に発言する人の感覚とは、どのようなものなのか。
恐らく、本人の尺度で「日常の平凡さの範囲内」を逸脱する振れ幅を示すと、それらはすべて「やばいもの」という認識なのではないか?と考える。
こういう用例が横行している影響で、もはや耳にすることは違和感を覚えなくなったともいえるが、少なくとも私は使わない。使いたくない。
「やばい」などという表現に代用されて語彙が貧しくなりたくない。

もっと的確で美しい表現があるはずだ。

mago_emon at 22:44|PermalinkComments(0)

2016年10月02日

「言葉を選ぶ」

ふと先日、「ブックオフ」に入った時、吉村昭著の「わたしの流儀」という随筆集が眼に入った。

読書しなくなって久しくその点が悔やまれてならないが、氏の小説・随筆集などは高校時代から当分の間かなり読み込んでいた。

音楽などもそうだが、読書の趣味もその好みは人それぞれで誰一人同一ということはない。
吉村氏の著作は、高校の図書館にあった「蜜蜂乱舞」という小説を文庫本で読んだのがきっかけだった。
読書は私の趣味と言えるものでは今も昔もなく、有名な作家もほとんど知らないままだ。そんな中で氏の小説には、なんと言うんだろうか、無駄な装飾をそぎ落とした平滑でありながら鋭い描写が、読むものに臨場感を与えるといった独特な感触があり、私は好んで読んでいた。

さてその「私の流儀」という随筆集は、今もハードカバーの単行本で持っている。それを改めて久々に手に取り懐かしみながらページをめくっていて、あることを思った。

幾つかのセクションに分かれた中に、「言葉を選ぶ」という一文がある。
その中の「鳥肌」という一文では、「鳥肌が立つ」という言葉を、テレビの芸人の影響で深い感動を表す言葉と思い込む人もいるだろうと心配し、そして「テレビの影響力は大きく、それが日常語として使われるようになるかもしれない。そうなったら、それこそ鳥肌が立つ思いだ」と締めくくっている。

吉村氏は昭和2年生れの戦前世代で、既に故人ではあるが、この言葉の「誤用」がメディアで話題になる前に、既にエッセイで指摘している。

氏の随筆を読んでいると、日本語の本来の奥ゆかしさを掘り起こし、読むものに感銘を与える力を持っていて、それは文章の内容に関わらず伝わってくる。それは正しい日本語にこだわり、その変化に敏感であるからだろう。
「言葉を選ぶ」シリーズに収録された文章を読み返すと、私がとても影響を受けていることに気付く。
運営しているサイトの文章などを目にして、吉村氏の表現を真似している!と苦笑することもある。

それは私が流行、特に流行語といったものに自然と拒否反応を示すこととも、氏が文面に著したものに触れたことで形成された、またはもともとその傾向があってそれが強まったように感じる。

吉村昭氏のことは、また機会があれば記事にしたいと思う。

mago_emon at 22:26|PermalinkComments(0)

2016年05月22日

真逆 全然

言葉は進化し変るもの、それは当り前のことだが、定着の過程には摩擦や抵抗があって、それに持ちこたえたものだけが受け入れられるようだ。
今回は、世間にはほぼ受け入れられていると思われる言葉なのに、私はまだどうも抵抗感が拭い去れない2語に触れたい。

まず一つ目。真逆という単語だ。マギャクと発音する。もはやTVで氾濫している用語だ。
ある時から、この単語が妙に耳につき、そのたびに引っかかるもの、ある意味不快感に近いものを覚えだした。
真反対とはいうが・・・?
この熟語自体は実は昔から存在した。しかしその読みは「まさか」であり(あの「まさか!」の意)、意味はもちろん違うものだ。
間違った日本語として一時一例に挙げられていたように思うが、最近では民放のアナウンサーなどはもはや抵抗なく発語している。そしてついに最近、NHKの(地方の)アナウンサーからも発せられるのを耳にして愕然としてしまった。
さすがに私はショックを隠せなかった。
残念ながら定着の方向に動いているようだ。もはや定着してしまっているといってもいいかもしれない。
これは世代の認識の違いというより、メディア特に民放のバラエティー番組で多用され始めたことが発端のように思う。
まあそれまで耳に馴染んでいなかっただけで、別に使うことに弊害がないのであれば、広まっても当然なのかもしれない。私のようなものが最後まで抵抗感を持つだけで、やがてはそれも薄らいでしまうものなのかも。

もう一つは、「全然」の用法だ。
「全然」の後には、本来は必ず否定語が伴うはずであり、私も文字で書く時にはそれを守っているはずだ。しかし、いつのまにか単にそれに続く形容詞の度合いを強めるものとして使われるようになったようだ。
以前書いたことのある「大丈夫」のように、本来の意味よりその用途が広くなっているようだ。
そういえば「全然大丈夫」という言いまわし、今思うと私自身も違和感が無いではないか。
しかももしかしたら私、無意識のうちに使っているような気がする。いや間違いなく日常的に発している。
何だか判らなくなってきた。

自分の中では、「真逆」に対する抵抗感は未だに残っていても、「全然」はその流れに呑まれいつの間にか受け入れてしまっているように思う。
私はその抵抗が普通の人より少し強いだけで、こうして新語が無意識に取り入れられていくのだろう。


mago_emon at 21:20|PermalinkComments(0)