町田まごころクリニック 院長日記

  町田市の心療内科・神経科・精神科・メンタルクリニック 町田まごころクリニック院長 鹿島直之のブログです

町田まごころクリニックは小田急線、JR線町田駅より徒歩8分、町田市民ホールの斜め向かいにある心療内科・精神科です。
うつ病、パニック障害、不安障害、統合失調症、認知症などのこころの病気や問題に対する治療と相談を行います。

ご予約・お問合せはお電話で 042-851-7824  http://magokoro-clinic.info/

ちょっとした出来事について

今週から大学の授業が始まってしまうので、少し今後ブログの頻度が間延びしてしまうかもしれません。今日は1週間ほど前にあったちょっとした出来事についてお伝えします。

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㎏の愛用の縄跳び
 今年の320日に800gの縄跳びが切れてしまったので、以後、1㎏の縄跳びを使っていたことをお伝えしていました。しかし、その縄跳びが、1週間ほど前に切れてしまったのです。切れたのはプラスチック製の縄の部分ですが、根元の部分からきれいに断ち切れてしまいました。飛ぼうとしている時のことだったので、切れた縄の一端が勢いよく頭にあたり、痛みを覚えました。下はその切れた縄跳びと写真撮影に協力するひろりんです。

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日々の積み重ね

 平日は自宅に帰ってから余程の雨の時以外は、毎日130回を一セットとし、平均して800回程度(6セット)は跳び、休みの日は多い時で4000回(30セット)、比較的早く帰れる日は2000回程度(15セット)跳んでいました。ですので、およそ週に1万回以上、この縄跳びはこの半年で、20万回程度跳ばれたことになります、

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駐車場の片隅で

 妻に文句を言われながら、家の駐車場の片隅、前を通る道路の前で縄跳びをやっていましたが、結構道路には人通りがあるのです。ある日は縄跳びをしようと駐車場に出ようとすると、家の前で「そんなこと言っていないだろう」「あなたはそう言ったわ!」とお決まりの喧嘩を若いカップルが始めようとしていました。かなりの大声でした。

 

ひょっとしたら時には人助けに

 二人は数メートルと離れていない駐車場に縄跳びを片手に短パンとTシャツで現れた私を不審な様子で眺めました。私は平然と縄跳びを始めました。喧嘩のトーンはやや下がった様子で、カップルはすぐに去っていきました。カップルの今後の幸せを祈るばかりです。

 

アメリカ製は頑丈

 しかし、切れる前までは全く何の兆候もなく、アメリカ製は見かけこそ武骨に見えるものの、途方もなく頑丈なものだと勝手に思い込んでいました。縄が切れてしまったことは残念ですが、今回の出来事はアメリカに対する大和魂の勝利とも言えるのではないでしょうか。これは冗談です。

 

2000円でした

 1㎏の縄跳びはネット通販のアマゾンで購入したものですが、2000円でさして高くなく、使いつぶした感があったため、修理を要求するには及ばないように思いました。代わりとなる新たな縄跳びとして、私は今回、アマゾンで購入できる最高の重さの縄跳び、1.5㎏のものを購入したのでした。それが下のものです。

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持つだけで重い

 1.5㎏のものはその見かけも縄跳びとはなかなか思えないようなものであり、妻も目を丸くし、さらに呆れていました。持つだけで重いのですが、跳んでみると、この半年の1㎏の縄跳びを切るほどの日々の修練は伊達ではなかったようで、80回は跳べるのでした。

 

さっそく1600

 診療がなかった先週の木曜日に早速1600回(20セット)を飛んでみましたが、なかなか悪くありません。今後徐々に回数を増やしていきたいものです。1.5㎏の縄跳びの縄の太さは、1㎏をかなり上回るものです。しかし、

いつかはこの縄も切れるときが来るのかもしれません。

 

先生は何を目指しているのですか?

 同じように日々筋トレや運動に励んでいる、いわば「運動仲間」の患者さんから、私の日々の運動ぶりについて聞かれたことです。激しい運動の積み重ねで何を目指しているのか、もちろん健康維持の目的もあるのですが、自分の身体能力の限界を試したい、という欲求もあるのです。


短くも長い道のりでした。

 思えば、親しいキックボクサーの患者さんに日々の運動として重い縄跳び(ヘビーロープ)を勧められ、400gの縄跳びを注文したのが去年の4月でした。当時はそれすら重く感じたものでしたが、1年半たゆまず跳び続け、縄跳びを徐々に重くし、今は1.5㎏の縄跳びを跳べるようになってみると、感慨もひとしおです。去年の4月でしたら、今の縄跳びはおそらく10回も跳べなかったでしょう。その重みを手首が支えられないからです。

 

君は友にとって、超人を目指して飛ぶ一本の矢、憧れの熱意であるべきだから

 これは私が若いころに愛読していた哲学者ニーチェの代表的な著作である「ツァラトゥストラ」に出てくる言葉です。いろいろな解釈はあるでしょうが、人間は自分をライバルとし、自分の限界を乗り越えていくことに最大の喜びを覚えるものであると私は思います。

 

精神科の治療とは

治療というものは、ある意味では患者さんが自分の病による限界を乗り越え、健康を目指していく営みでもあるように思います。精神科の治療に携わる者は、患者さんの治療の同伴者として、まずは自らが自分を乗り越えていく姿勢を常に持っていることが、重要ではないでしょうか。

 

むすび

 最初はとても無理だと思っていたことも、日々の小さな努力の積み重ねで可能になることがあります。私の身体面だけではなく、当院で患者さんに提供できる治療やサーヴィスについても同じです。患者さんのために、当院の素晴らしい仲間たちと、さらなる改善や新たな目標を常に意識し、日々の小さな工夫や努力を怠らない所存です。


期待を裏切ること

1505048732304今年の夏は雨の日も多く、湿りがちでしたが、皆さんはいかがお過ごしでしたでしょうか。毎年のことですが、この時期になると、私は多くの患者さんから夏休みはどのように過ごされたかについて伺わせて頂いております。それぞれの方が、海に、山に、あるいは外国へと旅をされ、普段は遥か彼方の美しい自然、あるいは海外における魅力的な風俗を味わい、深い安らぎや新たな発見の喜びを得ていることをとても楽しく聞かせてもらっています。上は最近のひろりんの雄姿です。

 

短い夏でした。

私はといえば、お伝えした通り、たまっていた新聞を読んだり、自宅で愛猫のひろりんと遊んでいるだけで終わってしまいましたが。何をしたかと聞かれても、はっきり思い出せない、そういう夏休みでした。まあ、それも一つのあり方でしょう。今回は「期待を裏切ること」についてお伝えさせていただきます。

 

私の中学受験

 以前お伝えしましたが、私は中学と高校は男子一貫校であり、当時は多摩地域で随一といえる受験校で、中学入試はそれなりに難関でした。これもお伝えした通り、ADHDの傾向が濃厚であった私でしたが、テストの成績は常に良かったため、親に勧められ、小学校4年生から塾通いをしていました。

 

塾は国立、家は小作

 私のかつての実家は羽村市(当時は羽村町)にあり、青梅線にある小作という駅から、立川駅を経由し、塾のある中央線の国立駅まで小学校4年生の頃は週2回位通っていました。塾は国立学院といい、今は別の名前の塾になっていますが、その頃は多摩地域で有名中学への屈指の合格実績を誇る塾でした。

 

10歳の頃の塾通い

電車を使っての塾通いに1時間弱はかかりましたが、同じように小学校で成績が良かったクラスメートと一緒に通っていたため、塾通いはそれほど苦ではありませんでした。塾の帰りには、立川駅のキヨスクで友人とお菓子を買って、帰りの電車の中で一緒に食べたりすることもよくありました。日々の通勤でお疲れの方々にはさぞかしお目障りだったのではないか、と思います。

 

のどかな時期

 以前にお伝えしましたが、多動傾向のある私は、時に塾でのおしゃべりも注意されるほどでした。最初は、親が勧めるから、成績がいい友人が行っているから、程度の動機づけしかなかったからかもしれません。塾でできた遠方に住む友達の家に遊びに行ったり、私の家に呼んだりすることもありました。今では彼らがどうしているか全く知りませんが、とても懐かしい思い出です。

 

小学校5年生

 しかし、塾の雰囲気も4年生から5年生、6年生になってくるにつれ、徐々に厳しく、ヒートアップしてくるのでした。国立駅から徒歩数分の距離にあった国立学院は5階建て位のかなり大きなビルを校舎として用いていました。ビルの中には10を超える教室数があったと思いますが、生徒数も多く、成績によってクラス分けされており、私は5年生の時までは算数は一番上のクラスにいました。

 

浅川千冬先生

 私がいた算数のクラスは、5年生のある時から浅川先生という、とても厳しい先生に変わりました。まだよく覚えているのですが、ある日に分数計算の小テストをやらされた時のことです。先生は新聞紙をまるめ、テープで固定した丸い棒をクラスにいつも持参していました。それを何に使っていたかは、皆様のご想像にお任せします。

 

緊張感漂う教室

 いつも厳しい先生はその時は特に不機嫌だったようでした。時間を制限した分数計算の小テストをやらせた後、解答を教え一人一人に自己採点をさせました。クラスは30人くらいだったかと思いますが、一人一人名前を呼んで立ち上がらせ、自分の点数を言わせたものでした。先生は一人一人に厳しいコメントをされ、時には叱りつけ、点数が低い場合にはその棒で生徒の頭を叩いていました。

 

刑の執行を待っているような

私はこの時期分数の計算をどうもよく理解しておらず、クラスの中でも一番惨憺たる点数だったのでした。私より遥かにいい点数の小学生が次々に罵倒され、叩かれているのを目の当たりにする中で、それよりずっと悪い点数を報告せねばならないという恐怖心にわたしは身を強張らせていました。

 

いよいよ私の番

 私はこれ以上ないという位のみじめな気分で、小声で自分の点数を報告しました。先生は最初、耳を疑ったようでしたが、すぐにその点数が事実であることを察すると、鬼の形相で、「馬鹿野郎!」と私を怒鳴りつけたものでした。

人生でも屈指の罵倒体験
 クラス全体に響き渡る、教室の窓ガラスも震えるかというようなそれはそれはものすごい怒声でした。もちろん怒鳴った瞬間と同時に、「根性棒」による先生渾身の打撃が私の頭部を見舞っていました。35年前のことですが、この時の先生の激怒した表情と怒声はまだとても鮮明に覚えています。

私は素直でした。
 しかし、今振り返れば、たかだか分数の計算が出来なかった位のことであそこまで怒られるというのはちょっと不思議なことです。しかし、あの時は何の疑問にも感じませんでした。高い合格実績を誇る塾が醸し出す緊張感の中で、出来なければ怒られて当たり前、私も他の生徒も、そう思い込んでいました。

 

クラス落ちと復帰

 私はこの直後より、下のクラスに落とされましたが、しばらくそのクラスで好成績をとり、6年生になった頃には、再度浅川先生のクラスに戻されました。浅川先生の怖さも棒の存在も変わりなかったのですが、ただその怖さは塾の教師として生徒の結果を出したいという熱意の表現だということを他の小学生同様に理解し、必死に塾の勉強に取り組んだものでした。

 

鬼は情熱と本気の仮面

先生は非常に厳しかったのですが、大変な情熱にあふれており、どこかしら我々に愛情を感じさせてくれたのです。先生は全員に「復習ノート」を課し、前回の授業内容を復習したノート内容を授業前に生徒に必ず見せるように命じており、それぞれが持参したノートを前に全員を一人一人指導されていました。

必死の生徒たち
 だから、授業前の教員室では先生の机にはいつも緊張した生徒の長蛇の列が出来ていました。私が塾で学んだことの復習をするのは、塾から戻った深夜か、その翌日の学校に行く前の早朝かしかなかったわけですが、そのノートの作成を怠るものは、誰一人いませんでした。

新聞配達のおじさんも驚く勉強ぶり
 ただ、あとで母親から聞いたところでは、新聞を早朝に届けに来てくれていた新聞配達のおじさんが、配達の朝5時ごろに小学生の私がすでに机の明かりをつけていつも勉強をしている様子を部屋の窓から見ていて、驚いていたそうです。大学受験の頃より、緊張した心もちで取り組んでいたことは間違いないでしょう。

 

いつも授業と生徒のことばかり

浅川先生が常に厳しい表情になる裏にはいつも生徒や授業のことを考えているようなところがあり、生徒たちは時に恐怖におびえながらも、畏敬の念を覚えていたのです。また、授業中に先生が時折飛ばすジョークもとてもキュートで、我々は惹きつけられていました。

先生、面白かったですよ
 失礼ですが、先生は同じジョークを繰り返すようなところがあり、その上で「どうだ、先生のジョークって面白いだろう」と毎回のように我々に聞くのでした。その内容はともかく、授業中の厳しい表情とジョークを飛ばすときの笑顔のギャップが、常に緊張の中に置かれていた我々にとっては救いとなっていたのかもしれません。

終電の小学生たち
 6年生も後半になってくると、塾の授業は毎晩帰りが終電近くなる程遅くまでになり、ほとんど乗客がいない、空いている電車の中で私はふざけて網棚の上に登って横たわったりしたものでした。その場に乗務員さんこそいなくてよかったですが、私のADHD気質はどんなときにも健在だったのです。

 

冬のゲームセンターにて

 前置きが長くなってしまいましたが、今回のブログについてのエピソードはここからなのです。小学6年生の受験間際である年末のことです、授業が多少早めに引けた日だったのでしょうか、夜遅くですが、私は友人二人ばかりを誘って、塾の帰りに塾のそばの地下にあるゲームセンターによって遊んでいました。今はやや下火となっているようですが、このころはゲームセンター全盛の時期で、たまに塾の友達と帰りに遊んでいたものでした。

 

鬼はどんなこともお見通し

もちろんこんな時期にゲームセンターに行くことはご法度もいいところです。年の瀬も終わりに差し掛かり、受験の追い込みの激しい緊張感から、我々3名は少しでも解放されたかったのでしょう。しかし、受験の鬼である浅川先生ははそのわずかな我々の油断すらも見過ごさず、帰りのゲームセンターをいつ監視にきていたものか、ゲームに興じる我々を発見し、途轍もない怒りを炸裂させたのでした。

 

立ちはだかる鬼

 当時はシューティングゲームばかりでしたが、座ってゲームの画面に夢中になっていた我々の後ろに無言で立ちはだかると、一人一人の髪の毛を力任せに真上に引っ張り、立ち上がらせました。あまりにも怖かったので、よく覚えていませんが、「来い」とのみ言われ、彼についてゲームセンターから徒歩数分の塾に3人とも戻されました。

 

大勢の生徒の前で

 塾の受付を入ったところにある広い事務室に連れていかれると、そこにはまだ20人ほどの生徒がどういうわけか浅川先生の授業の続きを待っていたのでした。哀れな我々は先生に「家に電話しろ!」と命じられます。もちろん逆らえるはずもなく、大勢の生徒がいる前で、一人一人自宅に電話しました。全く恥ずかしさと惨めさこの上なしでした。

 

親にも容赦なし

 先生は電話を掛けた我々の受話器をひったくるように奪うと、電話口の親にまくしたてたものでした。「お宅のお子さんはこの時期にゲームセンターに行っていました。この時期にこんなことでは・・・・」内容はやはりよく覚えていませんが、我々の親に対する塾教師としての激しいクレームなのです。我々は大勢の生徒の前で恥をさらした上、親にも非常な心配と迷惑をかけたという気持ちから、茫然となってしまいました。

 

反省文まで

 さらに我々3名は夜も更けた寒々としたもう誰もいない教室に戻され、反省文を書くように言われました。仕方がなく反省文を書いていると、私の後ろからしゃくりあげるように友人の一人が泣いている声が聞こえるではありませんか。私がどうして泣いているのか尋ねると、「だって、お母さんにも迷惑をかけて・・・すまなくて・・・」と言うのでした。私は泣きこそしませんでしたが、全くゲームセンターの楽しさから地獄に落とされた心地で、彼を誘ったことをとても済まなく思ったものでした。

 

足が重い帰り道

 私の親は普段から過保護な方で、余程のことがないと厳しく怒るようなことはありませんでした。しかし、今回の帰り道ばかりは、半ば茫然としつつ、罪悪感に苛まれながら、怒られることを覚悟していました。

救いは拍子抜けと共に
 しかし、私の親は帰ってきた私に「疲れたでしょう」といつも以上にさらに優しく、気遣う様子を見せるだけなのです。怒らないばかりか、どこ吹く風という感じで、一切電話のことにも触れないのでした。私は親の深い気遣いを察し、感謝しつつ疲れ切った心身を休めることが出来たのです。

 

後日談

 もうそれから数年たってから改めて母親にそのことを尋ねると、「びっくりしたわよ。先生がいきなりすごい剣幕で電話してきたものだから」と話すのでした。ただ、その晩にそれを聞いた父親が「普段すごく頑張って疲れているんだから、絶対そのことを怒ってはだめだ。」と母親に伝えたのです。愛情深く聡明な両親は相談の上、怒りに満ちた電話のことに一切触れず、私をいたわるように接していたのでした。

 

不安と恐怖の期待を裏切る

 私はこの小学校のことを思い出すたびに、両親に対する深い感謝を感じ、そこに秘められた人生の教訓を忘れまいとするのです。絶対に怒られると緊張しきって、身を強張らせているような相手を怒ってはいけません。むしろそういう時こそ、わかりきったことは言わず、相手を安心させるような接し方を心がけるべきなのです。

 

むすび

 罪悪感や、自責感、不安緊張にさらされている心を相手にするとき、相手に何を言ったら楽になってもらえるか、これを考えることが精神医療に限らず、普段のコミュニケーションでも大切です。いい意味で、相手の期待を裏切られるような接し方が出来ればといつも念願しております。

私の悩み

日曜日の朝

 夏の期間はいつも木曜日に授業がある大学がお休みで、授業に毎週必要な準備をしなくても済むため、私も多少は時間に余裕があります。今日は朝から庭の水まきの器具を修理していました。水まき器具のホースの先端にある水量を調節するためのプラスチック製器具を構成する部品の一つが水圧ですっ飛んでしまったのです。

 

妻からの厳命

暑い中ですが、このままでは水撒きはできず、どこかに落ちているはずだから部品を至急探して器具を修理してくれと妻から言われたのでした。狭い庭といえど、水を適切に撒かなければせっかく並べて植えてあるサツキがすぐに枯れてしまうからです。

 

いくら探しても

しかし、狭い庭を蚊に刺されながら、草木の下をかき分け、入念に探しても、部品とおぼしきものは見当たらないのです。ところが、前の道路までじっくりと見渡すと、道端にごく小さいプラスチックのかけらのような部品が落ちているではありませんか。

 

ちいさな感動

 最初はゴミだと思って注意を払っていなかったのですが、ひょっとしてと思いながら、部品が欠けている場所にそのプラスチックを組み合わせるとぴったりと合ったのです。とてもうれしくって、感動してしまいました。

家庭ではダメおやじ
 ところで、お恥ずかしい限りですが、私の自宅における生活態度はだらしがないところがあり、妻から罵倒されることもしょっちゅうです。私に似てしまったのか、だらしのない高校生の息子からも批判されることすらもあります。

 

たまには役に立つところを

しかし、今度ばかりは、夏は特に庭の植物の命にも関わる器具を何とか修理し、夫の面目も多少は立ったように感じ、意気揚々と妻に報告しました。何事もあきらめないことが大切だ、と小さなことながら感じさえられた出来事でした。今回は当院における私の悩みについてお伝えさせて頂きます。

 

月一回のミーティング

 当院では、月に一回受付の皆さんと私でミーティングを行います。当院の運営上の問題点を洗い出し、解決策を話し合うためです。私が診療をしていない木曜日にいつも行うのですが、先週も仮借なく厳しい意見がスタッフから出されました。熱心でいつも意欲的な受付の皆さんはほとんど全員、10名程度が出席されていました。

 

立ってお待ちになる患者さん

 患者さんをいたわる場所であるはずのクリニックとして、大変申し訳なく、あってはならないことですが、「立って待っている患者さんがいるんですよ」と毎回のように言われます。待っている患者さんの数と比べて、待合室が狭いために起こってしまうことなのです。そういう声が受付のスタッフから上がるようになったのは、数か月前からのことなのです。

 

特に混むのは火曜日

一番多くの患者さんにご予約を頂いている私を含め、朝から夕方まで医師が3人いる火曜日は特に混雑し、駐車場も入れないと苦情をしばしば頂いています。こちらでも手をこまねいているわけではなく、去年は待合室で場所を取っていた大きな白いソファを撤去しました。患者さんのためにと心を込めて7年前の開業時に選んだ国産の最高級品であり、5年間使ったものとはいえ、その処分は苦渋の決断でした。

 

隣の薬局

 当院より遥かに広い隣の薬局の待合室も利用させて頂いています。診察の番が来て診察室からお呼びしても、すぐにはお分かり頂けないことが難点ではあるのですが。いつでも何でも協力的な薬局の皆さんに感謝あるばかりです。しかし、薬局で長時間お待ち頂き、診察の後にも薬局でお待ち頂く、ということは本来望ましいことではなく、心苦しいところなのです。

 

待ち時間に診察用紙をご利用ください

 限られた診察時間を有効に使って頂くために、待ち時間に患者さんの症状や生活のご状況、診察の時にお聞きしたいことなどを待ち時間に書いておいてもらうための用紙を数か月前から用意してあります。

用紙は受付の前にあります
 受付の前に置いてありますので、ご存じない方は是非ご利用いただければと思います。その場で聞かせて頂くより、書いてあるものを拝見したほうが情報伝達として確実だし、患者さんも診察で「聞き忘れる」ことを防止できるからです。

 

診察時間を伸ばしては

 患者さんが一番多い私の夕方以降の診察待ち時間は時に2時間を超えることがあり、ある優秀なスタッフからは予約できる診察時間帯をもっと夜遅くまで伸ばしたらどうかと提案がありました。今は基本的には6時台が一番遅い予約時間になっていますが、実際の診察が終了するのはいつも8時過ぎになるからです。しかし、この一見もっともな提案に従うことは無理なのです。

 

開業4年目まで

 覚えておられる方もおられると存じますが、開業当初、私は平日の最終の予約時間を700730としていました。その結果、診察の終了時間は、10時を過ぎることが多く、クリニックを出るのが11時過ぎだったり、終電に間に合わなかったりしたため、平日は町田駅そばのホテルに宿を求めることも少なくありませんでした。そしてまたその翌日の診察が朝の9時から午後10時過ぎとなることもあったのです。今こそやや改善されましたが、そのころは昼休みはほとんどありませんでした。

 

身が持たない 

これではさすがに私の身が持たないと、数年前から徐々に予約時間帯を短くさせてもらい、今に至るのです。また、隣の薬局に勤務される方のほとんどは女性であることも理由でしょうが、930までには診察を終えてほしいと薬局からのご希望もあったのです。いつも大変忍耐強く当院のニーズに応えようと努力してくれている薬局からのご意見で、これは尊重せざるを得ませんでした。

 

早く帰らなければ、深く眠れない。

夜間にご受診を希望される患者さんには非常に申し訳なかったのですが、予約時間を早めに終えることによって、今は早ければ10時までには帰宅できることも多くなったのです。そのおかげで毎日の夜の縄とびと夜間睡眠の改善を含めた私のさらなる健康管理も可能となったのでした。

 

初診の受付 

 火曜日を担当してもらっている優秀な関口先生が8月いっぱいでお辞めになることもあり、今は初診の患者さんの受付を基本的にはお断りしておりますが、それも非常に辛いところなのです。

首を長くしてお待ちの方々のことを思うと・・・
 当院のホームページでご紹介している治療方針や、この私のブログ、またはネット上の私のインタビュー記事などをご覧いただき、ぜひ受診したいとご希望され、初診を数か月以上の長きにわたって粘り強く待ち続けておられる方が大変多くおられるからです。

 

この時代のニーズ

 私が思うところの、現代の精神医療に対するニーズを挙げていきます。精神科医については、時間が限られる中でも、悩める患者さんの話を適切に聞き、その患者さんのあり方や努力を認めることで、患者さんの自己肯定感を高め、お気持ちを楽にさせられること、そして時には適切なアドバイスを行えることが出来る精神療法(カウンセリング)のスキルが必要でしょう。

 

薬物療法も大切

また、お具合が改善した後の減量や中止を視野に入れ、必要最低限の薬物しか使わず、しかも最適な効果を発揮する薬物療法のスキルをもっていることも不可欠です。患者さんを薬漬けにすることなく、患者さん一人一人の必要性に応じ、現代医学における進歩の精髄といえる、薬による恩恵も十分にお役立てできる能力が重要なのです。

いつも心に太陽を
 さらに、患者さんの人生に関わらせて頂き、少しでもお力になれることに常に深い喜びと感謝の念を持ち、患者さんのご意見や希望を尊重し、治療を一緒に考えようとする前向きな姿勢をいつも保てることが重要でしょう。残念なことに、これらの条件を満たしている先生は、数多くはいらっしゃいません。

 

手を尽くしても・・・

 これらの条件を満たしそうな先生を探しているのですが、お伝えしたように、当院にご通院を希望される大勢の患者さんのニーズを十分に満たすには遥かに及ばないのです。また、いい先生に来ていただいてもご都合でやめてしまわれることも少なくありません。院長の私にとっては無念残念至極であり、いい先生との出会いを少しでも求め、医師の待遇面での改善の工夫を考え続けています。

 

何と35万床

世界にある精神科の精神病床は全部で160万床ですが、何とその5分の1以上、日本の精神病床は35万床もあるのです。これは人口当たりに換算すると日本は精神病床が世界最低数のイタリアの16倍に匹敵するのでした。

日本人とイタリア人
 ひょっとして、日本人がイタリア人より全体として精神的に多少は不健康だからかもしれませんが、それだけでここまで差がつくはずもありません。世界的に見ても、日本の精神医療はある意味で異常なのです。

 

今後の日本における精神医療の主役

 近年の厚生省の政策では、日本における精神病院の病床数を減らし、長期にわたる入院患者さんは退院してもらい、地域社会での生活を目指すようさらに促されています。今後の日本の精神医療の主体は入院ではなく、外来治療に移行していく流れにあるのです。

 

しかし・・・

今後入院治療より重要性を増すと予想されるにも関わらず、入院より遥かに大勢の患者さんの診察をしなければならず、その分緊張感があり、消耗しやすい外来診療は先生方に敬遠されがちなようです。派遣会社から候補の先生を紹介されても、結局精神病院に就職してしまわれる方が多いのです。

 

幸いなこと

 ただ、皆さんがご承知の通り、当院は十分とは言えませんが、少数精鋭の素晴らしい先生方に恵まれ、さらに治療を支える献身的な優れたスタッフに支えられています。

スタッフは私の誇りです
 誰に対しても愛情と気遣いに富む、当院の受付事務やカウンセラー、ソーシャルワーカー、看護師さんの方々を私は深く尊敬しているし、誇りに思っています。また、愛情深い一方で、患者さんのためには私に対しても時には手厳しい意見を遠慮しない、そういう方々なのです。

一致団結して
 彼らと志を同じくして、一緒に取り組めるなら、どんな難題も乗り越えられる、そう信じています。また、皆様のおかげで、現代の精神医療に大いに求められている、リラックスできるカウンセリングルームやデイケアといった施設も当院では充実しております。

 

自ら身を正す人こそ、人に影響を与えられる

 精神科医や精神医療にかかわるスタッフは自分の悩みや目の前の課題に真剣に向き合い、常に自分の出来ることを考え、少しずつでも解決を心がけなければ、患者さんにそうすることをお勧めすることはできません。

むすび
 こちらも悩みは尽きませんが、悩める患者さんのニーズから目をそらさず、さらにいっそうお役に立てるように、引き続きどこまでも諦めずに工夫を凝らす所存です。

高校野球と吹奏楽コンクールについて

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やっと当院も11日から5日間の夏休みとなり、もう半ばに差し掛かってしまいました。皆さんはいかがお過ごしでしょうか。大学の前期試験の採点に手間取っていたこともあり、いつもよりブログが遅れたことをお詫びいたします。

今年の夏は自宅でひろりんと
 息子の受験もあり、妻と旅行の意見が合わないこともあり、今年は私はどこにも行かず、自宅で過ごしております。いつも多忙で読めなかった新聞記事に数か月分目を通したり、高校野球に興じたり、1㎏の縄跳びを一日4000回やったりしております。上は窓際でパソコンを使った作業を行う私に寄り添うひろりんの雄姿です。

 

残念、横浜高校

 かつて妻の実家があった横浜の能見台に学校があるため、我が家ではいつも甲子園常連の横浜高校を応援しているのですが、残念にも初戦敗退となりました。高校野球自体も面白いのですが、私はいつも試合に負けて流される、選手やその選手たちを応援してきた人々の涙に惹きつけられるのです。

 

涙は生きた証

その涙は、嘘偽りない、その方々の生きた情熱の証だからです。普段自分が涙を流すこととは縁遠い私ですが、テレビを通してその涙に触れることで、「お前は生きているか?」と問われるような気になるのです。自分の人生で、泣くほどに自分が燃えているものって、何だろうか、と考えさせられてしまうのです。

 

吹奏楽コンクール

 昨日は高3の息子が所属する学校のブラスバンド部の吹奏楽コンクールが、府中でありました。実は息子の今年のこの時期の部活動におけるコンクール参加を巡って、一昨日の夕食時に、妻と息子のちょっとした意見のやりとりがありました。高3の息子の学年は、受験期でもあるため、その参加はそれぞれの意志にゆだねられているのです。

 

固い意志

 受験勉強に集中するために、今回は参加を差し控える高3の同級生もいます。妻はそれも一つの選択肢ではなかったかと息子に話したのです。しかし、息子はそれに対して、受験に「落ちたらどうせ後悔するんだから」、高校にいるときにできること、やりたいことをやった方がいい、という考えなのでした。高3の最後のコンクールまで部活動に参加するという息子の意志は非常に固く、全く周囲からは翻しようもないものでした。

 

後悔にも程度があるでしょう

私は少しでも後悔しないように、一番いい選択となる行動を常に心がけた方がいいのではないか?と即座に感じました。後悔にも程度というものがあるからです。しかし私はそこで息子に反論せず、何とか黙っていました。

 

妻からのお達し

息子の高校は何かと口うるさい受験校であり、すでに学校で嫌というほどプレッシャーを与えられているから、勉強を頑張るように促すように聞こえる意見はかえって逆効果になると妻に常日頃から諭されていたからです。もちろんコンクール前日になってそんな意見を言ってもしょうがないということもありました。

 

コンクール当日

 昨日、息子の参加そのものに多少の葛藤を感じつつも、その最後の部活動での晴れ姿を見に、妻とコンクールに出かけました。府中の森芸術劇場という、いくつもホールがある大きな会館で行われ、全国から高校のブラスバンドがコンクールに参加するのです。息子と同年代の男女高校生、その父兄と関係者が多数集まっており、活気ある華やいだ雰囲気でした。

 

懐かしい雰囲気

以前のブログでお伝えしましたが、高校時代は息子同様ブラスバンドに属していた私にとっては、昔を思い出させる懐かしい雰囲気がありました。もっとも、私の場合は、高2の秋を最後に部活動は終了していましたが。私がいた高校は、高2の秋以降は受験に集中するということが慣例でした。ただ、息子の高校とは異なり、自由な校風で、学校からは「勉強するように」促される、ということはほとんどありませんでした。

 

熱気の中へ

 息子からその高校が出演する時間帯を聞いておき、昼頃に会場に到着しました。広い会場は数多くの高校の出演者と観客でごった返しており、熱気が感じられました。その高校が出演するホールを案内係に聞き、ホールの客席も混んでいましたが、ちょうど真ん中あたりで二人分空いている席を見つけ、何とか出演の30分程前に着席出来ました。

 

感動しました

 息子の演奏以外に、何の興味も持たずに行ったものですが、拙い技量を感じさせることも時折あれど、高校生の誰もが全力を尽くして演奏するその様子に、息子のバンドが演奏する前から私は感動してしまっていました。演奏の結果は、コンクールの審査員によって評価され、銅賞、銀賞、金賞があり、その上に全国出場があります。

 

結果はどうあれ

これまでの練習の成果を一心不乱にぶつけてくる誰もの演奏ぶりに、心打たれたのでした。私も息子も高校は男子校なのですが、トランペットやチューバというおよそ男性向けに見える金管楽器を演奏する女子高生にも、全く違和感が感じられませんでした。

燃える情熱は時に花火のように
 それどころか、とても迫力ある演奏で、圧倒されてしまいました。舞台の上では、普段の練習で鍛え抜かれた高校生たちの技術と情熱が、これを限りとばかりに、激しく燃えているようでした。誰もが輝かしく、まぶしく感じられました。

 

結果は銀賞 

 今年は部員数が少なく、受賞すら危ぶまれていましたが、息子の高校は銀賞を受賞しました。あとで息子から聞いたところ、指揮を執っていた顧問の先生は演奏後に涙ぐみ、息子と同様、最後の人前での演奏となった高3の同級生も、感極まって涙する子もいたとのことでした。

 

親として

ブラスバンドでコントラバスを担当する当の息子の演奏でしたが、目立たない楽器とはいえ、よく音が響いていました。高3の受験生という立場から、余り練習にも参加できない中で、親としてはよくやったように感じられたものです。帰宅後に話したところでは、私は気づかなかったのですが、息子は自分の演奏で失敗してしまったと悔やんでいました。しかし、その口ぶりには何かを達成したという満足感が感じられ、これでよかったのかもしれないと思ったものでした。

 

人生に保証はない。しかし・・・

 人生にあっては、どんなスポーツや芸術でも、勉強にあっても、いくら努力したところで、それが望むような結果をもたらすという保証はありません。しかし、心ならずも今年の吹奏楽コンクールを拝見する中で、保証がない中でこそ、自分の力を信じ、ベストを尽くそうとする人間の在り方が限りなく尊いのだと、改めて気づかされた次第です。

 

むすび

 息子は、コンクールが終わった今日にあっても、しょっちゅう自室から降りてきて、朝から居間でテレビをつけっぱなしにし、聞きもしないのに高校野球を詳しく解説してくれています。ただ、息子なりの考えと見通しがあるものと信じようと、これを書きながらも、忍耐に努め、見守っております。

自分と向き合うこと

 また少し時間が空いてしまいましたが、大学の授業も今週の木曜日で終わるので、やや余裕が出来ました。今回は私事が中心ですが、自分との付き合い方について思うところをお伝えいたします。

 

私のクラブ活動

 以前にお伝えしましたが、私は中高一貫の男子校でした。そこでは中学1年生の時からブラスバンドに所属し、高2の秋に部活動を引退するまで、チューバという大きな金管楽器を担当していました。もう30年以上ほども前の思い出ですが。同じチューバで一歳上の先輩がとても優しいいい先輩だったのです。

 

おしゃべりと冗談ばかりの中学時代

 以前にお伝えしましたが、今であればほぼ確実にADHDという診断を受けていたであろう特徴を濃厚に持っていた私は、衝動的で、部活動でも受けを狙っての礼儀知らずな暴言が目立っていました、時に面白がられることがあっても、それに憤る先輩は少なくありませんでした。怒られたり、注意されることもよくありました。

私は浮いていました。
 中高一貫校のブラスバンドは、中学生1年生から高校2年生まで、時に部員は50名を超え、10代の少年たちが礼儀を伴う上下関係というものを初めて体験し、それに慣れていく場でもあったのです。情けないことですが、その場の中で私はかなり浮き気味でした。

 

ずっと優しかった先輩

 そんな私でしたが、その先輩は自分が引退するまでの5年間、同じ楽器を共に演奏する中で、いつも穏やかに優しく私を指導し、接してくれていました。その先輩は誰に対しても優しいばかりか、大らかで明るい性格で、私と異なり、誰からも好かれていたのです。

先輩に依存していました。
 私が高1の時でしたが、その先輩は部活での最高学年となる高2の時に、部長として部活動全体を統率する立場になったのでした。私はその先輩が高2の秋に引退した時には、寂しいだけではなく、部活動を続けることに、自分が最高学年になりながらも、不安すら感じたものでした。

 

久しぶりの邂逅

 もう2ヶ月ほど前のことになりますが、その先輩と20年以上久々に会ってきました。その先輩は都内のある名門高校の教頭先生となっていたのでした。その人間性はさらに円満さを増したようで、教職はまさに打ってつけの天職のように感じられました。片や精神科医になっている私とは、人の心を直接相手にするということが、職業上共通していたことから、久々とはいえ、話題は尽きず、とても楽しい晩を過ごせました。

 

20年間の振り返り

長らくお会いしなかった尊敬する先輩の素晴らしい社会的なご活躍を喜び、その相変わらずの落ち着きと穏やかさを懐かしみながらも、私は自分が10代の頃を思い出していました。私自身のその頃の振る舞いが遥か彼方の記憶の中から蘇り、この20年間に自分に起こったかなりの性格的な変化に改めて気付いたのです。

30年前、ADHDは知られていなかった。  
 元々私は物事に動じやすく、衝動的な性格だったのでした。30年前のことであるがゆえに、ADHDとは気づかれていなかった私ですが、部活動に限らず、同級生の中でも、些細なことで反応し、騒ぎ立てるといった傾向がありました。

 

騒がしい性格でした。

 突飛な言動で時にその場を盛り上げることがあっても、その独特の騒がしさを嫌がる同級生も多く、時に孤立気味になったり、友人に絶交されたりすることもあったのです。10代の頃にはそういう私でしたが、40代も半ば過ぎの今になって思い出すと、どうしてああだったのか、不思議なくらいに感じられます。

同じ匂いがある精神科医

 以前一緒に同じ職場で勤務したことのある精神科医ですが、やはりADHDの傾向を強く持つ方がおられました。頭の回転はすごく早く、思い付きで皮肉たっぷりの冗談をすぐに口に出し、その場にいる人に合わせて調子のいいことを言いながらも、実際にはお願いしたことにほとんど取り組んでくれない人なのです。

 

クールダウンが必要なのに
 些細なことで感情的になりやすく、患者さんを怒らせてしまうこともよくありました。出勤の遅刻も何度注意されても改善されませんでした。さらに、プライドは人一倍で、感情的になりやすいがために、周囲から意見もとても言いづらいのでした。

回転の速さも使いよう
 イライラする感情をあまり隠そうともせず、頭の回転の速さからか、一方的に自分の意見をまくしたてるようなところがあったからです。相手がよく言われていることをわからないままで、その方との話が終わってしまうことも珍しくなかったように思います。私は自分の性格的特徴とその方のそれに近いものを感じましたが、私とその人では全く違っている点がありました。

 

自分を知ることの重要性

 驚くべきことに、その人は自分がADHDということに全く気が付いておられなかったのです。ここまで成人のADHDがマスコミなどで騒がれるようになったこのご時世で、しかもご自分が精神科医でありながら、典型的といえる自分の症状に全く気付かないまま、私とさほど離れていない年齢にまで至ってしまっていたのです。

頭が切れるゆえの落とし穴
 その人の病院勤務における不適応ぶりを何度となく見せつけられるにつけ、私は自分の性格的な特徴を認識することの重要性に気付かされたのです。不適応の一方で、その方はとても頭が切れるところがあり、プライドも高かったために、かえって自分の性格的な偏りに気つくことができなかったようでした。もっとも私も職場不適応なところが全くないとは申せませんが。

 

幼少時からの違和感

 正直に告白しますが、私は子供の頃から、おしゃべりが過ぎたり、誰に対しても一言多かったり、些細なことで動揺しやすかったり、その場の思い付きをを行動に移しやすかったりするために、何度も悩むことがありました。また、必要がない物を捨てることが苦手で、いつも身の回りは散らかり放題で、どうして自分はこうなのか、と考えることもありました。しかし、日常生活は何とか送れていたし、少数ながら親しい友人もいたため、それほど深刻にならずにいました。

 

医師になってみると

 真の試練はむしろ社会人になってから待っていました。研修医の基本的な訓練として、上の先生に担当した患者さんについての情報をプレゼンしなければならなかったのですが、私はこれが大の苦手でした。

頑張って準備していても
 というのは、せっかく色々調べて準備しても、その場になると、緊張するせいもあり、言いたいことが頭にいろいろと思いついてしまうのです。その結果、情報の重要度に基づく優先順位を考え、落ち着いてプレゼンすることが中々できなかったのです。

苦い思い出 
 研修先の病院で毎週行われていた院長回診で、大勢が見守る中、適切に院長からの質問に答えられなかったことが何度もあり、人生における苦い思い出の一つになっています。後で落ち着いて振り返ってみると、ああ答えればよかった、こう答えればよかったといつも悔んでいたものでした。


早口と滑舌

また、もともとの短気(衝動性)と、気持ちが焦ってしまうことが影響する早口と滑舌の悪さは、最近になって多少は改善が見られるものの、研修医の頃から今に至るまで患者さんから話が聞き取りずらいと苦情をもらい続けているのです。全く申し訳ないことです。

一生懸命でも・・・
 私は、お伝えしてきたように不器用だったこともあって、目の前の患者さんのためにせめてベストを尽くそうと心がけてきました。しかし、それが影響してか、お伝えしたいことが思いつき過ぎたり、中々話をまとめられず、診察が長引いてしまい、お待ちになっている患者さんに迷惑をかけてしまう傾向もあるのです。

外来診療の課題
 その傾向は国立病院での研修後、慈恵医大に戻り、医師として4年目から、外来診療を本格的に任されるようになって目立ってきました。大学病院でも、昼食時間を遥かに過ぎ、外来に1人で残って診療を続けていることが珍しくありませんでした。恐れ多いことですが、その傾向は和らいだとはいえ、今も続いています。申し訳ありませんが、当院ご通院の方はもうどなたもご承知のことでしょう。


自信がないからこそ
 研修の頃に話を戻します。私は自分に自信がなかったこともあり、いろいろな先生に積極的に質問し、出来る限り教科書や文献に目を通し、患者さんとは時間が許す限り話すようにしていました。

患者さんと向き合うことに「畏れ」は必要なことですが
 当たり前のことですが、医師として振る舞うことが、人生で初めての経験でしたから、患者さんの治療にあたることに一種の「畏れ」を強く感じていたからかもしれません。ただ、患者さんを治療するときの「畏れ」は誰であろうと、何歳になろうと、医師の心構えとしては欠かせないものです。

唯一の救い
 結局、研修中に表立って私がほめられることはありませんでしたが、自分なりにベストを尽くしてはいたのです。そういう姿を見てくれていたからか、ある病棟の指導医の先生が、私がその病棟の研修期間を終えた後にそこで研修した友人の研修医に、「ああいう奴は伸びる」と私のことを話していたと、その友人が教えてくれたことが唯一の救いと感じられたものでした。直接その先生からその発言の真意を聞けなかったので、その先生の期待通りの医師になれたかどうか、今でもわかりませんが。


私なりの対処

 医師になってから、さらに数年が経ち、20代の後半に至り、物事に動じやすく、落ち着かないところがある自分を変えようと、自己修養の一つとして瞑想を学ぶようになったのでした。お恥ずかしながら、自分が「ADHD」であったとはその時期にあってもはっきり認識していませんでした。

マインドフルネス瞑想との出会い
 ちょうど大学から秋田県の病院に3年間の長期出張に生かされた時に出会ったのは、幸運にも、最近マスコミで話題になっているマインドフルネス瞑想を日本に広めようとしていた井上ウィマラ師だったのです。

 

偉大な師

 師は、京都大学を中退され、その後ビルマやタイで本格的な仏教瞑想の修養をした後、日本に瞑想を広めようと、たまたま秋田県で瞑想のワークショップを開催していたのでした。お会いになった方は誰でも感じると思いますが、ウィマラ師は知性と優しさと静けさを兼ね備えた、理想的といえる瞑想の師だったのです。私は秋田県の病院への出張期間の間、師のワークショップに何度も参加し、瞑想のやり方とそのスピリットを自分なりに学ぶことができたのでした。

 

瞑想で得たもの

 マインドフルネス瞑想は、ただあるがままの自然な呼吸に、目を閉じてまっすぐな姿勢で座って集中する、というシンプルなものです。シンプルがあるがゆえに、日々の訓練によっては、我々と常に共にある呼吸というツールによって、いつでも自分自身を取り戻すことが出来るようになってきます。

マインドフルに生きる
 座っている時に限らず、いつでも意識的に呼吸をする習慣によって、自分の思考と感情と身体がどのような状態にあるか気づいた(マインドフル)上で、物事を選択することが可能になってくるのです。

 

少し落ち着いてきました

ものに動じやすかった私は、呼吸というツールを使うことを覚え、動揺しやすい感情をある程度はコントロールすることが出来るようになってきたのでした。今では、当院の優秀な受付事務のお一人からは、「先生はいつも気持ちがフラットですね」と、お褒めの言葉を頂けるまでになったことは私にとって奇跡的な達成なのです。

 

ノン・ジャッジメント(裁かないこと)

 瞑想の師から、もう一つ学んだ重要なことは、どんなこともノン・ジャッジメント、自分の判断で物事を裁かないことが大切だということです。これも何でも批判的に考えることが格好いいと勘違いしていた私にとっては、カルチャーショックでしたが、メンタルヘルスにとっても非常に重要なことだったのです。

人を裁くことは自分を裁くこと
 慈愛と安らぎに満ちた我が師は、人を裁くことは、自分を裁くことにつながっていること、それが自分の人生における不安と緊張感を強め、自分自身が生きづらくなってしまうことを私にわからせてくれました。

 

それから17

 井上ウィマラ師から教えを頂いてからもうかなりの年月が経ってしまいました。私は大した弟子ではなかったでしょうが、師から教わった瞑想の習慣を日々短時間でも続け、ノン・ジャッジメントの教えは自分なりに実践し続けているつもりでいます。

心の静けさと安らぎこそ
 師から私が得たものは、計り知れません。師から教わった心の静けさと安らぎこそは、人生に永続的な幸せをもたらしてくれる、真の財産といえるからです。

 

道は半ばです

 医師として、先に挙げた全ての欠点を克服したとは今になっても到底言えません。恐れ入りますが、これを読まれている患者さんで私はまだまだだとお感じになる方は多いことでしょう。

驕らず、焦らず、あきらめず
 しかし、瞑想を含め、自分の欠点をあるがままに見つめ続け、それを克服しようとする日々の努力の積み重ねで、少しずつですが、緩和されてきているように私は感じています。急に変われないことは誠に申し訳ないのですが、引き続きベストを尽くしますので、ご容赦頂ければ幸いです。


マインドフルネス瞑想の今
 この数年、NHKや新聞などで、盛んに取り上げられるようになっており、瞑想が精神科の治療に用いられることが増えているようです。以前からのその効果を個人的に実感していた私としては、とても望ましいことだと思っています。

瞑想はほとんどの精神状態に有効である。
 瞑想はうつ病、不安障害、アルコール依存などの依存症、人格障害、発達障害などの精神疾患の改善から、普通の人におけるメンタルヘルスの寄与に至るまで、非常に幅広い範囲の精神状態を改善する効果があるように思います。

真に価値あるものを得るために
 当院では特に窪田カウンセラーがマインドフルネス瞑想をカウンセリングに生かしておられます。しかし、真に価値あるものを得る場合の例にもれず、瞑想の本当の効果を得るためには日々の粘り強い努力が欠かせないし、ある程度の時間もかかるように思います。
 

むすび

 若いころ大いに悩むこと、壁に突き当たることはメリットがあります。大きな悩みを克服しようと努力すること、その努力の過程によって得られることが、その後の長い人生にとって大きな利益をもたらすことがあるからです。

当院のご案内
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