
今回は生命の贈り物、ということについてお伝えしたいと思います。上はベッドに投げ出してあったノートパソコンの携帯ケース上に居座るひろりんです。
生命とは
私が信じるところ、あらゆる生き物は、命ある限り、自ずから成長し、生成発展する力を持っています。全ての生き物は望ましい環境に置かれれば、この世界で命の中に秘められていた本来の在り方を発揮していくものなのではないでしょうか。
DNAの可能性のように
人間の体を構成する細胞は37兆個に及ぶと言われますが、その細胞一つ一つが持つ遺伝情報であるDNAには、一個の受精卵細胞から、成人まで成長する人体の設計図が完璧に描き込まれているのです。我々に人体という途方もなく素晴らしい機械を与えてくれる、たかだか0.006㎜の大きさにすぎない細胞核に収まってしまう程にちっぽけで、目には見えないDNAは信じられない可能性を秘めていると言えるでしょう。それと同じように、人間を含め、あらゆる生き物は想像を超えた変化と成長の可能性をはらんでいるように私は常々感じております。
市民病院の勤務
以前にブログでお伝えしましたが、このクリニックの開業前、私は1年間だけ町田市民病院の精神科医長として責任者を務めたことがありました。私が大学病院から町田市民病院に転勤した直後に、それまで精神科の部長をされていた先生がお亡くなりになったからでした。当時、期せずして市民病院精神科の責任者としての重責を担うことになった私は、市民病院唯一の常勤の精神科医としても多忙な日々を送っていました。
多忙で孤独な中にも
しかし、そのような多忙で孤独な日々の中にも、私は自分なりの喜びを見つけていました。私は、町田市民病院が現在のようにきれいで近代的な建造物になる直前の、まだ古い建物だった時期に精神科に着任しました。私は一人の常勤責任者であることをいいことに、当時三つあった診察室の一つを自分の診察室と定め、診察机の後ろにあった日当たりがいい窓際の棚の上に、お気に入りの観葉植物を購入し、手当たり次第に並べていったのでした。
楽しい観葉植物
私は観葉植物にそれまで全く興味はなかったのですが、市民病院で自分専用の診察室を持ち、ある程度はその部屋の佇まいを調えられる立場になると、診察室に置くための観葉植物を集めることが急に楽しくなったのでした。今では全く行きませんが、毎週のように家族で近所のホームセンターに行き、入荷した観葉植物をチェックして、手ごろなものがあれば買い求めて、診察室の窓際に並べたものでした。
趣味が嵩じて
やがて窓際の棚の上のスペースには、観葉植物を並べて置くための台すらも置き、さまざまな観葉植物が2列に並び、診察室の窓際はちょっとした壮観になったのでした。また、観葉植物も大きなものはネットで注文し、市民病院に直接届けてもらい、職員の方を多少とも戸惑わせてしまいました。
やはり素人
しかし、観葉植物を好きとは言っても、やはりにわかの趣味で、見た目で集めたさまざまな観葉植物のその真の生態までを、ほとんど知ることはありませんでした。ただ、私は気がついたら水をやり、仕事中に時々眺めてはその風情を楽しんでおりました。
ある日のこと
午後の病棟での診察を終え、少し疲れて精神科外来にある自分の診察室に戻ってきた時でした。その時たまたま目についたのは、窓際の隅に置いた多数の枝分かれを伸ばした大きめの観葉植物でした。朝の段階では気づかなかったのですが、それは健気にも一斉にすべての枝から白い小さな花を咲かせ、植物としての装いを可憐かつ美しく一変させていたのでした。そればかりか、かぐわしい香りを周囲に漂わせ、私はその変化に圧倒され、ただただ、「こんなの聞いていないぞ・・・」と目を細めてつぶやくばかりでした。
命は贈り物をする
その名も思い出せない観葉植物の全く予想しえなかった劇的な変化が、激務の中で、私にはとても大きな癒しになったことは言うまでもありません。たかだか観葉植物の開花であり、人によっては珍しいことでは無いように思われるかもしれませんが、私はここに生命というものの大切な要素があるように思うのです。生命は自分を慈しみ、自分のニーズを満たしてくれる存在にその秘めたる可能性を携え、贈り物をしようとする、ということです。
もちろんひろりんも
もう一つ例を挙げましょう。今回もそうですが、これまで何度も写真でブログにお目見えしている愛猫のひろりんです。ホームセンターで愛猫のひろりんを生後一か月足らずで購入した時、義務感が強い店員さんは、飼育上の注意をあれこれしてくれましたが、ひろりんが成猫となったときに何をするかまでは一切話してくれませんでした、というより、それはひろりんと我々の関係、ひろりんの成長のありかた、及びひろりんと我々が置かれた居住環境がもたらすであろう可能性の領域の事柄ゆえに、話しようがなかったのでした。
ひろりんの新たな習慣
このクリニックが開業した年の3月に生まれたひろりんは今年11歳になりますが、この1年くらい、私が思いもよらなかった新たな習慣を持つようになっています。いつも夜は私が家族より最後に寝室に入って就床するのですが、妻のベッドですでに寝ているひろりんは必ず私の就床に気づき、いくら眠そうでも私のベッドの上に飛び上がり、ごろごろ鳴きながら布団の上で私の胸のあたりに来て、前足の足踏みをしばらくするのでした。
ちょっと重い
ちょっと重く、胸苦しいのですが、枕元の電気をつけてやると、ひろりんは目を細めて喉をゴロゴロ鳴らし、私の目の前で、布団の上に前足の足踏みを一心に続けているのです。前足の足踏みは猫が甘える時の仕草と言われていますが、何とも可愛らしいものです。ひろりんも心得ているようで、足踏みをした後、胸の上にしばらく香箱座りをすると、私を気遣ってか、すぐに別の場所に行ってしまうのでした。今では、私にとって就寝時に欠かせないひろりんとの癒しの約束事になっています。
もう驚きません
しかし、そういったひろりんの振る舞いにも私はもう余り驚きません。なぜなら、あらゆる生命は、成長と変化をその本質とし、さらに、お互いのあり方を尊重しあう生命の相互関係の中にあっては、それぞれの成長と変化がお互いにとっての、最善の贈り物になり得ることが私は多少ともわかったからです。
愛する町田
私は大学病院から町田市民病院に着任し、それまでご縁がなかったこの町田とご縁を持たせて頂いてからもう15年になります。思えば、この町田という場所とそこに関わりのある方々から、私は人生を大きく変えるきっかけを頂き、感謝の言葉もないほどです。また、町田市民病院精神科に勤務したばかりからの患者さんの中には、現在に至るまで、10年以上も関わらせてもらっている方もいらっしゃいます。
長いお付き合いの中で
長年関わらせてもらっている患者さんの中には、妊娠の前や、妊娠の途中から私が精神科医として主治医となり、ご出産された方がおられます。さらに、ご出産後には、健康な人でも楽ではない育児にご自分なりに取り組まれ、今、そのお子さんとご一緒にクリニックの診察にいらっしゃることがあります。
精神科医療者の喜び
このような場合、長年のお付き合いある患者さんが連れていらっしゃるお子さんの存在それ自体が私にとってはとてもうれしく、無上の喜びを感じるのです。さらに、お母さんである患者さんが孤独な悩みを乗り越えた結果として、この世に生を受けることが出来たお子さんがお母様の新たな人生の欠くべからざる支えや癒しになっている様子を拝見することで、私は無限無窮の存在といえる生命の尊厳に打たれる思いがするのでした。
むすび
人生は筋書きのない神秘的なドラマですが、人の成長に関わらせてもらう精神科医という仕事をしていると、全く予想しえなかった患者さんの成長と変化に、「こんなこと聞いていないぞ・・・」と、驚きと戸惑い、そして崇敬の念に心奪われることが少なからずあります。精神医療に携わることは、楽なことではありませんが、私にとっては時折患者さんから頂くその不意打ちのような経験が今日も頑張ろうという動機づけの一つになっているのでした。