2017年08月27日

1999年10月以降のロードレースニュースを以下に移行中:



2002年04月07日

その3:クワランタはワンワン落車で中手骨骨折

インデックス アレクシアのイヴァン・クワランタ(あるジャーナリストに言わせると、自転車選手の中で最もハンサムないい男、ディルーカなんて目じゃないと。モデル系の顔立ちか)が、右手中手骨の骨折で デパン出場を断念した。月曜にベルギーでトレーニング中、飛び出してきた犬をよけようとして落車。X線の結果、骨折が判明し、ベルガモに戻って専門医に治療を受けている。

ところで犬といえば、UCIでは、UCIの自転車選手資格を持つ者が犬を飼うことを、禁止する動きが出ている。これは、VDBの自宅で禁止薬物が発見された際、「犬用の薬物だ」と彼が言ったことに起因する。犬を禁止薬物所持の避難場所に使われてはたまらない、との理由だそうだが、犬によって怪我を負うことになったクワランタも、犬を飼うことを制限するこの案に賛成したとかしないとか。


その4:ウルリッヒの膝の状況は。。

今季、好調ぶりを発揮しているアームストロングと対照的に、膝の故障で少々ブレーキがかかってしまっているウルリッヒ。現在フライブルグ大学のプールでリハビリを行っており、月曜からは、トレーニングが再開できるのではないか、と期待されている。関係者によると、彼のレース復帰は、うまく行けば5月初旬。ツールの調整には間に合うところだ。しかし、あと3週間以内に、本格的な走り込みすらできない状況となると、ツールの参戦にも影響がでるのではないか、と今から心配する声もある。


その5:ベロキ漸く復帰

今シーズン、2月3-7日のチャレンジマヨルカを第1ステージだけ走って、大事をとって リタイヤしたベロキ。アキレス腱故障で、2月9日のエウスカディ6時間レースを最後にレースから遠ざかっていた。治療中、何度も症状が再発し、2週間、全くバイクに乗れない期間もあった。先週、針治療を続けながらトレーニングを再開した。バスク人のベロキとしては、4月8日から12日のバスクツアーには出場したい、という意向を示している。去年もこの時期に落車で怪我を負ったものの、ツールでは2年連続の3位となっているので、周囲も、この時期の怪我についてはあせってはいない。一方、炎症でずっとレースから遠ざかっていたコーストのベルトランも、漸く復帰の目途がついたところ


その6:続報― ヒメネスはあせらずじっくりと

現在心療治療を受けているヒメネス。担当医師によると、「こういった病気の場合、15日で完治することもあれば、15ヶ月のこともある。人によって完治への道はケースバイケースなので、辛抱が大切」、と語っている。チームも、「今から彼のツールやヴエルタ出場について考えるのはナンセンス。チームとしては、今は彼の今年度プログラムは白紙にしている。彼を支援し続けるだけだ。今まで、パンターンニやVDBのケースを見ても判るとおり、余り本人の復帰を急いでプレッシャーを与えるのは良くない。今は静観の時だ。」と述べた。



2002年04月06日

その1:ヴルモート心臓病の 経過待ち

先のヒメネス病状も気になるところだが、更にロットのスティーヴ・ヴルモートにも気になる話が持ち上がっている。心臓病が発覚したのだ。ヴルモートは、ミラノ サンレモ後、胸の痛みを訴え、精密検査を受けた。その結果、生命の危険はないものの、選手生命の危機を迎えている。彼の状態は、頻脈性不整脈と右側の心臓肥大。(cyclingnews原文ではtachyarythmyとなっていたが、yの前のrは本来rrとダブルで書くのが普通。 Tachyarrhythmiaで、頻脈性不整脈を表す。 tachyはギリシャ語のtakhusから来ていて、Swift(速い)という意味。英語の読み方は「タキ」。Tachyphagiaといったら速食症。)

頻脈性不整脈と右側の心臓肥大の問題により、深刻な不整脈を引き起こす恐れがある。26歳のヴルモート。USPやフランドルの数々のチームを経験し、昨年のツールは総合36位で終えた実績を持つ。「選手活動を続ける望みがゼロでない限りこの両手でしっかり希望という手綱を持ち続ける」、彼はそう語っている。

 

その2:フレイレはフランドル断念。腱鞘炎治療中

オスカー フレイレはついていない。折角調子が上向いてきたところへ、集中トレーニングの最中に右足炎症の痛みを訴え、デパン出場を断念。数日休んだものの、経過が上向きにならないため、47日のフランドル参加も中止となった。フランドルでは270キロ走らなくてはいけない。加えてあの石畳。現在40キロ走るだけでも力が出ないという。こんな状況では、とても優勝できる気がしない。ここで調子が悪いままフランドルに出場して、後に尾を引くよりも、きっぱりと諦める決断をしたフレイレだが、年初からフランドルへの意欲を見せていただけに残念な結果となった。



2002年04月05日


iBANのホセ マリア ヒメネスが今シーズンスタートを切れず、家に閉じこもっている。精神的な問題で、レースはおろか、練習さえもままならず、走ることができないということで、とにかく、アーエスの新聞記事を 下記にそのまま訳します。

記事和訳>>

記事No.1 - 見出し:チャバ(ヒメネスの愛称)、引退の瀬戸際

ヒメネスは、今 一番きついステージを走っている。今までの人生で、最も難しいコースだろう。1人の選手として、そして、1個の人間として、どうにかこの局面から脱出しようとしている。今シーズン、まだスタートをきれず、トレーニングもままならないヒメネス。家族によると、原因は個人的な問題で、相当な欝状態にあるという。

ヒメネスは、チームのボスを含め、ごく親しい人たち以外とは、一切接触したくない状況にある。電話にも応答せず、伝言にも応じない。現在エルバラコの街でヒメネスと一緒に暮らしている彼女のアスセナが、インタビューに不承不承応じた。欝の原因が、中毒症状による、という一部の噂には憤慨し、「コカインですって!やめてよ。馬鹿なことは言わないで。彼は欝状態なだけ。でも、もうすぐ治るはず。こうした悪い報道が、彼を更に落ち込ませるんだから。」

「余り、私的なことは話したくないけど、悪い噂を消すために口を開くわ。今年最初は、ホセは元気だったの。でも、最初に口腔炎症(年初、キャンプをそのため途中で離脱した記事が確かにでていた)、そして次に(白血球の一種の)単球増加症に悩まされたの。その間、プライベートでもいろいろあったり、私が病気になったりして、彼はトレーニングもできなくなって。更に31歳という年齢にも多少彼の精神に影を落としたりして、とにかくいろんな要因で彼は落ち込んでるの。でも、今なんとか脱出しようと戦っているのよ。」

丁度このインタビューが終わった頃、ヒメネスの義理の兄弟で
CSCに今年移籍したサストレがトレーニングから帰ってきた。彼は、「最近ホセとは話していない。彼については、そっとしてやってほしい。誰にだって 悪い時はある。今は ただ家に閉じこもって、誰とも話したくない状況なんだ。説明は、監督のウンスエに聞いて欲しい」と語った。


記事
No.2 ― 見出し:ウンスエ監督「彼がこれで終わりだとは信じたくない」

(ウンスエ監督)「チャバ(ヒメネスのあだ名)は少しずつ良くなっている。個人的な問題を抱えているが、乗り越えられるだろう。彼には電話をしたりして、できるだけ力になろうと頑張っている。彼はひとりで戦っているわけじゃないんだ。早く集中できるよう、回復してほしい。自転車選手として、これで彼は終わりじゃない、そう信じたい。」


記事
No.3 ― 見出し:JMヒメネス、「危機的状況だけど、僕は終わっちゃいない」

(ヒメネス独白)「個人的な危機に直面している。でも徐々に良くなっているんだ。脚を骨折して、数ヶ月走れない選手だっているじゃないか。僕に起こったことも、似たようなこと。但し、問題の性質がやや違うだけ。僕はここ数ヶ月、何かにおびえている。練習しようとしても力がでない。どんどん落ち込んでいく。「疲れてるんだろう」、そういう人もいるけど、今回のケースは違うんだ。でも僕は引退しない。新聞が どう書きたてようと、言いたい奴には言わせておけ、そう思う。ただ1つだけはっきり言っておく。僕は必ず戻ってくる。人生はアップダウンさ。こういうこともある。今はエアポケットに入ってしまっただけ。でもチームには感謝している。昨年は対立したが、今はとても良好な関係で、いろいろとサポートしてくれている。(ボスの)エチャバリ、ウンスエ、ドクターたちには非常によくしてもらっている。今世間で言われている噂は一掃したい。勝っている時はちやほやされるが、その後ちょっとすると、酷評されるようになる。ちょっとした妬みってやつさ。」



2002年04月04日

先のコラム、USPのメカニック、ジャンマルクのインタビューは、メカニックの目を通して語られたアームストロングということで、とても興味深かった。

ところで、訳していて、ある重大な事実に気がついた。
2001年の自転車展で飾ってあったランスのイエロージャージには、ランス自筆のメッセージが書かれていた。「ジャンマルクへ。」と。あの時は、ジャージをもらったジャンマルクなる人物が誰なのかわからなかったけど、あれは、メカニックのジャンマルクに、ランスがメッセージを添えて贈ったもののようだ。

そう考えると、残りのメッセージの意味が納得できる。あのジャージにはこう書かれていた:

「ジャンマルクへ、君が僕らにジョインできて本当にハッピーだったよ。最高だった。また(一緒に)やろうぜ。。。」

ランスからジャンマルクへのメッセージは、2001年ジャンマルクがUSPにメカニックとしてジョインできたことに対し、ランスが感謝の念を述べているのだ。そして、2002年も、また一緒にUSPでやっていこう、そういうランスの願いがこのジャージにこめられていたというわけ。



2002年04月03日

先のエントリーの続き。ランスとウルリッヒのメカニックを務めたジャン・マルクのインタビューその2。本日はランスのバイクについて:

― クラシックではどのバイクを使用するの?

「ランスはTrek5500に乗る予定。クラシックの石畳や路面の悪い道路では、安定性が優先される。やや重めのバイクを使用することになるんだ。」

― ホイールについて教えてくれる?

「新しいBontrager ボントレイガー(Race X-lite)のホイールだよ。ランスは今年、ほとんどこれで行く予定。トレーニングキャンプ前からこれをテスト的に使ってみて、いい感触を得たんだ。」

― ペダルは?あのランスの伝説のシマノ7400ペダルはどうなったの

「シマノには感謝しなくちゃいけない。商品開発に尽力してくれた。昨年、ランスは、バイクの軽量化に何をすべきか頭を抱えた。僕は言ったんだ。「あの古くて重たいペダルを変えるべきだね」、と。すると、ランスは「15年も同じタイプのペダルを使ってきたんだ。今更変えたくない」、と言った。そこで僕は提案した。「じゃあ、シマノが全く同じ機能で、重量だけが軽いペダルを作った解決できるね」、と。なんと見事シマノはそれを実践してくれたんだ!前のシマノ7400よりも240gも軽いペダルさ。昨年11月からずっとそれを使っている。今USPチームの半数が、このペダルに変えたんだ。」

USPにとって、2002年のシーズンはどんな感じだろうか

「もちろん、チーム一丸 ツールドフランスに集中する。選手のコンディションやツール向け機材など、万全の準備を行わなくてはいけない。ジョージ ヒンカピーには、クラシックでの活躍ももちろん期待している。」

―クラシックにチームUSPが出場すれば、うまくすれば(フランドル地方の)自宅に帰れるかれ嬉しいのでは?(注:ジャン・マルクはベルギー人。また、当時トップレースへの出場は強制的ではなかったので、USPがフランドル一周などのクラシックをパスすることもあり得た。)

「それでも200日は選手と一緒に自宅を離れて行動する日々が続く。そうして自宅を離れていても、(ホームシックになる暇もなく)あっという間に時間が過ぎていく。僕はこの仕事がめちゃくちゃ大好きさ。」



USPのメカニックであるジャン マルク ヴァンデンベルゲはベルギーのフランドル地方出身。今年でUSPのメカニックになって2年目になる。その前9年間は、なんとテレコムで働いていたという経歴の持ち主だ。つまり、これまでツールやクラシックで、ウルリッヒ、ツァベル、リースらのバイクを扱ってきた。そんなメカニックの彼が見たアームストロングとウルリッヒの違いとは?

「そうだね、ランスのほうがもっと、プロっぽいってことだろう。冬も含めて彼は一年中、プロの顔をキープしている。そりゃあ、ウルリッヒだって、すごい選手だよ。でも、ウルリッヒの場合は、ずーっと1年中バイクだけに集中しているという感じはなかった。ランスは、オフシーズンでさえ、1年、12ヶ月、ずっとバイクポジション改善をしたり、技術面の問題に取り組んだりしていたからね。」

「バイクのセットアップに関する2人の違いというのは、余り感じないな。USPもテレコムも、最高のマテリアルを使って、最高の装備を供給していたからね。でも、ランスの方が、ツール・ド・フランスに関しては、ウルリッヒよりも用意周到だったかもしれない。ツールの5,6週間前から、バイク、TTバイク、スペシャルホイールなんかに関して、要求を出してたよ。こういう風に、随分前から着々と準備するのは、僕は好きだね。そして もしもランスがレース前に、どこか変更をすべきだと考えた場合は、必ず、僕にEmailか電話をよこして、「ジャンマルク、ここをなおしたいんだけど、どう思う?」って聞いてくれるんだ。彼はいつでもオープンに意見してくれる。なんでもじかに彼と話しながら物事を決められる。もちろん、(相当前から準備をしているから)本当の直前で急に何か変更するなんてことは(USPでは)絶対にあり得ないんだ。」

― ランスの2002バイクについて教えてくれる?

Trek5900だ。フレームは昨年彼が山岳用に使用していたのと同じ。今年のミラノ サンレモでは、速いレース展開が予想されるから、軽いバイクを専用に選んだ。1キロくらいレギュラーバイクよりも軽いんだ。」(続く)



2002年04月02日

エストニア人のスプリンターであるヤン キルシプー(AG2R)が、315日にトレーニング中、車にはねられて暫く戦線離脱することになったが、これがチームAG2Rには痛かった。キルシプーはじめ、他にもアウスら、いわゆるバルト三国コネクションのスプリンターたちを欠いたAG2Rは、47日のツール・デ・フランドル参加を断念することを決定した。一方、キルシプーの状況だが、フランスのアルプス地方シャンベリーの丘を下っている最中に、車と衝突。バイクは当時、時速60キロほど出ており、キルシプーは膝の靭帯を怪我した。レースへの復帰は5月末までは無理だろうと予想されている。ジャラベール同様、春のクラシックは、全て断念せざるを得ない状況だ。

 



2002年04月01日

Cyclingnewsがランス アームストロングにインタビューを行った。ツール4連覇へ向けて始動したランスが、今までのツール優勝までの足跡を語った。

「ツールでの優勝に向けたプログラムや準備のスタンダードは、従来と変わらない。これらのトレーニングを、毎回繰り返してツールまで行っていく。丁度、カセットテープを巻き戻しして、Playして、また巻き戻しして、Playするように、反復しながらね。とはいえ、実戦のレースでは、こんな風に準備してきたことを、またPlayすればいいかというと、そうは問屋が卸さない。レースは3週間、何百という不確定要素がある。いや、それは何千かもしれない。様々な要因がレースの流れを変えていく。従来のトレーニング方法の中で、修正したり、改良した部分があるとしたら、受身から能動へと変えていったことだろう。最初の年1999年のメニューは、もっと受身的だった。どちらかというと、すごい山岳がどの程度か体験してみて、どんな感じかを掴んでいった。こういったことは、(病気になる前の)93年や94年にもやってきたことだった。そして、数週間後、数ヵ月後に、まさか自分がツールで優勝するとは思わずにやっていた。翌年、2000年には、どんなものか見てみる、といった受身的な体験トレーニングから脱却し、トレーニングを強化した。強い選手を入団させ、シビアなトレーニングを積み、更に2001年には、更にアタックの応酬のような相当厳しいトレーニングを行った。それは面白かったけど、きつかった。以前のトレーニングのように、ちょっと走ってみて、体験してみる、といったレベルから、質、量を重ねて集中的にトレーニングを行っていった。1日の練習量も、日ごとに6時間、7時間、8時間と上げていき、長い距離のステージの日を想定したメニューも行った。8時間山岳でトレーニングするのはイージーだ。先日8時間ぶっ続けでトレーニングした時は、フィニッシュをプラダデ(の山頂)にした。でも、こういった山岳の実戦トレーニングでは、実際のレースのように4045キロ/hでずっと走り続けることはできないから、途中で止まっては、食事をとり、更に寒くなれば、着替えるために止まる。長丁場のトレーニングさ。」

「僕は、レースに情熱を持っている。
112ヶ月、もちろん余り走らないオフの月もある。でも、3,4日も自分のバイクに乗らないでいると、もうイライラしてくるんだ。自分のバイクに乗るのが大好きさ。冬でもロードに出ては、喜んでいる。冬の間、いつかのように、ちょっとニューヨークに行っていて、数日バイクに乗れなかっただけで、もう気がおかしくなりそうだった。僕の妻に聞いてみろよ。証言してくれるはずさ。」



2002年03月31日

マルコ・パンターニが、自身のメルカトーネのジャージを人権保護を訴えるアムネスティ インターナショナルのオークションにかける。オークション期間は43日から10日まで。倫理観に対する認識と理解を求めるこのオークションへの参加は、パンターニのサイト http://www.pantani.itからアクセスできる。オークション好きや人権問題に関心のある人だけでなく、パンターニファンの参加も見込まれる。



2002年03月30日

先日のミラノ サンレモで、リタイヤしたローラン ジャラベール。彼がこのレースをリタイヤしたのは初めてだった。実は、パリ ニースの後からずっと疲れがとれなかった。サンレモのレース前日、ジャラベールはぐっすり眠ったという。実は、これ、本人の分析では決していいことではない。というのも、それだけ体が疲れていたという証明なのだ。ミラノ サンレモ レース最初の山岳、ブリックベルトンの山の麓で、脚が既に動かなかったという。リタイヤ後、医師の診断を受けた結果、ヴィールス性の感染症であることがわかり、結果、暫くの間、休息することになった。薬の投与はしない予定で、ひたすら休息によって回復させるという。春のクラシックは、これでもう出場できそうもないが、ツールに向けて、準備万端にすると。1週間後には、再検査を行い、ヴィールスが消滅したかどうか確認する予定。



2002年03月29日

先日ミラノサンレモの落車で(ゴール手前30キロ地点あたりで)ダメ-ジを受けたデッケルは、左大腿骨の手術を受け、無事手術は成功した。3月中にも、まずはプールでリハビリを開始する、とデッケルは宣言した。最近発表されたUCIランキングでツァベルをかわしてNo.1となったデッケル、早くレース復帰したいとしながらも、術後の痛みはなかなか取れないようで、日に日に痛みが増しているとこぼしている。バイクでのトレーニングが いつ開始できるかは、今週金曜日になるまで医師による決定がなされない。そうしている間にも、ツァベルはカタロナで2連勝。UCI争いから遠ざかるのが、デッケル本人にも、もどかしく感じられることだろう。



2002年03月28日

ジルベルトシモーニがセトマナ・カタラナに出場した。枯れにとっては、ジロ連覇のための強化トレーニングの後、レース初参加。しかし残念ながら、第2ステージで落車となり膝を痛めた模様。その後、第2bステージのITTには出場したものの、10.3キロのITT149秒の遅れをとり、132位となった。

レース後に腫れた膝から
50ccほど腫れの原因を抽出したものの、膝の腫れが引かず、チームドクターと協議の上、結局第3ステージはリタイヤを決定。その後 イタリアに帰国して専門医に診てもらった。膝の怪我については、軟骨への影響もぬぐいきれず、出血もあることから暫く大事をとってスキャンを行う。一方シモーニ自身は、自分のコンディションを計る上で重要なレースだっただけに、残念そう。



2002年03月27日

USPはミラノ サンレモで、ヒンカピーをリーダーに走ったが、そのヒンカピー全体では16位にとどまった。アメリカ選手にしては珍しくクラシック大好きのヒンカピー。春のクラシックではもうおなじみの存在だ。一方で、今年レース初参加となったアームストロングはミラノ サンレモ44位。最初のレースでしかも300キロ近くの距離を走ったにしては、まずまず、と語った。昨年までは、この時期のレースで第1集団でのゴールというのはなかったので、今回はシーズン初めから好調を予感させると。シーズンオフ中に失っていたチームやレースの感触を、徐々に掴みつつあるようだ。

 

ところで、マペイのマネージャーが、このたび「マペイとしてミラノ ~サンレモは失敗だったのではないか」、という一部の批判に答え、「まずまずの出来だった」と反論した。フレイレのアシスト問題にしても、ランフランキは図らずも結果としてフレイレの妨害をしてしまったが、ブラマーティもアシストにまわっていた、と弁明。やはり、この問題、確実に、イタリア サイドとスペインの報道では温度差がある。スペインでは、他の選手もこの件にコメントし、フレイレは、マペイを去るべきだ、と意見する人も出てている。

 

思い起こせば、昨年の世界選手権の前、カセロやセビーヤといったそうそうたるメンバーが、レース前にフレイレにしきりにエールを送って、フレイレのアシストを誓っていた。そして、ラルカンシェルを獲得したことで、しっかりとしたアシストが得られればフレイレは世界でも屈指のスプリンターであることを十分示したのだ。このように、団結したスペインチームとしてレース出場したフレイレと、マペイのフレイレを比べてしまうと、やはり、現在のマペイのフレイレに対するアシストぶりに、スペインファンが物足りなさを感じるのも、わからないでもない。

 



2002年03月26日

「フレイレの最後通牒」と銘打ったスペインの新聞記事を読んだ。案の定、本サイトの「レース便り」(今はアップしておらず)に記したフレイレの例の一件に関連する記事だった。

今回のミラノ サンレモのような事態が繰り返されないように、そして、次回のワールドカップであるツール デ フランドルのレース前に事態が改善されるよう、フレイレ側は、マペイに申し入れを行った。以前記したとおり、フレイレは、まだマペイとの契約延長を行っていない。2月には契約締結の見込みだったが、チームが交渉を長引かせている。そこで、契約の条件に、フレイレが十分なチームのサポートを得られるようにすることを盛り込む予定だ。特に、今回のミラノサンレモのような事態は、あれが初めてではない。以前も、同様なことがあり、フレイレはゴールスプリントでマペイから一切のアシストを得られなかった。

フレイレの契約交渉の代理を行っているのは、彼の兄弟、アントニオだ。まだ、レースシーズンが始まったばかりなので、アシストが得られないから、今すぐマペイを辞めるといった過激な行動はとらないとしながらも、この状況は絶対にフランドルの前に改善されるべきだ、としている。また、オスカー自身も、「僕は(オスカー同様チームリーダーとして走った)ベッティーニをとるか、僕をとるかといったことで、チームに選択を迫る気はない。そうではなくて、僕のことを信頼して、僕をアシストしてくれる選手がレースに出ない今の状況を変えて欲しいんだ。(フレイレをアシストしてくれるはずの)アッジャーノもオリヨも、レースメンバーに入っていない、これこそが問題なんだ。」

契約の交渉が進んでいないため、フレイレは、目下チームを同時並行的に探しており、既に、オファーも受けている。マペイの出方次第では、今後移籍もあり得る、としている。



2002年03月25日

2002年3月23日のミラノ サンレモの中継は、わずかにベルギー、オランダ、ドイツで行われただけだった。その他の国では、イタリアのTVRAIの放映権用の提示金額が高いと見なされ、放映されなかったのだ。しかし、ワールドカップの初戦がこういう状況だと、ワールドカップ全体の人気低落につながりかねない、とUCIは懸念を示している。RAIが放映権を抑えているその他のワールドカップレースとしては、第10戦のロンバルディがある。このレースでも、同様のことが起こりかねない。TV放映の機会が減れば、チームとしては危機感を抱かざるを得ない。スポンサーの露出度が減り、スポンサー離れにつながりかねないからだ。この傾向は、去年から既に見られており、RAIの再放映権が高かったため、ジロの他国での放映も機会が減る傾向にあった。残念なこと。



2002年03月24日

ベルギー自転車界で「オンファン テリーブル」(Terrible Childの意)で知られるVDB。ドモにめでたく移籍して、今年こそ復活の第一歩を踏むはずだったのだが、あえなく、出鼻をくじかれた。ベルギーの自転車連盟が行った採決により、VDBは、6ヶ月の出場停止が決まった。もちろん、理由は3週間前に自宅で見つかった増強剤保持による。UCI規定による罰金は約70万円(半端だけど6830ユーロ)。

 

この決定により、彼のレース復帰は今年の921日となる。しかし、今回のことで、ドモの信頼を裏切る結果となってしまったこと、及び過去数年にわたる複数チームとのトラブルなどを考えると、「彼は復帰すべきではない、市井(しせい)の人として、静かに普通の生活を送るべきだ」、「現在の精神的病を完治させるべき」という意見も聞かれる。

 

上記に加えて、水曜の朝、彼が運転する車が、自宅近くの畑に突っ込んだ。そして、警察の検査の結果、血液からは大量のアルコールが見つかった。結果、飲酒運転によりVDBの自動車免許は、2週間取り消しされた。ベルギーでは、飲酒運転に対する刑罰は軽いらしい。

 

VDBの自宅で見つかった薬物については、VDBによると クレンビュテロルは飼っている犬用、モルヒネは、2001年の手首の怪我用、EPOは(こちらは妻サラの説明によると)「昔 使っていたものが残っていただけ。」だそうだ。警察が行った彼の血液検査の結果が公表されていないため、VDBの現在の出場停止は、薬物所持によるものだけで、それら薬物を使用したという証拠は今のところない。単純に考えれば、過去のヴィランク、モロー、ツーレ、フリーゴ同様、出場停止期間が終われば復帰の線はあり得る。しかし、VDBの場合、周囲からの不信感の払拭は容易なことではあるまい。




2002年03月22日

腰の持病で、昨年、何人もの医者を変えて治療に専念。レースにも余り出場できなかったマペイのオスカーフレイレ。彼が、昨年の世界選手権で見事復活を果たすことができたわけ、それは意外にも著名な医師でも、特殊治療でもなかった。ずばり、ストレッチ。

彼の治療の転機となったのは、フィンランド出身でセビリヤ在住の整体師ヴィヴィとの出会いだった。最初こそ、試行錯誤の治療だったが、二人三脚で取り組み、行き着いた治療法が入念なストレッチを含む一連のエクセサイズ。フレイレの場合、腰の筋肉繊維が萎縮を起こし、神経系統に触れていた。そのために、背中、左脚に痛みが発生していた。これを改善するために、自転車に乗る前後に、故障部分を意識した十分なストレッチを行い、更にあわせて、故障部分をかばうための筋トレを行うことにした。そして、日常生活においても、足に枕を挟んで寝る、固いベッドで寝る、睡眠時間は6時間半以内とする、水分補給を十分行う、など、生活慣習も変えた。これとあわせて、更に特殊なマッサージも、週2,3回行っている。

今まで、数分座ることすら辛い時期もあったフレイレが、自転車に乗り、レース出場ができるまでに回復したのだ。まだ100%の完治ではないというが、日に日に状況は改善しているという。

僅か15から20分のストレッチで改善した、というのは意外にも感じる。しかし、フレイレの場合、怪我の治療に専念しがちで、ストレッチで治療する、という発想はヴィヴィに出会うまでなかったという。



2002年03月20日

膝の故障で、調整が遅れているウルリッヒ。36日のムルシアに引き続き、49日のサルトのレースも欠場となる見込みが濃厚となった。テレコムのチームドクターによると、「ウルリッヒの膝の怪我は、今年の冬の集中的なトレーニングによる膝の疲労が原因。但し、現在、膝の靭帯と筋肉の状態は完治した。」と。

現在のところ、ウルリッヒは、年初のカタールレースにしか出場していない状況だ。チーム監督によると、「ウルリッヒの膝が100%もとに戻らなけれヴァスールルトのレースには出場させない。ジロまでには完全に復調するだろう。」と。



ヴィノクロフの総合優勝で幕を閉じたパリ~ニースの場で、主催者のJMルブラン氏が、ツールのワイルドカードについてコメントした。

「全体的に見て、フランスのチームは活躍をしている。パリ~ニースのモンファロンでは、ボンジュールがビッグマットやFDJとともに若い力を発揮した。そして、彼らは、チーム一致団結して力を出せば、頭を使って いい走りができるということを証明した。レースの朝、その日のコース地図を見て、風向きをチェックして、という風に、頭を使ってね。自転車競技は、力だけじゃないんだ。頭脳プレーなのさ。」

特に今回のパリ~ニース、総合2位に入ったサンディ カサールの活躍などで、フランス チームはいいところを見せられた。そんなこんなで、どうやらルブラン氏は、今年もワイルドカードにフランスチームをたんまり入れることをもくろんでいるようだ。とは言っても、ワイルドカード残り全部をフランスチームにする、ということには反対しているという。また、出場チームを昨年のように21から22チームに今年もするかどうかについては、宿の確保などの状況を見ながら慎重に進める。

「ワイルドカード選出にあたっては、パリ~ニースは、数ある判断基準のうちのたった1つに過ぎない。今から、選出についてやきもきせず、選手達には、自分達のレースをやってほしい。そうすれば、結果はおのずとついて来る。」と結んだ。



2002年03月19日

開催中のティレーノ~アドリアティコ、第4ステージスタート前に、警察当局の一斉捜査が行われた模様。ジロの調査の関連で、依頼を受けた警察が、現地時間朝の6時に数名の選手のホテルの部屋に入って捜査を行った。調べられた選手は、レベッリン、サッキ、スタンゲリ、カサロット、Sカサグランダ、レオーニ。カサロット(アレッシオ)の部屋から警察が見つけた軟膏2つは、しかるべき届け出がされていたもので、また、レベッリンは吸入器を所持していたが、警察署に連れていかれた後、申告書にサインをしてから手もとに戻された。この日は12.7キロのタイムトライアルで、選手全員が出走することはできた。(TT勝者はEデッケル)。ジロの時のような、大捜査ではなかったため、選手、スタッフ何人か対象となっただけにとどまった。



2002年03月18日

すでにインプット済の通り、昨年UCPのツールメンバーからはずされたセドリック・ヴァスールは、ツール開始前に、USPは自分をないがしろにした、ツールに選出されなかったのは不当、と弾劾する記者会見を勝手に開いた。批判の矛先は、ランスが以前賞金を分けなかったことや、ランスが雇ったボディガードにも及び、ファンとの接触という伝統をないがしろにしている、とまで述べた。

いざツールが始まると、グランデパールのダンケルクがヴァスールの故郷に近かったせいもあり、アンチ・ランスが一気に噴出。どうやら先の弾劾が一気にフランス人ファンのUSPに対する敵対心をあおったようだ。ツール初日プロローグの会場は一時騒然となったほど。

ヴァスールが行ったこのランス批判、ランス自身は、あっさりと受け流すかとも思われたが、
Cyclingnewsの電話インタビューで、反論を行った。ヴァスールの言ったことは、随分腹に据えかねたと思われる。特に、下記の点は興味深い。もしそれが本当なら、ランスが黙っていられなかったのがよくわかる。


ランス「ヴァスールが、僕が雇ったボディーガードの件で、
USPや僕を批判をしたのは、実に皮肉なことだ。(注:ボディガードなんかつけて、ファンと距離をおくのは、ヨーロッパのレース精神では考えられない、といったヴァスールの批判を指す。)というのも、ヴァスールこそが、ボディガードをつけなくてはならなかった要因なんだよ。彼がフランスのファンに、USPのことを弾劾したばかりに、我々は、電話、ファックス、Emailでフランス人のファンから様々な脅しを受けるはめになった。「アームストロングにはプロローグを完走させない」とかいった脅しをね。だから、家族や自分らを守るためにボディガードの措置を考えたんだ。あれしか手立てはなかった」と。


ジローナ(スペイン)に住むランスとの電話インタビューの抜粋は下記。(注:彼はフランスのマスコミがドーピング疑惑などで騒ぐため、ニースの自宅を引き払い、スペインに移住した。):

 

ランスが強調したのは、「(ヴァスールが指摘していた)ツール2000での賞金の分け前については、実際はヴァスールにもシェアが払われている。ツールの慣習からいうと、例えば、インデュラインやレモンの場合は、ツールで勝っても 自分で賞金はとらなかった。この慣習に僕も敬意を表しているから、賞金を選手たちに分け、スタッフにも多少分け前が行くようにした。更に、僕はポケットマネーから、選手たちのために追加で支払ったんだ。これは前例がないことだと思う。だから、ヴァスールが僕のことをケチと呼んだこと、これは許しがたいし、僕は傷ついた。」

また、ツール2001に選出されなかったことについて、ヴァスールに対し 理由が明らかにされなかったことについては、「ツールを勝つために、一番強い布陣を引いたらこうなったということだ。22人選手がいて、うち13人は出られなかったんだよ。セドリックはフランス人だから、ひどくがっかりした。しかも、スタートのダンケルクは彼の故郷のそばで、もう二度とそんな近くでスタートするなんていうチャンスがないだろうからね。でも、誰でも連れて行くというわけには行かない。」

「ツール出場選手の選出は僕がやっていると思っているらしいが、僕はライダーで、ボスではない。無論、僕はアドバイスはするけど、最終判断は僕の仕事ではない。ヴァスールは、僕の個人的な悪意のようにとっているが、そうではない。彼はチームにとっては重要な人物として迎え入れられたし、給料も十分に支払われていた。彼には期待にこたえてくれるよう、みんな望んでいた。但し、彼の出身地がダンケルクに近いからという理由だけで、ツールメンバーに入れるわけにはいかないんだ。」

また、ブリュイネール監督も、スペインのオフィスからこの件についてコメントを寄せた。「実際ツールの候補選手は11人いた。この中から9人が実際に最終メンバーになり、ヴァスールとホワイトは居残り組みになった。難しい決断だったよ。フランスでは、僕がルビエラを選んでヴァスールを落としたことに批判が相次いだ。というのも、ルビエラは怪我で、1ヶ月レースから遠ざかっていた。でもドクター判断で、ツールの前半おとなしくしていれば、後半には上向きになるだろうとわかっていた。実際ルビエラは前半15分ロスしたが、後半頑張ったよ。」

また、ヴァスールが、ツール2001開始前に、ツールプレスセンターでUSPの批判会見を単独で行ったことについては、驚いたと述べた。ツール2000の賞金をもらえなかったという発言に対しては、「彼は、賞金を受け取っている。ランスは、賞金の全てプラス自分のポケットマネーを賞金基金に払った。そして、ヴァスールら選手には、シーズン最後に、この賞金基金からそれぞれ支払いが行われている。」と。

USPチームとしては、ヴァスールがツール2001直前に勝手に開いたUSP弾劾記者会見だけでもヴァスールの「ファール行為」だったのに、更に今、ランス批判まで展開されて、黙ってはいられなかった、そんな印象を受けた今回のインタビューだった。



2002年03月16日

ファッサボルトロは、先日書いたバルダートのシチリア3連勝を始め、現在勝率5割に近い 圧倒的強さで快進撃を続けている。そんなファッサボルトロの選手全員が答えたFAS HPのアンケートの中で、「目標にしている選手」ダントツNo.1は誰でしょう?

以外にもイタリア選手ではなかった。目標にしたい選手トップ5にあがったうち、イタリア選手はひとりだけで!いったいその、トップ5とは?

 

その他、ワンデイレース派か、ステージレース派か聞いた質問では、ワンデイレース派が圧倒的かと思いきや、意外に半々の結果に。例えば:

― ワンデイレース派:バルトリ、バルダート、イワノフ、コニシェフなど

― ステージレース派:フランチェスコ カサグランデ、ベッリ、モントゴメリー、などまた、バッソは、ワンデイもステージも両方好き、と言った上で、とりわけツールが好き、と回答。更に「好きなレース」と「優勝を夢見るレース」の両方にも「ツール」と回答。バッソはツールに燃えているみたいだ。

その他、イワノフは読書のところで、スティーブン・キングが好きと答えたり、好きなアスリートにバルトリがカール ・ルイスをあげたり、ペタッキはサッカーのジダンをあげたり。へー、と思う回答、ちょっと意外な結果もあった、ファッサボルトロ選手HP選手プロフィールの抜粋は、「ファッサボルトロ特集 2002」にて。(かつて本サイトのhttp://www.eurus.dti.ne.jp/~furusawa/j-034.html)にて公開していたが、今ではアップロード中止中。)



2002年03月15日

去年(2002年)ヴエルタで優勝したものの、ケルメとのいざこざでチーム探しが暗礁に乗り上げたアンヘル・カセロ。(バレンシア市長が、地元出身のカセロの加入をケルメに進言。これが気に入らなかったベルダ監督、カセロのチーム入りを拒否。)この交渉が長引いてしまったために、今までのオファーは雲散霧消してしまい、気づいた時には、シーズンも終わりに近くなって各チーム、フォーメーションを ほぼ固めてしまっていた。

結果、その後に受け取ったオファーは、みな条件が揃わず。どうにかコーストに最後の選手枠で加入できたものの、カセロが希望していた、「フェスティナにいた弟のラファエロとアシストのビカリオを一緒に連れて移籍する」という項目は反故にされた。
2人のために、チーム探しをしようと、東奔西走しチームを探し回ったがうまくいかず、カセロは随分心を痛めた。

結局、ラファエルはチームが見つかったものの(ジャステル)、ビカリオは、いまだ金額で折り合いがつかずチームが見つからず。そして、このたび彼が公然とカセロ批判を展開した。チームのリーダーとアシストの関係はときに微妙だ。

 

ビカリオとカセロの双方が語った、一致している経緯は下記の点。

― カセロはフェスティナ消滅の後、弟のラファエロとフェスティナでアシストとして働いてくれたビカリオが一緒のチームになるように交渉してくれると約束。(但し、書面契約とかではなく、口約束。)

― しかし、カセロはチーム探しのタイミングが遅くなり、人員数の問題などのせいで、どこのチームも、カセロ以外の2人を伴う移籍を拒否。


― カセロはどうにかビカリオにチームを見つけたものの、ビカリオは400万ペセタでは年俸が下がるから、と拒否。


― 「フェスティナと同じ800万ペセタが払えないないなら、残りの400万ペセタをポケットマネーから出せ」、とビカリオはカセロに強要。


― 結局、ビカリオは800万ペセタに拘り、カセロが差額を払うか、チームが800万ペセタ払うかでなければ走らない、と主張。ビカリオは、「自分が浪人しているのはカセロのせいであることをマスコミに弾劾する」、とカセロを威嚇。カセロはギブアップ。


去年の冬、カセロやカセロの奥さんは、ビカリオのチーム探しに東奔西走していた。カセロは全てのスペインチーム幹部と交渉にもあたり、どうにか弟とビカリオを救済したい、と何度もコメントしていた。そもそもカセロが2人と一緒に移籍できなかったのは、彼自身の移籍が難航したことに一因がある。彼自身、満足いくオファーはもらえなかった。選手は自分を高く売りたいから、前半振るわなかった選手は、ヴエルタに賭ける。しかし、ヴエルタが終わる頃には移籍交渉は、終盤だ。これで乗り遅れたのがカセロには痛かった。スペインチームで走りたい、という夢は叶わず。

もしもフェスティナが継続していれば、チームと契約更新も可能だが、チームが消滅するというのはハンデがある。前の年に、フェスティナと契約破棄してまでオンセに移籍したベロキはいいチョイスだった。フェスティナ消滅の前にスイスイと移籍できたのだ。


カセロは言った。「冬の間、必死になってビカリオら2人のチームを世話するために走り回った。僕ができることは全てやった。それでも、頑なにいい金銭条件でないと走らない、とビカリオは断った。僕は彼に言ったんだ。悪い年もある。僕だってヴエルタで優勝しても、僕自身 チーム探しで相当苦労したし、加えて年俸ダウンだったんだよ、と。でも、ビカリオは聞く耳をもたなかった。」


ビカリオは、非難する時間があったら実力をつけて、「翌年はいい年俸のオファーをもらえるよう頑張ろう」と前向きに考えればいいのに、なんて思うファンもいるだろう。でもビカリオが、そこまでカセロに頼りきり、他力本願でチーム探しをするのにもわけがある。自転車ロードレース独特のリーダーとアシストの構図があるわけで、前者は後者の献身的アシストを必要とし、そのためには彼らになんらかのねぎらいを示さねばならない。主役と脇役の関係は、心情として信頼関係が築かれている場合ばかりでなく、なんらか物質的な確約のもとに築かれる場合もある、ということだ。

ここ最近、アシストによるリーダー批判が噴出するにつけ、こうしたフラジャイルな関係を思い知らされる。



2002年03月14日

ミケーレ・バルトリがチームファッサボルトロのHPで「インターネットで毎日見るのは自分のHP」と書いてあったので、試しに出掛けてみた。イタリア選手としては珍しく、英語とイタリア語のバイリンガルだ。バルトリはイタリア語のほかに話せる言語はフランス語のはずなので、サイトの保守はしっかりしたところが管理しているのだろう。Diaryもバイリンガルとなっている。また、ガジェットのところから、バルトリのスクリーンセーバーがダウンロードできるようになっていて、さっそくPCにダウンロードした。もっとも写真は全てマペイ時代のものだ。日記の内容はたとえば:

 

バルトリ、312日の日記より。

「やあみんな、今日も僕らのチームは勝った。当地シチリアで3度目のレースで、なんとバルダートが3つ全て優勝さ。(注:先週終わりから12日にかけてパンタリーカ、アランチャロッサ、トロフェオ デッ レトナと連続でレースに参加し、バルダートがこれら3つで優勝した。)12日のレースは、日曜日のレース(アランチャロッサ)のまさに再現(フォトコピー!)といった感じでの優勝だった。僕らはファビオを全面的にサポートし、彼はゴール スプリントで難なく敵を、ばたばたなぎ倒したのさ。僕もいい仕事をしたし、これで、自分自身のコンディションアップにつながることを期待している。ちょっと今はエネルギー補給をしないとね。かなり疲れたよ。

今回、チームと一緒に移動していて、レースのあと、チームカー、フェリー、車を乗り継いでコセンツァに向かう。慌しいけど、まあそれも、そんなには悪くもないか。なにしろ飛行機での移動は、僕の人生で、本当に恐ろしかったもんな。あんなに上へ下への大揺れは初めてだった。明日はコンパーニアに向かう。ソレントの近くで、そこで軽めのトレーニングをして、バイクでホテルに向かうんだ。じゃあまた。(ミケーレ)」



2002年03月13日

310日に開幕したパリ~ ニース。その直前に、ヴァスールがインタビューを受け、例のランス批判記事について、自ら語った。それによると、ヴァスールのランス批判記事が出た後、驚いたことに、ランスからヴァスールのもとにEmailが届いたそうだ。

 

その中で、ランスは、ヴァスールがブリュイネール監督から1ヶ月前にツール出場を確約されていたにもかかわらず、最終的にツールに選出されなかったのは、「その直前のツール・ド・スイスで成績が残せなかったせいだ」、と語ったそうだ。しかし、実はスイスの結果は、さほど悪いものではなかった。(総合では、ヒンカピーよりは上位だった。しかも、各ステージとも、USPの中の順位的には真中くらいでのゴールだった。)だから、ヴァスールは、この理由では到底納得できない。しかも、更に不信感を募らせたのが、今ごろになって回答がきたことだ。去年、あれほど、理由について問い合わせをしたというのに、ランス自身からもチームからも一切コメントがなかった。

でも、誤解もあったようだ。例えば、例の自家用飛行機発言。あれのことは批判はしていないとヴァスールは言う。自分もお金があれば自家用飛行機が欲しいくらいだと言っただけだ、と。また、USP自体は、プロライダーに必要なものは全て揃っていて、しっかりしていた、文句のつけどころはないチームだ、とも語っていた。但し、ランスのヴァスールに対する扱いに対する不満や、ツール2000で賞金の分け前がもらえなかったことは事実だったと。

更に、ツール2001は、ヴァスールの故郷に近いダンケルクでのスタートだったから、ツールに出られなかったことが、何より悔しくて、この一件が彼にはこたえたという。ツール2001の直前には、選出されなかったことを語った彼のインタビューが出たため、ダンケルクでのスタートでは、USPはフランスのファンのブーイングに遭い、チームとヴァスールの溝は深まってしまった。

そして、最後に1つ、ヴァスールはこう結論した。「結局のところ、ランスと僕らヨーロッパのサイクリストとはヴィジョンが違うということだと思う。僕らは、ファンとの触れ合いはとても大事に考える。だから、ボディーガードを雇うという考えには相容れないんだよ。」



2002年03月12日

どうやら今年はスロー スタートとなりそうなオラーノ。去年はジロ総合2位となったが、現在の状況だと、ジロまでに調整が終わるかどうかちょっとわからない。ジロ出場は一応未定ということになっている。例年のこの時期としては、走り込みが少なめだ。また、オラーノは、以前、断念したアワーレコード挑戦という夢も捨てていないことを表明した。挑戦の日はまだ決定していないが、本人としては、ジロが終わったあとの時期を目指している。

前回のアワーレコード挑戦の際は、サイス監督も、本人もベロドローム入りし、トライアル ランも行った。ところが挑戦の直前で断念するという波乱に見舞われた。ベストコンディションでのぞめないなら、やるだけ無駄という判断だったようだが、アワーレコード挑戦というのは、それほど、周囲を巻き込んで ぴりぴりと気を使う一大イベントのようだ。自分自身のコンディション、会場のコンディション、機材、などなど。オラーノは、アワーレコードについてこんな風に語った。

「アワーレコード挑戦の夢はまだ捨てていない。僕は
TTスペシャリストの部類だから、アワーレコード更新も可能だと思っている。でも、現段階ではまだ他の目標もあるから、アワーレコードだけを優先してシーズンを組み立てるということはしないつもりだ。」



2002年03月11日

昨年来日しているサエコのビアッジョ ・コンテが日曜日、ツールドシラキューズで落車。路面が雨で滑りやすくなっていたためだが、アスファルトに頭を思い切りぶつけた模様。頭蓋骨の外傷でただちに病院へ。



レース便り(2017年時点で配信停止中)で既に述べたとおり、ダリオ・フリーゴがパリ~ ニースでカムバックを果たした。ジロ2001での出場停止期間6ヶ月も過ぎて、タッコーニのリーダーとしてこのレースで2連勝を目指す。コースは過去数年のコースに比べ、よりシビアで、フリーゴにはうってつけだという。「レースから遠ざかっていたため、多少不利かもしれないが、そんな中、どこまでやれるかが自分でも楽しみだ」という。
TTフォーム改善に取り組み、サドル位置も高くして、初日のプロローグのITTにのぞむ。フリーゴは、今回結果を残せなくても、5月のロマンディーの頃までには、調子をあげていきたいと語った。今シーズンの走りっぷりは、前半の調整にかかっている。



2002年03月10日

現在16チームが選出されているツールドフランス。残り5チーム(主催者意向次第では6チームになる可能性もあり)は、ワイルドカード方式で52日に発表されることになった。恐らくワイルドカード選出チームは、例年通りにフランスチームがほぼ大半を占めることだろう。なにしろ、今年自動的に16チームの中に入ったのは、フランスチームとしては目下コフィディスだけなのだから。このままではフランス国民に見放されてしまいかねない。ちょっと気になるのが、サエコ選出の行方。シモーニVSランス、ヤン・ウルリッヒを楽しみにしているファンも多い。サエコが選出されてくれないと、というわけだ。個人的には、その他にも、コーストに出て欲しい。