「からだは知っている」 雑誌 KI no MORI 2006年2月号掲載(原文)

 あなたは体の声に耳を傾けていますか?
 私がアメリカで出会った言葉にソマティック サイコロジー(Somatic Psychology)というものがあります。「ソマティック」とは、「身体の」という意味ですが、心と切り離された「体」ではなく、魂が宿り、心と一つである「体」を指して使われています。自分の体を内側から感じ、気づきを深めていく心理療法全般を指している言葉です。
 それまでの心理療法に比べ、体からアプローチする方法は、建て前やごまかしや理性を通り越し、ダイレクトに核心部分に触れることができるので、とてもパワフルです。私が話を聞いたソマティックのセラピストはこんなふうに言っていました。
「ひたすら傾聴するカウンセリングは、話しが堂々巡りすることが多いし、愚痴を聞き続けて本当に疲れたけど、体からアプローチするようになって、以前、核心にたどり着くまでに費やした相当な時間を省けるようになったの。すごく効率がよくなったわ。」
 体の感覚から自分を見つめていくメソッドは、今、数多く研究開発されています。プロセス指向心理学やハコミセラピーなど、すでに日本で紹介されているものもありますが、体に触れながら様々な心理カウンセリングをしていく、ルベンフェルド シナジー メソッド(The Rubenfeld Synergy Method)も、とても興味深い技法です。
 その創始者である、イラーナ・ルベンフェルド女史がこの技法を開発したきっかけは、彼女が背中と肩の激しい痛みのため、ボディーワークを受けに行ったことにあります。施術中、深い悲しみが溢れ出てきて、彼女は激しく泣きました。そのボディーワーカーは戸惑い、「心のことは専門分野ではないので」と言って、心理カウンセラーを紹介しました。しかしカウンセラーの前に座り「どうしましたか?」と聞かれても、彼女はちっとも自分の感情に触れることが出来ません。しかしまたボディーワークに行くと感情が溢れ出てくるのです。彼女は、体に触れることが感情を解放するために、いかにパワフルな役目を果たすかに気づき、ボディーワーカーでありながら、かつ心理セラピストの技能を持つ人が必要だと感じて、様々なメソッドを融合した独自の技法を開発していきました。
 彼女はクライアントに触れながら話を聞きます。例えば、離婚を経験した女性が「もうそのことは許しているんです」と言うのですが、イラーナは優しく相手の背中に触れながら「うーん、でもあなたの背中はカチカチで、怒りに震えているようなのだけど』と伝えます。それを聞いたクライアントは泣き崩れ、十分に「許せない」という気持ちを認めて感じきり、そうして、よくやく本当に許すという段階に入ることができました。
 同じようなことを私も施術中に多く経験しています。例えば、私のエサレンボディワークを受けに来た40代くらいの独身のキャリアウーマンは、最初に話を聞いていた時点では、「少し疲れているけど、特になんの問題もない」と言っていました。ところが、施術を始めると、彼女のガチガチの背中に、とても深い「寂しぃー」という感情が埋まってのを感じるのです。私は優しく触れながら、そのことを伝え、「何か心当たりはありませんか?」とさりげなく聞きました。彼女は全く思いあたらないかのように「さぁ、、?」と首を傾げ、そのまま私は施術を続けていたのですが、途中から彼女はむせび泣き始め、段々と激しくなり、最後には身をよじるように深く悲しみを表しました。施術が終わってからも涙は止めどなく溢れ、ティッシュボックス一箱空ける勢いで鼻をかみ続けます。
「こんなに、、、こんなにも自分が寂しかったなんて、全然知らなかった」
 私が声を掛けた後、とても寂しい思いをした幼児期のある情景が浮かんできたそうです。不安定な家族関係の中で、人への信頼感を失い、「裏切られる思いをするくらいなら、ずっと一人でいた方がいい。私は一人で平気なんだ。」と自分に言い聞かせるように今まで生きてきたと言います。
「でも、本当はいつも誰かにそばにいて欲しいし、すごく愛されたいのに、、、」
次から次に流れ落ちる彼女の涙は、今まで抑圧し、無視し続けてきた彼女の心の痛みへの癒しでした。

 看護師として長年頑張り続けてきたある女性は、施術後に「自分がこんなに疲れていたなんて知らなかった、、、。今まで私は、人を助けよう、助けようって思っていたけど、本当は自分を助けたかったのかもしれない。本当の自分の気持ちに、気づくことができて良かった。もっと自分を休ませてあげたい。」と泣きながら語りました。

 生まれたときから人に預けられて育ち、「親から愛されて来なかった」と思い続けてきたクライアントは、施術中に幼児期の寂しさを追体験し、激しく泣いたのですが、途中からとても穏やかな表情になりました。後で話を聞くと、「指先、足先をマッサージしている時に、こんな風に自分も親からしてもらったことを思い出したんです。頭では憶えていないけど、体がその感覚を憶えているんですね。『ああ、私もちゃんと愛されていたんだ』ってやっと分かったんです。とても幸せです。」と、とびきりの笑顔で語りました。

 体に丁寧に触れることで、準備が出来ている人はそんなふうに気づいていきます。そのプロセスは大変でも、気づきから自分を癒し、過去から自由になって羽ばたいて行くのです。一方、頭と体がすっかり切り離されていて、体の訴えを全く聞き取れない人も沢山います。体に凝りとして蓄積されているのは、大抵、あまり歓迎したくない感情です。だから多くの人が自分を感じたくないばかりに、走り続け(忙しくし続ける)、甘いものや、お酒や、買い物に走って、なんとか必死で気を紛らわせようとしています。
 実際、感情は人間性のごく自然な一部なのに、私たちの社会は感情を感じることをよしとせず、職場でも感情を押し殺した冷静沈着な人間が尊ばれ、ほとんどの人がありのままの自分でいることが出来ません。
 生まれたての赤ん坊は見事な複式呼吸をしていますよね。足の指先も自由自在にのびやかに動くし、股関節もヨギ並みの柔らかさです。私たちみんながそうして生まれてきたのに、しつけや学校教育、競争社会に適応しようとする中で、胸は緊張して呼吸が浅くなり、「〜すべき」「〜すべきでない」という知性、理性にがんじがらめになって、本来のしなやかさと体の感覚を見失っていくのです。そして自分が本当はなにを望んでいるのか、どう感じているのかすら分からなくなってしまう。
 どうしたら、体と心の声を聞き、無理のない、楽な自分に戻ることができるのでしょうか。そのためにはまず立ち止まり、何よりじっくりと自分の内側を感じる時間を持つことが大切です。

 私が心と体の繋がり、その癒しに興味を持ったきっかけは、アメリカ、カリフォルニア州バークレーのニングマインスティテュート(Nyingma Institute)で、「クムネイ(Kum Nye)」というチベット仏教のヨガと出会ったことです。11日間のクムネイのリトリート(合宿)に参加したのですが、それは想像を遥かに越えた深い体験でした。
 クムネイではとてもゆっくり体を動かします。瞑想しながらスローモーションで動いていくような感じ。曲芸のようなポーズはなにもなく、動ける範囲で、気づきを持って、ひたすらリラックスして動いていきます。一つの動きごとに15分くらい瞑想するので、2時間のクラスで4種類の動きしかできないのですが、ものすごく濃密な時間と空間の中にいるので、あっという間に時が経ちます。そうして1日7時間以上クムネイをして過ごしました。深い瞑想的な意識でゆっくり体を動かしていくと、抑圧していた感情のブロックがどんどんほどけ、秘めていた怒りも、劣等感も、悲しみも、とどまることなく溢れ出し、動きの中に溶けていきました。

 ある日、マッサージをするのが好きだった私は、何気なく触れたクラスメイトの背中にびっくりしました。彼女の背中は今まで触れたことがないくらい、トロトロに柔らかかったのです。彼女は私より長くクムネイをやっていました。10代からヨガをやっていた私は、柔軟性はあるくせに、どうしても肩こりは取れずにいたのです。前屈させれば私よりずっと堅い彼女が、こんなにも柔らかな背中を持っている!それは目から鱗の発見でした。彼女は常に自分の体の状態に気づき、余計な緊張を手放すことが出来ていたのです。
 そのリトリート後も一ヶ月滞在してクムネイ体験を深め、日本に戻った私は、ある日電車に乗っていて、初めてハッと気づきました。「肩が緊張して上がっている!」
 日常のなかで自分がいかに不必要に体を緊張させているかに、気づけるようになったのです。気づければしめたもの。「ただ緩めればいい」はずなのですが、、、、しかし怖れや不安があると、緊張を手放したくても、なかなか手放せないということにも気づきました。
 肩をほぐす動きやポーズはいっぱいあります。けれどそれをいくらやっても、日々の緊張感に満ちた心持ちを変えないかぎり、すぐに戻ってしまいます。「いくら姿勢をよくしようと思っても、すぐもとに戻ってしまう」という方は多くいます。それは内面の変化がついていっていないからでしょう。
 自信がなかったり、怖れがあると、どうしても肩をすくめて胸を閉じたくなります。心を反映する体は、怖れで胸を閉じようとしているのに、それを無理して開こうとしても背中に余計な力が入るばかりで、ますます凝ってしまうのです。

 長い動物の進化の産物として、私たちは危険を察知すると、身を堅くする習性がしっかり残っています。怪我したときに出血を押さえるためだとか、内蔵を守るためだとか言われていますが、現代社会において、そこまでの身の危険は日々の生活の中にほとんどありません。にも関わらず、私たちは電話中も、上司の前でも、レジに並んでいるときでも、日常のほとんどを体を堅くして過ごしているのです。
 神経の興奮状態が続き、ゆるめることができないと、ホルモンのバランスを崩したり、自律神経が狂ってきます。胸が緊張して深い呼吸もできないから、気持ちも鬱うつとしてくるのです。今や日本でも生涯で鬱になる人が10人に一人と言われる時代です。
 だからまずはゆったり深く呼吸をしましょう。肩をおろして。体に抱えている緊張を呼吸ごとにゆるめていきましょう。歩いていても、エレベーターの上でも、職場でも、トイレでも、気づけばとにかく深呼吸。
 そして体の凝りや痛みの声は無視せずに、優しく意識を向けてあげる時間を持ちましょう。その痛みを受け入れるように息を深めていくと、きっといろんな感覚が沸き上がってきますが、何が出て来ても否定せずに呼吸と共に受け入れ、感じることを許していきます。怖れが出て来たら怖れに息を送り込み、その中に入っていくのです。
 感情を感じるのは怖いと思う人もいるでしょう。しかし「<気づき>の呼吸法」(春秋社)という本の中で、著者のゲイ・ヘンドリックスは「私たちを苦しめるのは私たちの感情ではなくて、それらの感情に対する私たちの抵抗なのです。」と言っています。悲しいとき、その場でその悲しみをちゃんと感じることが出来れば、感情は流れ、すぐに解放されます。しかし「悲しむことは弱いことだ」などと思い、泣きたい気持ちにも抵抗するなら、それは筋肉の緊張となって、いつまでも、ひょっとすると何十年も私たちを縛り続けるのです。私たちが背中を丸め、伸びやかに生きられないのはこのためです。そして、心にブロックがあると、周りからの愛も受け取ることが出来なくなり、人生から喜びや幸福感が失われていきます。 
 積もりに積もった抑圧された感情ほど危険なものはありません。「良い子」を演じ続けていた子供が突然切れるのは、その子の自然な表現を抑圧してきたからです。感情はすべてただのエネルギーです。「こんなことを感じるなんて自分は駄目な人間だ」なんて思わずに、どんな感情も感じることを許す必要があります。
 そこで一番大切なのは「愛と許し」です。これはどんなセラピーにも共通していることですが、この感覚こそが癒しを起こすのです。私が今夜のおかずのことでも考えながら人の体に触れても、何も起きません。その人のどんな痛みにも抵抗せず、愛を持って寄り添うことで、受け手も安心して自分を感じることが出来るのです。ですから、一人で感情と向き合うのが怖い方は、なんの批判もせずに、愛で見守ってくれる誰かの助けを借りることをお勧めします。もちろん自分自身へ愛と思いやりの気持ちを持つことで、一人でこのワークをすることも出来ます。
 自分のどんな感情も受け入れることが出来てくると、人のどんな感情も許せるようになってきます。そんなあなたのそばにいるだけで「癒される」と言う人が現れてくるでしょう。そうして癒しの和は広がっていくのです。自分を癒すことは決して利己的なことではなく、大切な社会貢献なのです。
 みんなが体と心を尊重するようになれば、世の中はきっともっとゆとりのある、心地のいいものになります。さあ、あなたも体の声にじっくり耳を傾けはじめましょう!
2006年02月16日