まじめになっちゃだめだ

そのほうがうまくいくんだ

2017年02月

Excel四十八手、更新しました 20170226

Excel四十八手、更新しました。今回はコチラ

今回は配列の話です。配列数式、正直ぼくはほとんど使うことはありません。なぜなら、、、よく配列を使いたがる人って「ムダな列を作らずに一発で計算したい!」って欲求があるみたいなんですが、ぼくにはそういう思いが1ミリもないからです。作業列作って、計算して、消して、…。この方が計算過程が見えて安心できます、個人的に。
ですが、配列数式にしかできないこともあるかもしれないので、知識としてはもっておいた方が無難かもしれません。
以前「配列の解説を」とコメントいただいて、それから1年以上経っちゃったし内容的にはたして求められてるものとマッチしているのか不明ですけど、一度体験しておくことに意義があります、何事も。お互い。

大きくなりました。ねこです。

ねこ405

ねこです。大きくムチムチになってきました。

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ひざにつめをたててあそんでおります。何かの自己主張でしょうか。

ねこ403

2人揃うと悪さばかりします。ワル悪魔です。

ねこ404

 なにかたくらんでる顔…。

箱に収めてみたり。
ねこ407

単独でも手強いのに。
ねこ408

ねこ409

最近アゴのところにニキビ?みたいなのができて、黒いカスみたいなのがでます。お医者さんからもらった酸性水で拭いているのですが、、時間かかりそう。

日が当たる場所でお昼寝。
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ねこ411

くっつけてみたり。
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かじる。
ねこ414

なめる。 

ひとつだけなら買っていいよ

「ふつうのひとは、これこれをしてはいけない、と教えられて育つという。
あるとき、亜々子さんが、お母さん方の集まりできいてきた話である。
ぼくたち夫婦は、世間の大半の大人というのは、なんと生真面目で、うしろ向きの生活規範にしたがって生きているのだろうとあきれた。」
『∀の癒し』P100

『ガンダムの家族論』を読もうと思ったら手元にない。どうやら引越しのどさくさで売っちゃったようだ。読みたいときに手元にないというのはこれまでもあったが、、。

さて。
「管理」と「締め付け」は違うということは僕もわかっている。というか意識的に分けなければならない。コントロールを意図しておきながらすぐ怒鳴り散らしているようでは、委縮してしまって結局は良い成果はでない。
「幸福な着地点」が目的で管理はその手段でしかないのだから、僕はわかりやすく伝えたり、穏やかに流したり、大目に見たり、きゅうくつにならないよう努めているけど、でも結局は凡俗なので、やっぱり怒鳴る。締め付ける。コレハヤッチャダメダ!ナンデワカラナインダ!バカナノカ!…このセリフを口にするたびに自分の限界を感じる。これこれをしてはいけない。そうやって禁止することで制御しようとする愚かさ。僕の嫌いな広告と同じだ。脅迫で人を追い込んでいく。

これこれをしてはいけない。そう教えられて育った子供はきゅうくつである。大人になっても、。

そう考えると母は偉大だった。

母親が小さい僕を連れてスーパーに行く。僕はお菓子がほしかった。というか、ビッグワンガム的なおまけ付き菓子(もちろん、ぼくにとっては菓子が「おまけ」だ)がほしかった。母親はいつも、ひとつだけなら買っていいよ、と言った。
ひとつだけなら買っていいよ。これはすごく練りこまれた回答だ。これだけで、母親の教育はまちがってないな、と感じる。
ひとつだけなら買っていい。だから子供は自然と「選ぶ」ということを覚える。子供は強欲だ。ほしいものがふたつあったときに、ふたつともほしい、というのが正直な気持ちだ。でも許されているのはひとつ。だからおのずと「選択」という行儀を覚える。それは、「ほどほど」を身に付けるための訓練、強欲な大人にならないための大事なステップである。
でももっと大事なこと。それは、買って「いいよ」と言われてることである。「いいよ」。母は「ダメ」とは言わなかった。毎回僕がおまけばかり大きくて実りのないお菓子を買おうとしても母は黙認した。内心はプラモデル的なものは嫌いだっただろうと想像するが、でも許す。ひとつだけなら、という条件を満たしていたから。あれ買っちゃダメこれ買っちゃダメと禁止されない幸福。母がしたことは「ひとつだけなら買っていい」と承認することでしかないのだが、でもそれは、ひとつだけなら買ってもらえるという子供の小さな権利を承認することだったし、さらに言えば、子供の小さな人間性・人格を、認めること、許容すること、肯定することにもつながっている。
 
すごく正しい教育だと思える。

親が肯定してくれる。これはとても大きなことだ。

ダメと言われて育った子供は大人になってもおびえている。なぜかというと、他人の基準しかないからだ。他人の基準はそれとしてあって、でもこれが自分の基準だ、自分はそれに殉じる、あるいはときには他人の言う事も聞いておこう、というのがバランスのとれた在り方だ。それができるためには、「他人の基準」に抗するだけの自分が必要で、そのためには「自分を肯定する/承認してもらう」というプロセスが必要。もちろんゴリゴリに自分の基準だけ、という人もいるが、これは逆に振れたケース。
もちろん母親も怒鳴ることはあった。げんこつも食らった。「ダメ!」と大声も出した。でもそれは、牛という巨大生物と巨大重機のある家庭で安全を守るためには怒鳴るしかないからだ。大型重機が動いているなかでふざけていたら僕だって怒鳴る。だってまきこまれたら簡単に死ぬもん。
でも基本的には肯定されて育った。肯定される安心感があれば、あとはどんなに放任されようと朝飯が用意されてなかろうと(家は朝早いので朝飯は自分で用意した)、生きていける。

でもひるがえって。じゃあ何でも肯定できるのかよ、呑み込めるのかよ、というと、、むずかしい。こういうとき富野由悠季は偉大だと思う。ターンエーで全部呑み込んだからね。自分の度量の小ささにあきれるばかりだ。
 


以下、ついでの話。
富野さんが親に宛てた手紙が檄文だとネット上で話題になってたが、僕はそうは思わなかった。
気を遣うこと。それができない人に対する、ふつうの文章だと思う。それに結局、富野さんはこれをご両親に見せなかったし。

下記、経緯。
義妹が50にならずに亡くなった。その席で、老いた両親に我慢ならないことがあった。そしてその流れで、それまで溜まりに溜まっていた不満が爆発した。

「父と母が、美知子の遺骸のそばで、パクパクと物を食う。
それを見ると悲しいから、弟は、箸を持つと泣いてしまうのです。
寝ている美知子が起きだして、物を食べてくれ!……と!
母のかわりに、美知子が物を食って見せてくれ、と……!
まして、父も一緒に物を食っているという光景は、弟にはとても無念なのです。
とても、残酷なことなのです。
これがわからないのなら、死んでしまえ、という事です。
しかし、今回の葬儀も160万円かかります。お二人で、320万円です。
一度も葬式を出した事がないお二人の人生ではこの金の重さの意味は分からないでしょ。死ぬためには、一円でも貯金をしなければならないのが、お二人の立場なのです。
それはありませんよね。今年は、もう葬式は出せません。
死んでもらっては困ります。
このふたつの事からも、あなた方は、生きる事も死ぬ事もできないとわかってください。考えようでは、これは地獄なのですが、それは想像できないでしょうね。ご両親!
ほかにも気配りしなければならない事がいっぱいあるのが、人生なのです。
ですから、せめて生きていられる間は、周囲にたいして、感謝の心を持つことぐらいのことはして下さい。
心配するだけならだれにでもできます。心配するだけでは何事も終わりません。
母の心配の仕方は、心配をするだけなのです。
それでは、何ごとかを成し遂げなければならないと頑張っている人たちの神経を逆撫でにするだけなのです。
生きている人が、行わなければならないのは、その時にしなければならない事を為す事なのです。
今のお二人なら、一円の貯金をすること。弟の前では、隠れて物を食べてやることです。これが、子供にたいする親の示すことができる優しさなのです。
これができなかったのが、あなた方でした。
自分の健康だけが気になっている強欲さと、我を口にする業にとりつかれた年寄り。
物が聞こえなくなって、考えることをしないですむ父。
最後まで生き残るということは、自分の葬式を出してくれる人がいないという事。
そういったことを想像して、子供に可愛がられる老人になるように修行してください。
それができない人を、餓鬼というのです。」
『∀の癒し』P135-136


「子供に可愛がられる老人になるように修行してください。」この一文がすべてだろう。モラルやルールというのは、凡人が生き残る術であることが多い。年寄りや小さいものをいじめたり、悪口を言ったり、凡夫がそんなことでは孤立してますます生きづらくなるだけだ。だから、他人の気持ちを汲んで、せめて逆撫でしないように生きてく術を身につけろ、と親達は言う、はずなのだ。「うそをつくな」は嘘がいけないからではない。うそをついていると信用を失って結局は本人が損をするからだ。「夜口笛を吹くな」は口笛を吹くと蛇が出るからではなくて、夜中に口笛を聞かされる立場に立ってみろ、うるさいだろ、うるさいやつは嫌われるぞってことだし、「乱暴するな」だって、暴力がそもそもいけないかどうかって問題ではなくて、暴力ふるうような奴の周りからは人が去っていくからである(暴力がいけないかどうかは、すまん、オレのような弱輩ではわからない。でも過去大部分の問題は暴力がカタをつけてきたのは事実。それを認めるかどうかは別だが)。行儀、ということばがあるが、行儀というのはひとつの儀式である。つまり、ひとつの「型」だ。お行儀よいふるまいを、こころが伴っているかどうかはともかくとりあえず行っておくことは、生きるための知恵であるし、子供がまず身につけなければならないのはそのレベルである。もしかしたらそのうち、型どおりのお行儀作法のなかに「心がこもる」、かもしれない。それは偽善じゃないの?と言う人もいるが、偽善にツッコミ入れる人が善を為すところをぼくは見たことがない。
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