まじめになっちゃだめだ

そのほうがうまくいくんだ

2017年03月

欽ちゃん名言集

欽ちゃんのことはずっと気にかかっていた。特に「弟子入りを志願する者が来ると、「正しい箸の持ち方をしていることは親の躾(しつけ)を素直に受け入れている証拠であり、その素直さが成長には不可欠である」という信念から箸の持ち方を見るためにまずは食事に連れて行く」というエピソードはすごく引っかかっていた。今回欽ちゃんの著書『ダメなときほど運はたまる』を読んでみたので、いくつか抜粋する。萩本欽一名言集。



・「はじめに」から

だれにでも運と不運は平等にきます。だから今がついていない時期なら、そのあと幸運な時期がきっとくるはずです。不運の度合いが大きければ大きいほど、これからやってくる運も大きくなるの。だからつらくても「今は運をためてる時期なんだ」と思って耐えていれば、いつか状況は変わっていきます。運の神様は、そうそう一人の人間ばかりいじめません。


世間の人から「かわいそうな生い立ちね」と言われる人は、僕から言わせればすごくラッキー。こういう人は、自分の境遇を恨まず、ごくふつうに生活を送っているだけで、必ず幸運がやってくるんです。

その代わり、今目の前にある現実を嘆いたり、親を罵ったり、不平不満を言うたびに運はだんだんと消えていきます。


・向いていない場所に運がある


・不運なときに運は芽生える


つらいことに不満を持ったり悩んでばかりいると、運が育たないの。辛抱って「つらいことを抱く」って書きますよね。夢でつらさを包んで、我慢することが大事なんです。


・向いていないところにこそ運がある


自分には何が向いているか、本当にわかっている人って少ないと思います。職業だって自分が好きなことが自分に向いているとは限らないし、その人に向いていることは他人から見たほうがよくわかるんです。


「坊やはね、リズム感がないの。ふつうは二、三週間練習すれば踊れるんだけど、坊やは本当に才能がないねえ」

せりふも言えない、踊りもできない僕はまるっきりコメディアンの才能がないって、最初の数ヵ月でわかっちゃった。みんなと同じことをやっても、一歩どころか三歩ぐらい遅れちゃう。だったら五歩ぐらい遅れたところに下がって努力すれば、なんとか追いつけるんじゃないかな。そう思って練習したんです。リズム感をつけるためにドラムの練習を始めたり、自分の出番がないお芝居でも、先輩の稽古をずっと見ていたり。

そうしたらね、劇場のバンドマスターに「お前、ドラマーにならないか?」と誘われるくらいドラムの腕もあがったし、主役が病気で降板した舞台に代役で抜擢されるようになったんです。

テレビに出るようになってからも、いちばん向いていない司会の仕事をしたら、「新しい司会者だ」なんて言われちゃった。僕、コント55号ではツッコミ担当だったでしょ。アドリブでツッコミを入れてばっかりいるから、進行なんてできないよね。そのうち段取りもめちゃくちゃになって、「はい、次のチームは……だれだっけ?」って言ったら、それがやけにウケちゃったんです。

今考えると、向いていなかったことがよかったんだと思います。もし最初からうまくできて「俺はコメディアンに向いている」とか「司会だってできるんだぞ」なんて思ってたら、天狗になって成功しなかった気がするの。だから、向いていない場所にこそ、運は落ちているって思います。


・失敗は運の定期預金


・ライバルが運をもってくる


ライバルって大事ですよ。僕にもたった一人、生涯のライバルがいます。一緒にコント55号をやっていた坂上二郎さん。もうね、最初に二郎さんを見たときから「最強のライバルだ」と思いましたね。


・怖い人には近寄っていけ


作家で東宝の重役でもあった菊田一夫さんに、初めて会ったときもそう。

「先生は怒ると怖いぞ、灰皿を投げるんだぞ」

という噂が飛び交っていて、菊田さんがくるとみんな正座して壁にへばりついてるの。それで僕、菊田さんが座ったテーブルの前に歩いていって、こう言ったんです。

「おはようございます。僕、萩本欽一と言います。先生は怖いんですってね」

菊田さんは、へへへっと笑っているだけ。

「先生の怖さを日本中で知らない人はいません。でもね、僕は怒られるとパニックになって、なにもできなくなっちゃうんです。だから、怒らないでね」

そう言ったら菊田さん、笑顔のままこう言ってくれました。

「へ~え、なにもできなくなっちゃうの?じゃあもう僕、怒らない。とくに欽ちゃんのことは怒らないよ」

本当にまったく怒られませんでした。だからね、怖い人がいたら思いきって懐に飛び込んでいったほうがいいんです。



・運の神様はすぐそばにいる


コメディアンの修行を始めて三ヵ月ぐらい経ったころ、クビになりかけたんです。あまりに僕の出来が悪いもんで、演出家の緑川先生にこう言われちゃったんです。

「あのなあ、コメディアンをこれまでたくさん見てきたけど、早い奴なら一週間もするとコメディアンらしい雰囲気をみせる。遅い奴でも一ヵ月やっていれば、コメディアンらしい笑いのセンスが身につくものなんだ。珍しいよ、お前は。三ヵ月経ってもコメディアンの気配も漂ってこないもんな。やめるなら早いほうがいい。お前はコメディアンに向かないと思う」

情けないことに、僕は納得しちゃいました。

「はい、自分でも無理な気がします。今月いっぱいでやめることにします」

そう答えて、コメディアンの座長格で僕の師匠でもあった池信一さんに報告しに行ったんです。池さん、僕が話し終わると聞きました。

「で、お前自身の気持ちはどうなんだ?本当にやめたいのか?」

「僕はもうちょっと……あと二ヵ月とか三ヵ月とかやってから決めたいんですけど……」

「そうか、ほんとはお前、やめたくないんだな?よし、じゃあここで待ってろ」

池さん、バ~ッと走っていったと思ったら、五分もしないうちに戻ってきて、

「お前、続けてろ!」

それだけ言ってまたどっかへ行っちゃいました。あとで緑川先生から聞いた話では、池さんはこうかけあってくれたんですって。

「あいつをクビにしないでくれ!才能はないけど『はい~っ』ってあんなに気持ちのいい返事をする奴はいない。だからあの返事だけでここに置いてやってくれ」

池さんの話をしてくれたあと、緑川先生はこう言ってくれました。

「この世界で大事なのは、うまいとかへたじゃない。お前のようなドンケツを、劇場のトップが『やめさせないでくれ!』って言ってきた。こういうのが芸の世界では大事なんだ。あいつを応援したい、助けたいって師匠に思わせたんだから、お前きっと一人前になるよ。一人でも応援してくれる人がいたらやめるな。生涯やめるんじゃないぞ!」


・ダメな子ほど運がたまる


小さいときからずっといい子だと、けっこうつまらない大人になるんです。

親が「いい子」を期待していることがわかると、子供はいい子を演じるようになります。叱られるようなことをしないのが「いい子」だと勘違いして、無難なことしかしない子になっちゃうの。

こういう子が大学へ行くようになると、「卒業したら仕事をして家庭を持って、なんとなく楽しく暮らす」みたいなことしか考えない。失敗することを恐れるから冒険しないし、なにごとも自分から積極的にしようとしない。今の若者を見ていると、こういう人が多いような気がします。外へでて人とつき合っていくのが下手ですね、みんな。

たとえば会社に入って先輩や上司から仕事を教わるとき、ちょっとでも「ダメな新人」扱いされると、ものすごくショックを受けちゃう。「あなたはダメなんですよ」と言われることに慣れてないから、言った人に対して異常なほど怒ったり、恨んだりしちゃう。これじゃあ運はたまらないね。

その点「ダメな子」から出発すると、大人になるころにはずいぶん運がたまってます。「お前はダメだな」といわれるたびに自動的に運は貯金されていくし、周囲から期待されないと野放し状態でどんどん行動するから、実践でものごとを学べる。発想だって豊かになっちゃう。

「ダメ」という出発点からスタートすると、少し努力しただけでぐんと伸びるんです。基準点が低く設定されてる分、ちょっと伸びただけでも誉められやすい。

それに、どうして自分はダメなんだろう、どこが悪いんだろうって考える力も育つし、考えたことをやってみると苦手だったことができるようになったり、人とのつき合い方がうまくなったりします。ダメな子ってある意味、優等生より得なんです。


・欠点から運が生まれる


ふつうの人は、自分の欠点を隠そうとするでしょ?それどころか自分の欠点に気がつかない人だっているよね。

でもスターになる人は、ちゃんと自分の欠点を自覚して、それをなんとか克服しようと思って闘っているんです。あるいは欠点を活かす方法を考えてますね。自分のいやなところとちゃんと向き合ってるから、恥ずかしいなんて思わず、人にも素直に告白できちゃう。

運の神様はこういう人が好きだから、欠点を長所にしてくれます。のちのちまで名前が残る大スターには、欠点がある種の味になって人もけっこういるんです。



これはスターに限ったことじゃないの。小さいときからなんでもできる子がそのまま大人になっても、意外と評価されません。優等生て、あんまり個性がないでしょ?でも、欠点のある人がそれを克服しようと思って試行錯誤していると、それが個性として伸びていくから、独特のキャラクターが生まれるんですね。

僕はアドリブが得意と思われているけれど、それも欠点から生まれたの。極端なあがり症だったから、決められたセリフがあると緊張しちゃってぜんぜん言えない。だからアドリブでその場をしのぐしかなかったんです。

自分のラジオ番組『欽ちゃんのドンといってみよう!!』(ニッポン放送)を始めるとき、リスナーからのハガキを読むことにしたのもそう。コント55号時代、「坂上二郎には芸があるので残るだろうが、萩本欽一は芸がないので残らないだろう」って活字に書かれたことがショックでね。そうか、僕には芸がないのか、それなら一人でなにかやるときは「芸」とは関係ないもので勝負すればいいやと思ったの。


・神様は性格のいい人に味方する


僕が初めて関根(勤)に会ったとき、もう彼はデビューしていたんですけど、ぜんぜん売れてなかったの。

だからといってやさしくすると関根の運がつかないから、『欽ちゃんのドンとやってみよう!』で、ちょっと損な役回りをしてもらいました。リハーサルのとき僕の代役をやってもらったんです。自分でやってると、他の出演者に的確な指示が出せないでしょ。だから僕の役を関根にやらせて、出演者に「ここはこうしたほうがいい」と言ったり、ときには怒ったりもしてたんです。

関根にとっては、なんの得にもなりませんよね。僕は関根には指示を出さないし、直接教えることもしなかったから。でもね、関根はなんの文句も言わずこの役をこなしながら、しっかり勉強してたんです。

のちに関根がこう言うのを聞いて、びっくりしました。

「大将は、僕になにも教えてくれなかったけど、『欽ドン』のリハーサルで代役をやらせてもらったことが最高に役に立ったんです。大将が他の人に言うことを聞いてたら、大将の考えがす~っと頭に入ってきた。自分が言われたんじゃなく、他人に言うことを傍で聞いていたから冷静に受けとめられたんだと思う。それが僕の芸になったんです。」

関根ってすごく素直だし、性格がいいよね。ふつうなら「僕にはなんにも教えてくれない」って思いそうなのに、それを逆に自分のチャンスにして勉強してた。

はしのえみちゃんもそう。女優は叱りながら育てると顔が厳しくなりそうだし、えみはかわいいからそのままでいいやと思って、なんにも教えなかったの。でも、いつの間にか大事なことを覚えて、ちゃんとお芝居してるんだよね。

僕、不思議に思って聞いたことがあるの。

「そういうお芝居、どこで覚えたの?」

そうしたら、こう言ってました。

「大将が男の子たちにいろいろ言うのを聞いてて、覚えたんです。大将は私のことはぜんぜん怒らない代わりに、なんにも教えてくれなかったでしょ。だからすごく楽でしたよ。横から見てると客観的に見えるから、大将の教えたいことがよくわかったんです」

えみちゃんも「自分だけ教えてもらえない。無視されてるのかな。向いてないのかな」なんてスネずに、僕が他の人に言うことを一生懸命聞いて育っていったの。こういう子を「性格がいい」って言うんですよね。

自分が置かれている状況を前向きにとらえて努力している人を、運の神様は見逃さないんです。


・いじめられっ子にはどでかい運がくる


才能がない子でも、運の神様が「スーパースター」の座を用意しておいてくれる場合があります。たとえばいじめられてる子に、運の神様はやさしい。いちばんつらいときには声をかけてくれないかもしれないけれど、その子がつらい状況をバネにして頑張っていれば、必ず道を開いてくれます。

だから「いじめられてるな」と思ったら、「ラッキー!今、大きな運がたまってるんだ」と思ったほうがいい。

いじめってひどいよ。いじめをするやつって最低!そんな奴には、悪運がまとめてくるに違いない。みんなそう思わない?

そう思うと発想が逆転しますよ。つまりいじめてる奴って、かわいそうな人間なの。自分から運に見放されるようなことをしてるんですから。反対に、いじめられている人には必ずいい運がやってくるんだから、つらくてもこう思っていればいいんです。

「残念だね、僕をいじめてる奴ら。あいつらはこれからの人生、ぜんぜんいいことないよ。今つらい目にあってる僕には、大きな運がたまってるから、そのうちラッキーなことばっかりくるんだ」

気をつけてほしいのは、自分をいじめている人を恨んじゃうといけないってこと。逆転の発想をすれば、その人たちはあなたに運を授けてくれる人なわけだから、「仕返ししよう」と思うのもダメ。むしろ感謝するほうがいいの。たとえば女の子だったら、

「今まで人に意地悪されてばっかりの不幸せな生活だったから、もうすぐきっといいことがある。すごく素敵な人と結婚できるかもしれない。ふつうに生活してる人には体験できないほど幸せになれちゃうんじゃないかな。もしそうなったら、今まで私を不幸にしてくれた人のおかげかもしれない」

とかね。

現実を考えるとつらいだけのときは、無理矢理にでも明るい未来を考えているのがいいの。いつかきっと不運から抜け出せるときはくるから。


・貧しさのなかに夢と運がある


・人に気をまわすと運が巡ってくる


・つらいときこそ人を見る目が育つ


・仕返しすると運は消えていく


・がっつくと運が逃げていく


・お金は汗水たらして稼ぐもの


楽をして手に入れたお金は身につきません。ましてやなにもしないのに大金をもらったら確実に運が落ちちゃう。お金ってやっぱり、汗水たらして稼ぐものなんです。


・運に運を重ねると不運になる


エアコンのコマーシャルは、毎年ハワイで撮影していました。

「萩本さん、CM撮影はお正月のハワイでやりましょう」

コマーシャルをつくる人たちはこう提案してくれるわけ。お正月にハワイで休暇をとって、そのついでに一日だけ仕事をしましょうって。一緒に仕事をする人が気遣ってくれるとうれしいよね、僕だって。

でもダメなの。こういうことをすると仕事はきっと失敗する。もし仕事がうまくいったら、ハワイから帰ってくる飛行機が落ちちゃう。

遊びの運と仕事の運、いいことを二つ重ねたら悪い運がついてきます。「得」に「得」を重ねちゃダメ。「得」には「我慢」を重ねないと運が下降線をたどっちゃう。

それで僕は、こう返事したんです。

「いや、お正月に行くと、休みのついでに仕事することになるからそれはやめたい。12月26日に出発して、年が明ける前に帰ってきましょう」

世間の人から見れば、「もったいない!」と思うかもしれませんね。でも僕に言わせれば、お正月のハワイで仕事をして、自分の仕事運を台無しにするほうがもったいないの。だから毎年、大晦日に帰国してました。


・過分なご褒美をもらわない


・会議に余分な時間を使わない


・引いていく潮には逆らわない


僕の経験から言えば、でっかい運はせいぜい五年しかもちません。ぶわ~っと盛り上がった運も、五年ぐらい経つとす~っと消えていく。運は、潮の満ち引きに似てるんです。


引き際のタイミングを逃すと人間がずるくなる気もしたし、大事な人がみんな離れていっちゃうかもしれない。だから、じたばたしないでここは潮に流されよう、と思ったの。大きな波で沖まで流されたら、大きな波に乗って戻ってこられるんですから。その波に乗って一から出直せば、新しい運がきっとついてきます。


・人と違う行動に運がくる


・人のつき合いは損から入る


ほとんどの人は「損をしたくない」と思って生きてますよね。だけど、そういう生き方をしていると、自分でも気がつかないうちにずるくなったり、意地悪になったりしやすいと思うの。

だって今の世の中がそうでしょ?みんなで得をしましょう、損をしたい人は勝手に苦労してなさいっていう仕組みになってますよね。幸運もお金も人のあいだをぐるぐるまわってるんだから、すべての人が一緒に得をするなんてあり得ないんですよ。

幸せになりたいと思うなら、進んで損をしたほうがいいの。人とつき合うときは、率先して損な役回りをすると、だれかが幸運をもってきてくれます。自分のために損をしてくれた人がいたら、うれしくなるでしょ。だから人間関係が円滑になるし、一緒に仕事をするときも信頼関係が早く結べるんです。


・運をつかむには言葉を磨け


・運は言葉で変化する


いい運を引き寄せるには、言葉がとっても大事なんです。運がたまっているときも、言葉の使い方を間違えるとス~ッと運は消えていきます。運の神様が嫌うのは否定の言葉。「ノー」より「イエス」に運があるの。

「君、ちょっとこの仕事やってくれないか?」

と言われたとき、「いやです!」なって言うと、運はそのとたんに消えますね。この言い方だとパッと消えちゃう。いやだな、と思うことは、積極的にやると運がついてくるんです。


・恨みごとを言うと運は逃げていく


小堺一機なんかね、ものすごいあがり症で、初めて番組にだしたとき震えてめちゃくちゃになっちゃったの。それで僕、番組が終わったあと小堺にこう言いました。

「俺、あがる奴って好きだよ」

ほんとは”ばっかやろ~、なにあがってんだよ”っていうのが正直な気持ちだったの。でもね、同時に若いころの自分と似てるなとも感じたんですよ。あがり症で震えちゃう子。こういう子には、「ダメじゃないか!」って怒ったり、笑いながら「あんなにがたがた震えてたんじゃ放送できねえよ」ってギャグにしちゃいけない。いい言葉をかけてあげたほうがいいの。小堺はすごく素直な子だし、将来きっと有名になるって思ったから、励みになるような言葉を伝えたかったんだよね。


・家族は運でバランスを保つ


でっかい運を一人占めすると、家族に不運がきます。

家族の運のバランスは常に気にかけたほうがいいよ。


・結婚は運の足し算だ


・親を見れば子供の運がわかる


・使えなかった運を子供にまわす


以上ここまで。

教えるのが下手な人は、自分が子供の頃のことを忘れてる

タイトルで言いたいことはすべて語ってしまった。以下蛇足。

教え下手で悩んでる人は多い。たしかに「教える」のはむずかしい。自分ではていねいに教えたつもりなのだが、相手はどうも理解してる様子がない。なんで相手は理解してくれないのか。この「なぜ相手は理解できないのか」が理解できない。だから悩む。
でも、教える側だって「できない時代」があったわけで、「なぜできないのか、理解できない」ということは結局「できない頃の自分を覚えていない」ということだ。「できない頃の自分」を明確にイメージできていれば、どんなふうに教えたらよいかはある程度見えてくる。

できない頃の自分。若手の頃の自分。

…ここで人によっては「自分ははじめからできた」という人もいる。天才型にこういう人は多いのだが(長嶋茂雄とかマラドーナとかそうだよね)、そういう人は教えるのには不向き、あるいは同レベルの天才をしか教えられない人物なので、ここでは除外する。

あるいは「自分が若い頃は、できないにしても、メモをとったり復習したり積極的に質問したりして、能動的に学び取ろうとしてた。最近の若者はそういう姿勢が見えない」と言うかもしれない。つまり、「教わる側」の姿勢のせいだ、と。しかし、本当に「教わる側の能力のせい」なのだろうか。自分が子供のころのことを思い出してみよう。学生時代、つまんない先生のときはノートなんてまじめに取らなかったのではないか?怖いだけの先生には質問なんかできなかったんじゃないか?つまり、メモをとったり質問したりするにも「モチベーション」が必要で、その「モチベーション」って、「教える側」の人間性次第で上がったりどん底まで下がったりするものなのじゃなかったっけ?だいたい「教わる側」からしてみれば「質問したくても、何を質問していいかさえわからない」だったりする。だから「質問ある?」と聞かれても、(わかってなくても)「ありません」と答える一択しかないし、あるいは質問できたとしても出川哲郎のプレゼンなみにグダグダになるに決まってる。それにそもそも、「教える側」が質問しづらい雰囲気をかもしだしたりしていないか。早口で不機嫌そうにまくしたて、質問する隙を与えない。2回同じことを聞いたら「さっき言いましたよね?」なんてミシシッピー殺人事件(ジャレコ)みたいなことを言う。「教わる側」からしてみれば、

これじゃあやってられないよ

って思うに決まってる。

そもそも僕らは箸ももてない、パンツも履けない、コップの水も飲めないところから始まった。先日「ナイトスクープ」の過去放送を見てたら「もう中年にさしかかるのだが、いまだに缶ジュースがうまく飲めない」という相談内容で、とても興味深く見させてもらった。相談者は缶のジュースを飲もうとすると全部こぼしてしまう。別に骨格や運動機能に問題があるわけではない。でも、飲めない。たいていの人からすれば信じられないような悩みなのだが、…そりゃそうだ、たいていの人は缶入りジュースを「当たり前のように」飲める…、でも他人にとっては当たり前でも本人にとっては当たり前ではないのだ。ぼくは割と相談者の気持ちが理解できて、そりゃそうだよね、今ぼくらが当たり前のようにやっていること、例えばスプーンで食べるとき上唇内側でぬぐいとる動作やTシャツを脱ぐ動作だって、「誰かが粘り強く教えてくれたから」できるのであって。僕らはもう忘れてしまっているかもしれないけれど、誰かが「できない頃の、子供時代の自分に粘り強く付き合ってくれたから」できるようになったのであって。子供なんてすぐに泣き言言うし、飽きるし、かんしゃくも起こすし。でもそんな自分に付き合ってくれて、しかも自分の時間を消費してくれてまでだぜ?教えてくれた人がいる。その事実。
ちなみに上記ナイトスクープでは、麒麟田村が粘り強く付き合ったおかげで、無事缶でジュースを飲めるようになった。田村氏の一生懸命な姿勢に小生深く感動。

ぼくらだって「びっくりするぐらいできなかった」のだ。その頃のことから思い出してみよう。僕らは「教える人がどんな人物か」をよく観察してる。親が不機嫌そうならこっちだってやる気なくなるし、親がすぐ怒鳴るようならすぐ委縮しちゃうし。そもそも「嫌われてないかな」って方に関心がいっちゃって何かを学ぶどころではなくなってしまう。ちょっときつい言い方になるが、教わる側としてはまず「安定した人格の人から教わりたい」ってなるに決まってる。もちろん、子供の自分に「安定した人格」なんてボキャブラリーはないが。

安定した人格。すべての土台はそこだ。その上で。

・話が長い、グダグダ

説明が長いと飽きちゃう。これはもう、仕方がない。僕らは飽きっぽいし、そもそもたくさんのことを一度に言われても覚えていられない。人によって差異はあると思うが、一度に覚えられるのはせいぜい3つまでだろう(3つでも多いくらいだ、ぼくはひとつのことしかできない。だからぼくの作業机にはその日の作業手順が「ひとつずつ」書いてある)。作業前にミーティングを1時間くらいやりたがる人がいるが、そんなのはっきり言って時間のムダである。そんなに説明しても覚えてられるものではない。そもそも理解というのは、

順番についてくる

ものなのだ。「一挙に理解」なんて無理で、すこしずつ一歩ずつ、ひとつ理解してそのうえにもう1コ、というふうにしかついてこない。ぼくらだってそうだっただろう?

説明しようとするとグダグダになっちゃうのには2つ理由がある。ひとつは、自分の思考が整理できていないこと。これから説明しようとしている内容を整理できていないからグダグダになる。そういう場合は紙に書きだすこと。そして、書き出したうえで見直して、枝葉末節は削ること。このとき、項目を増やしてはいけない。削るのみ。そうすることで、本流がどこにあるのかが見えやすくなる。実はこのことはグダグダの理由その2と関連していて、グダグダになるもうひとつの理由とは「詰め込みすぎ」である。「あれも、これも」となるから教わる側はわけがわからなくなるのであって、「今日覚えてもらいたいことは3つ、そのうえで、できるようであればこれとこれもやっておいて」みたいに内容を格付けできていれば、教わる側もそんなに困らない。

・全体練習と部分練習

部分練習とは例えばサッカーで言うシュート練習であり、全体練習とはゲーム形式のことだ。シュート練習ではシュート技術は磨けるがドリブルやパス、ディフェンスは身につかないし、そもそも実戦でフリーの状態でボールを受けることなんてまずない。「サッカー」という競技全体を向上させるにはゲーム形式が一番なのだが、だからと言ってシュート練習に意味がないわけではない。「シュート」という個別技能を集中的にアップさせるには、部分練習しかない。
実は、教えるのが下手な人は、

部分練習しかしない

か、

全体練習を一挙に行ってしまう

傾向にある。

部分練習だと教える内容は少ない。だからすぐに向上しやすいし、教わる側も理解しやすい。しかし、それ「しか」できない人間になってしまうし、さらに言えばその人が唯一できるようになったその「部分的な」仕事だって不十分なレベルにとどまってしまう。なぜなら「全体への理解」がないから、「次の工程でどうなるのか」への気配りを欠いた仕事しかできなくなる。「今自分がやっている作業が全体のなかでどういう位置づけにあるのか」ということが理解できないと、実をいうと「部分の理解」さえうまく進まない。部分説明だけをする人のもとで育った人は、「これだけをやっていればいいんだ」と勘違いしてしまう人が多い。それは、作業の全体像が見えていないから。だから結局は仕事で「使えない」人間に育ってしまう。なのでまず、「全体への見通し」をかんたんに与えて、例えば「あなたにやってほしい作業は全部で5工程ありますよ、今はそのうちの第2段階ですよ」というふうに、「全体のなかでの部分の位置づけ」を見せてあげる必要がある。
でもここにも罠があって、全体像を示すときにあまりに詳細にやりすぎてしまうと結局は上記の「説明が長すぎる」に戻ってしまう。だから、全体をあくまでも「かんたんに」示してあげて、そのうえで部分練習を詳細に詰めていく、そしてときおり全体のなかでの位置づけを確認する、というように、

全体 ←→ 部分 を往復

してあげるのがよい。

少し話は違うのだが、学生って何がつらいのかって、全体像が見えないからなんだよね。因数分解やったり古文やったりと、部分練習はさせられる。だけど全体像が見えてこない。全体像が見えないから「こんな勉強に何の意味があるんだ」って考えに陥って、で、勉強しなくなる。…実は「学生のころやってること」の全体像って「すてきな人間になる」ってことであって、1個のすてきな人間をかたちづくるうえでの部分練習として古典やったり数学やったり体育やったり美術やったり、さらに言えば教科書に載ってることだけじゃなくて、同じ場所にたくさんの人がいるなかでどう立ち回るか、人付き合いが得意であればそれなりに、苦手な人は最低限の付き合いで自分の時間を壊さないように、とにかく「自分らしく」立ち回ることを学ぶことであったり。さらに言えば、とかく学生の頃って「勝ち/負け」ってのが厳然としてあって、ゆとり教育で順位はつけないとか言ってるけど学生なんか社会人よりずっとシビアで、テストの点数や部活の成績だけじゃなく「おしゃれ/ダサイ」「かわいい/かわいくない」「おもしろい/おもしろくない」みたいな競争が社会人よりずっと激しく存在して、で、そのなかで下に見られると容赦なく叩かれるし、子供だから加減もないし対処方もわからないし、で、じゃあそのなかでどう振る舞うか、競争に乗るのか、勉強の競争、部活の競争、おしゃれ競争、そういうなかで戦う方を選ぶのか、それとも「競争しない自分」をつかみとるのか、そういうのを学ぶのが「学校」なんだけど…。でも、そういう「全体像」ってなかなか見えない。それは、教師にも問題がある。教師がひとりの人間として「人間としてのモデル」を示せれば、子供たちへの指針にもなるはず、なんだけど、それは完璧な人間って意味ではなくて、「いろいろ至らないところはあるけど、でもどっこい生きてます」ってところを見せて子供たちを勇気づけなければならないんだ教師って、本当は。でも、そうはなっていないわけで。
『裂けた旅券』ってマンガのヒロインは、12歳で売春婦になって14歳で主人公に拾われて、で寄宿学校に編入させられるんだけど、そのなかで、「学生って身分はきゅうくつだけど、でも今の自分は子供で、今の自分にできることはホントに少ないから、もうしばらくは学校ってところで学んでみるわ、学んだことがどんなふうに活きるのかはわからないけど」って趣旨のセリフがあって、すごくよく「学生」って身分のきゅうくつさを表しているな、と。彼女だって本当は「自分はもう大人で、ひとりでだって生きていける」と思っているわけですよ内心は。実際に売春で生計をたてていたわけだし。でもその彼女が、学生って身分を選び取ってそこに留まってがんばろうとしているのは、今の自分の力量と、未来が見えてこない苦しさを理解したうえで、すこしずつできることを増やしていくしかない、だから学校にもうしばらくいよう、という決意に他ならないんだよね。うん、余談。

要するにね、全体が見えてないとゴールが見えないんですよ。だから部分作業だってつらくなる。おもしろくなくなる。特に部分作業ってのは、ちまちましたことの連続。だから部分と全体を交互に見せてあげることが重要なんです。

・質問にはすべて答えるべきか

これはどっちかというと「教わる側」の心構えになってしまうんだけど…。
『宇宙の戦士』って小説のなかで、…『宇宙の戦士』ってガンダムのモビルスーツの原型がでてくる小説なんだけど、前半の内容大部分は軍での新人教育の描写で、そのなかで、

■カッピカピの新人を教える際は質問は受け付けない。とにかく「やれ」。それだけ。

■3か月の研修期間を終えると第2段階の訓練に入る。より実戦的な内容だ。そこでは隊員からの質問はていねいに、熱意をもって答える。わかるまで、粘り強く。

というのがあって。…まあ「やれ」っていう乱暴な言い方は職場では不適切なのだけど(これは軍事小説なので、その点ご理解ください)、ド新人で、たまにやる前から質問責めにする人、いらっしゃるんですよ。そういうとき、ひとつひとつド新人の質問に答えていると流れが止まっちゃうので、ぼくはたいてい「とりあえずやってみようか」と受け流すことにしている。というのは、ド新人の質問はたいてい「やってみればわかる」から。体験させればわかることは口でいちいち説明したりしないし、手を動かした方が本人も覚える。でもある程度まで覚えたところで出てくる質問は内容が研ぎ澄まされて本質的な疑問になっていることが多いから、そこにはていねいに答えてあげないといけないよね、というのが『宇宙の戦士』での話。

でもだからと言って「ド新人の質問はまったく受け付けない」のが正解かというと、そうではない。特に質問を冷たくブロックするなんて論外。最初に言ったけど、教わる側は教える人に「安心できる人物」を求めているのであって、質問を冷たく遮ってほしいなんて全然思っていない。質問を受け流すにしても、「付き合ってあげる」のは大事。やらせてみて、それをきちんと隣で見ててあげるのは、本人の精神衛生上にも必要なこと。ぼくらだって、親が隣で見ててくれたから何か新しいことをやるうえで勇気が出たというか、不安が薄れたというか。そういう気持ちを覚えているか否かで「教えるスキル」の差はでてくる。

というわけでグダグダ書いてしまい、書いてる人の教えるスキルが透けて見えるのだが、とにかく、

自分が子供のころ、どんなふうにできなかったか

を思い出す、ってのが、「教える」上で重要なファクターなんですよ。「大人」ってのは、「子供」とまったく別の存在ではありません。身体が大きく知恵をつけただけなのであって、本質的な部分は子供のままなんです。「他人は鏡」とはよく言いますが、他人を理解するにはまず自分から。自分がどうだったのか、よく思い出してみましょう。話はそれからです。

メールのマナーは大事だが、それより大事なこと

チームの仲間にお客様よりTEL。「ロゴを修正するよう指示出したのに直ってないじゃないですか!!!」とおかんむりの模様。しかし、修正指示のメールはチームの誰ももらっていない…。

困るのはこういうときである。指示の連絡がない以上直しようがない。たしかにお客様とはサーバ上でデータのやりとりをしていて、サーバには修正指示のデータがアップされている。しかし「サーバにアップしました」の連絡がない以上そこに見に行く道理はない。それを気付け、というのは無理なのだ(仕事の運用上「1日1回はサーバを確認する」とかのフローになっていれば別だが、そうはなっていない)。そしてそれ以上に問題なのが「お客様がすでにご立腹」この一点である。

チーム内担当者が事情説明のメールを出そうとするが、思うところがあり「事前に一回添削させて」とお願いした。彼が送ろうとしたメールがこれだ。


「お世話になっております。●●です。

修正が漏れていた事大変申し訳ございませんでした。

しかしながら、修正指示のご連絡がきているものだと思ってメールを確認させていただいているのですが、見当たらないようです。
修正指示のご連絡、サーバアップのご連絡はいただいていたのでしょうか?

もしいただけてないようでしたら、今後は、こういったすれ違いをなくすためにご連絡いただけると、より早く、より良いものが作れると思っておりますので、今後とも、何卒、よろしくお願いいたします。」


うーん…これじゃケンカになるな…

別に彼もケンカをふっかけるような輩ではない。どちらかと言えば彼自身は穏便にコトを済ませたかったようだが、別の人間に「ここで非を認めると後々(特に交渉時に)不利になる。相手が悪いということを指摘しておくべき」と言われ、悩み抜いたあげくこのようなかたちになったらしい。しかし、ね…。

ぼくは例文を作成して彼に見せた。それが以下。


お世話になっております。●●です。

表題の件、大変失礼いたしました。
ただ、申し訳ないのですが、該当のご連絡メールが見当たらず、、、

サーバ上には修正指示アップされておりました。ロゴ変えるという指示ですね。
至急修正いたします。

引き続き、よろしくお願いいたします。


はっきり言ってメール文面のマナーとしてはなってない。特に「申し訳ないのですが、該当のご連絡メールが見当たらず、、、」のところ。友達じゃないんだから。
しかし、ここをはっきり明瞭に「ご連絡メールをいただいておりません。」と言い切ってしまうと、表現として強すぎるのである。はっきり言うが、ご連絡メールは100%来ていない。しかしそれでもなお「もしかしたらこちらの見落としがあるかもしれないので」というニュアンスを残すためあえてぼやかしておく。そうでないと、「相手に100%非がある」と突きつけることになってしまい、それは感情論をしか呼ばない。それでは泥沼だ。そうじゃなくて、あえてこちらにも見落としがあるかもしれないと伝えることで、「もしかしてこっちが悪いのかも」と考える余裕を与えるのが主意なのだ。柔道の寝技でも熟練者は「あえて1方向逃げやすいかたちで抑え込む」。がっちり力ずくで抑え込むのではなくて、あえて力の逃げる方向を作り、そこへ導いて追いかけて抑え込む、動きながら抑え込む、というのが上級テクニックだったり。

話がそれた。

もうひとつ、地味だけど大事なこと。それは「サーバ上には修正指示アップされておりました。ロゴ変えるという指示ですね。」のところ。たしかにサーバに修正指示はあったが、全然見当違いのものを見ている可能性もある。「全然違う修正指示を見ていた」なんてことがあったらそれこそ目もあてられない。それを防ぐためにあえて、念のための確認として指示内容を復唱するなんていう小学生みたいなことをしているわけだ。もし僕たちが全然見当違いのところを見ていたとしたら、お客様からツッコミをいただけるわけだし、こういう「念のための確認」も時には必要。


ということで、彼は僕のメールをほぼそのまま送った。お客様から再度電話がきて、「こちらにも不手際があったみたいですみません」と言ってもらえたそうな。



「伝えたいことを伝えるテクニック」みたいなビジネス本は多数でている。だが、「伝えたいことを伝える」のが大事なことなんだろうか。ぼくはどちらかというと「伝わってないと相手が困るであろうこと」を伝える、ように気をつけているが。

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