本自体は未読なので申し訳ないのだが(と前置きした上で)、最近考えていたこと。



「楽な位置からツッコミをするのは「もう退屈」」、と。「楽な位置」ってのはつまり、自分は傷つかない場所、批評されない場所のことだ。そこから他人を攻撃、と言ったら言い過ぎかもしれないけれど、鋭く指摘をする。でも、それもう飽きたよ、って話。

※本筋とは違うが、このインタビューのなかで「勃起感」に言及してることは注目に値する。ここで言う「勃起感」とは、『ゴールデンカムイ』の「勃起」と同じ意味だろう。

関連して記事をもうひとつ。



上記本の書評なのだが、すごく気持ちが入った文章で、かと言って世の「ツッコミ過多」な状況に怒るというのでもなく、ただただ自分のなかで「気付き」がうまれて、それをゆっくり咀嚼しようとしてるんだな、と感じられて、氏の人柄が偲ばれるとともにとても共感できた。

※こちらも本筋とは違うのだが、「くりかえし裏返された裏声で地声をつくるくるくる狂う」は名句だな、と思う。

※タチ/ネコの話に関連して、「プレイのハードルを上げるのはM」という話をみうらじゅんがしていたことを思い出す。SMのSはサービスのS。


以上を踏まえて。

・クールなツッコミ VS 傷だらけの人生

ツッコむこと自体が問題なわけじゃない。どっちかと言うと問題なのは「安全な場所から攻撃してる」という卑怯な感じというか、小賢しさというか。誰かがバカなことやって、自分はそれを俯瞰してツッコんでいれば、自分は汚れないし、傷つかない。でもそればっかりやっていたら、「泥にまみれるカッコよさ」とか「汗と涙と鼻水たらしてがんばってるカッコよさ」には絶対到達できない。

・東浩紀のポジション

かつて東浩紀が「自分は状況から少し距離を取って俯瞰していたい。その場所からずっと批評していたい」という趣旨のことを言ってて、ああ、まさに上の「ツッコミ」と同じポジションだな、と。世代的なものなのか(ぼくより年上だけど)、さかのぼれば親世代の教育のせいなのかわからないけど、東の姿勢に大塚英志がとにかく激怒していたことを思い出す(『リアルのゆくえ』)。まあこれはすごく極端な発言だけど、でも現代の人々の生きる態度を代弁してるように思う。
それに対して大塚は、(しどろもどろになってはいたがぼくなりに要約すると)お前の考えはないの?もっとお前の生きざまを見せてみろよ、ってことだと思う。それが『リアルのゆくえ』でのバトルの根っこ。
この2つを結びつけて。他人にツッコむのもいいが、他人からツッコまれる人生だってあるだろうよ、それが人間だろうよ、と。「ツッコまれる」ってことは、少なくとも「行動してる」ってこと。間違ったり失敗したりすることもあるかもしれないけど、かっこ悪くてもダメでもいいから自分がのたうちまわっているところを示すのが「生きる」ってことだし、そういうのを見せることが次の世代につながっていくんじゃないの?

・川淵三郎は最高のボケ

そういう意味では、Jリーグ元チェアマンの川淵三郎はワールドクラスの「ボケ」だ。だって「Jリーグ100年構想」だよ?Jリーグを100年持続させ地域に根付かせて、プロサッカー選手の地位向上というレベルの話だけでなく、地域のサポーターたちみんなが、休日はスポーツクラブで汗を流し、地元のクラブを応援する。そういうスポーツ文化を日本に構築するんだ、なんて、ふつうに学校行ってふつうに就職してる人には絶対思いつかない。はっきり言って夢物語。でもこの「大ボケ」が、例えば鹿島市全体をやる気にさせ、最初期は「お荷物候補」なんて呼ばれてたのに今ではアントラーズは強豪クラブに、サポーターの支援の仕方でも地域密着の仕方でもJ屈指の名クラブとなりリーグの成功例となっている。人材面でもそう。岡ちゃんは川淵三郎の「大ボケ」で「やったろうやないか」と発起した人のひとり。岡ちゃんだけでなく、J創設期の人たちは川淵三郎から勇気をもらっていたわけだ。こうして、川淵三郎のボケは人を大きく巻き込んでいく。
孫正義とか松下幸之助だって似たような側面はあるよね。こういう人たちは結局、誰かに夢を与えたり元気にしたりする「活力」を産み出してるわけだけど、こういう活力は「批評する」側からは出ない。

・ボケが世界を変える

まあもちろん川淵三郎が全員をハッピーにしたわけではないと思う。振り回されちゃった人もいると思う。それは孫正義や松下幸之助も同様。だけど、「誰かが賭けてみたくなる、行動したくなる」って状態は、やっぱり「ボケる」側じゃないと産み出せないんじゃないかな、と。ツッコミはせいぜい1人の人しか変えられない。だけどボケは100人、1000人の人に伝わっていく。じゃあやっぱ、人を幸せにできるのって「ボケ」なんじゃないの?