おもしろい箇所があったので引用する。斉藤孝と富野由悠季の対談。

「襖や障子がなぜ成立しうるのかってことですよね。襖なんか簡単に開くし、障子の向こうの話し声なんか全部聞こえちゃう。つまり襖や障子が持っている機能というのは、人に規範を植えつけることなんですよ。その記号として襖や障子があるにすぎない。あんなものじゃ防音効果なんてないんだけど、障子の向こうの話し声は聞かないという規範を人の中に植えつけていたんです。それが日本独自の道徳や型、躾を生み出していったんだと思うんです。」

「例えば、昔は嫁入り道具のタンスに短冊にした和紙を結びつけました。カタカタと音がしないように。そのカタカタというのはつまり、セックスのときに鳴る音です。その音を聞かせないために和紙を結びつけた。そうすることによって、日本人はそこに結界を設定することができるんですね。聞かないふり、見ないふりをすることができる。それが様式として定着していくと、今度は美学が生まれます。新しいタンスの把手に美しくその紙を結びつけるようになる。そういうきれいなタンスを見るとああ新婚さんなんだ、おめでとうございます……ということになっていくんですよ。」

和紙を結びつけたぐらいでカタカタ音がなくなるかというと、なくなるわけはない。聞こえてくるにきまってる。でも、鳴ってないことにする。聞かないことにする。それが「学び」だよね、まず。
そして、それを「様式」として定着させていくことで、和紙の結びつけられたタンスを見たときに、

あそこでセックスが行われるんだ

というゲスな勘繰りではなくて、

新婚さんなんだ、おめでとうございます

というとらえ方ができるようになる。

ぶっちゃけトークがもてはやされる昨今、「王様ははだかだ」と指摘するのがかっこいいとされるような風潮もある。でも、和紙なんかくっつけたって意味ないじゃん!って正論は、どぎつすぎる。平穏に日々をすごしたい人にとっては。穏やかに生きていきたい人が、昔の、人と人とが狭い家に折り重なるように住むなかでなるたけ少しの我慢で済むように考えた人たちが、「見ない、触れない、指摘しない」という知恵を産んだ。それはとても尊いことのように思う。
もちろん、すべてに対して「見ない、触れない、指摘しない」というのは極端すぎるだろう。ブラック企業の例もあるとおり、企業の暴挙に振り回されているけど声を挙げられない、という人はいっぱいいると思う。暴挙に対しては声を挙げるべき。でも、生活のなかの小さな凹凸に、どうしたって凹凸はあるんだからさ、神経質にツッコミ入れるんじゃなくて、見えてるけど見ないよ、聞こえてるけど聞こえないよ、って態度で臨めるといいかなって思うけど。