まじめになっちゃだめだ

そのほうがうまくいくんだ

日記

どうして人を殺してはいけないのか、と子供に聞かれたらどうしよう

「どうして人を殺してはいけないのか」

自分の子供にこう聞かれたらどうしようかな、と最近考えていて。自分に子供はいない。けど、もしいたとして。どう応じるか、それを思案していた。


まず、論理的に答えてみよう。

「どうして人を殺してはいけないのか」


「法律で決まっているから」

まず思いつく応えがこれである。ふつうに人間は人を殺すし、その点は動物と同じ。内発的に殺人を禁止するものがある、なんてことはないし、どこか遠くに「神の善の意志」とか「絶対的な倫理」とかがあってそれが殺人を禁止する、なんてこともない。だって殺人事件、そこらじゅうで起きてるじゃん。それに、戦争状態とかになっちゃったらぼくらはきっと人を殺すのである。相手は国の違う人かもしれないし、自分と同じ顔の誰かかもしれない(内戦とか)。だから、「人間は人を殺さない(ようにアプリオリにできている)」とか「人間は暴力を生理的に嫌悪するようにできている」なんてことはまったく事実に反するのであって、人間は人を殺すし、ほうっておけば人を殺しちゃうようなやつらだからこそ人を殺しては「いけない」とするルールがあるのである。そのルールが「法律」。

もちろん、この問いで我が子が納得してくれるなんて思っていない。けど、「どうして」「いけないのか」と聞かれる以上、「いけないとされる」「理由」を応えたくなる。でも、おそらく我が子が求めるものとはちょっとズレてるだろう。

なので、もう一歩踏み込む。

「どうして人を殺してはいけないのか」


「法律で決まっているから」


「じゃあなぜ法律は、殺人を禁止するのか。
殺人を規制するような法を、なぜ人は作るようになったのか。」

問いはここへ来てようやく出発点に来るように思う。実は、「どうして人を殺してはいけないのか」は、練りこまれていない未熟な問いだ。というのも、「どうして人を殺してはいけないのか」と聞いて「法律で決まっているから」と応えられたとき「何か違うな」と質問者が違和感を感じるのはわかるのだが、こちらとしても「どうして」と「理由」を聞かれている以上、こう応えるしかないからである。つまり、「問いたいこと」と「質問のことばとして出てきたもの」がすこしズレているのだ。でも、まあ、それはしょうがない。大人だって言いたいことにうまくかたちを与えることができないでいるのだし、子供だったらなおさらだ。

さて、じゃあなぜ法律は、殺人を禁止するのか。

ぼくならこう応える。

「自分が法律を作る側になったとして考えてごらん」

例えば、自分の国を作ったとする。人口100人の国でも、10人でもいい。そして、自分がこの国で一番エライ、とする。で、自国民10人なり100人なりを束ねる法律を作る、としよう。そのとき、殺人は「アリ」だろうか。殺人に対して何の罰則もない、そんな国にできるだろうか。
 
…おそらく無理だろう。殺人OKの国は、おそらく『北斗の拳』のような裸に革ベストの男たちがヒャッハー!する世界を想定するのが一番容易だろうが、もしそうなってしまったら気に入らないことがあったときかんたんに人を殺す社会になり、人口はどんどん減っていって、最終的に国として成立しなくなるだろう。そもそも自分の身の安全さえもあやしい。
人殺しを規制するものがないと、人は容易に人を殺す。しかしそれでは、「国」というコミュニティが成立することはできないし、いやもっと小さく「村」でも「集落」でもいいんだけど、人が複数一緒に暮らしていくことはできないのだ、おそらく。だからおそらく、古代に生きる人々は、人を殺すことを抑制するルールを作り、自らにそれを課した、のだ。自発的、自主的に。それは、人と人とが一緒に生きていくための「知恵」である。

なので、ちょっと考えてみてほしい。自分が国をデザインする。その国には人が何人かいる。その人たちをうまいこと生活させていくために、殺人は「アリ」だろうか、「ナシ」だろうか。殺人だけじゃない。そもそも暴力は「アリ」だろうか。

おそらくこれで我が子にもわかってもらえるだろうと思っている。仮にこれでもわかってくれないのだとしたら…、まずは「想像力」を醸成する方法を考えないと。

純喫茶ワンモア

ウチのねこがパソコンに飛び乗り「90おおおっっっっt」とかキーボード押してくれたんだけど、その後突然スリープ画面になる。どこ踏んだんだ。

・つぶしてもいいジーンズ
もうすぐ梅雨か…。いつも履いてる耳つきのデニムは扱いがめんどう、というか一手間かかるので、手間のかからない、手間を惜しんでも問題ない=テキトーに洗濯してテキトーに干しても痛痒を感じないようなレギュラー品のデニムを買うことに。

選んだのはビッグジョンのM1スタンダードテーパード。耳つきでないデニムを履くのは久しぶり。ワンウォッシュからスタートするのも久しぶりだ(いつもは糊つきからスタートする)。筆者はビッグジョンの「我が道を行く」ポリシーが大好きで、ビッグジョンって要するに「501を目指してない」のよね。デニムメーカーがどこもかしこもリーバイス501を真似ることに注力するなか、ビッグジョンは独自路線。そこがイイ。コンビニで言うとミニストップのようだ。わたくし通常は昔ながらの太いシルエットのデニムを履くんだけど、コイツはけっこう細身のテーパード。以前M1002レプリカを履いてたとき、少しテーパードしてるのがすごく履きやすくて。

しかしデニムメーカーって大変だろうな。デニムなんてそうそう買い替えるものでもないから、1本買ったら1〜2年持っちゃう。メーカー側からしてみたらその間はデニムを買ってもらえないわけだからね。丈夫にモノを作れば作るほど購入機会が減る…。どうなんだろね。


・純喫茶ワンモア
16:00までしかやってない喫茶店、平井駅近くの「ワンモア」へ行く。
ワンモア20170607_1

ワンモア20170607_2

蒸しタオルが熱々!注意。
で、フレンチトースト。
ワンモア20170607_3

レモンが載ってて、後がけのメープルシロップと調和してうまい。平日昼間なのに自分のような非サラリーマンで店内いっぱい。自分は落ち着く。

あと、葛飾区近隣の写真。
向島20170515_1

どこで撮ったか失念。実際に使われたライフルの的のようだ。よく見ると銃創が。

向島20170515_2

とある神社の狛犬。デザインが日本ばなれしててよい。

見てません

おもしろい箇所があったので引用する。斉藤孝と富野由悠季の対談。

「襖や障子がなぜ成立しうるのかってことですよね。襖なんか簡単に開くし、障子の向こうの話し声なんか全部聞こえちゃう。つまり襖や障子が持っている機能というのは、人に規範を植えつけることなんですよ。その記号として襖や障子があるにすぎない。あんなものじゃ防音効果なんてないんだけど、障子の向こうの話し声は聞かないという規範を人の中に植えつけていたんです。それが日本独自の道徳や型、躾を生み出していったんだと思うんです。」

「例えば、昔は嫁入り道具のタンスに短冊にした和紙を結びつけました。カタカタと音がしないように。そのカタカタというのはつまり、セックスのときに鳴る音です。その音を聞かせないために和紙を結びつけた。そうすることによって、日本人はそこに結界を設定することができるんですね。聞かないふり、見ないふりをすることができる。それが様式として定着していくと、今度は美学が生まれます。新しいタンスの把手に美しくその紙を結びつけるようになる。そういうきれいなタンスを見るとああ新婚さんなんだ、おめでとうございます……ということになっていくんですよ。」

和紙を結びつけたぐらいでカタカタ音がなくなるかというと、なくなるわけはない。聞こえてくるにきまってる。でも、鳴ってないことにする。聞かないことにする。それが「学び」だよね、まず。
そして、それを「様式」として定着させていくことで、和紙の結びつけられたタンスを見たときに、

あそこでセックスが行われるんだ

というゲスな勘繰りではなくて、

新婚さんなんだ、おめでとうございます

というとらえ方ができるようになる。

ぶっちゃけトークがもてはやされる昨今、「王様ははだかだ」と指摘するのがかっこいいとされるような風潮もある。でも、和紙なんかくっつけたって意味ないじゃん!って正論は、どぎつすぎる。平穏に日々をすごしたい人にとっては。穏やかに生きていきたい人が、昔の、人と人とが狭い家に折り重なるように住むなかでなるたけ少しの我慢で済むように考えた人たちが、「見ない、触れない、指摘しない」という知恵を産んだ。それはとても尊いことのように思う。
もちろん、すべてに対して「見ない、触れない、指摘しない」というのは極端すぎるだろう。ブラック企業の例もあるとおり、企業の暴挙に振り回されているけど声を挙げられない、という人はいっぱいいると思う。暴挙に対しては声を挙げるべき。でも、生活のなかの小さな凹凸に、どうしたって凹凸はあるんだからさ、神経質にツッコミ入れるんじゃなくて、見えてるけど見ないよ、聞こえてるけど聞こえないよ、って態度で臨めるといいかなって思うけど。

うちのシドーにHP隠されました

糸井重里が何度か、われわれは1日のうちの半分以上は「生活人」なんですよ、というようなことを言っていて。
仕事したり勉強したり、場合によっては恋愛なんかもそうかもしれないけど、夢中になってるとそれが人生のすべてであるかのようについ思っちゃう。だから「仕事人間」なんてことばも生まれちゃう。でもどんなに何かに入れ込んだってやっぱりごはん食べるし、作るし、片付けるし、それにお風呂も入るし、寝るし。地味で代わり映えのないことかもしれないにしてもやっぱり「生活」ってのが生きるベースキャンプで、そういう「生活」を、質の高いものにしていく、と言っちゃうとすぐ「お金かける」方に話がいきがちなんだけどそうじゃなくて、お金かけなくてもいいから工夫して楽しいものにしていく、ってことが、生きるうえで、身体的にも精神的にも安定していくことにつながるんじゃないかな、と。ここまで枕。

さて、ウチの生活。

ねこ433

しっぽでHP見えなくされたので、ピンチかどうかがわかりません。このあとサマル死にました。南無三。

・google analytics
先日グーグルアナリティクス使う機会があって、せっかくなんでExcel四十八手のアクセス数を知れるようにしたのよ。
使えるようにしてすぐは「1日」とか「1週間」の集計は出せないんだけど、リアルタイムで見てる人の数も出てて。その数4人。
…超うれしい。
4人のうち1人は自分なんだけどさ、でも世界で3人もExcel四十八手見てくれてる人がいるってことに感動。そして、こういう気持ちを忘れないようにすることが大事。

・twitter
勢いあまってtwitterはじめたんですよ。リンクの貼り方がよくわからんので興味があったら「森田表計算」@moritahyoukeisaで検索してみても。
『データを集める技術』って本読んでたらtwitterとのデータ連携の仕方がでていて、それでアカウント作る必要があり、それで。こういう経緯なのでおそらく気が向いたときしかtwitter発信しないでしょう。(このブログも放置気味なことからおわかりでしょうが、)

・ハイ、ねこ
ねこ435

もっとかまえ!あたしをもっとかまえ!仕事行ってる場合じゃないニャ!

…うん、しょうがないよ、キミのちゅーる代も稼がないといけないし。

ねこ434

写真撮るならかわいく撮ってニャ。

ねこ436

うん、ぼやけてる。

世の中ツッコミが多すぎる

本自体は未読なので申し訳ないのだが(と前置きした上で)、最近考えていたこと。



「楽な位置からツッコミをするのは「もう退屈」」、と。「楽な位置」ってのはつまり、自分は傷つかない場所、批評されない場所のことだ。そこから他人を攻撃、と言ったら言い過ぎかもしれないけれど、鋭く指摘をする。でも、それもう飽きたよ、って話。

※本筋とは違うが、このインタビューのなかで「勃起感」に言及してることは注目に値する。ここで言う「勃起感」とは、『ゴールデンカムイ』の「勃起」と同じ意味だろう。

関連して記事をもうひとつ。



上記本の書評なのだが、すごく気持ちが入った文章で、かと言って世の「ツッコミ過多」な状況に怒るというのでもなく、ただただ自分のなかで「気付き」がうまれて、それをゆっくり咀嚼しようとしてるんだな、と感じられて、氏の人柄が偲ばれるとともにとても共感できた。

※こちらも本筋とは違うのだが、「くりかえし裏返された裏声で地声をつくるくるくる狂う」は名句だな、と思う。

※タチ/ネコの話に関連して、「プレイのハードルを上げるのはM」という話をみうらじゅんがしていたことを思い出す。SMのSはサービスのS。


以上を踏まえて。

・クールなツッコミ VS 傷だらけの人生

ツッコむこと自体が問題なわけじゃない。どっちかと言うと問題なのは「安全な場所から攻撃してる」という卑怯な感じというか、小賢しさというか。誰かがバカなことやって、自分はそれを俯瞰してツッコんでいれば、自分は汚れないし、傷つかない。でもそればっかりやっていたら、「泥にまみれるカッコよさ」とか「汗と涙と鼻水たらしてがんばってるカッコよさ」には絶対到達できない。

・東浩紀のポジション

かつて東浩紀が「自分は状況から少し距離を取って俯瞰していたい。その場所からずっと批評していたい」という趣旨のことを言ってて、ああ、まさに上の「ツッコミ」と同じポジションだな、と。世代的なものなのか(ぼくより年上だけど)、さかのぼれば親世代の教育のせいなのかわからないけど、東の姿勢に大塚英志がとにかく激怒していたことを思い出す(『リアルのゆくえ』)。まあこれはすごく極端な発言だけど、でも現代の人々の生きる態度を代弁してるように思う。
それに対して大塚は、(しどろもどろになってはいたがぼくなりに要約すると)お前の考えはないの?もっとお前の生きざまを見せてみろよ、ってことだと思う。それが『リアルのゆくえ』でのバトルの根っこ。
この2つを結びつけて。他人にツッコむのもいいが、他人からツッコまれる人生だってあるだろうよ、それが人間だろうよ、と。「ツッコまれる」ってことは、少なくとも「行動してる」ってこと。間違ったり失敗したりすることもあるかもしれないけど、かっこ悪くてもダメでもいいから自分がのたうちまわっているところを示すのが「生きる」ってことだし、そういうのを見せることが次の世代につながっていくんじゃないの?

・川淵三郎は最高のボケ

そういう意味では、Jリーグ元チェアマンの川淵三郎はワールドクラスの「ボケ」だ。だって「Jリーグ100年構想」だよ?Jリーグを100年持続させ地域に根付かせて、プロサッカー選手の地位向上というレベルの話だけでなく、地域のサポーターたちみんなが、休日はスポーツクラブで汗を流し、地元のクラブを応援する。そういうスポーツ文化を日本に構築するんだ、なんて、ふつうに学校行ってふつうに就職してる人には絶対思いつかない。はっきり言って夢物語。でもこの「大ボケ」が、例えば鹿島市全体をやる気にさせ、最初期は「お荷物候補」なんて呼ばれてたのに今ではアントラーズは強豪クラブに、サポーターの支援の仕方でも地域密着の仕方でもJ屈指の名クラブとなりリーグの成功例となっている。人材面でもそう。岡ちゃんは川淵三郎の「大ボケ」で「やったろうやないか」と発起した人のひとり。岡ちゃんだけでなく、J創設期の人たちは川淵三郎から勇気をもらっていたわけだ。こうして、川淵三郎のボケは人を大きく巻き込んでいく。
孫正義とか松下幸之助だって似たような側面はあるよね。こういう人たちは結局、誰かに夢を与えたり元気にしたりする「活力」を産み出してるわけだけど、こういう活力は「批評する」側からは出ない。

・ボケが世界を変える

まあもちろん川淵三郎が全員をハッピーにしたわけではないと思う。振り回されちゃった人もいると思う。それは孫正義や松下幸之助も同様。だけど、「誰かが賭けてみたくなる、行動したくなる」って状態は、やっぱり「ボケる」側じゃないと産み出せないんじゃないかな、と。ツッコミはせいぜい1人の人しか変えられない。だけどボケは100人、1000人の人に伝わっていく。じゃあやっぱ、人を幸せにできるのって「ボケ」なんじゃないの?
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