まじめになっちゃだめだ

そのほうがうまくいくんだ

日記

えー、年も変わりましてですねえ

年も明け。
千葉に遠征しました。目指すは鋸山です。
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拠点とするのは浜金谷駅。朝7時出発で、電車を乗り継ぎここに到着したのが10時。ここから鋸山頂上を目指します。
町の風景。
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海沿いなので南国風の木が多い、気がする。冬枯れしてるけど。
この石垣、鋸山で切り出した石を使ってるんだって。鋸山は石の産地だったらしく、昔は人力で、チェーンソーとかもないからつるはしでガシガシ削って切り出していたらしいよ。セブンイレブンのとなりのカフェのおばちゃんが教えてくれた。
そうそう、セブンイレブンの隣にKANAYA STATIONってカフェがあって、そこのおばちゃんがとても親切で。前を通りがかっただけの私を中に案内してくれていろいろ歴史とか(手短に)教えてくれた。ぜひ帰りに立ち寄ろうと思っていたのだが、、、帰りはちょっとしたルート手違いで立ち寄れず。お風呂もやってるし次はぜひ寄りたい。

さて、駅周辺にさっそく廃墟のすがたが。
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なぞの実も。
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そんなこんなでうろうろしてたら山道入り口に着いた。
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せっかくだから、オレは左の道を選ぶことに。
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左の道は車力道と言って、昔は切り出した石を女性の労働者が手押し車で運ぶための道だったんだって。240kgとか運ぶらしいよ。ハンパねえな昔の人。

ここからは登り道。いくつか廃屋もあった。
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ぺしゃんこ。
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穴だらけ。

のぼって行くと、だんだん石壁がせまってくる。
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こんなところ手押し車で下るのかよ。。

「お墓がある!」と思ってちょっとビビったら、
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切り出した石を放置した跡だった。サイズ感が墓石に似ててビビる。

で、ついに石壁である。
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昔のブルドーザーもあった。
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なぞのオブジェ。
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さて、鋸山山頂は2時間ほどで着きました。
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329.5m。ですが、けっこうアップダウンは激しい。階段状になっているところがほとんどなんだけど、その1段1段がキツいので、足腰膝に負担がきます。正直まじハード。

とちゅう海も見えました。
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向こうに見えるのは富士山!来るとちゅう内房線からも見えたんだけど、そりゃあんだけデカけりゃ信仰の対象になるわな、と納得。
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当日は好天に恵まれて最高の眺め。

あと、変な木もあったり。
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ご年配者にとってのカタカナ表記のむずかしさを再認識させられたり。

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ロープエイ。ロープウェイ乗り場もあるらしいんですよ、今回は使わなかったけど。

で、山頂に寄ったあと一旦とちゅうまでルートを戻り、日本寺の方に寄りました。

崖から下を見下ろせる地獄のぞきは、
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超並んでいたのでスルー。日本寺の方は、ロープウェイや自動車で参拝する人がたくさんいるらしく、人・人・人でごった返す。山の服装してる私みたいな人は少数派。

石壁の仏様も。
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すごく良かったコレ!素直にありがたみを感じたわ!平面仏に小生いたく感動。

そして大仏。
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鎌倉の大仏や奈良の大仏よりも大きいサイズ、みたいです。すばらしいね。

ここでおみくじひいて大吉でした。ついでに厄よけのお札も奉納する前厄の私。

で、下山したら、、出発地の浜金谷の方じゃなく、保田駅の近くに来ちゃったので、、
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保田駅近くの道の駅で温泉はいろうと思い立ち寄る。KANAYA STATIONのおばちゃん、寄れなくてゴメンね。
この道の駅は元小学校なんだって。改装してお風呂・ごはん・宿泊可能な施設に生まれ変わったらしいよ。
しかし、、、本日混み混みでお風呂は15:00まで。。。。ちょっとお風呂の時間に間に合わず。
ということでお風呂入れないまま再び電車で3時間、帰路についたとさ。やはり正月3が日は、綿密に計画たてて行かないとね。


実績

気づいたらもう年末である。はたして今年何をしただろうか、、、今年の実績を列挙すると、

・プラモ作った
・メロウリンク見た
・星をみるひとクリアした

以上。…我ながら華麗な実績である。

そう、ひさびさにプラモ作ってみたら、ものすごく集中力がなくなってる&パーツ分けが複雑で頭がこんがらがるという、老いを直視せざるを得ない事態になって。色塗らない・素組みするだけのお手軽プラモ道なのに、つらい。とにかくつらい。そしてウチの娘が(よけいな)お手伝いをしに来る。

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ちょっと目を離すとさっき作った右足くわえて持ってっちゃったりする。我が家は環境がよくない。

ところで、上のコイツ顔が黒くなったなー、と。ひろって1年経過したんだが、ひろった当初はコレ↓。

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(2月くらい)

こちらも2月。
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んで、今はコレ↓。
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(一緒にメロウリンク見るの図)

黒い。黒すぎる。なぜこうなった。

『星みる』もね、クリアできたんですよ。小学生の頃やった時には「3人目の仲間が見つからない、敵にダメージが与えられない」と投げたんですが、、心のもやがまたひとつ晴れました。

あ、また娘が冷蔵庫の下におもちゃを入れちゃって途方に暮れている。。。

「ムダ!」と切り捨てる思考が、結局自分を追いつめてる

一見無駄だと思ってたことも、結局無駄じゃなかった。

この手のこと言う人、けっこういます。例えばイチローとか。
イチローは「無駄なことって、結局無駄じゃない」と言い切ります。例えば、身体を太くする筋トレ。現在のイチローは野球選手として相当の細身ですが、若い頃に一度ウェイトトレーニングで身体を太く大きくしようとした。しかし、バットが回らない。太く大きくした筋肉が邪魔をして身体が回転しない。結局イチローが自分のスイングを取り戻したのは夏場になって身体が細くなってきてからだった。イチローは当時の自分を「バカ」と認めつつ、誰もがマグワイアみたいに筋肉をつけることが正解ではない、骨や腱は大きくならないのだから過度に筋肉つけてもバランス崩すだけ、自分には自分に合った身体のバランスがある、という結論に達します。でね、ここから重要なんだけど、でもイチローは、そういう失敗を振り返っても、「無駄なことって、結局無駄じゃない」って言い切れるんです。

無駄なことは無駄じゃない。これはだいたい2つの意味で使われます。

ひとつは、一見すると無駄だと思っていた経験が、実は後になって意外なところで生きてきた、という場合。

もうひとつは、やってみて「ダメだ」ということがはっきりわかってよかった、という場合。イチローの場合はこれですね。筋トレは自分には向いてない、それがはっきりしてよかったじゃん、という具合に。

でも、イチロー自身が認めるように、無駄行動は一面ではやはり「ダメ」なのです。それを無理矢理「無駄じゃない」って思い込もうとしている、イチローの考えはそんな態度に基づいているように思えます。ではなぜ、イチローはそういう「ダメなこと→無駄じゃない」への価値の転換をするのでしょう。

それはおそらく、「自分を嫌いにならないため」です。

「無駄なことに貴重な時間を費やしてしまった!」→「もう取り返せない」→「なんて自分はダメなんだ…」…こういう自己否定の時間は、実際には何にもなりません。自分のセンチなナルシシズムを満たしてくれるだけです。無駄なことに時間を費やした自分を否定しないで、足踏みしてないで、さっさと次へ進む。それはある意味、自分を守る知恵とも言えます。自己否定で鬱々としないための、自分大好きでいるための、知恵。

イチローはまた、

やってみて「ダメだ」とわかったことと、はじめから「ダメだ」と言われたことは、違う

遠回りだって大事

とも語っていますが、これも根は同じでしょう。


しかし他方で、「イチローは結果を出してるからそんなふうにポジティブに考えられるんだ」と、うがった見方をすることもできます。

ザックジャパンがW杯で惨敗したとき、本田が「負けて一番つらいのは、今までやってきたことを否定せざるを得ないこと」とコメントしていました。本田は結果が出なかった。だからザックジャパンの4年間を否定せざるを得ない。それがつらい。
それもこれも、負けたからです。結果が出ないから、自己否定せざるを得ない。

イチローは結果を出してる男です。それもワールドクラスで。だからポジティブに考えることができる、それも一面でしょう。でも反面、ポジティブに考えることができるから、結果を出せてる。ぼくはそう考えます。


やってもみないうちから「それ無駄だよ!」と言ってくれる人がいます。
若いのに「無駄なことはしたくない」って考えてる人も多い。最短距離で結果を出したい、無駄な脇道に入りたくない、って考えてる人。すぐに「無駄!」と断じる人は、その攻撃の矛先を自分にも向けるでしょう。その結果自分もどんどん追い込まれてしまう。イチローののびやかなプレーは、彼ののびやかな考え方にルーツがある。それはわたしの考え過ぎでしょうか。

トリケロスって何かの役に立ってるのでしょうか。

ねこ443

娘2人でハート型。

さて。
近所を散歩してて以前から不思議に思っていたこと。
 
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これの裏はお墓なのだが、なぜお墓を囲う塀に恐竜が描かれているのだろう。。。

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躍動感をもって描かれる弱肉強食の世界。後ろは寺。なぜ。

この辺りは夜散歩することが多いのだけど、夜なので寺の入り口側に回っても門が閉まってて中を窺い知ることができなかったのだが、とある昼間に表側に回ってみた。

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門のところの味のある猫の絵と宝船。

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ネズミもいる。猫と遊んでいるような、襲われているような。

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證源寺というらしい。
しかし奥に映っているあのたてがみは、、、

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お寺。

…うん、両サイドの守護聖獣?にあたるものがなんか変だ。

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レフトはライオン。中華風の「獅子」ではない。「ライオン」である。

そして右側は
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…趣味だろうコレ。
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造形がすばらしい。特に目。

別棟の外観にくじらが描かれており。
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なんか噂では、プラネタリウムやってるらしいよ。寺なのに。
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・おまけ ノラ
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顔のとこ、スミベタで消したみたいになってる。

どうして人を殺してはいけないのか、と子供に聞かれたらどうしよう

「どうして人を殺してはいけないのか」

自分の子供にこう聞かれたらどうしようかな、と最近考えていて。自分に子供はいない。けど、もしいたとして。どう応じるか、それを思案していた。


まず、論理的に答えてみよう。

「どうして人を殺してはいけないのか」


「法律で決まっているから」

まず思いつく応えがこれである。ふつうに人間は人を殺すし、その点は動物と同じ。内発的に殺人を禁止するものがある、なんてことはないし、どこか遠くに「神の善の意志」とか「絶対的な倫理」とかがあってそれが殺人を禁止する、なんてこともない。だって殺人事件、そこらじゅうで起きてるじゃん。それに、戦争状態とかになっちゃったらぼくらはきっと人を殺すのである。相手は国の違う人かもしれないし、自分と同じ顔の誰かかもしれない(内戦とか)。だから、「人間は人を殺さない(ようにアプリオリにできている)」とか「人間は暴力を生理的に嫌悪するようにできている」なんてことはまったく事実に反するのであって、人間は人を殺すし、ほうっておけば人を殺しちゃうようなやつらだからこそ人を殺しては「いけない」とするルールがあるのである。そのルールが「法律」。

もちろん、この問いで我が子が納得してくれるなんて思っていない。けど、「どうして」「いけないのか」と聞かれる以上、「いけないとされる」「理由」を応えたくなる。でも、おそらく我が子が求めるものとはちょっとズレてるだろう。

なので、もう一歩踏み込む。

「どうして人を殺してはいけないのか」


「法律で決まっているから」


「じゃあなぜ法律は、殺人を禁止するのか。
殺人を規制するような法を、なぜ人は作るようになったのか。」

問いはここへ来てようやく出発点に来るように思う。実は、「どうして人を殺してはいけないのか」は、練りこまれていない未熟な問いだ。というのも、「どうして人を殺してはいけないのか」と聞いて「法律で決まっているから」と応えられたとき「何か違うな」と質問者が違和感を感じるのはわかるのだが、こちらとしても「どうして」と「理由」を聞かれている以上、こう応えるしかないからである。つまり、「問いたいこと」と「質問のことばとして出てきたもの」がすこしズレているのだ。でも、まあ、それはしょうがない。大人だって言いたいことにうまくかたちを与えることができないでいるのだし、子供だったらなおさらだ。

さて、じゃあなぜ法律は、殺人を禁止するのか。

ぼくならこう応える。

「自分が法律を作る側になったとして考えてごらん」

例えば、自分の国を作ったとする。人口100人の国でも、10人でもいい。そして、自分がこの国で一番エライ、とする。で、自国民10人なり100人なりを束ねる法律を作る、としよう。そのとき、殺人は「アリ」だろうか。殺人に対して何の罰則もない、そんな国にできるだろうか。
 
…おそらく無理だろう。殺人OKの国は、おそらく『北斗の拳』のような裸に革ベストの男たちがヒャッハー!する世界を想定するのが一番容易だろうが、もしそうなってしまったら気に入らないことがあったときかんたんに人を殺す社会になり、人口はどんどん減っていって、最終的に国として成立しなくなるだろう。そもそも自分の身の安全さえもあやしい。
人殺しを規制するものがないと、人は容易に人を殺す。しかしそれでは、「国」というコミュニティが成立することはできないし、いやもっと小さく「村」でも「集落」でもいいんだけど、人が複数一緒に暮らしていくことはできないのだ、おそらく。だからおそらく、古代に生きる人々は、人を殺すことを抑制するルールを作り、自らにそれを課した、のだ。自発的、自主的に。それは、人と人とが一緒に生きていくための「知恵」である。

なので、ちょっと考えてみてほしい。自分が国をデザインする。その国には人が何人かいる。その人たちをうまいこと生活させていくために、殺人は「アリ」だろうか、「ナシ」だろうか。殺人だけじゃない。そもそも暴力は「アリ」だろうか。

おそらくこれで我が子にもわかってもらえるだろうと思っている。仮にこれでもわかってくれないのだとしたら…、まずは「想像力」を醸成する方法を考えないと。
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