⇒ジャズ
2016年02月26日
「アタシのノーマル、見て」とおねだり、ヘンタイのアナタ
立て続けに聴いた二枚を同時に扱う。
この二枚は主旨が似ているけれども性格がまるで違う「二卵性双生児」のようなアルバム。
比較する価値がある。
それは、ジャズ以外の領域で知られる実力派の有名女性シンガーがジャズを歌うといった主旨で、女性シンガーの一人がレディー・ガガ。そして、もう一人がUA。
図らずも日米対決だ。
『チーク・トゥ・チーク/トニー・ベネット&レディー・ガガ』(2009)(Cheek to Cheek/Lady Gaga with Tony Bennett)
ガガのジャズシンガーとしてのテクニックには驚いた。脱帽。上手い。
まじで歌が上手い。
先日のスーパーボウルでの国歌斉唱も度肝を抜かれましたっけね。
アルバムは「レディー・ガガがまっとうにジャズを歌ったら上手かった」というストーリーを100%で証明してみせる。
この100%は、まったくその通りで、疑いようがないんです。
そりゃあ、最初は驚いたわ。
「これがレディー・ガガかっ」と。
ガガ様に聴こえないからさ。
それはジャケ写の女性が何度見直してもガガ様に見えないのと同じで。
(その意味で言ったら、まずジャケ写を見て驚いた分だけ、歌唱への驚きは薄らいでますね)
ところが、驚きは初めて聴く際の一曲目の中盤までしか持続しねぇんだ。
一度、その変貌に驚いたら、後は、その「レディー・ガガらしくない歌唱」や「すごく上手な歌唱」がずっと連続するだけのこと。
気づけば「ただの上手い歌唱」を延々聴いている気分。
結果、僕にはすんげえスタンダードな(=ありきたりな)ジャズのボーカルアルバムに聴こえる。
数箇所で「いつものガガ節」みたいのをチラッと聴かせて「種明かし」をしてくれてもよかったのにネ。
デーモン小暮が素顔(世を忍ぶ仮の姿)で群衆に紛れていてピクリともヒントを残さずに後日「実は我輩はあの場所にいてね…」と言われても驚いてあげようがないという感じ。その例、変か…。
スタンダードなジャズをスタンダードに歌うことがガガにとっては「意外とノーマル」というコスプレなのかもしれない。逆に。
でも、ノーマルはノーマル。
「もともとが変な顔の人」の「変顔」は「まるで面白くない普通顔」…みたいな二回転ヒネって普通に着地した感じのツマラナサがある。
…というわけで、ガガのジャズは「変装」っぽいのが特徴なのだけれども、一方のUAのジャズはあまりにも「生身」っぽいという差がありましたね。
特に、ガガの「変装」が結果的に「すごい洗練」に着地している分だけ、UAの「ギザギザした素肌感」が際立った。
『cure jazz/UA×菊地成孔』(2006)僕はUAのジャズの方が圧倒的に好きだ。
UAのジャズボーカルには人生が乗っている感じ。
苦悩も喜びも性も息づかいや鼓動や体温も。
その生々しさがたまらない。
ソウルもブルーズもある。
スピーカーの向こうに人肌と悩みがある。
そして、「人間が声を出すことの限界点」との葛藤がある。
その限界点に果敢に挑む「野心的なアスリート」の壮絶なドキュメンタリーを直視しているような緊張と感動がこのアルバムにはある。
そして、限界点を越えていくUAの勇気と絶技を緊張しながら見守り、偉業達成の瞬間にドドーッととんでもねぇ感動が押し寄せるんです。その瞬間にUAだけに見えた『頂上の光景』を想像して、僕はウットリだ。
(それは4回転を跳んでいる真最中の羽生結弦だけが見る光景に近いのだと思う)
レディー・ガガの歌唱にはその限界点を完全に超えきった完成の姿があり、一方のUAにはたった今限界点と闘っている姿と勝利したり敗北したりという生々しい臨場感があって、僕はUAのボーカルにあるスリルが好きだ。
そのスリルのことを「ジャズ」と呼ぶべきだと僕は思う。
レディー・ガガはここに収録された音源をもう一度同じく歌ってみせられるような気がするのだけれども(それはそれで、とんでもねぇ技術なのだけど…)、UAのジャズは無理だ。二度目は無い。そこがスリリングなのね。
つまりは制作陣がジャズに求めたモノが違うのだと思う。
ガガ陣営は「パーフェクトな品質の娯楽性」を求めて極限までの洗練を作り込んだし、UA陣営はスリルを求めて情念と「たった今の瞬間」を刻み込んだ。
ボーカルだけでなく、サウンドやアレンジのベクトルもまるで違う。
どちらも優秀なアルバムだと認めた上で、今の僕はUAばかり聴いています。
…と、『cure jazz/UA×菊地成孔』(2006)がかなり気に入ったので、重要事項を加えておく。
ガガとUAの日米対決にヒョッコリと顔を出す菊地成孔のボーカル、実は一番美味しかったりして。
すっごくムードがあって。
チェット・ベイカーのマナーで飄々とキメるフワフワしたボーカル(僕はちょっとディック・リーのボーカルも思い出す)は、うまくなくても味がある。少なくとも、色っぽい。
この人、なんだか悔しくなるなぁ。
「俺もそのようにやりたかった〜!」と思わせる。
いや、菊地成孔と同様のアイディアを僕が思いつくはずもなく、そのアイディアを上手に実現する技能も僕には無いのだけれども。
万が一に「僕にもやれたのではないか」と思わせる。
そーいうキワキワのところを見せる天才的な人だと思う。かねがね思っている。
それはきっと、菊地成孔が一切の限界点を可視化させない美学を実践している証拠なのだろう。
T6『Honeys and scorpions』ではハチロクのポリリズムをサラリとキメてみせるのだけれども、これ見よがしではなく、勿体ぶった注釈や宣言もなしに、まるで湯上がりの扇風機みたいにサラリと。
イナセでコイキだ。テヤンデーバーローチキショー!(『おそ松さん』より)
なんだか、悔しい。
僕は菊地成孔に嫉妬しっぱなしだ。
(音楽だけでなく文章も。そして、この世界における存在スタイルも。)
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
CDをラックにこれ以上増やさない!
図書館CDのヘビーリスニングを実践中!!
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
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【コレ、聴いてみ!】
この楽曲、収録アルバムは違うんですけど、僕のいいたいことは伝わると思う。
↓ ↓ ↓ ↓
この二枚は主旨が似ているけれども性格がまるで違う「二卵性双生児」のようなアルバム。
比較する価値がある。
それは、ジャズ以外の領域で知られる実力派の有名女性シンガーがジャズを歌うといった主旨で、女性シンガーの一人がレディー・ガガ。そして、もう一人がUA。
図らずも日米対決だ。
『チーク・トゥ・チーク/トニー・ベネット&レディー・ガガ』(2009)(Cheek to Cheek/Lady Gaga with Tony Bennett)
ガガのジャズシンガーとしてのテクニックには驚いた。脱帽。上手い。
まじで歌が上手い。
先日のスーパーボウルでの国歌斉唱も度肝を抜かれましたっけね。
アルバムは「レディー・ガガがまっとうにジャズを歌ったら上手かった」というストーリーを100%で証明してみせる。
この100%は、まったくその通りで、疑いようがないんです。
そりゃあ、最初は驚いたわ。
「これがレディー・ガガかっ」と。
ガガ様に聴こえないからさ。
それはジャケ写の女性が何度見直してもガガ様に見えないのと同じで。
(その意味で言ったら、まずジャケ写を見て驚いた分だけ、歌唱への驚きは薄らいでますね)
ところが、驚きは初めて聴く際の一曲目の中盤までしか持続しねぇんだ。
一度、その変貌に驚いたら、後は、その「レディー・ガガらしくない歌唱」や「すごく上手な歌唱」がずっと連続するだけのこと。
気づけば「ただの上手い歌唱」を延々聴いている気分。
結果、僕にはすんげえスタンダードな(=ありきたりな)ジャズのボーカルアルバムに聴こえる。
数箇所で「いつものガガ節」みたいのをチラッと聴かせて「種明かし」をしてくれてもよかったのにネ。
デーモン小暮が素顔(世を忍ぶ仮の姿)で群衆に紛れていてピクリともヒントを残さずに後日「実は我輩はあの場所にいてね…」と言われても驚いてあげようがないという感じ。その例、変か…。
スタンダードなジャズをスタンダードに歌うことがガガにとっては「意外とノーマル」というコスプレなのかもしれない。逆に。
でも、ノーマルはノーマル。
「もともとが変な顔の人」の「変顔」は「まるで面白くない普通顔」…みたいな二回転ヒネって普通に着地した感じのツマラナサがある。
…というわけで、ガガのジャズは「変装」っぽいのが特徴なのだけれども、一方のUAのジャズはあまりにも「生身」っぽいという差がありましたね。
特に、ガガの「変装」が結果的に「すごい洗練」に着地している分だけ、UAの「ギザギザした素肌感」が際立った。
『cure jazz/UA×菊地成孔』(2006)僕はUAのジャズの方が圧倒的に好きだ。
UAのジャズボーカルには人生が乗っている感じ。
苦悩も喜びも性も息づかいや鼓動や体温も。
その生々しさがたまらない。
ソウルもブルーズもある。
スピーカーの向こうに人肌と悩みがある。
そして、「人間が声を出すことの限界点」との葛藤がある。
その限界点に果敢に挑む「野心的なアスリート」の壮絶なドキュメンタリーを直視しているような緊張と感動がこのアルバムにはある。
そして、限界点を越えていくUAの勇気と絶技を緊張しながら見守り、偉業達成の瞬間にドドーッととんでもねぇ感動が押し寄せるんです。その瞬間にUAだけに見えた『頂上の光景』を想像して、僕はウットリだ。
(それは4回転を跳んでいる真最中の羽生結弦だけが見る光景に近いのだと思う)
レディー・ガガの歌唱にはその限界点を完全に超えきった完成の姿があり、一方のUAにはたった今限界点と闘っている姿と勝利したり敗北したりという生々しい臨場感があって、僕はUAのボーカルにあるスリルが好きだ。
そのスリルのことを「ジャズ」と呼ぶべきだと僕は思う。
レディー・ガガはここに収録された音源をもう一度同じく歌ってみせられるような気がするのだけれども(それはそれで、とんでもねぇ技術なのだけど…)、UAのジャズは無理だ。二度目は無い。そこがスリリングなのね。
つまりは制作陣がジャズに求めたモノが違うのだと思う。
ガガ陣営は「パーフェクトな品質の娯楽性」を求めて極限までの洗練を作り込んだし、UA陣営はスリルを求めて情念と「たった今の瞬間」を刻み込んだ。
ボーカルだけでなく、サウンドやアレンジのベクトルもまるで違う。
どちらも優秀なアルバムだと認めた上で、今の僕はUAばかり聴いています。
…と、『cure jazz/UA×菊地成孔』(2006)がかなり気に入ったので、重要事項を加えておく。
ガガとUAの日米対決にヒョッコリと顔を出す菊地成孔のボーカル、実は一番美味しかったりして。
すっごくムードがあって。
チェット・ベイカーのマナーで飄々とキメるフワフワしたボーカル(僕はちょっとディック・リーのボーカルも思い出す)は、うまくなくても味がある。少なくとも、色っぽい。
この人、なんだか悔しくなるなぁ。
「俺もそのようにやりたかった〜!」と思わせる。
いや、菊地成孔と同様のアイディアを僕が思いつくはずもなく、そのアイディアを上手に実現する技能も僕には無いのだけれども。
万が一に「僕にもやれたのではないか」と思わせる。
そーいうキワキワのところを見せる天才的な人だと思う。かねがね思っている。
それはきっと、菊地成孔が一切の限界点を可視化させない美学を実践している証拠なのだろう。
T6『Honeys and scorpions』ではハチロクのポリリズムをサラリとキメてみせるのだけれども、これ見よがしではなく、勿体ぶった注釈や宣言もなしに、まるで湯上がりの扇風機みたいにサラリと。
イナセでコイキだ。テヤンデーバーローチキショー!(『おそ松さん』より)
なんだか、悔しい。
僕は菊地成孔に嫉妬しっぱなしだ。
(音楽だけでなく文章も。そして、この世界における存在スタイルも。)
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