シェルターレス

  長い間休んでしまいました。「六十路奮闘記−3」までが、第1部と言ったところでしょうか。
 空白の期間、多くの方々から励ましを頂き誠に申し訳なく改めて御詫び傍、御礼申し上げる次第です。
 

 シェルターレスと言う言葉は随分後になって耳にしたもので在る。乞食、ルンペン、浮浪者に次いで出来た「ホームレス」の次に現れた野宿生活者の呼称らしい。これに付いては、後日述べるとする。

 ある大手の医療関係の会社が発行するメディカル誌からのインタビューを受けた折、頼まれた原稿を読んだ担当者から「年金」「健康保険」「生活保護」等が述べられていない為の補足を要求された。

 其の部分は敢えて、意識的に触れなかったのであるが、担当氏について後で窓口になっている記者女史に聞いた処によると、元北海道新聞の主幹ということらしい。

 おりしも東京都に於いて、「野宿生活者地域移行事業」(現在同事業は、成功裡?に終了)が動き出しており申請をする時期に丁度合致していた。 記述を避けた部分は、ともすれば体制批判にもなる要素が在って、同事業を利用するに何等かの影響を恐れての事であった。

 補足した原稿からの抜粋

抜粋 1 年金

 〜。我々の仲間の大部分が50才以上の、高齢者若しくは其の予備軍で構成され   ている。今から年金を掛けて、需給年齢までの短期間に幾らの原資を提供でき
  且つ、そこからの給付額を想像する時、掛け金を支払う事への無駄感が頭をよ
  ぎる−

 〜。一般の若者で掛け金を払わないケースが増えてきている。「高齢期に公的年金
  は必要不可欠である」事は判っているのだが、掛け金開始〜受給までの長い期間  啓蒙手段、PR頻度などサポートの不足〜。

 〜昨今マスコミを賑わせている、プール金の運用ミス等も挙げられ、以上の観点か  ら当面、無視を決め込む〜。


抜粋 2 健康保険(=健康)

 〜。一般の人に比べて、ホームレスの生活環境はかなり劣悪である事は言うまでも  無い。罹病して病院に掛かる費用があるわけも無く、健康保険証の取得などは不  足資格をクリアーする術無く病気にかからぬように、、、〜

 〜。万一罹病の時、原因の明らかな者は市販の薬を購入し、お金が足りない時には
  仲間で個々の経済状況に応じてカンパしそれで足りない時は仲間グループの備蓄  金から融資する〜。


抜粋 3 生活保護

 〜 拠って憲法25条の言う「健康で文化的な最低限度の生活」が可能でない人に  それを全うする事が出来る様にと「生活保護法」制定されており
     
    1 国家責任の原理
    2 無差別平等の原理
    3 最低生活保障の原理 
    4 補促性の原理

  の4原理を基本として掲げられているのである。
   我々の中には1.フード 2.ワーク 3.シェルターを得る事が自立と錯覚
   している者もいるが、この三つは重要な要素であって自立の全てではないと言   う事である。

 〜。「健康で文化的な最低限度の生活」とは「生命と労働力の再生産がかろうじて   可能な程度の栄養水準や、居住状態(絶対的貧困)では無く通常社会では当然
   と見なされている生活様式、慣習、社会活動が出来る状態」とされている〜

一寸ばかり硬いものになってしまったヵナ。





六十路奮闘紀ー3

 前項の末尾の一句は時期的にそぐわない季語を含む句になったのは、旧作から拾い出したからで、特にこれと言った意味があるわけでも無いのであしからず。

 丁度この頃は街角での販売時に知合い、交誼を頂いている方々が段々と増えてきた時でもあり其の中でも、変り種の一人で若き浪曲家でもあった「五月小一郎」氏の浪曲ライブとのコラボレの話が現実のものと成ってきたのであった。

同氏は2003,12月に上野地区において、東京では3番目にビッグイシュー誌の供給を
受け、自立へ向けての活動を始める事になった拠点における初期の頃からの購読者であった。

 其の頃からホームレスの就労の妨げとして、住所が無いのも大きな原因の一つであった。そこの部分をクリアー出来れば色々な面で安定した生活環境を得ることができるのであるが
又、一番難しい部分でも有ると実感していた。

 現実に私がほぼ同期のメンバーと相談の上、それこそ「爪に火を点す」思いで蓄えた資金
を持ち寄り、予てより物色しておいた古い木造アパートの一室でせめて冬場を乗り切ろうと
試みたのである。資金的には問題が無い所持金額の範疇では有ったが、身元の保証の件とか現在の境遇からか、丁重に断られてしまったのである。

 外国においても似たようなケースが有るらしい。が、ローマ市が画期的な方法を講じて其の問題を解決していた。機能率的な細かい部分の情報を得る手段を持たない為詳細はよく判らないものの日本にも、又は日本のどこかの都市或いは町でもやって出来ないことは無いと
思うのだが、、。


 ローマ市は架空の町名(通り名)を作り路上生活者から希望があればそこの住民として登録して色々な申請ごと、或いは市発行の住民票の交付等の制度を設けたのである。
 その通りを「バレンティ通り」と名づけた悲しい由来についてはビッグイシュー日本版のバックナンバー3号に特集されている。



 五月氏のライブの日程、内容などが決まった。2004.4月23日。場所は中野区のプランBと言う小劇場との事。19時開始。当日は後の世話人の一人でもある和田敏男さんと二人して30分前に入場した物である。

 表には「ポスト虎造浪曲の夕べ」の看板がだされてあった。三、四十人も入れば満席の可愛らしいミニ劇場であった。我々の紹介とビッグイシュウ誌の販売は中入りを利用して行われた。何しろ初めての経験であり、緊張せざるを得なかったが何とかこなすことが出来てくるとフィナーレ後お囃子に乗っておくりだしの口上をきいて驚いた。

 打ち合わせの時期に私の雑記帳に退屈紛れに書きなぐっていた中から引用されていたからである。が、所詮書きなぐりの戯れ語であって細かいことは無し。お客様が帰られる出口通路の脇に出演者、スタッフたちとならんで口上にあわせて手拍子を打ち結構楽しませて貰えた。


   〜〜さあさ、買って下さいビッグイシュー一冊たったの二百円〜〜

   〜〜炊き出しの飯ほろ苦く噛み締めるビッグイシュウ−の売れ悪き日は〜〜

   〜〜小雨ふる花冷えの日は酒暮れる〜〜、、  など等。

 イベントに於ける出店交渉、販売方法、販売ブース、主催者への協力その他色々学び学習出来た事は、これ以後様々な催しに対応するのに必要な多くの事が取得出来たことは幸せであった。

 
 
















 

六十路奮闘紀-2

 2003年大阪で発足したビッグイシュージャパンが東京に進出して最初に固まった販売エリアは新宿であった。次は池袋で、我々上野地区は以前にも述べたように年末である。
 間もなく年が替わり、2004年の1月18日に東京に於ける3販売地区のトップを切って新宿地区が東京で最初のミィ−ティングを行うとの情報がはいった。

早速、了解のもとオブザーバーとして参加する事が出来たのである。

 出席者は、大阪から販売指導に来ていた、後の我が師匠大川氏を含む14名程の販売員と私、会社からは、社長と東京事務所のスタッフK君であった。

 先発の販売員のビデオを交え、色々と報告が為され且つ今後の方針とか販売員達の今後の抱負等であったと記憶しているが、当時不思議に思ったことがあり、それに関してだけは、頭に今でも残っている。

 最初に行動を起した新宿地区にあって、中でも販売数が抜きん出居たJR新宿駅の南口周辺に関して、社長から格別の待遇の提示があったにもかかわらず当事者3〜4名が
条件を受け入れるに至らなかった点である。

 社長曰く、かなりの量を個々に仕入れて販売場所に運ぶ作業を、「めいめいがその度に電車に乗って仕入れに戻るのは大変であろう。」当時東京事務所はJR高田馬場から徒歩10分ぐらいの所にあった。
 「南口付近にロッカーでも借りたらどうや。会社で借り上げることも出来るがな」
 「、、、、、、、、、、、」
 「どないするんや。要るのか要らんのか」
 
 「其処へは誰が補給運搬をするのですか」
 「結構な量をどうやってはこべば良いんだ」
 「仕入れ補給に何時行ってもいいんですか」
 「仕入れ金の管理は誰がやるの」   
 「、、、、等など」
 不遜な言い方をすれば、内心「こいつら、馬鹿じゃないか」とさえ思ったもので在るが此の事以外にも多々学習させて貰う事が出来た今回の参加は、後に「ビッグイシュー販売ネットワーク上野」を立ちげた際、その運営に大きく(多くでは無く)役にたったものである。

 やがてミィ−ティングの開催場所が、3地域で巡回して行われるように成ったが場所が変わったというだけで相変わらず、発展的決め事、重要事項の議決のようなことを見ること無く推移して行くだけでありジレンマをつのらせていったのは私だけでは無かったようだ。

 この様な状態の原因が奈辺にあるのかは概ね解っては居るもののそれの是正に時間と労力を費やす余裕が無い。

 我が上野チームのより確固とした確立に邁進せねばならず、尚自分の生活を維持できるだけの販売数を確保した上での事である。

      杯を乾して葉桜朧月

 







































		
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