食卓に美味しそうなタイ料理が香る。

辛味と酸味の効いた旨みのあるスープ、トムヤムクン。魚介のすり身で作ったタイ風さつま揚げ、トートマンプラー。そして丁寧に作られた生春巻きと、パラパラに仕上がったチャーハン。

食卓に並んでいる料理達は実に彩り豊か。タイ料理は夫・祐二の大好物である。

今日は夫婦にとって何か特別な日という訳ではなかったが、明日は休日であったし、なんとなく香苗は祐二のために頑張ってみたのだ。

祐二 「ん……美味しい、香苗はまた腕を上げたね。これからは外にタイ料理を食べに行かなくてもよさそうだな。」

香苗 「フフッそう言ってもらえると頑張って作った甲斐があるわ。ねぇ祐二、生春巻きも食べてみてよ、今日初めて作ってみたんだけど、どうかな?」

祐二 「おぅ、綺麗にできてるな、どれどれ……ん、美味しい、美味しいよこれ、うん、凄い美味しい、大したもんだなぁ香苗。」

自分が作った料理を次々と口に運び美味しそうに食べる祐二の姿を見て、香苗は満面の笑みを浮かべていた。

心を込めて作った料理を、家族のために一生懸命働いてきた夫が美味しそうに食べてくれる。これ程幸せな事はないのではないか。

祐二 「あ、そうだ。なぁ香苗、明日久しぶりに休みだし、ちょっと2人で出掛けないか?ほら、前に香苗が行きたいって言ってた美術館あるだろ?あそこに連れて行ってやるよ。」

香苗 「わぁホントに?嬉しいなぁ。あ、でもいいの?たまの休みくらいゆっくりしたいんじゃない?身体も休めた方が……。」

祐二 「大丈夫だよ、香苗と出掛けた方が良い気分転換になるしな。それに俺もあの美術館行ってみたかったんだよ。有名な建築家が設計した美術館なんだろ?」

香苗 「うん、凄く綺麗な建物だよ。」

祐二 「へぇーじゃあ明日は楽しみだな。」

香苗 「フフッありがとね、祐二。」

夫婦生活は至って順調だった。

祐二は香苗に対してとても優しかったし、妻である香苗のため、いつか生まれてきてくれるであろう未来の家族のために毎日一生懸命に働いてくれている。

割かし若くして街中の高級マンションを購入し、2人はそこに住んでいる。仕事も人並み以上にできる祐二の収入は十分過ぎる程あって、香苗はそのお陰で働きに出る必要はなく、専業主婦として仕事で頑張る祐二をサポートする事だけに集中できた。

好きな人と結婚できて、何の問題もなく余裕のある生活を送れている。これはとても幸せな事。

香苗はそう思っていたし、この生活に十分な満足感を持っていたはずだった。

そう……はずだったのだ……あの男と出会うまでは……。



祐二 「あ、そういえばさっき管理人さんに会ってさ、うちの隣、空いてるだろ?そこに新しく誰か引っ越してくるみたいだぞ。」

仕事から帰ってきた祐二がスーツの上着を脱ぎながら言った。

香苗 「え?そうなの?へぇ……隣、小林さんの家族が引越ししてからずっと空いてたものねぇ。また家族連れかしら?」

祐二が脱いだ上着を丁寧にハンガーに掛け、香苗はスーツに付いたホコリなどをチェックする。

このマンションの祐二と香苗が住んでいる部屋の隣には、一年前まで小林という4人家族が住んでいた。

小林家は香苗達と同じ年の夫婦と子供が2人という家族構成。

とても優しくて感じの良い夫婦で、お隣だった香苗達は特に小林夫婦と仲が良かった。

共働きの小林夫婦が仕事で忙しい時に香苗が2人の子供を何度か預かっていた事もあったし、お互いの部屋に作った料理を持ち寄って共に楽しい食事の時間を過ごした事も何度もあった。

しかし残念な事に1年前、小林家は主人が仕事で転勤する事になり、遠い県外へ引っ越してしまったのだ。

今でも時々奥さんと香苗は連絡を取り合っているが、これだけ遠い事もあって引っ越してからは1度も会っていない。

専業主婦の香苗は、祐二とここに引っ越してきて最初にできた友人が小林さん夫婦であったから、居なくなってしまってからは寂しい思いもしていた。

祐二 「いや、詳しくは聞いてないから分からないけど、きっと家族連れじゃないか?このマンションに住んでる殆どがそうなんだし。夫婦2人だけの俺達は珍しいくらいだしな。」

香苗 「そっかぁ、そうだよね……また良い人達が隣に来てくれたらいいなぁ。」

祐二 「小林さんみたいな社交的な家族だといいよな。」

近所間、家族間などの関係が気薄になってきている今の時代だが、香苗と祐二は小林家との良い出会いを経験しているため、新しく隣に引っ越してくる人との出会いに、期待に胸を膨らませていた。

特に香苗の中では、余程小林家と過ごした時間が良い思い出として強く残っていたのか、その話を聞いてからずっと嬉しそうにしていて機嫌が良かった。

・・・どんなご家族が来るのかしら・・・フフッ・・・楽しみだわ・・・

そしてそれから1週間後、引越し会社のトラックが来て隣の部屋に荷物を入れ始めた。どうやら今日が入居日らしい。

土曜の昼間、祐二が仕事でいないため1人で部屋にいた香苗は、窓から下に来ているトラックを何度も見て、落ち着かない様子で過ごしていた。

香苗 「ん?もうお隣に来てるのかなぁ・・・ちょっとだけ顔出してみようかなぁ・・・でも急に覗きに行っても変よね・・・あ?気になるなぁ。」

普通なら今晩にでもお隣である祐二と香苗の所に引越しの挨拶に来るだろう。でも香苗はそれが待てないくらいにお隣の事が気になって気になって仕方なかった。

香苗 「ふぅ・・・なんかジッとして居られないわ・・・ちょっと早いけど、晩御飯の用意でもしておこうかな。」

深呼吸をして気持ちを落ち着かせた香苗は、冷蔵庫を開けて今晩の献立を考える。

香苗 「んー・・・・よしっ!カレーライスにしよっと。」

香苗が今晩の献立をカレーライスにしたのには理由があった。

カレーライスは香苗の得意料理の一つでもあり、小林家の家族が美味しいと絶賛してくれて、香苗がよく作っては小林家の家族を部屋に呼んでいた、そんな思い出のある料理なのだ。

香苗は心のどこかで新しく引っ越してくる家族を小林家と重ねていた。

きっと良い人達だと、そう願っての心理なのだろう。

香苗 「早めに作って少し寝かた方が美味しいのよねぇ。」

キッチンにスパイシーな香りが漂う。

コトコトと煮込まれている鍋の中を嬉しそうに笑顔で覗く香苗。

香苗 「ン?♪フフッ・・・今日のは特別美味しくできそうだわ。」

鼻歌交じりで楽しそうに料理をする香苗。

素敵な出会いの予感。それだけが香苗の頭の中をいっぱいにしていた。

祐二 「ただいま?」

夜、祐二が仕事から帰ってくると、キッチンから香苗が慌てた様子で玄関まで来た。

香苗 「お帰り?!ねぇねぇ今日お隣さんがね!」

祐二 「おぅ、引っ越してきたみたいだな、部屋の明かり点いてたし。」

香苗 「え?!見た?見た?どんな人だったか見た?」

少し興奮した様子でそう聞く香苗に、落ち着いた様子で祐二は答える。

祐二 「どうしたんだよそんなに興奮して。見てないよ、そのうちに挨拶に来るんじゃないか?」

香苗 「なんだぁ……見てないんだぁ……。」

残念そうに俯く香苗に、祐二は微笑みながら靴を脱ぐ。

珍しく子供のようにはしゃぐ香苗が可愛らしく見えたのだろう。

祐二 「お?今日カレー?」

部屋に漂う、家庭的で安心できるあの香りに気付いた祐二が今晩の献立を当ててみせた。

香苗 「うん、そうよ。今日のは特別美味しいよ、きっと。」

祐二 「へぇ?気合入れたんだぁ今日のは。どれどれ……。」

祐二はそう言いながらスーツのままキッチンに入って行き、コンロに置いてある少し大きめの鍋の中を覗き込んだ。

香苗 「フフッ……どう?美味しそうでしょ?」

そう嬉しそうに笑顔で祐二に聞く香苗。しかし香苗とは逆に祐二の表情は鍋の中を見た瞬間曇ってしまった。

祐二 「……おい香苗……こんなに多く作ってどうするんだ?この量じゃあと3日はカレーを食べ続けないと無くならないぞ……。」

香苗 「ん?だってもしかしてお隣さんが今日は引っ越して来たばかりで、晩御飯の用意してないかもしれないじゃない?」

当然のような顔をしてそう話す香苗を見た祐二は、ため息を漏らした。

祐二 「はぁ……なぁ香苗、まだお隣さんがどんなご家族か分からないだろ?小林さんみたいにフレンドリーとは限らないんだし。」

香苗 「え……でもぉ……。」

祐二 「それに、今時珍しいぞ。小林さんみたいに社交的な家族は。」

説得するように淡々と話す祐二。しかし今の香苗の耳にはあまりその言葉は届かないらしい。

香苗 「……ん?大丈夫よ!きっと今度のご家族も良い人達だわ。私、そんな予感がするの。」

祐二 「おいおい、あんまり期待しすぎて後で落ち込むなよぉ。」

香苗 「そんな事ないわよ!はぁ……いいわよもう、カレーは残ったら冷凍すれば良いんだし。ほらぁ早く服着替えてきて。あ!お隣さんが来ても恥ずかしくない服よ!」

祐二 「はいはい……。」

祐二の冷めた態度に少し怒り気味の香苗、どうやらお隣に対する期待が1週間待っている内に香苗の方だけ膨らみ過ぎてしまったようだ。

食卓にカレーライスと綺麗に盛り付けされたサラダが並ぶ。

カレーからは食欲をそそる美味しそうな香りが立ち上がっている。

祐二 「なぁ香苗……もう食べてもいいか?」

香苗 「ダメよ、もうちょっと待って。どうせならお隣さんが来てからいっしょに食べたいじゃない?」

祐二 「はぁ……腹減ったよぉ香苗ちゃーん、拷問だよこれは。」

ため息と共に、甘えた声を出す祐二。しかし香苗はそんな事など意に介さない様子で時計を見つめ続けていた。

香苗 「ねぇ祐二、まだかなぁ?お隣さんのご挨拶……。」

祐二 「はぁ……そんなのもしかして明日かもしれないし明後日かもしれないし、挨拶には来ないような人かもしれないだろ?」

香苗 「え?そんな事ないよぉ、絶対。」

祐二 「はぁ……もう付き合いきれん!先食べるぞぉ!せっかくのカレーが冷めちまうよ。」

さすがに呆れた様子で痺れを切らした祐二が、スプーンを手に取る。

と、その時だった。

……ピンポーン!

インターホンの音を聴いた瞬間、香苗の表情が満面の笑みに変わった。



香苗 「ねぇ祐二。」

祐二 「あ、あぁ……よし。」

祐二はインターホンのモニターのボタンを押した。

するとモニターには1人の女性が映った。結構な美人だ。
歳は祐二達と同じくらいだろうか、それとも少し上かもしれない。
大人の落ち着いた女性といった感じだ。

祐二 「は……はい、どちら様でしょうか?」

妙に緊張してしまっていた祐二は、少し声を裏返しながらモニターに向かって言った。

恭子 「あの……今日隣に引っ越して来た高山と申します。」

祐二 「あ、そ、そうですか。ちょっと待ってくださいね。」

高山と名乗る女性は容姿もそうだが、その声もどこか上品に聞こえた。

祐二 「2人で行くか?」

香苗 「うん、もちろんよ。」

祐二と香苗は細い廊下を2人で肩を並べて歩き、玄関へと向かった。

ガチャ……

祐二 「あ、どうもぉ。」

祐二がドアを開けると、そこにはモニターで見た通りの美人な女性が一人で立っていた。

恭子 「夜遅くにすみません。えっと……」

祐二 「吉井と言います、こっちは妻の香苗です。」

香苗 「こんばんは、高山さん……ですよね?」

恭子 「はい、高山恭子と言います。あのこれ、大した物ではないんですけど。」

そう言って恭子が手に持っていた菓子折りを渡してきた。

今時こういうのは珍しい。容姿も上品であるし、礼儀正しい人なのだなと祐二と香苗は思った。

恭子 「あの、吉井さんはご夫婦お2人でお住まいなんですか?」

祐二 「えぇ、もう新婚って訳でもないんですけどね。」

香苗 「高山さんは、ご家族で引っ越してきたんですか?」

恭子 「いえ、あの……私はまだ結婚はしていなくて、1人で越してきたんです。」

祐二 「1人……ですか?」

恭子のその言葉を聞いて、祐二と香苗は思わず顔を見合わせた。
ここはファミリー向けマンションで、どの部屋も80?以上はある。女性の1人暮らしには広すぎるし、それにかなり贅沢だ。購入にしても賃貸にしても、価格はそれなりにするはずである。

恭子 「やっぱり変、ですよね?こんなマンションに女で1人だなんて。」

祐二 「いえいえ、そんな事はないと思いますけど……。」

香苗 「う、羨ましいよね?」

祐二 「あぁ……だ、だよな。」

このマンションに1人暮らしできるという事は、余程経済的に余裕があるのだろう。

想像するに、元々親がお金持ちとかそういう感じかもしれない。このマンションで1人暮らしなんて、一般的にはちょっと考え辛い。

しかし祐二と香苗は、恭子に悪い印象は持たなかった。いや寧ろ、恭子の綺麗な容姿と礼儀正しさにその印象は良いくらいだ。
2人共、この人ならお隣同士で良い関係が作れるのではないかと感じていた。

香苗 「じゃあ女性一人で引越しは大変なんじゃないですか?何かできる事あれば手伝いますよ?」

さっそく良心を見せた香苗。恭子と仲良くしたい、そういう気持ちの表れであった。

恭子 「え?あ、でもそんな……悪いです。」

祐二 「遠慮せずに言ってください、せっかくお隣になれたんですから。どうせうちの妻は昼間とかずっと暇なんで、どんどん使ってやってください。」

香苗 「ちょっと祐二、暇ってのは言い過ぎなんじゃないのぉ?主婦を馬鹿にしてるでしょ?……あ、でも高山さん、本当に遠慮しないで言ってくださいね。重い物とかあったら全部うちの旦那がやりますから。」

恭子 「フフッ、ありがとうございます。」

祐二と香苗のやり取りが面白かったのか、恭子はクスっと笑ってそうお礼を言った。

恭子 「あの、それじゃ夜遅くにすみませんでした。」

祐二 「いえいえ、これからよろしくお願いしますね、分からない事とか困った事とか何かあったら私達にいつでも言ってください。」

恭子 「はい、本当にありがとうございます……それでは。」

恭子はそう言って祐二達に向かって頭を下げると、隣の自分の部屋へと戻っていこうとした。

香苗 「あっ……高山さん!」

と、急に何かを思い出したように香苗が恭子を呼び止める。

恭子 「は、はい?」

香苗の声で後ろに振り返った恭子。

香苗 「夜ご飯……もう食べました?」



香苗 「え?凄い恭子さん、トミタって有名な会社だよね?」

祐二 「おいおい、有名なんてもんじゃないだろ?トミタグループと言えば世界でも有数の大企業じゃないか。若いのにトミタでそんな役職についてるって事は恭子さんは超エリートって事だよ。」

恭子 「い、いえそんな事……。」

香苗が作ったカレーを食べ終えた3人は、リビングで寛ぎながら話に花を咲かせていた。

初めて顔を合わせてからまだそれ程時間は経っていないのに、この夫婦と恭子との距離感はとても親密なものになっているようだった。

特に香苗はとても楽しそうに話していて、余程新たな出会いと友人ができた事が嬉しかったのだろう。

香苗 「第一線で活躍する働く女性って凄いわよね、尊敬しちゃうわ。」

恭子 「いえそんな……でも祐二さんと香苗さんを見てると凄く羨ましいです、とても幸せそうで。」

お互いを下の名前で呼び合っているのは、恭子が自分達と同い歳であったため香苗がそうしようと提案したからだ。

香苗 「恭子さんは恋人とかはいるの?」

恭子 「……はい、一応いますけど……。」

祐二 「そうだよなぁ、これ程の美人を男が放っておくわけないよなぁ。」

祐二の言うとおり恭子は美人であるし、中身もしっかりしている印象であるため、きっと恭子の恋人は素敵な男性なんだろうと2人は思った。

香苗 「そっかぁ、じゃあもう結婚も近いんじゃない?」

恭子 「……どうかなぁ……そういう話って彼から聞いた事ないですから……私と結婚するつもりがあるかどうか……。」

香苗の問いに、恭子は自嘲気味に薄笑いを浮かべながらそう言った。

香苗 「……恭子さんは、結婚願望とかはあるの?」

恭子 「私は……できれば今の彼と結婚して家庭を持ちたいって思ってるんですけど、彼は……。」

そう話す恭子の表情はどこか寂しげである。

香苗 「そっかぁ……でも恭子さんの彼氏さんなんだからきっと素敵な人なんでしょうね。」

恭子 「フフッ……どうですかね、私男運無いですから。」

香苗 「そうなの?でもなんか恭子さんの彼氏さんがどんな人かちょっと見てみたいなぁ。」

祐二 「おい香苗、あんまり恭子さんを困らせるような事言うなよ。」

恭子 「いいんですよ祐二さん。また今度彼氏を紹介します、次は私の部屋にお2人を招待させてください。皆で一緒にお酒でも飲みましょ。」

香苗 「わぁいいね、私料理作って持ってくよ。」

香苗は恭子と話していて、この人なら良い友達になれそうと感じていた。

祐二 「よかったな、恭子さん良い人そうで。」

香苗 「うん、それに今日は本当に楽しかったわ。」

ベッドの中でそう話す祐二と香苗。

その夜、最後に香苗と携帯番号を交換してから恭子は隣の部屋へと帰っていった。

香苗 「また小林さんの時みたいに、楽しく過ごせそうね。」

祐二 「でも香苗、嬉しいのは分かるけどあんまり誘い過ぎるなよ。恭子さんは1人で働いてるんだから、きっと疲れてる時も多いからな。」

香苗 「あ?……うん、そうだよね。それは気をつけないとね。でも凄いよね恭子さん。」

祐二 「ま、女性でも人それぞれ、色んな人生があるからな。」

恭子は本当に忙しく仕事をしているようだった。

引っ越して来た次の日から朝は祐二よりも早くマンションを出て、帰ってくるのはいつも深夜。

それだけ働いているからこそ、このマンションに1人暮らしできるだけの収入があるのだなと、納得できた。

しかし睡眠時間も少ないであろうその生活の様子を傍から見ていて、香苗は恭子の事を友人として心配せずにはいられなかった。

だから香苗は日々考えていた、恭子のために何かできないかと。

しかしその良心が時に相手に迷惑を掛ける事にもなりかねない事を、香苗も大人なのだから知っている。

だから香苗は、恭子にどのタイミングでメールを送ればいいのか、いつも悩んでいた。

香苗 「ねぇ祐二、恭子さんちゃんと夜ご飯とか食べてるのかなぁ?」

恭子が引っ越してきてから数日後のある日、香苗は祐二に聞いてみた。

祐二 「ん?どうだろうなぁ、外食でもしてるんじゃないか?」

香苗 「でもそれって絶対身体に良くないよね。」

祐二 「え?あぁ……まぁな。でもさすがに食べるものまで他人に何か言われたくないだろ?」

香苗 「そうだけどぉ……。」

祐二 「恭子さんにメールでもしたのか?」

香苗 「してないよ、一回も。だって凄い忙しそうなんだもん。」

祐二 「まぁそれが恭子さんにとっては普通の生活なのかもしれないしな。向こうから困った事とか相談してきたら隣の友人として香苗ができる事をすれば良いんじゃないか?」

香苗 「ん?……。」

まるで恭子の母親にでもなったかのように恭子の身体の事を心配している香苗。
本当は些細な事でも相談できるような、恭子にとって信頼できるそんな友人に、香苗はなりたかったのだ。

と、香苗がそんな風に考えていた時だった。

♪?♪?♪?……

香苗の携帯の着信音が鳴った。

少し慌てたように、携帯を手に取りディスプレイを確認する香苗。

香苗 「あっ……。」

恭子からだ。



恭子 『もしもし香苗さん?この前言ってた私の部屋での食事会の事なんですけど、彼が来週の土曜にでもって言ってるんですけど、どうですか?』

突然掛かってきた電話、その恭子の声を聞いた瞬間香苗の表情はパァっと笑顔に変った。

香苗 「うんうん!……え?土曜日?うんオッケー大丈夫よ、大丈夫だよね祐二?」

祐二 「は?何が?」

少し興奮気味の香苗、電話の会話が分からない祐二には、香苗が何のことを言っているのかサッパリ理解できない。

香苗 「土曜日よ!大丈夫よね?」

祐二 「いやだから何の事だよ、土曜日に何があるんだよ?」

香苗 「食事会よ!恭子さんと恭子さんの彼との、ほらこの前言ってたでしょ?」

祐二 「あ?あれね…そう言ってくれないと分からないよ。」

香苗 「で?大丈夫でしょ?土曜日。」

祐二 「あぁ大丈夫だよ、普通に仕事休みの日だし。」

香苗 「もしもし恭子さん?祐二も大丈夫だって言ってるから……うん……うん……じゃあ来週の土曜で決まりね。」

電話をしながら子供のように無邪気な笑顔を見せる香苗。

香苗 「うん……うん……恭子さん凄い忙しそうよね……え?そんな事あるってぇ……きっと祐二より忙しいと思うもの……うん……それでね、もしかして余計なお世話かもしれないけど、恭子さん夜ご飯とかどうしてるの?……うん……え?ほとんど外食?……やっぱり忙しいとそうなっちゃうよねぇ……。」

香苗は所謂?世話好き?である。誰かのために何かをしたりするのが好きなのだ。
それは学生時代から変らず、香苗の長所の1つでもある。
友達の誰かが風邪を引けばすぐに駆け付けたし、女友達の恋の悩みなどもよく聞いてあげていた。

香苗 「いいのいいの!いつでもこっちに食べにきてよね。」

その電話をした日から、香苗と恭子は頻繁にメール交換をするようになり、夜には仕事を終えた恭子が香苗達の部屋へ食事に来る事も少しずつ増えていった。

そのたびに、香苗と恭子の女友達としての仲は急激に深まっていく。

最初の頃こそ、恭子はどこか気を使い遠慮していた部分もあったのだが、すぐにそれは無くなり、今では仕事の悩みなども香苗に気軽に相談してくる程だ。

どうやらこの2人は色々な面で気が合うらしい。

そして、恭子の恋人がやってくる食事会の日も刻々と近づいていた。

香苗 「あ?なんか緊張してきた私……。」

恭子 「そんな緊張するような相手じゃないですよ、英治は。」

食事会を翌日に控えた夜、2人は明日来る恭子の恋人について話をしていた。

香苗 「どんな人なの?その中嶋さんって。」

恭子 「ん?……きっと香苗さんが思っているような人ではないですよ。」

香苗 「そうなの?私の想像だと恭子さんの恋人なんだから、頭が良くて仕事ができて、紳士で……。」

恭子 「フフッ、全然そんなんじゃ無いですよ、本当の英治を見たら香苗さんビックリするかも。」

香苗 「え?そうなんだぁ……ねぇねぇ、じゃあ一言で言えばどんな人なの?」

恭子 「ん?……元気な人……かな。」

香苗 「え?それはちょっと抽象的すぎるよぉ。」

恭子 「フフッ、まぁ明日会ってみれば分かりますよ。」

これ程の仲になっても未だに言葉の中に敬語を交えて話すような真面目な恭子。その恭子の恋人なのだからきっと真面目な男性なんだろうと、恭子を知っている人間なら皆そう思うだろう。

香苗ももちろんそう思っていて、恭子がいくら『そんなんじゃないですよ』と言っても、きっと結局は真面目な人なんだろうなぁと予想していた。

しかしその香苗の予想は良い意味でも悪い意味でも裏切られる事になる。

少しの緊張を感じながらも、明日ある新たな出会いへの期待に胸を高鳴らせる香苗。

また1人仲の良い友人ができるかもしれないと思うと、嬉しくて仕方なかった。



食事会当日、予定外の出来事が1つ起こった。

祐二が突然の仕事で食事会に参加できなくなったのだ。

祐二 「仕方ないだろ?なんか現場でトラブルがあったらしいからさ、とりあえず行って来るよ。」

香苗 「ん?……残念ね。ねぇ祐二、何時頃に帰って来れそうなの?」

祐二 「どうかな、今は何とも言えないよ、現場に行って直接状況を確認しないと。」

香苗 「そっかぁ……気をつけて行ってきてね。」

祐二 「あぁ、恭子さんとその彼氏さんにも宜しく言っておいてくれ。」

玄関で仕事に出る祐二を見送り、香苗はキッチンに戻った。
食事会で持っていく料理を作っていた香苗。今日のは特別に力を入れていたようだ。

香苗 「祐二ったら、よりによってこんな日に仕事が入るなんて…。」

料理の中には祐二の大好物である唐揚げの南蛮風もある。

香苗 「祐二が来ないなら絶対作り過ぎよね、これ…。」

ため息混じりにそう呟いた香苗だが、料理の出来栄えには満足しているようだ。
祐二が来れないのは残念だが、夜の食事会が楽しみである事には変りはなかった。

恭子 「あっ香苗さん、どうぞ上がってください。」

夕方、料理の準備を終えた香苗は、服を着替え身形を整えてから隣の恭子の部屋を訪れた。
隣人の部屋とはいえ、あまりラフ過ぎる格好では行けない。特に今日は恭子の彼氏とも初めて顔を会わせる訳なのだから。

香苗 「うん、料理作ったからそっちに運んでいいかな?」

恭子 「わぁありがとうございます。私も運ぶの手伝います。」

皿に盛られた彩り豊かな香苗の手料理が、恭子の部屋のテーブルに並べられていく。

恭子 「やっぱり香苗さんの料理ってプロ級ですね、どれも本当に美味しそう。」

香苗 「フフッそんな事はないけど、今日はいつもより張り切っちゃった。」

恭子 「英治はさっきメールでもうすぐ着くって言ってましたから、きっとこんな豪華な料理見たら驚きます。」

恭子のその言葉を聞いて、香苗は祐二の事を思い出す。

香苗 「あ、そうだ!実はね恭子さん、うちの祐二が急な仕事で来れなくなっちゃったのよぉ。」

恭子 「え?そうなんですか?それは残念ですね……。」

そう言って本当に残念そうな顔をする恭子。そんな恭子の表情を見て、香苗はそれをフォローするように口を開く。

香苗 「でもまぁお隣だしね、またいつでも出来るわ。それより、恭子さんも何か作っていたの?美味しそうな匂いがするけど。」

恭子 「えっとぉ……簡単なおつまみを。私料理は得意ではないので、そのかわりに美味しいお酒用意しましたよ、香苗さんも今日は飲みましょう。」

香苗 「え?そうなんだぁありがとう、じゃあ今日は祐二もいないし、久しぶりにしっかり飲んじゃおうかなぁ、フフッ。」

2人がそんな会話をしていると、インターホンの音が鳴る。

それを聞いた瞬間、2人の表情は笑顔になった。

恭子 「あっ、きっと英治です。」

香苗 「う、うん……。」

恭子はそう言って玄関へ向かう。

香苗は嬉しそうでもあったが、やはり少し緊張気味でもあった。

別に初対面とはいえそれ程緊張するような事ではないと香苗自身思っているのだが、それでも何故か香苗の鼓動は速くなっていたのだった。
その理由は自分自身でも分からない。

でも、もしかしてそれは結婚してからは新しい出会い、それも男性との新しい出会いというのを香苗が経験していなかったからかもしれない。

特に親しい男友達はいない香苗。夫以外の男性との新たな出会いに対して、無意識の内に過剰に気を使ってしまっているのかもしれない。

もちろんそれは、独身の時のような異姓に対する感情とは違う。香苗はもう結婚しており、祐二の妻であるのだから。

香苗 「……ふぅ……」

……緊張なんてする事ないわよ……

そう香苗は無意味に緊張している自分自身に言い聞かせて、恭子の彼氏に笑顔で挨拶できるように心構えた。

中嶋 「おいおい恭子お前、こんな良いマンションに住んでるのかよぉ!」

リビングで1人立ち竦んでいる香苗に、玄関の方から恭子の彼氏と思われる男性の大きな声が聞こえてくる。

中嶋 「さすがトミタで働いてるだけあるなぁ!……で?もう来てるのかよ?お前が言ってた隣の人妻って。」

香苗 「……。」

……人妻……

玄関の方から聞こえてきたその言葉。

きっと私の事を言っているのだろうと香苗は思ったが、同時に自分が人妻と呼ばれている事に違和感を感じた。

いや、結婚していて人妻である事には違いはないのだが、何となく他人から自分がそんな代名詞で呼ばれた事なんて今までないから違和感を感じたのだ。

中嶋 「ハハッ!お?なんかすっげぇ美味そうな匂いすんじゃねぇか。」

そんな男性の声と、廊下を歩く足音が徐々に近づいてくる。

それに比例するように、香苗の鼓動も速くなって行く。

ドキドキドキドキ……

……ガチャッ!

リビングのドアが開き、そしてその男は入ってきた。

中嶋 「あ!どうもぉ!」

香苗 「え?あ……こ、こんばんは……」



香苗は目の前の男の容姿を見て意外に思っていた。

礼儀正しく優しい恭子の彼氏という事で、真面目で爽やかな男性の姿を勝手に想像していた香苗。

今目の前にいる男性は、程よく焼けた小麦肌で体格も大きく、良く言えば男らしい感じもするが、香苗が想像していた真面目な会社員風の男性とは全く違う。
どちらかといえば活発な印象というか、悪く言うと若干チャラチャラしてそうな感じがした。

顔も整っているし、こういうタイプが好きな人には人気があるだろうなぁと香苗は思ったが、あの恭子がこういったタイプを好んでいたとは少々驚きであった。

中嶋 「いや?初めまして中嶋です。」

香苗 「あ……は、初めまして、隣の吉井です。」

話し方も良く言えば社交的、悪く言えば軽そうな印象である。
しかし決して香苗の中で中嶋の第一印象が凄く悪い訳ではない。
人を見た目で判断してはいけないという事を、香苗は心得ているつもりだった。

恭子 「フフッ香苗さん、なんか意外ってお顔されてますね。」

中嶋の後から部屋に戻ってきた恭子は笑顔でそう言った。

香苗 「え?別にそんな事ないけど……あ?でもちょっと正直に言うと予想外ではあるかも。」

片手を頬に当てながら言う香苗。
女性2人が顔を見合わせながら笑っているのを、中嶋は何の事だか分からないといった様子で見ている。

中嶋 「え?なになに?俺の事?」

恭子 「うん。香苗さんはきっともっと違う感じの男性を予想してたんですよね?」

香苗 「う、うん…まぁね。」

中嶋 「へぇ?そっかぁ、どんな男だと想像してたんです?」

香苗 「え?っと……ん?もっとこう、真面目でお堅い感じかなぁって。」

中嶋 「え!?いやいやいや!俺超真面目ですって!え?真面目に見えないですか?」

香苗の言葉にオーバーとも言えるような大声で反応する中嶋。
そんな中嶋の反応を見て恭子はクスクス笑っている。

恭子 「見えない見えない、英治は絶対そんな風には見えなわよ。ですよねぇ?香苗さん。」

香苗 「フフッ、ちょっとね。」

中嶋が来てからの恭子の表情はとても明るかった。
きっとこの中嶋という男を本当に好いているのだろう。
それを見ていて香苗はなんだか微笑ましかった。

中嶋 「うわぁマジかよぉ、俺そんな印象かよぉ……でもまぁ、俺も意外だったけどな、恭子がこんな綺麗な奥さんと友達になってるなんてよ。」

中嶋はそう言ってニヤニヤと笑みを浮かべながら香苗の顔を見た。

香苗 「ぇ……そ、そんな事……。」

急に綺麗な奥さんなどと言われて、少し恥ずかしがる香苗。

恭子 「ダメよ英治、香苗さんには祐二さんっていう素敵な旦那様がいるんだから。」

中嶋 「わかってるって、別にそんな意味で言ってねぇし。まぁでも、奥さん普通にモテるでしょ?だってマジで美人だし。」

香苗 「え?全然そんな事ないですよぉ、ホントに。」

香苗はそう謙遜しながら、頭の中できっと中嶋さんは色んな女性に同じような事を言っているだろうなぁと思っていた。
それは中嶋の話し方や態度が、女性の扱いに慣れているような感じがしたからだ。
まだ会って数分だが、香苗にはそれがなんとなく分かった。

そして香苗はこうも思っていた。

……祐二とは全く逆のタイプだなぁ……と。

香苗が初めて出会った頃の祐二は、女性の前では眼を見てまともに話もできないような、そんなちょっと頼りない男だった。

友達から始まって1年くらいで、ようやく何の気なしに話せるようになり、その頃から2人の関係は徐々に近づいていき、そして結局出会ってから1年半後に香苗と祐二は付き合い始めたのだ。

香苗にとっては人生で2人目の恋人だったが、祐二にとっては香苗が初めてできた恋人だったらしい。

そんな初々しい祐二が少し香苗の母性本能をくすぐられるようでもあったし、同時に香苗よりも勉強も仕事もできる祐二が凄く頼もしくもあった。

そして大した問題もなく数年の付き合いの後、2人はごく自然な流れで結婚に至ったのだ。

中嶋 「いやぁマジで旦那さんが羨ましいですよ、こんな綺麗な奥さんがいるなんて。」

香苗 「そんな……お世辞言い過ぎですよ。それに恭子さんなんてもっとスッゴイ美人じゃないですか。」

祐二は初めて会った女性にこんな事は絶対に言えない。

中嶋の言葉を聞きながら、やっぱり全然違うタイプだと香苗は思っていた。

それがこの日、香苗が初めて出会った中嶋に対する第一印象だった。



皿に盛られた香苗の手料理が、中嶋の口の中に勢い良く豪快に運ばれていく。
見ていて気持ち良いくらいの食べっぷりだ。

中嶋 「ん?美味い美味い、いやぁ美人で料理もできる奥さんって最高ですね、完璧じゃないですか。」

香苗 「フフッそんな事ないですけど、でも作った甲斐があります。これだけ美味しそうに食べてもらえると。」

中嶋 「恭子には絶対こんなの作れないよなぁ。」

恭子 「もぅ……どうせ私は料理が下手ですよ。」

普段は真面目でスキの無さそうな恭子が中嶋にからかわれ嬉しそうにしている。
恭子は恋人の前では意外と甘えたがり屋さんなのかもしれないと香苗は思った。

その日、中嶋が話し上手だった事もあり、3人の食事会は大いに盛り上がった。
恭子が用意した美味しいお酒もよく進んだ。
夫の祐二がアルコールが苦手だった事もあって、普段はあまり飲むことのなかった香苗も、今日は頬をピンク色の染めながらお酒を楽しんでいる。

食事を終えた後も話題は途切れる事がなく、3人はダイニングからリビングへと移動し、ソファでお酒を口にしながら色々な話をしていた。

中嶋 「あの時は若かったからなぁ、今はあんな事はできねぇわ。」

香苗 「へぇ?随分無茶してたんですねぇ。」

恭子 「フフッどこまで本当の事やら、私はこの話もう何回も英治から聞かされてるんですよ。」

中嶋の学生時代の武勇伝的な話や、趣味の話。
調子よく中嶋が話して女性2人はそれを聞く。

おしゃべりな中嶋相手にしばらくそんな一方的な状態が続いていたが、香苗がふと思った事を何気なしに中嶋に質問した。

香苗 「フフフッ、中島さんって面白いですね。……あ、そういえば中嶋さんってお仕事は何されているんですか?」

こんな質問、大人同士が知り合ったなら当然のように聞かれる事だ。
だから香苗は何に気を使う事もなく、ごく当たり前のように、自然にそれを中嶋に聞いた。

しかし香苗のその言葉を聞いた瞬間、今まで快調に動いていた中嶋の口は急にその動きを鈍くさせる。

中嶋 「え……?あぁ仕事?仕事ねぇ……」

香苗 「……?」

中島の何か言い渋っているような様子に、香苗はもしかして聞いてはいけない事を聞いてしまったのかと思った。
もしかして世間では言いにくいような仕事をしているのかと。

中嶋 「仕事はねぇ……一応トレーダーやってますよ。」

香苗 「……トレーダー?」

中嶋 「えぇ、株の。」

香苗 「あ、え?っと……どこかの企業の資金運用とか……。」

中嶋 「いえ違います、個人でやっているんですよ。」

香苗 「個人……へぇ、そうなんですか……。」

それ以上香苗が質問を繰り返す事はなかった。

何かこれ以上聞いてはいけないように香苗には感じたからだ。

……個人で株のトレーダー……株で生活してるって事なのかしら……

恭子 「フフッあんまりいないですよね、こんな人。……私、ちょっとお手洗い行ってきますね。」

香苗 「え?あ、うん。」

恭子が席を外し、今日初対面の2人だけになったリビングに、ほんの数秒間沈黙の時間が流れる。

少し空気が重い。

先程まで楽しく話していたのに、仕事の事を聞いたために若干気まずくなってしまったかと思った香苗は何を話したら良いのか分からなく、頭の中で懸命に別の話題を考えていた。

しかし先に沈黙を破ったのはやはり中嶋だった。

中嶋 「そういえば旦那さん、今日は土曜日なのに仕事って、いつもそんなに忙しいですか?」

香苗 「えぇ、最近は忙しくしてますねぇ、でも恭子さん程じゃないと思うけど。」

中嶋 「帰りも遅い?」

香苗 「ぇ……?えぇ、割かしそういう日が多いですね。」

何か探るような中嶋の聞き方に少し違和感を感じながらも、香苗はお酒の入ったグラスを片手に質問に答えた。

中嶋 「じゃあ寂しいんじゃないですかぁ?いつも1人で旦那さんを待っているのは。」

香苗 「ん?そういう時もあるけど、もう馴れましたね。」

中嶋 「へぇ?そうですかぁ……でも、旦那さんが忙しいとまだまだお若い奥さんは色々と大変でしょう?」

香苗 「……え?大変?それってどういう……」

ニヤニヤと笑みを浮かべながらそう聞いてきた中嶋だったが、香苗はその質問の意味も意図よく分からないでいた。
ただ、急に変った顔、中嶋のそのネットリとした笑みが、今日これまで中嶋が香苗に見せていなかった表情である事だけは分かった。恭子が居た時とはまるで別人のような表情だ。

中嶋 「ほら、色々と溜まるものもあるでしょう?奥さんくらいの女性なら特に。」

香苗 「え?」

中嶋 「忙しくても、そっちの方はちゃんと旦那さんに解消してもらっているんですか?」

香苗 「ぇ……え?……あの……」

そう言われてやっと中嶋が聞いてきている事の意味が大体分かった香苗。
いや、しかしそんな事は常識的にとても今日初対面の相手に、それも異性に聞くことではない。

なんにしろ、そんな事を他人から言われた事のなかった香苗は、中嶋からの急な質問に動揺していた。



香苗 「や……やだぁ、中嶋さん酔ってるんでしょ?」

一瞬言葉を失っていた香苗だったが、そう言って中嶋からの問いをはぐらかした。
わざとクスっと笑い、お酒の入ったグラスに口を付ける。

しかし大人の女性として中嶋からの少しセクハラじみた言葉を軽くかわしたつもりだった香苗だが、顔は先程までより赤くなっていて、内心の動揺を隠せていなかった。

耳の先が熱い。

なんとなく、こんな事で動揺している自分を中嶋に気付かれたくなかった。

中嶋 「へへ……冗談ですよ。でも奥さんは可愛らしい方だなぁ、これくらいの事で赤くなっちゃってさ。」

香苗 「も、もう!からかわないで下さい中嶋さん。恭子さんに聞かれたら怒られますよ。」

あっけなく動揺を見事に見抜かれた香苗は、さらに顔を赤くして中嶋にそう言った。

中嶋 「別に構いませんよ、恭子は俺がこういう男だって知ってますから。」

中嶋の言うとおり、香苗はこの程度の事で顔を赤くしている自分がどこか恥ずかしかった。

結婚する前までは普通に何気なく男性とも話していたし、飲み会などの席では男性陣から下品な言葉も飛んでいたけど、その時は別にそれに反応する事なんてなかった。

でも結婚してからは、めっきり旦那以外の男性との関わりは無くなっていたため、やはりそういったモノへの免疫力が下がっていたのかもしれない。

……もういい大人なのに……

中嶋 「ところで奥さんは、スポーツジムとかに通っているんですか?」

香苗 「……え?いえ、特にそういうのは。」

中嶋 「へぇ?そうなんですかぁ……でも凄くスタイル良いですよねぇ、よく言われるでしょ?」

そう言った中嶋の少し充血した目が、香苗の身体を下から舐めるかのように視線を送ってくる。

香苗 「ぇ……?」

女性なら多くの者が感じたことのある、男性からの胸や腰への視線。

学生時代も社会人時代も、多くの女性がそうであるように、香苗もよくそれを経験していた。

もちろん、時にそういった男性からの視線に嫌悪感を抱く時もあった。しかし中嶋のそれからは不思議と全くそういったものを感じない。

それがなぜなのか、今の香苗にはよく分からなかったが、とにかくその視線に反応しているのか、胸の鼓動が異常に速くなっている事だけは確かだった。

香苗 「ま、またそんな事言って……いつも会う女性にそんな事言ってるんですか?」

香苗は顔を赤くしたまま再び中嶋の言葉をはぐらかすように、そう言い放つ。

中嶋 「奥さんを見て素直にそう思ったから聞いたんですよ、ホントに旦那さんが羨ましい。でも興味あるなぁ……旦那さんはどんな方なんです?」

2人きりになってからの中嶋との会話に、驚くぐらいに緊張している自分がいる。
それに対して中嶋は凄く冷静に見えた。
やはり女性との会話に慣れているのか。中嶋の態度からは凄く余裕を感じられた。

香苗 「夫……ですか、うちの夫は……」

ガチャッ……

香苗がそう言いかけたところで、リビングのドアが開いた。

恭子が戻ってきたのだ。

恭子 「フフッ香苗さん、英治が変な事聞いてきませんでした?」

恭子がソファに腰を下ろしながらそう言うと、素早く中嶋がそれに反応する。

中嶋 「変な事なんて聞いてねぇよ。ねぇ奥さん?旦那さんの話をしてたんだよ。」

香苗 「え?えぇ……。」

中嶋のちょっとした嘘に、なぜか反射的に歩調を合わせてしまう香苗。

恭子 「へぇ……あ、そういえば香苗さん、祐二さん遅いですね、もうこんな時間なのに。」

恭子にそう言われて時計を見ると、もう時計の針は11時を回っていた。

香苗 「あらホント、途中からでも参加できそうだったら連絡してって言っておいたんだけど……忙しいのかな。」

中嶋 「残念、旦那さんがどんな人なのか一目いいから見たかったなぁ。また今度紹介してくださいよ。」

香苗 「……えぇ、またぜひ。」

気付いた時には、中嶋の表情は元に戻っていた。

恭子が帰ってくるまではまるで品定めでもされているかのような、ネットリとした笑みと視線を送ってきていたのに。

恭子 「でも休日出勤なのに随分遅いですね、何かあったんですかね?」

香苗 「う?ん……電話してみようかな。ちょっと……うん。」

祐二は今日突然の出勤であったし、確かに休日の出勤でこんなに遅いのは珍しい。

どうしたんだろう?と、少し気になった香苗は、携帯片手に席を外し、リビングを出た。

10

リビングから廊下へ出た香苗はさっそく携帯を開き、夫・祐二に電話を掛けた。

香苗 「もしもし?祐二?」

祐二 『あ?ごめん香苗、色々と面倒な事が起きてさ、今日はまだ帰れそうにないんだよ。』

香苗 「え?大変なの?大丈夫?」

祐二 『あ?いや、大丈夫だけど……少し時間が掛かりそうなだけだよ、たぶん明日の午前には帰れる思うけど。』

香苗 「そっかぁ……。」

祐二 『そっちは?食事会、楽しくやってるのか?恭子さんの彼氏も来てるんだろ?』

香苗 「う、うん……。」

祐二 『じゃあまた明日にでも話聞かせてくれよ。あっ、そろそろ休憩も終わりだ。』

香苗 「うん、頑張ってね。」

祐二 『はいよ。』

祐二との電話を終えた香苗は、ゆっくりと携帯を閉じて、そのまま廊下で少し考えていた。

夫が仕事で忙しい時に、自分だけ友人とお酒を楽しんでいるのがなんとなく申し訳ないような気がしていたのだ。

もう夜の11時を過ぎている。

明日祐二が帰ってきたら、温かい食事と温かいお風呂を用意しておかないと。
これ以上飲み続けて二日酔いなんかになっていられない。

祐二と結婚してからは外に働きには出ていない香苗。

一生懸命働いてくれている祐二のために、せめてそのサポートと家事だけはできるだけ完璧にやりたい。
ストレスの多い社会で働く祐二が帰ってきた時に、安心できるような場所を用意してあげたい。

それが香苗が専業主婦として心に決めている事だった。

……そろそろ帰ろうかな……

そんな事を考えながら、香苗はリビングのドアノブに手を掛ける。

……と、ドアを開けようとした香苗だったが、中から聞こえてきた声を聞きその動きを止めた。

恭子 「ちょっとぉ……駄目よ……ァ……香苗さん戻ってくるから……」

中嶋 「いいじゃねぇか……もう何日もお預けくらってんだぜ?」

恭子 「ァン……だって仕事で……」

中嶋 「前までは毎日ヤリまくってたのによ……俺が一日3発は出さないと気が済まない事は知ってるだろ?」

恭子 「……ン……ァ……」

中嶋 「そんな俺を1週間以上放置するとはな……今夜は覚悟しておけよ……」

恭子 「ハァ……ごめんなさい……でも……もうホントに香苗さんが……」

中嶋 「ぁあ?……あ?あの女、なかなか美味そうな身体してるよな……」

香苗 「……!?」

香苗は中嶋のその言葉を聞いた瞬間からドアノブを握ったまま、固まってしまっていた。

あの女……

そういえば中嶋がここに来た時も、自分の事を『隣の人妻』と呼んでいたのを思い出す。

それに先程までのセクハラじみた会話。

あのイヤらしい視線、言葉使い。

……中嶋さんって……

食事をしていた時は話していて楽しかったし、気さくで面白い人だと思っていた。

しかし今の中嶋の言動に、どうしても香苗は中嶋という男の人間性に疑念を抱かざるを得なかった。

何か自分の女としての本能が、中嶋に対して危険信号を出しているような気がする。

恭子 「もう……何言ってるのよ……香苗さんは結婚してるのよ……だいたい英治ったら私がいるのに……」

中嶋 「冗談だよ、でもちゃんと俺の欲望をお前が解消してくれないと、どうなるか分からないぜ?俺の身体は欲求に素直に動いちまうからな……」

恭子 「わかった……分かったから……後で、ね?ほらもう香苗さんが来ちゃうから……」

中嶋 「フッ……分かったよ……。」

……

香苗 「……。」

どうやら中の様子は落ち着いたらしい。

ドアノブを握っていた手にはジットリと汗を掻いている。

他人の性生活を覗いてしまったような気持ちと、中嶋が自分の事を言っていたあの言葉。

……あの女、なかなか美味そうな身体してるよな……

男性に自分の事をそんな風に言われた事への精神的ショックと、同時に何か自分の身体の奥から沸いてくる熱いモノを感じて、香苗の心は再び大きく動揺していた。

胸のドキドキとする鼓動がなかなか治まらない。

香苗がそんな動揺からなんとか落ち着きを取り戻すには少しの時間が掛かった。

香苗 「……ふぅ……」

……今日はもう帰ろう……

香苗は自分自身を落ち着かせるための深呼吸を1つすると、ゆっくりとドアを開けた。

ガチャ……

恭子 「あ、香苗さんどうでした?」

部屋に入ると、ダイニングの方から両手に食べ終わった皿を持つ恭子が笑顔で香苗にそう聞いてきた。

中嶋は、ソファに座ってタバコを吸っている。

香苗 「う、うん……なんかまだ遅くまで掛かりそうだって。」

中嶋 「へぇ、大変ですねぇサラリーマンは。」

中嶋はフゥーっと口から煙を吐きながらそう言った。

香苗 「恭子さん、私も手伝うわ。」

食器などの後片付けを女性2人が始める。

中嶋も手伝おうか?と聞いてきたが、恭子が邪魔になるだけだからと言って笑いながら断っていた。

中嶋 「じゃああれですか?旦那さんは今日は会社に泊まりですか?」

香苗 「え、えぇ……たぶんそうだと思います。」

中嶋 「そうかぁ……じゃあ折角だし今日は朝まで3人で楽しんじゃいますか?」

香苗 「え!?」

中嶋の思いがけない提案に香苗は少し驚いてしまった。さっきは恭子にあんな事を言っていたのに。

恭子 「フフッ、まだお酒もあるしね。どうします?香苗さん。」