なかなか風邪から回復せず、医者から強い薬を貰ってきたのですが、
飲むと眠いのなんのって、先週の金曜日は、某映画、尺の3分の2は寝てました(ノД`)。
1週間後に迫った観劇で、1万超のチケットを無駄にしないためにも、早く治さねば。

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では、大河ドラマ『光る君へ』の感想です。
第41話「揺らぎ」を簡単に。

引き続き、1011年(寛弘8年)。藤壺の中庭で、敦成親王が遊んでいます。
父の死も知らず、無邪気に撫子の花を手にする我が子を見て、中宮彰子が口ずさんだ歌。

「見るままに 露ぞこぼるる おくれにし 心も知らぬ 撫子の花」

彰子は、亡き天皇ともっと歌を交わし合いたかった、語り合いたかった、
幼い子供たちをもっと抱いてもらいたかったと、涙ぐみます。

41.4

6月。居貞親王は、36歳で即位。三条天皇となります。
年少の一条天皇の下で、25年の間、東宮に止め置かれた末の即位でした。
三条天皇は、一条院の四十九日であるにもかかわらず、内裏への遷御を決定すると、
側近となる公卿を呼び集めましたが、そのメンバーは、
道長の兄・道綱、道長の甥・隆家、道長の五男・教通(倫子 の子としては次男)でした。
道長に近しい人間の結束を乱し、力を削ごうという天皇の意思が反映された人事でしたが、
案の定、なぜ長男の自分ではなく弟が指名されたのかと、頼通は不満げな様子。

8月11日、内裏に入った三条天皇は、道長に関白への就任を命じます。
陣定に出席し、直に政務を掌握、指揮したい道長は、陣定に出席しない関白職を断りますが、
引き換えに、娍子を女御にするという、天皇の要望を断れなくなります。
娍子は39歳。第一皇子の敦明親王はじめ、四男二女をもうけた、天皇の最愛の女性ですが、
父の中納言・済時はすでに亡く、後見のない女性を女御とするのは、異例でした。

光る系図5

『源氏物語』はすでに、第40帖「幻」まで執筆が進んでいます。
紫の上に先立たれ、この世から消えてしまいたいと思いつつ、寂しい日々を送る光源氏。

「うき世には 雪消えなんと 思ひつつ 思ひのほかに なをぞ程ふる」

まひろを訪ねた道長は、紫の上の死に驚きますが、そんな道長に、まひろは尋ねます。
道理を飛び越え、敦成親王を東宮としたのは、より強い力を持とうとしたからではないのかと。
これに対して、お前との約束を果たすためだと、道長は答えます。
「やり方が強引だったことは承知している。されど、俺は常にお前との約束を胸に生きてきた。
今もそうだ。そのことは、お前にだけは伝わっていると思っておる」と。

41.0

この国を変えるため、より良き政を行う使命がある――まひろは、道長にそう言い、
道長も、そういう世を目指すと誓った、あの若き日の約束を、果たすためだというのです。
まひろは何も言い返しませんでしたが、改革を実行するための手段としての権力掌握が、
目的となってしまったような今の道長には、危うさを感じていることでしょう。

まひろは、天皇を失った悲しみに暮れる彰子を慰めようと、和歌の会を催します。

赤染衛門 「誰かには 告げにやるべき もみぢ葉を 思ふばかりに 見む人も哉」
誰に伝えたらよいのでしょう。この紅葉の美しさを、共に愛でる人がいてくれたらよいのに。

紫式部  「何ばかり 心づくしに 眺めねど 見しにくれぬる 秋の月影」
何に心を砕いていたわけでもないのに、見ているうちに、秋の月が涙で曇ってしまいました。

和泉式部 「憂きことも 恋しきことも 秋の夜の 月には見ゆる 心地こそすれ」
憂いていることも、恋しい気持ちも、秋の夜の月には、全て見通されている心地がします。

若くして未亡人となった彰子ですが、サロンには、当代きっての女流文学者が揃っています。

41.2

そこに、清少納言が、敦康親王からの届け物だといって、椿餅を持ってきました。
椿餅は、一条天皇や定子も好物だったそうですが、清少納言は、歌会を催していることを以て、
敦康親王のことは忘れたのか、亡き天皇を追悼しないのかと、彰子をあからさまに責めます。
歌を詠むよう促されても、ここは歌を詠みたくなるような場ではない――そう言い放って、
清少納言は退出しますが、来訪の目的が、彰子を傷つけることにあったのは、明白でした。

その夜、まひろは、日記にこう書き残します。
清少納言は、得意げな顔をした、酷い人になってしまった、と。
『紫式部日記』の「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人」の箇所ですが、
こんな出来事があったならば、激しい批判も、納得が行くというものです。
ドラマの脚本、良く考えられているなと、感心したり。
この後、まひろと道長が、それぞれ月を見上げる場面がありますが、
月は半分以上欠けていて、しかも、雲に隠れて見えなくなってしまうのでした。

41.5

椿餅の礼も兼ねて、彰子が文を送ると、敦康親王はさっそく、藤壺にやってきます。
敦康はこの時、元服したにもかかわらず、子供の頃と同じように彰子の顔を見たいと言って、
無作法にも、御簾の中に入り込み、彰子に近づきます。
二人は話をしただけでしたが、この件を、行成から報された道長は激怒、
光源氏のようなことがあってはならじと、敦康を内裏出禁にしろと行成に命じますが、
この時ばかりは、道長に従順な行成も、天皇の第一皇子にそれは出来ないと拒否。
道長は敦康から多くのことを奪いすぎる、間違っていると、諌めるのでした。

ある日、賢子は京の町中で、武人の一団とすれ違います。
一団を率いるのは平為賢。双寿丸もその中に居て、盗賊を捕らえに行くところでした。
賢子が誘うと、双寿丸は、再びまひろの家に食事にやってきますが、
双寿丸は、文字の読み書きは出来ないながらも、武者であることに誇りをもっていて、
平為賢の下で、武術ばかりでなく、仲間と力を合わせて戦うことも、学んでいるのだという。

41.6

道長は遂に、彰子に対して直接、敦康とは会わないようにと、申し入れてきました。
彰子は、敦康を蔑ろにする道長を見て、今後は、父の意のままにはなりたくないと願いますが、
双寿丸との会話が耳に残っていたまひろは、そんな彰子に、仲間を持つことを提案します。
彰子は、弟たち――同母の頼通(19歳)、教通(15歳)ばかりでなく、
明子が生んだ、異母弟の頼宗(18歳)、顕信(17歳)藤壺に呼び集めると、
東宮と、父のより良き政のため、協力していこうと申し入れます。
「父上をお諫め出来るのは、我らしかおらぬ」のだと。

彰子はこの後、枇杷殿に移り、藤壺には、三条天皇の女御、彰子の妹の妍子が入ります。

12月。娍子の弟の通任(37歳)は、6月に蔵人頭になったばかりでしたが、
天皇の計らいによって、この時、参議に任命され、公卿の仲間入りを果たします。
反対する道長に、天皇は、道長も息子たちを取り立てていると反論し、
引き換えに、道長と明子の子、三男の顕信を、空席となった蔵人頭にと打診しますが、
道長は、顕信にはまだ早いとして、辞退してしまいます。

ところが、折角のお役目を辞退したことに、顕信と明子は強く反発。
明子は、出世争いにならぬようにと、自分の子にばかり、損な役回りを押し付けてきたと、
道長を責め、顕信は、私は父上に道を阻まれた、いなくても良い息子だ、と嘆くのでした。
明けて、1012年(寛弘9年)正月。
比叡山の僧が道長を訪ね、顕信が出家した旨、伝えてきます。
愕然とする道長。明子は、あなたが殺したのだと、道長に掴みかかりますが・・・・以下次回。