今年は、「K-POP」という言葉が、広く知られるようになった年といえるだろう。
一時ほどの勢いは感じられなくなったとはいえ、「KARA」、「少女時代」が2011年末の『NHK紅白歌合戦』に出演決定、さらに「AFTER SCHOOL」、「4Minute」、「Rainbow」、「2NE1」、「T-ARA」など、多くのグループが続々と日本での活動を開始している。
K-POP女子グループの日本における快進撃はまだまだ続きそうだ。
今から10年前、BoAがようやく日本進出を果たしたものの、まだブレイクには至っていなかった頃、逆に韓国に渡り、韓国語の楽曲を歌っていた日本人女子アイドルグループがいた……。
そのグループの名は……、
一時ほどの勢いは感じられなくなったとはいえ、「KARA」、「少女時代」が2011年末の『NHK紅白歌合戦』に出演決定、さらに「AFTER SCHOOL」、「4Minute」、「Rainbow」、「2NE1」、「T-ARA」など、多くのグループが続々と日本での活動を開始している。
K-POP女子グループの日本における快進撃はまだまだ続きそうだ。
今から10年前、BoAがようやく日本進出を果たしたものの、まだブレイクには至っていなかった頃、逆に韓国に渡り、韓国語の楽曲を歌っていた日本人女子アイドルグループがいた……。
そのグループの名は……、
「BONITA(ボニータ)」
メンバーは、それまで個々に活動していた、園田真夕、江川有未、麻見奈央、安田良子の4人。
日本では、韓国に女子アイドルが存在することすら、それほど知られていなかった当時、彼女たちは韓国に渡り、韓国の大物プロデューサーの元で特訓を続け、歌詞全てが韓国語の曲を歌い、そのCDを韓国国内で自らの手で売りさばいた。
そして日本に帰国、日本でもデビューを果たしたが、いつの間にか姿を消した……。
その後、ネットや雑誌などで「失敗作」というレッテルを貼られ、現在「少女時代」で活躍するチェ・スヨンが「ルートヨン」のひとりとして日本でデビューした際にも、悪い意味で引き合いに出されていた。
しかし……本当に「BONITA」は「失敗作」だったのか?
当時ボクは、Fin.K.L(ピンクル)、Baby V.O.Xなどの韓国女子アイドルグループにドップリで、何度もソウルに行ったり、韓国女子アイドルグループを紹介するサイトなども運営していたので、その筋ではそれなりに知られていた。
当然、「BONITA」も全力で応援していたし、公式サイトのファン掲示板にも積極的に書き込みを行っていた。
そんなボクからすると、どう考えても「失敗作」とは思えないのだ……。
では「BONITA」誕生のいきさつから見ていこう。
「BONITA」は朝日放送(テレビ朝日系列)のバラエティ番組『人気者でいこう!』から誕生した。
ダウンタウンの浜田雅功氏が司会のこの番組は、人気コーナー「芸能人格付けチェック」で知られていた。
「芸能人格付けチェック」は、例えば、高級食材と、コンビニで買える食材の食べ比べをして、どちらが高級かを当てさせる企画だ。
ところが、この企画はそれを言い当てた人を褒め称えるのではなく、間違えた人を馬鹿にすることを目的としていたことは、他のコーナー……いや、番組全体の演出からみても明らかだ。
いつもは偉そうな顔をしている「一流芸能人」が、一流の物を言い当てることが出来ない……。それを見て、一般的な生活を送る庶民が溜飲を下げるのがこの番組自体の目的だったのだ。
あらかじめ言っておくが、ボクはこういう番組自体を否定するつもりは毛頭ない。
「他人の不幸は蜜の味」
という言葉が存在することからもわかるとおり、特に一流と思われている芸能人が悔しがったり、惨めな表情をするところを見たいと思う気持ちは、多かれ少なかれ、誰もが持っている感情ではないかと思う。
さて、そんな番組も、そろそろ人気に陰りが見え始めてきた頃、番組の「女性アシスタント」を選ぼうという企画が立ち上がり、これまた決して一流とは言えない多くの女性アイドルたちが、様々なゲームなどによって「女性アシスタント」の座を奪い合った。
当時はモーニング娘。を初めとする「ハロー!プロジェクト」のアイドルが 全盛期を迎えており、それ以外の女性アイドルたちは、そこそこのルックスや実力を持っていても、「一流アイドル」にはなれない、ある意味、その前の「アイドル冬の時代」よりも過酷な時代だった。
ここで集められたアイドルたちも、 決して悪くない、そこそこのルックスをもった人ばかりだった。
そんな「美少女」たちが、過酷なゲームで泥や粉にまみれ、汗や涙を流す姿を見て、笑いものにするのが目的だったと言えよう。
やがてこの企画は、「浜田エージェンシー」と称し、番組から本格的にアイドルを誕生させようという企画に変更された。
前の企画で6人に絞られたアイドル候補生たちは、突如として「韓国へ行け」との指令を受け、渡韓した。
2001年頃の韓国は、現在、KARAや少女時代が活躍しているのと同様、いやそれ以上に個性的な女子アイドルグループが次々に誕生し、群雄割拠の時代を迎えていた。
ちなみに、現在日本で「ICONIQ」の名前で活動する「アユミ」が所属していたグループ「Sugar」も、この年の年末にプレデビュー、翌年本格デビューしている。
そんな戦場に、言葉も何もわからない女の子たちを送り込んで、果たして大丈夫なのか?
いや、番組自体の方向性から察するに、そんな過酷な戦場に送り込んだ女の子たちが、挫折して、涙ながらに逃げ帰ってくるのを見るのが、このコーナーの本当の趣旨だったのではないか。
事実、6人中2人が、レッスンの辛さに心折れて、戦線から脱落、帰国している。
そこまではスタッフの計算通りだったのだろう。
ところが、この2人の脱落が、残った4人、つまり、園田、江川、麻見、安田に火を付けたようだった。
そこからの4人は見違えるほど真剣にレッスンに取り組み、プロデューサーのチュ・ヨンフンからお墨付きを得て、「BONITA」というグループ名を授かり、完全韓国語歌詞の曲2曲が入ったCDを、韓国の街頭に立って、自分たちの手で「手売り」、見事予定数を完売させた。
さらに、韓国の歌謡番組の前座で出演したり、繁華街でキャンペーンライブを行ったりして、少しずつ韓国の若者たちにも認められ始めた。
考えてみれば、当時はまだ日本文化が完全解放されておらず、韓国で日本人の芸能人を見る機会はほとんどなかった。
しかし、この4人の日本人の女の子たちは、韓国語で話し、韓国語の曲を歌う……。
そこに韓国の若者たちが共感し始めたとしても、決して不思議ではなかろう。
ところが、ある日突然、「日本デビュー」が決定、帰国命令が下る。
韓国で手売りしたあの曲に日本語歌詞を付けて、日本でCDを発売することが決定したのだ。
メンバーたちは喜んでいたように見えた……。
だがボクはこれを「強制送還」と呼んでいる。
韓国の若者たちの前で、韓国語の歌を歌って少しずつ認められ始めた矢先の帰国……。
それはあまりにも不自然に感じたのだ。
どう考えても、そのまま韓国で地道な活動を続けていた方が、ブレイクの可能性は高かったように思う。
これはきっと、「日本デビュー」という美味しいエサに食いつかせて、さらに過酷な課題を強いる腹づもりに違いないと思った。
実際、帰国後に彼女たちに課せられたのは、マイクロバスでの全国縦断キャラバンと、CD予約枚数のノルマ設定、さらには年頃の女の子にとっては、ビキニ以上に恥ずかしいとされる「紺のスクール水着」でのジャケット撮影という、やはり非常に過酷な試練だった。
ところが、彼女たちはこれらも難なく乗り切った。
最初はほとんど人が集まらなかった全国縦断キャラバンイベントも、回を追う毎に参加者が増え、ボクも参加した大阪でのイベントは、相当な盛り上がりを見せた。
恐らくスタッフは、細かいスケジュールなどは押さえていなかったのだろう。
この手のイベントにありがちな「ケツカッチン」ではなく、時間的に余裕があると言うことで、握手会だけの予定を変更し、一人一人、その場でサインをするということになった。
メンバーとじっくり話す時間もあった。
ボクはその日、リュックに「Fin.K.L」の缶バッジを付けていたのだが、園田真夕がそれを発見し、
「何のバッジ? Chakra? えっ、Fin.K.L!? Fin.K.Lって韓国で一番人気ですものね。どこで買ったんですか?……ソウル! へぇ!!」
と感心しきりだった。
その後も彼女は韓国への想い、レッスン場が同じだったBaby V.O.Xのパフォーマンスの凄まじさなどを熱く語っていた。
他のメンバーはいざ知らず、少なくとも園田真夕は、この時点ですでに、韓国に魅せられ、韓国芸能界で活動したいと願っていたように感じた。
大阪でのイベントは大成功に終わったが、後に彼女たちは、この大阪でのイベントがひとつの転機になったと語っている。
この頃には公式掲示板も活況を呈し、ファンやメンバーからの書き込みも爆発的に増加していた。
残された首都圏でのラストイベントの成功が、ほぼ確実だと実感できた。
そして、日本のアイドルファンのみならず、当時ボクの友人だった韓国アイドルファンの多くも、このイベントに参加してくれた。
ラストイベントもまた、大成功。
新聞、雑誌などでも大きく取り上げられた。
掲示板ではCDだけでなく、彼女たちの軌跡を納めたDVDの発売を熱望する声が上がり、ボクは内容のアイデアを書き込み、ほぼそのままの構成のDVDが発売されたりした。
まさに、メンバーとスタッフとファンとが一体となって「BONITA」の活動を盛り上げようとしているように感じていた。
ところが、この頃から少しずつ、掲示板にいわゆる「荒らし」が出現するようになった。
日本デビューCDの発売直後に番組自体が終了することが判明したのも、この頃だった。
「荒らし」はメンバーやスタッフを非難するのではなく、ファンを非難する書き込みを繰り返した。
掲示板スタート当初は、「荒らし」に対して厳正な態度で臨んでいたスタッフが、この頃には「荒らし」を放置するようになった。
これにより、ネット経験の浅い、ある意味「打たれ弱い」若いファンは少しずつ離れていった。
ボクは直感した。
「スタッフが意図的に荒らし行為を行って、幕引きをしようとしている」
その書き込み内容には、メンバー本人や関係者しか知り得ないであろう内容が含まれていたのだ。
そこでボクがその事に言及すると、「荒らし」からの書き込みは、ピタリと無くなった。
しかし、時すでに遅く、若いファンたちは掲示板には戻ってこなかった。
やがて番組は終了。
後番組にもメンバー4人は引き続き出演していたが、「歌手」としての活動は全くさせてもらえず、何とか存続していた公式掲示板も、ボクを含む数人が「維持」のためにたまに書き込みを行う程度となり、短命に終わった後番組終了と共に閉鎖された。
日韓を股にかけたアイドルグループ「BONITA」は、なし崩し的に解散となり、元はといえば別々の事務所に所属していたBONITAメンバーは、それぞれ個々の活動に戻っていった。
ここまでであれば、BONITAは失敗作であったと断じることが出来よう。
だが、彼女たちの熱き思いに応えてくれる、心ある人たちが現れた。
園田真夕は、その後韓国文化を伝える「伝道師」的な活動をするようになり、単身渡韓。日韓共同制作映画『力道山』に出演するなど、より韓国芸能に深く関わるようになった。
江川有未は、NHKのハングル講座に出演。これも、韓国の文化を紹介するという役割を担った。
確かに「BONITA」というグループは中途半端に終わった感がある。
しかし、韓国での特訓の成果は、その後の彼女たちの活動に生かされた。
これを「成功」と言わずして何と言おう?
そしてこれは「BONITA」としての活動があればこそのことなのだ。
「B級アイドル」から、韓国、そして日本でのCDデビュー、 イベントの成功、DVDの発売、そして解散後の活躍……。
スタッフたちによる度重なる「試練」をかいくぐり、それらを成し遂げた「BONITA」。
やはり彼女たちは、決して「失敗作」ではなかったのだ。
いや、待て!
「BONITA」は『人気者でいこう!』から誕生したアイドルだ。
番組の趣旨は前述の通り。
つまり、「BONITA」は成功してはいけなかったのだ。
イベントに大勢の人を集めても、実際にCDを発売してもいけなかったのだ!
韓国から、涙ながらに逃げ帰ってこなければいけなかったのだ !!
ファンなど生み出さず、一般庶民の笑いもの=「失敗作」にならなければならなかったのだ!!!
にもかかわらず、韓国でも、そして「強制送還」された日本でも、成功への道を歩み始めてしまった……。
やはり彼女たちは別の意味で「失敗作」だったのかも知れない……。
メンバーは、それまで個々に活動していた、園田真夕、江川有未、麻見奈央、安田良子の4人。
日本では、韓国に女子アイドルが存在することすら、それほど知られていなかった当時、彼女たちは韓国に渡り、韓国の大物プロデューサーの元で特訓を続け、歌詞全てが韓国語の曲を歌い、そのCDを韓国国内で自らの手で売りさばいた。
そして日本に帰国、日本でもデビューを果たしたが、いつの間にか姿を消した……。
その後、ネットや雑誌などで「失敗作」というレッテルを貼られ、現在「少女時代」で活躍するチェ・スヨンが「ルートヨン」のひとりとして日本でデビューした際にも、悪い意味で引き合いに出されていた。
しかし……本当に「BONITA」は「失敗作」だったのか?
当時ボクは、Fin.K.L(ピンクル)、Baby V.O.Xなどの韓国女子アイドルグループにドップリで、何度もソウルに行ったり、韓国女子アイドルグループを紹介するサイトなども運営していたので、その筋ではそれなりに知られていた。
当然、「BONITA」も全力で応援していたし、公式サイトのファン掲示板にも積極的に書き込みを行っていた。
そんなボクからすると、どう考えても「失敗作」とは思えないのだ……。
では「BONITA」誕生のいきさつから見ていこう。
「BONITA」は朝日放送(テレビ朝日系列)のバラエティ番組『人気者でいこう!』から誕生した。
ダウンタウンの浜田雅功氏が司会のこの番組は、人気コーナー「芸能人格付けチェック」で知られていた。
「芸能人格付けチェック」は、例えば、高級食材と、コンビニで買える食材の食べ比べをして、どちらが高級かを当てさせる企画だ。
ところが、この企画はそれを言い当てた人を褒め称えるのではなく、間違えた人を馬鹿にすることを目的としていたことは、他のコーナー……いや、番組全体の演出からみても明らかだ。
いつもは偉そうな顔をしている「一流芸能人」が、一流の物を言い当てることが出来ない……。それを見て、一般的な生活を送る庶民が溜飲を下げるのがこの番組自体の目的だったのだ。
あらかじめ言っておくが、ボクはこういう番組自体を否定するつもりは毛頭ない。
「他人の不幸は蜜の味」
という言葉が存在することからもわかるとおり、特に一流と思われている芸能人が悔しがったり、惨めな表情をするところを見たいと思う気持ちは、多かれ少なかれ、誰もが持っている感情ではないかと思う。
さて、そんな番組も、そろそろ人気に陰りが見え始めてきた頃、番組の「女性アシスタント」を選ぼうという企画が立ち上がり、これまた決して一流とは言えない多くの女性アイドルたちが、様々なゲームなどによって「女性アシスタント」の座を奪い合った。
当時はモーニング娘。を初めとする「ハロー!プロジェクト」のアイドルが 全盛期を迎えており、それ以外の女性アイドルたちは、そこそこのルックスや実力を持っていても、「一流アイドル」にはなれない、ある意味、その前の「アイドル冬の時代」よりも過酷な時代だった。
ここで集められたアイドルたちも、 決して悪くない、そこそこのルックスをもった人ばかりだった。
そんな「美少女」たちが、過酷なゲームで泥や粉にまみれ、汗や涙を流す姿を見て、笑いものにするのが目的だったと言えよう。
やがてこの企画は、「浜田エージェンシー」と称し、番組から本格的にアイドルを誕生させようという企画に変更された。
前の企画で6人に絞られたアイドル候補生たちは、突如として「韓国へ行け」との指令を受け、渡韓した。
2001年頃の韓国は、現在、KARAや少女時代が活躍しているのと同様、いやそれ以上に個性的な女子アイドルグループが次々に誕生し、群雄割拠の時代を迎えていた。
ちなみに、現在日本で「ICONIQ」の名前で活動する「アユミ」が所属していたグループ「Sugar」も、この年の年末にプレデビュー、翌年本格デビューしている。
そんな戦場に、言葉も何もわからない女の子たちを送り込んで、果たして大丈夫なのか?
いや、番組自体の方向性から察するに、そんな過酷な戦場に送り込んだ女の子たちが、挫折して、涙ながらに逃げ帰ってくるのを見るのが、このコーナーの本当の趣旨だったのではないか。
事実、6人中2人が、レッスンの辛さに心折れて、戦線から脱落、帰国している。
そこまではスタッフの計算通りだったのだろう。
ところが、この2人の脱落が、残った4人、つまり、園田、江川、麻見、安田に火を付けたようだった。
そこからの4人は見違えるほど真剣にレッスンに取り組み、プロデューサーのチュ・ヨンフンからお墨付きを得て、「BONITA」というグループ名を授かり、完全韓国語歌詞の曲2曲が入ったCDを、韓国の街頭に立って、自分たちの手で「手売り」、見事予定数を完売させた。
さらに、韓国の歌謡番組の前座で出演したり、繁華街でキャンペーンライブを行ったりして、少しずつ韓国の若者たちにも認められ始めた。
考えてみれば、当時はまだ日本文化が完全解放されておらず、韓国で日本人の芸能人を見る機会はほとんどなかった。
しかし、この4人の日本人の女の子たちは、韓国語で話し、韓国語の曲を歌う……。
そこに韓国の若者たちが共感し始めたとしても、決して不思議ではなかろう。
ところが、ある日突然、「日本デビュー」が決定、帰国命令が下る。
韓国で手売りしたあの曲に日本語歌詞を付けて、日本でCDを発売することが決定したのだ。
メンバーたちは喜んでいたように見えた……。
だがボクはこれを「強制送還」と呼んでいる。
韓国の若者たちの前で、韓国語の歌を歌って少しずつ認められ始めた矢先の帰国……。
それはあまりにも不自然に感じたのだ。
どう考えても、そのまま韓国で地道な活動を続けていた方が、ブレイクの可能性は高かったように思う。
これはきっと、「日本デビュー」という美味しいエサに食いつかせて、さらに過酷な課題を強いる腹づもりに違いないと思った。
実際、帰国後に彼女たちに課せられたのは、マイクロバスでの全国縦断キャラバンと、CD予約枚数のノルマ設定、さらには年頃の女の子にとっては、ビキニ以上に恥ずかしいとされる「紺のスクール水着」でのジャケット撮影という、やはり非常に過酷な試練だった。
ところが、彼女たちはこれらも難なく乗り切った。
最初はほとんど人が集まらなかった全国縦断キャラバンイベントも、回を追う毎に参加者が増え、ボクも参加した大阪でのイベントは、相当な盛り上がりを見せた。
恐らくスタッフは、細かいスケジュールなどは押さえていなかったのだろう。
この手のイベントにありがちな「ケツカッチン」ではなく、時間的に余裕があると言うことで、握手会だけの予定を変更し、一人一人、その場でサインをするということになった。
メンバーとじっくり話す時間もあった。
ボクはその日、リュックに「Fin.K.L」の缶バッジを付けていたのだが、園田真夕がそれを発見し、
「何のバッジ? Chakra? えっ、Fin.K.L!? Fin.K.Lって韓国で一番人気ですものね。どこで買ったんですか?……ソウル! へぇ!!」
と感心しきりだった。
その後も彼女は韓国への想い、レッスン場が同じだったBaby V.O.Xのパフォーマンスの凄まじさなどを熱く語っていた。
他のメンバーはいざ知らず、少なくとも園田真夕は、この時点ですでに、韓国に魅せられ、韓国芸能界で活動したいと願っていたように感じた。
大阪でのイベントは大成功に終わったが、後に彼女たちは、この大阪でのイベントがひとつの転機になったと語っている。
この頃には公式掲示板も活況を呈し、ファンやメンバーからの書き込みも爆発的に増加していた。
残された首都圏でのラストイベントの成功が、ほぼ確実だと実感できた。
そして、日本のアイドルファンのみならず、当時ボクの友人だった韓国アイドルファンの多くも、このイベントに参加してくれた。
ラストイベントもまた、大成功。
新聞、雑誌などでも大きく取り上げられた。
掲示板ではCDだけでなく、彼女たちの軌跡を納めたDVDの発売を熱望する声が上がり、ボクは内容のアイデアを書き込み、ほぼそのままの構成のDVDが発売されたりした。
まさに、メンバーとスタッフとファンとが一体となって「BONITA」の活動を盛り上げようとしているように感じていた。
ところが、この頃から少しずつ、掲示板にいわゆる「荒らし」が出現するようになった。
日本デビューCDの発売直後に番組自体が終了することが判明したのも、この頃だった。
「荒らし」はメンバーやスタッフを非難するのではなく、ファンを非難する書き込みを繰り返した。
掲示板スタート当初は、「荒らし」に対して厳正な態度で臨んでいたスタッフが、この頃には「荒らし」を放置するようになった。
これにより、ネット経験の浅い、ある意味「打たれ弱い」若いファンは少しずつ離れていった。
ボクは直感した。
「スタッフが意図的に荒らし行為を行って、幕引きをしようとしている」
その書き込み内容には、メンバー本人や関係者しか知り得ないであろう内容が含まれていたのだ。
そこでボクがその事に言及すると、「荒らし」からの書き込みは、ピタリと無くなった。
しかし、時すでに遅く、若いファンたちは掲示板には戻ってこなかった。
やがて番組は終了。
後番組にもメンバー4人は引き続き出演していたが、「歌手」としての活動は全くさせてもらえず、何とか存続していた公式掲示板も、ボクを含む数人が「維持」のためにたまに書き込みを行う程度となり、短命に終わった後番組終了と共に閉鎖された。
日韓を股にかけたアイドルグループ「BONITA」は、なし崩し的に解散となり、元はといえば別々の事務所に所属していたBONITAメンバーは、それぞれ個々の活動に戻っていった。
ここまでであれば、BONITAは失敗作であったと断じることが出来よう。
だが、彼女たちの熱き思いに応えてくれる、心ある人たちが現れた。
園田真夕は、その後韓国文化を伝える「伝道師」的な活動をするようになり、単身渡韓。日韓共同制作映画『力道山』に出演するなど、より韓国芸能に深く関わるようになった。
江川有未は、NHKのハングル講座に出演。これも、韓国の文化を紹介するという役割を担った。
確かに「BONITA」というグループは中途半端に終わった感がある。
しかし、韓国での特訓の成果は、その後の彼女たちの活動に生かされた。
これを「成功」と言わずして何と言おう?
そしてこれは「BONITA」としての活動があればこそのことなのだ。
「B級アイドル」から、韓国、そして日本でのCDデビュー、 イベントの成功、DVDの発売、そして解散後の活躍……。
スタッフたちによる度重なる「試練」をかいくぐり、それらを成し遂げた「BONITA」。
やはり彼女たちは、決して「失敗作」ではなかったのだ。
いや、待て!
「BONITA」は『人気者でいこう!』から誕生したアイドルだ。
番組の趣旨は前述の通り。
つまり、「BONITA」は成功してはいけなかったのだ。
イベントに大勢の人を集めても、実際にCDを発売してもいけなかったのだ!
韓国から、涙ながらに逃げ帰ってこなければいけなかったのだ !!
ファンなど生み出さず、一般庶民の笑いもの=「失敗作」にならなければならなかったのだ!!!
にもかかわらず、韓国でも、そして「強制送還」された日本でも、成功への道を歩み始めてしまった……。
やはり彼女たちは別の意味で「失敗作」だったのかも知れない……。