October 24, 2006

”東大安田講堂前”"防衛庁突入前と突入時のブント""機関紙「赤軍」"

>68年11月22日東大安田講堂前

防衛庁突入前のブント10.21防衛庁突入
機関紙「赤軍」



当時の私(卒業アルバムより/中学籠球部と高校修学旅行写真では右端)

教駒中学籠球部

当時の私(卒業アルバムより)当時の私(修学旅行で/右端)


【参考】大法螺吹き「四方田犬彦」と鈴木昌氏

四方田犬彦の東京教育大学附属駒場高校時代、それは学園紛争の時代であったが、を活写した『ハイスクール1968』で「友人」とされた鈴木晶がホームページの日記で次のように書いていた。

2004年3月3日(水)
 四方田犬彦の『ハイスクール1968』(新潮社)が送られてきた。高校時代の回想録である。とくにバリケード封鎖の前後のことが克明に書かれている。彼と私は中学高校ずっといっしょだから、当然ながら私も登場する。
 あまり愉快な本ではない。四方田が大法螺吹きであることは、業界では知らぬ者はない。私も慣れている。
 彼と私はともに由良君美門下生であるが、学生時代に、あるとき四方田から「相談ごとがある」と言って呼び出された。何かと思ったら、「由良先生に、おれが鈴木に剣道を教えてやった、と言ってしまったので、そういうことにしておいてくれ。頼む」というのだ。別にかまわないよ、と答えた。私は剣道部の部長だった。彼もたしかに一時剣道部に所属していたのだが、運動神経ゼロなので、ぼかすか打たれているばかりだったため、一ヶ月くらいでやめてしまった。
 万事がそういう調子。
 「私は生まれる前から映画をみていた」とか書いているけど、中学1年のときに映画に連れていってやったのは、この私である。
 同級生に取材して書いたにもかかわらず、その同級生たちのことをわるく書き、自分だけは憂いを帯びた哲学的な高校生として描いているのだから、まったく呆れる。本人を知っている人なら、「また始まった」で済むのだが、知らない読者は信じてしまうのだろうなあ。
 昨年、文芸誌「新潮」に掲載されたが、その後、2年先輩の矢作俊彦から新潮社に「でたらめを書くな」と抗議があり、彼に関する部分は全部削除したそうだ。同級生だった金子勝も怒っているらしい。
 小説なら許せるが、あたかも実録のように書いているから、たちがわるい。ほとんど嘘なのに。しかし、もし小説家だったら、自分がいかにカッコイイ高校生だったかを世間にアピールしたくて、こんなものを書いたりはしない。そんな小説家は見たことがない。こういうものを書く神経が、私には理解できない。
 私自身も登場人物のひとりとして、まったく事実無根のことを書かれているのだが、友達だし、まあいいや。笑ってすまそう。




April 06, 2006

訂正のお知らせ

 本日、先にも書いた四方田犬彦こと当時小林剛己の同級生である鈴木昌氏(既に多方面で書かれているので名前を掲載させていただいたことご容赦願う)から彼のことへのコメントのメールを戴いた。この場を借りてお礼申し上げる。その氏曰く、ただ一言「私小説ならともかく嘘を書くな」ということだった。これで、同氏や金子勝氏、更に「出鱈目かくな」と出版社に抗議したという矢作俊彦氏のような著名人となった諸氏のコメントが同様であり、世に無名ではあるが本バリストに関しては首謀者であった私自身が証言するのだから、四方田犬彦の妄信者どもはさておいて、小林剛己の言っていることは嘘であり、そうでなくても自分の都合のいいように書いているに過ぎないということは明白であろう。

 ただ一点、事実誤認のないようにとのことで名前に関して指摘を戴いたのだが、それによると当時は小林剛己というのが本名だったのだが「四方田」というのも本名だそうで、大学時代から彼の家庭事情により母親姓を名乗っているらしい。本人および親族関係者には、ここに訂正とお詫び申し上げる。

 但し、このことからも私の彼へのイメージは、以前から本書のなかにもちらちらと見せていたマザコン性を感じ取っていたのだが、更にそれが確信へと深まり、先のペンネームに関してはいっそのこと改めて「四方田冬彦」にしたらどうだろうかと提案申し上げる。



March 31, 2006

四方田犬彦「ハイスクール1968」を斬る (続き1)

 さて、前置きはこのくらいにして、タイトル通りずばり斬らせていただこう。

 要は、実際のところ四方田犬彦こと小林剛己は当バリケード封鎖ストライキに関して、当事者である私たちにしてみれば、後にも先にも共に戦ったわけでも積極的に関与していたわけでもないということだ。即ち、それが自分の知らないうちに解除され終了したとしても、外部の人間として批判するのならともかくとしても、裏切られたと当事者を恨むこともできないし、彼が言うところのこの事件を引き摺って「ひとたび関わってしまったものがそれをめぐる倫理的決着を付けるには、時として予期しないほどの時間が必要である」ということも無かったのである。したがって、同書を執筆した真の目的は実際に自分の母校で起きた事件をネタにした印税稼ぎか売名行為なのかは私には知る由も無いが、ただ博識をひけらかし自己流の屁理屈をこね「歴史を捏造」することによって自己の「経歴を詐称」するような行為は著名な学者となった彼が「歴史のドキュメント」として世に出すにはあまりにも問題が多く、ましてや積極的に関わり戦った他の人間を実名で批判というよりむしろ扱き下ろしておいて、さも自分だけが正しくまともだったのに他の仲間から裏切られて傷ついたといった悲劇の主人公を演じるのは断じて許されることではない。

 確かに、彼は自分が主体的に全てをやったなどと大法螺を吹き、嘘をついているわけではなく、途中から賛同し参加しようとしたとだけ書いている。百歩譲って、当方はそれを容認し一度は受け入れたとしよう。しかし、その全行為の指揮者であり責任者であった私は彼に食料調達のために出るように依頼や指示をしたことも容認したという事実は決してないのだ。何故なら、既に篭城の可能性を考慮しており先に書いた武器以外にも、ご指摘のセクト集団である共産主義者同盟(ブント)戦旗派(とは限らないことは後で述べるが)の高校生下部組織「高安闘委(高校生安保闘争委員会)」の女子高生同士達が事前に用意してくれた握り飯やサンドイッチがあり、その彼女らがレポとなり警察や報道関係などの外部の動きを察知するために校門近くの公衆電話のところに待機していて、いつでもこちらからの合図でそれらが差し入れられるようになっていたからだ。当時は今と違いコンビニも携帯電話も無く、この時代を知る人ならこの苦労だけでも大変なことだったのはお分かりであろう。にもかかわらず、彼は、良きことと思ってしたことかもしれないが、自らも曰く「私の行動は・・・他のメンバーには、おそらく理解されない類のものだった」というように、実際に統率を乱し勝手にバリケードから退出したのであって、その間に何が起ころうが私たちが彼に負うところは一切無いのである。更に、彼自身も書いているようにあの危機的瞬間に私たちが今後の戦術を討議していたなかでその場を去り、しかも教師及び共産党系民青のスト破りや警官導入があるとすれば、放課後他生徒が下校し暗くなった頃であろうと誰でもが想像できるときに、ピクニックか遠足の準備気分で帰宅したのであって、むしろ私たちからしてみれば彼の行動は闘争拒否戦線逃亡と思われても仕方がない行為だったのだ。

 ウェブ上で、この四方田犬彦のことをやや批判的に書いている面白い書き込みがあったので、作者不明のため勝手ではあるが引用させていただく。
 
 『四方田犬彦著「ハイスクール1968」は、著者が15から18歳になりきって書いているわ、、、単に今でもそのままなのかしら、、、スバラシイわ。
それにしても、当日までバリケード封鎖されることを知らなかった四方田少年が数時間バリケードを離れた間に自主解除されてしまったとしても、どうして主体的に関わったわけでもない彼が、心に傷を負ったのかがわからない、、、
きっと若かったからなのね、、、(←なにも説明されていないのと同じ) 
結構小説のように読めるのは、主観的に書かれているので、著者があたかも村上春樹の小説の主人公のように、ご都合主義的に卑劣なところがなくて、ある意味純粋であるように描かれているからね、、、(村上春樹の小説の方は登場人物に主人公をさりげなく褒めさせたいしていてセコイわ)
多分、この本から受ける印象と実像は違うのでしょう、、、主観的な「15歳の自画像」であるのだけど、それは私たちも持っている自分に都合の良い主観的な自画像とも容易く重なるわけよね、、、
ともあれ、時代背景は違っても似たような高校生だった人にはなにやら懐かしい文化事象が次から次へと出てきて楽しい本でしたあ。
読みながら「なんか変だなあー」と思って検索してみると鈴木晶氏の日記(3月3日)が出てきた。「友達だし、まあいいや」と笑える仲ってスバラシイわあー。なんちって 』

 全くその通りである。

 先にも書いたように、当バリストが高校生紛争史上最短で軟弱であったかもしれないが、そのことから起こる政治思想的および戦術的な批判を、我が「高安闘委」のなかにも揶揄批判するものもいたし、それが他党派や当時戦っていた他校の高校生同士からであれば、指揮したものとして甘んじて受けとめよう。しかし、私は私なりに置かれた諸々の険しく厳しい環境下でそれなりの成果があったというように自負している。些細な抵抗ながら全校生徒と教師への問題提起としては効果があったことはもとより、小林剛己は知らなかっただろうが、バリ封解除と跡片付け(彼が言うようにバリケードをそのままにして帰っていない)にあたりその条件として、全校生徒に闘争の問題提起案件に関して討議の場と機会を与えることと私たち実行者の中から処分者は出さないことを教師学校当局側に厳約させており(この後のことだったと思うが、私個人のことでも、卒業式に出席しないことは勿論学校にも近づかないということを前提に無事卒業させるといった前代未聞のボス交的密約もあった)これらの諸条件内容でバリスト内の全員で民主的に決定したのであって、部外者である人間がとやかく言うことではない筈だ。まして、最初は「遊びじゃないんだ」と言っていたという私が後ではちゃらんぽらんな態度で「やーめた」と言ったとするニュアンスの同書内容は、私個人への中傷のみならず、当時このバリストを指揮先導してきた「高安闘委」即ち「ブント」に対する誹謗であり挑戦でもあり、これは今となっては存在しない組織ではあるが、また私自身も現存する「ブント」の人間でもなく、政治活動もしていないが、今ここに「歴史的事実の捏造」と私個人への「誹謗中傷」として著作者と出版社に対して厳重に抗議する。

 しかも、これらの約束が教師学校当局に破られたときには、再度更に強硬なバリストを実行するつもり用意はあったのだし、私個人としても退学処分覚悟で折角確約された卒業を袖にしてでも火炎瓶を投擲することも厭わなかったのだ。四方田少年こと小林剛己にしても、このバリケード解除に不満で真に何か行動をさらに起こす気があったのであれば、欲求不満解消的にガラスを破るのではなく、もっと自ら前向きに且つ主体的に活動実行すればよかったのである。彼はそのような活動を実行する努力もしないで、後になってぶつぶつ愚痴っているだけのことで、そして団塊世代の人たち同様に、高校生闘争の当事者の多くも語れないあるいは語りたがらないのを良いことに、50歳も過ぎた今頃になってそのことを書いている彼は、私には単なる女々しい自己中心的なお坊ちゃん育ちの人間としか映らないし、同書の他の部分でも見られる折角の博識と緻密な資料(多分自分で集めたものではないだろうが)も単なるスノビッシュな鼻持ちならない自慢話的なものとしか感じられないのは私だけではないようだ。(倉本智明のWeblog☆海月帳 スノビズム.を参照)

 但し、実際には、このようなミスリーディングを引き起こすような本の内容が、既に多くの一般大衆読者だけでなく当時を知らない後輩や、評論家および知識人(なかには不思議で残念なことに、当時の我が母体組織ブントの流れを汲むはずの月刊「情況」の編集部や上野高校闘争の歴史に関して著した人間等をも含む)にまでも、四方田犬彦の間違ったイメージや捏造された歴史的事実を植えつけてしまったこととなったのは事実であり、著作者や出版社新潮としては結果として本が売れて更に知名度が上がり両者の目的が達成され万歳なのかもしれないが、当時の状況や本人を知る私を含めた当事者や関係者としては許し難いものがある。であるからこそ、著作者に対してのみならず、偉い先生の自伝ということで鵜呑みにしただけなのか分からないが、事実の検証や実名掲載についての考証を怠り発刊した出版社をも同様に糾弾する次第だ。このことは、同級生であり著名人となった金子勝氏や鈴木昌氏が批判や抗議をしているようだし(http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1085057356/)、実際、同書に登場しやはり各界でご活躍中の矢作俊彦氏ことM先輩(当時私も親交があったが2年留年しようと先輩は先輩だと思っている)からの「出鱈目書くな」という猛烈な抗議により後に出されたハードカバー本のほうでは人名を架空名にし、加筆削除訂正していることからも非を認めていることは明らかなのだが、私を含めその他の関係者には謝罪の一つもない。

 余談だが、また人の名前をとやかくいいたくはないが、小林というのは著名人としてはインパクトがないからしょうがないとしても折角親から授かった剛己という男らしい立派な名前があるにもかかわらず、よりにもよって四方田犬彦とは陳腐な名前をつけたものだと思うのは私だけであろうか。まあ、名は体をあらわすということだから納得いかないではないが、八方美人にも至らない中途半端な「四方」で校名に農学部と付けるくらい農業に思い入れがあるかのような「田」を用い、官憲や権力に媚を売るような輩を指し示すあるいはイメージさせる「犬」や「彦」を使っているので(親愛なる井上雄彦さんゴメンナサイ)、逆によくしたものだと感心しているほどだ。もともとは「犬」ではなく「丈」だったらしく、出版社の誰かが間違ったのをそのままにしたそうだが、間違ったのではなく意図的だったのかあるいは全てをお見通しの神の悪戯だったのではないかとも思えてくる。

 名前のことでもう一点。実名から書き換えられた私の名前が釜石だったが、できることならば漫画上で惹かれていて私の当時の組織コード名でもあった力石徹という名前にして欲しかったよ。
 
 冗談はさておき、四方田犬彦こと小林剛己もこの辺りの状況事実を真摯に受け止め、恨み節のような他者への御託りばかり言っているのではなく素直に自己批判ができるような人格であったならば、私なんかと違い自分でも自慢しているくらい頭が良いのだからもっと立派で大きな人間になっていただろうに、と思えて非常に残念であり、歳が一つしか違わない出来の悪い先輩からで僭越かつ余計なことではあるが、ここにあえて助言及び忠告をしておこう。(続く)



March 23, 2006

公開質問と抗議状

新潮社並びに四方田犬彦に対する公開質問並びに抗議文四方田犬彦著「ハイスクール1968」で「ブントの大谷」と実名で酷評された、同氏本名の小林剛己の一期先輩である大谷行雄より。

 平成16年に新潮社出版の当該月刊「新潮」8、9、10月号が発刊された直後に、小生の私事私業の理由で中東ドバイに赴くこととなったため、またその後の多忙さと距離的な遠さから大分時が経ってしまったが、このままでは間違った事や意図的に捏造された事々が既成事実化されて事態そのものが風化してしまうのを恐れ(既にそうなってしまったとも思えるが)、同書に対する抗議及び批判文を提出・公開することを、今さらながら急遽この様なインターネットを利用した容での実行となった事情を関係諸氏にご理解戴きたい。

 まず新潮社に対しては、当該文書の舞台である高校名に関し、意図的に筆者の書き様をそのまま鵜呑みにしたのかどうかは不明だが、同校正式名称「東京教育大学附属駒場高等学校」を「東京教育大学農学部附属駒場高等学校」(創立時はともかくとして、当時も旧称とされた今も農学部は付かない)としていることに、同校並びにその卒業生を代表して抗議し、正式な訂正謝罪を要求する。

 本件は、第三者的にはたかが農学部が付くか付かないかだけの他愛の無い問題のように思われがちだが、学校の歴史からの慣習内容や地理的に隣接されていた関係上、時折同校在校生や卒業生の自嘲的な思惑や外部人間の揶揄的表現として実際には使われていたものの、それらが侮蔑的な意味合いを含んだ場合が多く、正式名称とされるのは同校関係者としては甚だ迷惑なことである。いまだに学校関係者やOBの誰からも何らかの抗議苦情が来ていないのであれば、それは同校の校風のひとつでもある自由放任主義からくる寛容性があってのことであろうとご理解戴きたい。

 それに、そもそも同書の中心的事件である同校バリケード封鎖ストライキのきっかけそのものが、母体大学である東京教育大学が筑波大学に改名され附属校名もそれに準じるという一件であり、政治闘争的には一連の全共闘闘争と同様に当時政府の大学校改編政策に反対してのことであったが、なかには純粋な愛校精神から問題にして立ち上がった者もいたこともあり、たかが校名と済まされる問題ではない筈である。
このことからしても筆者の世も四方田犬彦(本名・小林剛己)が、逐次詳細は後に譲るとして、当時いかに思想も信条も無い単なる軽薄なええ格好しいでしかなく、社会的問題意識の観点からみても希薄で、ただ博識をひけらかす口達者だけな似非反体制高校生であったことが明白であり、自称「歴史のドキュメント」とするような代物を書けるような立場や資格が無いことが明らかなのである。それでもこの様な独りよがりな欺瞞的自伝が世に出せるのも、彼が当時言っていたというエリート路線上にいる自己の否定といった様なこととは全く裏腹に、立派に東大を出てどこかの有名大学の偉い先生になったからこそ成せた業であろう。勿論、彼の空想力や文才、更に批評家としての学術的な業績を批判するつもりは一切無いし(しようにも全く興味も無く知らないのでしようが無いが)、当時の彼を人格的な面で批判するのは小生のみならず彼の同級生のなかにも少なくないと聞いている。

 小生が本のなかで個人y的に酷評されているからこうして反発していると思われるのも不本意なので一言お断わりして置くが、その個人的な酷評すら的外れでありそれが単なる視的外観から生じる(闘争上適した米軍払い下げのジャンパーや編み上げ軍靴を好んで身に着けていた所為か)主観だけの問題ならば仕方が無いとしても、その描写が三島由紀夫の盾の会メンバー(矛盾しているようだが、彼自身も三島由紀夫氏には心酔していた筈だが)や右翼を想像させるもので自分としては赦し難く不本意なものである。ただ、よく当時官憲や反対党派が使ったような誹謗中傷のフレームアップのようで今となっては滑稽でもあり、小生をよく知っている同級生や仲間にしてみれば正反対な(どちらかといえばフウテンと呼ばれた長髪ヒッピー族のような風体だった)描写なのでなかには腹を抱えて笑い転げていた者も居たと言えば、如何に的外れであったかが想像できるであろう。

 但し、それが下級生の吸おうとしたタバコへの小生の言動に代表される一連の行動の所為であるならば一言反論させて戴きたい。確かに、彼の言うように他校を渡り歩き逮捕歴も2回ある活動家であり、煙草も中学時代から吸っていた小生ではあるが、その下級生以上に緊迫していた自分の言動が周りに旧日本軍人を思わすものであったとするならば、それは小生がバリケード内の仲間誰一人にも知らせずに隠し持っていた火炎瓶の所為であろう。

 その経緯詳細は後に必要であれば述べるとして、そうでなくてもあの緊迫した状況下で、同書の筆者である小林剛己は、バリケード闘争に参加したそれぞれが停学や退学、或は機動隊導入の可能性など先のことを不安に感じながら思いつめている後輩仲間のなかで、授業がつぶれてお遊び気分でバリケードに入ってくる彼の感性に反発を感じながらも、何しろ少数グループのため下級生にとっては一人でも多いほうが心強いであろうとの判断で、本来歓迎できない二人(もう一人は玩具のピストルでふざけていた男)を受け入れてしまった後悔と自責の念からの小生の苛立ちによる言動だった、ということすら判らないほど鈍感で無神経な人間だったのだ。そんな輩にあの状況下で迷い悩んでいた人間の気持ちが判る筈も無いであろうし、それとも小林はあの時あの場に対機動隊やスト破り用の木刀と投石用の石、更に火炎瓶までもが用意されていることを知っていて、そのような状況に真剣に対峙出来、必要が生じれば機動隊と渡り合い母校の校舎校庭を煙火に包むほどの覚悟があったとでも言うのであろうか。                                〈続く〉



アラブでの今の私

アラブでの今の私

snapshot
beachfootball





March 22, 2006

自己紹介と戦いのプロローグ

 表題の本を読んだ方や関係者には説明する必要はないだろうが、(旧)東京教育大学付属駒場中学校・高等学校(通称「教駒」)、現在では1970年の大学校改編により改名され国立大学法人筑波大学付属駒場中学校・高等学校となった通称「筑駒」は、ここ35年以上にわたり中学及び高校受験生の憧れの的であり、実際、東京大学を始め全国一流大学への合格率上位の座を誇る超エリート校である。その高校で奇しくも37年程前に、今のところ創立以来最初で最後であるバリケード封鎖ストライキを敢行した数名の生徒がいた。同書にも書かれたように、その中で最年長であり首謀者だったのがブントの活動家大谷と実名(2003年8月号から10月号までの連載された月刊「新潮」のほうで、後に出版された書籍本のほうは仮名に変えられ、内容も微妙に改竄されているが、ドキュメンタリーと著者自ら称している点には変わりがない)で称されたのがこの私本人だ(これもまた書かれているがもう一人、一期上から留年してきた漫画家志望の新左翼シンパでアナーキーな先輩かつ同学年の友人がいたが、新鋭(前衛)漫画家だけあってトンデいるというか深刻な場においてもあまりにもおチャラケ過ぎていたのでバリケードから退出願った記憶がある)。
 
 確かに当時私は、赤ヘルメットで有名だった共産主義者同盟(ブント)社会主義学生同盟の高校生組織、高校生安保闘争委員会(高安闘委)の主要メンバーであり一時は委員長も務め、活動による逮捕歴も2回あるが、その母体組織ブントがかの赤軍派を生み出し、私もそれにいち早く参加したのも束の間、1969年7月8日に同同盟内中大右派との内ゲバで殲滅拉致され、高校生だからということで多少ぶん殴られたうえで脅かされ強制自己批判をさせられただけで、他の同士に対してなされたような悲惨なリンチ(一人は逃亡しようとして死亡)からなんとか逃れたという、不良学生や暴走族でもない限り今の受験生やエリート高校生からすれば全く考えられないような経験を持っている。もちろん1970年前後の安保闘争や全学連全共闘学生運動の時代を知っている、団塊といわれる世代からすれば、ちょっと早熟だっただけというか、ただ純粋(単純?)だったというだけで、当時では決して珍しいことではなかった。それでも我が母校においては、やれ1969年1月16日から18日にかけて東大安田講堂での機動隊との熾烈な死守攻防戦の末、最後陥落時に赤旗を振っていたのが高校生だったのであれは私ではないかとか(ヘルメットとマスクで顔はわからない為)、或いは1970年3月31日に「よど号ハイジャック事件」を起こし北朝鮮に渡った赤軍派同士の一人に未成年(高校生)がいたと報道されるや、教師や生徒の間で私ではないかと騒がれ、実際に教員会議ではもしそうだった場合の対応策や処分を決めるのに喧々諤々としていたそうだ。実際まったく的外れというわけでは無く、私が加盟していた組織からしても同一或いは関連があり、安田講堂のときは一日違いのことで、東京の者は最後の娑婆ということで家に帰っていた代わりに地方から来た高校生を含む部隊が残留し徹底抗戦の名誉に預かれたわけで、もし機動隊導入が一日遅れれば私達東京組が屋上にいる事になっていただろうし、よど号ハイジャックに際しても前述の内ゲバで拉致された後半強制的に赤軍派から引き離されていなければ、流れとして参加していた可能性はかなり高かっただろう。ただ偶然というか必然的に、その時期に学校に出ていなかったことと(普段からあまり学校には行っていなかったのだが)、記憶に間違いがなければ、当時の報道で少年Yと報じられ私の名前が同イニシャルだったので(実際は、実行メンバーの吉田金太郎と同メンバーで高校生の柴田泰弘のYが混同していたようだったと思う)、ハイジャック事件発生の翌日かに、別件で他党派との内ゲバによる怪我で顔に包帯を巻き、松葉杖をついて親父の車に乗せてもらい登校するまではほぼ間違いなく私だと思われていたそうだ。そのときには既に私の渡米の話が決定しており、ハイジャックの高校生は自分ではないという証明をしに学校に行ったようなものだが・・・。
 
 因みに余談ではあるが、当ブログのIDはその名の通り、私が在米当時ブラックパンサー(黒豹党)との関わり合った頃から興味があり、今では自身がイスラムの地にあり更に心酔している、かの暗殺されたブラックイスラムの指導者・故マルコムX氏の名から頂き、それに続きたいとの想いからXの次の文字でもありマイイニシャルでもあるYをつけたものだ。勿論当時の活動から引き続いて政治活動を現在しているわけではないが、自己の半生の精神的な総括としてイスラムに拠りどころを見出した現在の自分の心情的なものとして使っていると理解いただければ幸いである。

 とにかく、そんな一連の事件の合間の1969年12月8日に、母校でバリストを敢行したのだが、そのときのことを後輩である小林剛己(四方田犬彦の実名)が本にしたと知人から聞き早速読んだその感想は、私に対する個人的な批判は正直むかついたもののそれが彼個人の主観的なものであろうから許せるとしても、事実関係の意図的な曲解や隠蔽と当人の関わり合いに関してのでっち上げや捏造に関しては、彼の社会的立場が影響力をそれなりに持っている立場なだけに、絶対に許されるものではなく、時がときであれば私や当時の仲間から私刑やゲバられても仕方の無いところだろう、と思っていたし、当時の仲間とも話しをしていた。

 にもかかわらず、そんな私が今までの未対応と沈黙を破り、今更になって本バリスト事件に関する事実と著者の本当の姿の欺瞞性を暴露し、同出版社に対しては抗議糾弾するという決意にいたった経緯と心情を、これから出来る限り詳しく書き連ねていきたいと思う。

 尚、当ブログを開始するにあたり、最後にお断りしておくが、なにぶんにも古い話で異国にいることもあり手元に資料も少なく、時期や人名(必要と思われる場合は仮名にするが)などに間違いや勘違いがあったりする可能性も否定できないのでその点をご了承願いたい。但し、四方田と違い嘘や事実捏造は神に誓ってするつもりはないので、元関係者等からの真摯な指摘・批判あるいは関連する資料提供などは歓迎するが、無責任なふざけた2チャンネル的な書き込みはご遠慮願いたい。
       
                   アラブ首長国連邦ドバイにて
                   マルコムYこと大谷行雄