2016年11月27日

湯瀬温泉のチラシ

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今日紹介するのは、湯瀬温泉のパンフレットです。湯瀬温泉とは秋田県北東部の山あい、JR花輪線沿線にある温泉で、昭和戦前期にホテルを建てて観光開発に乗り出したものです。そのホテルのチラシです。尾去沢鉱山や八郎潟、大更駅から屋敷平(後の東八幡平)への路線も描かれ、興味深いものになっています。

この絵図の中心にあるのが、このホテル。川の両岸を跨いで建てられています。現在もこの形は続いています。しかし、ホテルのうらにテニスコート?かわいらしいなあ。  
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2016年05月23日

戦前の木屋平へのバス路線

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徳島県中部の山村、木屋平(こやだいら)。吉野川沿いを走る徳島線の穴吹駅から路線バスが一日3往復結んでいます。

このバスですが、戦前からの長い歴史を持っています。現在は美馬市営バスですが、かつては徳島西部バスが運営していました。同バスが撤退した後は木屋平村が引き継ぎ木屋平村営バスとなり、そして平成の大合併で美馬市営バスとなり今に至ります。

今回紹介するのは、そのバスを描いた戦前のチラシです。南が上になる珍しい配置ですが、これが誠に効果的。穴吹から木屋平へ、そして剣山へと登っていく様子を素晴らしく描いています。

このバス会社が「越麓自動車部」。気になってネット検索してみました。すると「越麓タクシー」というのが引っかかりました。この越麓タクシー、ネット大百科事典によると、なんと、美馬市営バスの木屋平線を委託されている会社なのです。戦前の越麓自動車と現在の越麓タクシー、関係があるのかないのかわかりませんが、縁を感じます。

戦前のバスについて、当パンフレット裏面に説明が書かれてありました。
「穴吹駅より山麓谷口迄(35キロ)乗合自動車の便あり所要時間二時間半…一日3往復、料金片道2,30銭」

このチラシの発行元は「龍光寺」。木屋平の谷口に別院、剣山登山口の富士の池ほとりに本院があるようです。当時は登山客を迎えて栄えていたようです。これまた裏面説明の旅館の項から。
「谷口 主なる容泊所として剣山ホテル、大内屋、小松屋等あり収客人員1000人宿泊料1,00銭乃至1,50銭支度50銭。
龍光寺本坊及籠堂は登山者の宿舎として1000人を収客することが出来る」

  
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2016年05月22日

昭和初期、剣山へのバス路線

剣山。四国第二の高峰で、徳島県中部に位置し、多くの登山客が訪れています。剣山に行くルートは大きく分けて4つあります。

)姪譴ら木屋平ルート:穴吹→木屋平村→剣山
∨未ら一宇ルート:貞光→一宇村→剣山
K明召ら一宇ルート:阿波池田、大歩危→祖谷→剣山
て遒弔襪ルート(最近売り出し中)

このうち、 銑にはバスが走っています。ただ現在では、剣山手前の見ノ越までバスで行けるのは登山シーズンに限られています。木屋平ルートはGWと夏と紅葉シーズン、貞光ルートは夏のみ、祖谷ルートは春夏秋の週末とシーズン中の毎日となります。

これらのバス、戦前から走っていたのでしょうか。たまたま今日、1930年ころの徳島線の案内図を見つけました。それを見ると、

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〔擴以織襦璽函Х蠖瓩ら木屋平村の中心の川井まで
一宇ルート:貞光から一宇まで
A鎮ルート:阿波池田から途中の久保まで。

それぞれ途中の集落の中心までですがあります。昔から存在していたなんて、何だか感動的ですね。



  
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2016年05月03日

箸蔵山ケーブル御案内

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高松からJR土讃線に乗って高知に向かうと、途中で徳島県に入ります。吉野川を長い鉄橋でわたると到着するのが阿波池田。吉野川が山間部から平地に出る地点に作られた町です。

吉野川を挟んで北側に箸蔵の町があり、JR土讃線にも箸蔵駅が設置されています。あるとき駅を降りると、その近くにJRとは別の駅があるようで案内が出ていました。山の上にある箸蔵寺へと通じているようです。

今回は、そのケーブルカーの戦前のパンフレットを紹介します。箸蔵登山鉄道という会社だそうで、1930年に完成。可愛らしいパンフレットで旅情をそそります。

小さいパンフレットながら絵に小さくケーブルカーを書き添えてみたり、また地図も分かりやすかったり、なかなかの出来映えかと思います。地図をよく見ると、厳島の鳥居が海中にあったり、鳴門に渦潮があったり、徳島穴吹間が点線で結ばれていたり、そもそも高松徳島間に鉄道がなかったり、なかなか味わい深いものです。

パンフレットを見ていて、何だか箸蔵に行ってケーブルカーに乗りに行きたくなってきました。

ちょっとネットで調べてみると…、なんとケーブルカーは戦時中に撤去されてしまっていたではないですか。現在ではロープウェイが麓と山とを結んでいるのだとか。自分が土讃線箸蔵駅で見た、山の上へ通じる駅の案内は、ロープウェイのものだったのですね…。
  
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2015年07月20日

林道の洗い越し

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最近見かけた、林道での洗い越しです。
  
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2015年05月22日

【浜名湖遊覧◆柯楊掌仆箙卅イ離僖鵐侫譽奪

9a342dc5.jpg今日紹介するのは、浜名湖巡航船株式会社発行の、浜名湖めぐりというパンフレットです。全体的に青基調の、瑞々しいパンフレットです。

f90db8a2.jpg浜名湖…そういえば、あんまり船というイメージは無いのですが、かつては縦横無尽に路線があったのです。鉄道でも今はない路線も載っています。

こちらのパンフレットですが、二俣線(現在の天竜浜名湖鉄道)の開通具合から、1938年4月7日〜1940年6月1日の間のものだと思われます。

7b156f57.jpgこの会社は浜名湖南西の鷲津(東海道本線)を本社・起点としており、北側の三ヶ日などを結んでいました。半僧坊へのハイキングコースが太く描かれており、当時の定番ルートだったことがうかがえます。

1e00ed3f.jpg浜名湖巡航船の「つばめ」です。



  
Posted by malmondo at 07:19Comments(3)TrackBack(0)Sxipo & boato/ 渡し舟・フェリー | 古本

2015年05月19日

川久保の諏方神社

京都府と大阪都の間にある水無瀬。この水無瀬にある水無瀬神宮は、承久の乱で隠岐に流された後鳥羽上皇の離宮跡に建てられたもので、後鳥羽上皇をまつっています。

726b4ba5.jpgここを流れる水無瀬川。上流に遡ると、何故か西となりの高槻市に入ります。ここに川久保という集落があります。

b8b01820.jpgこちらが川久保の様子

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。集落には諏訪神社があります。なぜこんなところに諏訪神社が!? どういう経緯があり、どういう謂われがあるのでしょうね。

こちらが諏訪神社。
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10e0f338.jpgかつて、境内に小学校が置かれていたようです。

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8767ab57.jpgこちらが本殿です。

38ce5a5e.jpgこの文言、気になってます。


  
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2015年05月16日

京都合同乗合自動車会社 (追記を編集あり)

【京都合同乗合自動車のパンフレット】

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今日紹介するのは、戦前のバス会社のチラシです。京都から西北へ、周山へと至るバスです。「京都合同乗合自動車会社」。京都出張所(一条通七本松西入)から岡平、高雄、中川、小野郷、細野を経て周山へと至ります。弓削や山国から上黒田、また殿田への路線も描かれています。沿線の名所を眺めると、神護寺などに混じって「小野猟場」(隣接の雲ヶ畑は宮内庁管轄の猟場として有名だったそう)「北山丸太産地」(今でもそうですね)「鮎狩」「河鹿狩」(かじかがえるを穫るのか?)など、これって名所か?と思える箇所があって面白いものです。車掌さんの制服やがま口鞄も気になるところ。

裏面は時刻表でした。かなり頻繁に走っていますね。

現在、ここはJRバスの走る路線ですが、このチラシでは「京都合同乗合自動車会社」となっています。省営バス(鉄道省経営のバス。後の国鉄バス→JRバス)ではないのです。省営バスは1937年に走り始めたのですが、このチラシはその以前のものでしょうか。

京都合同乗合自動車会社。ネットで検索してみました。しかし出てきません…。いったいどうしたことでしょう。

【スミス銀バス】

ここで、数年前の展覧会を思い出しました。「地域をむすぶ−京都府の交通史−」。そこに、省営バス開設前の京都周山間のバスについて紹介されていたはずです。家の奥の方からその解説集を捜しだし、見てみると…、それらしきものがありました! その解説を引用します。

スミス銀バス路線図
大正13年(1924)年、…常照光寺から周山村経由京都市内に至る、当時まだ険しかった山道にバスを走らせました。…本店を周山村に置き、「スミス銀バス」と名付けました。
当時のことを知る地元の方のお話によると、このバスは車体が銀色で、路線で旗を掲げて待っていると、どこでも止まって乗せてくれたということです。

スミス銀バスとは印象的な名前ですね。しかし、京都合同乗合自動車会社の名前はどこにも出てきません。どういったことでしょうか。

最初のチラシに戻ります。バスをみると、車体がなんと銀色ではないですか。ということは、おそらく、これがスミス銀バスなのでしょうか。これ以上の確たる証拠は見つかりませんでしたが、想像が膨らみます。

ネットで検索すると、京都合同乗合自動車は全く出ず、スミス銀バスについてもこの展覧会関連のサイトしか引っかかりません。バスの歴史を調べるのは難しいのですね。

【京北町誌を見る…5/16追記、さらに編集】

そこで、地元の京北町誌を読んでみることにしました。そこに詳しい情報が載っていました(以下、抜粋要約)

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乗合馬車の時代などを経て、乗合自動車営業が定着したのは1921年のこと。田中卯三郎が周山から西へ山陰本線殿田駅に通じる路線を5人乗り乗合自動車3台で始め、活況を呈したのでした。

次いで1924年、松藤忠太郎が地元の初田初造から資金援助を得て周山・京都間の賃貸自動車を開業、スミス自動車と称しました。これに対抗して田中氏も京都への賃貸自動車を開設します。両者で競争となり、運賃が3円から1円へと下がると共に乗客も激増し、1930年には乗合自動車が認可されます。会社組織となり、5人乗りの普通車から座席15人乗りのバスになりました。

ここで、京都〜周山〜小浜に省営バス(後の国鉄バス)が1937年に開通しました。既存の民営2社は合併して操業を続けたものの、戦時体制下、翌年には鉄道省に買収された…

===

田中氏のバス会社、スミスのバス会社、その二者が合併したバス会社…。どれかが「京都合同乗合自動車会社」なのかも知れませんね。
  
Posted by malmondo at 08:22Comments(0)TrackBack(0)Auxtobuso / バスその他 

2015年05月15日

西高瀬川沿いを行く

高瀬川というと、個人的には熊本県北西部の玉名市の川を思い出します。高瀬川は中世は湊町で、有明海・東シナ海を経て中国との貿易で栄えたのだそうです。ある時、その高瀬川を訪れて、往時の栄華を思い起こしていました。

一方で京都にも高瀬川という川が流れています。こちらは運河。市内中心部までの物資の運搬を担っていました。

京都の西にも運河があり、こちらは西高瀬川と呼ばれています。嵐山から東へ伸びる運河。江戸時代から明治時代にかけて作られたのだそうです。

ある時、西高瀬川沿いを歩いてみました。そこで見つけたいくつかのもの。

小さな火の見櫓。
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朱雀墳墓地。そこに生える殺伐とした枝がまえ。
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そして、ダムのような場所。舟溜まりでしょうか。住宅に囲まれていて近付けませんでしたが…。
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この西高瀬川の近くには、蛇塚や天塚といった古墳もあり、飽きさせない場所です。


  
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西院太秦線

05757ccf.jpg京都の西高瀬川沿いを探索していたら、太秦の片隅でふと、送電線鉄塔が目に留まりました。「そっかあ、送電線かあ。送電線の真下って道路とか空き地になっていることが多いんだよなあ」と一般的な感想を抱いて通り過ぎようとしました。

その瞬間、妙なことに気付きました。京都は景観規制が厳しいせいか、上空には送電線など走っていないのです。周辺の山の中とか、または山科などのように外れたとこには送電線は走っているのですが、京都盆地の中には送電線や鉄塔などは見たことありません。それなのに、ここには鉄塔と送電線があるじゃないですか! いやはやびっくり。南へと鉄塔を追ってみることにしました。

太秦の南は、田畑と住宅地が入り交じる地域。あぜ道がそのまま道路になったとこや、袋小路の箇所があちこちにあります。送電線を追っていくのは困難を極めました。やがて有栖川が近付き、送電線は有栖川に寄り添うかのように走っていくようになりました。

b52ae887.jpgしばらくいくと、公園の中にある鉄塔で、送電線は地中に吸い込まれていくではないですか。意表をつかれました。
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8f53afc9.jpg鉄塔には番号が書いてありました。西院太秦線20。西院太秦線!なんだか嵐電の別名みたいですね。

今度は逆に北へと追っていくことにしました。

こちらが北に一つ戻った鉄塔。19なのだと思いこんでいましたが、後に21だと知ることになります。
63e27850.jpg手前が21、奥が20。
934943b9.jpg手前が21、奥が22

c76fb161.jpgこちらが23。

0c5a90c0.jpg20〜23は有栖川沿いに立っています。対岸からみた鉄塔。緑の帯が有須川、手前が23。

19c9842c.jpgこちらは24。周りはすっかり住宅に取り囲まれています。住宅の狭間に鉄塔への通路がわずかにのびるものの、途中で曲がっていて、鉄塔は全く見通せません。接近しての撮影はできませんでした。

25。こちらも住宅に囲まれていますが、24よりはまし。やや接近して撮影できました。
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この太秦地域といえば、蛇塚という古墳も、周りをすっかり住宅で囲まれています。住宅で取り囲むのが好きな地域なのかもしれません。

26。やはり住宅に囲まれています。鉄塔が住宅地のど真ん中にできたというより、鉄塔のまわりが住宅になってしまったのかと思いますが、送電線とか鉄塔って普通は迷惑施設ですよね? 実際にはどうなのでしょうか…
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b603f800.jpgそして、最初の西高瀬川沿いのやつが27となります。ようやく振り出しに戻る。これから北へ、送電線はどこまで続くのでしょうか…。愛宕山の斜面に送電線を見たことあるし、それに続くのかも知れません。夢は膨らみます。

fdd358e9.jpgしかし、ここで予想外の結末を迎えます。なんと、次の鉄塔(西院太秦線28)で、送電線は再び地中へと吸い込まれていくのでした…。 地上区間はこれで終わり!? まるで幻を見たかのよう。あたかも、砂漠で一時的に流れる川、ワディを見たかのような気分になったのでした。

この西院太秦線、ネットを調べると、少しの区間だけ地上に出る送電線として、その方面では知られているのだそうです。ネットを調べるまでは、送電線は北からきているものだと思っていましたが、ネットによるとその逆なのだとか。

なにはともあれ、面白い送電線です。
  
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