モルト侍

池袋のショット・バー、ジェイズバーのバーテンダーが、大好きなシングル・モルトを斬る。

2008年09月

告白

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さて、侍は告白をしてしまおう。
長々と偉そうなことを書いてきたが、実は侍は、自身をコミュニケーション勝ち組と思っていない。どちらかと言うと、テンポの良いコミュニケーションに出遅れて、追い付いて行けない侍である。これまでの指摘は、つまり、全般的に侍自身に向かうものでもある。そう、自意識を弄ぶとは侍自身のことである。簡単に言えば、侍は「チマチマしてしまう」のだ。

会話というコミュニケーションの中である種の展開力のある発言をする人、爆発の起爆剤になるような発言をする人、話題が転換する起点となり得るような発言をする人に、実は常に憧れてきたのが、この侍自身であった。

簡単に言えば、侍は「チマチマしてしまう」。つまり、自意識を迷走させてしまう訳だな。言いあぐね、言いよどみ、思い留まり、飲み込んで、さて、思ったことを言おうと決心したらば、時、既に遅し。周囲の会話は違う方向へと進んでいる。まぁ、若き日の侍の日常はそんな風であったのだ。だからこそ、そんな気持ちを抱えている人の心情は察するに余りある。

まぁ、そんな風で「接客業ができるのか?」と問われるならば、「やっていましたが…」としか答えられない。「どんな風にやって来たのだ?」と問われるならば、「チマチマと…」としか答えられない。

もう少し、具体的に言うなら、「チマチマとたくさん拾う」ということだ。

実は侍は自身をコミュニケーション弱者と思ってきたフシがある。ハタから見れば、「そんなことはないだろう」と言われるかもしれないが、実は「思ったことが伝わらない」と大いに悩んで来たのが、若き日の侍であったのだ。受け止めたボールを思い切り良く投げ返す。しかし、投げたボールの落下地点には誰もいない。

これって、切ないですよね?
しかし、そんな思いなら、いくらでもして来たのだ。

「何言ってんの?」
「良く分からない」
「意味が分からない」
「ふーん」

しかも、だな、
「バカじゃないの?」
そして、だな、
「サイテー」

さて、彼女たちは元気なのだろうか?
まぁ、そんなことはどうでも良いさ。
ただ、投げたボールはコロコロと転がって行く訳だな。
そして、誰も拾いに行かない訳だな。
仕方がないから、自分で拾いに行く訳だな。
一目散で拾いに行って、振り返ったら、もう誰もいない訳だな。
泣くわな。

さてさて、今でこそ、一人前の会話上手のように思われることの多い侍であるが、昔はまったくそんなことはなかった。思い描いてみて欲しい。「振り返ったら、もう誰もいない」。そんな場所にひとり佇む侍である。自意識は迷走し、足下にはかつて投げようと思って諦めてしまったボールがゴロゴロ。受け止めてくれる相手もいない。投げようという気力すらない。

もちろんそれは、期待から一番遠いところ。絶望に一番近いところ。
ただひとり。

ボールを拾う気力すらない。
拾ったところで、誰に投げたら良いのか分からない。

今思えば、そんな僕を救ってくれたのはシングル・モルトなのだな。

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ギンコー2

ひと休み。(16)

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誰に教わることなく、ウィスキーの愉しみを知っている人というのがいる。何かの機会にウィスキーを飲み、ウィスキーが気に入った人たちが、その後もウィスキーを飲み続けるというケース。確かに、その人がその時飲んだウィスキーを、その人自身がおいしいと思ったのかどうかは、実は良く分からない。ただ、その時間が愉しかっただけなのかもしれない。

だけど、その人にとって、ウィスキーを飲んだ時間が愉しいものなら、ウィスキーをおいしい飲み物と思うきっかけにはなり得る。その時間を共に過ごした人たちが良い人たちだったのだろう。だから、その時間が愉しかったのだと思う。だけど、そんな時、多くの人は愉しかったことと、そこにウィスキーがあったことを結びつける。そして、ウィスキーを「おいしい」と思うようになる。

そうやって、人は「おいしいウィスキーを、もう一度」と思うようになる。
始まりのエピソードとして良くある話だ。

「おいしいウィスキーを、もう一度」と思うようになり、ウィスキーをまた飲んでみるのだけれど、あの時間が愉しかったのは、ウィスキーのせいだけではなかったのだなと、やがて人は知るようになる。あの時間が愉しかったのはウィスキーのせいだけではなく、一緒に時間を過ごした人たちのおかげもあるのだなと思うようになる。

だから、ウィスキーを飲むと愉しくなるというより、良い人と酒を飲んだ方が愉しい時間を過ごせるということに人は気付く。そして、愉しい時間を過ごすために必要なのは、ウィスキーではなく良い人であるという風になる訳である。その方が一般的だな。そうは言っても、何故かウィスキーに心惹かれるという人はいる。

だけど、そうやってまた、ウィスキーを飲んでいるうちに、ウィスキー自体に「おいしさ」があることに気付く人たちもいる。僕が思うのは、そういう人たちは、自分で「感じる身体」に気付いた人。自分でグローブの使い方を知っていった人。「おいしさ」に気付けば、ウィスキー自体も当然愉しくなる。

そういう人たちには、ある種の逞しさがある。僕はそういう人たちと話をするのが好きだ。

そういう人たちと話をしていて、つくづく感じるのは「自分どうして、このウィスキーを好きだと思うのだろう?」という疑問。そういう人たちは、少しであっても、そのような問いを抱えてウィスキーを飲んでいる。答えを探すために違うウィスキーを飲むようになり、違うものを飲めば違う味わいがあることに気付き、より一層ウィスキーを愉しむようになる。

そうやって、誰に教わることなく、ウィスキーの愉しみを知って来た人というのがいる。

ウィスキー関連の書籍も増えた。ウィスキー専門誌も発行されるような状況だ。インターネットを通じて様々なウィスキーの情報がやり取りされ、それらの知識は僕らのウィスキーの愉しみを補完してくれる。20年前に比べたら、なんて素敵な世界だろうと僕は思う。ウィスキーの愉しみを知る普段の増えた時代だなと思う。

だけど、どんな時代だって、何より一番に大切なのは「感じる身体」だと思う。あなたがそのウィスキーをどのように受け止めるのか?つまり、グローブの使い方は知っていた方が良い。ということ。酩酊することだけを目的にするより安全で、そして、愉しみを広げる可能性の高くなる飲み方。ウィスキーを丁寧に扱うことは、あなたを快適にするだろう。

どんな人だって「感じる身体」、つまり、グローブを持っていると思う。ただ、グローブの使い方を知らないままの人はいる。そして、自分でそれを知っていく人もいる。分からなくて困っていなら、詳しい人に聴けば良い。自分のグローブの使い方に不安があれば、詳しい人に聴けば良い。十分に使い方を知るようになってからでも、他人のグローブの使い方は興味深いはずだ。

ただ、どんなに良い時代になっても、グローブの使い方を教えてくれる人はどうやら少ない気がしてならない。知識が増えても、グローブの使い方を知らないと、「感じる身体」を手に入れているとは思えないのだ。

あなたがグローブの使い方を十分に知らないと思っていても、ならばそれは、偶然かもしれないけれど、あなたがもしも、ウィスキーの投げて寄越したボールをキャッチしたら、受け止めたボールを足下に転がさないで、誰かに投げてみて欲しい。例えあなたが、そのボールを「イカの燻製」だと感じたとしても、誰かに投げてみて欲しい。

それは、あなたの愉しみを広げる可能性に満ちている。誰かに共感を得られたら、あなたは穏やかで優しくて、愉しい気分になるだろう。そして、その人がまた投げ返してくるボールを受け止めたいとも思うだろう。それは、自意識との押し問答より愉しい時間だろう。自意識と関わることなど、ひとりの時にいくらでもできるのだ。誰かがそばにいるのなら、その人と関わった方が良い。その人が立ち去らないうちに。

キャッチボールのコツは、テンポ良く呼吸を合わせること。相手の息遣いを知り、タイミングを知ること。自分のことは相手に知ってもらえば良い。あなたは相手のことを知ろうとすること。「知ってもらいたい自分」がいることは、後回しで良い。受け取らないと、投げ返せないのがキャッチボールなのだ。

小説は役に立たない。小説がかつて傷付いたあなたを、慰めるために有効であることは認めよう。確かに小説は、会話と会話の間に「本当の気持ち」があったことを、あなたに教えてくれただろうけど、だけど、ライブな時間のキャッチボールに小説は役に立たない。残念だが間に合わない。「本当の気持ち」を知って欲しいと思ったら、あなたがコミュニケーション能力の高い、興味深い人になった方が良い。そうすれば、相手はあなたに興味を持つだろう。

キャッチボールのコツが、「テンポとタイミング」であることを知ったなら、小説よりはテレビのお笑い番組の方が、キャッチボールのためにより重要であると知るだろう。確かにそれは、作られたテンポとタイミングであるが、あなたのライブな時間はあなたが作るのではないだろうか?小説家よりはお笑い芸人の方が、話し言葉のテンポとタイミングをより重要に思っているはずだ。

書き言葉で殺されるニュアンスを表すのが話し言葉だ。
そして、話し言葉ですっ飛ばされてしまうニュアンスを、書き言葉は拾っていくのだろう。

「イカの燻製」は確かに、伝わり難い感想かもしれない。だけど、テンポとタイミングを理解すれば、受け止めてもらえる可能性は高くなる。そして、相手が受け止めてもらえるだけの能力を持っているかどうかを、あなたがキチンと見極めることができれば、あなたのボールは相手に捕球してもらえるだろう。

世間でお笑い芸人が活躍するのも、テレビにお笑い番組が増えるのも、訳があるのだな。

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余市 10 15

ひと休み。(15)

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あなたにも「感じる身体」はあるはずだ。キャッチボールで言うなら、「感じる身体」とはグローブのことである。ウィスキーを素手で受け止めるには、直球(ストレート)は強過ぎる。だから、グローブの使い方を覚える必要はあるかもしれない。だけど、どんな人でもウィスキーを「感じること」はできるはずだ。

「感じているかどうか?が分からない」と言うなら、是非、ジェイズ・バーに来てみて欲しい。僕はあなたにグローブの使い方を伝えることができると思うし、あなたはやがて、ボールはグローブを構えたところに来ないことを知るだろう。グローブだけを見つめていたら、上手くボールを受け止めることはできない。打球を見つめ、その落下点に辿り着くことが捕球のコツだ。

あなたはウィスキーについて「知っている」必要はない。「感じること」ができれば、あなたは十分にウィスキーを愉しむことができるし、「感じる身体」があるなら、「感じること」は可能だ。グローブの使い方を知らないのであるなら、「感じる身体」を十分に生かしているとは言えない。それでは、十分にウィスキーを愉しんでいるとは言えないかもしれない。だけど、グローブの使い方を知れば大丈夫。

いづれにしても、「感じること」はウィスキーを愉しむ起点である。
そこを起点に、ウィスキーの愉しみは無限に拡がって行く。

だから、僕は皆さんにワクワクして欲しいのだ。ウィスキーを飲むことは、勉強でも修行でもないだろう。確かに、訓練を積むことで大きくなる愉しみというのはある。手に入れた知識が想像力の起点になり、それが膨らむことで拡がる愉しみというのもある。どんな人だって、どんな時でさえ、「感じること」ができるなら、ウィスキーの愉しみはそれを起点に拡がって行く。

人生にはシングル・モルトより大切なものはたくさんある。もちろん、シングル・モルトはあなたが抱えている問題を解決してはくれない。だから、シングル・モルトに興味など持たなくても、人生を有意義に生きて行くことは十分に可能だ。だけど、シングル・モルトはあなたの人生に、十分な愉しみを提供してくれる可能性がある。愉しみを持つことは人生に彩りを与えてくれるだろう。

「そんなことに興味はない」、「関心がない」、「そんなものが、何の役に立つのだ」。そうおっしゃる方がいるだろうことを僕は否定しない。「酒なんて酔えれば一緒」。酩酊することだけが目的なら、その意見は正論ですらあるだろう。ただ、残念なのは、その人たちの酒があまり愉しそうではないように見えることだ。

そんな人たちを見ていると、酒はコミュニケーションの副材料としてだけに使われているのだな、と思うことがある。酒も「使いよう」だから、そのすべてを悪いとは思わないけれど、どんな酒でもあまりにも乱暴に扱われていると、僕は少し切なくなる。むしろ、コミュニケーション・ツールとして、シングル・モルトは実に有効なのではないかとすら思っている。

ウィスキーは僕らの言葉だ。

酒の一般的な効用について、僕は僕の意見を以前お話をさせて頂いたことがあった。簡単に言えば、人は人と「交わりたいけど傷付きたくない」と思っていて、「自分の都合の良いように関われたら、どんなにラクチンなのだろう」って考えている、と。そして、人には誰でも「自分と他人」の境目があって、その境目は自分を傷付けないためには有効だけど、交わるためには邪魔なもので、酒はその境目を曖昧にしてくれるし、しかも、酒は「痛いことを痛くなくしてくれる」様子である、と。で、その効用は「既に痛いものの痛みを取り除く」という意味においての「鎮痛剤」のようではなく。「これから痛くなりそうなところを無痛にしてくれる」という意味で「麻酔薬」のようだ、と。まぁ、そんなことを申し上げた訳だ。

で、酒をコミュニケーションの副材料としてだけ考えて、酒全般を乱暴に扱うような人たちが、「シングル・モルトのことなど分かったからと言って、何の役に立つのだ」と言う訳だな。もちろんこれは、私見であり、独断であり、当然偏見と言われても仕方がないのだが、話を続けよう。じゃあ、そのような酒を乱暴に扱うような人たちが、コミュニケイトすることを目的に酒を飲み、しっくりと関わり合っているのかというと、全然そんな気がしないのだな。

飲んで騒いで、笑って泣いて。同じ時間と同じ空間を同じ人間が共有しながら、「お前らに何か共感があったのか!?」って言いたくなってしまうのだ。おまけに若い男女が「合コン」とか称して、集まっちゃう訳だろ?そんな場所で「△&♯■*▼%Ω○!」とか、「▽♯&дΘ●□」とか、「&σ%▲◎☆○」とかしている訳だ。で、終わって酔いが醒めたら「アレは何だったんだっけ?」ってな感じだ。

確かに、お祭りは愉しいが、その関わり合いが何かを残しているようには見えない。ガス抜きの必要性を無視するつもりはないが、何かを蓄えるようなことはできないのだろうか。それまで、積もりに積もった自らの自意識を吐き出すだけの場所。もちろん、僕はあなたがボールを投げることを否定しないが、あなたの「本当の気持ち」を受け止めてくれる人は、その場にいるのだろうか?

僕には、それぞれに「本当の気持ち」と名の付いたボールをみんなが持ち寄って、横一線に並んで一斉に遠投をしていうるようにしか見えない。

とは言え、もしも今度そんな機会があったら、オジサンも呼んでね。
特に「&σ%▲◎☆○」とかしてみたい。

慌てるな、侍!
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ひと休み。(14)

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キャッチボールは遊びだ。勝ち負けを決めることを目的としない、途切れることなく続けることを愉しみとした、深みはないが軽やかな遊びだ。軽快でテンポ良く続けることを目的としている。確かに、魅力的な投球フォームを持つ人や、惚れ惚れするようなボールを投げる人はいるが、何が魅力的なのかと悩んだまま、ボールを投げないあなたには誰も興味を持たない。

例えばあなたは、一杯のウィスキーを飲んで「イカの燻製の味がする」と思った。そこは、池袋のジェイズ・バーと違って、非常にオーセンティックなバーなのである。居住まいを正したバーテンダーが真っ直ぐに立っている。鼻ヒゲ眼鏡のにやけたオッサンではない。もちろん、そのバーテンダーは営業中に疲れたからといって椅子に座ったりしない。

照明は暗く、バックバーには見たこともないようなボトルが並んでいる。カウンターに座る数名のお客さんも、非常に紳士的だ。静かに隣の人と会話を続け、穏やかにシングル・モルトを愉しんでいる。笑い声すら落ち着いた様子で、自分も気持ちを静めようとチェイサーをひと口。目の前のバーテンダーと目が合う。

「いかがですか?」

目の前のバーテンダー氏はあなたに語り掛けて来た。さて、あなたは何と答えるのだろう?あなたはそのウィスキーに「イカの燻製の味」を感じた。それはつまり、あなたの素直な感想である。あなたが「感じたこと」を言葉にするなら、それは「イカの燻製」になる訳だ。

あなたは何となく気後れしている。ウィスキーに「イカの燻製」を感じてしまう自分が、おかしいのではないかと思っている。で、あなたは自意識に問い掛ける訳だ。「イカの燻製に似てるって感じたんだけれど、そんなこと言わない方が良いかな?」。で、あなたの自意識は答える。「この雰囲気じゃ、マズくねぇ?」。

さて、あなたは自分の感想を飲み込んでしまった訳だ。「いかがですか?」と問い掛けたバーテンダー氏はあなたの目の前で、あなたの返答を待っている。さぁ、あなたは黙ったままでもいられない。さてさて、あなたはまた自意識に問い掛ける。「つーか、なんて答えりゃ良いのさ?」。で、慌てふためいた自意識も答える。「あれで良いんじゃね?得意のあれで」。で、目の前のバーテンダー氏に向かってあなたは言うのだ。

「ト、トフィーの味わいですね」。

「???」。バーテンダー氏は少し驚いたかもしれない。そのウィスキーにトフィーと答えた人は初めてだったかもしれない。自分が出したウィスキーを間違えたと思ったかもしれない。「塩味を感じる」とか、「潮風を感じる」とか、「漁港の魚市場のよう」とか、「寿司屋のお通しに似ている」とか、そんな感想なら何度か聞いたことがあったけど、「トフィー?トフィーかぁ」と思ったかもしれない。もちろん、「イカの燻製」というのも初めてかもしれないが。

そんなあなたが、僕にはちょっぴり残念だ。あなたはその時、グローブの中に「イカの燻製」というボールを収めていたはずだ。あなたはそれを、バーテンダー氏に投げ返す勇気がなかった。「イカの燻製」というボールを足下に捨てて、そもそもあなたのものではない「トフィー」というボールを投げた。しかも、そのボールはあさっての方向に飛んで行き、バーテンダー氏はそれを上手く捕球できない。

「イカの燻製」は「寿司屋のお通し」に通じるものがあるかもしれない。しかし、あなたの答えは「トフィー」である。もしも僕ならば、あなたのグラスを奪い取って、必死に「トフィー」を探すと思うが。そこに「トフィー」が存在する可能性を否定することはできない。

イチロー D−2先日もイチローさんのダイヤの2を「梅干」と言ったお客さんがいた。以前記事にもしたが、僕はイチローさんのウィスキーを「枇杷(びわ)」とか、「イチジク」とか、「プラム」とか思うことが多い。全般的に(赤いカードの方)そう思うことが多いので、実は飲む前からそんな風に思い込んでいるフシがある。

ただ、結果として、複雑で華やかで展開力のあるフルーティな香りであるから、「イチジク」とか「プラム」とか答えておけば、そんなにズレた感想だと思われることもないだろう。そこに瑞々しさを感じたら「イチジク」で良いのだろうし、ねっとりした印象を持ったら「プラム」でも良いのかもしれない。しかし、その時僕は「梅干」に少し痺れた。ダイヤの2の持つ凛々しさを、ある意味適切に表現していると思ったからだ。

確かに、「梅干」という表現はウィスキー評論家の方が、オフィシャルな立場で語るテイスティング・ノートとしては不適切なのかもしれない。誤解を招くと思われても仕方がないかもしれない。だけど、僕らはウィスキー評論家だろうか?悪意を持つべきではないと思う。乱暴になってもいけないと思う。しかし、僕らの「感想」など、飲み屋で語る酒飲みの戯言で良いのではないだろうか?

その閉じられた空間で行われる僕らのキャッチボールが、一体誰を傷付けるというのだろう。

あなたはグローブを持っていた。つまり、「感じる身体」を持っていたのである。あなたの「感じる身体」は、そのウィスキーが投げて寄越したボールを、「イカの燻製」として受け止めたのだ。それはまさに、あなたの味わいの捉え方、キャッチングのやり方であった。だけど、捕球したボールをあなたは足下に転がした。そして、自分のものではないボールを拾って投げた。

自意識に問い掛けることに多くの時間を費やし、テンポの良さに水を差し、しかも、あなたのものではないボールを投げ返す。残念だが、僕はそれを素敵なコミュニケーションとは思わない。あなたがその時躊躇してしまう気持ちは十分に理解できる。だけど、自意識を迷走させることはコミュニケーションに大きな弊害をもたらす。

小説という表現方法は、コミュニケーションに傷付いたあなたに、ある種の救いをもたらしたかもしれない。だけど、小説は具体的な会話の技術に何の役にも立たない。小説の愉しみとその有用性に僕はまったく否定的ではないけれど、テンポの良い会話の技術には役に立たない。飲み屋の時間はライブな時間だ。誰の中にもある「自意識」に気付かせてしまうような仕組みを持った小説に、ライブな時間は追い付かない。

「最近話が長いよ」。「スミマセン」。
(昨日の営業より)
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ひと休み。(13)

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ボールを投げるなら、まずは受け取れるようなボールを投げろ、ということである。初めての相手ならなおさら、緩いボールから投げた方が良い。相手に準備ができていることを確認してキャッチボールを始め、やがて、様々なボールが行き交うようになり、テンポ良く続けられたなら、それは愉しい時間になるだろう。

「分かってもらいたい」。もしもあなたが、本当にそう願うなら、あなたにだって工夫が必要なはずだ。「どうせ分かってもらえない」。それは、とても乱暴な態度で、あなたの不幸な未来を予測しているに過ぎない。そして、誰にも分かってもらえない不幸な未来は、あなたの予測した通りにやって来る。あなたは予測を的中させることができるが、手に入るのは物足りない現実だ。

「本当の気持ち」とは、かつてあなたが語ることのなかった「モヤモヤした気持ち」のことである。

そうやって人は拗ねてねじれて、グローブの中のボールでひとり遊びを始めてしまう。確かにあなたは、人から傷付けられたことがあるだろう。上手く捕球できずに、悩んだこともあるだろう。上手く投げられずに、受け止めてもらえなかったこともあるだろう。だけど、「分かってもらいたい」あなたが、グローブの中のボールを投げないのならば、あなたは永遠に分かってもらうことはできない。

傷付くことを恐れるのならば、優しい人を選びなさい。少しイジワルな人であったとしても、キャッチボールの愉しみが、「途切れることなく続けること」であると知っている人を選べば良い。後から優しい人でないことに気付いたら、自分が傷付けられそうな予感を感じたら、キャッチボールを止めれば良い。

だけど、それは、あなたの捕球が下手だったのかもしれない。相手には、あなたを傷付ける意図はなかったかもしれない。確かに、相手ももっと優しいボールを投げた方が良かったかもしれない。だけど、あなただって、意図せず相手を傷付けたことがあるはずだ。これだけは憶えておいた方が良い。あなたは世界でただひとりの被害者ではない。

自分を被害者と認定してしまうと、世界中の人から優しくしてもらう権利を手に入れたような気分になるから。だけど、優しくして欲しいと願うのは誰だって一緒だ。憶えておいた方が良い。あなたは、「特別にあなたに優しくしてくれる人」を探し出せば良い。実はキャッチボールというのは、それを探し出すためにも有効な手段だ。

そして、世界中の人から優しくしてもらう必要などないことに、やがてあなたは気付くだろう。そんな人は少数で良いのだ。世界中のたくさんの人を対象としなくても良い。近くにいるごく少数の人で良い。そう、そんな相手は、ひとりでも構わない。だけどもちろん、ひとりもいなかったら、そんな切ないことはない。

そんな相手がひとりもいなかったら。あるいは、もう少し増やしたいと思ったら。あなたはキャッチボールが上手くなった方が良い。そう願うなら、あなたにだって工夫が必要なはずだ。キャッチボールが上手くなったあなたの周りには、キャッチボールをしたいと思う人が集まるはずだ。後はその中から、あなたが最適と思う人を選べば良い。

ボールはひとつ。人は複数。
同じものを巡って、複数の人が愉しみを共有する。
それはつまり、シングル・モルトを愉しむということである。
同じものを同じように愉しめた時。人は穏やかで優しい気持ちになる。


「神のみぞ知るって、神様に供える味噌汁のことだと思っていました」。「神の味噌汁?」。
(昨日の営業より)
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ひと休み。(12)

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だから、僕らは語るべきなのだと思う。いや、正確に言うなら、語った方が良い。言葉のキャッチボールの繰り返しは、相手を理解するのに有効であるし、あなたも幾分かスッキリするはずだ。相手に説明を試みようとすることは、あなたを健全にするだろう。もしも、あなたが「モヤモヤした気持ち」を抱えていると思ったら、なるべく早目に誰かに喋った方が良い。その「モヤモヤした気持ち」はやがて、「本当の気持ち」にすりかわる可能性があるから。

受け止めて欲しいと願うから、僕らはボールを相手に投げる。つまり、理解を求めて説明をするということだ。説明上手になれるなら、それに越したことはないが、どんなに説明上手であっても、いきなり剛速球を投げない方が良いということである。僕らは相手の空振りを狙ってボールを投げている訳ではないのだから。

途切れることなく続けること。それが、キャッチボールの愉しみというものではないだろうか。相手に準備ができていないなら、あなたの投げたボールは相手に受け取ってもらえないだろう。「どうせ分かってもらえない」。そう思い投げられたボールは、受け止めてもらえない可能性が高くなるだろう。乱暴になってはいけない。

「どうせ分かってもらえない」。あなたのその気持ちは、あなたにボールを投げさせないかもしれない。グローブの中で弄ばれたボールは行き場を失い、誰にも受け止められない。たとえ相手に受け止める準備ができていたとしても。

あなたはそれで良いのだろうか?
相手はやがて諦めて、他の誰かを探しに行くだろう。

「どうせ分かってもらえない」。確かにあなたは心配なのだろう。だけど、あなたは「分かってもらいたい」と願ったのではないだろうか?期待を持ち、裏切られそうな予感を持ち、それに押し潰されて、あなたはボールを投げない。「分かってもらいたい」というあなたの願いはどこへ行くのだろう?ボールはまだ、あなたのグローブの中だ。モヤモヤしたまま、あなたのグローブの中にある。

グローブの中の「モヤモヤした気持ち」は誰にも受け止めてもらうことなく、やがて、「本当の気持ち」にすりかわるだろう。自分でグローブの中に収めていることすら辛くなるほどに重たくなるだろう。あなたは思うのだ。「こんな重たいものを、一体誰が受け止めてくれるのだろう?」と。そして、あなたは俯いて呟く、「どうせ分かってもらえない」。

もっと軽いうちに、投げてしまえばよかったのに。
僕はそう思う。
だってあなたは、期待から一番遠いところに立っている。
それは、絶望に一番近いところだ。

受け止めてもらうことを諦めたボールを、やがてあなたは自分の足下に放り出す。あなたとキャッチボールをしようとして、周囲に集まった人たちは、やがて諦めてどこかへ行ってしまうだろう。あなたは子供だろうか?子供だったら良かったかもしれない。「どうしたの?」と誰かが声を掛けてくれたかもしれない。

キャッチボールは気軽に始めるのが良い。
いきなり始めるのがイケナイ。

投げる前に、あなたの自意識を弄ばないことだ。ひとりでボール遊びを続けている人は、誰にも興味を持たれない。投げる前に確認しなければならないのは、相手に準備ができているかどうか。それだけ、そして、いきなり始めない。まずは緩いボールから。

やがてあなたは渾身の一球を投げるのだろう。
相手のグローブから、心地良い音が響いてくれば、それで良い。


「牛丼大盛り、つゆだけ!」。つゆだく、だろ。
(昨日の営業より)

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今日は本当に「ひと休み」。
ジェイズ・バーは営業しますが、本日のモルト侍はお休みします。

その代わり、明日の秋分の日(祝日)に記事を書きます。

曇り空、晴れるといいな。
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ひと休み。(11)

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軽快にテンポ良くキャッチボールを続けていると、僕らはやがてその相手のことを知るようになる。その球威、球速、投球フォーム、そしてその人の投げることが可能な距離。捕球は上手いのか、あるいは投げることにしか興味がないのか、足の速さやジャンプ力にまで気付くことがある。もちろん、どのくらいの体力を持っているのかも知ることになる。

僕らはそうやって、愉しい遊びとしてキャッチボールを続けながら、少しづつ相手を深く理解し、そして同時に、自分を相手に知ってもらい理解してもらうようになる。それはまさに、人と人が会話を愉しむということと同じだ。気の合う関係になれば、また再びキャッチボールをしたいと思うようになるだろう。そのフィールドに向かえば、またその人に会える。

会話のすべてが言葉のみによって成り立っている訳ではない。身振り手振り、声のトーン、様々な方法で人は自分の意思を相手に伝えようとする。同じ言葉を使っても、まったく違う風に伝わってしまうこともある。文字になった書き言葉は話し言葉と違う。書き言葉は会話の中における大切なニュアンスを殺してしまうことがある。

キャッチボールの上手い下手には、つくづく個人差があるなと思う。それをコミュニケーション能力の差と言い切ってしまうのは切ない気もするが、それは、訓練によって養われるものだろう。良いコーチング・スタッフに出会い、トレーニングを重ねることができれば上達するものでもあるだろうが、そんな恵まれた環境で育つ人はほとんどいないな。

多くの場合、様々ないくつかのフレームの中でそれを覚えて行くのだろう。同じ日本語を使ってコミュニケイトしていても、フレームによって共通言語が違うのだ。ひとつのフレームしか知らない者に、違うフレームの共通言語は当初理解不能だ。方言というのは当たり前の例だが、「ジャンケン」が地域によってかなり違った形で行われているのをご存知だろうか?同一の地域でも、隣の学校で違うということがある。子供の遊びにジャンケンは欠かせない。

キャッチボールは愉しい遊びで良いと思う。それは、勝ち負けを決めるゲームではない。だけど、結果としてその能力の優劣は見えてくる。明らかに「格上・格下」感は出てくるのだ。しかし、繰り返し言わせていただくが、その目的は勝ち負けを決めることではない。明らかに自分が格下であったとしても、必要以上に傷付くことがあるだろうか?

ひとつ踏み込んで言わせていただきたい。最近は、世の中にある多くのフレームが「コミュニケーション能力別」に階層化され過ぎている気がしてならない。確かに、コミュニケーション弱者は存在するだろう。そして、傷付いた弱者が寄り添うフレームというものがある。同質の同士が安堵を求める気持ちは理解する。その場所が必要なことも重要だと思う。しかし、そのフレームに留まり続けていたら、他のフレームでのコミュニケーションはやがて不能になる。

コミュニケーション・ギャップを乗り越えようと思う意志こそが、コミュニケーション能力を習熟させていくのだと思っていただきたい。誰かと関わりたいと願う気持ちは健全だと思う。もちろん、自分を傷付けたくないと思うことも当然だ。しかし、キャッチボールの過程で決まるのは勝ち負けではない。優劣が明らかになるのは確かだが、もしもあなたが「格下感」を持ったなら、格上の人の話を聴いてみたらどうだろうか?

あなたはまだ、自らの自意識をもてあそび、「本当の気持ち」を分かって欲しいと思っているだろうか?残念だが、あなたに興味のない人は、あなたの「本当の気持ち」に興味はない。あなたが本当にあなたの「本当の気持ち」を分かって欲しいと願うなら、あなたが興味深い人になるしかない。

あなたが他人から興味を持ってもらう方法がふたつある。ひとつは、あなたが「とても凄い何か」を作れること。さて、あなたは「とても凄い何か」を作れるだろうか?胸を張って「作れる!」と言うのなら心配は要らない。それだけでOK。

さてさて、しょんぼりと「作れない」と思っているほとんどの皆様。心配は要らない。簡単ではないが、誰にでもできる方法をお知らせしよう。それは、コミュニケーション能力を高めることである。

コミュニケーションとは、「互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと」である。情報化社会などと言われるようになって久しいが、そのような社会の中で伝達の能力に長けていることは、あなたを人気者にさせるだろう。情報は情報の出所に集まるのだ。誰も知らない新たな情報は、あなたのところに集まり易くなる。あなたはより多くの人に「興味深い」と思われるだろう。

断っておくが、誰も知らない情報とは、あなたの「本当の気持ち」ではない。


「リーマン・ブラザーズって、サラリーマンの兄弟のことじゃないの?」
(昨日の営業より)
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ひと休み。(10)

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人は何故、人と会話を愉しむのだろう?その動機は何だろう。その目的が、勝ち負けを決めることではないことは昨日申し上げた。人は人と関わり合いたいと願うから、興味のある近くの人とはまず会話をしてみたいと思うのだろう。相手が初めての人の場合、人はそれを「出会い」と呼ぶのだな。

人は人とより濃密に関わり、交わりたいと思っている。だけど、本当は自分の都合の良いように関わりたいと思っている。濃密な関係は自分をひどく傷付ける可能性があることを人は知っている。その後の濃密な関係を目論むなら、将来傷付くことはリスクだ。一方、会話というキャッチボールは、相手の人柄、そのポテンシャルを測るのに有効だ。キャッチボールで知ることができる相手というものがある。同様に自分のことも知られてしまう。

その時間が愉しくなかったらどうだろう?もう一度、同じ相手とキャッチボールをしたいと思うだろうか?恐らくあなたは「勘弁して欲しい」と思うだろうし、もちろんそれは、相手も同じことなのだ。

愉しいキャッチボールとは何だろう。簡単に言えば、テンポ良くボールが行き交うことだ。落球することなく、暴投をすることなく、かと言って、投げ易いボールばかり投げる訳でなく、取り易いボールばかり投げる訳でなく、近い距離から始まって、いきなり速球を投げることなく、時々変化球を交えながら、徐々に互いの距離を取り、遠くに相手を置いて投げたり、フィールドの中を走りながらボールを投げたり取ったり。

他の誰かが近付いて来たら、仲間に入れてあげれば良い。きっとその人は、あなたたちのキャッチボールに興味を持ったのだ。ただ、注意して欲しいのはその人がグローブを持っているかどうか。グローブというのは「感じる身体」のことだ。僕らのフィールドで扱われるボールは、素手で受け止めるには硬過ぎる。

だけど、本当は心配は要らない。僕らはみんなグローブを持っている。
使い方を知らない人がいるだけだ。
だから、教えてあげれば良い。

愉しいキャッチボールができるフィールド、愉しい相手がいるフィールドに人は集まって来る。愉しいキャッチボールをするためにルールが必要なら、人はそれを守るだろう。様々な欲望を抱え、人が集まるのだ。最低限のマナーくらいはどこのフィールドに行っても必要だろう。

愉しいキャッチボールを続けるうち、僕らは互いの個性を知るだろう。それは能力の違いでもある。あなたの暴投を落球せずに受け止めてくれる人に出会うかもしれない。いつも、自分の気に入らないところにボールを投げる人に出会うかもしれない。人は色々だ。

愉しいキャッチボールが続くその時間に。
その合間の穏やかな時間に。
あなたは考えてしまうのだ。
どの人となら、チームメイトになれるだろう?と。
あなたは思うのだ。
あの人が良い、と。

勝ち負けを決めることを目的としないのが、キャッチボールだ。
愉しみと、相手を知ることのためにあるべきだ。

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キルコーマン 首

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会話によるコミュニケーションというのは、キャッチボールのようなものだ。相手がグローブを手にしているかどうかすら確認できないような状態で、人はいきなり速球を投げない。初めての相手ならなおさら、まずは、ゆるいボールから投げようとする。「こんばんは」から始まって、「どちらに住んでいるのですか?」とか、「お仕事は?」とか。

投げたボールを上手くキャッチしてもらえなかったり、とんでもない方向にボールを投げてばかりの人とは、キャッチボールは長く続かない。投げたボールがなかなか返って来なければ飽きてしまうし、逸れたボールを拾いに行かされてばかりではうんざりだ。

キャッチボールの目的は何だろう?それは、勝敗を決めるためのゲームだろうか。時々は変化を付けても、それは、長く続けることを目的とした愉しみなだけである。ボールが行って帰ってくる。飽きるまでそれを続け、飽きれば止めれば良い。いづれにしても、日が暮れればボールは見えなくなる。お喋りも変わらない。眠くなれば寝てしまうのが人だ。

キャッチボールに勝ち負けはない。落球や暴投はミスであるが、キャッチボールは「ミスをした方が負け」というルールのゲームではない。相手のミスは自分にとっても、残念なことでしかない。そして、そのミスは一時停止の合図であって、ゲーム・セットではない。ボールを拾って、また、すぐに始めることが可能なのがキャッチボールである。

どんなに凄い変化球を持っていても、どんなに速いボールを投げられても、どこまでも遠くにボールを投げられたとしても、相手は当初、そんなことに興味はない。関心を寄せるのは「長くキャッチボールを続けられるかどうか」。まずはそこである。続けることなら、大概の人にできること。乱暴にならず、丁寧であれば良い。

キャッチボールは勝敗を決めるゲームではない。

ただ、続けて行けば、僕らは相手のことを知るようになる。少しづつ知るようになる。丁寧にテンポ良く続けることだ。相手の息遣いを知ること。相手と呼吸を合わせること。やがて僕らは、相手のクセを知るようになるだろう。相手を知って、自分を知ってもらったら、僕らはその先、いろんなことができるようになる。

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テイスター

1,000回に至る。

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テイスター本日この記事で、このブログ「モルト侍」の投稿数が1,000回になった。
僕は最初から、この1,000回を目指して来た。やっとたどり着いたという実感もあり、嬉しい。

1,000回という数字は、やはり、桁が違うのだな。

下らんこともたくさん書いたが、1,000回は1,000回。ひとつの通過点でしかないが、素直に喜びたい。打率よりも、200安打に強い執着を持つイチローが好きだ。(シアトル・マリナーズの方ね)

さて、勝手に1,000回記念である。
皆様に飲んでいただこう。
アードベックの6年とラフロイグの9年。簡単に言ってしまえば、どちらも輪郭のハッキリしたシングル・モルトである。

アードベックとラフロイグ。そのふたつの境界線はまったく曖昧ではない。
そのふたつには、はっきりとした境目がある。
それを感じる2杯。2杯で2400円でござる。
大特価!皆様にも感じていただきたい。

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テイスター2

キルコーマン ニュー・スピリッツ

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キルコーマン「これで最後」とか「もう出しません」とか、何度か聴いた気もするが、またまた「キルコーマン ニュー・スピリッツ」の登場である。まぁ、好評なのだな。出せば売れるのだし、出れば気になる。ニュー・スピリッツにして、この旨味の濃さはこの蒸留所の特徴だろう。「面白がってもらえるシングル・モルト」としては優秀だ。いや失礼、ウィスキーではないな。シングル・モルト・スピリッツである。

熟成およそ2ヵ月半の蒸留酒。まだ、ウィスキーとは呼べない。蒸留日が今年の3月20日、瓶詰は6月3日。カスクNo.は120/121/122の3樽。すべてバーボン・バレルでの熟成。フェノール値は50ppm。キルコーマン蒸留所の敷地で収穫した麦をその地でモルティングしたこと。そして、ピートの採掘地と水源がラベルに記載されている。ちなみにアルコール度数は63%。ある程度、加水したのだろうか?

ひと言で説明するなら、「納豆と青海苔を混ぜた香り」である。で、その後すぐにリンゴをかじった時の口の中の状態である。さすがに展開力には乏しいかもしれないが、熟成2ヵ月半にしてこの複雑さは秀逸。ただ、飲み続けるのは飽きるな。1杯で十分。

このスピリッツを「ソーダ割りで」と頼んだお客さんがいたが、その発想はなかなか面白い。「納豆と青海苔とリンゴ」のソーダ割りである。炭酸に乗って弾けるのだな。秋っぽくて侍も気に入った。

ソーダ割りにするには、確かに「ちょっともったいない」価格かもしれないが、「ちょっと贅沢なソーダ割り」と考えるなら、お薦めする。ソーダで華やぐキルコーマンも悪くない。何となくストレート、という飲み方に風穴を開けたな。

1杯、¥1,000でお願いします。

余市 10 15そうそう、一昨日のことだが、北海道の老眼のオッサンのところから、美女が2名。オッサンは「刺客」のつもりで送り込んで来たようだが、何のことはない。侍は返り討ちにしてくれた。午前3時過ぎ、遊び疲れて眠くなった彼女たちは、笑い転げてホテルに帰った。ありがとう、美女2名。

まぁ、闘いに勝って、戦利品を奪ったのだな。
余市の10年と15年。
気軽に声を掛けて欲しい。ご来店の皆様に少量ではあるがプレゼントしよう。
余市はうまいぞ。

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キルコーマン 首

ひと休み。(8)

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心の奥底で、僕らは深く人と関わることを望んでいるのだろう。しっかりと関わり合い、交わりたいと願っている。違うだろうか?だとしたら、自らの自意識を深く掘り下げることに意味はない。深く掘り下げたそれを自らもてあそび、人前をウロウロしたところで、周りの人はそんなことに興味はないだろう。

僕らの暮らしの様々な場面で、僕らの自意識は困惑しているのだ。自意識の困惑は日常化している。今さらそれを掘り下げてみたところで、その混乱を確認する作業でしかない。確かにそれは、現状を確認する作業であるから、まったく不必要なことだとは言えまい。しかし、その作業は解決策を与えてはくれない。

ましてや、現状なんてものは日々変化する。今日確認できた現状なんてものは、明日には変わっている。変化した分だけ確認しなければ気が済まないのだろうか?そうやって毎日確認をしていたら、それだけで人生が終わってしまう。自意識の困惑を掘り下げて行くことは、解決策を与えないまま僕らを消耗させ続けるだろう。

言葉にならなかった「本当の気持ち」。
あなたはそれを誰かに知って欲しいだけなのではないだろうか?

そうならば、僕はあなたに聴きたい。「誰に?」、と。
あなたは誰に知って欲しいのだろう?特定の誰かの顔が思い浮かぶだろうか?それとも、不特定多数の「誰か」だろうか?

「できる限りたくさんの誰か」に、あなたの「本当の気持ち」を知って欲しいと思うなら、あなたは小説家になると良い。もちろん、上質な表現ができていることが前提となるが。残念だが、「ワクワクしない小説」なんて誰も読まない。

「できる限りたくさんの誰か」を対象とすることを、理想として掲げることは素敵なことだと思う。その旗は降ろさないほうが良いだろう。だけど、ひとつやふたつでも、具体的な特定の「誰か」の顔が思い浮かぶなら、そして、それらの人に「本当の気持ち」を知って欲しいと思うなら、あなた自身が魅力的になれば良い。

僕らは大概、誰のものとも分からない、むき出しの「本当の気持ち」なんてものに興味はない。残念だが、あなたより以上にあなたの「本当の気持ち」を、大切に扱ってくれる人などいないのだ。だけど、あなたがチャーミングなら、あなたが魅力的なら、相手はあなた自身に興味を持つだろう。そして、僕らは大概、興味を持った人の「本当の気持ち」が気懸かりだ。

あなたを魅力的にする方法は世の中にいくつかあるだろう。
僕が提案できるのは言葉だ。そして会話である。

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ポートシャルロット

タケ!お土産ありがとう。
ジャム、使えるぜ。

ひと休み。(7)

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会話と会話の隙間に語られることのなかった言葉があることを、僕らは知っている。言いよどみ、飲み込んだその言葉のことを、僕らは「本当の気持ち」と言ったりする。それまで語られることのなかったそれらの言葉を、つまり、「本当の気持ち」を語れる時、人は大きなカタルシスを味わう。フレームのルールに従い語られることのなかった言葉は、違うフレームで吐露することが可能だ。それも、酒場の役割のひとつだろう。

ひとつのフレームしか持たないことは、人を苦しめるだろう。人は「本当の気持ち」を語る時にフレーム替える。そのことを「愚痴をこぼす」というのだろう。会社の愚痴を彼女にこぼし、彼女の愚痴を会社の同僚にこぼす。ちなみにその両方を同時にできるのが、酒場というフレームだ。そこは、会社にも彼女にも利害関係のない人が存在する場所だ。

自分が傷付くことを恐れ「思うこと」を語らなくなった人は、やがて、語られなかった「本当の気持ち」を語りたいと思うようになる。ある意味勝手な話だが、「それが、人だな」とつくづく思う。フレームを替えることで誰をも傷付けることがないのなら、それもまた良いではないか。オリンピックの野球の日本代表の戦いぶりの不甲斐無さに腹を立て、星野監督に悪態をついたあの人も、星野監督本人の前で同じことは言えまい。それが、人だな。

気が済めば今日は終わる。今日が終われば明日が始まる。
気が済まないと、明日はなかなか始まらない。
それが人の暮らしというものだ。

会話と会話の隙間に存在する、語られることのなかった言葉。どうやら、僕らはそのことを気にし過ぎているのかもしれない。だけど、俯いて黙ったままなら、僕らはずっと関わることができないかもしれない。関わることが大事なら、言葉は外に向けて放たれる方が良い。内向きな言葉のやり取りは、僕らを消耗させるだけだろう。そして、その内向きな言葉のやり取りさえ、最後はそれに「本当の気持ち」とレッテルを貼って、誰かに聴いてもらいたいと思うのだろうから。

僕らは自らの自意識に気付き、「自意識が迷走する時代」に突入した。確かに、会話のないままではコミュニケーションは成り立たない。だから人は、わざわざ「本音で話し合いましょう」などと言ったりする。つまり、「本音を出さない」ことは既に前提になってしまった様子だ。

さて、僕らはどうしたら、会話でコミュニケーションを成り立たせることが可能なのだろうか?

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ひと休み。(6)

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何かを感じ、思いが浮かび、それが言葉となって語られようとする時、人は今まさに語ろうとしたその言葉を自ら点検してしまう。自分の言葉は誰かを傷付けてしまうことがある。誰かを傷付けたことに自分が苦しむこともある。自分の言葉で恥ずかしくなることもある。自分の言葉が自分を窮地に追い込むこともある。

そうやって人は言いたいことを言わなくなり、語る前に空気を読むことを覚える。空気を読むことそれ自体は、よどみないコミュニケーションのために重要な能力のひとつと思うが、読み過ぎれば語れなくなり、語らないために思わなくなり、思わないために、やがて感じることまで失うことがある。感じる身体を失うことは、人にとって大きな痛手だと思う。

言葉は人と人が関わるための大きなひとつの手段だ。だけど、言葉は直截的過ぎて人を大きく傷付けてしまうことがある。約束は言葉で交わされる。人は言葉に責任が付きまとうことを知っている。人はやがて言葉を嫌うようになる。できれば、言わずに済ませたい。そう思うようになる。自分が傷付くことも、誰かを傷付けるのもウンザリだと。

何かを語ろうと思うたび、自意識がまとわり付いて来る。人は永遠に「自分がどう見られているか?」を気にする生き物だ。だから誰でも「私は大丈夫か?」と自意識に問い掛けてしまう。問い掛けられた自意識はあなたに不安を訴えるかもしれない。どうだろう?あなたはまた俯いていないだろうか?

でも本当は知っている。
言葉がコミュニケーションに重要な役割を果たすことを。

自意識はどこの隙間に生まれるのだろう?
言葉によるコミュニケーションのことを僕らは普通、会話と呼ぶ。そして、自意識は会話の隙間に生まれる。僕にそのことを教えてくれたのは、実は小説だ。小説は会話と会話の隙間に膨大な説明文を付けることが可能だ。もちろん、その会話も、その説明文も言葉だ。小説というのはそういうシステムで成り立っている。

会話と会話の隙間に、人は様々なことを感じている。その感じたことを長い文章で説明することが可能なのが小説なのだ。説明されて初めて、僕は自分に自意識が存在することを知ったのかもしれない。僕らは時々、会話と会話の隙間に「とても大切なこと」が言葉として存在していると思っている。そうやって人は自意識のトリコになってしまうことがある。会話の中で俯いてしまうあなたの気持ちをも、自意識は説明してしまうから。

会話によるコミュニケーションの中で、膨大な自意識は、実は邪魔者でしかないことがある。自意識はテンポの良い会話に追い付かないことがある。自意識は人を立ち止まらせることが多いから。立ち止まらせることで、人を安全で快適にしてくれることがあるけれど、会話が生まれない相手と、人はコミュニケーションをとることができない。

会話の中で俯いてしまうあなたの気持ちを、自意識は説明してしまう。自意識の存在に気付いた僕らは、自意識に助けられることも多くなっただろう。だから僕らは、多くの時間を自意識との対話に使うようになった。でも、あなたとあなたの自意識の対話を、他の誰も知ることができない。そして、残念だが、多くの人はそんなことにあまり興味がない。

「自意識が迷走する時代」である。
自意識は迷走し、人はコミュニケーションの機会を失う。

10位復活。メタボなオッサンとデッドヒート。「人気ブログランキング」
アラン ゴードン

ひと休み。(5)

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前回の続きの話です。
実は、今日は「人気ブログランキング」に関する話をさせていただこうかと思ったのだが、話をしたいと思っていたブログがランキングから消えていた。ここ最近、ずっと2位をキープしていたブログ。とうこ姉さんが1位を死守してくれていたのは嬉しかったな。

その件に関して、土日に今後3回分の記事を仕上げていたので、少々ヘコんでいるのだが、まぁ仕方あるまい。原稿はボツだな。

人はなかなか、「思ったことを言えない」という話の続きである。


「そんなことは言えない」、何ていう場面は、生きていればいくらでもある。人はその場に適切ではないと思われる発言はなかなかしないものだ。どんな人だって、少なからず、言いたいことを飲み込んで生きている。一度手に入れたフレームを、人は簡単に手放そうとしない。人には帰属意識が必要なのだろうな。それが、人の心を安定させるなら、それも悪くない。ただ、そのフレーム自体が自分を苦しめているかについて、自ら点検できれば良いのだろう。

人はそうやって、「思うこと」を飲み込んで生きている。大かれ少なかれ、ほとんどの人がそうやって「空気が読める」ようになるのだろう。元来、神様との繋がりが薄いのが日本人だ。僕らは「神がいるから大丈夫」とはなかなか思えない。自分が大丈夫だと判断できる背景には、やはり、その人の持つフレームは有効に機能していると判断した方が良いのだろう。

もちろん、僕にだって言えないことはたくさんある。例えば先日記事にした、イチローさんのブレンデッド・モルト「MWR」の中身が何であるか、僕は言えない。イチローさんが「言わないで」と言うので、僕は「言わない」。知っているか?知らないか?ということになれば、「恐らく知っている」ということになる。でも、ブログではそんなことは書けない。

ブログでは書けないが、ジェイズ・バーの店内では時々言っている。正確に言うなら、非常に分かり易いヒントを出して説明をしている。もちろん、僕に聴かなくても、そんなことは最初から知っている人もいる。で、ブログでは言えなくても、ジェイズ・バーでは言えるのは、それは、フレームが違うから、ということになる。

それを大人というのなら、「何だか、面倒臭い生き物だな」って思うけど、どんなに望んでも、世の中は複雑なまま単純にはならない。物事を整理するために単純に考えることは可能だし、有効ですらあると思うけど、簡単にはならない。「単純に考えたら簡単になる」と思っているのは乱暴だと思う。

どうして僕がそんな面倒臭いことになっているのかというと、「知りたいと思っている人に、僕が知っている限りの本当のことを教えてあげたい」っていう気持ちと、「イチローさんに嫌われたくない」って気持ちがあるからだな。どちらかひとつを取るってことは、僕には不可能で、どのように両立させるかということにしか興味はない。

で、結果としてジェイズ・バーでは言うけど、ブログでは書かないってことになる。もちろん、僕がそう判断していることは、別にイチローさんに許可を取っている訳でもない。で、そんなことは誰だって経験したことがあるはずのことだ。

ただ、僕が最近思うのは、そういうことにとても苦しんでいる人が増えたな。ってこと。だけど、苦しんでいるだけで、考えたり、悩んだりもしていないように僕には見えて、実はそれがちょっぴり不思議だ。だから、僕は「自意識が迷走する時代なのだな」って思うのだけれど。

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イチロー D−22,3本目入荷!

イチローズ・モルト / トゥ・オブ・ダイヤモンズ

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イチロー D−2これはうまい。凄く良い。しかも、お買い得だな。
侍、絶賛である。

今までのカード・シリーズとはデザインのイメージを随分変えての登場。艶やかではあるが、少々どぎつい印象すらある。気のせいだろうか?ラベルのインクの赤も派手に感じる。飲んでみて納得なら、この派手さには心惹かれるな。

蒸留:1991年、瓶詰:2008年、熟成:17年、アルコール度数:58.1%
ファースト・カスク:ホグスヘッド、セカンド・カスク:フレッシュバーボンバレル
カスクNo:#9412、瓶詰総数:259本

ひと言で説明するなら、複雑で華やか。
上出来なシングル・モルトである。麦とフルーツの甘い香りの融合。ポテンシャルの高いウィスキーだ。17年より以上の熟成を思う。上質な様はその展開力に表れる。僕はイチローさんのウィスキーに「枇杷(びわ)」を思うことがあるけれど、このシングル・モルトにもそれを感じる。どこか懐かしい甘味と酸味。子供の頃の枇杷に、僕は大人の味を感じたのだろうか。

このシングル・モルトは買いだな。そう思っていたのだが、実は既に売切れ店続出の様子。瓶詰総数が少ないので仕方がないのだろうか。このポテンシャルにして価格は控え目ということで、是非とも皆様に飲んでいただきたい1本だと思ったが、この調子じゃ、オークションなどで人気とともに価格も上昇ってことになるんだろうな。

まぁ、アホみたいな値段なら「お止めなさい」と言っておこう。大丈夫。ヤツはまだまだうまい酒を持っているはずだ。転売で儲けようなんて考える不埒な輩に、うまい汁を吸わせることはない。僕らはイチローさんの次のうまいウィスキーを飲めば良い。

さて、昨日は暇にまかせて、このダイヤの2をじっくりと愉しませていただいたが、ちょっとばかり僕なりに得心の行く思いがあった。

昔から、イチローズ・モルト・カード・シリーズの、カードの絵柄とその味わいの関連について、「赤いカードは、甘く柔らかい」、「黒いカードは、ちょっとクセっぽい」と申し上げてきた侍である。記憶の中をさ迷いながら、あれこれ思い起こしたが、同じ赤いカードでもダイヤとハートには、それぞれに特徴があるのではないだろうか?

ダイヤもハートもそれぞれに、甘さと柔らかさには特徴があるのだが、ダイヤは全般的に「甘く柔らかく、凛々しい」、ハートは全般的に「甘く柔らかく、穏やか」。侍にはそう感じたのだ。

何故だろう。このダイヤの凛々しさに、侍は何故か切なくなってしまうのだ。その理由も分からず、心が揺れてしまう。意識の底にしまっておいた遠い記憶を微かに揺さぶられる。凛々しさにリンクする切ない記憶。僕の中にあるのだろうか?思い出すことはあるのだろうか?思い出さない方が良いのだろうか?

自分のことは、良く分からない。

そうそう、ちなみに¥1,600です。
お買得!

シングル・モルトは官能的である。
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イチロー D−2-2

ひと休み。(4)

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「私ってさぁ、食べる場所と寝る場所を一緒に過ごせない男とは、どうにも、うまく行かないのよね」。

かつて自分が付き合っていた彼氏を指して、そう嘆いていた女の子がいたが、至極もっともな話だと思う。僕だって逆の立場から同じことを思う。喰うことと寝ることは、暮らしの中でも中心的な要素であろう。その時間を快適に過ごせない相手とは、うまく関わることが難しい。そう嘆いた彼女は、程なくその彼氏と別れることになるのだが、そんな彼女ももう40を越えたな。

食べる場所と寝る場所というのは、今、見知らぬ誰かと一緒に過ごす可能性のある場所だ。そして、いづれそれを共有する可能性のある存在というのは、自分にとって非常に重要な存在になる可能性がある。食う場所と寝る場所というのは、暮らしの中でも大切な場所だからだ。そんな場所で相手を不快にさせないためには、確かに、マナーというものが必要なのだろう。

マナーを学習するためには、やはり、訓練は必要なのだろう。二十歳も過ぎて箸が使えないような人は、僕だっておかしいと思う。今の僕が人と一緒に食事ができるのは、やはり、母のおかげでもある訳だ。まぁ、ルール違反には厳しい母ではあったけど。では、寝る場所にもマナーがあるのかという話になるのだが、もちろん「ある」とお答えしておこう。

寝る場所のマナーについては深く語らない。本稿の目的はそこにはない。そもそも既に、横道に逸れている。その件について語り合いたいと思う方はジェイズ・バーへどうぞ。しかし、ひと言だけ申し上げておこう。寝る場所に大切なのは「探り合うこと」である。そもそも寝室とは密室である。何故、それが密室なのかというと、人にとって寝ている時間というのは、無防備で危険だからである。

危険を回避するためにわざわざ密室にしてある場所に、危険な人と一緒にいるのは二重にリスクを重ねることになる。歳を取れば、多くの人はリスク・コントロールに長けていくのであるが、うら若き女子の皆様、ご注意あそばせ。もちろん、僕はまた同じことを言うのだが、「リスクを背負わないところに進化はない」。「リスクを背負ったからといって、必ず進化する訳ではない」。

マナーというものが、どのような線引きで設定されているのかというと、社会生活の秩序を維持することを目的に設定されている。つまり、「その人を不愉快にさせないために」ということが目的なのだ。だから、「マナーを守れば不愉快が少なくなる」というのは事実だろうが、「マナーを守れば必ず愉快になる」ということではない。食べる場所と寝る場所が、愉しくなるかどうか?は実は、あなた次第なのだ。「マナーを守っているのに愉快にならないのはおかしい」と訴えることは愚かだ。そう言えば、侍の母も寝る場所のマナーについては教えてくれなかったな。


「年寄りの金を剥ぎ取って、自分の営業成績にするのは苦しくて、でも、そんな会社をおかしいと言えない自分が切ない」。

かつて、自分が勤めていた会社を指して、そう嘆いていた青年がいた。聴く方を切なくさせる話だ。見るからに、そして、話をしても営業力のありそうな男の子だったけれど、ゆっくりとへこんで行った様子だった。リフォームの会社に勤めていた彼は、「ベランダを直しましょう」と言って、その家のおばあさんに声を掛け、「壁がひび割れています」、「柱が曲がっています」、「このままだと雨どいが原因で雨漏りが起きるでしょう」。そう言って請求金額を増やした。

会社では評価され褒められたようだ。成績の上がらない同僚や先輩を尻目に、少々いい気になっていたと思う。モノを売る能力は高かったと思うが、段々と貧相な顔になって行ったな。貧相になった顔と対照的に、左腕にはキラキラ光る高価な時計をするようになったけど。ただ、そんな彼も、最後はしんどくなったのだろう。

初めのうち、ジェイズ・バーで大人しく数杯飲んで帰って行った彼も、そのうち毎晩キャバクラに通うようになる。自分の金の稼ぎ方に、まだ自信がもてなかった彼は、自分がたくさん稼ぐことを褒めてくれる存在が必要だったのだろうな。それを、キャバクラ嬢に求めたのだ。不安だったのだと思う。キャバクラ嬢たちは彼を褒めたのだろうが、だけど、何のことはない。彼女たちが褒めたのは、「たくさん金を稼ぐ」彼ではない。「たくさん金を使う」彼である。たくさん稼ぐことを証明するために、たくさん使う必要があったのだろうな。

切ない話だ。一体誰が幸せになったのだろう?

ベランダを直したおばあさんは幸せだっただろうか?でも彼は、おばあさんに評価されることより、会社に評価されることを選んだのだ。彼は会社というフレームの中に納まろうと必死だったのだろうな。もちろん、気持ちは分かるさ。おばあさんは借金をしてその会社に金を払い、彼はそこから給料をもらう。会社は彼に給料を払いつつ、彼を評価する。彼がおばあさんに借金をさせることは不可能だろう。おばあさんが彼に毎月給料を払うこともないだろう。

彼は会社というフレームの中にあるルールに従ったのだ。そのルールは彼が子供の頃、彼のお母さんに教わったルールとは違うものかもしれない。だけど、当時もうすぐ30にもなろうかという彼は、当然家庭というフレームの中だけを生きるものではなかった。彼が新たに選んだフレームのルールに彼は従った。そして、そのルールは彼を稼がせるのに有効に機能し、彼を苦しめるのにも役立った。

彼はそのルールに正義を求めたかもしれない。「このルールが正義であったら」と、祈るような気持ちでいたかもしれない。もちろん、それ以前にそのルールに従うように強要されたのだろう。ルールを守る者だけが評価され、重用され、高い報酬を得たのだろう。守れない者は落伍者扱いだ。自ら辞める者も多い。彼は自分を生存者と思っただろう。

折角、生き残ったのだ。そんな彼が「この会社はおかしい!」とは言えまい。
「言いたいことが言えなかった」。そんな経験は誰にでもあるのだ。

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プルトニーGM

ひと休み。(3)

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ピーマンが人の食い物であることを、侍の母は若き日の侍に教えてくれた。今では好んでピーマンを喰うようになったのも、子供の頃にピーマンが人の食い物であることを教えてくれた侍の母がいたからこそ。母に感謝の侍である。

確かに、殴ることはなかったかもしれない。蹴ることも、外に放り出すほどのことも、なかったかもしれない。身体も心も痛かったな。それを躾というのかもしれないが、思えば、侍の母はいつも機嫌が悪かったな。とは言え、ピーマンが人の食い物であることを知ったおかげで、今ではピーマンが好きな侍である。

人というのは、そうやって子供の頃から日々削られて生きて行くのだな。社会の枠の中にうまく納まるように、その枠からはみ出た自己の欲望は強制的に削られてしまうのだな。枠からはみ出た欲望は、誰かの迷惑になる可能性があるのだな。そうでもしないと、人の世は社会性を保つことが難しくなるのだろう。機能しない社会は不安しか残さない。

思い起こせば切ない話だ。削られたことが、まだ、傷として残っている人の話は切ない。休日にゲームばかりやってしまう人の話。焼き鳥を食べ過ぎて、いつもお腹を壊してしまう人の話。ゴミを捨てる時に、何故だか悲しくなってしまう人の話。そんな人たちの話を丹念に聴いていると、彼らの子供の頃の傷跡を思ってしまうことがある。

もちろん、そんなものは誰にでもあるのだろう。そして、その人たちのほとんどが、社会性と常識を兼ね備えた社会人である。僕はその傷跡を醜いとは思わない。ただ、畏怖と愛着を持って、僕はそれに触りたいと思ってしまう人間のようだ。それらは確かに「取るに足らないこと」なのだろう。残っていても、なくなっていても、生きる上での不自由など、さほどある訳ではないのだから。そして、本人さえ気付かないことがほとんどだ。

本人さえ気付かないその傷跡に、僕は触りたくなってしまう。隠しておきたいのか、見て欲しいと思っているのか、本人さえ分からないその傷跡に。

そのボーダーと処罰のあり方は法律で決まらない。合法か?違法か?というところにその線引きはない。ピーマンを食べ残したことで、法律を根拠に罰せられた人というのは日本にはいないだろう。ピーマンの食べ残しに係わる法律というものを、僕は聴いたことがない。僕は母によって罰せられたのだ。

僕に対する母のその処罰は、自分の子供がピーマン嫌いにならないように、苦慮した上での決断だったのかもしれない。あるいは、その日の母は機嫌が悪かっただけのことなのかもしれない。だけど、「食べ物を粗末に扱ってはならない」という論には正義がある。そして、正義を手に入れた人たちが横暴になることも良くあることだ。鉄槌という名の制裁は、概ね弱者に向かって振り下ろされる。ただ、当時の僕にとっては、母の存在自体が法体系そのものであったのは確かだろう。

多かれ少なかれ、人はそのように育つ。社会に出て、人と関わりを持って生きるためには訓練が必要であることを僕は否定できない。人間の共同生活の場のことを社会と言うのなら、小さな子供にとって家庭がその社会のほとんどだ。やがて、隣の子供と遊ぶようになり、幼稚園に行って、小学校に上がり、中学に入り、高校受験をして、あるいは大学受験をして、そして仕事を持つようになり、社会人と呼ばれるようになる。

それらの変遷は人に違うフレームを与え、そして、その枠の大きさを広げて行く。フレームが違えばルールは変更され、枠が大きくなれば生きること自体が複雑になる。あれは僕が中学生くらいのことだったろうか。友人の家の食卓に招かれたことがある。心底驚いたのだが、その家では「おかずを残してOK」だったのだ。あるいはその日が「特別な日」だったのかもしれないが、フレームが変わればルールも変更されるということを、僕は生まれて初めて実感した。

いづれにしても、僕らはどのようなフレームにも合わせて、自らのその形をそこに納まるように変えて生きている。足りない部分を増やそうと必死になり、はみ出した部分は削らねばならない。豊かになろうと努力を重ね、削られる痛みに耐える。人の生き様とはそのようなものでもある。しかし、それだけではないはずだ。

フレームが違えばルールは変更される。僕らはやがてゆっくりとそのことを知って行く。僕ら自身が好んで入りたがる小さなコミュニティにもローカル・ルールはある。恐らく、それぞれのフレームには遺伝子があり、それは脈々と受け継がれ、独自の文化すら持つようになる。僕らは多かれ少なかれ、「郷に入れば郷に従え」を教訓として生きるようになる。

周囲から削られるより先に気付いて、自分の形を修正しようとするからだ。
その方が痛くない。

例えばあなたは自意識に問い掛ける訳だ。「このタイミングで、この場所で、こんなことを言っても大丈夫だろうか?」と。あなたの自意識はあなたに注意を促す。「言わない方が良い」と。そうやって、あなたは「思ったことが言えなかった」、「言いたいことが言えなかった」という経験を積み重ねる。

日々様々な出来事を前にして、あなたは何かを感じる訳だ。それを受けて、あなたは何かを思うのである。それは、あなたが感じた強烈な違和かもしれない。あなたは思うのである。「それはおかしい」、あるいは「私は苦しい」。さて、あなたは思った通りのことが言えただろうか?

「言いたいことが言えなかった」。そんな経験は誰にでもあるのだ。

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TWE カリラ 9Y

ひと休み。(2)

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前回の続き。しかし、「思うこと」の続きでもある。
迷宮入りしないように注意して話を続けさせていただきたい。

ウィスキーを「感じること」なら誰にでもできる。2種類の違うウィスキーを飲んだら、そのふたつが「違うこと」はあなたにも理解できる。あなたは「違うこと」を「感じること」ができる。あなたはそのウィスキーが何であるのか知らないかもしれない。「知ること」はなくとも、あなたは「違うこと」を「感じること」ができる。

ウィスキーを感じるために、ウィスキーを知る必要はない。
あなたが、知りたくなってから、で構わない。

僕らはウィスキーを「愉しむこと」を目的に飲んでいる。ウィスキーの愉しみは様々なものがある。「酔うこと」も愉しみである。もちろん、「知ること」も愉しみである。そして、僕は提案しているのである。「感じること」を愉しんでいただきたいと。「感じること」を覚えると、そこからウィスキーの愉しみは多方面に展開するから。

「感じること」、「思うこと」、そして「語ること」。
「語ること」で、僕らは誰かと愉しみを共有することが可能になる。
感じて、思わないと、語れない。

「知っていること」なら語れるかもしれない。でも、それはあなたの言葉ではないだろう。あなたの言葉が誰かに共感してもらえたら、あなたはきっと、穏やかで優しい気持ちになるだろう。そこには喜びがあるはずだ。ウィスキーは人が喋る言葉の壁を越える。ウィスキーは僕らの共通言語だ。僕らはウィスキーで様々な人と繋がることができる。

「感じること」と「語ること」の間に「思うこと」がある。「感じること」ができても、「思うこと」がままならないと「語ること」は難しい。そして、「思うこと」の通りに「語ること」ができないのも人である。「思ったことが言えなかった」。人は人生の様々な場面で、そんなことを経験する。「語ること」ができないなら、「感じること」も失くしてしまおう。人はそうやって「感じる身体」を手放してしまう。僕はそのことを、とても切実に悲しく思う。

人は本来、痛みに敏感だ。誰だって痛いのは嫌だろう。だけど、放って置けば際限なく自己の欲求を拡大しようと試みるのも人だ。無遠慮に他者の領域に侵食しようとする自己は、周囲の誰かによって処罰されるだろう。他者の存在を認め、周囲を気遣って、社会性を保ってこそ人の社会は機能する。独りで生きることが不可能なことを認めるなら、他人に迷惑を掛けないように生きることは原則となる。

処罰には痛みが伴なう。僕だって痛いのは嫌だが、人は処罰されない方が良いのだろうか?

話は変わるが、僕は子供の頃、ピーマンが嫌いだった。
笑わないでいただきたいが、最近はピーマンがとてもおいしい。品種改良のおかげだろうか。しかし、僕らが子供の頃のピーマンは苦くて固かった。おまけにどうにも土臭かった。あんなものは人の喰うものではないと頑なに信じていた。「オレは虫ではない」と思った。いや、虫でも喰うまい。

さて、侍が子供の頃は、侍の母が夕食の支度をしてくれていた訳だな。感謝である。侍の母は、その日の夕食にピーマンの炒め物を作ったのだな。ピーマンの他に何が入っていたのかは、記憶に定かでない。先ほども申し上げたが、子供の頃の侍はピーマンが嫌いであった訳だ。で、その炒め物のピーマンだけを残して、他のものだけを食べた。

ピーマン以外を食べたので、皿にはピーマンだけが残っている。侍は侍の母の視線が非常に気になったのだが、侍の母はわりと涼しい顔をして夕食を食べている。で、食事は進む訳だな。侍の皿にはピーマンが残っている。ごはんも食べる。味噌汁もなくなる。他のおかずもほとんど食べた。さて、子供の侍はピーマンの処遇に困惑する訳だ。

「残しても良いのかな?」。期待をするのだな。食べなくて済むのなら、そんなに嬉しいことはない。何せ、こちらは虫ではないのだ。人である。これは人の喰うものではない。「なるほど、拙者はピーマンを食べなくても良い権利を手に入れた!」。何のことはない。侍の欲望は無尽蔵に拡大したのだな。

侍は言った。
「母上、拙者はピーマンを食べませぬ。何故なら、虫ではございませぬから」。

パンチが飛んできた。おまけに蹴りまで喰らった。更には玄関から外に放り出された。カギを閉められた。侍は泣いた。心の底から泣き叫んだ。玄関の外で世界の終わりを感じた。子供の侍は処罰を受けたのである。ピーマンを食べずに済む、という欲望は満たされることがなかった。もちろん、とても痛かったのである。

それから、侍はピーマンを食べた。虫の食い物と思ったピーマンを食べた。自分は虫ではないので、ピーマンを人の食い物であると認めた。人の食い物であるので、苦くもなく、固くもないものとした。「本当のこと」はもう語れない。語らないために、思わない。思わないために感じない。当初、ピーマンはまだ、苦くて固いものだったが、やがてそれは感じなくなった。「語ること」を止めるために、「感じること」を失った。

ことピーマンに関して、子供の侍は「感じる身体」を失ったのである。
しかし、ピーマンを食べられるようにさせてくれた侍の母に感謝である。今じゃピーマンが大好き。

降格の危機。
皆様にも感謝。「人気ブログランキング」
ポートシャルロット

MWR

ブログネタ
シングル・モルト に参加中!
イチロー WMR下詳しくお伝えできないこともいくつかあるのだが、関係各方面にご迷惑の掛からない程度のことを書きたいと思っている。様々なところからバラバラに入ってきた情報を練り直してお知らせしたい。もちろん、イチローさんご本人にも話をうかがったが、今回は特別に目白田中屋のノッポさんにも色々情報をいただいた。感謝である。

当然ながら、今回の「MWR」は今年の3月に出た「ミズナラ・ウッド・リザーブ」の後継ボトルである。「ミズナラ・ウッド・リザーブ」、だから、「MWR」ね。

どこの蒸留所なのかということは、相変わらず申し上げられない。前回の「ミズナラ・ウッド・リザーブ」の記事を読んでいただいて憶測していただきたいが、ジェイズ・バーのカウンターでは分かり易いヒントを出してお答えしている。真実に近いことを知りたい方はジェイズ・バーで飲んでいただきたい。もちろん僕自身、本当の真実は知らない。

ブレンドに使用した樽は全部で20樽程度とのことだ。最短で8年、最長で約20年。平均すれば10〜12年くらいだろうとのこと。それらのウィスキーをブレンドしミズナラの樽に充填。マリアージュの期間は9ヶ月程度。当初、笹の川で充填し、製造免許を取得した後に秩父に移動したそうだ。前回の「ミズナラ・ウッド・リザーブ」に比べ、後熟期間が長いこと、加水タイプになったことは変化であり特徴である。

さて、「ギンコー」、「ユナイティング・ネイション」、「ミズナラ・ウッド・リザーブ」、「MWR」と続いたイチローさんのブレンデッド・モルトであるが、侍が気になったのは今回のネーミング。「MWR」というこの略号化が気になる。「定番化して定期的にリリースするつもりなのか?」との質問に、「さて、MWRは、また、リリースできればいいなぁ、と思っております」などと、しれっと答えたイチローさんであるが、メールの文脈からは「やる気満々」といった風である。

皆様に言っておこう。ヤツは本気だな。確かに「ギンコー」は難しいボールをきれいにタイムリー・ヒットに打ち返した感覚があったのだろうが、今度はホームランを打ちたい。そう思っているのだと思う。で、そのうち打つな。ヤツは。

イチローさんはブレンドの愉しみをこう語っている。

「ブレンドするというのはとても楽しいものです。
ウイスキー造りは選択の連続なのですが、最終段階でシングルカスクは選ぶ楽しみ、ブレンドは創る楽しみがあるといえるかもしれません。(中略)自分の考え方はブレンドするときに狙いの味を出すためには、異なる個性を持っている樽があったほうが作りやすいと思っています。たとえば実際のブレンドで、単一の個性だけの樽では、何樽ブレンドしても味に変化が起きませんが、単品では面白みに欠ける原酒もほんの少し個性の強いものをブレンドするだけでぐっと味わい深くなったりしますが、それを経験するとハマリます」。

さて、あなたの舌で確かめていただきたい。
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あれから一年経ったんだな。
昔のウィスキー・マガジンのコラム、「私が64歳になったら」を読んでいて少し泣けた。
マイケル・ジャクソン 享年65歳。
イチロー WMR上
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