さて、この日のイチローさんの最初のオーダーはミッシェル・クーブレー。このふたつをハーフづつ飲んだ。イチローさん自身もクーブレーには良い印象をお持ちのようだ。「素敵なじいさんって感じですかね」とおっしゃる。

僕は以前から思っていたことを聴いてみた。
「イチローさんはそのうち、クーブレーじいさんみたいになるんじゃないかと思うんですよ」。それまでの会話から、イチローさんにクーブレーに対するシンパシーを感じたからだ。その共感は僕の知り得ないところで起きているようで、そんなふたりが羨ましい。それは酒の作り手だけが共有できるものなのだろう。例え知り得たとして、恐らく僕には共有できないものだ。

「むむぅ」と笑顔で唸って、その問いには応えてくれなかった。もちろんふたりの立場の違いは明らかだ。簡単に言ってしまえば、クーブレーの仕事が熟成から始まるのに対して、イチローさんの仕事は蒸留から始まる。イチローさんはスピリッツの作り手でもあるのだ。だけど、話題が樽に及ぶと、僕が思っていたこともそんなに間違いではないだろうと感じてしまった。

クーブレーにしてもイチローさんにしても、彼らのような人の話を聴いていると僕がいつも感じるのは、「実践的な論理の構築」だ。言葉遊びの果てのロジックではなく、イメージに裏付けられた論理。イチローさんと話をしていると言葉を追いかけているのではなく、自身の頭の中のイメージを言葉を使って説明しようとするさまが窺える。どんな人に向かっても自身の中にあるイメージを語ろうとするので、例え言葉の使い方が違っていても、どんな時もその説明の内容はぶれない。

言葉の塊としてのロジックではなく、イメージの連なりがセオリーを作っていくように感じるのだ。そして恐らく、それらは力となり彼らの日々の作業を支えているのではないだろうか。その日のイチローさんはシェリー酒とその樽について語り、スペインに行くことの意味について語り、オークの樽について語り、カシとナラについて語り、ミズナラの木のねじれについて語り、樽作りの作業について語った。もちろんそれだけでなく、今年の夏の軽井沢蒸留所での出来事や、これからの自身の秩父の蒸留所についても語ってくれたが、その話のその言葉の背景に僕は確実なイメージの構築を感じるのだ。

誰でも仕事をしている時に「言葉が追いつかない」と思ったことはないだろうか。素早い判断と適切な動作を必要とする時、実は言葉は役に立たない。マニュアルを持って来る時間はないし、例えそのすべてが頭に入っていたとしても、頭の中でそれを読み返しているヒマはない。身体が覚えていれば適切な動作は可能だろう。しかし、「身体が覚えている」背景に「イメージの連なり」がある人の強味というものがあるのではないだろうか。イチローさんと話をしているとつくづくそんなことを感じてしまう。

ほんの少し思いを馳せてみて欲しい。
今日作ったウィスキーの10年後の姿を彼らはイメージできるのだ。5年後、10年後、20年後に、今日作ったウィスキーがおおよそどんな風であるかを目論むことができるのだ。

実際の作業は、掌にすくい取った水をどこかに運ぶような、そんな繊細なことなのだろう。だけど、その水をどこに運ぶべきか、彼らはそのイメージを持たねばならない。残念ながら、僕にはそんなことは想像も付かない。

イチローさんは語る。
「正直なところ、その着地点がどこになるのか、自分にも分からないことはたくさんあります。でも、投げる方向だけは間違わないようにと思っています」。その語り口をも含め、非常に丁寧で謙虚だ。

ウィスキー作りとは掌の水を良い場所に運ぶことだ。良い場所とはそれを好む人がたくさんいる場所だ。人のいるところに水を持って行くのも良し、持って行った場所に人を集めるも良し。肝心なのは掌からこぼさず良い場所に持って行くことだ。少しづつ天使にその分け前を与えながら、良い場所にそれを運ぶことができたなら、その水は良いウィスキーとなるだろう。そしてそれを人々は愉しむだろう。

年の瀬に肩を丸めてキーボードを叩く。人気ブログランキング