まずは愚痴を言わせてもらおう。
僕は長い間そんな風に仕事をして来た。だから、「バーテンダーはモルトに頼るべきではない」。なんて言われると切なくなるのだ。ヘコんでいる時には悲しくもなるし、ため息も出る。「買って来たものをグラスに注いで売るだけでしょ」、なんて言われれば、静かに自分の人生を振り返ってみたりもする。「僕は間違っているのだろうか?」。

是か非かでものを語ってもそこに答えはない。人生も、シングル・モルトも一緒だ。結果が出るまでの過程をプロセスと言うのだし、プロセスの中にいることを生きると言うのだ。だとすれば、僕らの「生」はプロセスの中にしか存在しないし、結果など知らぬまま死んで行く。だけど、僕らはそのプロセスの中で誰かと関わり、交わり、恐らくはその誰かの結果にさえ影響を及ぼしてしまう。

この世のすべての結果は常に暫定的だ。最初の打席で三振をしても、次の打席でホームランを打つことがある。そして、その後の二打席にヒットを続けて打ったとしても、試合に負けることもある。だけど、次の日の試合には勝つかもしれないのだ。たとえ自分がヒットを1本も打てなくとも。
長いシーズンを考えればすべての打席もすべての試合も、その結果は常に暫定的でしかない。シーズンの優勝が決まれば、確かにそれはひとつの大きな結果だろうが、それでもまた次のシーズンはやって来る。直前の打席の三振は確かにひとつの結果だ。でもその結果は暫定的でしかない。すべてはまだ終わった訳ではないのだ。野球も、人生も、シングル・モルトも一緒だ。

結果が出るまで是非の判断は付かない。プロセスの中をしか生きられない僕ら、結果など知らぬまま死んで行く僕らが出す結果など暫定的なものでしかない。だから、是か非かでものを語ってもそこに答えはない。それでも人生は続いていくのだ。

「グラスゴーに向かって出発した汽車?」というのは正解だったのだろうか?
「うまい棒のタコヤキ味」というのは正解だったのだろうか?
「納豆がダイエットに効く」というのは正解だったのだろうか?

正直に僕の気持ちを言わせてもらおう。
「どちらでもいい」。

あくまでも、僕らにとってこの程度のことなら正誤、善悪、是非の判断など、どうでも良いのではないだろうか?やっぱり僕は「愉快−不愉快」の方が大事だ。もちろん、できる限り誰をも損ねないよう注意を払うことは前提だが。

「グラスゴーに向かって出発した汽車?」というテイスティング・ノートは、誰かを損ねただろうか?
「うまい棒のタコヤキ味」というテイスティング・ノートは、誰かを損ねただろうか?

確かに、「グラスゴーに向かって出発した汽車?」は不正確かもしれない。「うまい棒のタコヤキ味」はそれを知る人が少ないかもしれない。だったら、ありがちなテイスティング・ノート「チョコレート」は正確なのだろうか?もしもシングル・モルトが「チョコレート」なら、あなたはそれを子供に飲ませるだろうか?残念だが、「シングル・モルト」=「チョコレート」ではない。

「グラスゴーに向かって出発した汽車?」という表現は不正確な分だけ、誰かを不愉快にさせることがあるかもしれない。どんな時も厳密に正確を求める人はいる。曖昧と意味不明を許さない人はいるのだ。「本当のことではない」と彼らは思うのだろうか。だけど、それは誰かを不幸にするだろうか?だとすればそれはどの程度の不幸だろう。取り返しの付かない程の不幸がそこに存在するとは思わない。

でも、正確を求める人たちはいつも「本当のこと」を言っているのだろうか?忘れ物をしたことはないのだろうか?約束を破ったことはないのだろうか?電車に乗り遅れたこともないのだろうか?
多くの人はあまり「本当のこと」を言わない。僕はそう思っている。そもそも、「本当のこと」って何だろう?正確を求める人たちはそれを知っているのだろうか?僕にはお手上げだ。

だから僕は愉しいことを大切にしようと思う。
それなら僕にも良く分かる。
「グラスゴーに向かって出発した汽車?」も、「うまい棒のタコヤキ味」も、僕にはとても愉快だ。「納豆がダイエットに効く」という話はとても不愉快だったけど。
納豆が買えなくて迷惑な話だったし。
だけど、それは取り返しが付かないというほどのことではない。

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