イチロー H-A C-2 D-3昨日、
イチローさんが作りたいと思うウィスキー。お客さんを笑顔にさせるウィスキー。その間を狙ってイチローさんはウィスキーを作るだろう。
そう申し上げた。

イチローさんが飲み手の嗜好に寄り添い、飲み手もイチローさんのウィスキーに何かを感じれば、ふたつの気持ちは絡み合い交ざり合い、きっと僕らは、作り手も飲み手も、愉しく気持ち良くなれるはずだ。互いが互いの気持ちに歩み寄ることで成り立つ快楽。もう少し近づけば良いだけ。たったそれだけのことで僕らはいつもより愉しくなれる。

僕はそんなことがとても素敵なことだと思うし、これからもそれを愉しみに生きて行きたいと思う。だけど、どうだろう。もちろんイチローさんはこれからも様々な趣のシングル・モルトをリリースして来るだろう。個性の異なるそれぞれに独特な特徴のあるシングル・モルトを提案してくるだろう。そして僕らは思わず言ってしまうだろう。「今回のは前回のと随分違うね」、などと。

だけどその提案のすべては、イチローさんがイメージする「飲み手の嗜好」とイチローさんの「作りたいウィスキー」の間にあるウィスキーだと思う。昨日も申し上げた通り、イチローさんはその「間」を狙うはずだと思う。それは僕らにとってありがたいことだし、僕は素直にそのことに感謝をしたい。だけど、どうだろう。イチローさんの「作りたいもの」と、僕らが「飲みたいもの」にはいったいどのくらいの乖離があるのだろう?

その乖離はどの程度のものだろう?
気にすることもないほど小さいのだろうか?
あるいは、想像もできないほど大きなものだろうか?

イチローさんはもう、「来るはずのない客人のため」に料理は作らないと思う。だからイチローさんは自然と飲み手の顔を思い浮かべてしまうだろう。そして僕は折に触れ、イチローさんに向かい「お客さんの飲みたいと思うウィスキー」についてもの申して行くだろう。それを受けてイチローさんがイメージする「飲み手の嗜好」を修正していただけるなら嬉しく思う。

もしも、イチローさんの「作りたいもの」が、僕らの「飲みたいもの」とはとても遠いところにあるとしたらどうだろう?つまり、イチローさんが僕らの嗜好に寄り添い過ぎていたら、どうなのだろう?イチローさんは「自分を殺して」ウィスキーを作っているのだろうか?で、僕は思ってしまう訳だ。イチローさんがお客さんの顔など思い出さずに、自分の思うままに自分勝手なウィスキーを作ったら、それはどんなウィスキーなのだろう?と。

飲んでみたくはないだろうか?

もちろんそれは、あなたを愉しませない可能性が十分にある。もしかしたらそれは、とんでもないウィスキーなのかもしれない。だけどだからこそ、あなたにとって物凄いウィスキーになるかもしれない。そして、夢見る侍はその夢を膨らませてしまうのである。

それこそが、ジョーカー?
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