先日お客さんと「同じウイスキーなのに家で飲むのとバーで飲むのと違うように感じるのだろう?」なんて話をしていて、要するにバーで飲んだ方が美味しいと感じる人は多いようだ。


その理由を僕は「臨場感」なのだと考えている。


「臨場感」というのは不思議な言葉だ。辞書を引けば「あたかもその場に臨んでいるような感じ」という理解になる訳だが、つまりは「その場にいないこと」が前提になっている。


例えば「臨場感あふれる野球中継」というのは、実際には野球場にいないでテレビで観戦しているのに、「あたかもその場に臨んでいるような感じ」で試合を観ていること。になる訳だ。


僕らは臨場感が上がることを望んでいる。テレビの画面を大きくしたり、微細で美しい映像を求めたり、音響にも気を配り、「あたかもその場に臨んでいるような感じ」であることを欲している。


僕は先ほどその理由を「臨場感」だと申し上げた。おかしいじゃないか?と思う方もいるかもしれない。この場合の「あたかもその場に臨んでいるような感じ」の「場」とはどこなのだろう?と。


例えば、目の前にラフロイグ蒸留所のウイスキーがあったとする。もちろん「例えば」の話だ。このウイスキーがラフロイグであるかどうかは分からないから。


そして、このウイスキーを飲んで「あたかもラフロイグにいるような感じ」になる人はどのくらいいるだろう?「アイラ島なんて行ったことないよ」って人がほとんどだと思う。


でも、ちょっと聴いて欲しい。例えば先ほどの「臨場感あふれる野球中継」の話だが、今まで一度も野球場に足を運んだことがない人でも、テレビの野球中継を観て「あたかも野球場にいるような感じ」になることはないだろうか?


例えば、スマホの画面より60インチのテレビの方が、モノラルの音声よりサラウンドの方が臨場感を出すことが可能なら、一度もその場に行ったことがなくとも人はその違いを感じることができる。


少なくとも、本当に臨場感に溢れているなら「自分の部屋にいないような感じ」にはなるだろう。


「臨場感」という言葉はちょっとした語義矛盾をはらんでいる。「その場にいないこと」が前提になっているのに、「あたかもその場に臨んでいるような感じ」になるのだから。その場にいる時に感じる興奮を臨場感とは呼ばないのだ。


「場」というのはどんな時もリアルだ。野球場での試合は現実であり、テレビに映る野球中継は(「それそのものではない」という意味において)現実ではない。


もしもあなたが、ラフロイグ蒸留所を訪ねたら、そこにあるのは本物の現実であって臨場感ではない。


言い換えるなら「現在いる場所とは異なる場所にいるような感覚」を僕らは臨場感と呼ぶ訳だ。興奮し満足するために臨場感を求めている。ならば、それをある種の情動反応だと説明することは可能だろう。


例えば僕が、ラフロイグ蒸留所を訪ねてアイラ島の風景を眺めれば、その目の前の現実に大きな興奮と満足を得るだろう。でも、どうだろう?日々そこに暮らす人にとって、それらの風景は何の変哲もない日常でしかない。


アイラ島に暮らす人が東京に旅行に来たなら、その(彼らにとっての)非日常性に興奮と満足を手に入れて帰るだろう。例えばそれが、僕らにとっての「ただの通勤経路」なだけであっても。


僕らが本当に求めているのは興奮と満足であって、臨場感はその手段に過ぎない。


僕らが旅行を欲するのは、日常から離れてちょっとした非日常性を楽しみたいからだ。もちろん、非日常を楽しんだ後、僕らにはまた日々の暮らしが待っている。


そして、その日常と非日常の往来が、僕らの人生に感謝と豊かさを与えているのだと僕は思っている。


だけど、日常のありふれた光景のリアルがすべてインチキのように思えたり、非日常の中で生まれて初めて出会った一瞬の光景が、一生忘れられないほどリアルに感じられたり。


つまり、僕らは臨場感を頭の中で作っている。そして、その臨場感を目の前の現実より、より一層リアルに感じてしまうことがある。その本質はトリップであるのかもしれない。


誰かと一緒にウイスキーを愉しんでいる時、僕らは言葉に溢れてしまう。

ひとりでウイスキーを愉しんでいる時、僕は思い出に溢れてしまう。

いろんなことを思い出させてくれるウイスキーが、僕は好きだ。


目の前にグラスに注がれた1杯のウイスキーがある。

本当の意味で、それこそが、それだけが現実でありリアルだ。


でも僕らは、そのグラスの向こうに何かをみている。その何かとは思い出なんだ。そして時々、その思い出を起点に未来に想いを寄せることがある。


グラスに注がれた1杯のウイスキーという現実と、グラスの向こう側に思い浮かべられた臨場感との間を往来しながら、僕らはより一層ウイスキーを愉しめるようになって行く。


遠い目をしてウイスキーを愉しんでいる時、僕らはみんな、そんな状態だ。


例えば、あるウイスキーに「桃」を感じてしまったとしよう。でもそれは、「桃」ではなく「ウイスキー」だ。現実の「ウイスキー」が「桃」に感じられただけのこと。ウイスキーの原材料が桃でないことは明らかだ。


だけどその時、僕らは「ウイスキー」ではなくグラスの向こうに「桃」をみている。そう、臨場感を伴って。だって、その「場」に桃はないのだから。


桃を食べたことのない人は、記憶の中に桃を持たない。ウイスキーに桃を感じるのは、自分の思い出の中に桃を食べた記憶を持つ人だけだ。だから僕らはウイスキーと記憶の間を往来しながらウイスキーを愉しんでいる。


やがて僕らはウイスキーの向こうに違う思い出を見つけるようになる。桃だけではなく、バナナをオレンジをイチジクを。時にはそこに、塩煎餅や革靴やタンスを見つけて愉しでいる。


そして時々は「灰にまみれたマンゴー」のように、食べたことのないものまで頭の中に作り出してしまう。


目の前の1杯のウイスキーという現実と、グラスの向こう側に思い浮かべられた情景を軽快に往来できるようになることを「ウイスキーが上手」になったというのだ。


そして、「ウイスキーが上手」になるために、他者の存在が必要だ。誰かと一緒にウイスキーを愉しんでいると、僕らの中から言葉が溢れて来る。言葉はイメージを生み出し、イメージは思い出に繋がる。


もちろん、既に「ウイスキーが上手」な人はひとりでも愉しむことができる。目の前のグラスとその向こう側をひとりで軽快に往来してウイスキーを愉しんでいる。


でもね、既に「ウイスキーが上手」な人も、もっと上手になるために誰かの力が必要なんだ。


僕らがウイスキーを愉しむ時、目の前の現実とその向こう側に臨場感を伴って存在する記憶の間を往来しているとするなら、それらのすべては「自分の中」から生まれている。


つまり、答えのすべては自分の中にある。でも、本当は知っているのに本人が気付かないことがある。そして、それに気付かせてくれるのは、あなたの隣の誰かだ。


誰かの言葉がもう何年も思い出したことのないようなことを、思い出させてくれることがある。


その誰かは必ずしも「ウイスキーが上手」な人である必要はない。

「あなたが好きな人」の方がいい。


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