モルト侍

池袋のショット・バー、ジェイズバーのバーテンダーが、大好きなシングル・モルトを斬る。

ブレンデッド・ウィスキー

ブランドの真髄 / バランタイン

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バランタインそれは何もウィスキーに限ったことではない。「ブランドを守る」という視点で見たバランタインは、その成功例として最適であるかもしれない。現在、160ヶ国以上の国で高級ウィスキーの代名詞として知られるバランタイン。数あるスコッチ・ウィスキーの中でも高い質と人気を誇り、「ザ・スコッチ」と言えば同社の17年ものを指すほどに多くの人に知られている。

それは、そこに関わったすべての人が、「ブランドを守る」という共通認識を持っていた結果だったのではないだろうか。そう思わせることが不可能ではないほどに、このブランドの成長はよどみがなかった。実績と確信に裏打ちされた情熱と信念は困難と挫折を乗り越えた。バランタインのブランディングの成功を思う時、そう感じることは多い。

他の多くのスコッチ・ウィスキーがそうであったように、バランタインもまた、その始まりはファミリー・ビジネスであった。父の期待を裏切ることなく、13歳からエディンバラの食料品店で奉公に勤めたジョージ・バランタインは、契約期間の5年を忠実に、勤勉に、正直に働いた。物静かで頭の切れる礼儀正しい若者に成長したジョージ・バランタインは、5年後に独立し自らの小さな食料品店を構える。

真面目な商売人であったジョージ・バランタインは、やがて、ブレンデッド・ウィスキーの未来に大きな可能性を見出したのだろう。商売を息子たちに任せ、自らのその経験と知識を活かし、ブレンデッド・ウィスキーの未来を切り拓いて行くことになる。19世紀末にもなると、優れたウイスキー・ブレンダーとして名声を高めた。

当時、ウィスキーをブレンドすることの主な目的は、「飲み易さ」と「経費削減」にもあったはずだ。そして恐らく、混ぜ合わされたそれらは、スコッチではなく、ウィスキーですらなかったかもしれない。ブレンデッド・ウィスキーと言えば「模造ウィスキー」。それは当初、そのように解釈されていた側面があることを否定できない。そんな時代にジョージ・バランタインは、自らの名がラベルに書かれたウィスキーを送り出し、マスター・ブレンダーとしての地位を確固たるものにして行った。

「品質の精選、そして誇りと一貫性と礼節をもって商売をする」。それは、バランタイン社の社是であるという。ジョージ・バランタインは「安くて飲み易い」ウィスキーを夢見た訳ではない。重層的な構造を持ち、芳醇な香りを放つウィスキーを、ブレンドによって作り出すことを目指した。それこそが、ブレンデッド・ウィスキーの未来であると信じたのだろう。そして、バランタイン社は遂に「王室御用達」の称号を授与されることとなるのだが。

「バランタイン」。そのブランディングにフォーカスするなら、話はそこで終わらない。

彼らのファミリー・ビジネスは限界を迎えようとしていた。特筆すべきは、彼ら自身がその限界を感じていたということだろう。もちろん、彼らの商売には何も問題はなかった。バランタイン社はブレンド業者として高い評価を受けていたし、世界中に向けウィスキーを輸出し、その規模を拡大するために保税倉庫を買い取り、エディンバラの一等地に念願の店を開き、上流社会の洗練された人々の支持を受け、彼らを上得意の顧客とするようにもなった。しかしそれでも、それらは個人商店の域を出ていなかっただろう。

国内外から引き合いの多い「高級ブレンデッド・ウィスキー」として、その名声を高めたバランタイン。その影響力の大きさは、ファミリーにとって次第に負担の大きなものになって行った。ファミリーはパートナーを求め、バークレー・マッキンレー商会に経営権を譲渡する。エディンバラの個人商店から始まった同族企業は、スコッチ・ウィスキーを世界中に輸出する大企業へ成長しようとしていた。

バークレー・マッキンレー商会が視野に入れたのは、広大で将来性のあるアメリカ市場であった。当初からアメリカにコネクションのあったバークレー・マッキンレー商会は、禁酒法時代のアメリカで、危ない橋を渡りながらもその販路を拡大していった。彼らのマーケティングと広告戦略は功を奏し、禁酒法が廃止された後に、バランタインはアメリカ市場を席巻するほどの商品となる。

注文は殺到するのだが、皮肉なことにスコットランド国内のウィスキー関連業者は、大きな不況に立ち向かっていた。それは、バランタイン社に限ったことではなかった。19世紀末、多数の債権者を巻き込んだパティソンズ社の倒産は長く尾を引き、多くの逆境の中で多くの蒸留所が操業を停止。バランタイン社は原酒の確保すらままならなくなる。

バークレー・マッキンレー商会と付き合いのあった、カナダのハイラム・ウォーカー社が支援を申し入れた。ハイラム・ウォーカー社はブレンデッド・ウィスキー作りに深い理解を示し、バランタインが必要とする原酒を次々に確保して行った。1930年にはグレンバーギー、1936年にはミルトンダフを買収。1938年には政府の勧めでダンバートンの使用されていない造船所跡にグレーンとモルト蒸留所、貯蔵庫、ブレンディング及びボトリングの巨大な施設を建設。1954年にはスキャパとグレンカダム、1955年にはプルトニーを買収。1958年にはグレンバーギー蒸留所の規模を2倍に拡大。1970年にはバルブレア、1979年にはアードベッグを取得。

ハイラム・ウォーカー社の支援はそれだけではなかった。自前の製麦工場を持ち、様々な方法で蒸留所内の作業効率を高めることに資金を投入した。また、インヴァーリーヴン、グレンバーギー、ミルトンダフに存在したローモンド・スティルはハイラム・ウォーカー社の開発によるものである。

彼らはバランタインのために惜しみなく準備を整え、しかも、製造工程には一切口を出さなかった。それらの仕事のすべてを、賢明にもスコッツたちに任せたのである。個人商店から始まり、「高級ブレンデッド・ウィスキー」としてその名声を高めたバランタイン。その同族企業は、今後も幾度かその経営権を誰かに委ねることがあるかもしれないが、「ブランドを守る」合理性と冷静さがある限り「バランタイン」のその名は永遠に残ることだろう。


水割りというスタイル、第二弾からバランタイン。
1杯、¥900です。

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水割りというスタイル 第二弾

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どうやら随分と落ちてしまった様子。
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順位のご確認してください。

水割り第二弾第一弾は、オールド・パー、ホワイト・ホース、ヴァット69、ヘイグの4本のブレンデッド・ウィスキーをご提供した。一番人気が高かったのはヴァット69だったかと思う。確かに、一番凛々しい水割りになった。

非常にご好評のうちに終了した「水割りというスタイル」の第二弾である。

第二弾の今回はバランタイン・ゴールド・シール、J&B、ハイランド・クイーン、ジョニー・ウォーカー・レッドの4本。モヒートの美味しい季節になったが、ぼちぼち梅雨に入ろうかというこの頃である。水割りだってうまい。


話は代わるが、昨日、お休みをいただいてお客さんとお好み焼きを喰いに行った。東武東上線沿線の各駅停車しか止まらない、板橋区内の小さな街のお好み焼き屋さんである。たいそう居心地の良い店で、美味しくお好み焼きをいただいたが、そんな店のメニューにも「ウィスキー」と書かれている。

「ビール」の項目にはいくつかの銘柄が並び、「焼酎」は芋・麦それぞれにたくさんの銘柄を用意している。で、「ウィスキー」は銘柄がメニューに記載されず、シングルとダブルの料金が書かれているだけだ。

例えば、田舎の食堂なんかに行くと、壁に小さな札紙が貼ってあって「水割り ¥300」なんて書いてあることがある。僕はそういうのを見ると、ちょっと嬉しくなって頼んでしまいたくなる。「すいませーん、水割り下さい!」なんてね。

何が出て来るんだろ?なんて思っていると、おばちゃんがカウンターでサントリー・オールドの水割りを作ってくれたりする。あるいは、大きなペットボトル入りのサントリー・ホワイトであったり、ブラックニッカであったり。残念なことに、それがオーシャン・ラッキーであったことはない。

僕がそういう場所でウィスキーを頼むのは、もちろん、ウィスキーが好きだからということもあるのだが、お店の人がウィスキーを仕入れることを諦めないで欲しいから、という気持ちがある。メニューからウィスキーが削られてしまったら、ますます人々はウィスキーから遠ざかるばかりだ。

昨日のお好み焼き屋さんで僕は水割りを頼んだ。その水割りはジョニー・ウォーカーのブラックであった。製氷機ではなく氷屋さんの氷をぎっしりとグラスに入れて作られた水割り。グラスが熱い鉄板のあるテーブルに置かれることを考えるなら、それは、適切なおいしい水割りであった。

その後、僕はその店の焼酎を何杯か飲むことになるのだが、やはり、切ないことに、そういう場所でウィスキーは焼酎に負けるなとつくづく思った。意地でも1杯は「水割り」を飲むと思うが、やはり、人は素直な方が良い。味噌バターで焼いたキノコには、水割りよりも軽めな麦焼酎の方が合うのだな。

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サントリー・ローヤル

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ローヤルご好評をいただいている「水割りというスタイル」であるが、第一弾の4本はほぼ完売。オールド・パー、ヴァット69、ヘイグ、ホワイト・ホースのうち、残るはヘイグだけとなってしまった。本来なら、第二弾をリリースしたいところなのだが、「川崎蒸留所」に大きく時間を割くこととなったため、まだ準備ができていない。

ぼちぼち準備を整えて、バランタイン12年、J&B、ハイランド・クイーン、ジョニー・ウォーカーをご用意しようと思っている。

その前に、中継ぎの登場である。
かつて、同社の最高峰であったブレンデッド・ウィスキー。
このデザインのボトルは一番古いものだと思う。
70年代後半から80年代の瓶詰。

ほろ苦さが良い。

本日はこれにて。

川崎試飲会は今度の日曜です。

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ローヤル

自由と独立の精神の象徴 / ホワイト・ホース

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IMG_3717_1ラベル中央上部にある黒地に白馬の「サイン(看板)」にご注目いただきたい。「ザ・ホワイト・ホース・セラー(白馬亭)」、そして、「設立1742年」とある。「ザ・ホワイト・ホース・セラー」はエジンバラのキャノンゲート街にあった宿も兼ねた酒場の名。その「ザ・ホワイト・ホース・セラー」の設立が1742年ということである。

1890年、このウィスキーのブランドに「ホワイト・ホース」と命名したのは、創業者のピーター・マッキー。巨漢でエネルギッシュ、天才にして誇大妄想狂。休みを知らないその行動力は「レストレス・ピーター」としてつとに有名だったという。若き日のピーター・マッキーがウィスキー作りを学んだのが、アイラ島のラガヴーリン蒸留所であった。

1707年の合同法によりグレートブリテン王国が成立するまで、スコットランドとイングランドはそれぞれ独立した王国であった。そのことを不公平な併合と考えるスコットランド人は少なくなかった。18世紀のスコットランドにも反乱の歴史があった。ロンドンとエジンバラを結ぶ乗り合い馬車の乗降地であり、スコットランド独立を願う市民が集まったのが「ザ・ホワイト・ホース・セラー(白馬亭)」なのである。

「ザ・ホワイト・ホース・セラー(白馬亭)」。それは、スコットランド人にとって自由と独立の精神を象徴する場所でもあったことだろう。そもそも、政府から課せられた重税に反旗を翻し、密造酒を作り続けることが反骨のシンボルであったのがスコッチ・ウィスキーである。ピーター・マッキーは自由と独立の精神を象徴する「ホワイト・ホース」をそのブランド名に選んだのである。

「もしも最良のウィスキーが手に入らないのならば、そのことにカネを費やすのは馬鹿げている」。創業者ピーター・マッキーの言葉である。さて、彼はどんなウィスキーを最良としたのだろう。

ひとつは若き日のピーター・マッキーが修行を積んだラガヴーリン。そして、自らホワイト・ホースのために創業したクレイゲラヒ。さらに、19世紀最後に建てられたスペイサイドの蒸留所、グレン・エルギン。確かに、クセのあるアイラ・モルト(ラガヴーリン)をその中核にしているブレンデッド・ウィスキーは珍しいかもしれない。

上記が「ホワイト・ホース」のキーとなる3つのシングル・モルトである。しかし、どうだろう。ラガヴーリンからはコクのある滑らかさを、クレイゲラヒからはしっかりした甘味を、そして、グレン・エルギンからは華やかなフルーティさを手に入れていると僕は思う。ピーター・マッキーは個性を全体にバランスさせることに成功している。

1924年、ピーター・マッキーは69歳で亡くなる。後を継ぎ2代目マスター・ブレンダーとなったのは、愛弟子のジョン・ブラウン。若くして天才と謳われた名ブレンダーである。1897年の入社以来、52年の長きに亘って「ホワイト・ホース」を守り続けた。

ちなみに、現在は主流となったブレンデッド・スコッチ・ウィスキーのスクリュー・キャップ。1926年、「ホワイト・ホース」はそれまでのコルク栓に代わって、初めてスクリュー・キャップを採用したウィスキーとなった。

「レストレス・ピーター」と言われたピーター・マッキーは、その晩年までラガヴーリンのように個性的な男だったろうか。「ホワイト・ホース」の中にあり、ラガヴーリンは見事なまでにそこに調和している。

「水割りというスタイル」
第一弾から、本日はホワイト・ホース。
1杯、¥945です。

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名門一族のウィスキー / ヘイグ

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IMG_3709_1「ヘイグ」。それは、スコットランド名門一族の名。
スコッチ・ウィスキーの歴史であり、英国の歴史そのものでもある。

ヘイグ家の始祖を辿れば、11世紀にまで遡ることになる。1066年にノルマン公ギヨーム(後のウィリアム征服王)によるイングランド侵攻に加わり、とともにフランスから渡ったノルマン騎士の一人。それが、英国におけるヘイグ本家の始まりである。その功績によってイングランドとスコットランドの境を流れる、ツイード川に領地を賜わり、川畔のビマーサイドに城を構えた。

当時はその名をハガ(あるいはアガ)と名乗っていたようだが、「ヘイグ」と改められたのは14世紀のこと。元来が軍人の家系なのであろう。同家は以来、900年に亘りスコットランド史に数多くの武勲を残し、また、多くの分家も輩出している。スコッチ・ウィスキーより以前に、ヘイグ家はスコットランドの名門一族なのである。

その分家のひとつ、ロバート・ヘイグがウィスキーの蒸留を始めたのが1627年。もちろん、まだ連続式蒸留機が開発される前のウィスキーである。それは恐らく、現在伝え聞くスコッチ・ウィスキーの始まりに近い様子だったのだろう。ロバート・ヘイグもまた、「大麦を手っ取り早く換金する方法」としてウィスキーの蒸留を始める。

自ら所有する農地から収穫される大麦。恐らくは、こじんまりした蒸留設備でウィスキー造りを行ったことだろう。当時のほとんどがそうであったように、それは副業的な生産であったはず。ただそれは、農家の副業ではなく「地主の副業」である。出自が違うのだ。しかし、彼はウィスキー造りに魅せられたのだ。

やがて、ロバート・ヘイグはウィスキー造りへとのめり込んで行く。オランダへ行き最新の蒸留技術を学び、安息日である日曜日にも関わらずウィスキーを造り、「彼の大釜には火が入っているし、販売もしている」と非難され教会とトラブルを起こしている。ロバート・ヘイグは情熱家であったと思う。しかし、情熱家とは時に頑固で、あるいは思い込みが激しい。

このローランドのウィスキー生産者、ロバート・ヘイグの情熱はその子孫へと受け継がれて行く。その経営は常に順風満帆という訳ではなかった。しかし、彼らはどんな時もその舞台から降りようとはしなかった。情熱家の血を引いた彼らの、その頑固さと思い込みの激しさは、何か有効に機能したのだろうか。困難に立ち向かい、彼らの心は折れなかった。

改めて確認をしておこう。ヘイグ一族は「ローランド」のウィスキー生産者である。それは今から10世紀前に、時の国王ウィリアム?世から領地を与えられたことから始まっていると言っても良いだろう。もちろんそれは、当初から農家の副業ではなかった。やがてそれは、地主の経営となる。

18世紀後半、ローランドのウィスキー生産者は積極的な設備投資を行い、その効率化と製造量の増大を目論んで行った。背景にあったのは巨大なイングランド市場である。イングランド北部と隣接するローランド地方は、物流コストを考えても有利な生産拠点となる。地の利を活かそうということだ。ローランドの生産者は「輸出」を考えていたのである。

一方、ハイランドのウィスキー生産者は非常に伝統的だった。ただしかし、それは「時代遅れ」であっただけのことだったのかもしれない。資金力に乏しく、投資も見込めない。彼らもその製造設備を最新のものに変更したかっただろうか。しかし、彼らにはその力がなかった。結果から言えば、ハイランドの生産者は「取り残された」のである。

しかし、スコットランドの国民的詩人、ロバート・バーンズはローランドのウィスキーに対して、明快に、そして、痛切にこう語っている。「この地方のウィスキーは最も哀れな酒であって、それ故に、最も哀れな住人にのみ飲まれている」。およそ200年前の彼のその論評は、結果として的を得ていたいことになる。21世紀の現在、ローランドのウィスキーの衰退は明らかである。

ローランドのウィスキー生産者はその黎明期から「輸出」を念頭にウィスキーを造ったのだろう。彼らのスタンスはハイランドの生産者に比べ、ビジネス寄りである。「販路拡大」は彼らには大きな課題だったのだろう。彼らの競争相手はイングランドの蒸留業者であった。しかし、1788年ローランドのウィスキー生産者の前に暗雲がたちこめることになる。

1788年2月、「ローランド免許法」が議会で可決される。イングランド市場向けに製造される、すべてのスコットランドの蒸留業者を締め出そうという法律だ。もちろん、背後にはイングランド業者の扇動があった。ローランドのウィスキー生産者向けの大規模な大麦栽培を、ようやく軌道に乗せてきた新興農業にとっても大きな打撃であった。

ローランドのウィスキー生産者の幾多の苦難については省略をさせていただこう。ただし、当時の様々な事情は、この地に多くの敗北者を生み出した。しかし、ヘイグ一族は生き残る。1824年、ジョン・ヘイグはキャメロンブリッジ蒸留所を設立。同蒸留所はロバート・スタインの連続式蒸留機を導入した、初めてのグレーン・ウィスキー蒸留所となる。

改めて説明をすることもないだろう。「連続式蒸留機」、「グレーン・ウィスキー」、それらはブレンデッド・ウィスキーを語る上での要となる。

皆様には、ヘイグのボトルをクルリとひっくり返して、その裏面にご注目いただきたい。
「Don’t be vague. Ask for HAIG.」
である。

詳しいことはヘイグに聴いていただきたい。

「水割りというスタイル」
第一弾から、本日はヘイグ。
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不作為なる69 / ヴァット69

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vat69村上龍の著作に「69」というタイトルの自伝的青春小説がある。その「69」というタイトルにエロティックな妄想を抱いて、同書を手に書店のレジへと向かった読者がいたかもしれないことを否定できないだろう。もちろん、読み進めば「69」というタイトルの根拠が、「1969年」のエピソードであることに気付かされるのであるが…。

「ヴァット69」という名のウィスキー。このウィスキーはアメリカのマーケットで絶大な人気を得ることになる。アメリカの消費者もエロティックな妄想を抱いて、酒店のレジへと向かったのだろうか?もちろん、「ヴァット69」というブランド名にもその根拠はある。

このウィスキーを世に送り出したのはウィリアム・サンダーソン。彼は当初、ワイン・スピリッツ商の元で主に果実酒造りを修行していたが、1863年に独立しウィスキーのブレンダーとして活躍することになる。ウィリアム・アンダーソン、24歳の時である。

キャリアを積んだウィリアム・サンダーソンは1880年、遂に究極のブレンデッド・ウィスキー造りに着手する。様々な試行錯誤を繰り返し、その3年後には100樽の試作品を完成させる。100まで順番に番号の振られたウィスキーを、彼は友人や知人のブレンダーを招いて実際にテイスティングをしてもらう。その時に全員が一致して「ベスト」と言ったのが、「VAT69」つまり、69番目の樽だったのだ。

結果として出来過ぎな話に聴こえるかもしれない。しかし、ブランド名は「ヴァット69」に決定され、世界に向けて販売されることになる。ウィリアム・サンダーソン&サンズ社のその後の発展は、この時に基盤を作った。

このブランドの成功が、そのネーミングに拠るところは大きいとは思う。しかし、試行錯誤の果てに100樽にも及ぶ試作品の樽詰め。その後の3年にも亘る熟成。もしも、伝えられたそれらの話が真実なら、その背景にはウィスキー造りに対する情熱と信念があったことは確かだろう。もちろん、資金的な余裕も不可欠である。

ウィリアム・サンダーソンが独立しウィスキー・ブレンダーの道を選んだのが1863年。当時、彼は24歳。そこから始まり、そして、究極のブレンデッド・ウィスキーにたどり着き、「69番目がベスト」と言われたのが1883年。当時、彼はキャリア20年のベテランのブレンダーだった訳だ。

「ヴァット69」。それは本当に、69番目の樽だったのだろうか?猜疑心の強い僕は、そこに疑念を挟むことを止められない。そこに何かの作為はあったのだろうか?

しかし、もしも本当に「69番目がベスト」であったなら、さらに、ウィリアム・サンダーソンが現代に生きるキャリア20年のウィスキー・ブレンダーなら、その偶然を見逃すことなく幸運と思ったかもしれない。彼は正々堂々と「69」という数字をラベルに表記する根拠を手に入れたのだ。酒屋の棚に並んだときに人目を引くことは明らかだ。その数字に売れる予感を持ったかもしれない。

さて、19世紀末のスコットランドで「69」という数字は何か特別な意味を持っただろうか?しかし、「ヴァット69」がアメリカのマーケットでブレイクした理由が、そのネーミングによるものと分析されているのは事実である。

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長寿への憧れ / オールド・パー

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IMG_3712_1ラベルに書かれた「De Luxe(デ・ラックス)」の文字に注目して欲しい。例えば、自動車メーカーであるトヨタが「カローラ、マーク?、クラウン」といったラインナップを揃えるように、ブレンデッド・ウィスキー銘柄各社も独自の数種類のブランドを立てていることが多い。

例えば、今回の企画で後にご紹介させてもらう予定のジョニー・ウォーカー。このブランドは「ジョニー・ウォーカー・レッド、ブラック、ゴールド、ブルー」という風に、順次、よりハイ・クラスなウィスキーを用意している。かつて、「いつかはクラウン」がトヨタのキャッチ・コピーであったように、ブレンデッド・ウィスキー銘柄各社もスタンダード・クラスから始まり、より上位のクラスに誘導したいという訳だ。

つまり、オールド・パーというウィスキーにスタンダード・クラスは存在しない。いきなり、「De Luxe(デ・ラックス)」なのである。確かに、現在のオールド・パーは「18年」、「スーベリア」とより上位のクラスを用意しているが、「いつかは…」ではなく、「最初からクラウン」。それが、オールド・パーなのである。オールド・パーに「カローラ」は存在しない。

19世紀後半、ロンドン市場を席巻した「オールド・パー」。その商品名こそが、このウィスキーのブランディングの基礎である。後世に、「グランド・オールド・パー」と伝えられるほどの有名人になったその男の名は、「トーマス・パー」。1483年2月生まれ。1635年、時の国王チャールズ?世にロンドンに招かれ、その年の11月に亡くなるまで、152歳の生涯を生きたと言うのだ。

確かに、真偽のほどは定かではない。父親の経歴と混同されている結果なのではないかとの指摘も多い。ただ、トーマス・パーが小作農業で生計を立てたことは事実のようだ。父親の死後、彼はその小作農地を相続するのだが、さすがにそこは契約社会である。21年更新の借地契約を行う必要があり、その契約書が残っている。

ちなみに、確認された限りでは、行われた借地更新契約は5回。つまり、21年の契約が5回更新されているのである。もちろん、地主の方が何度も代替わりしている。確かに、出生した年がいつだったかを調べることは難しいかもしれない。しかし、1635年に国王に招かれてかなりの高齢の老人がロンドンにやって来たことは確かなようだ。

国王に招かれた「トーマス・パー」は謁見の栄誉を受け、当時のロンドンで一気に時代の寵児となる。国王から年金を賜り、後見人の屋敷に暮らし、様々な関連グッズが売り出されるほどの熱狂ぶりだったという。しかし、ロンドンに招かれたその年の11月、「トーマス・パー」は何とも呆気なく死んでしまう。質素で規則正しい農夫の暮らしぶりは、ロンドンで激変したことだろう。国王の勅命で彼の亡骸はウェストミンスター寺院に埋葬される。

ウィスキーである「オールド・パー」が世に出たのが19世紀後半。19世紀の英国の平均寿命をご存知だろうか?乳幼児死亡率の高さが原因でもあるが、平均寿命は40歳を越えていない。その短さは産業革命にも起因している。極端な数字であるが、新興工業都市であるリバプールの労働者の平均寿命は驚くことに15歳であった。

急速に工業化が進んだ英国に、労働者を保護するような法律などまったくなかった。資本家のやりたい放題である。技術の進歩は作業を簡素にし単純労働を増やしたが、結果として熟練工から仕事を奪った。職を求め人口は都市に流入し、資本家は安い労働力を求める。身体が丈夫で低賃金。都市には資本家にとって都合の良い労働者が溢れていた。子供たちは工場で命を削り働いた。

低賃金、長時間労働、児童労働は社会問題となったが、それだけではなかった。1760年、リバプールとマンチェスターの人口は、それぞれ4万人と3万人。100年後の1861年にはリバプールが49万4千人、マンチェスターが46万人。100年間で12〜15倍である。急激な人口増加に住宅建設は追い付かない。上下水道が整備されない状態は衛生問題を発生させる。低賃金と失業は貧困を蔓延させる。犯罪が頻発する。

それは歴史上初めての、工業化によるスラム街の発生ではなかっただろうか?劣悪な労働条件と不衛生な生活環境は多くの労働者の命を削った。19世紀のロンドン。産業革命を通り過ぎようとしていた英国ならなおさらのこと、「長寿は憧れ」だったのではないだろうか。

「トーマス・パー」の長寿と人気にあやかろうと、その名をウィスキーのブランド名としたのが「オールド・パー」。ブランディングは成功し、「オールド・パー」は売れるウィスキーとなった。

「オールド・パー」はグリーンリース・ブラザーズ社が生みの親だ。同社はジェイムスとサミュエルのグリーンリース兄弟によって1871年に設立されている。このブランド名を考案したのは兄のジェイムスとのこと。「トーマス・パー」の没年から数えれば、優に250年を超えている。19世紀末の英国でもそれほどに認知度の高い人物、それが「トーマス・(オールド)・パー」ということなのだろう。「パーじいさん」と言えば、誰もがその名を知っているということを、ジェイムス・グリーンリースが知っていたのである。

英国人の平気寿命がようやく50歳を超えたのは1947年のことである。


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