モルト侍

池袋のショット・バー、ジェイズバーのバーテンダーが、大好きなシングル・モルトを斬る。

川崎蒸留所

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IMG_6630_1さて、物語をエピローグへと進めよう。
1960年代も後半に入ると、「サントリー」の主役は「トリス」から「サントリー・オールド」にシフトして行った。「サントリー」は消費者の志向を「その次の品質」へシフト・チェンジさせることに成功した訳だ。「トリス・バー」はゆっくりと、その姿を街から消して行くことになる。1956年創刊の「洋酒天国」は、1964年にその役割を終え廃刊する。

1970年に「サントリー・オールド」は100万ケースを売上げ、その10年後には1200万ケースを超えるほどにさせている。はっきり言ってしまえば、その時点で、「サントリー」のひとり勝ちは確定したかもしれない。少なくとも「イチ抜け」は決まってしまっただろう。

ビジネスとしてウィスキーを考える時、その複雑さに途方に暮れる思いだ。
「製造と販売」。私見だが、ウィスキー・メーカーのキモはそこにあると思う。

「オーシャン」はどちらに寄っていたのだろうか?と思う。乱暴な言い方だが、「ニッカ」というメーカーは「造ってから、売り方を考える」。一方の「サントリー」は「売れるようにしてから、造る」。そのように解釈することも可能であると僕は思う。もちろん、個人的な見解であるが。

あえて言えば、「オーシャン」はそのどちらでもなかった。いや、別な言い方をすれば、その両方であったかもしれない。「造りながら…」「売れるようにしながら…」。ただ、その後の「オーシャン」がどのようになったのか、結果は明らかだ。酒屋さんの棚で、街のどこかで、「オーシャン」を見かけることなど、すっかりなくなってしまった。

「オーシャン・ラッキー」をご存知だろうか?現在唯一残る「オーシャン」ブランドのウィスキーである。「メルシャン」(旧・三楽オーシャン)が製造し、キリンが販売をしていることになっている。ふと思い立って、僕は「メルシャン」のお客様センターに電話をしてみた。

「メルシャンのウィスキー、オーシャン・ラッキーについて伺いたいのですが…」。その件については「キリンさん」にお問合せ下さいと素っ気ない答えだ。慌てて電話を掛け直したが、「キリンさん」もまた、僕の質問には煙たい様子だ。「オーシャン・ラッキーの原酒のシングル・モルトには軽井沢とありますが、ブレンドされたグレーン・ウィスキーについて教えて下さい」。「キリンさん」は答えた。公表できませんということで、お願いします。

「もう忘れて下さい」。
僕にはそんな風に聴こえた。
「昔のことですから」。

残念なことに、公式見解として「川崎蒸留所」のグレーン・ウィスキーが、「オーシャン・ウィスキー」にブレンドされたことをお伝えすることはできない。ただ、「使われなかったはずがない」としか答えられない。

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川崎という蒸留所(9)

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川崎蒸留所-表紙話を少し整理しよう。
「オーシャン」を主役に立てた僕の日本のウィスキーの物語は、そろそろ、その終りへと近付いている。皆さんもご存知の通り、「オーシャン」は日本のウィスキー市場からゆっくりとその姿を消しつつある。いや、その存在すら知らない方もいるかもしれない。

今回僕は「オーシャン」が喫した3つの負けにフォーカスしている。まず、シングル・モルト蒸留所の建設の時期において、「軽井沢」は「山崎」と「余市」に負け、グレーン・ウィスキー蒸留所の建設の時期において、「川崎」は「西宮」(後に移設し仙台)に負けている。「オーシャン・バー」は「トリス・バー」に、その宣伝効果において、勝ることがなかったことは先ほどお伝えしたばかり。

「ニッカ」というウィスキー・メーカーは一般的に、その品質にこだわりを持つメーカーとして認知されている。その後、袂を分かつことになるが、山崎蒸留所の初代工場長はニッカの創業者、竹鶴政孝である。彼はその後、自らの目指すウィスキーのために、よりスコットランドに近い気候の北海道余市に蒸留所を建設。戦後の混乱期、群雄割拠のウィスキー市場で品質にこだわるあまり、「低品質・低価格」ウィスキーを発売せずに経営難にまで陥っている。

「サントリー」というウィスキー・メーカーは、その卓抜した広告センスにこそ最大の特徴がある。ウィスキーが「カッコ良い」飲み物であって欲しいとの思いは僕にもある。だから、その点にあえて反論はしない。どんなに素晴らしい商品でも、多くの人の関心を惹くことがなければ、それは市場から退場することになる。ウィスキーが嗜好品であることを前提とするなら、それはウィスキー造りの本質ですらあると思う。効率の良い広告戦略は「サントリー」の特徴である。

しかし、「サントリー」がその品質を優先順位の最低位ものとして扱っているとも思わない。結局のところ、広告が巧みでも「美味しくなければ売れない」のが酒である。むしろ、その広告が品質を裏切っているなら、そのメーカー自体が消費者からそっぽを向かれて行くことだろう。少し遅れることはあっても、その品質については最終的に帳尻を合わせる。僕の目に「サントリー」はそのように見える。

ここでひとつ、皆様にあまり知られていない事実をお伝えしておこう。1960年代以降、ビッグ3となった「サントリー」「三楽オーシャン」「ニッカ」。「三楽オーシャン」は川崎に、「ニッカ」は「西宮」(後に移設し仙台)に、それぞれに「その次の品質」を求めグレーン・ウィスキー蒸留所を建設したことは前述した通り。それでは、「サントリー」のグレーン・ウィスキー蒸留所をご存知だろうか?

シングル・モルト・ウィスキーとグレーン・ウィスキー、その組み合わせで造られるブレンデッド・ウィスキー。その香味と風味の本物の豊かさは、そのウィスキーをより高級なものにしただろう。いち早く「ニッカ」が、それに続く「オーシャン」も1960年代に間に合せる形で、グレーン・ウィスキー蒸留所を建設している。つまり、当時のニッカとオーシャンから見たサントリーの弱点とは、サントリーが自社製グレーンを持たないことだったのではないだろうか。

愛知県知多半島に建設された「サントリー知多蒸留所」は、1973年からその操業をスタートさせている。つまり、それまでの「サントリー」は、自社製のグレーン・ウィスキーを持っていなかったことになる。しかし、彼らは出遅れただろうか?2009年の今を生きる僕らは、それが十分に間に合っていることを認めざるを得ない。ボスキャラは最後に登場したのだ。

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川崎という蒸留所(8)

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川崎蒸留所-表紙ビッグ3の中で「サントリー」(当時の寿屋)は、他の2社と比べ独自の展開をしていった様子だ。「ニッカ」と「オーシャン」が消費者の高級志向を先取りする形で、自社製グレーン・ウィスキー製造に着手したのとは対照的に、「サントリー」はパブリシティ活動に力を注ぐ。もちろん、ここでも同社の卓抜した広告戦略は見事にその力を発揮する。彼らはウィスキーと文化を結びつけた。

「サントリー」のパブリシティ活動の華々しい成功例は枚挙にいとまがない。「サントリー」には到底及ばないにしろ、「三楽オーシャン」にもそこそこ健闘した活動はあった。「オーシャン」がそこそこ健闘できた部分についてのみ言及させていただこう。

「トリス・バー」をご存知だろうか?今やほとんど見かけることはなくなったが、トリスのハイボールを主軸商品とするサラリーマン向けの安酒場である。現在のサントリーは、「グラスを傾けながら民主主義を語り、文学・芸術を語り、人生・恋愛を語る舞台であり、新しいライフスタイルを象徴する場でもありました」と「トリス・バー」を説明している。

その始まりは1955年頃とされている。1950年に「サントリー・オールド」、1960年には「サントリー・ローヤル」と同社は「その次の品質」を持った商品を提案していくが、その頃の「サントリー」にとって「トリス」はまさに主軸商品であった。

洋酒メーカーにとって、我々のような飲食店業態は一種のショールームである。自動車メーカーが、それ自体では利益を生まないショールームを持っているのとは、その構造が違う。バーの棚に自社商品が並ぶことを目指して、メーカーの担当営業は飲食店へと足を運ぶのだ。かつて、その創成期に「イチローズ・モルト」の肥土伊知郎が、鞄にそのサンプルを詰めてバーを廻ったように。

その最盛期、サントリー直営の「トリス・バー」は全国に3万5千店舗の拡がりを見せたという。特定メーカーの直営店である以上、そのメーカーの酒しか扱うことを許されないが、その店舗自体が収益を生み出している。「サントリー」は恐ろしく低コストで全国に3万5千のショールーム網を持つことに成功するのである。

「トリス・バー」には酒以外にもちょっとした愉しみがあった。まさに、その辺りが「サントリー」の広告手腕の卓越した点であろう。全国に拡がりをみせた「トリス・バー」に「洋酒天国」という広報誌を配布する。当時の世相を反映したユーモアとエロスが売りの「洋酒天国」は、それ自体が訴求力を持って来店者に支持された。ちなみに、初代編集長は開高健氏、二代目編集長は山口瞳氏である。

一方の「オーシャン」も負けてはいられない。今となっては、その知名度も「トリス・バー」よりもさらに低いと思うが、彼らもまた全国に「オーシャン・バー」を展開したのだ。その数は5千店。良く頑張った。とは、思う。

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川崎という蒸留所(7)

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川崎蒸留所-表紙1960年代に入ると、「オーシャン・ウィスキー」も自社製である軽井沢蒸留所のモルト原酒が安定生産期に入り始める。ようやく、サントリーに追い付こうという希望が見え始めたというところだろうか。しかし、黙っていたらこのままサントリーのひとり勝ちは確定してしまう。「もはや、戦後ではない」と言われて以降も日本は経済成長を続け、戦後の混乱は安定期に入り、日本のウィスキー市場にも次第に高級志向が台頭する。

好奇心旺盛な日本人は、ただそれだけではない。刺激を受けると購買意欲が高まるのは確かに事実だろうが、全般的に日本人の味覚は繊細で優秀だと思う。その味わいを知った後は「よりおいしいもの」を求めるようになり、不出来な商品は市場からその姿を消す。確かに、商品への関心を高めることも重要だが、「その次の品質」を提案することがなければ、消費者の関心すら失うことだろう。

しかし、それは危機ではなくチャンスだ。
彼らは皆、そう思ったのではないだろうか?
差を詰めるチャンス。サントリーの弱点を知った彼らは動き出したのだ。

国産ウィスキー・メーカー各社も「ポスト・二級ウィスキー」を模索し始める。ニッカが西宮に工場を持ち、その地でいち早くグレーン・ウィスキーを生産し始めたのは1963年。ニッカは消費者のニーズに、その品質で応えようとした。当時の日本の瓶詰されたウィスキーは、自社製のモルトと醸造用アルコールをブレンドしたタイプであった。恐らくは、彼ら自身でさえ、それらを「本物」と思わなかったであろう。そして、まず、ニッカは「その次の品質」をグレーン・ウィスキーに求めた。

だから、
グレーン・ウィスキーは夢だったのだと思う。

1960年代に入ると、国産ウィスキー・メーカーは「サントリー」「三楽オーシャン」「ニッカ」のビッグ3の台頭が著しい。国産ウィスキーがスコッチ・ウィスキーをモデルとしてきたことは明らかだ。結果として生き残ったビッグ3は、それぞれに、スコッチを手本に本物に近付こうと努力をして来たのだと思う。

ウィスキーをウィスキーらしくするものが、シングル・モルトであるという見解は僕も変わらない。「スコッチの秘密」はシングル・モルトにあり。だからこそ、彼らはまず最初にシングル・モルトの蒸留所を手に入れたたのだろう。そして、曲りなりにも「スコッチの秘密」を手に入れた彼らは、次なるチャレンジへと駆り立てられて行った。本物のブレンデッド・ウィスキーのために、彼らは自社製のグレーン・ウィスキーを必要としたのだ。

1989年の酒税法改正まで永らく続く、「特級」「一級」「二級」という級別表示は、日本のウィスキー市場の発展にそれなりの貢献をしたと思う。「二級」ウィスキーは庶民のウィスキー消費を拡大し、「ひとつ上の級」はウィスキー・メーカーにとって、「その次の品質」を求める動機となっただろう。

「ウィスキー混和率3%」。その条項さえクリアすれば「二級」として、「本格ウィスキー」を名乗ることができたのは前述した通り。結果として、「模造ウィスキー」とは明確に区分されるようになったのは確かだ。しかし、彼らは皆、その「本格ウィスキー」が3%しか本物ではないことを知っていただろう。本物のブレンデッド・ウィスキーを造るため、モルト・ウィスキーと調合するために、しっかりと熟成を重ねたグレーン・ウィスキーが必要だった。

「オーシャン」も次の時代の消費者のニーズに応えようと動き始める。1961年に川崎のシングル・モルト製造設備を、山梨に移設したことは前述した通り。つまり、その遊休地であった川崎にスコットランドから輸入したコフィ・スティルを設置。グレーン・ウィスキーの製造をスタートする。「オーシャン」は一度は逃げ出した川崎の地を、再び、今度はグレーン・ウィスキーのフランチャイズとした。

最初に動き出したニッカに、「オーシャン」が続いた。

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川崎という蒸留所(6)

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川崎蒸留所-表紙1962年、「大黒葡萄酒」に大きな変化が訪れる。年が明けてまもなく、「三楽」と「オーシャン」は合併し、「三楽オーシャン株式会社」と社名変更をする。

「三楽」との合併前に、「大黒葡萄酒」は「オーシャン株式会社」と社名変更している。当時、「オーシャン・ウィスキー」を販売していた同社は、そのブランド名を前面に押し出し、それを社名としたのだ。ウィスキー事業は同社にとっての主軸となっていたであろうし、そのために1956年から軽井沢蒸留所の操業を始めている。

合併後の社名を「三楽オーシャン」としたのも、同社の進めて来たウィスキー事業がある程度の成果を収めていたからだろう。国内ウィスキー市場における「オーシャン・ウィスキー」は、既に広く認知されていた。合併後もウィスキー事業を同社のひとつの主軸事業にしようと思うなら、「オーシャン」の名をその看板から降ろすことはなかったはずだ。

一方、「三楽」にもウィスキー事業は存在した。合併直前の1961年に山梨に近代的な設備を有する蒸留所を新設している。だが、後にこの山梨蒸留所は軽井沢蒸留所に統合されることになる。同社の経営陣は山梨でのウィスキー生産に見切りを付けたということだ。会社の合併とともに、その合理化のために、設備の統廃合が行われること自体は一般的なことだろう。ただ、彼らの妥当な判断は軽井沢を生き残らせることを選択した。

さて、「三楽」が1935年の創業当時、その社名を「昭和醸造」と名乗ったことは前述した。そして、川崎に同社で初めての生産拠点を持ったことも。実は、同社は山梨に移転するまで、川崎で1958年からモルト・ウィスキーの生産を行っていた。そして、その川崎の設備を移設する形で山梨蒸留所は1961年にスタートしている。確かに、ウィスキーという商品を売るためには、ブランディングやイメージ戦略は重要になる。彼らは川崎を嫌ったのだろうか?

1960年代、川崎の街は「公害の街」としてその姿を現すようになる。「公害の街」として有名になりつつあった川崎には東京都との境に多摩川が流れる。川崎蒸留所はそれを水源としたのだろうか?やがて、大洋ホエールズとロッテ・オリオンズと、そして、ヴェルディ川崎にも逃げられた川崎。一足先に川崎蒸留所も山梨へと移転した。綺麗な水を求めたのだろうか?

川崎蒸留所は川崎が「公害の街」として有名になる前にモルト・ウィスキー製造部門を、山梨へと逃げ出させることに成功したようだ。「オーシャン」と合併する前の「三楽」にも、本気でウィスキー事業に乗り出そうとした時代があった。彼らの本気は川崎を捨てさせた。「三楽」のモルト・ウィスキーは川崎から始まり、山梨に移り、現在のそれは専用の貯蔵庫になっている。

ウィスキー事業という大海(オーシャン)にその船を出港させた「三楽」と「オーシャン」。合併してひとつの会社となった「三楽オーシャン」に、「軽井沢」と「山梨」(旧・川崎)という2つの船は必要なかった。「三楽の山梨」というその船は、「オーシャンの軽井沢」という名の船にすべての積荷を託し、自らの手によって沈められた。

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川崎蒸留所-表紙特級・一級・二級の分類の確立は、日本のウィスキー市場に独自の発展のさせ方をした。当時のスコットランド人の感覚からしても、そして、現在の僕らの感覚からしても、「熟成をしないウィスキーを原酒として、しかも、それらを3%しか使用せずに瓶詰されたその飲み物をウィスキーと呼べる」その事実に違和感を持たざるを得ない。

しかし、たとえ「二級」ではあっても、メーカーはその瓶詰された飲み物に「ウィスキー」と表記することができた。当時の日本の政府はそれを認めた。「ウィスキー」というキーワード自体に大きな訴求力があった時代であったのだ。

酒税法改正は、「模造ウィスキー」を日本の市場から切り捨てることに成功したが、「本格ウィスキー」はまだ、3%しか本物ではなかった。「3%で良いのなら…」、そう考えたメーカーもあったことだろう。原酒などほとんど使用しなくとも、香味や色調が類似していれば、堂々とラベルに「ウィスキー」と表記することが許可された時代である。法的には何も問題はない。そこは、熱いマーケットとなった。

そのような背景の中、いくつかのウィスキー・メーカーが二級ウィスキー市場に参入した。日本独自の「二級ウィスキー」市場は広がりを見せた。その事実は、その後の日本のウィスキー需要の拡大に大きな貢献をしたことだろう。しかし結果として、その当時の日本に、「本格ウィスキー」を溢れさせることとなる。

二級ウィスキー市場に参入したウィスキー・メーカー各社は、同様にその市場に参入した他社との熾烈な争いが始まる。すべては同じ「ウィスキー」。同業他社との差別化が望まれた。

「どのように勝ち残るか?」、それは、各社にとっての至上命題となったことだろう。そんな時代に「オーシャン・ウィスキー」は同業他社との格差を付けようと躍起になっていた。日本人が好奇心旺盛なだけではないことを知っていたのだろう。事実として、いくつかのウィスキー・メーカーはその後、その市場から退場している。当時、「香料や調味料を使用しない」ことを謳っていた「オーシャン・ウィスキー」にとって、急務となったのはその品質の向上であった。

さて、この時点でまだ軽井沢蒸留所は建設されていない。その当時の「オーシャン・ウィスキー」に必要とされたモルト原酒は、ニッカ、宝、東洋醸造、東京醸造からの買い付けで賄っていた様子だ。実のところ、「大黒葡萄酒」は長野県の塩尻にモルト・ウィスキーの製造設備を持っていたが、その生産は様々な要因で品質も安定しないまま断続的な状態であった。

自社製の原酒確保は「オーシャン・ウィスキー」にとっての最大の急務になりつつあった。ままならない塩尻に見切りをつけ、1955年に軽井沢蒸留所建設を着工、翌1956年に生産をスタートさせている。結果から言えば、その判断は正しかっただろう。やがて原酒は安定して供給されるようになり、その後の軽井沢は数々の賞を受賞するまでに至る。現在のキリン・ホールディングスにとっても、軽井沢のウィスキーは大きな資産でもあると思うのだが…。


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川崎1976


川崎という蒸留所(4)

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IMG_3187_1「大黒葡萄酒」という会社があった。戦後まもない時期から「オーシャン・ウィスキー」の名でウィスキーを製造・販売。そのブランド名でもある「オーシャン」と社名変更してすぐ、1962年に同様に「サンラック」というウィスキーを製造・販売していた「三楽」と合併し、その社名を「三楽オーシャン」とすることとなる。

「大黒葡萄酒」というその社名から多くのことを想像できるかもしれない。同社もまた、「日本型ポートワイン」がもたらした利益によって、巨額な資本を必要とする本格的なウィスキー事業へと乗り出して行った会社であった。現在は「キリン・ホールディングス」の所有となる軽井沢蒸留所。日本で初めてモルト・ウィスキー瓶詰販売し、2001年「IWSC:金賞」受賞、2004年、「ISC:金賞」受賞の系譜にある軽井沢蒸留所は、元来「大黒葡萄酒」の蒸留所であった。

そもそも山崎より以前から、日本のウィスキーは「模造ウィスキー」として存在した。日本の洋酒全般は外国の模倣から始まっている。背景にあるのは、常に「新しいモノ」に興味を欠かさない日本人の特徴とも言えるだろう。「欲しいモノ」、「好奇心をそそるモノ」を自分で作ってみたくなるのが日本人なのだ。サントリーも山崎蒸留所より以前の、自社製の原酒を持つはずがない時期に、「ヘルメス・ウィスキー」という商品を販売している。もちろん、生涯ウィスキーを愛した鳥井信治郎は、やがて山崎蒸留所を手に入れることになる。

好奇心旺盛な日本人による「模造ウィスキー」造りは、既に明治初期から始まっている。当初それらは、目端を利かせた薬酒商たちによって始まった様子だ。輸入された外国産の蒸留酒を薄め、砂糖や香料、色素類を調合して造られた。その外国産の蒸留酒がウィスキーであるとは限らず、その蒸留酒は国産の焼酎ですらあっただろう。その製造手法は、いかにも「日本型ポートワイン」的である。

各方面の資料からも「模造ウィスキー」造りを垣間見ることができる。そもそも、外国製品全般に興味が高かったのだろう。既に明治初期の日本にもウィスキーにはそれなりの需要があり、関心も高かったらしい。当時の日本にも、少なからずスノッブな連中がいたということだ。

日本のウィスキーは明らかにスコッチ・ウィスキーをそのひとつのモデルにしている。前述した通り、不完全ながら日本に本格的な国産ウィスキーが製品として登場するのは、山崎蒸留所の「サントリーウィスキー白札」の登場以降である。しかし、「模造ウィスキー」も入り乱れ、混乱の幕開けとなった国内ウィスキー市場は、法整備によっても徐々にその形を整えられて行く。

1939年に「酒類級別決定に関する告示」により、ウィスキーを甲・乙・丙類に分類し、アルコール度数と原酒含有率を規定している。1989年まで続いた特級・一級・二級の始まりはそこにある。翌1940年には「商工省大蔵省告示第7号」により、スコッチ・ウィスキーの製法に準じたウィスキーを「本格ウィスキー」と称し、「模造ウィスキー」と明確に区分し規定された。

戦後の1953年、「酒税法改正」により特級・一級・二級の分類が確立。以降、国産二級ウィスキーの躍進が始まる。1955年にはその出荷量を3年間で約7倍に増やし、ウィスキーは明るい将来の見込める急成長を遂げている。

元来、スコッチ・ウィスキーの製法に準じ「3年以上の熟成」を規定された「本格ウィスキー」であったが、拡大する二級ウィスキー市場は酒税法の「3年以上」という法定熟成条項を削除させている。つまり、「3年以上の熟成」を行うことなく「本格ウィスキー」を名乗ることが可能になったのである。多くのメーカーがそれをビジネス・チャンスと見たことだろう。

酒税法によって、当初の二級ウィスキーの「ウィスキー混和率」は3%までと定められていた。後に5%、7〜10%とその上限を上げて行くが、つまり、当初の二級ウィスキーはモルト原酒を3%までしか調合できず、原材料の大半に醸造用アルコールを使用していた。「オーシャン・ウィスキー」の品質の向上とは、つまり、「ウィスキー混和率」の上限である3%を目指すことでもあった。

伸張する国内ウィスキー市場。「混和率3%」、そして、削除された「法定熟成条項」は、国産ウィスキー・メーカーに低コストでの「本格ウィスキー」製造を可能にした。業界も、そして、「大黒葡萄酒」も動き始める。「オーシャン・ウィスキー」ブランドを立ち上げ、「大黒葡萄酒」は徐々にその販路を拡大することになる。

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川崎という蒸留所(3)

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IMG_3187_1「赤玉ポートワイン」をご存知だろうか?商標権の問題でポルトガル政府からも抗議を受け、やがて、その時代の役割を終え市場から立ち去った商品である。この「日本型ポートワイン」と呼ばれる日本の甘味ブドウ酒は、大正から昭和初期に驚異的な売上を記録した。様々なメーカーがこの「日本型ポートワイン」市場に参入したが、中でもトップのシェアを誇ったのがサントリー(当時の寿屋)である。

卓抜した広告センスで、サントリーは市場を席巻した。輸入したブドウ酒に日本人の嗜好に合わせた各種甘味料を調合し、安全性と滋養の効能を謳うために医学博士からその権威を得て、有効な広告戦略でブランディングを確立し新たな市場を開拓する。現在のサントリーにも残る社風であろう。結果として同社は、「赤玉ポートワイン」の売上から莫大な利益を手に入れることになる。

「赤玉ポートワイン」によって実績と資金を得た鳥井信治郎にとって、その時点での「国産ウィスキー」市場は未知なるものであったはずだ。しかし、彼が夢見た未来(つまり山崎蒸留所)を手に入れたことは皆さんもご存知の通り。彼の先見性の正しさは、現在のサントリーの発展を見れば十分に証明される。

山崎蒸留所が建設される以前、一体彼の周囲のどれだけの人間が、現在の日本のウィスキー飲酒習慣の定着を想像できだろう。しかし、1923年に建設された山崎蒸留所は、1929年に初の国産本格ウィスキー「サントリーウィスキー白札」を発売するまでに、6年の歳月を要している。初のヒット作は「サントリーウィスキー12年」(現在の角瓶)、1937年のことだ。それは、山崎蒸留所の創業から数えれば14年。もしも、あなたが投資家なら、14年間利益を出さない事業をどう判断するだろう。

人々が酒を求め、愛し、それを愉しみたいと願う文化がなくならない限り、「国産ウィスキー」は必ず売れる。彼はそう未来を予見した。そして、ウィスキーという新しい商材をこの国に定着させて行ったのも事実だ。しかし、彼は同社のウィスキー事業をようやく軌道に乗せるのに、14年の歳月を必要としている。14年という歳月を支えたのは「赤玉ポートワイン」のカネであったのもまた事実だろう。

未知なる「国産ウィスキー」市場。それまで、国内で様々な形で酒造りに関わり、少なからず実績と資金のある者の多くが「国産ウィスキー」の将来に夢を見た。「次に来るのは何だ!?」、そんな時代にいくつかのメーカーがウィスキー事業に乗り出そうとした。多くの事業は計画のまま頓挫し、港を出た船もそのいくつかは、やがて海の底に沈んだ。ただ、それらのウィスキー・メーカーのほとんどは、「日本型ポートワイン」と呼ばれた日本産甘味ブドウ酒によってもたらされた利益と無縁ではない。かつて、鳥井信治郎がそうであったように。


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川崎という蒸留所(2)

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IMG_3187_12006年11月、メルシャンと麒麟麦酒(現・キリン・ホールディングス)は両者合意の下、資本・業務提携を発表し、メルシャンは同社の子会社となった。ウィスキー愛好家の方には、軽井沢蒸留所を所有するメルシャンとして認識されているかもしれない。そのメルシャンこそ川崎の地でグレーン・ウィスキーを製造する蒸留所を建設した会社である。

振り返るとメルシャンという会社には、社名変更と吸収合併を繰り返してきた歴史がある。その沿革をさかのぼれば、1934年12月に「昭和酒造」としてスタートし、翌1935年には同社初の生産拠点として川崎工場を竣工し、アルコールの製造を開始している。川崎は同社にとっても、思い出の地であるはずだ。

1935年当時、この時点で「昭和酒造」(現・メルシャン)はまだウィスキーを製造していない。造られていたのは同社のブランド「三楽」という合成清酒であろう。同社はその後、その発展とともに次々と生産拠点を増やしていくが、後に「川崎工場」を手放すこととなる。現在も川崎に残る同社の遺産は、イトーヨーカドーに隣接する「ロジスティックス・コール・センター」だけとなった。同社の歴史にウィスキーが登場するのはまだまだ先、戦後のことである。

時代とともに幾たびもその社名を変えた同社だが、「オーシャン」という同社のブランド名に注目していただきたい。それは、同社のウィスキー造りを象徴するキーワードである。その看板に「オーシャン」の名がある限り、同社はウィスキー事業をひとつの主軸事業としようとして来た。


そもそも、国産ウィスキー・メーカーは、どのような経緯でウィスキー造りを目論んだのだろう?そこに「情熱と信念」があったことを、僕はまったく否定しないが、巨額の設備投資を必要とするのがウィスキー造りである。もしも、それらが売れる見込みのない商品なら、国産ウィスキーを造りたいという「情熱と信念」は勇気ではなく筋違いな蛮勇となる。それはまだ、「オーシャン」が生れる前、日本のウィスキーの始まりの頃の話である。

日本初の国産ウィスキー・メーカーであるサントリー。創業者である鳥井信治郎は、国産ウィスキーの父とも呼ばれる。彼もまた「情熱と信念」を持って1923年に山崎蒸留所を建設し、日本初の国産ウィスキー製造をスタートさせる。しかし当たり前だが、当初から彼の周囲に理解者が集まった訳ではない。彼は周囲からの大きな反対を押し切って蒸留所建設を計画した。

戦後の日本のウィスキー事情を振り返るなら、鳥井信治郎の先見性が正しかったことは明らかだ。彼が夢見た通り、現代の僕らはウィスキーに夢中だ。彼は将来ウィスキーが売れる時代を予見した。「情熱と信念」を持ってその周囲を説得し、多くの賛同者を集め、その力をウィスキー造りへと収斂させた。しかし、彼が空回りしない積極性を持てたのは何故だろう。先見性と情熱と信念だけでは、動かせない事態は数多くあったはずだ。

鳥井信治郎には実績と資金があった。
それは、彼がまだウィスキーを作り始める前のことである。

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川崎という蒸留所(1)

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グレーン・ウィスキーは夢だったのだと思う。

IMG_3187_1今回、川崎というグレーン・ウィスキーの蒸留所を調べながら、僕が辿り着いた結論はそこにある。モルト・ウィスキーを軽井沢という蒸留所から手に入れた「オーシャン」という国産ウィスキーは、本物のブレンデッド・ウィスキーのためにグレーン・ウィスキーを必要とした。

この話を、戦後の国産ウィスキーの物語だと思って聞いていただきたい。ただ、多くの方がこの物語を少し不思議に思うかもしれない。この物語の主役は「オーシャン・ウィスキー」であるからだ。

今や、ほとんどの方に馴染みの薄くなった「オーシャン」というブランドの国産ウィスキー。現在はメルシャンを子会社としたキリンから「オーシャン・ラッキー」という名で販売されている。今でも売られるそのウィスキーは、多くの方に飲まれたこともないだろう。その名前すらご存知ない方がほとんどだと思う。

それは夢のように生まれ、幻のように消えて行った。現在、川崎蒸留所が存在しないことだけは確かだが、実は、その蒸留所がいつ閉場したのかも定かではない。ただ、その跡地に営業を続けるイトーヨーカドー川崎港町店の開業が1997年とのことであるから、それより以前に閉場したことには間違いはないだろう。非常に不確実な情報筋の話によれば、「コフィ・スティルを1987年に川崎から撤去」とのことだ。様々な憶測を巡らせるなら、1980年代後半には「川崎蒸留所でのグレーン・ウィスキー製造は行われていない」と考えるのが妥当であると思う。

多摩川沿いと言っても良い場所に存在した川崎蒸留所で、そのグレーン・ウィスキーは製造されていた。それは、間違いなく「オーシャン」というブレンデッド・ウィスキーに使われたはずだ。川崎の港からグレーン・ウィスキーを積んで出航した船は、オーシャン(大海原)を彷徨い、人々の前から姿を消して、忘れ去られてしまったようだ。その船は遠くの大海原という故郷に帰って行ったのだろうか。

記憶の彼方にある「オーシャン・ウィスキー」を思い出しながら、皆様をこの物語にご案内したい。


日本のウィスキーは明らかに、スコッチ・ウィスキーをそのひとつのモデルとしている。そしてその黎明期、日本のウィスキー造りに関わった人たちは、スコッチ・ウィスキーの持つ豊かな風味の背景にある「スコッチの秘密」をシングル・モルトにあると考えた。だから、サントリーの鳥井信治郎もニッカの竹鶴政孝も、それぞれの地で単式蒸留器によるシングル・モルト・ウィスキー製造を始めた。「まず先に、シングル・モルト」だったのだと思う。

当初の山崎蒸留所、余市蒸留所のシングル・モルトが、不完全なものであっただろうことを否定はしない。ただ、曲がりなりにも「スコッチの秘密」を手に入れた彼らは、やがて、次なるチャレンジへと駆り立てられて行ったことだろう。現代を生きる、僕らの認識とは少し違うはずだ。「ウィスキーと言えばブレンデッド」。それが、当たり前の時代のことである。ブレンデッド・ウィスキーのために、まずシングル・モルトが必要とさ、「次は、グレーン・ウィスキー」となったのだろう。

シングル・モルトとグレーンのブレンドによって成り立つブレンデッド・ウィスキー。「スコッチの秘密」の本質であり、馥郁たる個性の宝庫であるシングル・モルト。そして、その個性を殺すことなく、しかし、ブレンデッド・ウィスキーに大らかな骨格をもたらすグレーン・ウィスキー。それらは、彼らの大いなる夢のウィスキーであったはずだ。

シングル・モルト・ウィスキーの原酒を自社製造することに成功した彼らは、当たり前のように、グレーン・ウィスキーを必要としただろう。「本物のウィスキー」を造りたいと願うならば。「オーシャン・ウィスキー」を本物のブレンデッド・ウィスキーとするために、グレーン・ウィスキーが必要だった。だから、川崎蒸留所は彼らの夢を実現するはずだった。

その夢は、幻と消えてしまったけれど。

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川崎という街

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IMG_3187_1神奈川県の北東端、東京から見れば多摩川の向こう側、人口およそ140万を抱える政令指定都市。川崎は江戸時代から栄えた歴史ある街で武家も多く、実は古くからの閑静な住宅地も多い。駅から離れた多摩川沿いの低地にはのどかな田園風景さえ広がる。江戸幕府が成立して以降は、宿場町として栄え、一大消費地であった江戸に近かったこともあり、川崎はその農業生産力を上げ江戸の食糧事情を支えた。本来の川崎にはそういう側面もある。

多くの皆様の認識は少々違うものかもしれない。「川崎」と言えば、京浜工業地帯だろうか。あるいは公害訴訟の街。競馬場と競輪場のあるギャンブルの街。それとも堀之内に代表される風俗街?いづれにしても、川崎に良いイメージを持っている人は少ないだろう。

しかし、池袋から新川崎駅まではJR湘南新宿ライン(快速)で27分。実は川崎は昔から、公共交通機関が発達しその利便性が高い。ここ数十年で東京との近さから一気に近代化し、若者の街と言われるようになった。年齢別の人口分布を見ても、全国平均と比べ20〜40代の人口が多く、中でも男性が多いことが特色である。

昭和初期から始まった臨海部の埋め立ては、数々の大企業を誘致して来た。日本鋼管(現JFEスチール)、富士通、日本電気、東芝、日立、味の素、キャノン、花王などが本社や生産拠点を置き、それらに関連する中小工場が多数建設され現在に至っている。企業は労働力を欲し、就労可能な年齢の人口が集まるという流れは、現在も変わらないものがあるのだろう。

それらの人々は良く働き、良く食べ、良く飲み、良く遊んだのだろう。彼らにはその場所が必要で、いくつかの繁華街が形成された。川崎市に20〜40代の男性の人口が多いことは先ほど説明した。風俗街が必要とされる理由もそこにあるのだろうか?いづれにしても、川崎という街が複合的に日本の高度経済成長を支えたことは確かだろう。

働き盛りの男たちを抱える川崎は、スポーツが盛んなことも特徴。社員の福利厚生、結構増進を目的とした、「企業スポーツ」に端を発しているという側面があるのかもしれない。都市対抗野球では数多くのチームが活躍し、かつては大洋ホエールズ、ロッテ・オリオンズが川崎球場に本拠を置いた。Jリーグの初代年間王者もヴェルディ・川崎である。

公害反対運動以来、革新市政を貫く川崎市は「企業スポーツ」と乖離して行ったのだろうか。1960年に日本一に輝いた大洋ホエールズは1978年に横浜へ、その後を引き継いだロッテ・オリオンズは、川崎球場で張本の3000本安打、落合の2年連続三冠王を達成させる。そして、1988年には近鉄バッファローズのリーグ優勝をかけた「10.19決戦」の注目カードを開催させるも、1992年のシーズンからその本拠を千葉マリンスタジアムに奪われる。川崎は人気がない。

Jリーグの初代年間王者のヴェルディ・川崎も、実は当初から「本来なら東京で」。それが彼らの本音だっただろう。また、「ヴェルディとぶつかっては人気で勝てない」と危惧した東芝のサッカー部には札幌へと逃げられる。元来やむなく川崎市の等々力を本拠としたヴェルディには、東京の味の素スタジアムに逃げられる。そんなに川崎が嫌いか?

名立たる製造業とそこで働く人々が、日本の高度経済成長を支えた時代が川崎にはあった。そこで造られたモノは、日本のみならず世界へと出て行った。造ったモノを売ることで、日本は外貨を稼いだ。公害も風俗街にも、企業や人々が生々しく動いた記憶が刻まれているかもしれない。

最先端の情報発信地「東京」、異国情緒溢れる「横浜」。僕らのイメージの中での「川崎」は、その2つの街に挟まれて埋もれてしまっているだろうか。しかし、川崎は変わりつつある。僕らの悪しきイメージは、どうやらその実態に追い付いてない。

いくつかの人気球団を取り逃がした行政は、芸術関係での産業振興に力を入れている。日本映画学校、昭和音楽大学を麻生区新百合ヶ丘に誘致し、映画祭や音楽祭の開催にも積極的だ。東京湾アクアラインは千葉へと向かい、川崎駅前には国内最大規模の地下街が建設されている。富士通サッカー部と地元の主導の下に、市民クラブとして誕生した川崎フロンターレは現在も健在だ。地名の由来を「多摩川の川の先」とする「川崎」は、ゆっくりと確実に変わりつつあるのだろう。


そんな川崎にかつて、国産ウィスキーの蒸留所があった。多くの人にとってそうであったように、もちろん、僕もその存在すら知ることのなかった蒸留所。その川崎蒸留所で生れたグレーン・ウィスキーは、山梨の貯蔵庫でさらに熟成を重ね、秩父のボトリング・ルームへと運ばれる。いくつかの樽を手に入れた肥土伊知郎氏は、その中から今回は2つの樽を選んで瓶詰を行う。

川崎大師や川崎球場にもほど近い京急大師線の鈴木町駅の目の前に、今はなき川崎蒸留所は存在した。現在、その跡地はイトーヨーカドー川崎港町店になっている。隣接する味の素川崎工場、メルシャン物流管理センターにも、もうかつての面影を残すことはないだろう。多摩川沿いと言っても良いだろうその場所に、国産グレーン・ウィスキーを造る蒸留所があったのだ。

肥土伊知郎氏はどんな経緯で、どのような思いで、そのグレーン・ウィスキーを手に入れたのだろう。そして、どのような時代の要請を受け川崎蒸留所のグレーン・ウィスキーは生まれ、どんな時代を背景にその舞台から立ち去ったのだろう。

かつて、肥土伊知郎氏のウィスキーは「何故か埼玉」と揶揄されていた。彼のウィスキーに何かを感じた僕は、僕なりにそんな状況をひっくり返そうと必死だった。ゆっくりと、彼のウィスキーに対する根拠のない悪評は少なくなったと思う。

結局、ウィスキーは「好き/嫌い」でしかない。だから、彼のウィスキーを「嫌い」だと思う人がいることを僕はまったく不服に思わない。ただ、悪意によってのみ構成された評判に、異議を申し立てたいだけだ。

さて、今回の肥土伊知郎氏は「あえて川崎」である。その裏側にどんな思いがあったのだろう?「川崎」が「山崎」の誤植でないことだけは、皆様も十分にご承知のことであると思う。

あなたは川崎蒸留所のグレーン・ウィスキーをどう感じるだろう?






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