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2009年3月19日(木)

暖かいというより、日中は暑いぐらいの陽気です。
今年初の鎌倉は、西御門(にしごもん)から二階堂(にかいどう)にかけて名だたる史跡めぐり。

11:30。鎌倉駅東口から徒歩でスタート

 ▼今日の鶴岡八幡宮・二の鳥居付近です。

s-11:33








鶴岡八幡宮・三の鳥居の前を走る横大路(よこおおじ)を右折、
突き当たりの宝戒寺(ほうかいじ)前を左折すると、
小町大路(こまちおおじ)の基点となる
筋替橋(すじかえばし)。鎌倉十橋(じっきょう)のひとつです。11:51。
コンビニの前の道は…金沢街道(六浦道)になります。

s-11:51筋替橋s-11:51筋替橋碑






公式P57 横大路
鎌倉時代の初期は大蔵幕府の前面の通りと考えられ、六浦道の一部の名称と推定されます。
また、近世では、鶴岡八幡宮の三の鳥居の前から宝戒寺の前までの道といわれます。

公式P57 小町大路
鶴岡八幡宮の東側の「筋替橋」から宝戒寺、本覚寺(ほんがくじ)前を通り、
材木座までの道筋が鎌倉時代の小町大路と考えられ「町小路」とも称されました。
いつのころからか、本覚寺門前にある鎌倉十橋のひとつ、
夷堂(えびすどう)橋が大町と小町の境とされたため、
北の部分を小町大路と呼ぶようになったと考えられています。
現在も小町大路と呼ばれていますが、明治時代には、小町小路、小町公路、小町広路の記述もみられます。

公式P50 筋替橋
宝戒寺近くにあり、金沢街道(六浦道)に対して「く」の字に架かっていたため、
筋違橋と呼ばれるようになったといわれます。
鎌倉十橋のひとつですが、現在では暗渠(あんきょ)※となり、石碑のみが往時を語っています。
※暗渠(あんきょ)…外から見えないように地下などに作った水路。⇔明渠(めいきょ)

■筋替橋(すじかえばし)
昭和十四年(1939)三月建 鎌倉町青年団
〔碑文〕
鎌倉十橋の一なり 宝治元年(1247)六月 三浦康村(やすむら)一族の叛乱に際し 
北条時頼(ときより)の外祖(母方の祖父)たる安達景盛(かげもり)は 
其の一族と共に 兵を率(ひき)い此の橋の北辺より康村の第(屋敷)を攻めしこと 東(吾妻)鑑に見えたり 
又文平二年(1265)三月 鎌倉に於ける商家の営業地域を数か所に限定せる触書(ふれがき:告知書)中に 
「一所須地賀江橋」とあるは 即ち此附近の事なり
〔説明〕
鎌倉十橋のひとつです。1247年6月に三浦康村(やすむら)一族が反乱を起こしました。その時、安達景盛(あだちかげもり)は、その一族と共に兵を率(ひき)いて、この橋の北の辺りに集まり、
康村の屋敷を攻めたことが吾妻鑑(あずまかがみ)に書いてあります。
また鎌倉において、商店の営業できる地域を数か所に限定するという告知書が1265年3月に出され、
その中に「須地賀江(すじかえ)橋」と書いてあり、これはこの付近のことであります。
〔位置〕
雪ノ下2-4-2付近で、コンビニampmとのT字路交差点の西北部に建つ

鎌倉シチズンネット「鎌倉史跡碑辞典」より引用
http://www.kcn-net.org/sisekihi/suzikae.htm


碑文は、1247(宝治元)年の宝治合戦(ほうじがっせん)のことをいっています。
ウィキペディアで調べてみましたが、合戦に至るまでの確執が長い…。
超端的にいうと、北条時頼と安達景盛が三浦氏を討伐した合戦です。


11:54。コンビニの前を過ぎて「ビューティサロン花」の角を曲がると、
「来迎寺500m先」の表示がありますので、この道をまっすぐ進んでいきます
鎌倉駅東口から出ているバスを利用したら、バス停「大学前」が最寄です。

s-11:54ビューティサロン花s-11:54来迎寺あと500m







公式P58 西大路

この道の先、左手に「横浜国立大学附属鎌倉中・小学校(グラウンド)」があります。
その東側を通り西御門(にしみかど)の谷戸に向かう道を「西大路」といい、
大蔵幕府の西門に面した通りだったと推定されています。

 ▼(写真左)道標。11:56。(写真中)活動範囲の地図。(写真右)「西御門」碑。11:58。

s-11:56道標s-11:59地図s-11:58西御門碑













公式P62 西御門(にしみかど)
源頼朝は、最初、祖先ゆかりの地であった大蔵に鎌倉幕府を置きました。
四方にそれぞれ門を造りましたが、西側の門を西御門といい、その名が地名として残りました。

■西御門(にしみかど)
大正十五年(1926)三月建 鎌倉町青年団
〔碑文〕
西御門は 法華堂西方の地をいふ 大蔵幕府西門の前面に当たれるを以て此名あり 報恩寺 保寿院 高松寺 来迎寺等此地に在り 今 高松 来迎の二寺を存す
〔説明〕
西御門は、法華堂(ほっけどう)の西の方の土地を言います。大蔵幕府の西門の前面に当たるため、この名前が付いています。
この地域には、報恩寺(ほうおんじ)、保寿院(ほじゅいん)、高松寺(こうしょうじ)、来迎寺(らいごうじ)等がありました。 
現在は来迎寺のみが存在しています。
〔位置〕
西御門2-1-11付近で、頼朝の墓所より西南120メートルのところに位置し、T字路交差点の西南部に建つ。

鎌倉シチズンネット「鎌倉史跡碑辞典」より引用
http://www.kcn-net.org/sisekihi/nishimikado.htm

いまは閑静な住宅街が続く、西御門の周辺…。

 ▼30m先入口。この角を曲がってはいけません…。住宅があるのみです。
 ここから30m先にある(写真右)の石柱を右折します。

s-12:04来迎寺30m先s-12:06来迎寺石柱







 ▼来迎寺(らいこうじ)到着

s-12:06来迎寺着s-12:07来迎寺







公式P102 来迎寺(らいこうじ)
時宗・藤沢山清浄光寺(遊行寺)末山号は満光山(まんこうざん)
1293(永仁元)年の創建で、開山は一向。
本堂には本尊阿弥陀如来像と、宅間浄宏(たくまじょうこう)作と伝えられる
地蔵菩薩像(県重文)があります。
本尊脇の如意輪(にょいりん)観音像は、鎌倉地方特有の仏像装飾の一技法である
土紋(どもん)を施した像で、もとは頼朝の持仏堂(じぶつどう)だった法華堂にあったものを
移したといわれています。

厄除けと安産の守護尊として御利益があるとされています。
◆鎌倉観音巡礼第5番札所。

 ▼石段の脇にサルノコシカケと赤い赤いツバキ。
 どちらも正確な名前はわかりません…。

s-12:08サルノコシカケs-12:09ツバキ







 ▼本堂。

s-12:25本堂s-12:10満光山








お彼岸とあって、本堂前の墓地にはお墓参りをするご婦人の姿がちらほら。
本堂の中の仏像は、格子ガラス越しになんとな〜く見えましたが、

鎌倉地方特有の仏像装飾の一技法である土紋(どもん)を施した像
・もとは頼朝の持仏堂(じぶつどう)だった法華堂にあったものを移した

という、如意輪(にょいりん)観音像がとても気になったので、
インターホンを押して来迎寺のかたに鍵を開けてもらい、靴を脱いで中へ入り、
200円を納めて間近で拝観させていただきました。
写真撮影は禁止ですので、ここからはいただいた「略縁起」から抜粋した説明と拝観の感想となります。

中央に鎮座するご本尊は、阿弥陀如来像で1712(正徳2)年の造立。

向かって右が見たかった如意輪(にょいりん)観音像。(県重文)
日常の厄除け、婦人の守り本尊、特に安産の守護神として信仰され、
御影札には「安産守護」の印が押されます。

寺伝では尼将軍政子の持仏だった、あるいは由比長者(染井時忠)の伝説もからんでいますが、
様式上などから、南北朝時代の制作と見られています。
衣文に見られる大小の土文(土紋)は、粘土、漆などを混ぜて型で抜き、貼り付けたものらしく、
刺繍の文様を立体的に表現したものと考えられ、その極彩色だった当時の美しさが偲ばれます。
現在鎌倉でも土文(土紋)を残している仏像は9体しかありません。

土文(土紋)を見たのは初めてで、想像していたよりずっと繊細なものでした。
仏像全体のイメージはとても“まろやか”。半跏のポーズが艶かしいというか…。

ご本尊の向かって左が地蔵菩薩像。(県重文)
『空華集(くうげしゅう)』で知られ、五山文学に不朽の名を残した臨済宗の高僧・
瑞泉寺三世義堂周信(ぎどうしゅうしん)
開いた報恩寺(宅間上杉氏(能憲)創建、第二中の辺りに存在した寺)の本尊で、
1384(永徳4)年宅間浄宏(たくまじょうこう)作と考えられています。

その隣には、抜陀婆羅(ばっだばら)尊者像。市重文。
祈ると足腰の痛み、頭痛、目の病が去ると信じられています。

以上、本堂の仏像見学でした。


来迎寺(らいこうじ)の拝観は…
:鎌倉市西御門1-11-1 
JR鎌倉駅東口・京急バス4番/5番乗場「鎌20・23・24・36」「岐れ道」バス停下車後、:徒歩約8分。
:0467-24-3476
10:00〜16:00(本堂200円、8月お盆時期拝観不可)
:無料


 ▼(写真左)石段の下、案内板の裏に「太平寺跡」碑
 (写真右)すぐ近く、西御門の鎮守、八雲神社。

s-12:27太平寺跡s-12:07八雲神社








公式P41 太平寺(たいへいじ)跡(高松寺〔こうしょうじ〕跡) 
西御門の八雲神社付近にあった太平寺は、1282(弘安5)年ころ、
相模の豪族の娘・妙法尼(みょうほうに)が釈迦如来像を祀り、
北条時宗の招きにより宋から来朝した大休正念(だいきゅうしょうねん)
導師として仏殿供養を行ったのが始まりといいます。
室町時代初期に、足利基氏(あしかがもとうじ)の未亡人・清渓尼(せいけいに)が中興し、
鎌倉尼五山(あまござん)※第一位になりました。

しかし、小田原北条氏の戦いで武勇を知られた里見義弘(さとみよしひろ)率いる水軍が
1556(弘治2)年、鎌倉に攻め込んだ際、足利義明(よしあき)の娘・青岳尼(せいがくに)が
安房に渡ったため廃寺になりました。
北鎌倉・円覚寺の国宝・舎利殿(しゃりでん)は、太平寺の仏殿を移したものです。
その後、1642(寛永19)年、日隆(にちりゅう)を開山とする日蓮宗の尼寺・
高松寺(こうしょうじ)がこの辺りに建てられましたが、それも廃寺になりました。

※鎌倉尼五山(あまござん)…第一位:太平寺、第二位:東慶寺(現存。ただし現在は尼寺ではない)、
第三位:国恩寺、第四位:護法寺、第五位:禅明寺。
尼五山(あまござん)とは、室町時代に五山の制に倣って尼寺に導入された臨済宗の寺格。
尼寺五山(あまでらござん)という。
京都五山・鎌倉五山に倣って京都と鎌倉に各5ヶ寺が定められた。
住持には皇室や摂関家以下有力公家、足利将軍家(鎌倉では鎌倉公方家)などから
輩出される事が多かった。
応仁の乱後に衰微して護念寺・檀林寺・東慶寺が男性住持あるいは
改宗して存続して尼寺の姿を失った姿で存続しているのみで他はいずれも廃絶した。
(出典:ウィキペディア)

太平寺跡(たいへいじ・あと)
大正十年(1921)三月建之 鎌倉町青年会
〔碑文〕
太平寺は比企尼寺にして相傳う 
頼朝池禅尼の旧恩に報いんため その姪女の所望に聴き 姪女を開山たらしめし所なりと 
足利の代 官領(かんれい)基氏(もとうじ)の族裔(ぞくえい:子孫) 清渓尼(せいけいに)の中興する所となれるが
天文中(1532?1555) 里見氏鎌倉を歯掠(しりゃく)せる時  
住持(じゅうじ:住職)青岳尼(せいがくに)を奪ひて房州に去りてより遂に頽破(たいは:滅亡)せり 
今の高松寺は 寛永中(1624‐1644)紀州徳川家の家老水野氏が 其の太平寺の遺址を改修せるものなり
〔説明〕
太平寺は代々比企一族の尼寺でした。
源頼朝が池禅尼(いけのぜんに)の昔の恩義に報いるため、その姪(めい)のために建てさせたといわれています。
足利の時代、官領(かんれい)基氏(もとうじ)の子孫である清渓尼(せいけいに)がさらに発展させました。 
しかし天文(1532‐1555年)の時、千葉の里見氏が鎌倉を攻め、青岳尼を房州(ぼうしゅう:千葉南部)に連れ去ってからは、とうとう廃止になりました。
その後1644年に、紀州徳川家の家老水野氏が、太平寺跡に高松寺を建てたものです。現在はそれもありません。
〔位置〕
西御門1-11-1来迎寺の門前の左の空き地に建つ。

鎌倉シチズンネット「鎌倉史跡碑辞典」より引用
http://www.kcn-net.org/sisekihi/taihei.htm


来た道を戻り、途中にあった標識の角を左折、大蔵幕府旧跡、そして源頼朝の墓方面を目指します


公式P は、「鎌倉観光文化検定公式ガイドブック」掲載ページ。
は、参考にさせていただいた本からの出典。

第1-3は、「第1回鎌倉観光文化検定3級」出題。
       第2-2は、「第2回鎌倉観光文化検定2級」出題。



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