写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。2009年3月19日(木)

法華堂跡周辺の史跡から、二階堂の荏柄天(えがらてん)神社へ

今回2度目の訪問となります。前回はかっぱ筆塚を見逃すという大失態を演じてしまいました。
古代青軸(こだいあおじく)もですが…

13:25着。この辺りの住所は、二階堂(にかいどう)になります。
今日は暑いぐらいの気候なので、茶店の人が打ち水をしていました。


この辺り(荏柄天神社の下の土地)には、和田義盛の甥・胤長の邸がありました。
胤長が幕府への謀反を企てたという疑いで奥州に流罪になり、邸を義盛がもらい受けましたが、
二代執権・北条義時によって取り消され、義時のものになってしまいます。
それが1213(建暦3)年5月に起こった和田合戦の原因になりました。
(参考文献:
鎌倉手帳(寺社散策))

■荏柄天神(えがら・てんじん)
昭和四年(1929)十二月 鎌倉町青年団
〔碑文〕
和名鈔当部に柄草と記せる郷名あり
今其名を失すれども 当社附近の旧称なりしが如し
草にカヤの古訓あれば 江ガラは江ガヤの転訛なる を 後文字をさえ今の如く改めしものか
社前の松並木を 古来馬場と称す
本社は元中央に管公(菅原道真)束帯の坐像 右方に天拝山祈誓の立像
左方に本地仏十一面観音の 像を安置せしも 勧請(かんじ ょう:創設)の年代を伝えず頼朝公初めて大蔵の地に幕府を設けし時 当社を以て鬼門(き もん)の鎮守(ちんじゅ)となす
爾来(以後)歴代将軍の尊奉せし所
天文年間(1532-1555) 北条氏康(うじやす)社前に関 (せき)を置き 関銭を取りて社料に供せしめし事あり
徳川氏の世には 鶴岡八幡宮造営の節毎に其の余材残木を受けて
本社修造に抵(当)つるを例とせしと云う
〔説明〕
古い辞書である「和名鈔」 に「柄草」という地名があります。
現在はありませんがこの神社付近の昔の名前のようです。
草の字はカヤと読め、エカヤがエガヤになり、後に文字を今のように当てたものと推測されます。
神社の前の松並木を昔は馬場といいました。
この社(やしろ)には菅原道真(すがわらみちざね)が祭ってありますが、建てられた年代はわかりません。
源頼朝が初めて幕府を建設する時、この社が鬼門(きもん:東北) に当たるように選んでいます。
それ以降の歴代将軍もこの神社を大切に保護しました。
1548年に北条氏康(うじやす)は社の前に関所を設け、通行税を取り、神社修 復の費用に当てました。
江戸時代には、鶴岡八幡宮の工事ある毎に余った木材等を使用して、
この社の修造を行うのが例になっていたということです。
〔位置〕
二階堂74、荏柄天神の参道の鳥 居の左側に建つ
鎌倉シチズンネット「鎌倉史跡碑辞典」より引用http://www.kcn-net.org/sisekihi/egara.htm
公式
P111 荏柄天(えがらてん)神社祭神は菅原道真(すがわらのみちざね)、八雲大神(やくものおおかみ)/須佐男尊(すさのおのみこと)。
鎌倉でも古い神社で、荏柄山天満宮とも称されました。
所蔵する『相模國鎌倉荏柄山天満宮略縁起』によると、創建は1104(長治元)年。
にわかにかき曇った天から天神画像が降ってきたのに人々は恐れ、その場所に社殿を造営し、
画像を納めたと伝えられます。
京都の北野天満宮、福岡の大宰府天満宮とともに、日本三天神のひとつ。
天神とは学問の神様として知られる菅原道真のこと。
源頼朝は、幕府の鬼門の守護神として荏柄天神社を崇敬したとされます。
本殿は鎌倉最古の木造建築(国重文)、
社宝に憤怒の表情で「怒り天神」の名で知られる木造天神坐像(国重文)。
◆荏柄天神社のおもな祭りと行事
1月25日 筆供養
祭神の菅原道真は学問の神。学問・書道の向上を祈願するため、古筆などを焚き上げて供養します。
2月8日 針供養
使い古したハリにねぎらいと感謝を込めて、拝殿前の三宝の上に置かれた豆腐に針を刺して供養します。
7月25日 荏柄天神社例大祭
かつて二階堂にあった熊野神社に合祀されていた八雲神社の神輿が出ます。
神輿は1692(元禄5)年に造られました。
▼石段脇のミツマタ。初めて花が咲いているのを見ました。下を向いて咲くのですね〜。


▼(写真中)本殿。鎌倉最古の木造建築(国重文)。
(写真左・右)ここも受験生の絵馬がたくさん。
火曜日に訪れた東大のお膝元・湯島天神もすごかったけど…。



▼本堂の左手にある「かっぱ筆塚」。
前回訪れたとき見落としてしまったので、今日はしっかり見てきます。

▼(写真左)石碑の表は漫画家・清水崑(しみずこん)のかっぱの絵。
(写真右)裏の文字は作家・川端康成が揮毫(きごう)※。
※揮毫(きごう)…じょうずな人が毛筆で、文字や書画を書くこと。「毫」は、筆(の毛)のこと。


▼絵筆塚には建立実行委員会会長・横山隆一ら漫画家154人が描いたカッパの漫画が…。


▼描く人の数だけカッパが…。




▼ドラちゃんもいました。“お皿”持ってます。

以下は境内の見どころです。
▼
本殿左手、古代青軸(ウメ)は、花の中心が青みがかった白梅。もう終わって、小さな青い実が成っていました



▼
市指定天然記念物の大イチョウ。樹齢900年
高さ25m、幹周り10mもの大木。
「天神画像」が振ってきたところに、里人によって、その場所が踏まれないように
イチョウを植えたといわれています。


▼尾崎迷堂(おざきめいどう)の句碑。1924(大正14)年から1942(昭和17)年まで、
杉本寺の住職として土地の人々と俳句を通して交流を深めました。


▼みこし庫。
かつて二階堂にあった熊野神社に合祀されていた八雲神社の神輿が入っています。
神輿は1692(元禄5)年に造られました。みこし庫の背後には小さな「熊野神社」があります。

荏柄天神社公式HPhttp://www1.kamakuranet.ne.jp/egara/
荏柄天神社(えがらてんじんじゃ)の拝観は…
:鎌倉市二階堂74
:JR鎌倉駅東口・京急バス4番のりば「鎌20」大塔宮行き乗車。「天神前」バス停下車後、
:約2分。
:0467-25-1772
:8:30〜16:30
:無料【番外編】
金沢街道(六浦道)沿いに荏柄天神社に関連する史跡があります。
▼鎌倉十橋のひとつ「歌ノ橋」。
下を流れるのは二階堂川です。


公式
P49 歌ノ橋(うたのはし)二階堂川が滑川に流入する辺りに架かっています。
1213(建保元)年、謀反の罪で捕らえられた渋川刑部六郎兼守(しぶかわぎょうぶろくろうかねもり)は、
無実の罪を晴らすため10首の和歌を詠み荏柄天神社に奉納しました。
将軍・実朝は、その和歌を見て感心し、罪を許し釈放したので、渋川兼守は死刑を免れました。
そのお礼にと荏柄天神社の参道近くにこの橋を架けたので、歌ノ橋と呼ばれるようになったと伝えられます。
■歌之橋(うたのはし)
昭和十二年(1937)三月建 鎌倉町青年団
〔碑文〕
鎌倉十橋の一にして 建保元年(1213)二月 渋川刑部六郎兼守謀叛の罪により誅(ちゅう:殺)せられんとせし時
愁いの余り和歌十首を詠じて荏柄天神に奉献せしに
翌朝 将軍実朝伝聞せられ 御感ありて兼守の罪を赦(ゆるさ)れしにより
其の報賽(礼参)として此の所に橋を造立し
似て神徳を謝したりと伝へられ此の名あり
〔説明〕
鎌倉十橋のひとつです。1213年2月に渋川兼守(しぶかわかねもり)が、謀反(むほん)の疑いで処刑されそうになったとき、
無実の思いを十の和歌にこめて荏柄天神(えがらてんじん)に納めました。
次の日、将軍の実朝(さねとも)は、その歌を聞いて感心して罪をゆるしました。
兼守は神に感謝して、そのお礼としてこの場所に橋を造り納めました。
これがこの橋の名の由来であります。
〔位置〕
二階堂935、邸宅の南西端で、金沢街道に架かる歌の橋の東北端に建つ
鎌倉シチズンネット「鎌倉史跡碑辞典」より引用http://www.kcn-net.org/sisekihi/utano.htm
▼歌ノ橋から鎌倉駅に向かって徒歩3分ほどで参道入口。

▼さらに徒歩3分ほど進むと、金沢街道(六浦道)からちょっと引っ込んだところに関取場(せきとりば)跡。
青いトラックが見えるのが金沢街道(六浦道)です。




■関取場跡(せきとりば・あと)
昭和六年(1931)三月建 鎌倉町青年団
〔碑文〕
当所を里俗セキバと称す 往時は関取場と称せる由
天文十七年(1548)北条氏 関を此処に設け 関銭を取って荏柄天神社頭造営の料に充てしめたる所とす
其の掟書の文書 今に蔵せられて荏柄天神社に在り
〔説明〕
この場所を土地の人は「セキバ」と呼んでいます。昔は「関取場」と呼んでいたとのことです。
1548年北条氏が関所をここに設け、通行税を取って荏柄天神(えがらてんじん)の修復費に当てさせた所です。
その掟(おきて)書の文書が現在も荏柄天神社に所蔵されています。
〔位置〕
雪ノ下562、角田医院の西南の角で、T字路の東北端に建つ
鎌倉シチズンネット「鎌倉史跡碑辞典」より引用http://www.kcn-net.org/sisekihi/sekitoriba.htm
荏柄天神社の次は、覚園寺(かくおんじ)のレポートです

公式
P は、「鎌倉観光文化検定公式ガイドブック」掲載ページ。
は、参考にさせていただいた本からの出典。
第1-3は、「第1回鎌倉観光文化検定3級」出題。第2-2は、「第2回鎌倉観光文化検定2級」出題。
は、鎌倉の文学に関することがらを表しています。にほんブログ村
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