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2009年3月19日(木)

覚園寺から歩いて約10分鎌倉宮(かまくらぐう)に到着です。
卒業式の帰りと思われる親子連れが境内に見えます。
15:25。だいぶ日も傾いて日陰ってきているため、肌寒くなってきました

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公式P111〜112 鎌倉宮(かまくらぐう) 
祭神は大塔宮護良(おおとうのみや・もりなが/もりよし)親王。
大塔宮とも呼ばれています。
護良親王の遺志を後世に伝えることを望んだ明治天皇の勅命により創建されました。
鎌倉宮(かまくらぐう)の名も天皇自らつけられました。
護良親王は後醍醐(ごだいご)天皇の皇子として生まれ、
11歳で比叡山延暦寺の大塔に入室したことから「大塔宮」と称されました。
20歳で天台座主(ざす)になりましたが、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕のための挙兵に応じて、
還俗(げんぞく)して護良と名のりました。

1331(元弘元)年、元弘の変によって後醍醐天皇は隠岐島(おきじま)に流されましたが、
1333(元弘3)年に足利尊氏(あしかがたかうじ)や新田義貞(にったよしさだ)らによって
鎌倉幕府は滅びました。

後醍醐天皇は一旦は京へもどって天皇親政を復活、護良親王は征夷大将軍になりました。
その後、足利尊氏と対立した親王は、捕らえられて鎌倉で討たれました。
本殿の裏には、親王が幽閉されたという土牢(つちろう)が残されています。

1959(昭和34)年から始まった毎秋恒例の「鎌倉薪能(たきぎのう)」は、
古都鎌倉を代表する催しのひとつです。

10月8・9日 鎌倉薪能

公式P176 鎌倉薪能(たきぎのう)
鎌倉市観光協会主催の、鎌倉を象徴する行事のひとつ。
境内を夕闇が包み始めると火入れ式が行われ、篝火(かがりび)に浮かび上がるように、
能の幽玄な美の世界が繰り広げられます。
2004(平成16)年から有料化されましたが、全国各地から観覧の申し込みが殺到します。

第1-3(89)
鎌倉宮で行われる鎌倉薪能の主催者はどこか。 答え 3.鎌倉市観光協会

鎌倉薪能の幽玄の世界を描いた小説のひとつに立原正秋『薪能』があります。
旧家を舞台にした悲恋物語の主人公である人妻の昌子と従弟の俊太郎は、薪能の始まる時刻に最期を迎えようとしていました。
「それからどれほどの時間がたったのか、昌子ははげしい睡りにさそわれ、俊ちゃん、とよんでみた。(中略)このとき昌子は笛の音をきいた。
太鼓(おおかわ)が鳴り、大鼓の音が聞こえてきた。
地謡(じうたい)の澄みきった声もきこえた。(中略)
昌子は、ひときわ澄んだ大鼓の音とともに、九天の高みから薪能の篝火がこちらに近づいてくるのを見た」

鎌倉宮のおもな祭りと行事
5月5日 草鹿(くさじし)
鎌倉時代の武士の射術鍛錬とされ、鹿の形をした的に向かって矢を放ちます。
6月30日 大祓(おおはらえ)式 
正月から半年間の罪や穢れを祓い清め、無病息災を祈念します。
鶴岡八幡宮でも開催(茅の輪くぐり)。
8月19日〜20日 例大祭
19日夜と20、21日昼に祭典が行われます。
琵琶演奏の奉納、剣道・柔道の奉納、盆踊り、楽市も開かれます。
10月8・9日 鎌倉薪能 
1959(昭和34)年から始まった行事。
境内に特設能舞台を設け、夕暮れから篝火を焚いて行われる能。有料。
12月31日 大祓(おおはらえ)式 
1年の罪や穢れを清め祓う神事。鶴岡八幡宮でも。

1991年NHK大河ドラマ『太平記』では、過去には「だいとうのみや・もりながしんのう」といっていたが、
現在は「おおとうのみや・もりよししんのう」という、
として、ドラマ内でも「もりよししんのう」で統一していました。

 ▼(写真右)オガタマノキ(小賀玉の木)(市天然記念物)
 後ろに見えるのは社務所です。

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正面の赤い大きな獅子頭がとても印象的。
護良親王が戦の際に獅子頭のお守りを兜に収めていたことに由来します。

鎌倉宮にも訪れたことはありましたが、土牢や宝物などを拝観するのは初めてのことです。
窓口で拝観料300円を納めて中へ。意外と奥行きがあるんですね。見学者は誰もいませんでした。

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南方社 ご祭神 南方(みなみのかた):公家の藤原保藤(ふじわらやすふじ)の娘
 明治7年11月22日鎮座
村上社 ご祭神 村上彦四郎義光(むらかみひこしろうよしてる):護良親王の家来
 明治7年11月22日鎮座
 「身代わりさま」の木造があります。

の二社は見落としてしまい、写真はありません


 ▼突き当たりを右折したところに「土牢」がありました。
 拝殿と本殿のちょうど真後ろに位置しています。
 
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こんなところに9ヶ月も閉じ込められたら発狂してしまいそう

南北朝時代の軍記物語『太平記』には、鎌倉に送られてきた護良親王の様子が描かれています。
「宮は鎌倉へ着かせ給ひしかば、直義(ただよし)朝臣二階堂の谷(やつ)に籠(ろう)の御所を構へ、居(す)ゑ奉る。
南の御方※と申す上臈(じょうろう)女房ならでは参り通ふ人独りもなく、月日の光をも御覧ぜられず、
警固の武士に囲まれ、よろづ御心を傷ましめ御座(おは)せば、都の事も御恋しく-----」
親王は1335(建武2)年、鎌倉幕府の再興を狙って北条時行が起こした中先代の乱に際し、
尊氏の弟・直義の手の者により命を奪われます。
太平記によれば、捨てられた護良親王の首を藪の中から拾って葬ったのは、隣接する理智光寺の長老でした。
※南の御方と護良親王の間に生まれたのが、妙法寺を再興した日叡(にちえい)
。妙法寺の裏山には親子3人のお墓があります。

土牢からさらに順路を進み、本殿正面から見て右側の境内へ。
「神苑」は現在整備中でした。

 ▼鎌倉宮碑
 大正11年4月に完成。明治天皇が鎌倉宮の創建・行幸への想いを三条実美(さんじょうさねとみ)と 
 語った際の記述を石碑に刻んだものです。大正10年6月、松方正義の謹書。

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 ▼御構廟(おかまえどころ)
 護良親王の首級(みしるし)が置かれたとされる場所。

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 ▼多宝塔
 日叡上人(にちえいしょうにん)を供養する塔。
 日叡上人は護良親王の往時、日賢上人(にっけんしょうにん)の師。

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 ▼献茶塔
 神に永久献茶の誠心から奉納されたもの。

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 ▼教育勅語(きょういくちょくご)碑
 明治天皇の御教えが記されています。

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 ▼なんの碑でしょうか。そばにありました。
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これから宝物殿を見学します。
宝物殿は、明治4年建設、明治6年の明治天皇僥倖に際して行在所(あんざいしょ)として使われた建物を改修。

靴を履いたまま外からガラス越しに宝物を拝見するのですが、
ガラスに背後の物が写りこんでしまい、きれいに撮影できませんでした。

 ▼一例、護良親王の令旨(りょうじ)。ほか、護良親王馬上像など。

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明治天皇・伊藤博文・松方正義・乃木希典・東郷平八郎・山本五十六・
三舟(勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟)の写真(プロフィール)や書などが展示されていました。

鎌倉宮公式HP
http://www.kamakuraguu.jp/index2.htm

(宝物殿など)所要時間:約20〜30分
鎌倉宮(かまくらぐう)の拝観は…
:鎌倉市二階堂154
:JR鎌倉駅東口・京急バス4番のりば「鎌20」大塔宮乗車。
終点「大塔宮」バス停下車後、:約1分とかからず。
:0467-22-0318
2月〜11月 9:00〜16:30(入場は16:00まで)
12月〜1月 9:00〜16:00(入場は15:30まで)
鎌倉薪能開催日は14:00まで拝観可能
:無料(宝物殿などは300円)


                      


鎌倉宮を後にして、実際には永福寺跡に沈む夕日を見に行ったのですが、
その後で訪れた鎌倉宮のご祭神・護良親王に関連する史跡をここで先にアップしたいと思います。

まずは理智光寺(りちこうじ)跡へ。
鎌倉宮から参道と並行する二階堂川沿いの道をたどり、
永福寺(ようふくじ)跡から瑞泉寺(ずいせんじ)方面へ通じる
二階堂大路」※を進み、途中左手にある理智寺橋という小さな橋を渡って住宅街を進みます。
※二階堂大路の出発地点は、金沢街道(六浦道)の岐(わか)れ路の先、左手の関取場(せきとりば)付近から。

 ▼この時期なら美しいハクモクレンの木が目印。

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理智光寺址(りちこうじ・あと)
昭和七年(1932)三月建 鎌倉町青年団 金羊書
〔碑文〕
此所は願行上人を開山とせし 五峯山理智知光寺の址なり 
建武二年(1335)淵辺伊賀守義博は足利直義の命を承け 
護良親王を誅(ちゅう:殺)し奉りしが 其御死相に怖れ 御首を傍(かたわ)らなる薮(やぶ)中に捨て去りしを 
当時の住僧拾い取り 山上に埋葬し奉りしといふ
〔説明〕
この場所は、僧の願行上人(がんこうしょうにん)が開いた五峯山理智光寺の跡であります。
1335年に淵辺義博(ふちのべよしひろ)は、足利直義(なおよし)の命令で、
護良(もりなが)親王を殺害しましたが、その死に顔のすごさに怖れ、首をかたわらの藪(やぶ)中に捨てました。
それを当時の僧侶が拾い取って、山の上に埋葬したと言うことです。

鎌倉シチズンネット「鎌倉史跡碑辞典」より引用
http://www.kcn-net.org/sisekihi/richikouzi.htm



 ▼近所の民家のお庭にいた

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理智光寺跡碑で後ろを振り向くと、護良(もりなが/もりよし)親王の墓がありました。

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公式P44 護良(もりなが/もりよし)親王の墓 
護良親王(1308〜1335)は後醍醐天皇の子で、
鎌倉幕府倒幕の中心人物として1333(元弘3)年に征夷大将軍になりました。
しかし、足利尊氏と対立し、鎌倉の東光寺に幽閉されたといい、
のちに尊氏の弟・直義(ただよし)に殺害されました。
首は藪の中に捨てられましたが、理智光寺(りちこうじ)の住職によって埋葬されました。
寺は明治時代に廃寺となり、その跡には墓塔が建っています。

敷地の中に入るときれいに掃き清められた石段が続いていました。
石柱の裏側には「宮内庁」の文字が…。

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 ▼延々石段を上っていきます。本当に美しい階段です。

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 ▼到着。心臓がバクバクします
 門扉が閉じていてこれ以上は上がれないようです。

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 ▼下ってきたら、先ほど民家の庭にいたコが遊びに来ていました 

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永井龍男はこの墓所を好み、散歩の際にしばしば訪れています。
「山沿いの藪が尽きると、荒れた野原に『理智光寺義僧碑』が建ち、秋には曼珠沙華が一面に咲いたが、いまは整理されて擦れからしの鴉(からす)も下りて来ない。(中略)ほの暗い木立の中を首塚まで数十段に及ぶ石段は、永い歳月の跡をその一段一段に刻み、思い思いに波打った様を仰ぐのが好きで、私はよくここへ来て佇むのだが、-----その時そこで、彼の姿を見つけた私の挙動は、たまたま庭先きなぞで、一匹の猫がふと他の猫の存在に気付き、相手に知られることなく、ジッと身をひそめる様子に似ていた」(『水仙案内記』


公式P は、「鎌倉観光文化検定公式ガイドブック」掲載ページ。
は、参考にさせていただいた本からの出典。

第1-3は、「第1回鎌倉観光文化検定3級」出題。
       第2-2は、「第2回鎌倉観光文化検定2級」出題。

は、鎌倉の文学に関することがらを表しています。
出典は「鎌倉の文学小事典」から。

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