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2009年3月19日(木)

二階堂大路を瑞泉寺(ずいせんじ)方面に向かって歩いていくと
左手にテニスコート、その脇に「永福寺(ようふくじ)旧蹟」碑が出てきます。

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永福寺旧蹟(ようふくじ・きゅうせき)
大正九年(1920)三月建之 鎌倉町青年団
〔碑文〕
永福寺世に二階堂と称す 今に二階堂なる地名あるは是がためなり 
文治五年(1189)  頼朝奥州より凱旋(がいせん) するや 
彼の地大長寿院の二階堂に擬(も)して之を建立す  
輪奐(りんかん:壮大)荘厳洵 (まこと)に無双の大伽藍(がらん)たりきと云う 
亨徳(きょうとく)年間(1455)関東官領の没落せる頃より後 全く頽廃す
〔説明〕
永福寺のことを当時は二階堂といっておりました。現在で も二階堂という地名があるのはこのためです。
1189年に源頼朝が、義経をかくまった件 で平泉の藤原一族を討ち、鎌倉に帰ってきました。その後すぐに、
平泉にあった大長寿院の二階堂に似せて、ここに永福寺を建てました。
その寺の様子は、規模が壮大で外観も荘厳であり、本当に二つとない程の大建造物であったと いいます。
しかしこの寺は、 1455年以後の関東官領(かんれい:将軍の代理職)の力が弱くなった頃から急速にすたれてしまいました。
〔位置〕
二階堂148付近の鎌倉宮カントリーテニスコートの東南端の道路の北側に建つ

鎌倉シチズンネット「鎌倉史跡碑辞典」より引用
http://www.kcn-net.org/sisekihi/youhuku.htm

公式P42 永福寺(ようふくじ)跡
1189(文治5)年、源頼朝は奥州(おうしゅう)遠征で平泉(ひらいずみ)の
藤原泰衡(ふじわらのやすひら)を討って、奥州を支配下に置きました。
この際に目にした平泉の中尊寺(ちゅうそんじ)、毛越寺(もうつじ)を模して
頼朝が造営したのが永福寺といわれます。
造営の背景には、藤原一族、あるいは弟の源義経の鎮魂、慰霊と、
自らの権勢を示すねらいがあったとされています。

1191(建久2)年着工、翌年にはほぼ完成。
本堂の二階堂や阿弥陀堂、薬師堂を中心に、
池を配した浄土庭園を備えた壮大な寺院であったことが発掘調査からうかがえます。
火災などで、室町時代の後半に廃寺になったらしいです。国指定史跡。
第2-2大問(16)〜(20)にも出題されたように、
永福寺は、鶴岡八幡宮(寺)・勝長寿院とともに、鎌倉幕府成立当初の三代寺院といわれました。
将軍の創建であり、幕府主催の国家守護の祈祷を行うところから「幕府の官寺
という性格を帯びていました。

その威容、壮麗さは「魯般(ろはん)、意匠を窮めて、成風(せいふう)、
天の望に冷しく、ビ(“田”扁に比)首、手功を尽くせり」と鎌倉時代の紀行『海道記』に記されています。
「魯般(ろはん)」は工匠の祭神とされた中国春秋時代・魯の匠。
「成風」は建築物などを見事に仕上げること。
「ビ首」はインドの工匠を司る仏のこと…です。
歴代の将軍や北条政子らもたびたび参詣した永福寺でしたが、度重なる大火などで衰退、15世紀には廃絶になったといわれます。


 ▼右の通玄橋(つうげんばし)を渡らず、左に進みます

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15:57。ちょうどよく到着したのはいいけど、
ショーーーック。なんと森林整備工事中…
グリーンのシートがぐるり。興ざめです。

s-15:57s-15:58s-15:59永福寺跡s-16:00












復元工事も行われているのですね〜。それはちょっと楽しみ

s-16:08復元工事s-16:04トラックs-16:08奥











そうこうするうち、夕日は少しずつ落ちていく…。
永福寺跡
永福寺は頼朝の壮大な夢であった。それは「武士の都」鎌倉の誕生と同時に生れ、
鎌倉が都市としての勢いを失うのと軌を一にして滅んだ。
永福寺に行ってみよう。行くなら春の彼岸の午後四時ごろがいい。
八百年前頼朝が見たのと同じ夕日を、同じ場所で見ることができるだろう。
永福寺本堂は春秋の彼岸の夕日が真上に落ちるように設計されていた。

(出典:鎌倉地図草紙 異界を歩く)

明日(3/20)はお彼岸の中日。
天気予報ではお天気が芳しくないので、確実に晴れる今日を選んでここに来ました。

 ▼16:11。夕日マックス…最も強い光を放つ

s-16:11s-16:11夕日マックス







この夕日が沈む位置を下に辿れば、永福寺の本堂…があったのですね。
いつの日か復元される日を楽しみに待ちます

この後、実際には「理智光寺跡」と「護良親王の墓」、そして金沢街道(六浦道)へ出て、
「歌ノ橋」、「関取場跡」を見に行ったのですが、編集上別のページにアップしました。

これから帰途につくのですが、大蔵幕府のあった清泉小学校の前を通って帰ろうと思います。

 ▼清泉小学校には「史跡委員」がいるんですよね
 これまでに見た史跡碑の隣にも史跡委員が書いた解説があった。
 古都鎌倉の、しかも大蔵幕府跡に校舎が建っている小学校ならではですね。
 パンフ1枚いただきました「七つの切通し」というテーマの。

s-16:57パンフBOXs-16:57史跡委員








 ▼清泉小学校(大蔵幕府旧蹟碑付近)と沈みゆく夕日

s-17:00幕府内







頼朝は、800年前の彼岸、幕府でこんな夕日を見ていたのでしょうか
とても感慨深いものがあります。
今日もお天気に恵まれて充実した1日だったけど、かなりスタディ・デーだったな〜

 ▼こちら鶴岡八幡宮の流鏑馬道。横切って行きます。
 あと1ヶ月後の第51回鎌倉まつりでは、流鏑馬神事が行われます
 あれからもう1年かぁ…。

s-17:14流鏑馬道







 ▼平家池畔の早咲きのサクラ。なんていう名前かな。

s-17:20サクラの樹s-17:20サクラ







…鎌倉駅東口はもうすぐです



公式P は、「鎌倉観光文化検定公式ガイドブック」掲載ページ。
は、参考にさせていただいた本からの出典。

第1-3は、「第1回鎌倉観光文化検定3級」出題。
       第2-2は、「第2回鎌倉観光文化検定2級」出題。

は、鎌倉の文学に関することがらを表しています。
出典は「鎌倉の文学小事典」から。


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