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2009年3月31日(火)のち

前ページの続編です
さて、玉縄城(たまなわじょう)跡を後にして、
陣屋坂下から県道302号線に沿って、藤沢方面に進みます
これから、一番遠い久成寺(くじょうじ)を訪問し、Uターンして大船方面に向かって、
圓光寺(えんこうじ)※、貞宗寺(ていそうじ)を訪ねます。
※地図上、圓光寺は卍マークでだいたいの位置を表示。

コピー 〜 s-P4010413加工













久成寺(くじょうじ)に向かう途中、「ふわん坂」の入口がありました。
上の地図では表示していませんが、県道302号線・久成寺門前に至るゆる〜い坂の手前。

 ▼この脇道を上がったところが「ふわん坂」みたい。
 今日はちょっとお疲れモードなので、パスしてしまいました…

s-14:21ふわん坂入口






「ふわん」ってひらがなだけど、漢字だとどういうふうに書くのでしょうね
どんな意味かも知りたいな。


 ▼14:24。ほどなく久成寺(くじょうじ)着。左に日蓮像があります。

s-14:32久成寺s-14:24久成寺本堂






 ▼三葉葵のご紋。ここは…徳川家ゆかりのお寺。 
 そして上杉謙信の祖先・長尾定景(さだかげ)一族の墓も。

s-★14:25久成寺の三ツ葉葵s-14:26長尾定景一族の墓











公式P104 久成寺(くじょうじ)
日蓮宗。山号は光円山(こうえんざん)。
1520(永正17)年、日蓮宗を信仰していた(後)北条氏の家臣・
梅田尾張守秀長(うめだおわりのかみひでなが)が創建したといいます。
徳川幕府と関係が深く、小田原攻めの際、寺に立ち寄った徳川家康は祈祷を頼み、
その恩賞に寺領3石を寄進したといいます。
その後、家康は鷹狩りの折、この寺を訪れ、葵の紋の付いた弁当箱を授けました。
将軍綱吉印の朱印状とともに寺宝になっています。
境内に長尾定景(ながおさだかげ)と一族の墓と伝えられる石碑があります。
定景は将軍源実朝を殺害した公暁(くぎょう)を討った武士。

う〜ん。謙信の祖先が頼朝の血筋を絶やしてたのかぁ…。

長尾定景は平安時代末期から鎌倉時代の武士。
長尾景弘の子。懐島景義・大庭景親らの従兄弟。
定景はかつての同族・三浦氏の郎党として勇名を馳せていました。
1180(治承4)年に源頼朝が挙兵すると兄の為宗及び従兄弟の大庭景親・俣野景久とともに
平家方に加わり、石橋山の戦いで抗戦。
この戦いで、頼朝の寵臣で三浦党の佐奈田義忠を討ち取りました。
後に頼朝に降伏し、その身柄を義忠の実父である岡崎義実に預けられています。
しかし、定景が法華経を唱える姿を見た義実はこれを殺すのをやめ、助命するよう頼朝に懇願しました。
これが認められ、定景は以後は三浦氏の家臣として活躍することになります。

1219(建保7)年、すでに老齢に達していた定景は、3代将軍源実朝を殺害した公暁を討てとの命を受けます。
定景も最初は固辞したものの度重なる要請により、老骨に鞭を打ってこれに服しました。
三浦義村は北条義時と連携を取って公暁を騙し、定景以下5名を迎えの使者として向かわせます。
定景は鶴岡八幡宮の裏で公暁と会い、太刀をとって公暁の頸を取るという武功を得ました。
定景の没年は不明ですが、鎌倉の久成寺に墓所があります。
出典:ウィキペディア)

NHK大河ドラマ『草燃える』では、三浦義村邸の門にすがりついて開門を求めながら、
無残に斬られる公暁の姿が描かれています。
持っていた実朝の首を投げ捨てるシーンも忘れられない


では、Uターンして、圓光寺(えんこうじ)へ。
302号線を反対側へ渡って、大船方面に向かって歩いていきます

 ▼植木バス停近く、相模陣橋脇の道を道なりに進みますと、着。14:39。
 目印とか矢印は何もありません。上の地図には手書き卍マークで表示してます。

s-14:41相模陣橋s-14:38圓光寺へs-14:39圓光寺







公式P85 圓光寺(えんこうじ)
真言宗大覚寺派。山号は城護山(じょうごさん)。開山は澄範(ちょうはん)。
永禄年間(1558〜1570年)、北条氏時(うじとき・早雲の次男、初代玉縄城主)が、
澄範を招いて玉縄城内に創建しました。
城中や城下の平安を祈る祈願所として重んじられましたが、
玉縄城が廃城になって、現在地に移されたとされます。

本尊は不動明王像。薬師堂には行基作と伝えられる薬師如来像のほか、
十二神将立像が安置されています。

このお寺も玉縄城の敷地内にあったのですね…。
ここで、玉縄民族博物館にあった玉縄城の模型を見てみます。

 ▼黄緑のラインが、圓光寺があった場所です。
 模型には「円光寺○○」とありました。○の文字は薄くてよく読めず。

s-模型円光寺と七折







オレンジの点は大手門。水色の点は早雲台住宅地入口。青い点は現在玉縄城址碑(二)がある場所。
黄色いラインは七曲坂(七折と書いてありました)、赤いラインは陣屋坂です。
圓光寺は当初、大手門外の、陣屋坂上にほど近い斜面の上にあったことになります。
そして、圓光寺下の陣屋坂を下っていくと相模陣(紫のライン)がありました。

s-模型相模陣カラー









それから、本日最後の訪問スポット、貞宗寺(ていそうじ)。圓光寺から近いです。

 ▼(写真左)さっき行った陣屋坂下のファミマ(染谷植木店)の前の路地が入口。
 わかりやすいです。14:44。
 (写真右)分かれ道は左に進みます

s-14:44貞宗寺入口s-14:58分かれ道







 ▼14:51。入口の表示から5分程度、貞宗寺(ていそうじ)着。

s-14:51貞宗寺







公式P100 貞宗寺(ていそうじ)
山号は玉縄山(たまなわざん)。開山は暁誉源栄(ぎょうよげんえい)。
貞宗寺の名の由来になった貞宗院は、江戸幕府2代将軍の徳川秀忠(ひでただ)を産んだ
家康側室お愛の局(つぼね)の生母・秀忠の祖母です。
大奥で御年寄役を務めた貞宗院は、晩年この地に隠居したといいます。
本堂の大棟に、徳川家ゆかりの寺であることを示す葵の紋が入っています。
貞宗院没後、1611(慶長16)年に開かれたのが貞宗寺です。
本尊は阿弥陀三尊、寺宝は三葉葵の紋の入った膳など蒔絵の食器類。

貞宗寺は戦後、農地改革により年貢米がなくなり檀家信徒の受付を始めました。
また、寺子屋として近郷より勉学のため、多くの人達が集まっており、玉縄地域の文教の中心でもあったといいます。
近郷の子弟教育や、勉学に心ある者に論語・仏教や儒教の書、読み書き、算盤などを教えました。
明治時代、6年学制が敷かれると「玉縄学校」となり、これが現在の玉縄小学校の始まりです。

 ▼境内のキャラボク。
 「かまくらと三浦半島の古木・名木50選」に選ばれています。

s-14:52キャラボクs-14:52キャラボクプレート








帰りは植木バス停から大船駅西口までバスに乗りました。運賃190円。
今日は距離こそそれほど歩いていないものの、坂が多かったのでちょっと疲れました〜


公式P は、「鎌倉観光文化検定公式ガイドブック」掲載ページ。
は、参考にさせていただいた本からの出典。


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